/ 『トーク・トゥ・ハー』
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『light as a feather』トップページに戻るトーク・トゥ・ハー
英題:“Talk to Her” / 監督・脚本:ペドロ・アルモドヴァル / 製作総指揮:アグスティン・アルモドヴァル / 製作:エステル・ガルシア / 撮影監督:ハビエル・アギーレサロベ / 音楽:アルベルト・イグレシアス / 編集:ホセ・サルセド / 出演:レオノール・ワトリング、ハビエル・カマラ、ダリオ・グランディネッティ、ロサリオ・フローレス、ジェラルディン・チャップリン、パス・ヴェガ / 配給:GAGA Communications G-CINEMA GROUP
2002年スペイン作品 / 上映時間:1時間53分 / 字幕:松浦美奈
2003年06月28日日本公開
2004年02月16日DVD版日本発売 [amazon]
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/talktoher/
銀座テアトルシネマにて初見(2003/08/10)[粗筋]
愛する女性と別れ、心に傷を負っていたマルコ(ダリオ・グランディネッティ)は、恋人との破綻をインタビュアーに追求され逆上した女闘牛士リディア(ロザリオ・フローレス)の姿をテレビで目撃し、興味を惹かれて自分なりのインタビューを要請する。取材は断られたが、ちょっとした出来事がきっかけでふたりは親密となり、付き合うようになる。
だが、その幸せはある日突然崩壊した。リディアが競技中に牛に襲われ、脳に損傷を受けたために植物状態となってしまったのだ。唐突に訪れた悪夢に茫然自失とし、介護はおろか生気を失った彼女に触れることも出来ずマルコは苦悩する。
病院の廊下を歩いていたマルコは、ほど近い病室にリディアと同じ症状のまま四年間に亘って昏睡状態に陥っている女性――アリシア(レオノール・ワトリング)の存在を知り、彼女を献身的に介護する男ベニグノ(ハビエル・カマラ)と出逢い、やがて親しくなった。
ベニグノはアリシアが元気だった頃、彼女が通っていたバレエ教室の真向かいで、病身の母を長年介護していた。看護について学び、爪や肌のケアについても習熟したベニグノは、秘かにアリシアに憧れ、彼女が不慮の事故で植物状態となり、アリシアの父親が二十四時間の完全介護を求めていると知ると自ら立候補し、以来週にいちどの休日を除いて休むことなく介護を続けている、という。週に一度の休みにも、アリシアが好きだと言っていたバレエやサイレント映画を鑑賞し、その感想を眠り続けるアリシアに語りかけることに費やしているベニグノの姿は、マルコの目に不可解にも羨ましくも映った。
ベニグノに倣い、彼なりにリディアを介護するようになったマルコだったが、依然としてマルコはリディアに触れることも語りかけることも出来ずにいる。そんなある日、彼は思いがけない事実を知らされることになる……[感想]
アカデミー賞の外国語映画賞候補に挙げられ、同時に候補となっていた脚本賞を獲得した作品である。個人的にアカデミーは作品賞・監督賞よりも脚本賞に注目すべきではないか、と思っているので、はじめから期待はかなり大きかったのだが、そういう意味では裏切られない――しかし、細部では実に快い裏切りの繰り返された作品だった。
最も意外だったのは、バレエや闘牛といった画面的に美しいモチーフをあまり積極的に用いていないことだ。どちらも描写は最小限に留め、物語を膨らませ象徴的にするためのガジェットとして利用している。ほかはスペインの情景をときおり挿入しながら、あくまで目醒めない恋人に寄り添いながら、嘆き、或いは希望を繋ぎ続ける男ふたり――本当に、男ふたりのみを中心に見せている。
なのに、美しい。冒頭で「いい男」と表現されるマルコ役のダリオ・グランディネッティはともかく、ベニグノ役のハビエル・カマラは作中で自ら卑下するとおり、決して見栄えのする容姿ではない。そうしたふたりを中心として見せながら、暑苦しさもくどさも感じさせず、場面によっては彼らの姿に美しさを見てしまう。
この「美しさ」に、眠れる少女アリシアを演じるレオノール・ワトリングの完璧な肢体と、それを扱うベニグノの手際が寄与していることも触れておきたい。意志を喪い動かぬ彼女の肌を拭い、爪をととのえ、髪を切り揃える様には、なまじのセックスシーンなどよりも遥かに官能的な美しさが漂っている。この辺りの描写も冒頭はショッキングに映るが、次第に荘厳にすら思えてくる演出の巧みさはそれだけで称賛に値する。
作中、随所で登場するテロップも効いている。冒頭あたりでは「ちょっと大袈裟すぎではないだろうか」と思わされるが、これが次第に独特の効果を齎してくる。とりわけいちばん最後に画面に現れるそれは、物語が更にあとに繋がっていくことを感じさせて、描かれている以上の深みを作品に与えていると言ってもいい。
しかし、この作品でいちばん衝撃的なのは、作中作として登場するサイレント映画『縮みゆく恋人』のシークエンスであろう。ベニグノが自分を投影してしまうこの作品、アルモドヴァル監督が実際のサイレント映画に触発され温めていたアイディアを自ら形にした新作だということだが、なにせモチーフが凄い。縮んだ恋人が選んだ末路を描くためにとんでもないセットを用意していて、これが異様に生々しい。どの辺が生々しいのかは実際に画面で御覧戴きたいが……人によっては笑うと思う。
この創作サイレント映画に限らず、実は本編、細部にはやけに滑稽に感じられる描写が混ざっているのも特徴である。しかしその滑稽さが、作品のテーマが孕む切実さを助長している。はじめは笑ったとしても、あとで振り返ったときにその奥に潜む悲しさに思いを馳せずにいられないはずだ。
今回、描写に焦点を絞って感想を記したが、やはり出色なのはその脚本だろう。泣く泣く、と巷間言われるほどに私は泣けなかったが、その代わり、深く深く考え込まされた。描かれた事柄のひとつひとつが重く、観る人がどんな立場の人であってもどこかしらが確実に響くであろう、哀しくも美しい傑作である。後年に残るであろうことを信じて疑わない。なお、恋愛映画だと思って恋人同士で見に行ったりすると、相手との状態次第ではどえらいことになることが予想されるので注意されたし。だって、本編の最も重要なテーマのひとつは、「愛という名の幻想」なのだから。
(2003/08/14・2004/02/14追記)