cinema / 『オープン・ウォーター』

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オープン・ウォーター
原題:“Open Water” / 監督・脚本・編集:クリス・ケンティス / プロデューサー:ローラ・ラウ / 共同プロデューサー:エステル・ラウ / 撮影:クリス・ケンティス、ローラ・ラウ / 音楽:グレーム・レヴェル / 出演:ブランチャード・ライアン、ダニエル・トラヴィス、ソウル・スタイン、エステル・ラウ、マイケル・E・ウィリアムソン、クリスティーナ・ゼナーロ、ジョン・チャールズ / 配給:MOVIE-EYE
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間19分 / 日本語字幕:野崎文子
2005年06月25日日本公開
公式サイト : http://www.openwater-movie.jp/
渋谷シネクイントにて初見(2005/07/02)

[粗筋]
 妻スーザン(ブランチャード・ライアン)の仕事中毒ぶりを慮って、夫ダニエル(ダニエル・トラヴィス)がカリブ海への旅行を計画してはや半年強。スケジュールをやりくりしてようやく実現に漕ぎつけたが、旅先にもノートパソコン持参の妻に、ダニエルは嘆息する。
 だが、いざ現地に着くと、日頃の憂さを忘れようとするかのように、ふたりは全身全霊を費やして遊び回る。あまりに遊びすぎて、その晩は一緒にベットに入っても気分が盛りあがらず、そのまま寝てしまうほどだった――結局、邪魔が入ったせいでろくに眠れなかったのだが。
 翌日はスキューバ・ダイビングである。朝八時半にマリーナに集合、ボートはほぼ満員の二十名の客を乗せて、陸地の見えない沖に留まった。経験者であるダニエルはスーザンを引きずるように、マイペースで海洋生物と戯れている。だが同じころ、ボートの上では取り返しのつかない出来事への伏線が着実に張られつつあった。船長がノートに記録した20名、という乗客数は間違っていなかった。しかし、ゴーグルを忘れたために潜水を許されなかった客が、体調不良のために戻ってきた女性のを借り、「ふたりひと組でないと潜水を認めない」という指示に従い彼女の同行者とともに潜っていたそのあいだに、乗客を数える人間が船長から若き助手に替わっていたために、人知れず悲劇は起きた――2名を余計に勘定した船員は、ダニエルとスーザンが船に戻らぬうちに20名全員が帰還したと錯覚、時間ギリギリまで海底でウツボを眺めていたふたりを残し、港へと帰っていった。
 時間ほぼピッタリに海面に浮上したふたりは、去りゆく船尾を目撃しながらも、間違いに気づいて戻ってくるだろう、と楽観視してその場に留まった。よもや数え間違いがあったとは考えもしていないボートに戻る可能性が皆無であることなど、知るよしもない。海底まで18メートル、沖合の潮流は速く、抗うことさえ出来ぬまま何処へともなく流されていく。
 一時間、二時間、三時間……時を経ていくごとに、ダニエルとスーザンは少しずつ、己らのおかれた退っ引きならぬ状況を悟っていく――強烈な死の恐怖と共に。

[感想]
 予告編を観たときから期待していた一本である。同時に、恐らく予告編と設定を聞いた時点で予測出来るそのまんまの内容であることも察していた。事実、ほぼ予測どおりの作品だった――だが、だからこそ、こんなに厭な映画もない。
 だいたい、その状況を想像するだけでも、凡人なら恐懼せずにはいられないだろう。沖合でのスキューバ・ダイビングを暢気に楽しんでいたらそのあいだに置き去りにされ、四方のどこを見渡しても海海海、足場など存在しない。身につけている装備は最小限で、満々と湛えられた水も資源も喉の渇きや耐え難い飢えを凌ぐ糧とはならない。そして気づけば自分たちの廻りを窺うように海面から覗く三角形の背鰭。
 撮影するうえでの技巧はまったくと言っていいほど凝らしていない。演技を求められているのはほぼ主役ふたりだけ、映像も大半が縹渺と海を映すのみ。監督自らがカメラを担ぎ身を投じた海には、本物の鮫が回遊していたという。恐らく、不要なものを消したりする程度にはCGが用いられていると思われるが、それ以外にはカメラワークの点からも余計な細工をしていない。だが、その潔いまでの無造作さが、却って作品に満ちる恐怖感を高めている。
 しかも、作中では主人公ふたりに脅威が及ぶ場面を直接的に描いていない。海のなかでの出来事を、海面に漂う主人公ふたり自身も直接目にすることは出来ない。ときおりゴーグルを嵌めて顔だけ海面に埋めたとき、或いは必要があって僅かに潜水したときに、自分の置かれた状況を改めて、或いは初めて確認出来るのみだ。一方、彼らよりはまだしも自在な視点を持つ観客側も、ときおり海中に没するカメラが捉える巨大な魚影に彼らの置かれた状況の深刻さを再認識するのみで、直接それらが主人公たちを襲う場面を目にすることは、ない。
 物語の恐怖はひたすらに、その環境の深刻さと、そこから想像される最悪の事態から醸成される。はじめこそ暢気であった主人公たちも半狂乱になり、自分以外のあらゆるものに責任をなすりつける。その段階を過ぎると、心身の疲労から言葉数も減っていき……。前述の通り、主人公たちに対して直接的な危害が加えられる痛ましい場面が描かれることはない。実際には、通りすがりのバラクーダに噛みつかれたりクラゲに刺されたりしているわけだが、それだけだ。しかし、じわじわと体力を削られ、少しずつ身を切り刻まれていくような感覚が齎す恐怖は、食いつかれ痛みを堪えるよりも遥かに深刻で、残酷だろう。
 ほぼ予測どおりの作品だった、と冒頭に記した。結末も同様である。しかし意外だったのは、観ているこちらの感じ方だった――あまりの出来事に呆然としていたのは間違いないのだが、予想よりも簡単にそれを受け入れてしまっていたのである。如何にそこに至るまでの状況を克明に描いているかとともに、圧倒的な恐怖感をも証明する事実だろう。
 尺はわずか一時間二十分足らず、しかしそこに無駄なくすべてが凝縮されており、だからこそ“厭な作品”である。もしもこの夏、スキューバ・ダイビングに参加される、いや海に行く程度であっても、既に予定を立ててしまっている方は、そちらが済んでから鑑賞されることをお勧めします――絶対に二の足踏むから。

(2005/07/04)


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