cinema / 『ぼくを(おく)る』

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ぼくを(おく)
原題:“Le temps qui reste” / 英題:“Time to leave” / 監督・脚本:フランソワ・オゾン / 製作:フィデリテ、オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ / 撮影監督:ジャンヌ・ラポワリー,A.F.C. / 美術:カーチャ・ヴィシュコフ / 衣装:パスカリーヌ・シャヴァンヌ / 編集:モニカ・コールマン / 音響ミキサー:ジャン=ピエール・ラヌォルス / スチール・カメラマン:ジャン=クロード・モワロー / プロダクション・マネージャー:クリスティーヌ・ド・ジャッケル / 出演:メルヴィル・プポー、ジャンヌ・モロー、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ダニエル・デュヴァル、マリー・リヴィエール、クリスティン・センゲワルト、ルイーズ=アン・ヒッポー、アンリ・ド・ロルム、ウォルター・パガノ、ウゴ・スーサン・トラベルシ / 配給:GAGA Communications
2005年フランス作品 / 上映時間:1時間21分 / 日本語字幕:松岡葉子 / R-15
2006年04月22日日本公開
公式サイト : http://www.bokuoku.jp/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2006/05/06)

[粗筋]
 ファッション誌の写真家として名を上げつつあったロマン(メルヴィル・プポー)はある日、撮影の途中に突然倒れた。病院で下された診断は、末期ガン。既に各所に転移しており、発生源も特定できない状態で、手術による切除は不可能になっていた。唯一の対処は化学療法だったが、身近で副作用に苦しむ姿を目の当たりにしていたロマンにとっては論じるに当たらない。
 ロマンは自らの病を、周囲に打ち明けることはしなかった。久々に家族が揃っての食卓では、以前から折り合いを悪くしていた姉ソフィー(ルイーズ=アン・ヒッポー)に辛く当たってしまい、離婚寸前で過敏になっていた彼女を嘆かせる。父(ダニエル・デュヴァル)に送られての帰り道、ロマンは過去の裏切りを問い詰めながら、父を抱擁するのだった。
 アパートには、仕事もせず居座っている同性の恋人サシャ(クリスティン・センゲワルト)がいる。会食から帰ったあと、いつものように熱烈なセックスをしたあとで、ロマンは彼に「もう淡い欲望しかない。あとは惰性だ」と言い放つ。憤り、無言でベッドを離れていく恋人の背中に、ロマンは小さく「許してくれ」と呟いた。
 精神的にも体力的にも仕事を続けるのが難しくなったため、ロマンは休暇を取った。車を向けたのは、我が子とも距離を置いてひとり暮らしをする祖母ローラ(ジャンヌ・モロー)の家。ロマンは彼女に対してだけ、自らの余生が少ないことを告白した。穏やかな態度でそれを受け止めながら、ローラが何故自分にだけ打ち明けるのか、と訊ねると、ロマンは「自分とよく似ているから。もうすぐ死ぬ」と応える。ローラはそんな言葉も寛容に受け止めるのだった。
 ローラの家からの帰途、ロマンは往路に立ち寄った飲食店のウェイトレスをしていた女性ジャニィ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)と偶然に再会する。この偶然を何かの導きと解釈したのか、ジャニィはロマンに、まったく思いもかけない頼み事をするのだった……

[感想]
 僅かな余命を宣告された人物の心情と行動とを綴る類の物語は、昔から非常に多い。最近でも『死ぬまでにしたい10のこと』というヒット作があり、敢えて題名は上げないが日本でも何本か著名な作品が発表されている。それだけに手垢のついた感が否めず、同様のテーマを掲げているだけで敬遠するような方もあることだろう。
 しかし本編は、同じ主題を選んだ作品と比べるとかなり異色である。通常、この類のドラマは死を間近に控えた人間は何かを残そうとするもの、という前提で話が進むことが多いが、本編の主人公ロマンはそうした方向へと意識が向かない。むしろ、破綻しかかった関係を、この機に乗じて終わらせ、孤独のうちに最期を迎えようとしている赴きさえある。もともと関係の悪化していた姉と更に断絶を深めるような言動に出て、同性の恋人には関係に倦んだようなことを口走り、住み着いていたアパートを出て行くように仕向ける。
 これらは死を穏やかに受け入れる、というより、死を前にしてもなお冷静でいようとするポーズを保とうとした態度と見える。病に苦しみ、死の影に惨めに怯える姿を周囲に悟られたくないがために、自分を襲う現実について口を噤んでいるように映るのだ。当初、祖母にしか病を打ち明けなかったのも、まさに彼が語っている通り、「死に近い」ところにいる彼女であれば、自分を嘲笑うことがない、と確信できるからこそだろう。誰よりも敬意を払っている人間であるから、という解釈もあるだろうが、けっきょくはひとりで死ぬ恐怖を強く覚えているから、共感できる相手を求めていたということなのだろう。
 臆病になり、周囲に対して薄めた苛立ちをぶつけるさまは、なまじ献身的に家族や愛する者へと尽くす姿より真に迫っている。本編の主人公ロマンはいささか皮肉屋の趣があるが、それでも現実に短い余生を宣告されたなら、ひとまずは彼のように怯えて過ごすしかないだろう。それを露悪的にせず、装飾しすぎずに描いている点で、まず本編は異彩を放っている。
 それから、ロマンは静かに緩やかに自らの運命を受け入れていく。その過程で特に印象深いのは、偶然に知り合ったジャニィからの頼み事だ。同性愛者であるロマンにとっては予測を超え、かつ死にゆく者にとってはある意味酷で、ある意味魅力的なこの頼み事が、否応なしにロマンのどこか独善的な性格と、それ故に際立つ死を間近にした哀しみを際立たせる。
 ロマンに対してこの頼み事をする際のジャニィの懸命さと真摯さとが、彼の気持ちを微かに揺り動かす。そんな彼を更に変化させるのが、彼の置かれた境遇を知らないはずの人々の行動と、変化だ。どれほど軋もうとそこに確実にある愛情と、どれほど悪意を持とうと揺るがせない前向きさ。そうしたものに触れることで、ようやくロマンは本当に死に対してまっすぐに向き合う。
 この、意識が一転してからのロマンの行動と、それを捉える映像の清新さは素晴らしい。姉と和解した瞬間のカメラワークの齎す静かな感動と、ジャニィからのある提案への態度を決めたあとのロマンの、心情を無理なく抑えた言動の繊細さ。相変わらず、一部の人間にしか自らが間近にした死を教えていないが、もはや切羽詰まった様子はない。静かに日常を送り、その日を迎えようとする姿は潔く映る。
 けっきょくロマンはひとりきりで死を迎える。その様子を捉えたラストシーンは美しくも象徴的であるが、しかし孤独の哀しみ、といったものは不思議なほど感じさせない。誰にも訪れるその瞬間を、心を激しく波打たせることなく受け入れた穏やかさが画面を覆う。
 ロマンの行動は、しかし最後までどこかに身勝手さを感じさせる。だが、死期を悟ったからといって、他人に配慮したり献身的である必要はないだろう。要は、自らがどう受け止めるかだけなのだ。そうした当たり前のことを、さり気なく、この上なく美しい映像で綴った本編は、主題にもその表現手法にも深いポリシーを感じさせる、優秀な映画である。
 ――但し、以上の記述からおおよそ察していただけるだろうが、本編には派手な描写は一切ない。それ故に、もともと派手なもののほうを好まれる方、眠気が著しく溜まっているような方は気をつけてご鑑賞いただきたい。

(2006/05/07)


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