cinema / 『テープ』

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テープ
原題:“Tape” / 監督:リチャード・リンクレイター / 原作・脚本:スティーブン・ベルバー / 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、ゲイリー・ウィニック、アレクシス・アレクサニアン / 製作総指揮:ジョナサン・シーリング、キャロライン・キャプラン、ジョン・スロス / 共同製作:ロバート・コール、デイヴィッド・リシェンタール / 撮影:マリーズ・アルベルティ / プロダクション・デザイン:スティーブン・J・ベアトリス / 衣装:キャサリン・トーマス / 編集:サンドラ・アダー / エンディングテーマ:ブレンダ・リー“アイム・ソーリー” / 出演:イーサン・ホーク、ロバート・ショーン・レナード、ユマ・サーマン / 製作:インディジェント・プロダクション / 配給:media suits
2001年アメリカ作品 / 上映時間:1時間27分 / 日本語字幕:石田泰子
2003年07月05日日本公開
2003年12月26日DVD版日本発売(アミューズソフト販売) [amazon]
公式サイト : http://www.mediasuits.co.jp/tape/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2003/07/05)

[粗筋]
 ミシガン州ランシングの安モーテル。その粗末な一室に陣取って、意味もなくビールの中身を開けていたヴィンス(イーサン・ホーク)のもとを、ジョニー(ロバート・ショーン・レナード)が訪れた。大学では映画科に進み、映画監督となっていたジョニーは、製作に二年を費やした新作が故郷であるランシングの映画祭に出品されることを期に久々の里帰りを果たし、その際にヴィンスからの呼び出しを受けたのだ。
 既にかなり酒を飲み、どうやら自分で売っているヤクを吸ってハイになっているヴィンスはやたらとジョニーに絡んでくる。いつしか話はエイミー(ユマ・サーマン)のことに及び、ジョニーは言葉を濁した。エイミーは、ヴィンスにとって初恋の相手であり、初めて付き合った女の子だった。だが、高校卒業間際にはジョニーと交際していた。ヴィンスはどういう訳か、ジョニーとエイミーが交際し始めるきっかけとなった「あの夜」のことに拘った。お前たちは「あの夜」、どんな風にセックスした?
 ヴィンスはふたりがその夜、エイミーを強引に――はっきり言ってしまえばレイプに近いやり方でものにしたのだと思い込んでいる。高校時代のことなど半ば忘れ去っていたジョニーは今更そんな昔の出来事を持ち出す旧友の態度に困惑するが、やがて今は検事補として地元の検察に勤務するエイミーを呼びだして直接詫びろ、と言い出すもので、ジョニーは憤り、焦りもした。
 多少強引な手は使ったが、レイプなどと呼ばれるようなものじゃない。ジョニーの拒絶にも関わらず、ヴィンスは執拗に追求する。あのとき、お前はいったいエイミーに何をした? あまりのしつこさに、ジョニーは遂に言い放った。「両手を捕まえて、突っ込んだだけだ」
 ヴィンスは歓声を挙げた。ビールやヤクが大量に詰め込まれた大きな鞄の中を漁り、引っ張り出したのは――テープレコーダー。テープには、ジョニーの先程の“告白”がきっちりと録音されていた。

[感想]
 密室劇もここまで来ると驚異的である。何せ安モーテル、ベッドがふたつと奥に流し、ドアから入って死角になるところに極端に小さなユニットバスがある。それだけだ。全体を見届けるのに二十歩もあれば事足りるような部屋を舞台に、たった三人の会話だけで物語を成立させている。
 しかも、進行がきちんと時制に従っている。上記の粗筋はまだ男ふたりしか画面に出てこないが、このあと一本の電話を経てユマ・サーマン演じるエイミーが登場する際、きちんと会話通りのペースで登場するのである。本編の上映時間はたった87分だが、作中の出来事もきっちりその中に収まっているわけだ。狭い舞台のなかを縦横無尽に移動するカメラワークと相俟って、臨場感が著しい。上のスタッフ一覧に「音楽」担当が記されていないことからもお解りだろうが、劇伴というものを一切省いているのも、音で迫力を強調しようとするアメリカ映画としては異色だ。
 内容はちょっと――というより、だいぶ観客を選ぶかも知れない。ぼんやりしているとどんどん会話が妙な方へと流れていって、焦点が定まらない。どんなにぼーっとしていても、後半、エイミーが加わり緊張感が最大限に達したあたりからは見入ってしまうはずだが、その手前、特に四人目のキャストとも言うべきテープが登場するまではいまいち乗りにくい。
 換言すれば、本編の着眼は正しくこの「テープ」の存在である。この作品では回想シーンの類など一切なく、物語の焦点となるべき三人の過去は、彼らの会話の断片から探るしかない。だが、観ているこちらは無論のこと、話している彼らにとってもどれが最も客観的な事実であるかは判断しがたい。その中で唯一、形となって三者の上位に君臨しうるのが「テープ」なわけだ。直接画面に登場することはなくとも、また作中再生されるのはたった一度であっても、この「テープ」は圧倒的な存在として三人、とりわけ男性ふたりにのしかかる。
 結果、何が起きるのか? 記憶は輻輳し、再生産され増幅していく。見終わったあとも何が真相であったのかは判然としない。だが、判然としないがゆえに一種の魔力のようなものを放つ。取り散らかされた憶測や事実、会話の片鱗が更に観客のなかに様々な想像や推理、憶測を齎して、果てしなく膨らんでいく。しかも、幾度も繰り返される似たような会話とその微妙な感情の変化が、いよいよ記憶の複雑さを助長していくのだ。
 自分ではかなり細かいところまで観察していたつもりなのだが、それでも取り漏らしが沢山あったような気がする。会話のみ、という組み立ては好き嫌いが激しく分かれるだろうが、一旦嵌ったら繰り返し観たいという欲求から逃れるのは難しい。異様だが不思議と爽快な余韻を残す結末も併せて、密室心理劇の端倪すべからざる名作。

 映画そのものには関係ないんだけどいちおうここに書いておこう。
 本編は全国順次公開であり、私が鑑賞したのは決して訪れている回数は多くないが妙に印象深い恵比寿ガーデンシネマ。場内完全に飲食禁止である(だから飲物は売っているけれど休憩時間内にロビーで飲まないといけない)とか厳密な整理券制であるとか基本的にロードショー作品が来ないとか理由は色々あるが、最大の特徴は、プログラムが常に懲りすぎである、という点である。
 初めて訪れた作品『プレッジ』はメモ帳サイズだが封筒入りの二分冊、わりと最近鑑賞した『ボウリング・フォー・コロンバイン』はシングルレコードぐらいのサイズの入れ物に同サイズの紙片を入れた形。そして本編『テープ』では、横にした新書判よりちょっと長いサイズの紙片の一画を22枚プラスチック製のビスで留めたもの。しかも、ノンブルは紙の表裏で続いているものではなく、1枚目が1ページと36ページ、2枚目が2ページと35ページ、3枚目が3ページと34ページ……という具合で、つまり一枚ごとに一ページずつ進み、最後まで行くとその裏から次のページが始まって最初の頁に戻る、という仕組み。これまた『テープ』という本編のタイトルを意識しての作りだろうが――最初はどうやって読むのか解りませんでした。だから懲りすぎなんだってば。
 なお、同じ恵比寿ガーデンシネマで昨年末頃に公開されていた、同じリチャード・リンクレイター監督の実験作『ウェイキング・ライフ』のプログラムも販売されていたが、そちらはポストカードサイズの入れ物に入っていたところを見ると、『ボウリング〜』と同様に複数の紙片が入っている恰好と思われる。そのくらいなら解り易いのだが。

(2003/07/05)


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