cinema / 『Vフォー・ヴェンデッタ』

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Vフォー・ヴェンデッタ
原題:“V for Vendetta” / 監督:ジェイムズ・マクティーグ / 脚本:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー / 製作:ジョエル・シルヴァー、グラント・ヒル、アンディ&ラリー・ウォシャウスキー / 製作総指揮:ベンジャミン・ワイスプレン / デイヴィッド・ロイド画によるコミックに基づく(小学館・刊) / 撮影:エイドリアン・ビドル,B.S.C. / 美術:オーウィン・パターソン / 編集:マーティン・ウォルシュ,A.C.E. / 衣装:サミー・シェルダン / 音楽:ダリオ・マリアネリ / 出演:ナタリー・ポートマン、ヒューゴ・ウィーヴィング、スティーブン・レイ、スティーブン・フライ、ジョン・ハート、ロジャー・フラム / シルヴァー・ピクチャーズ製作 / 配給:Warner Bros.
2006年アメリカ・ドイツ合作 / 上映時間:2時間12分 / 日本語字幕:雨宮健
2006年04月22日日本公開
公式サイト : http://www.v-for-vendetta.jp/
ニッショーホールにて初見(2006/04/18) ※試写会

[粗筋]
 11月5日を覚えているだろうか? 今でこそ変哲もない国民の休日程度にしか認識されないこの日は、いまから約400年前、国家転覆を目論見たガイ・フォークスが国会議事堂の爆破を計画しながら失敗に終わった日だ。国民はいまこそ、この日の意義を思い出さなければならない――
 第三次世界大戦を経て、世界情勢は激変した。アメリカ合衆国を植民地化したイギリスは、サトラー議長(ジョン・ハート)を中心とした独裁国家となり、移民、異教徒、思想家、同性愛者といった“異端者”を徹底的に排除し、街中に無数に設置した監視カメラによって全国民を監視、抑圧することで平和を強要する支配社会に変貌していた。放送内容も政府のスポークスマン代わりを務めるプロセロ(ロジャー・フラム)によって検閲や捏造が行われ、正確な情報は市民に齎されることはない。
 幼い頃、弟の死をきっかけに抗議行動を続けていた両親を政府によって奪われたイーヴィ(ナタリー・ポートマン)は、プロセロによって支配されたテレビ局に雑用係として勤めながら、息を潜めるように生活していた。11月4日の夜、このところ親しく付き合っている上司に誘われて、外出禁止令をおしてデートに赴いたイーヴィは、道中で自警団に見咎められ、襲われそうになる。だが、そんな彼女を、奇妙な人物が救った――ガイ・フォークスの顔に擬した仮面を被り、その饒舌で自警団を翻弄、驚異的な剣技で瞬く間に全員を切り伏せてしまった。“V”と名乗ったその男(ヒューゴ・ウィーヴィング)は、危険を感じて帰ると言ったイーヴィを“演奏会”へと誘う。どこかのビルの屋上に導かれたイーヴィの目前で、日付が変わると同時に展開されたのは、緊急放送を用いて流れる音楽に合わせて、さながらパーカッションのようにリズミカルに裁判所が爆破される光景だった。空には大輪の、Vの紋様を刻んで。
 いいように弄ばれた政府の憤りは凄まじかった。裁判所の爆破は政府の方針に基づくものと主張、プロセロを介してテレビ局にも同様に報じさせる方策をとる一方、自警団殺しの一部始終を記録した監視ビデオに映っていた女の行方を追わせる。優秀な刑事であるフィンチ警視(スティーブン・レイ)たちはすぐさまイーヴィを割り出し、職場であるテレビ局へと赴く。だがそこに、ふたたび“V”が出没した。
“V”は爆弾をちらつかせて電波を占拠、あらかじめ録画してあった映像を放送回線に乗せることを要求する。そして、イギリス中に流された映像のなかで、“V”は現政府の欺瞞と腐敗をユーモラスに、しかし鋭く糾弾すると、一年後の11月5日にふたたび行動を起こすことを全国民に約束する。
 テレビ局を包囲した治安維持部隊の攻勢を、あらかじめ輸送してあった小道具を用いて乗り切り脱出した“V”だったが、その途中で刑事のひとりに銃口を向けられ窮地に陥る。だが、そんな彼を救ったのはイーヴィだった――反撃に遭い昏倒した彼女を、“V”は自らの隠れ家に連れて行き、匿うことにする……

[感想]
『マトリックス』第一作の衝撃は大きかった。正統派でハードなSF的世界観をベースに、香港から流入したワイヤー・アクションを発展させ独自の手法によって未体験の映像を構築、映画ならではのヒーローを創造した点で、間違いなく画期的な作品だった。続く『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』に失望を抱いた向きも、それ故に多かったのだろう。
 だが、そもそもの第一作にしても後半の二本にしても、映像的な虚飾を取り除けば、哲学的で晦渋な台詞回しで英雄の誕生と死、そしてある共同体の再生までを極めて直線的に描いた、一種の神話を目指した作品だった。それが充分に成功しているか、万人の心に届くかはさておき、志は高く、造られる必然性はある三部作だったのだ、とわたしは思う。
 本編はアクションやVFXへの表面的な依存度を下げ、精神性をより濃縮した作品と言える。支配を無自覚のうちに行われるものとせず、権力によって享受させられる平和として描き、ヒーローの誕生を物語の“謎”として織り込み、解釈と深化とをヒーロー当人ではなく第三者的に登場するヒロインに担わせるという変化はあるが、おおまかな構造はほぼ同様だ。
 それだけに際立つのが、ヒーローの衒学的な饒舌ぶりと圧倒的な情報量、それをテンポよく物語のなかに織りこんでいく手管の巧さである。冒頭からヒロイン・イーヴィの声を借りたナレーションが記憶のなかの出来事として一連の物語の意思を語り、ついで外出禁止令のなかを出かける準備をするイーヴィと、同様に彼自身の計画の待ち焦がれた瞬間へと赴こうとする“V”の姿を交互に描く。やがて邂逅したイーヴィに、“V”は韜晦するような弁舌でもって自己紹介をし、勢いに飲まれた格好のイーヴィを彼の計画の幻想的な幕開けへと導いていく。この間の台詞と説明の多さ、しかし見事なまでのリズム感で、観客は好むと好まざるとに拘わらず作品世界へと引きずり込まれてしまうはずだ。
 また、その詳細について多くは語られないものの、“V”自身の計画の鮮やかさ自体もまた出色である。間違いなく不意を衝き演出効果を狙った最初の犯行の劇的さがそのまま次なる電波ジャックの効果を深め、一年後への長い長い布石として機能する頭脳性。包囲されたテレビ局からの脱出に用いる仕掛けもまた、有り体ながら実に巧い。この罠の組み立てそのものがまた、計画の最終段階にてふたたび意味を為してくる構造の妙についても注目して欲しい。
 一年間というブランクのあいだの出来事の選択も絶妙なのだ。国家転覆という大義を盾に自らの復讐を正当化しているかに見える“V”に反発し、彼を騙して脱出さえ目論んだイーヴィの変遷と並行して、繰り返される“V”の復讐と、フィンチ警視たちの捜査というかたちで“V”の“誕生”の過程を追っていく。そのなかで独裁社会の腐敗ぶりと、信念の重さを極めて衝撃的な演出で織りこみ、じわじわと一年後へと物語を加速させていく。この絶妙なストーリーテリングには唸らされるばかりである。
 しかし、それでも正直長い、と感じさせられることは否めない。こと、“V”の晦渋な台詞回しや、彼の過去や計画についての描写など、もう少し削ることも可能だったように見受けられる。但し恐らく、それをしたら本編は相当に味気なく、どこか魅力に欠いた作品になっていたとも想像できるのだ。このあたりの匙加減は、観るものの嗜好次第であろう。
 だがどう感じるにせよ、その意思と全篇を貫いた美学を否定出来るものはいないと思う。しかも物語は最後に、約束されたように見えたクライマックスにもうひとつの彩りを添える。あの過程を如何にも大衆受けを狙った陳腐な付け足し、と捉える向きもあるかも知れないが、だがあの部分があるからこそ、本編は単純な“復讐”の物語ではなくなる。意志を貫き、自らの“役割”に殉じるその美学がより強調されているのである。何より、あのくだりがあって、ヒロイン・イーヴィの最後の台詞が本当に力を備える。そして、彼女の言葉を背景に描かれるラストシーンは、いっそ快感を覚えるほど強烈なカタルシスに満ちている。
 いささか詰め込みすぎた要素や主題をコントロールし切れていない、と評価することも出来るし、それについては否定する言葉を持たない。だが、本編の主題からすれば、それすら狙ってのことだと捉えることも出来るように思う。混沌として存在するモノの解釈が、一様である必要はないのだ――潔いまでに自らの意志を貫くものの姿を描ききった本編は、『マトリックス』の主題をより昇華させた、快心の一作である。どう評価するにしても、一見の価値はある。

(2006/04/19)


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