cinema / 『サスペクト・ゼロ』

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サスペクト・ゼロ
原題:“Suspect Zero” / 監督・製作:E・エリアス・マーヒッジ / 脚本:ザック・ペン、ビリー・レイ / 製作:ポーラ・ワグナー、ゲイ・ハーシュ / 製作総指揮:ジョナサン・サンガー、モリッツ・ボーマン、ガイ・イースト、ナイジェル・シンクレア、トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ / 撮影監督:マイケル・チャップマン,ASC / 美術:アイダ・ランダム / 編集:ジョン・ギルロイ、ロバート・K・ランバート,A.C.E. / 衣装デザイン:メリー・クレア・ハナン / 音楽:クリント・マンセル / 共同製作:レスター・バーマン、ダーレン・ミラー / 出演:アーロン・エッカート、ベン・キングスレー、キャリー=アン・モス、ハリー・レニックス、ケヴィン・チャンバーリン、ジュリアン・レイス、キース・キャンベル / コロンビア・トライスター・ディストリビューターズ・インターナショナル、インターメディア・フィルムズ、レイクショア・エンタテインメント提供 / 配給:Sony Pictures
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:佐藤恵子
2005年02月11日日本公開
公式サイト : http://www.sonypictures.jp/movies/suspectzero/
有楽町スバル座にて初見(2005/03/01)

[粗筋]
 ニューメキシコ州アルバカーキの州境付近で発見された他殺死体は、後部座席から絞殺されたのち、瞼を切り取られていた。運転席で横倒しになった死体の顔のうえには、丸に斜めの線を引いた図形を記した紙片が載せられてある。転任するなりこの奇妙な事件にぶち当たったトム・マッケルウェイ捜査官(アーロン・エッカート)がデスクに戻ってみると、“Mackelway Eye's Only”と記された、アメリカ各地の行方不明者に関する詳細のファクスが大量に届いている。転任初日のときと一緒だった。
 重大な事件と判断されたのか、間もなくダラスから応援の捜査官が派遣されてきた。彼女――フラン・クーロック(キャリー=アン・モス)の顔を見たとき、マッケルウェイの胸に複雑なものが去来する。彼女はかつての同僚であり、一時期は婚約していたこともある女性だった。当然、マッケルウェイが左遷される際の経緯も、間近でつぶさに目撃している……
 ダラス支局時代はトップ捜査官にまでのし上がったマッケルウェイは、それだけに捜査にたやすく私情を挟むことはしなかった。フランと共に調査を進めると、間もなく被害者ハロルド・スペック(ケヴィン・チャンバーリン)が殺害される当夜に訪れたレストランで、新たな発見をする。錆の浮いた乗用車のトランクに詰められていたのは小学校教員のバーニー・フルチャーの死体、またしても瞼は切り取られ、一緒にあの奇妙な図形を記した紙片も収められていた。
 錆びついた自動車の持ち主は、福祉施設で暮らす人物だった。だが、その人物の話では、車は同じ施設にいたベンジャミン・オライアン(ベン・キングスレー)に譲ったという。マッケルウェイとフランが踏み込んだベンジャミンの部屋は、不気味な様相を呈していた。床から壁から一面にあの奇妙な図形が規則的に描かれ、壁にはパーツの簡略化された仮面がかけられてある。部屋の片隅に置かれたトランクのなかには、大量の付箋が貼られたアメリカの地図と共に、マッケルウェイが左遷されるきっかけとなった不祥事の新聞記事が保管してあった……

[感想]
 いわゆるサイコ・スリラー、サイコ・サスペンスと呼ばれるジャンルに当て嵌めて広告を打つとき、よく引き合いに出されるのが『羊たちの沈黙』や『セブン』である。そのくらいこの二作品は、映画界に一種の革命を齎したと言えるわけだ。本編もご多分に漏れず、「『セブン』を超えた」などと銘打っているのだが――毎度のように、そんなこと書かなきゃいいのに、と思った。
『セブン』の凄さというのは、ストーリー展開に絶妙な緩急があり、映像的にも独自の美学があって、知的にも感情的にも刺激が多いこと、その上クライマックスでは登場人物のみならず、観客までもが(その感情移入の度合い次第では)価値観を揺さぶられるような境地まで導いてしまうことにある。だが本編は、あくまで主人公マッケルウェイの問題としか感じられない、という根本的な欠陥があるために、その境地にまでは辿り着けていないのだ。何故か、というのはネタに抵触してしまうので詳述できないのだけど、基本的に限られた人間にしか起きえない出来事のために共感には至らないのがいちばんの原因だろう。その事実が序盤から明示されていれば、観客を感情移入させるところまで持って行くことも可能だったろうが、本編ではそれをかなり終盤まで秘密扱いにしているために、焦点がぼやけて共感にすら辿り着かないのだ。
 まして、この“理由”は『セブン』を引き合いに出されて期待するものとはかなり隔たっていることも忘れてはいけない。これまた詳述不能なので隔靴掻痒な表現しか出来ないのだが、途中から予測していたのと異なる方向に話が進むのは『セブン』と同様でも(従って、製作者がまるっきり意識していなかったとは言い難いのが、本編の評価を余計に曖昧にさせるのだけど)、その逸れ方が意表を衝きすぎている一方、しかし終盤がかなり早い段階で読めてしまうのが弱い。実際、私は中盤で作品の狙いに気づいたのと同時にクライマックスを察知してしまい、まるっきり同じ場所に話が落ち着いてしまったとき、かなり食い足りない感覚を味わわされ、そのままエンドロールに入ってしまったがために今度は消化不良の印象さえ感じた。
 が、冷静に振り返ってみると、『セブン』などとは比較にならないものの、水準以上の作品であることは確かなのだ。ポリシーを感じさせる映像にスピード感のある演出、テンポを弁えていて程良い尺などは『セブン』よりもこなれていると思う。シナリオ面でも、『セブン』を引き合いに出されて期待するものとは違うし結末も予想通りではあるが、テーマは興味深いし、その掘り下げ方は決して間違っていない。主要登場人物らの葛藤はアメリカの抱える大きな問題点に関するもので、やや愚直ではあるが確かに核心に触れているのだ。作中描かれる架空の理論にしても、あの結末は大袈裟すぎるとは言えその可能性を伺わせること自体が様々な病理の本質に迫っていると言っていい。
 そして、そうした葛藤をリアルに見せつけたアーロン・エッカートや、じわじわと不気味な気配を漂わせながら彼らに迫っていくベン・キングスレーの演技はかなりの迫力がある。惜しむらくは、なまじ脚本家らが極めて技巧派に属しているためなのだろう、主要登場人物らの私生活や脇役までもが必要最小限に刈り込まれてしまったためにやや深みに欠ける嫌いがあることだが、その分後ろ盾なしに苦悩や信念を体現してみせた演技は秀逸で一見の価値がある。
『セブン』を意識しているのは構造面でも確実で、そういう意味では縮小再生産という趣は否めないが、テーマの選択や掘り下げ方は正しく、演技や演出は堅実でそつのない佳作と断じていいと思う。それだけに――やっぱり『セブン』の名前を宣伝に出して欲しくなかった。ここを読んでから御覧になるつもりの方は、なるべく意識的に『セブン』を排除したうえで観ることをお薦めします。すんごいハードな要求だとは思いますが。

 ……ただ、実はあの犯人、どう考えても作中の定義から外れているので、根本的なところでミスを犯しているわけなんですけど。何がいけないのかというと(以下ネタバレのため伏せ字)→犯行を重ねるごとに共通項が失われていくという犯人像のはずなのに、冷凍室を備えた巨大なトレーラーで移動している、また被害者を埋めることの可能な広大な土地を所有しているなどなど明確な特徴が存在している←(ここまで)こと。ほか、捜査の手続きの面でも疑問点が多いので、やっぱり物足りないのも事実なのです。

(2005/03/02)


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