/ 『ロッキー・ザ・ファイナル』
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『light as a feather』トップページに戻るロッキー・ザ・ファイナル
原題:“Rocky Balboa” / 監督・脚本:シルヴェスター・スタローン / 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー / 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー / 共同製作:ガイ・リーデル / 撮影監督:J・クラーク・マシス / プロダクション・デザイナー:フランコ=ジャコモ・カルボーネ / 編集:ショーン・アルバートソン / 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ / 音楽:ビル・コンティ / 出演:シルヴェスター・スタローン、バート・ヤング、アントニオ・ターヴァー、ジェラルディン・ヒューズ、マイロ・ヴィンティミリア、トニー・バートン、ジェームズ・フランシス・ケリー三世、マイク・タイソン / 配給:20世紀フォックス
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 日本語字幕:林完治
2007年04月20日日本公開
公式サイト : http://www.rockythefinal.jp/
日本教育会館一ツ橋ホールにて初見(2007/04/09) ※特別試写会[粗筋]
かつて、二度にわたってボクシング世界ヘビー級チャンプの座に輝いたロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)も、現役を退いて長い時を経た。大恋愛の末結ばれた愛妻エイドリアンはとうに亡く、郷里フィラデルフィアで彼女の名前を冠したレストランを営み、望む客にはかつての戦いの記憶を語り聞かせて、穏やかに日々を過ごしている。
平穏ではあるが、しかしどこか彼は満たされずにいた。妻の忘れ形見ロバートJr.(マイロ・ヴィンティミリア)はロッキーのもとを離れひとり暮らしをし、証券会社に勤務しているが、未だ地元ではヒーロー扱いされている父の存在を常に意識し、劣等感に苛まれるあまり父と距離を置こうとし、エイドリアンの命日にも姿を見せなかった。エイドリアンの兄であり現役時代から無二のパートナーだったポーリー(バート・ヤング)と共に妻の痕跡を辿り偲んでいたロッキーは、改めて深い喪失感を自覚する。
現在、ヘビー級王座にあるのは、メイソン“瞬殺”ディクソン(アントニオ・ターヴァー)であるが、彼もまた別の悩みに苦しめられていた。33戦全勝、うち30がKOという華々しい経歴だが、大半が2ラウンド程度での勝利であるため、その実力を疑問視する向きが多い。興行的にも見せどころの乏しい彼の試合はいつしか観客に飽きられ、チャンプでありながら収益を上げられない、というジレンマに陥っていた。テレビ局はコンピューターを使用して、現役時代のロッキーと彼との対戦をシミュレーションし、その弱さを揶揄する。
だが、このシミュレーションを偶然目撃したことが、ロッキーの裡に燻っていた火をふたたび滾らせた。彼は突如、プロライセンスを再度取得し、リングに立つことを決意したのである。審査委員は、身体能力の面では評価しながらも、年齢を考慮していちどはその再発行要請を棄却するが、ロッキーの熱意に溢れた言葉に打たれて、翻意する。
その一報を目にしたディクソンのプロモーターが、収益力恢復の策を思いついた――復帰したばかりのロッキーと現役チャンプとのエキシビジョン・マッチをラスベガスで催す、というものである。誰もが無謀だと目を瞠り、口さがない者なら嘲弄するようなこの計画を、しかしロッキーは受け入れた……[感想]
率直に言えば、本編製作の噂を耳にしたとき、私も冷ややかな反応を示したものだ。そもそも映画業界で、ただヒットした作品を受け継いだだけの続編は成功例が乏しく、まさにその失敗の典型のような『ロッキー』シリーズ、しかもボクシングという年齢による衰えが如実に影響する素材を用いた作品の完結編を、実に齢60になんなんとする俳優が作ろうというのだから、さすがに失笑せざるを得ない。
だが、本編はそういうごく自然な反応自体を伏線として取り込んでしまい、見事なドラマに昇華しているのだ。
序盤はスポーツ、しかも殴り合いを主体とした過激な代物を扱っているとは思えぬほど静かに展開していく。栄光のあと老境に至った主人公が、妻の想い出を辿るかたちで過去を偲ぶさまは、さながら文芸映画のような滋味に富んでいる。随所にシリーズ第1作の描写を踏まえ、その来し方行く末を暗示した場面を挿入しているのが、当時のファンならば懐かしさと共に切なさを覚えるところだろうが、仮に旧作をまったく知らなかったとしても、しみじみとした感動を誘われずにいられないはずだ。過剰に旧作を濃密に反映するのではなく、前提として包みこんだ上で練り上げた脚本に渋みがある。
やがてロッキーはふたたびリングに立つ決意を固めるのだが、その動機は実のところ明瞭に描かれているわけではない。妻との記憶を辿るうちに自覚した孤独や、なおも燻っているボクシングへの情熱を確かめるために、といったぼんやりとした部分は伝わってくるが、この手の映画にありがちな明白な動機を設定していない。だが、それ故に覚悟を決めた彼の言動に、却ってリアリティが備わっているのだ。審査委員たちを前にした熱弁、ポーリーに向けた心情の述懐、そして疎遠になっていた息子に対する切々とした訴え。下手なドラマで補強するよりも、むしろ誰にでもあるような想いに感じられるからこそ、ロッキーの言葉に説得力が齎されている。
巧いのは、そんなロッキーの最後の対戦相手として用意される選手の設定だ。人気が低迷するボクシングの世界において、あまりにたやすく勝ち進んでしまったが故にその実力を疑問視され、なおさら集客力を欠く結果となってしまった現役王者。戦いぶりも強さも伝説的であった現役当時のロッキーと比較された挙句に、エキシビジョンとはいえ遥か昔にリングを去った彼と対戦させられるのだから、心中穏やかでないのは当然のことだ。そんな男の苛立ち、またどこかで世評につられて自らの実力を信じ切れずに自尊心を損ないつつある姿をきっちりと描くことで、クライマックスにおける対戦の、予定調和とも感じられる流れに、意味と価値が与えられている。現チャンプを演じているのはライトヘビー級ながら本物の現役王者であり、如何にも朴訥な演技をしているのだが、それが本格的な戦いの経験が乏しい若者、という雰囲気を却って巧く醸しており、キャリアも戦う理由も正反対、存在感に富んだロッキーといい対比を形作っている。
話の流れはごくごくシンプルで、上記の粗筋で既に半分以上が説明できてしまっている。クライマックスにおける試合の流れのためにもっと丹念な伏線を張っていれば、更にドラマとしての強度が増しただろうに、といささか惜しい気はするものの、そんなのは凝った物語に慣れてしまった人間の戯言に過ぎないだろう。技術的に拙くとも物語としてやや強度に乏しくとも、しかしこの作品には疑いようのない力強さが存在する。観終わったあと、これほど勇気づけられ、昂揚感を齎してくれる映画が、どれほど世の中にあるだろうか。
第1作に興奮した人であれば無論のこと、仮に当時をまったく知らなかったとしても、その情熱に打たれること請け合いの、圧巻のドラマである。もう人生に疲れ果て、希望も何もない、と思いこんでいる人こそ観て欲しい――これほど励まされる映画は滅多にないはずだ。(2007/04/10)