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OUT
原作:桐野夏生(講談社・刊) / 監督:平山秀幸 / 脚本:鄭 義信 / 製作:古澤利夫、木村典代 / 製作総指揮:諸橋健一 / 撮影:柴田幸三 / 編集:川島章正 / 音楽:安川午朗 / 出演:原田美枝子、室井 滋、西田尚美、倍賞美津子、香川照之、間 寛平、大森南朋、千石規子 / 企画:サンダンス・カンパニー / 制作:ムービー・テレビジョン、サンダンス・カンパニー / 配給:20世紀フォックス(極東)
2002年日本作品 / 上映時間:1時間59分
2002年10月19日公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/out/
劇場にて初見(2002/10/19)

[粗筋]
 弁当工場のパートタイマーとして深夜に働く四人の女は、それぞれ闇を抱えていた。香取雅子(原田美枝子)は夫とも息子とも同居しながらほとんど無干渉で暮らす家庭崩壊状態にあり、城之内邦子(室井 滋)はブランド志向からローン地獄に陥り、吾妻ヨシエ(倍賞美津子)はただひとり残された義母千代子(千石規子)の介護に追われ、そして山本弥生(西田尚美)は妊娠八ヶ月の身重で夫・健司(大森南朋)の暴力に怯え――それぞれに、慢性的な閉塞状態のなかで毎日を過ごしていた。
 その日も健司は朝方までバカラ賭博に興じ、素寒貧の泥酔状態で帰宅した。朝食が用意されていないことに腹を立て、弥生をいいように痛めつけたあとソファにいぎたなく横たわる夫の姿に、弥生は遂に切れた。軽く懲らしめるつもりで、健司のズボンからベルトを抜き、それで夫の首を絞める――いともあっさりと、健司は絶命した。
 初めは冗談だと思っていた雅子だが、弥生の自宅で屍体を目の当たりにして言葉を失う。お腹の子の為にも、いま刑務所に入るわけには行かない、という弥生の必死の訴えを退けられず、雅子はいったん屍体を自分の車のトランクに載せ、工場の夜勤に出かける。だが、自分の目の前から屍体が亡くなったことで突如脳天気さを発揮した弥生は、その夜の仕事をさぼり、あまつさえ屍体の処理を雅子に押しつけた。
 途方に暮れる雅子だったが、家族の出払った自宅に戻った彼女の頭に悪魔的な発想が芽生える。ヨシエのもとを訪れた雅子が手伝うよう要請したその方法は、雅子の家の風呂場で健司の屍体を解体し、複数に分けて生ゴミとして廃棄すること。その残虐な思いつきに協力を拒むヨシエだったが、弥生に金を払わせると約束することで雅子はどうにか共犯者を得、悪戦苦闘しながら解体に臨んだ。返済期限に金がなく、たまたま無心に来た邦子すらも巻きこんで、雅子たちはどうにか屍体の処分を終える。
 およそ短絡的な邦子は、早く目の前から消したいために無神経に屍体を捨て、翌日には発見されてしまった。だが警察の矛先は、殺害前夜に健司が揉めていたカジノのオーナー佐竹(間 寛平)のほうに向き、胸を撫で下ろす。
 一方例によって首の回らない邦子は、犯行をたてに弥生を脅し、彼女を保証人に街金融の十文字(香川照之)から新たな借金を作っていた。あまりの無神経さに雅子は憤り、無効申し立てをして契約書を取り戻すが、十文字は保証人の名義と雅子の気っぷのよさに興味を抱く。借金を反古にすることを条件に邦子から一部始終を聞き出した十文字が雅子に提案したのは――あろうことか、屍体解体のビジネスだった。

[感想]
 桐野夏生氏のベストセラー小説に基づいて製作された映画である。事前に予習と称して原作を読み、細かい嫌味は兎も角完成度の高い犯罪小説として評価した一方(原作の感想はこちら)、このダーティな雰囲気を映像でどう処理するのか不安に感じていたのだが。
 意外にも、面白かった。文字通りの意味で。
 上下巻のヴォリュームを2時間で表現できるはずはなく、原作の重要な部分を拾いつつ多くの潤色を施した脚本である。原作通りを理想とするなら言語道断だが、原作のエッセンスを抽出しつつ仕上げた別作品と捉えれば問題はない。原作では出口のない感覚を、ひたすら追い込むような筆致で描いているところを、寧ろ軽快にカラッとした調子で描き、そのうえで随所に笑いを挿入したことで、悪夢のような出来事を娯楽として見せることに成功している。
 この方法論の真価が発揮されたのは屍体解体の場面。本来陰惨であるはずの作業を、ゴミ袋を応用した汚れ除けの衣装や最初の切断作業を終えるまでの大騒ぎなどで「笑える」見せ場にしてしまったのは、どうも多分に監督の手癖も入っているとはいえ巧い処理だった。暗いテーマなのに終始後腐れのない印象があったのは、この場面に象徴される軽さが全編を覆っているからである。
 とは言え、次第にオリジナルの展開のみとなってくる終盤でいまいち合理性のない行動や間延びした演出も目立ったのが事実で、全体の完成度にはやや疑問符がつく。だが、原作ではある登場人物ひとりの決着だけが際立って描かれていたのを、主役格全てに新しい道を示させたエンディングは原作に匹敵する(或いはそれ以上の)価値がある、と思う。
 誰かが言うように「日本映画を変えた」と簡単に断言するのは正直躊躇われる。だが、今後日本映画が娯楽としてひとつの地位を取り戻したとき、その里程標のひとつとして挙げられるべき作品となっていることは保証する。この不思議な爽快感は一見の価値有り。

余談その1。
 本編は20世紀フォックスとして初めて配給する日本映画である。その話を聞いたときから楽しみにしていたのだが、実際あのロゴのあとに日本語のテロップが表示されると結構感動した。映画ファンはあの一場面のためだけにでも劇場に足を運ぶべし。

余談その2。
 訳あって珍しく、そして久し振りに舞台挨拶というものに立ち合ってきた。邦画配給に慣れていないせいかスタッフの手際が悪かったのが印象的だった、というのもどうかと思うが。
 各人のコメントは短いのだが、やはり出演者を実際に目の当たりにすると感動もあり、また色々と発見もある。倍賞美津子は本編ではいかにも介護に疲れた主婦といった風情だったが、舞台に立った彼女は流石に大女優、年齢を疑うくらいに美しい。一方室井 滋は某番組の延長で出てきたんじゃないかと思うような変わった衣装で登場し、服装だけなら本編の方が豪華だった、という奇妙なインパクトを残した。
 が、何より感激したのは、間 寛平。最初にマイクを手渡されたときは「アヘウヘハ」で喋り、お約束のノリツッコミも決め、フォトセッションではなまらでかいしゃもじで隠れた顔を、しゃもじの上に乗せてみたりと、見事なまでに芸人魂を見せつけてくれた。……てか、たぶん本編で悪役を演じたためにフラストレーション溜まっていたんじゃないかと思うんだが。

(2002/10/19)


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