/ 『スーパーサイズ・ミー』
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『light as a feather』トップページに戻るスーパーサイズ・ミー
原題:“supersize me” / 監督・脚本・出演(被験者):モーガン・スパーロック / エグゼクティヴ・プロデューサー:J.R.モーリー、ヘザー・ウィンター / プロデューサー:モーガン・スパーロック、ザ・コン / 撮影監督:スコット・アンブロジー / 編集:ステラ・ジョージエヴァ、シュリー・“ボブ”・ロンバルディー / サウンド・デザイン:ハンス・テン・ブローケ / 共同プロデューサー:デヴィッド・ペダーソン / アート・ディレクター:ジョー・ザ・アーティスト / モーション・グラフィックス:ジョナ・トービィアス / アニメーション・スーパーヴァイザー:ジョージ・ジョージェヴ / 音楽:スティーヴ・ホロウィッツ、マイケル・パリッシュ / 出演:ダリル・M.アイザック医師、リサ・ガンジュ医師、スティーヴン・シーゲル医師、ブリジット・ベネット、エリック・ロウリー、アレックス / 配給:KLOCKWORX×PHANTOM FILM
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間38分 / 日本語字幕:石田泰子
2004年12月25日日本公開
公式サイト : http://www.supersizeme.jp/
渋谷シネマライズにて初見(2005/02/12)[粗筋]
きっかけはひとつのニュースだった。十代の少女二人が「自分たちの肥満の原因はアメリカ中に溢れるファーストフードにある」として、某大手チェーン店を相手取り訴訟を起こしたのである。世間の反応はどちらかというと冷ややかであり、法廷においても棄却されたが、映像作家の僕――モーガン・スパーロックはその結果に興味を惹かれた。
「原告の肥満の原因がファーストフードにあるとは断定できない」
「食べ続けたのは自分たちの責任」
――果たして本当にそうなのか? 街に溢れるファーストフード店の存在と、少女たちが幼い頃からそうしたものに惹きつけられ食べ続けたこととのあいだに、因果関係はまったく存在しないのだろうか?
そこで僕はひとつの実験を試みることにした。一ヶ月間、某大手ファーストフードのメニューを三食毎日採り続けたら人間はいったいどうなるのか。さあ、準備はいいか? 僕は構わない。僕を特大にしてくれ ――![感想]
前振りのみですが、経過は説明するまでもないでしょう。その後の評判、アメリカの某大手チェーン店(本編で何遍も何遍も映像が出てくるから暈かす意味はまったくないんですけど)が「本編との因果関係はない」としながらも公開後に看板メニューであったスーパーサイズを全廃した。同時に、肥満の原因としてファーストフードチェーン店を訴えることを禁じた通称“チーズバーガー法”なるものが承認を受けたが、このふたつの出来事は翻ってファーストフードを習慣的に食べ続けることの危険性を暗に認めたと判断することも出来るだろう。無論、少女二人の訴えで表面化したこの社会的な流れの一環に過ぎないという考え方もあるわけだが、その中で本編が果たした役割も決して小さいものではなかったはずだ。
そういう事情を予め了解した上で鑑賞すると、監督自らが被験者となった実験の結果はほとんど予定調和のように映り、意外性はまったくない。だが、医療関係者の予測さえ超えるペースで悪化していく被験者の有様は、観ているこちらの想像通りではあっても衝撃的だ。日常生活に密着した撮影のためか、過剰にプライベートを明かすことを意図的に避けている形跡があるので、実験中の監督がいかな状態であるのか充分に描写されているとは言い難いのだが、それでも肉体的にも精神的にも追い詰められていく様は充分伝わってくる。肥満と気鬱については医師のひとりが最初の段階で口にしていたが、他にももっと重篤な症状が現れてくるのにただただ驚かされる。監督の恋人アレックスが、実験中の夜の生活を苦笑い気味に証言するくだりなど、生々しいだけに余計凄惨さが垣間見える。
一方で本編は、アレックスや医療関係者など監督の状態を証言する人々のみならず、少女二人の告訴に携わった弁護士はじめ外食産業の問題を指摘する研究者、更にはファーストフードと同様の問題を孕むアメリカ学校給食の現場に立ち会う人々に対するインタビューをも随所に挿入し、ファーストフード業界というよりアメリカ経済と強固に結びついた外食産業全般の問題を浮き彫りにしていく。通して観ていくと、監督の狙いは「ファーストフード店の蔓延が肥満に繋がる」などという安直な結論を出すことではなく、アメリカの社会にある外食産業への依存に対して警鐘を鳴らすことだと解るはずだ。
そう考えていくと、一発ネタのように思われるこの“人体実験”も、その実は効果を明確に意識した作戦だったと捉えられる。裁判に訴え出た少女たちにしても、外食産業の問題を扱う研究者や運動家たちにしても、共通して欠いていた“決め球”が臨床結果なのだ。“人体実験”という冒険は、この点に問題意識をまったく持たない人々の関心を惹きつける広告となり、同時にその問題点を何よりもシンプルに証明する材料となる。
自らの追い込まれていく様を時としてユーモラスな切り口で見せながらも、確実に存在する危険はきちんと立証していく。実験の過程で思いも寄らないところからアメリカ社会の食健康に対する認識の乏しさを実感させるようなエピソードも登場してくるあたり、出来過ぎという気さえしてくる。
問題解決のための具体的な提案はしていないが、たとえばとある公立学校が採用した給食のスタイルや、監督と時折顔を見せる恋人アレックスとのやり取りなどで、観客に対して何らかのスタンスを定めることを求めている。押しつけがましくなく、しかし訴えるべきことを明確に描き出す姿勢は、紛う方なき“ドキュメンタリー”のそれである。
色物スレスレの方法論を用いながら、ギリギリのところで真摯なドキュメンタリーとして成立させた“いい仕事”だと思う。一種のブームとも言えるマイケル・ムーアの諸作同様に娯楽としても成立するようにアニメーションや視覚効果も用いて工夫を凝らしているが、主張も描き方も思いの外真っ当であり、変に笑いなどを期待するとしっぺ返しを喰らいかねないので要注意。最後に、作中では語られなかった本編のその後の展開について。
一月末に発表されたアカデミー賞にて本編がドキュメンタリー部門の候補作に名前を連ねた。話題性から鑑みれば意外とも言えないが、初出が新人の発掘を目的としたサンダンス映画祭であったことを思うと驚異的な出来事である。受賞しようがしまいが、本編は充分な成果を顕したと断言して差し支えあるまい。
目出度いニュースはもうひとつ。監督は本編でも恋人として登場した女性・アレックスとさきごろ正式に婚約したそうな。やー良かった良かった。(2005/02/14)