cinema / 『クジラの島の少女』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


クジラの島の少女
原題:“Whale Rider” / 監督・脚本:ニキ・カーロ / 製作:ティム・サンダース、ジョン・バーネット、フランク・ヒューブナー / 原作、アソシエイト・プロデューサー:ウィティ・イヒマエラ(角川書店・刊) / 製作総指揮:ビル・ギャヴィン、リンダ・ゴールドスタイン・ノールトン / 共同製作:レインハート・ブランディグ / 音楽:リサ・ジェラード / 編集:デイヴィッド・コウルソン / 衣装:カースティ・キャメロン / 撮影監督:レオン・ナービー / プロダクション・デザイン:グラント・メイジャー / キャスティング:ダイアナ・ローワン / 出演:ケイシャ・キャッスル=ヒューズ、ラウィリ・パラテーン、ヴィッキー・ホートン、クリフ・カーティス、グラント・ロア、マナ・タウマウヌ / 配給:日本ヘラルド
2003年ニュージーランド作品 / 上映時間:1時間42分 / 字幕:太田直子
2003年09月13日日本公開
公式サイト : http://www.herald-arthouse.com/kujira/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2003/09/13)

[粗筋]
 遥かな昔、クジラに乗って民衆を新天地に導いた勇者がいた。彼の名はパイケア。
 ニュージーランドの浜辺にある小さな村に、彼の血を受け継ぐ人々が暮らしていた。その族長の家系にいま、新しい命が授かろうとしている。現族長コロ(ラウィリ・パラテーン)の期待を一身に集めた子供は双子だった――だが、片割れの男の子は母親を道連れに世を去り、残されたのは女の子ひとり。妻と子供とを同時に失った悲しみに暮れるポロランギ(クリフ・カーティス)は、父であるコロに「次がある」とあまりに無神経とも取れる慰めを受けて、逆上した。たったひとり残された娘をパイケアと名付け、以来あまり家に寄りつかなくなった。
 はじめこそ無愛想な態度を取っていたコロだったが、やがて彼なりに唯一の孫を深く愛するようになった。成長し、パイの愛称で呼ばれるようになったパイケア(ケイシャ・キャッスル=ヒューズ)を自転車で送り迎えし、戻ることの少ないポロランギに代わって大切に育てあげた。
 パイが陣頭に立って、一族の子供達で勇者パイケアを讃える舞踏を披露した夜、久々にポロランギが帰ってきた。発表は失敗に終わったものの、パイは父との再会を心から喜ぶ。一方コロはそんなポロランギに新しい妻をあてがって故郷に繋ぎとめようと画策するが、彼には既に滞在先のドイツに、妊娠した恋人がいた。コロの妻フラワーズ(ヴィッキー・ホートン)は素直に祝福するが、コロは激昂する。その夜、ポロランギは娘のパイに、ドイツで一緒に暮らさないか、と提案した。
 迷った挙句、いちどはついていく決心をして、一緒に車に乗ったパイだったが、不思議な予感に誘われるように住み慣れた我が家に戻る。だがその頃、コロは新しい発想に取り憑かれていた。村の男の子達に一族の伝統を教え、最も適性のある子供を選んで、新しい族長に祭り上げる。
 村のどの子供よりも伝統に親しみ、散り散りになった家族の絆を取り戻したいと願っていたパイは、誰よりも積極的に教えを請うが、女の子に首長の座を継がせるわけにはいかない、とコロはその参加を頑なに拒んだ。しかしパイは集会所の物陰から伝統の舞踏を眺め、かつては大会で優勝するほどの達人だった叔父のラウィリ(グラント・ロア)から密かに槍での戦闘術を学び、首長に求められる素養を着実に身に付けていく。
 ある日集会所で、新しい族長選びの最初の締めくくりとなる、伝承歌の披露の席が設けられた。コロがいちばん期待をかけていたヘミ(マナ・タウマウヌ)は納得のいく演技を披露したが、珍しく姿を現した父はヘミの出番が終わるなり悪い仲間たちと共に出ていってしまい、落ち込む。パイはそんな彼を気遣うが、ヘミは槍を手に突っかかってくる。パイはヘミを軽く負かしたが、その場をコロに見咎められて、激しく叱られる。パイは無力な自分を嘆いて、密かに涙を流すのだった……
 やがて族長選びが佳境を迎える。次なる事件の兆候に気づいている者は、まだいなかった……

[感想]
 月並みだが――ほんっとに、ニュージーランド版『風の谷のナウシカ』である。
 果たして作り手が意識していたかどうかは定かではない。現代の文明に揉まれ、衰退の一途を辿る部族とその伝統という根っこにあるテーマと、勇者パイケアを巡る伝説のディテールが、現代の民話を志すような物語の方向性と重なったとき、たまたま似たような構成を取っただけ、と解釈することも出来る。そのくらいに、筋回しが必然的なのだ。
 必然的すぎて(『ナウシカ』の前例を考慮に容れなくても)筋が読めるが、そのことは決して作品の傷とはなっていない。古い伝説と一族の存続を願う人々の物語、という骨格自体からしてオーソドックスな民話を志向しており、その意味では見事な完成度を示している。病院での出産、文明の波に揉まれる人々、自家用車やバスによる移動(電車がいっさい登場しないのは、日本人の目には却って意味深に映る)、「外では旦那を立てるけど、台所では私がボスよ」と言い切る妻の姿などなど、はしばしに現実味のある描写を交えながら、何処かファンタジックな印象を損なっていないのだ。
 もう少しライバルや明確な「敵」が存在すれば、更に緊迫感と深い感動があったようにも思うが、あまりにドラマティックすぎる展開は逆にこの物語には相応しくないような気もする。何故なら、いちばんの焦点はパイが族長を志した動機だ。作中あまり語られることはないが、冒頭でまず父・コロと子・ポロランギとの対立を描き、家に寄りつかない父に軽んじられている次男、そして我が家に子供を置き去りに遊び歩く父親に、そうした男達を内心で軽んじている女たちといった細かな描写が、一族というより村の家族ひとつひとつが壊れかかっている様子を窺わせる。終盤に起きるある事件で、ようやく結束を取り戻すかに見えた人々がふたたび散り散りになっていく様にパイが何を感じたか――そう考えていけば、彼女がパイケアになろうとした理由も、最後の行動の動機も明白だ。
 シンプルであるがゆえに力強い物語。あとはせめて、途中で挟まれる象徴的なヴィジュアルにわざとらしさがなければ、という嫌味があるが、却ってこのくらいが丁度いいのかも知れない。血腥い描写もやたら艶っぽい場面もなく、年齢を問わずに楽しめる作品であることは確かだ。

 文明に揉まれている、とは言え海と親しんできた一族の村があるだけに、景観のひとつひとつが美しく、画面を眺めているだけでも幸せな気分になれるのは、『北の国から』とか『Dr.コトー診療所』を見る感覚に近い。だが個人的には、画面のそこここに何の意味もなく猫がうろついているのがちょっと嬉しかった。パイの家で飼っているという雰囲気ではない、というのも、映る猫映る猫ぜんぶ違うのである。未舗装の道を撮していても、はじの方を悠然と歩いていたりするのが、物語とは無関係に楽しい。

(2003/09/15)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る