cinema / 『スケルトン・キー』

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スケルトン・キー
原題:“The Skeleton Key” / 監督:イアン・ソフトリー / 脚本:アーレン・クルーガー / 製作:ダニエル・ボブカー、イアン・ソフトリー、マイケル・シャンバーグ、ステイシー・シェア / 製作総指揮:クレイトン・タウンセント / 撮影監督:ダン・ミンデル / プロダクション・デザイナー:ジョン・ベアード / 編集:ジョー・ハッシング,A.C.E. / 衣装:ルイーズ・フログリー / 音楽:エドワード・シェアマー / 出演:ケイト・ハドソン、ジーナ・ローランズ、ジョン・ハート、ピーター・サースガード、ジョイ・ブライアント / シャドウキャッチャー・エンタテインメント&ダブル・フューチャー・フィルムズ製作 / DVD発売元:Universal Pictures Japan
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:岡田壯平
2005年12月23日DVD日本盤発売 [amazon]
DVDにて初見(2006/02/23)

[粗筋]
 看護師志望のキャロライン(ケイト・ハドソン)は、だが学費を稼ぐために働いているホスピスで、あまりに死が軽視されている現状に嫌気が差して、職場を変えることにした。新聞広告で彼女が発見したのは、脳梗塞で身体機能をほぼすべて損なってしまった男性の看護人を求める記事。親友のジル(ジョイ・ブライアント)には「沼だらけの土地だ」と止められたが、キャロラインはすぐに連絡を取って、面接のため現地へと赴く。
 彼女を迎えたのは、驚くほど年季の入った屋敷であった。自発的な行動の出来なくなった夫ベン(ジョン・ハート)を甲斐甲斐しく世話するヴァイオレット(ジーナ・ローランズ)は、キャロラインが南部出身ではないことを見抜いて難色を示すが、既に五人も立て続けに看護人が辞めており、これ以上面接を繰り返したくない、とヴァイオレットの雇っている顧問弁護士ルーク(ピーター・サースガード)は両者を説得し、契約を取り付ける。
 さっそくキャロラインは屋敷に住み込み、仕事を始めた。彼女にヴァイオレットは、色々と雑事を頼むかも知れないから、と屋敷のすべての鍵を開けることの出来る合鍵――スケルトン・キーを託す。
 屋敷の朽ちた佇まいと、何故か鏡がことごとく剥がされていることなど、異様な状況に戸惑いを覚えながらも仕事に努めるキャロラインだったが、ある日、屋根裏で奇妙な物音を聞く。近づいてみると、棚によって塞がれた一画に、一枚の扉があった――何故調度で塞がれているのか、なぜ物音がしていたのか、関心を持ったキャロラインは託されたスケルトン・キーで解錠しようとしたが、なぜかここだけは開かなかった。ヴァイオレットによれば、そこは40年近く前、この屋敷を譲り受けたときからいちども開けていない、“開かずの間”なのだという。いちども開けたことがない、というが、キャロラインはその反応に微かな不審を覚える。
 その夜、休もうとしていたキャロラインは、物音に気づいてベンの様子を見に行く。すると、四肢の大半が麻痺しているはずのベンの姿がない――彼は窓から飛び出して、真下の屋根を這って家を出ようとしていたのだ。転落した夫を解放するヴァイオレットに頼まれて、ベンの部屋へ車椅子を取りに向かったキャロラインは、落ちていたシーツに泥で記されたものを見て、愕然とする――そこには、“助けてくれ”と書いてあった。
 翌日、遺言の相談を受けるために家を訪れたルークに問題のシーツを見せて、この家におかしなことが起きている、と訴えようとしたキャロラインだったが、仕舞っておいたシーツにその文字は残っていなかった。却って、この屋敷にはなにか危険なものが潜んでいることを確信したキャロラインは、屋根裏部屋の“開かずの間”を開けることにふたたび挑戦する。何故なら、ベンが脳梗塞を発症したのが、この屋根裏だったからだ。
 鍵孔に詰まっていたものを摘出し、スケルトン・キーを用いて遂に“開かずの間”への侵入に成功したキャロラインは、そこで更におぞましいものを目の当たりにする……

[感想]
 想像以上に優秀な、館ホラーであった。
 まず雰囲気作りが巧い。冒頭、ニューオーリンズでのキャロラインの暮らしぶりを描き、その洒落た空気と、微妙に馴染み切れていない彼女との食い違いを伝える。そうして物語がメインである、古い屋敷にたどり着くと、途端に物語は古風なホラー映画の様相を呈してくる。その定石を踏まえた道具立ても巧みだが、随所でニューオーリンズの友人との交流を織りこんで、これが現代の物語であると強調することで、依然現地に残る迷信や奇習の不気味さを際立たせている。そうした処理が、古典的なガジェットを多数導入しながらも、作品が必要以上に古めかしくなることを回避していることも特記しておくべきだろう。
 これもホラーの定石通り、かなり雰囲気のある音楽と緩急をつけた効果音によって盛り上げるが、決してそうした音の虚仮威しや、突然横合いから何かが飛び出してくるといった衝撃に恐怖の演出を頼っていない点も優秀だ。あくまで本編の異様さは、それ自体が違和感や嫌悪感を増幅するモチーフや、なかなか説明のつかない状況、周囲の人々の行動によって醸成されている。
 人物配置も絶妙である。屋敷を巡る怪異の最初の犠牲者と考えられるベンが、全身麻痺のために目や僅かな腕の動きによってなにかをキャロラインに訴えかけながらも、彼の感じる恐怖の源泉がなかなか伝わってこない、そのもどかしさがキャロライン、ひいては観客に焦りを齎し、違和感に対して鋭敏にさせる。キャロラインの親友を黒人にしたことも、一時期のハリウッドに蔓延した意味のない人種的配慮によるものではなく、物語的な必然性があり、あとになって感心させられた。
 そして何より素晴らしいのは、緻密に計算された伏線である。冒頭、キャロラインが物語の舞台へ移ることになる契機自体もまた全体の雰囲気を醸成するための必然に彩られていることは最初に記したとおりだが、最大の胆となるアイディアを支えるために鏤められた伏線の機能の仕方が実に美しい。すべてを説明する愚は犯していないが、観終わったあとで冷静に検証すると、謎めいた行動やモチーフが大半、きちんと理由があって配されていたことに気づくはずだ。よくよく考えると、まったく思いもよらない台詞が結末を暗示していたことに思い至り、感心する――と同時に、すぐさま検証のために見なおして、その出来事の備えた意味に戦慄さえするだろう。
 なまじ丁寧なだけに、物語の狙いを見抜くのは決して難しくない。だが、見抜いてなお、計算され尽くした描写の数々に驚かされるだろうし、見なおして恐怖を新たにさせられるに違いない。重要なのは一発逆転のアイディアではなく、それを活かす手腕なのだということを、本編は解りやすく証明している。
 一見ただの古びたアメリカ風住宅、という外見に巧みに不気味なモチーフを埋め込んだ美術も、古典的なカメラワークに現代的なセンスをしばしば織りこんだ映像感覚、めったやたらに不気味さや恐怖を表情に見せることなく、しかしその裏に潜む悪意や恐れをちらつかせる俳優陣の演技、すべてが作品に貢献している。
 強いて言うならあまりに突出したところのないのが欠点だが、基本的には非の打ち所のない、良質なホラー映画である。だからこそ余計に不可解なのである――なんでこれが日本では劇場公開なしの映像ソフト化直行だったのだ?! 劇場でやってくれれば単館でも駆けつけて賞賛したのにー!

(2006/02/23)


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