cinema / 『ナチョ・リブレ 覆面の神様』

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ナチョ・リブレ 覆面の神様
原題:“Nacho Libre” / 監督:ジャレッド・ヘス / 脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト / 製作:マイク・ホワイト、ジャック・ブラック、デヴィッド・クローワンズ、ジュリア・ピストー / 製作総指揮:スティーヴ・ニコライデス / 撮影監督:ハビエル・ペレス・グロベット / プロダクション・デザイナー:ギデオン・ポンテ / 編集:ビリー・ウェバー / 衣装デザイン:グラシエラ・マゾン / 音楽:ダニー・エルフマン / 出演:ジャック・ブラック、ヘクター・ヒメネス、アナ・デ・ラ・レグエラ、リカルド・モントーヤ、ピーター・ストーメア、セサール・ゴンサレス、ダリウス・ロセ、モイセス・アリアス / ブラック&ホワイト・プロダクション製作 / 配給:UIP Japan
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間32分 / 日本語字幕:岡田壮平
2006年11月03日日本公開
公式サイト : http://www.nacho-movie.jp/
シネセゾン渋谷にて初見(2006/11/03)

[粗筋]
 イグナシオ(ジャック・ブラック)は修道院で育ち、いまは料理係をしている。だが、乏しい食材をやりくりした彼の料理はあまり評判がよくない。寄付されるチップスを取りに行って、横取りでもされようものなら、その日の食事は悲惨なものになる。
 冴えない暮らしを送るイグナシオに、珍しく射した光明は、新たに派遣されたシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レグエラ)である。一目見るなり強く惹かれたイグナシオは彼なりにアプローチを試みるが、同様に彼女に気がある僧侶ギレルモ(リカルド・モントーヤ)に邪魔をされる。果てはギレルモに料理の腕を腐されて、激昂したイグナシオは、別の仕事を見つける、と言い出した。
 そんな彼が選んだのは――ルチャ・リブレ。メキシコ独特のレスリングである。昔からルチャ・リブレの選手ルチャ・ドールに憧れを抱いていたイグナシオは、この機会に初めて夢に挑もうと決意する。かつて自分を襲い、チップスを横取りしていったスティーヴン(ヘクター・ヒメネス)を、その戦闘能力を買って誘い、我流の特訓を経て、イグナシオは覆面のルチャ・ドール=ナチョとなり、スティーヴン=ヤセとのタッグを結成、一般参加の試合に臨む。
 が、にわか仕込みのレスリングが通用するはずもなく、結果は惨敗。しかし、そのユーモラスな試合運びが妙に受けて、主催者から思いがけず高額のギャラを渡される。イグナシオは修道院に戻り孤児たちにたっぷりと野菜を用いたサラダを提供し、スティーヴンもうまい食事にありつき、それぞれ味を占めたふたりは、繰り返しリングに上がる。
 負け続けながらもきちんと提供されるギャラにスティーヴンは満足していたが、他方ナチョは少しずつ苛立ちを募らせていた。自分がなりたかったのはこんなひ弱な負け犬じゃなく、誰からも憧れられるヒーローなのだ、と……

[感想]
 修道院の僧侶でありながら、覆面を被って“ルチャ・ドール”として活躍した人物は実際に存在している。本編はその事実をもとにしたものだが、恐らく話の流れなどはまるっきりフィクションだろう――そう捉えなければ、さすがに支離滅裂すぎて頷きがたい。
 間違いなくコメディを志向して作られているのだけれど、これを面白いと感じられるかは、観る側の資質次第だろう。そうなってしまう最大の理由は、登場人物の行動にいまいち一貫性がなかったり、そういう行動に出るための動機付けが不充分であるからだ。コメディ部分には直接関わってこないヒロインのシスター・エンカルナシオンはともかく、ライバル的位置づけの僧侶ギレルモに孤児たち、誰よりもイグナシオの相棒となるスティーヴンの言行にどうも統一性がない。そのせいであらゆる出来事が唐突に感じられ、伏線に基づく理知的な笑いを望む向きや、コメディである以前に話全体の纏まりを求める向きにはあまり面白くないと思われる。
 そうした話運びの狙いには、現実に則しながらもどこか不条理さを感じさせる、シュールな笑いを齎すというのがあるのだろう。その意味では本編の意志は結末まで一貫している。嵌ればこの作品のスタイルはちょっと癖になるに違いない。
 また周囲がそうしてやや混沌とした動きをしがちな一方で、主人公イグナシオの言動は極めて筋が通っている。育った修道院で虐げられていた彼は、ヒーローとしての“ルチャ・ドール”に憧れを抱きその思いを育て、仕事の出来を責められて自分なりの稼ぎ口を必要としたときにルチャ・リブレの道を選ぶ。シンプルだが実に解り易い。格好良くありたいという想いと現実とのギャップをいささか誇張して表現する彼の姿には、痛ましさと表裏一体の笑いが終始まとわりついている。
 しかし決して見ていられないという気分にさせないのは、ジャック・ブラック一流のセンスの為せる技だろう。まず何よりも人を楽しませたい、という意志のある彼の大袈裟な演技は、主人公の言動の痛ましさよりも滑稽さをまず観客に伝える。どんな苦境に追い込まれても、若干勘違いを含めつつポジティヴに突き進んでいくさまは、おかしくも快い印象を齎す。他方で、ヒロインに対する想いを歌にしてみた、と言って控え室で相棒相手に朗々と歌っていたかと思えば、急に訪れた第三者の姿にいきなり萎れてしまうなど、妙に普通の人っぽい愛嬌を滲ませるあたりも巧い。
 過程が雑なまま、しかし一種予定調和のようなハッピー・エンドに辿り着くあたりにも、計算された笑いを望む向きには不満を覚えさせるでしょうけれど、実際には大した努力をしていないように見えるのに、ちゃんとそういう結末がある程度受け入れられてしまうのは、作品全体の趣向そのものは一貫しているからでしょう――主人公には筋を通し、そのほかはすべて不条理で通す。
 やや人を選ぶのは間違いないが、ジャック・ブラックのセンスを横溢させながら、一風変わった笑いを齎す、個性的なコメディ映画である。どういう方になら安心して勧められるか、の判断が難しいのが困りものだが。

(2006/11/05)


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