cinema / 『シモーヌ』

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シモーヌ
原題:“SIMONE” / 監督・製作・脚本:アンドリュー・ニコル / 撮影:エドワード・ラックマン / プロダクション・デザイン:ヤン・ロルフス / 衣装デザイン:エリザベッタ・ベラルド / 編集:ポール・ラベル / 音楽:カーター・バーウェル / 出演:アル・パチーノ、レイチェル・ロバーツ、キャサリン・キーナー、ウィノナ・ライダー、エヴァン・レイチェル・ウッド、ジェイ・モーア、ブルイット・テイラー・ヴィンス、イライアス・コティーズ / 配給:GAGA-HUMAX
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:松浦美奈
2003年09月13日日本公開
公式サイト : http://www.simone.jp/
日劇PLEX3にて初見(2003/09/27)

[粗筋]
 ヴィクター・タランスキー(アル・パチーノ)は窮地に立たされていた。短篇ながらアカデミー賞にノミネートされた経験があるが、その後約十年に製作した長篇はすべて鳴かず飛ばず、どうにか撮影終了間際まで漕ぎ着けた渾身の最新作『サンライズ・サンセット』だったが、完成を目前に主演の大物女優ニコラ・アンダース(ウィノナ・ライダー)の常軌を逸した――しかしハリウッドでは比較的当たり前な――我が儘に耐えきれず暴発、その結果、主演であるニコラの登場シーンをひとつも使用できないという状況に追い込まれてしまった。かつてタランスキーの妻であり、別れたあとも仕事仲間として辛抱強く付き合ってくれたエレイン(キャサリン・ターナー)もことここに及んでとうとうタランスキーに解雇を言い渡した。
 諦めきれないタランスキーは独力でも映画を完成させるつもりで、目処も立たないままフィルムを撮影所から持ち出そうとしていた。そんな彼に、片方だけレンズの入ったサングラスをかけた男が声をかけた。彼――かつてシンポジウムで俳優不要論を唱えて不興を買った技術者・ハンク(イライアス・コティーズ)は、憧れであったタランスキーのためにプログラムを開発していたという。まともに耳を傾けないタランスキーだったが、電磁波が原因で生じた腫瘍により早逝したハンクは、遺言でタランスキーに一個のハードディスクを託した。
 ――九ヶ月の月日が過ぎた。『サンライズ・サンセット』の試写会の席にいながら、タランスキーは不安を隠せない。スクリーンで主役を演じているのはニコラではなく、タランスキーが“Simulation one”を短縮して名付けた、CGによる女優・シモーヌ(レイチェル・ロバーツ)だった。パソコン音痴だった彼がハンクにデータを託されたことで一念発起し、完璧に操作できるまでになったものの、果たして観客に不自然と感じさせない映像になっているのか、作品は受け入れられるのか――しかし、いずれも杞憂に過ぎなかった。タランスキーの作品のテーマが半ば無視されるほど、シモーヌは激しい賞賛を浴びた。ヘップバーンの微笑にジョディ・フォスターの演技力、キャメロン・ディアスばりのプロポーションにあらゆる女優を凌駕するオーラ……ハンクとタランスキーが願ったとおり、シモーヌは理想の女優として最高の仕事を成し遂げたのだ。映画の成功を、タランスキーとエレインのあいだに生まれた娘レイニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)も一緒に喜ぶ。
 圧倒的な魅力を放つ新人女優に、当然のごとくマスコミの目が集まった。彼女のプロフィールに関する質問がタランスキーのもとに相次ぐが、実在しない女優なのだから答えようもない。人見知りする純粋すぎるほどの女性、という設定のもとタランスキーは一切の情報を隠蔽した。あと一作、数年前に脚本を用意したまま頓挫していた『永遠の彼方』の撮影が終了したあとで、すべてを公表するつもりでいた。
 だが、このときまだ彼は気づいていなかった。シモーヌの存在は既に、世間の注目どころかタランスキーの動向そのものを支配しつつあったことに……

[感想]
 実際のCGにここまで不自然さのない表情や演技をさせるのは不可能だとか、あそこまでの合成技術を習得し、更に実際の編集作業をしながら作中のような隠蔽工作を行うのは非常に難しいだろ、と思うのだが、鑑賞中そうしたことをあまり気にすることがなかったのは、その程度の苦労はずーっとしてるんだろうな、と信じたくなるくらいにアル・パチーノがくたびれていたからだろう。
 主役はタイトル通りシモーヌなのだが、それを支えているのはあくまでアル・パチーノが演じるタランスキー監督である。冒頭の身につまされるような窮地から、シモーヌによって獲得した賞賛と、彼女への注目を繋ぎ止めるための辛苦とそれによる憔悴、そうした表現があってこそ、CGでしかない(という設定の)シモーヌの存在にリアリティを齎しているのだ。
 リアリティ、とは言ったがそれはあくまで作品内部でのことで、作品そのもののトーンはどちらかというとコメディだ。何せ、本当にこんな展開するか、と首を傾げたくなるくらいに、極端なほうへ極端なほうへとことが進んでいく。悪化する事態にタランスキーが大真面目に対処して、更に状況を悪化させているのがまた可笑しい。初見ではどういうふうに転がっていくのか予想もつかない一方で、「おいおい」とつっこみたくなる行動がそのまま更なる不運を呼び込んだりしている様は、どこかコントじみている。部分的には間延びした印象があるが、全体はそんな調子で基本的に飽きさせない。
 問題はオチである。最大の窮地に陥ったタランスキーを救う方法こそ早いうちに予測できるが、そのあと物語は風呂敷をきっちり閉じるどころか、更に大きくして終了する。冷静に考えると、これまで以上に厄介な展開が待ち受けるだけの結末なのだが、これが認められそうに感じさせられること自体が本編の主題であり、成功を裏付ける点だろう。マスコミとショービジネスの加熱に対する皮肉と、有名人の言動に振り回される社会風刺と、今後も繰り返されるであろうそうした悲喜劇の象徴が、この結末なのである。
 きわめて自覚的に作られた近未来コメディであり、痛烈な風刺劇。スタッフロールのあとにももう一幕残されているが、これはまあご愛敬というところだろう。

 ……それにしても、タランスキー監督の作品の出来って実際のところはどうなんでしょうね。作中、シモーヌが出演作二本で二回分のアカデミー主演女優賞を獲得する、という場面があるが、そこで他の部門に上げられている様子はなかったから、もしかすると……

(2003/09/30)


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