cinema / 『シン・シティ』

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シン・シティ
原題:“Frank Miller's Sin City” / 原作:フランク・ミラー / 監督・脚本:フランク・ミラー&ロバート・ロドリゲス / 製作:エリザベス・アヴェラン、フランク・ミラー、ロバート・ロドリゲス / 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン / 撮影・編集:ロバート・ロドリゲス / 特殊メイク効果:K.N.B.エフェクツ・グループ / 美術:ジャネット・スコット / 衣装:ニーナ・プロクター / 音楽:ジョン・デブニー、グレアム・レヴェル、ロバート・ロドリゲス / 特別監督:クエンティン・タランティーノ / 出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジェシカ・アルバ、ベニチオ・デル・トロ、イライジャ・ウッド、ブリタニー・マーフィ、デヴォン青木、ジョシュ・ハートネット、ニック・スタール、カーラ・グギーノ、マイケル・マドセン、ジェイミー・キング、マイケル・クラーク・ダンカン、アレクシス・ブレーデル、ルトガー・ハウアー、パワーズ・ブース、マッケンジー・ヴェガ、フランク・ミラー / トラブルメーカー・スタジオズ製作 / 配給:GAGA Communications
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間4分 / 日本語字幕:林完治
2005年10月01日日本公開
公式サイト : http://www.sincity.jp/
丸の内ルーブルにて初見(2005/10/01)

[粗筋]
 正式名称はベイシン・シティ。だが、そんな取り繕った名前で呼ぶ人間は多くない。汚辱と裏切りと犯罪にまみれたこの街を、人々は“罪の街(シン・シティ)”と呼ぶ……
“The Yellow Bastard”
 ジョン・ハーティガン(ブルース・ウィリス)はこの街のか細い正義の糸を繋ぎ止める最後の男だった。警察に奉職して三十年、まだやれると思っていたが、長年の無理が狭心症というかたちで彼を蝕み、医師から進められて引退を決意した。
 しかし彼にはまだ心残りがある。幼い少女ばかりを誘拐・暴行し切り刻んで捨てる凶悪犯をあと一歩のところまで追い詰めており、いましもナンシー(マッケンジー・ヴェガ)という少女を四人目の犠牲者にしようとしているところだった。しかし、判明した犯人は上院議員ロアーク(パワーズ・ブース)のひとり息子ロアーク・ジュニア(ニック・スタール)――シン・シティきっての権力者にゆかりのある人間だったために、長年の相棒ボブ(マイケル・マドセン)さえ尻込みするなか、ハーティガンは発作を堪えてジュニアを追い込む。
 ナンシーを救出し、二度と犯行に及ばぬよう制裁を加えたハーティガンだったが、そんな彼を止めたのは、相棒ボブが背後から放った銃弾であった……
“The Hard Goodbye”
 マーヴ(ミッキー・ローク)はその魁偉な容貌のために誰からも愛されず、罪に罪を重ねて生きてきた男である。そんな彼に守ってもらうために、ゴールディ(ジェイミー・キング)という女が自らの身も心も委ねる――マーヴはその天国のような体臭と温もりに一夜のあいだ溺れ、翌朝目醒めたときには、女は死体になっていた。
 あまりに手回し良く襲来した警察の姿に、マーヴは嵌められたと確信する。だが、易々と何者かの目論見通りになるつもりはなかった――包囲網を強行突破したマーヴは保護観察官ルシール(カーラ・グギーノ)のもとにいちど身を寄せ、銃に安定剤など必要なものを調達すると、単身で自らを罠に陥れた者たちに肉薄する。
 ゴールディを殺したのは、幾人もの女を手にかけその肉をステーキにして貪り食う本物のサイコ・キラー、ケヴィン(イライジャ・ウッド)。しかしどうやら彼の背後には大物がついているらしく、追っ手が執拗に貼りついてくる。更には、ゴールディそっくりの女が、憎悪の眼差しをマーヴに向け銃口を向けてくるのだ――マーヴが仕留めるべき相手は、いったい誰だ……?
“The Big Fat Kill”
 本来、ドワイト(クライヴ・オーウェン)は息を潜め、身を隠していなければならない立場だったのだ。ちょっとしたトラブルから人を殺め、捕まれば死刑確定の窮地にある彼は顔を整形し、別人になりすましてシン・シティに潜伏していた。だが、ストリップ・バー“ケイディ”で知り合い懇ろになった女シェリー(ブリタニー・マーフィ)がジャッキー・ボーイ(ベニチオ・デル・トロ)というゴロツキにつきまとわれ、暴力まで振るわれているのを見て、我慢がならなくなった。
 ドワイトにしこたま痛めつけられ、仲間共々ほうぼうの体で逃げ出したジャッキー・ボーイだが、ドワイトは二度とシェリーに手出しできないようにするために更に彼を追う。行き着いたのはオールド・タウン――金と快楽とを与える代わりに警察の介入をいっさい受けない、娼婦たちによる自治区域であった。そこでジャッキー・ボーイは人生最大のヘマをした。口説こうとした女ベッキー(アレクシス・ブレデル)に邪険にされたことに腹を立て、拳銃を振り翳してしまったのだ。女たちの安全を重んじるオールド・タウンの元締めゲイル(ロザリオ・ドーソン)はそれを黙過したりしない。“小さな死の天使”ミホ(デヴォン青木)を筆頭にジャッキー・ボーイたちを襲撃、瞬く間に彼らを血祭りに上げた。
 しかし、後始末のさなか、死んだジャッキーの所持品を改めていたドワイトたちは、最悪の事実を知る。ジャッキー・ボーイは警官だったのだ――かつては英雄視されながらもやがて富と名声に溺れ、たかりと暴力に明け暮れる汚職刑事に転落した、というだけの。このことが警察に知れれば、ようやく手にした娼婦たちの聖域がふたたび悪党どもの手に落ちる……
 乗りかかった船とばかり、ドワイトは死体の後始末を引き受けるが、オールド・タウンの“失態”を早速と嗅ぎつけたマフィアが、既に刺客をドワイトとオールド・タウンの双方に放っていた……

[感想]
 何はともあれ、いちどはフランク・ミラーを“失望”させたハリウッドに対して感謝するべきかも知れない。彼が映画というものに希望を抱けなくなったからこそ、自らのオリジナル最高傑作である『シン・シティ』の映像化になかなか頷かなかったのであり、翻って誰よりも情熱を傾けたロバート・ロドリゲスとの共同監督による、極めて理想的な手法による映像化である本編に結びついたのだから。
 フランク・ミラーが何故そうまで映像化を厭っていたのか、またそんな彼を頷かせるためにロドリゲスがどれほどの努力をしたのかは公式サイトやプログラムを参照していただきたい。兎に角、結果として生まれた本編は、ハリウッドの大物スターを大勢招きながらもハリウッドの約束に一切迎合せず、誰もが経験したことのないような独特な映像世界を構築することに成功した。
 もとがハーフトーンさえ使用しないモノクロで描かれたコミック(アメリカにおいては細分化されており、本編のようなストーリー性の高い成熟した作品は特にグラフィック・ノヴェルと呼ばれているそうだが)であるため、その空気を万全なかたちで取りこむためだろう、本編もまたモノトーンを基調としている。しかし、たとえば女性のドレスや金色の髪、車のボディ、ドワイトの赤いコンバース、象徴的な悪役イエロー・バスタードの肌の色など、一部の色彩を際立たせており、この着想によって重要なモチーフがよりいっそう強調されている。黒と白とを基調とした画面に散る赤い血飛沫はフルカラーで捉えるよりも遥かに生々しく、白と黒とを逆転させた構図で描かれる残虐シーンはより鮮烈で、しかし悽愴なほどに美しい。そのヴィジュアルはほとんど芸術の域に達している。
 綴られているストーリーもまた異色で衝撃的である。シン・シティならではの世界観に基づいた三つのストーリーを立て続けに繰り出してくる格好となっているが、そのどれもが壮絶な筋書きを辿る。窮地に追い詰められ、どうにか切り抜けようとした挙句に辿る末路もまた悲惨なものばかりだ。しかし、それ故にいずれもハリウッドの軛から解き放たれ、自在に展開していく趣がある。実はところどころでありがちなギミックが盛り込まれているのだが、それがきちんと驚きや衝撃に結びついているのは、常道を逸した筋書きゆえ先が読めないからである。更に、一話を水増しして長篇化するのではなく、選ばれた三話をそれぞれ凝縮して描くことによって、長篇三本分以上の厚みを感じさせる組み立てにしている。
 本編の特徴的なムードを醸成するのに役立っているのは、ほぼ全篇余すところなく被せられるナレーションである。普段の私は、こと映画においてナレーションの説明に依存することを批判しているほうだが、本編については例外的に評価したい。映像では語りきれない心情を、言葉ならではの比喩によって表現する手法が、作品のハードボイルド的な空気をより堅牢なものにしている。原作者のフランク・ミラーはレイモンド・チャンドラーの諸作を愛し、ゆえに本編にも採りあげられたエピソードで“The Hard Goodbye”という意識したような題名と、まさにフィリップ・マーロウを彷彿とさせるハーティガンというキャラクターを創出したというが、なるほどと頷けるところである。
 何より、それぞれのエピソードに登場するキャラクターたちの完成度の高さこそ本編の白眉であろう。傷だらけの醜貌で銃弾の一発二発では倒れもせず、人殺しも厭わないながら女だけは決して殴らず、惚れた女のために一心に復讐を誓うあたりに純粋さを感じさせるマーヴ。やむない事情から罪を犯し、顔を変えてシン・シティに潜伏しているくせに、義を重んじるあまりトラブルを背負い込むドワイト。罪と汚辱にまみれた街で正義を貫こうとするが、遂に凶弾に倒れ、思いがけない運命に苛まれていくハーティガン。この主軸となる三人がまず素晴らしいのは確かだが、彼らに手を貸す人間は当然ながら、敵対する極悪非道の輩でさえ異様なまでに魅力的なのだ。外見こそ虫も殺さない若者風なのにマーヴ以上に先天的な人殺しであるケヴィン。殺しこそしないが強請たかりは当たり前、後先顧みぬ行動のために死体となったあともドワイトらを翻弄するジャッキー・ボーイ。邪悪さにおいては映画史上に残るレヴェルに達したイエロー・バスタード。この三人を軸に、悪党たちでさえもそれぞれに存在感を発揮せずにおかない。ただ守られるだけではない女性達の力強さもまた出色だ。
 繰り返すが、物語は決してハッピーエンドを迎えない。悪人たちの大半がその悪事の罰を受けるのと同様に、主人公たちでさえもそれまでの人生のツケを支払わされることになる。だが、悪だろうと正義だろうと、自らの本文を全うしたかに見えるその生き様は強烈な光芒を放つ。そうして美学を極めた三つのエピソードのあと、締め括りとして用いられたエピローグがまた秀逸なのだ。恐らく、ああいう括りを用意しているなどと予測した人はいないだろう。そして、この思いがけないラストを飾る台詞が、作品の暗い美しさをよりいっそう引き立てている。
 これこそ、完璧なハードボイルドにして新世代のフィルム・ノワール。物語に希望はなくとも、映画という表現手法にはまだ幾らでも希望があることを明示した傑作である。既に製作が決定しているという第二作、フランク・ミラーはとうに乗り気になっているという第三作がいまから非常に楽しみだ。

(2005/10/01)


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