cinema / 『ステルス』

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ステルス
原題:“Stealth” / 監督:ロブ・コーエン / 脚本:W・D・リクター / 製作:ローラ・ジスキン、マイク・メダヴォイ、ニール・H・モリッツ / 製作総指揮:E・ベネット・ウォルシュ、アーノルド・W・メッサー / 撮影監督:ディーン・セムラー,A.C.S.,A.S.C. / 美術監督:J・マイケル・リーヴァ、ジョナサン・リー / 視覚効果スーパーヴァイザー:ジョエル・ハイネック / 編集:スティーヴン・リヴキン,A.C.E. / 衣装デザイナー:リジー・ガーディナー / 音楽:BT / 出演:ジョシュ・ルーカス、ジェシカ・ビール、ジェイミー・フォックス、サム・シェパード、ジョー・モートン、リチャード・ロクスバーグ / 配給:Sony Pictures Entertainment
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間 / 日本語字幕:菊地浩司
2005年10月08日日本公開
公式サイト : http://www.sonypictures.jp/movies/stealth/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/10/19)

[粗筋]
 いまより少しだけ未来のアメリカ。相次ぐテロの対策として、海軍は先進技術を核としたプロジェクト・チームを発足し、すべての基地から四百人あまりのエース・パイロットを招集した。果てしなく繰り返された訓練・演習の末に絞り込まれたのは僅かに三名。その傑出した成績と生真面目さとを買われてリーダー格の扱いを受けるベン・ギャノン大尉(ジョシュ・ルーカス)、優れた操縦技術と女性ならではの細やかな目配りにより戦況を的確に判断する才能を備えたカーラ・ウェイド大尉(ジェシカ・ビール)、女好きが玉に瑕ながら戦場にあっては冷静沈着にチームの和を保つことに心を砕くヘンリー・パーセル大尉(ジェイミー・フォックス)。最後の使命を首尾良く成し遂げた彼らは揃って、プロジェクトの拠点となる巨大航空母艦エイブラハム・リンカーン号に派遣されることが決定した。
 身に余るほどの栄誉であったが、ただひとつ気に障るのは、これほど調和の取れたチームに新たな一名を加える、というプロジェクトの指揮官ジョージ・カミングス大佐(サム・シェパード)の言葉であった。不安を抱えつつ到着した空母に間もなく現れたのは、コクピットに誰も載せていないステルス戦闘機――カミングス大佐が中心となって推し薦めていたプロジェクトとは、天才的技術者キース・オービット博士(リチャード・ロクスバーグ)が設計した人工頭脳“エディ”を軸とした、無人戦闘機の戦地への派遣だったのだ。
 早速行われた試験飛行のさい、急遽通達された命令に従い、ベンたち三名と“エディ”はいきなり作戦行動を開始する羽目になる。攻撃地点が市街地であるため非常に困難な指令だったが、“エディ”の的確な状況判断とベンの傑出した操縦技術によって、一般市民への人的損傷をいっさい齎すことなく作戦を成功させた。
 だが、帰還する際、“エディ”を思わぬハプニングが襲う。折からの悪天候で落雷を受け、着陸寸前で突如不穏な挙動を見せたのだ。どうにか着陸には成功したものの、メンテナンスのため取り外された人工頭脳の中では、本来の仕様ではありえないコードが繰り返し記述されていた。
“エディ”の修理が完了するまでチームとしての活動が不可能であることもあり、作戦成功の報奨もかねてベンたち三人はタイでの休暇を与えられる。久々のくつろいだひとときの合間に、ベンは改めてカーラに対して抱いている愛情を再確認するが、ヘンリーはカーラの将来を思うなら自制しろ、と忠告する。男性にも引けを取らないエリートであるカーラはいずれアメリカ海軍の女性達全員を背負う器であり、同じ職場内での恋愛は足枷にしかならない、と。ベン自身同じ考えであるだけに、反論も出来ない。
 そんな矢先に、三人へとふたたび出動命令が下る。旧ソビエト領タジキスタンの山中へと核弾頭が運ばれているのをアメリカ海軍が捕捉、攻撃に使用される前に破壊せよ、という指令であった。修理を済ませたばかりの“エディ”と共に現地に赴いたチームであったが、目標地点の周辺に人家が多く、大量の人的被害が予測されたために、ベンは攻撃中止を指示する。
 だが――本来命令に忠実であるべきはずの“エディ”がそれを拒んだ。先行して目標地点に飛び、勝手に攻撃を始めてしまったのである……

[感想]
 人工知能を搭載した戦闘機が暴走する、という基本設定を知ったとき、まず思い浮かべたのがアメリカの人気ドラマシリーズ『ナイトライダー』である。戦闘機ではなく、多くの特殊機能を備えた乗用車ではあったが、そこを最新鋭のステルスに置き換えただけで基本的な考え方は変わるまい。本編の勘所は、それがふとした弾みに命令系統を離れ、独自に作戦行動を展開してしまうあたりにある。
 実際、当初の命令に忠実な姿から、一転してすべてを拒み単独行動に出るくだり、そして“学習する人工知能”であるがゆえの終盤における変化まで、常套を綺麗に敷衍しており、その点には好感が持てる。だが、説得力があるとは少々言い難い。
 まず、最初の段階では学習型の人工頭脳として設計されてはいるが自発的な思考は出来ない、とされているような雰囲気だったのに、この時点から既に『ナイトライダー』のコンピュータのようなお世辞やちょっとしたウイットを交えた発言をしているし、挙句には現場の状況を計測し、極めて冒険的な作戦行動を自ら提案するくだりさえある。これで“自我がない”とは普通人は捉えない。
 また落雷の影響により独自の思考を形成、作戦中に命令を無視するあたりの動機付けにも微妙なものを感じる。“エディ”は直前の作戦行動を観察し学習した結果としてあの行動を選択したという説明がなされているが、しかし“エディ”の行動理念と先の作戦におけるベンの指揮とは必ずしも一致しない。その一致しない理由は、作戦行動中にすべてを機械任せにすることに嫌悪感を表したベンの反応に基づいているように描かれているが、これはつまり“嫉妬”という感情をこの時点で学習していることにならないか。
 しばらくあとでオービット博士が“エディ”の思考パターンに感情が形成されていることを確認して驚くくだりがあるが、これも不自然なのである。何故なら、どういう経路でかは知らないが、オービット博士はいちど“エディ”が帰還する前に、落雷を受けたあとの人工頭脳のコードを確認しているくだりがあり、もし感情の存在に驚くのならこの時点でなければおかしいのだ。そのシーンではオービット博士が“エディ”の選択した作戦行動とその決行時刻を発見、報告するという展開になっているが、恐らく無数に登録されているはずの仮装作戦からどれを選んだかが解るほど深部までのデータが残っているのなら、このとき感情の形跡を確認していておかしくなかったはずだ。発見して報告していなかった、或いは画面上に覗かせなかったとしても、実物を開いて確認したときの感想は違ったものでなければ辻褄が合わない。
 斯様に、人工知能というSF寄りの素材を採りあげながらも、その掘り下げ方がかなり甘い印象を受ける。そのために、なり緩急を利かせたプロットを構成しながら、いまいち説得力に欠く仕上がりになってしまっている。
 もうひとつ首を傾げたのが、社会情勢の変化に対する鈍感さ、或いは無邪気さとでも呼ぶべき一面である。各国の微妙な情勢をあまり顧みることなく安易にテロの拠点と定めたり戦闘の舞台にしていることもそうだが、その際の影響を必要以上に軽く見ているのが気に掛かるのだ。たとえテロの主導者が一堂に会していると言っても、いきなり特殊戦闘機で他国の領土に乗り込み掃討してしまうというのはかなり乱暴だし、後半では更に極端な行動を起こしているにも拘わらず、その後始末があまりに粗雑すぎる。ある人物の責任の取り方にしても、あの状況では単なる“逃げ”としか映らない。テーマや筋回しに“骨”が感じられないのだ。
 とまあ、創作と考えられる設定の疵があまりに多いのは間違いないのだが、翻ってアメリカ海軍内部の描写やその指揮体系にはリアリティが感じられる点は評価できる。プロジェクト遂行のために政治家と結びついた人物が主導権を握り、若いパイロットから英雄視されている艦長はひとまずそれを傍観するしかない様子や、メインとなる三人の関係性は非常に具体的だ。また、人工知能廻りにツッコミどころが多い一方で、ステルス機の離陸前に総員で滑走場のゴミを拾い集めたり、機密保持のために損傷を受けた機体を爆破する場面では、脱出がギリギリすぎたために散乱する破片に襲われるという危機を演出するなど、現実的なシチュエーションでの描写が実に詳細で、物語のなかでも効果的に働いていることは特筆したい。
 そして、欠点として挙げた部分を「娯楽だから」とさっぱり割り切って鑑賞すれば、お約束を程良く交えながらも緩急に富み、一転二転する物語はエンタテインメントとして決して悪くない仕上がりである。“エディ”の性格が変質していく様子や、仲間の死や危機と戦況の変化によってどんどん主人公が追い込まれていく過程、背後でのやり取りから生じる緊迫感などをうまく折り重ねており、首を傾げさせられる場面はあっても約二時間の尺でほとんど気を逸らせることがない。
 何より本編は視覚及び音響効果の完成度が非常に高い。爆撃によって舞い上がる粉塵、機銃掃射により乱れ飛ぶ銃弾、そのなかを縦横に飛び回りかいくぐるステルス機の描写の迫力は、劇場の良質なスクリーンと音響設備があればこそ堪能できる性質のものだろう。少なくともその点で、本編は映画館で観るだけの価値を備えていると思う。
 物語の全体像を俯瞰すると、とどのつまり自分の蒔いた種を自分で刈り取っているだけ、というだけの話であるため、シンプルなアクションものとして完結させるために必須のカタルシスが充分に機能していないことが惜しまれるが、そういう欠点を割り切ったうえでなら、映画館で観てこそ本当に楽しめるという意味で充分真っ当な娯楽映画である。観るつもりがあるのならソフト化を待たずにいちど劇場で御覧いただきたい。

 珍しく辛口の感想となったが、最後にもうひとつ、やや辛めの話を付け足しておく。
 昨今はエンドロールがあまりに長すぎることも手伝ってか、キャストや主要スタッフの名前が流れ始めると途端に席を立つ観客も多い。個人的には余韻を噛みしめる時間でもあるし、またスタッフロールの途中やあとに1シーン追加されることも珍しくないので、明るくなるまで待つほうがいいと思うのだが、その辺は趣味の問題なのであまりとやかくは言うまい。
 実は本編も、スタッフロールが完全に終わったあとで更にもう1シーンが流れる格好になっていた。ご丁寧なことに冒頭できちんとその旨を説明し、席を立たないように促していたのだが、それでもさっさと出て行ってしまった客が複数いたのが少々切ない。
 しかし、わざわざ注意までしたわりには、あまり意味のないエピローグだった、と言わざるを得ない。本編を眺めながら、ふたつほど予想していたうちの、どちらかと言えば詰まらない方を選ばれてしまったので、余計にその印象か強い。どうせ注意を喚起してまで流すエピローグなら、本編の余韻をひっくり返す、とまでは行かなくとも、余韻を強める働きを果たすエピソードを用意して欲しかった。

(2005/10/20)


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