cinema / 『サマリア』

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サマリア
原題:“Samaritan Girl” / 監督・脚本・編集・美術監督:キム・ギドク / 製作総指揮:キム・ドンジュ、キム・ユンホ / プロデューサー:ペ・ジョンミン / 撮影:ソン・サンジェ / 衣装・メイクアップ:イム・スンヒ / 音楽:パク・ジウン / 出演:クァク・チミン、ハン・ヨルム、イ・オル / 配給:東芝エンタテインメント
2004年韓国作品 / 上映時間:1時間35分 / 日本語字幕:根本理恵
2005年03月26日日本公開(R-15指定)
公式サイト : http://www.samaria.jp/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2005/03/26)

[粗筋]
 抱かれた男を仏教徒に変えてしまった娼婦、バスミルダ。きっと夢のように幸せなセックスをしたんだわ。だから、わたしはバスミルダになる。今日からわたしは、バスミルダ。
 ヨジン(クァク・チミン)の手を借りてメイクを整えながら、チェヨン(ハン・ヨルム)は屈託のない表情でそう言った。彼女はしばらく前から躰を売っている。ふたりでヨーロッパ旅行に出かける資金を稼ぐために、文字通り躰を張っているのだ。見知らぬ男に身を委ねる親友の躰が汚れていくのを悔しがるヨジンに対して、チェヨンはあっけらかんとしていた。セックスのとき、男はみんな子供のようになる。そんな様子を見るのが、チェヨンは素直に楽しそうだった。
 常に一緒に行動するふたりは、チェヨンが売春するときも一緒だった――ヨジンの役割は窓口と金の管理、それから行為の最中、ホテルの外で見張りをすること。中でなにが行われているにせよ、ヨジンに出来るのは息を凝らして見守ることだけだった。
 だがある日、一瞬油断した隙に、チェヨンがいる部屋に警官達が踏み込んでいってしまった。追い詰められ逃げ場を失ったチェヨンは、ヨジンの目の前で、躊躇うことなく窓から飛び降り――頭を強打した。地面に俯せながら、チェヨンはそれでもヨジンに向かって手を差し伸べる。おぶって、逃げて。
 ヨジンはチェヨンを病院に担ぎ入れた。まだ辛うじて生き長らえていたけれど、医師の診断は極めて悲観的なものだった。家族に至急連絡を取る必要がある、と言う医師に、ヨジンは知らない、と首を振るしかなかった。学校に行けばいつでも逢えた。意識せずとも一緒にいた彼女の、正確な連絡先をヨジンは知らない。
 僅かに意識を取り戻した機会に、ヨジンは家族の所在を訊ねる。チェヨンは応える代わりに、顧客名簿にしていた手帳の一節を指さして、この人を連れてきて欲しい、と言う。最期に逢いたいと言うその男は、しばらく前、客として彼女の前に現れ、チェヨンの心を惹きつけた人物だった。
 いま手が離せない、と電話越しに言う男のもとを訪ね、ヨジンは直接懇願した。行ってあげたいけれど、急いで片付けねばならない仕事がある、と困惑して言う男の前で、ヨジンはあられもなく泣きわめく。男はヨジンを抱き締めて慰めた。そうして、いつの間にか彼女は躰を許していた。チェヨンと異なり、まだ誰にも許したことのなかった躰を。
 ことを済ませたあと、男の車で病院に急ぎ駆けつけたヨジンの前を、ストレッチャーが横切った。チェヨンの躰は顔までをシーツで覆われていた――ヨジンは、間に合わなかった。
 自分のせいで、大切な友達を、死なせてしまった。
 ヨジンは、チェヨンから預かっていた手帳と、彼女が稼いだお金を燃やそうとして、すんでで思い留まる。代わりに彼女は、チェヨンが身を投げたあのラブホテルに赴き、最期の客を呼び寄せた。既に男を知った躰を委ねたあと、チェヨンが受け取った金を返した。男は幸せそうだった。
 それは恐らく、贖罪の旅だったのだろう。手帳に記されたアドレスに連絡を取り、かつての客たちと接触し、躰を重ね、チェヨンの金を返す。いつかヨジンは頑なな男達の心を解す術を学んでいった。チェヨンの語った、バスミルダのように。
 だが、ある日、ヨジンの与り知らぬところで、彼女の贖罪の旅は綻びを生じる。ヨジンの父ヨンギ(イ・オル)の仕事は刑事だった。彼は女の殺害現場であるホテルでの現場検証中、何気なく目を上げたその先に見てしまったのだ――向かいのホテルで、男の腕に抱かれ寛いだ笑顔を浮かべる、愛しい娘の姿を。

[感想]
 ――ここまで厄介な映画に巡り会えるとは。
 キム・ギドク監督は画家から出発して映画監督に転じ、ここ数年の作品によって韓国映画の枠を飛び出して国際的に評価を高めつつある人物である。本編はその彼の最新作であり、調べたところによれば従来作で使われたモチーフを温存しつつもまた新しいアプローチに挑んだ作品であるらしい。
 旧作とは何故か縁がなく、これまで一本も観ることが出来ずじまいだったので、私にはその点からの比較は出来ない。が、とりあえず本編が端倪すべからざる作品であることは充分に理解できた、と思う。
 とにかく、厄介な代物である。
 画家出身というだけあって、さりげないヴィジュアルから感性が迸っているように見える。仕事のあと、一緒に入った銭湯でチェヨンの躰を必死に拭うヨジンの姿。公園や協会を、手を繋ぎながら遊び歩いている様子。娘の行動を目の当たりにしてしまったヨンギのその後の、狂気を孕んだ行動の数々でさえ悽愴な美しさに彩られている。そして、末期的な出来事のあとに描かれる清澄で哀しみに充ち満ちた場面の詩的なさまといったら。
 だが、そうした映像的な美しさの背後には、陰惨さと生々しさと、思索的なものがやたらと詰め込まれ隠されている。まず、上記の粗筋に記した部分だけでも、様々な想像を呼び起こすものが鏤められているのにお気づきだろうか。
 ヨジンとチェヨンは非常に仲がいい。ふたり一緒に海外旅行に出かけるために、チェヨンは売春という手段に出るが、その際ヨジンに金の管理と連絡、見張りの役を任せている。金の管理と見張りまではいいとして、電話口での連絡まで委ねているのは何故だろう? この行為は、実は客である男達への態度とよく似ている。たった一時間程度の逢瀬であるにも拘わらず身も心も任せきり、「男達ってセックスのとき子供みたいになるのよ」とあっけらかんと表現してみせる。そして、客としてやって来た、優しさを窺わせる男に恋をして、いまわの際に逢いたい、と告げる。その際、家族の連絡先は、とヨジンが訊ねているにも拘わらず、それには応えずに、だ。この状態は、チェヨンという屈託のない少女の生活基盤に根本的な問題があることを感じさせる。
 そして、それほど信頼されている――されていたし、自分もしていたと感じていたはずのヨジンは、彼女の連絡先を知らない。学校の同級生で、連絡など取らなくても学校に行けば逢える、というこの年代特有の背景があるから、とも言えるが、一緒にヨーロッパへ旅行に行く、とまで約束したふたりなのに、その一方が相手の家族に連絡をつけることさえ出来ない、というのは意味深だ。ヨジンを窓口に使っていたのは、チェヨンが携帯電話を持っていないこととも関わりがあると推測され、そのことが敢えて家の所在などを伝えていなかった事情にも直結していると考えられるが、それにしても異様である。
 物語は三部構成となっており、チェヨンの死までを描いたのが第一部“バスミルダ”となっている。その出来事を受けて、こんどはヨジンが親友の心の遍歴を辿るが如き第二部“サマリア”が始まる。以後第三部“ソナタ”まで驚きの展開となるわけで、そのあたりはやはり予備知識なしで観たほうがいいだろうから、あいだの出来事について触れるのは避けておくが、このあと明らかになっていくのは、ヨジンとその父・ヨンギとの絆と、埋めがたい断絶である、ということぐらいは言っておこう。
 序盤、ヨジンとチェヨンの交流を描く傍らで僅かにヨジン父子の暮らしぶりも描かれる。数年前に母を亡くしており、父ひとり子ひとりの家庭は倹しくも仲の良さが窺われる。父は先に起きて朝食を作り、それから娘の枕元に立つと、ヘッドフォンを耳にあててやって、音楽で優しく娘を起こす。学校まで車で送る道すがら、父は仕入れたばかりの海外のニュースを嬉々として娘に語り、ヨジンは微笑みながらそれを聞き流している。
 だが、ヨンギは娘のしていたことを知らない。チェヨンの死は疑いなく事件性があり、刑事という仕事をしている――それも、ラブホテルで殺害された女性の事件を調査している姿から推測すれば、恐らくは売春などに絡んだ事件をふだんから追っているはずで、その手の情報は入ってくるはずだ。なのに、娘の親友がああいった状況で死んだにも拘わらず娘の素行に対して疑いを抱かないのは、絶対的な信頼と同時に、彼女の行動をよく理解していなかったことが予測できる。だからこそ、たったいちどの目撃に極端なほど動揺し、度を超した挙に出てしまったのだ。
 だが、この一見近しい父子の断絶ぶりは、どうしようもなく哀れを誘う。凡そ自分の知らなかった媚態を示す娘を目の当たりにし、常軌を逸していく父。だが、ヨジンはその理由に気づかない。彼女は彼女で、自分が汚れているとか間違ったことをしているとは微塵も考えていない。ヨジンはチェヨンの言動を辿り、悟り得なかった彼女の想いに触れることで、親友を死なせてしまったという心の傷と罪の意識から逃れようとしているだけなのだ。娘のそうした行動が、宗教上の伝説の女たちのように男の心に僅かな救いを齎している可能性を、父親は想像することさえ叶わない――当然だ、恐らく当人でさえその意味に気づいていないのだから。
 本編は、互いに深く想いあいながら、その行動の背景や真意に気づくことの出来なかった人々の愛が悲劇的な末路を辿るさまを描いた物語のようにも見える。一方で題名及び章題が示唆するとおり、宗教的な事象を現代に当て嵌めて、その悲劇性を再現しているかのようにも映る。或いは、“躰を売る”という行為を紋切り型に批判するのではなく、その動機から問いかけようとしていく傍らで物語を膨らませていっただけと捉えることも出来るだろう。
 他にも、幾通りもの解釈が考えられるのではないかと思う。ざっと事象を辿っていっただけでもこの有様なのだ。この作品を観た別の数人とじっくり語り合えば、更に異なるものが見えてきそうにも思う。異様なまでに懐が深い。
 明確な筋があるにも拘わらず、本編のラストシーンはある意味放り出したようにも見える。だが、それさえ含めて幾通りもの解釈がある。その描き方の美しさに酔いしれ、背景として描かれた悲劇にひっそり涙を浮かべ、登場人物たちの未来に思いを馳せるのも楽しみ方のひとつだろう。
 様々に解釈は可能だが、しかしこのラスト自体が曲者なのだ。観客を途方に暮れさせ、そうすることで物語の細部に鏤められた意味を厭でも考えさせずにおかない。結果、単純にヨジンの心境と観客とを同化させるための方策だったのだ、ぐらい単純に捉えるのも構わないだろう。だが、それで収まらないほどに本編に鏤められた伏線や象徴は多すぎるのだ。
 とにかく確実に言えるのは、説明すればするほどドツボに嵌り、解釈すればするほど更に底が見えなくなる、企み抜かれた作品であると言うこと。端倪すべからざる、という表現がこれほど相応しく、また理想的な“映画”も滅多にない。参りました。

(2005/03/27)


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