cinema / 『永遠(とわ)の語らい』

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永遠(とわ)の語らい
原題:“Um Filme Falado” / 監督・脚本・台詞:マノエル・ド・オリヴェイラ / 製作:パウロ・ブランコ / 美術:ゼ・ブランコ / 衣装:イザベル・ブランコ / 撮影:エマニュエル・マシュエル / 編集:ヴァレリー・ロワズルー / 出演:レオノール・シルヴェイラ、フィリパ・ド・アルメイダ、ジョン・マルコヴィッチ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ステファニア・サンドレッリ、イレーネ・パパス、ルイーシュ・ミゲル・シントラ、ミシェル・ルプラノ・ディ・スブラリオーネ、ニコス・ハツォプーロス / 配給:アルシネテラン、キノキネマ
2003年ポルトガル=フランス=イタリア合作 / 上映時間:1時間35分 / 日本語字幕:寺尾次郎
2004年04月17日日本公開
公式サイト : http://www.alcine-terran.com/main/talking.htm
日比谷シャンテ・シネにて初見(2004/05/04)

[粗筋]
 ポルトガル人の母子ローザ=マリア(レオノール・シルヴェイラ)とマリア=ジョアナ(フィリパ・ド・アルメイダ)は、パイロットであるローザ=マリアの夫と落ち合うボンベイに向かうため、地中海を渡る船に乗った。
 歴史学者であるローザ=マリアは停泊する土地土地で娘を様々な史跡へと連れて歩く。マルセイユでは夫と同じ名前の魚屋(ミシェル・ルプラノ・ディ・スブラリオーネ)と出会い、ポンペイでは噴火により埋もれた文明を偲び、アクロポリスでは演劇を研究するギリシア正教の神父(ニコス・ハツォプーロス)に導かれてアクロポリスやディオニソス劇場を巡った。マリア=ジョアナは母の言葉にじっと耳を傾け、素朴な疑問を投げかけてくる。まるで自らの知識を吸収させるように、ローザ=マリアはゆっくりとその言葉に応えていった。
 船内でのとある晩餐で、母子は不思議な光景を目撃する。ジョン・ワレサ船長(ジョン・マルコヴィッチ)とともに三名の洗練された物腰の女性達がテーブルを囲んで、自らの人生観や歴史観について静かに語り合っていた。だが、全員口にしている言語が違う。実業家のデルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)はフランス語を、元モデルのフランチェスカ(ステファニア・サンドレッリ)はイタリア語を、女優兼歌手のヘレナ(イレーネ・パパス)はギリシア語を、そして船長は英語を――という具合に、それぞれ馴染みのある言葉を使いながら、何の支障もなく会話を行っている。
 晩餐のあと、ローザ=マリアは船長に声をかけられた。明日の晩餐を彼らと一緒にどうか、という提案をローザ=マリアは「娘とふたりで過ごしたいから」と断る。だが、英語を解さないマリア=ジョアナのために慣れないポルトガル語を使って挨拶する船長の姿に、ふたりは好感を覚えるのだった。

[感想]
 現役最高齢の映画監督マノエル・ド・オリヴェイラが醸成する空気は、ほとんど類型がない。最小限のカメラワークで必要なものをすべて捉え、時として何気ない風景を十数秒に亘って撮し続ける。筋を語るような愚を犯さないかわりに、捉えどころのない台詞を淡々と連ねて、その端々に人どうしの、或いは時間と時間の繋がりを鏤める。簡単なようでいて恐ろしく難しい表現を、まったくと言っていいほどBGMを使わない静かな画面のなかでさらっとこなしているのだ。
 上の粗筋では優雅な船旅を描いているだけの話と感じられるだろうが、本質は人と歴史の関わりを僅か数日のあいだに凝縮しようという試みにある。歴史学者という視点から、まだ無垢と言っていいほど何も知らぬ娘に史跡の背景を語り、歴史を総括する。地中海を東へ、スエズ運河から南へと下っていく航程は、人々が何千年も前から戦争に明け暮れ、収奪と喪失を繰り返していたことを否応なしに実感させる。愛する家族とのバカンスのために長い船旅を続ける母子の姿は、まるで聖地を求めての巡礼のようにさえ見えてくる。
 そんなふたりに、まったく別々の言葉を駆りながら意思の疎通を図る四人の男女の姿は、一種の理想のように映っただろう。いっぽうの四名は、社会的な名声を獲得しいずれも優れた知識を備えていると自認しているが、まるで代償のように家庭を築くことには失敗しており、そんな彼らが仲睦まじい母子の様子に惹かれて近づいていく過程は、説得力がありながら実にさりげない。このあたりはもう貫禄のなせる技で、若く才能に満ちあふれた映像作家が束になっても真似が出来るものではない。
 しかし、何よりも驚きなのはクライマックスだ――静かな描写を最後まで続けたうえでの、あのあまりにも強烈な結末。ハイスピードで流れていくスタッフロールを背景に、音だけを残して静止したジョン・マルコヴィッチの表情を、観客は呆然と眺める以外に術がない。
 優しさや責任感だけでは抗いようのない現実がある、ということを訴えた物語――と断じてしまうのは簡単だ。だが、オリヴェイラ監督は台詞や映像の端々に、このラストシーンを突き抜けて何かを照らし出しうるかも知れない“光”を鏤めている。
 それは多分まだ本質の上っ面を撫でているに過ぎないのだろうが、それを理解しているのとしていないのとでは、まったく状況が異なる。はるか遠い解答を目指して、いつまでもいつまでも観客に対してメッセージを投げかけ、会話を求めようとする映画――「語る映画」という原題、「永遠の語らい」という邦題がこの上なく相応しい、熟練の技が冴える一本である。
 ……ただ、この監督の長閑な語り口は、初めての人はかなり戸惑うと思われる。安穏と眺めているとその心地よい台詞の流れに眠気を誘われることも請け合いだ。なので、御覧になる際はあらかじめ睡眠を充分にとっておくことをお薦めする。とにかく、寝不足で観ていいもんじゃありません。今回、その点は激しく後悔しております……ああ眠かった。こんな凄い映画なのに。

(2004/05/04)


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