cinema / 『ソラリス』

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ソラリス
原題:“SOLARIS” / 原作:スタニスワフ・レム(早川書房、国書刊行会・刊) / 監督・脚本:スティーヴン・ソダーバーグ / 製作:ジェイムズ・キャメロン、レイ・サンチーニ、ジョン・ランドー / 共同製作:マイケル・ポレール、チャールズ・V・ベンダー / 製作総指揮:グレゴリー・ジェイコブス / 撮影:ピーター・アンドリュース / プロダクション・デザイン:フィリップ・メッシーナ / 衣裳デザイン:ミレーナ・カノネロ / 編集:メアリー・アン・バーナード / 音楽:クリフ・マルティネス / キャスティング:デブラ・ゼーン、A.S.C. / 出演:ジョージ・クルーニー、ナターシャ・マケルホーン、ジェレミー・デイヴィス、ヴィオラ・デイヴィス、ウルリッヒ・トゥクール / 配給:20世紀フォックス
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:松浦美奈
2003年06月21日日本公開
2003年12月05日DVD版日本発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/solaris/
日比谷映画にて初見(2003/07/14)

[粗筋]
 精神科医のクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)の許を、惑星“ソラリス”の開発に携わる企業の人々が訪れた。NASAから企業に売却され、“ソラリス”の開発に利用されている宇宙ステーション“プロメテウス”に勤務するクリスの友人ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)がクリス宛に映像メールを送信しており、その中でクリスの助けを求めていたのだ。“プロメテウス”では謎の異常現象が発生している模様で、救援部隊も派遣されたがその途中で連絡を絶ったまま音信が途絶えているという。クリスは友人を救うために自動操縦のポッドに乗り込んで、現地へと向かった。
 到着したクリスを出迎える者はなかった。代わりに目にしたものは、通路に付着した血痕と、その先にある冷蔵室に保管されたふたつの死体袋。ひとつには、変わり果てた姿のジバリアンが収められていた。
 ようやく逢うことの出来たふたりのクルー、スノー(ジェレミー・デイヴィス)とゴードン博士(ヴィオラ・デイヴィス)の様子もおかしい。スノーの言動は奇妙で曖昧だし、ゴードン博士は部屋に籠もり、「あれがあなたに起こらない限り、何も話せない」と証言を拒む。
 いるはずのない子供の姿を目撃したことで、クリスも“プロメテウス”が異様な状況下にあることを理解する。だがその夜、更に彼を驚かす事態が発生した。床に就き、ふと何かの気配に目を醒ますと――そこには、死んだはずの妻レイア(ナターシャ・マケルホーン)の姿があった……

[感想]
 とにかく、スティーヴン・ソダーバーグ監督の映画なのである。これまでにSFを撮影したことがなく、今後も特に撮りたいとは考えない、と公言する監督が自ら脚本を手掛けた作品なのである。そう承知のうえでないと、確かに失望するだろう。
『トラフィック』によってアカデミーの監督賞を獲得したソダーバーグは近年スタイリッシュな演出が目立っているが、デビュー作である『セックスと嘘とビデオテープ』からして、本来天才的なカメラワークと鋭い心理描写を売りとする映像作家だったはずだ。一時スランプに陥り、『アウト・オブ・サイト』あたりで復活を遂げてからも、資本を注ぎ込んだ大作と並行してマニアックな心理劇を企画制作している(実際のところ、『トラフィック』もそうした傾向の作品に属するものだと思う)。
 本編はいかにもという宇宙ステーションのセットを製作、随所にソラリスの美しい映像を交えており、体裁はSFらしく調えているが、物語自体は(原作もそうだったが)主人公クリス・ケルヴィンの動きと台詞を終始追い続けるだけで、いかにもSFという規模の大きな展開は終盤まで起こらない。原作にあった<ソラリスの海>に関する考察をはじめ、<対象物>と呼ばれるその創造物、多分原作のファンが最も見たかったはずのふたつの太陽という設定も省かれたが為に、より心理ドラマとしての側面が強調されているのだ。
 元々原作じたい、映像的な迫力よりも思索的な深さを志している。製作者たち自身がそれを理解した上でソダーバーグ監督という選択肢に辿り着いたのだろう。が、前述の通りソダーバーグ監督にはSFを撮り続けようという意志はなく、本編を見るとそれも納得できるくらいSFに対する素養が乏しい。デビュー作にも似た心理ドラマが展開することからか自らが脚本を手掛けているが、原作の魅力であった要素をあちこち省き、新たに心理ドラマを誇張するために導入したSF的ガジェットが、悉く矛盾を来している。特に、スノーを巡るある出来事は、設定としては面白くまた結末への伏線の役割も果たしているのだが、完全に原作の深遠な含みを壊してもいる。
 映画として、しかもソダーバーグ監督作品として際立たせるために、主人公クリス・ケルヴィンとその妻レイアとの愛情物語として決着させることを選んだのは間違いではない、と思う。だがそれにしても終盤、SFとしてじっくり考証するべきところを安易に片づけてしまった点が多いのは拙い。専門分野は異なっても互いに敬意を払っていたことが災いしたのかも知れないが、それにしても折角製作という立場にいたのだからどーしてもっと懇々とソダーバーグ監督に対してSFの何たるかを説く努力を怠ってしまったかジェイムズ・キャメロン監督よ。あの『T2』の監督であればこんな不備は残すことなどあるまいに。
 反面、惑星間航行がかなり容易く行われる未来という設定で、地球での暮らしぶりを現代とさほど変わらない形で描いているのは慧眼と感じた。一部の調度はやや未来的になっているものの、町並みの様子、レストランでの会食風景、ケルヴィンの暮らしぶりなど、やや暗いトーンで表現されているが全体的に自然で、観客がケルヴィンに感情移入しやすい環境を用意している。最近に限らず、SFというと不自然なくらいに「これぞ理想の未来」とでも言うような凝りに凝ったデザインを導入していることが多く、それが作品をいたずらにマニアックにしていることが多いと感じていただけに、等身大の未来像はそれだけでもいい着想だろう。
 SFというよりはSFのようなガジェット、ひいてはスタニスワフの原作にあるエッセンスを応用した心理ドラマであり、幻想譚と呼ぶべき作品であろう。そう弁えていれば、極めて興味深く鑑賞できると思う。とりわけ序盤から、ケルヴィンが虚構であるはずの妻の存在に執着していくくだりなどは相変わらず神がかった演出ぶりだし、SF考証の不備さえ大目に見ることが出来れば、終盤の展開もひとつの解釈として面白い。
 ――だがそれでも、レイアが最後に発する台詞は余計だったと思う。あれさえなければ、私はかなり高く評価したのだけど。

(2003/07/18・2003/12/10追記)


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