/ 『精霊流し』
『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る精霊流し
原作:さだまさし(幻冬舎・刊) / 監督:田中光敏 / 企画・翻案:近藤 晋 / 製作総指揮:植村伴次郎、中村雅哉 / 脚本:横田与志 / 音楽:大谷 幸 / 主題歌:さだまさし『精霊流し』(FOA Records) / 中国古箏演奏:ウー・ファン / 出演:内田朝陽、松坂慶子、高島礼子、池内博之、酒井美紀、山本太郎、椎名桔平、蟹江敬三、田中邦衛 / 「精霊流し」製作委員会:東北新社、日活、電通、テレビ朝日、カルチュア・パブリッシャーズ / 配給:日活、東北新社
2003年日本作品 / 上映時間:1時間49分
2003年09月13日長崎先行公開、同年12月13日全国順次公開
公式サイト : http://www.shoronagashi.com/
新宿テアトルタイムズスクエアにて初見(2003/12/28)[粗筋]
1960年代末。小学生のときにヴァイオリニストになる夢を携えて、長崎から叔母の石田節子(松坂慶子)を頼って鎌倉にひとり移り住んで音楽教室に通っていた櫻井雅彦(内田朝陽)は、いつからかヴァイオリンを弾くこともなくなり、大学の授業料と友人たちとのフォーク・ソングでの活動のための費用稼ぎに野川モータースでのアルバイトに明け暮れる日々が続いていた。
仕事一筋で不器用、事業で成功を収めていた時期もあるが、雅彦が上京する頃には家を売り払うところまで追い込まれていた雅彦の父・雅人(田中邦衛)を支え、自分の好きなことはなにひとつせず夫と我が子に尽くしていた母・喜代子(高島礼子)と異なり、叔母の節子には奔放で無邪気なところがあった。彼女の子供・春人(池内博之)は節子の実子ではなく、死んだ夫の連れ子だった。早くに父を喪った春人は節子を実の母と同じように慕っていたが、仕事柄帰りが遅く、男性との関係も多かった節子は、夜中に男の車で帰宅することも頻繁で、そのたびに春人が胸を痛めていたことを雅彦は知っている。
だから、突然節子が長崎に帰って一からやり直す、と言い出したとき、悲しむ春人とともに憤ったのだ。もう春人も大きくなったから、という節子に雅彦は、小さい頃もいまも春人が彼女を慕っていて、一緒に暮らしたがっていると訴える。そんな雅彦に悲しげな表情を見せながらも、節子は意志を翻さない。長崎に帰っていく節子を、雅彦も春人も見送りに行かなかった。
節子の唐突な帰郷は、雅彦と春人と、ふたりの幼なじみである木下徳恵(酒井美紀)との関係にも大きな影響を齎した。節子のとの別れの日から、徳恵はなぜか雅彦を避けるようになった。春人は随分悩んだあと、長崎に行って母と暮らす道を選んだ。雅彦はそれがいちばんだ、と喜んで彼を見送る。
しかし、雅彦自身もこのころ、ひとつの岐路に立たされていた。アルバイトは忙しいのに、しばらく給料の支払いが滞りがちになっている。同僚の弁によれば、社長の野川(椎名桔平)は近頃ヤクザ絡みの賭け麻雀に嵌り、抜け出せなくなっているらしい。そして音楽仲間たちは、バイトに耽る雅彦を尻目に自分の道を見つけつつある。かすかに心が乱されつつあったさなか、雅彦の職場に父・雅人からの電話が入った。
……春人が死んだ。[感想]
なにせ小さい頃からのさだファンなので、冷静に評価できていない気がする。故に敢えて、まず目についた欠点から挙げていこうと思う。
まず、現在(1960年代後半)と過去(1950年代後半?)との変化がやや捉えにくい。冒頭、おおむね過去の出来事を綴っているのに、いきなり現代の年をテロップで示して、それから回想としての過去に入っていくのに、あいだに何の説明もないため、事情を理解していない観客をいたずらに混乱させる危険がある。この混乱が、本筋となる現在の話となっても、やや据わりの悪い印象を齎しているのだ。
次に、余分な台詞が多い。映像や表情の演技だけでも充分に理解できる説得力のある場面で、余計な台詞を足してしまっているせいでやや興醒めになる場合が頻繁だった。特にラストシーンの雅彦の台詞が拙い。あそこはもっと最小限の言葉と仕種で表現するべきだったろう。
そしてもう一つ。メインとなるのは雅彦と従兄弟の春人、ふたりの幼馴染み・徳恵を巡る恋模様と、彼らに少なからぬ影響を及ぼす節子の生き様なのだが、ピンポイントで激しい感動を呼ぶ要素がどちらかというと雅彦の母・喜代子に絡んだエピソードに多いことが少々引っかかる。クライマックス、古式に則った精霊流しの姿は圧巻だが、どれがいちばん胸に染みるシーンかと言うと、雅彦がむかし母のために摘んだ薔薇の花を巡るエピソードなのだ。原作でも一瞬で深い感動を呼ぶシーンであるだけに、映像にすれば更にインパクトを増すことは予測の範疇だったが、だからこそバランスに配慮して欲しかった。
……と、問題点を論ったものの。
全般としては実に端正に整った、美しき日本映画だと思う。往年の長崎の姿を丁寧に再現したロケーション、それぞれが役どころを逸脱することなく抑制のきいた演技を披露した役者陣、主張しすぎずしかし印象深い音楽。
原作はファンもよく知悉しているさだまさしの実体験に基づいているが、映画ではエピソードやテーマを尊重しながら、そこにかなりの潤色を施している。ざっと思いつくだけでも、叔母・節子の体験は別人のエピソードをひとつに束ねたものだし、雅彦と春人が幼馴染みの女性を巡って対立するような状況は現実でも小説版でも存在していない。また、映画では幼馴染みとの会話がきっかけで音楽の道に戻ることを決意する雅彦だが、現実のさだまさしはグレープの相方となる吉田政美が長崎にやってきたことが契機で音楽への情熱を取り戻しているし、小説版でもそれに準じた形となっている。
が、そうした多くの潤色が、一貫した物語を構築することに成功している。出来事のひとつひとつはバラバラなのだが、それが終盤に向かうに従ってクライマックスとなる精霊流しの場面に収束していく様は見事の一言に尽きる。原作が備えるテーマをまったく逸脱することなく、虚構として膨らませることに成功しているのだ。
過去を舞台にしながら、ありがちな郷愁に物語を委ねなかったことも好感を齎す。東京ではなく、さだまさしの実体験には登場しない(小説版は……失念しましたすみません)鎌倉をもうひとつの舞台にしたことも、時代の変化という感覚を最小限に留めるのに一役買っている。
素材のひとつひとつに至るまで神経の行き届いた、実にいい日本映画。たぶんに身贔屓だと解っていても、傑作と言いたくなります。とりあえずさだファンを自認する方、「精霊流し」という楽曲に愛着のある方は観て損することはあり得ません。仮に内容が腑に落ちなくとも、現代ではもはや見ることの難しい古式に則った精霊流しが見られるという一点だけでも存在意義のある一本です。日本映画は、バラエティ番組などで活躍するタレントなどがやたら目につくせいで、海外の映画作品よりも余計に演技の粗を拾ってしまう場合が多いが、本編はその点非常に優秀だ。若手も名の通った役者も決して目立ちはしないが、きっちり勘所を押さえた演技を披露している。
なかでも特に光っていたのは――実は、少年時代の雅彦を演じた男の子だった。存在感を示す母・喜代子役の高島礼子と対等に渡り合い、特に長崎から東京へ向かう列車から、母に向かって新聞紙を振りかざす場面の表情が素晴らしかった。
なので、粗筋を書くときに少年時代の雅彦のところに名前を付したかったのだが――手元の資料では確認できなかった。全キャストの一覧はあるのだけれど、誰が誰を演じているのかは主要キャストしか記していなかったのである。残念。覚えておきたかったのに。(2003/12/28)