cinema / 『THE有頂天ホテル』

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THE有頂天ホテル
監督・脚本:三谷幸喜 / 製作:亀山千広、島谷能成 / エグゼクティヴ・プロデューサー:石原隆、佐倉寛二郎 / プロデューサー:重岡由美子、小川泰、市川南 / 撮影監督:山本英夫,J.S.C. / 照明:小野晃 / 録音:瀬川徹夫 / 美術:種田陽平 / 編集:上野聡一 / 音楽:本間勇輔 / 出演:役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、篠原涼子、戸田恵子、生瀬勝久、麻生久美子、YOU、オダギリジョー、角野卓造、寺島進、浅野和之、近藤芳正、川平慈英、堀内敬子、梶原善、石井正則(アリtoキリギリス)、原田美枝子、唐沢寿明、津川雅彦、伊東四朗、西田敏行 / フジテレビ・東宝製作 / 製作プロダクション:クロスメディア / 配給:東宝
2005年日本作品 / 上映時間:2時間16分
2006年01月14日公開
公式サイト : http://www.uchoten.com/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2006/01/14)

[粗筋]
 大晦日もあと二時間を残すのみ。だが、ホテル・アバンティの従業員たちに、過ぎゆく年を惜しむ余裕はまったくなかった。
 この年の瀬に、ホテル・アバンティでは二つのイベントが控えている。ひとつは、とある業界が年末に行うマン・オブ・ジ・イヤーの表彰式、もうひとつはカウントダウン・パーティー。それだけでもてんやわんやのところへ、汚職疑惑でマスコミに追われている代議士・武藤田勝利(佐藤浩市)が潜伏しており、情報を嗅ぎつけたマスコミが刻一刻と蝟集しつつあった。
 とりわけ、宿泊部長と副支配人を兼任する新堂平吉(役所広司)の多忙さはただごとではなかった。発注ミスで“謹賀信念”にされてしまった垂れ幕の代わりを用意するために手を廻し、着替えを盗まれた客の相談を受け、パーティーのために呼ばれた芸人の相棒であるアヒル通称“ダブダブ”捜しに奔走し……。そんななか、何の因果か、彼は別れた妻・由美(原田美枝子)と15年振りの再会を果たす。ふだんは真面目と誠実さで売っていた新堂に、このとき突然魔が差した。
 当然、忙しいのは他の従業員も同じで、ようやく仕事納めを済ませ、今日を以て退職するベルボーイ・只野憲二(香取慎吾)の送別会を終えてこれから帰ろうとしていた竹本ハナ(松たか子)だったが、手が足りないために引き留められてスイート・ルームの清掃を急遽行う羽目になる。折もおり、問題のスイート・ルームに滞在しているのは客室係のあいだで悪評の高い散らかし魔であり、開けてみれば案の定、室内は地獄の釜をひっくり返したような有様。同僚の野間睦子(堀内敬子)とともに憤然と仕事を進めていたハナにも、ふ、と魔が差してしまった。睦子が場を離れているあいだ、客室に残された宝飾品を身に付けて悦に入っていたところ、現れた耳の大きな男・板東直正(近藤芳正)にその部屋を使っている女だと誤解されてしまったのだ――
 一方、多忙な元同僚たちをさしおいて完全に自由の身となっていた只野だが、気分は決して晴れなかった。シンガーソングライターを志して20歳のときに上京したもののまるで実にならず、バイトとしてはじめたベルボーイの仕事も、いつの間にかまわりは年下ばかりになり、遂に夢を諦めて郷里に帰るための退職だったのだ。名残惜しむように、ラウンジでお茶と洒落こんでいた只野だったが、あまりの多忙さに音を上げた新堂が、急遽彼にも動員をかける。恩義のある新堂の頼みなだけに断り切れず、最後の仕事としてふたたび制服を着た彼が応対したのは、元日公演を控えた大物演歌歌手・徳川膳武(西田敏行)であった。しかしこの客がまた困った人物で、リハーサルでの失敗を嘆くあまり、只野たちに自殺するのを手伝わせようとするのである……
 芸人のアヒルと何故か総支配人(伊東四朗)が右往左往し、ホテル探偵・蔵人(石井正則)が東奔西走するなか、果たしてホテル・アバンティの面々は無事に新年を迎えられるのだろうか……?

[感想]
 限られた舞台設定と時間のなかに、複数の豪華なキャストによるそれぞれ別個の物語を綴り、それが絡みあい合流して全体像を形作っていく映画の物語様式を、1932年に製作された名作映画にちなんで“グランド・ホテル方式”と呼ぶそうだ。
 豪華キャストの共演などそんなに珍しいことではないが、個々に明確な物語、或いはキャラクター設定を用意して、過不足なく絡めていくのは容易ではない。本編はまず、その点で充分な成果を上げていることで評価できる。
 いちおう、ほぼすべての事件に容喙し、主人公と呼んでいい立場にあるのは役所広司演じる副支配人・新堂であり、それに準ずるのが松たか子演じる客室係の竹本ハナであることは間違いない。だが、このふたりが主体となるエピソードが合流するのはかなり後半の出来事であり、加えて有り体の映画のように、両者のあいだでロマンスが芽生えることもない。それぞれ別の人間とのロマンスが展開することもなく、あくまでこのふたりが演じるのは道化役なのである。
 そして彼らを中心としながら、登場するキャラクターのほとんどにドラマが与えられ、或いはきちんと個性を際立たせているのが出色だ。夢破れて東京を去ることを決意するものの、多忙さに一夜限定で引っ張り出されてふたたび制服を着るベルボーイ・只野憲二のあまりにドラマティックなひと幕に加え、汚職議員・武藤田勝利の気紛れに振りまわされる人々や、パーティーに駆り出された芸人たちの微妙な諍いに、一般には馴染みの薄い筆耕係やホテル探偵なんてものまで登場し、そのすべてが何らかのインパクトを齎すか、活躍の場を与えられている。およそ役名のあるキャラクターで、記憶にまったく残らない者はひとりもいないだろう。
 その拘りぶりゆえに、全体で一貫した物語、といったものはない。強いて言うなら武藤田議員をめぐる混乱が最もクローズアップされ、ドラマとしての盛り上がりを演出しているが、それとて盛り上がりを支えているだけで、感動を齎すのもラストに用いられる伏線も別のところにある。一貫性のあるプロットと筋の通った謎解きや大団円を求める向きには、不満の感じられるシナリオだろう。
 だが、本編は誰が主役というわけでもどれが中心の事件というわけでもなく、真に主人公として描かれているのは“ホテル・アバンティの威信をかけた年越しカウントダウン・パーティを目前にした二時間の、客と従業員とが入り乱れる大騒動”そのものなのだ。見かけ上、時としてある出来事に収斂していく伏線も、見事な脚本と演技で引き立てられた登場人物たちも、すべてこのパニックと笑い、しばしば浮かび上がってくる感動とを演出するために投入されている。
 象徴的なのは、基本ワンシーン=ワンカット、という撮影手法である。ホテルの内部を縦横無尽に動き回るカメラが、ある地点で同時多発的に繰り広げられる悲喜劇を一気に捉えていくことで、その猫の手を借りてもまだ足りない大騒動を観客に体感させる。この撮影方法によって、別々に発生していた事件が思いがけないところで合流し、驚きや笑いを巧みに織りあげていく。芸人の相棒であるアヒルを追っている探偵が、別の出来事の登場人物に遭遇するなり、ある事実を指摘して去っていくくだりなど、探偵の格好いいが場違いすぎるために醸しだす滑稽さと、その時点では観客も薄々としか感じていなかったある人物への疑惑とを同時に描いており、地味だが実に巧い。こうした手法は、カットを積み重ねていくことでリズムと映像的なセンスとを主張する通常の映画監督とは異なり、舞台での経験を礎に活動している三谷監督ならではのやり方だろう。通常の舞台では、セットも観客の視点も一箇所に留まらざるを得ないが、カメラという機動力のある視線を得たことで、いわば観客をセットのなかで引きずり回し、その混乱ぶりと事件の交錯が引き起こす悲喜劇とを見せることで、ホテル・アバンティの空気を観客に実感させる。やはり、眼目は登場人物それぞれではなく、彼らが集合したことで生み出される世界そのものなのである。
 それゆえ、登場人物すべての物語にちゃんと決着が描かれているわけではないし、逆にかなり厭な感じで締めくくられてしまっている人も多数ある。とりわけ、せっかくいい台詞を放って格好良く退場できたはずの人物が、その工夫ゆえに引き留められて、意味もなく終盤間際にちらっと顔を見せてしまう肩透かしぶりなどはその最たるものである。
 が、しかし、大半のキャラクターには、明るいかどうかはともかく、基本的に等しく転機の予兆が描かれている。何より、その締め括りにあてられたひと幕は、ささやかながら実に洒落ていて、余韻が快い。ある人物に偏って描くのではなく、ホテル・アバンティという舞台に醸成された空気を描いた作品の締め括りとして、あれ以上に相応しいものはない。
 中心となる道化役二名の起こす騒動の様式や、ベルボーイ・只野憲二をめぐる意外な出来事、芸人たちのちょっとした混乱や、コールガール・ヨーコ(篠原涼子)の容喙の仕方など、三谷幸喜作品には頻出するシチュエーションやモチーフが随所に用いられていることも含めて、実に三谷監督らしく、理想的な完成度に達したアンサンブル・スタイルのコメディである。少なくとも、これまでの三谷作品に対して何らかの興味や好感を抱いた人であるなら楽しめるはずだ。

 この映画を観て、わたしが後悔していることはただひとつ。
 本編がそのスタイルに則り、作中登場するスイート・ルームの名前を、その映画に登場する出演者の名前から戴く、という形でオマージュを捧げている映画『グランド・ホテル』を、しばらく前の深夜にテレビ放映されたとき、ちゃんと録画していたにも拘わらず、そのことに安心しきって鑑賞しないまま本編を観てしまったことである――無論直接の繋がりはないはずだ。ないはずだが、しかしなんか更に深く楽しむきっかけを外してしまったのでは、という懸念が拭えないのでありました……。

(2006/01/14)


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