cinema / 『アンダーワールド』

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アンダーワールド
原題:“UNDERWORLD” / 監督:レン・ワイズマン / 脚本:ダニー・マクブライド / 原作・出演:ケヴィン・グレヴィオー / 製作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルケシ、リチャード・S・ライト / 製作総指揮:スキップ・ウィリアムソン、ヘンリー・ウィンタースターン、テリー・A・マッカイ、ジェームズ・マッカイド、ロバート・ベルナッチ / 撮影監督:トニ・ピアース=ロバーツ、BSC / 美術:ブルトン・ジョーンズ / 衣裳デザイン:ウェンディ・パートリッジ / 編集:マーティン・ハンター / クリーチャー・デザイン:パトリック・タルポロス / 音楽:ダニー・ローナー / 出演:ケイト・ベッキンセール、スコット・スピードマン、マイケル・シーン、シェーン・ブローリー、アーウィン・レダー、ビル・ナイ、ソフィア・マイルズ、ロビー・ジー / 配給:GAGA-HUMAX
2003年アメリカ作品 / 上映時間:2時間1分 / 日本版字幕:風間綾平
2003年11月29日日本公開
公式サイト : http://www.underworld.jp/
新宿オデヲン座にて初見(2003/12/13)

[粗筋]
 歴史の裏側で、何百年にも亘って絶え間ない闘争を繰り広げる、人ならぬふたつの一族が存在した。一方は、日の光を厭い夜の闇の中で人間の喉に牙を突き立て血を吸うことで渇を癒す一族――吸血鬼=ヴァンパイア。もう一方は、月の光に獣としての本性を現す一族――人狼=ライカンスロープ。肉体能力では一歩引けを取りながら数の点で優勢を誇ったヴァンパイアたちは、巧妙な戦略でもってライカンを狩り立て、決着は間近のように思われている。それでもヴァンパイアが攻撃の手を緩めることはなかった。
 一族の処刑人としてライカン掃討の任を負ったセリーン(ケイト・ベッキンセール)は、仲間と共にふたりのライカンスロープを追って地下鉄の構内に侵入した。ライカンたちの隠れ家を探すための追跡だったが途中で気づかれ、セリーンたちは人間を巻き込みながら激しい銃撃戦を繰り広げる。その過程でセリーンは紫外線を充填した弾丸によって奪われるが、地下の何処かに存在するライカンの隠れ家の存在を感じ取った。
 吸血鬼たちが拠点とするヴィクター(ビル・ナイ)の館に帰還したセリーンは幹部に市内の調査を進言するが、ヴィクターの留守を任されているクレイヴン(シェーン・ブローリー)は、間近に迫った次期長老マーカス復活の儀式と、併せて館を訪れる予定となっているアメリア卿の歓迎を優先するべきだと言って譲らない。セリーンは仲間の遺したカメラの映像から、ライカンがひとりの男を追っていたらしいと察知して、単独でその男に接近する。
 彼の名はマイケル・コーヴィン(スコット・スピードマン)。病院に勤務するごく普通の青年だった。だが、セリーンが彼の元を訪れたのと時を同じくしてライカンが彼を襲い、セリーンは成り行きから彼を自分の車に乗せて逃走する。マイケルは脱出の途中にライカンのひとりに噛みつかれ、セリーンは襲撃の際に受けた傷が元で気を失い、コントロールを失った車は海に向かってダイヴする。マイケルはセリーンに応急処置を施したあとで失神した。
 目醒めたセリーンはマイケルを一時的にヴィクターの館に匿うが、目を離した隙に逃げられてしまう。セリーンが連れてきた「ペット」に興味を持って彼女の部屋を訪れていたエリカ(ソフィア・マイルズ)は、マイケルが既にライカンの血に犯されていると指摘した。次の月夜、まだ己を御する術を知らないマイケルは、人狼へと変貌するはずだった……

[感想]
 最近の吸血鬼は強い。というか、日光に弱いという制約が強すぎるため、意図的にそれを廃した結果、異常な身体能力ばかりが際立ってしまって単なるスーパーマンと化しているパターンが増えた。
 その点、本編は様式に則って、日光=紫外線に弱いという設定を保持している。その為に物語はほぼ全編夜の闇の中で展開しており、画面の色調は終始暗い。更に、作中途切れることなく降り続ける雨が、ロケーションに選んだブダペストの石で造られた街並と、レザーを中心とした衣裳にメタリックな色彩を与え、硬質の美しさを醸し出している。CM・MTV業界で“ヴィジュアル・ウィザード”と呼ばれた監督だけあって、独創的とは言い難いが一貫した美学を感じさせる映像が素晴らしい。
 だが、伝統的な設定に固執したのは決してヴィジュアルのためばかりではない。人狼族との抗争において、互いに一撃必殺となるアイテムを与えるための設定としてきちんと機能している。現実に小さな銃弾のなかに紫外線を発する装置を組み込むことが可能か、また液体のままの銀をこめることが出来るのか、という疑問はさておき、物語のなかできちんとキーポイントとして機能している点に、こだわりを感じさせる。
 プロットそのものも、よく練り込まれた痕跡がある。物語が進むに従って、ヒロインであるセリーンを巡る状況が劇的に変化し、終盤で繰り返し選択を迫るあたりは特に圧巻だ。
 反面、設定をやたらと作り込みすぎたために、説明不足となっている箇所が目立つ。特に、原種の鮮度を保つために三人の長老を順繰りに蘇らせるという設定が、セリーンがやむなく自分を吸血鬼にした長老を、ローテーションを破って蘇らせるまで解りにくい点は、そこに至るまでのセリーンの内的葛藤を解りづらくするばかりか、観客を困惑させる結果となっている。他にも、何故マイケルが人狼族に追われていたのか、その結果として生じる出来事の顛末がにわかに理解しづらいなど、同様の問題点は多々見受けられる。監督や製作者の頭の中には理路整然とした説明があるのかも知れないが、冒頭とラストにしかナレーションがなく、当然小説のような地の文などない映画という媒体では不親切の誹りを免れまい。
 ただ、そうした作り込みは翻って繰り返し鑑賞する際に新たな発見を齎す可能性を残しているとも言え、必ずしもマイナスと断じられないのも事実だ。有り体ではあってもよく作り込まれたヴィジュアルに、ある程度掘り下げた印象のある設定が備わっているのだから、琴線を擽られるマニアも少なからずいるはずだ。
 一見即ヴィジュアルに惚れ込むことが出来れば、麻薬的な魅力を放つ作品である。が、初っぱなに受け入れられないと感じたら、とことん厭な感覚だけ齎す作品でもあるだろう。その設定の真意や真価を問うには、既に準備段階にあるという続編の登場と完結を待たねばなるまい。

 余談。
 本編をきっかけに、レン・ワイズマン監督と主演のケイト・ベッキンセールは婚約したそうだ。めでたい話ではあるし、続編への力の入れ具合もまた変わってくるだろう、という観点から、作品に惚れ込んだ向きには歓迎するべき話題かも知れない。
 が、そのケイト・ベッキンセールの前夫であり、彼女の一女の父親でもある人物が、本編で重要な役どころを演じたマイケル・シーンだと聞くと「なんだかなー」と思ってしまう。同時に、だからあーいう決着になったのか、と変な勘ぐりをしてしまうわけで。
 ……まあ、どっちにしても知らなければどってことない話ではある。なら書くなよ。

(2003/12/16)


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