cinema / 『やさしい嘘』

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やさしい嘘
原題:“Depuis qu'Otar est parti...”(オタールが旅立ったあと) / 監督・脚本:ジュリー・ベルトゥチェリ / 脚本:ベルナール・レヌッチ / 脚色:ロジェ・ボーボ / 製作:ヤエル・フォジエル / 製作補:レティシア・ゴンザレーズ / 撮影:クリストフ・ポロック / 編集:エマニュエル・カストロ / 美術:エマニュエル・ド・ショヴィニ / 衣装:ナタリー・ラウル / 出演:エステール・ゴランタン、ニノ・ホマスリゼ、ディナーラ・ドルカーロワ、テムール・カランダーゼ、ルスダン・ボルクヴァーゼ、サシャ・サリシュヴィリ、ドゥタ・スヒルトラーゼ、アブダラ・ムンディ、ゴチャ・ダルバイゼ / 配給:東芝エンタテインメント
2003年フランス・ベルギー合作(フランス語・グルジア後・ロシア語) / 上映時間:1時間42分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年10月30日日本公開
公式サイト : http://www.yasashii-uso.com/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2004/11/13)

[粗筋]
 旧ソヴィエト領・グルジアの首都トリビシで娘のマリーナ(ニノ・ホマスリゼ)と孫のアダ(ディナーラ・ドルカーロワ)と一緒に暮らしているエカ(エステール・ゴランタン)の自慢は、医師免許を取得し夢を抱いてモンマルトルへと赴いたオタール(ゴチャ・ダルバイゼ)。就労ビザなしのまま工事現場で働くオタールの生活は楽ではないらしいが、頻繁に電話をかけ時には手紙にお金を同封してくれる彼の存在は、ちょっとしたことで電気も水道も止まってしまうような不安定な情勢の街に暮らすエカにとって何よりの心の支えとなっていた。
 その娘で、ソヴィエト崩壊時の様相を目の当たりにしてきたマリーナは、男を作っても結婚したり深い恋愛関係に陥ることはせず、現在もテンギス(テムール・カランダーゼ)という男とつかず離れずの関係を続けている。エカにも頼られている孫娘のアダは、そんな母にどこか反感を抱いていて、新しい世代の代表としてインテリへの道を歩み、恋をすることもない。
 幸せ――というよりはどこか硬直した三人の関係と環境が変化したきっかけは、エカが別荘で果物狩りをしていたころに、パリでオタールと一緒に生活していた友人ニコ(ドゥタ・スヒルトラーゼ)から齎された一報だった。
 オタールが、現場の事故により急死した、というのである。
 就労ビザのなかったオタールは、所定の手続きを経て無料で共同墓地に埋葬された、という連絡を受けるが、日常生活もままならず借金を抱えたマリーナとアダの母子にはどうすることも出来ない。哀しい現実をそのまま母に伝えることを躊躇ったマリーナは、自分よりもフランス語の読み書きに堪能なアダに頼み、オタールの筆跡を真似て手紙を偽造させた。
 はじめこそ、昔は筆無精で電話ばかりだったオタールからの便りが前よりも増えたことを無邪気に喜んでいたエカだったが、生の声を聞かせてくれないことに不満を漏らす。アダもまた、終わりの見えない“嘘”をつき続けることに胸を痛め、勉強も手につかなくなる。マリーナは半ば意地になり、宝くじで当てた金を同封までしてエカを誤魔化そうとするが、エカはそんな娘の予想を超えた挙に出てしまう……

[感想]
 フランス映画という思いこみのために冒頭、率直に言ってみすぼらしい街の風景や主人公となる三世代の女性達の生活ぶりにまず驚かされた。のちのち会話の字幕によって、メインとなる舞台が旧ソヴィエト領のグルジアであり、祖母の代からのフランスびいきのため家庭内ではフランス語で会話する場面もある、という設定になっていることに気づくが、それまではけっこう困惑する。
 その程度の理解力なので余計にそう感じるのだろうが、この作品を本当の意味で楽しむにはフランス語かロシア語かグルジア語か、いずれかにある程度通じている必要があったのかも知れない。完璧に意味は理解できなくても、印象でこれはフランス語だ、と解り、これは違う言葉で話している、と察することが出来る程度でも構わないだろうけれど。そうでないと、この三世代の女性達の微妙な距離感を充分に把握できないように感じた。
 しかし、エカやその娘マリーナ、孫のアダそれぞれの感情の揺れを描く手管は、静かで言葉少なながら実に優れている。少々自己中心の嫌いはあるが息子に対する愛情を率直に示しつつ、娘に対してはやや屈折した言動を繰り返して、そのくせ日常的な所作に不思議な愛らしさがあるエカ。何かというと弟であるオタールと比較されることにうんざりしながら母を気遣っているマリーナ。双方に愛情を抱きながら、行き詰まった現状を打破しようと勉強に精を出すものの、何かというとエカに頼られる一方で母の影響からも脱しきれない自分に苛立っているアダ。それぞれの生まれ育った時代を背景に、同じものを見ながら感じるところの違う三人が、オタールの死を境にそうした相容れない部分を初めて自覚していく、その過程が静かながら鮮烈で、切なく描かれる。
 描写は出色ながら、アダ自身早いうちに訴えるとおり、こんな“嘘”が長続きするはずがない。エカの周囲を瞠目させた行動をきっかけに、オタールの死は当然の如くエカの知るところとなる――そこまでは予想の範疇ながら、本当に驚かされるのはそこから終幕までの展開である。さすがにこればっかりは直接書いてしまっては興醒めなので伏せるが、原題から跳躍した邦題がここに来て更に深みを増す。確かに母を気遣ったマリーナの嘘だが、同時に終盤を前にアダが言うとおり、その理由には自己満足的な面が少なからずあった。しかし、その嘘を知ったときにエカが最後に選んだ行動が、残されていたマリーナの利己的な感情をも払拭し、柔らかなものに変質させる。このクライマックスのやり取りが実に素晴らしい。
 そして物語は最後の最後にもうひとつ、新たな局面を示して幕を下ろす。この行動と、それを登場人物が受け入れる数分足らずの描写は、冒頭で触れた事実をきちんと把握した上でないと解りづらい。だが、この背景だからこそ、更に芳醇な余韻を作品に齎している。
 ロングショットを多用し、一場面での会話が長い悠長な展開に、特定の作曲家を起用せずおおむねBGMなしで進める静かな音響表現、終始派手な局面のない演出。全般に地味で、人によっては退屈に感じられるかも知れないが、繊細な表現と静かだが深い余韻を残すラストシーンが見事な秀作である。何より、1999年に85歳にしてデビューしたエステール・ゴランタンの愛すべきおばあちゃんぶりが作品に輝きを添えている。

(2004/11/14)


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