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『light as a feather』トップページに戻る愛をつづる
詩
原題:“Yes” / 監督・脚本・音楽監督:サリー・ポッター / 製作:クリストファー・シェパード、アンドリュー・ファイアバーグ / 製作総指揮:ジョン・ペノッティ、ポール・トレビッツ、フィッシャー・スティーヴンス、セドリック・ジャンソン / 撮影監督:アレクセイ・ロディオノフ / 美術:カルロス・コンティ / 編集:ダニエル・ゴダール / 衣装:ジャクリーン・デュラン / 録音:ジャン=ポール・ミュゲル、ヴァンサン・トュリ / キャスティング:アイリーン・ラム / ライン・プロデューサー:ニック・ローズ / 出演:ジョアン・アレン、サイモン・アブカリアン、サム・ニール、シャーリー・ヘンダーソン、シーラ・ハンコック、サマンサ・ボンド、ステファニー・レオニダス、ゲイリー・ルイス、ウィル・ジョンソン、レイモンド・ウォリング / 配給:GAGA Communications G-CINEMA
2004年アメリカ・イギリス合作 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:松浦美奈
2005年10月15日日本公開
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/yes/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2005/10/22)[粗筋]
愛の喪失は死の感覚に等しい。“彼女”(ジョアン・アレン)はと夫アンソニー(サム・ニール)の関係はこれ以上ないほどに冷え切っていた。遂に愛人を自宅に連れこむまでになった夫を疎んじながらも、外面を繕うために華やかな席にはいちおう一緒に赴かざるを得ない自分を、“彼女”はただただ空虚に思う。
“彼”(サイモン・アブカリアン)はそんな席で、ひとり淋しく佇んでいた彼女に声をかけてきたのだった。私なら美しい女性を一人きりにしたりしない、一瞬たりとも、と言う“彼”は、帰り際の“彼女”と携帯電話の番号を交換する。海外出張を挟んで再会したふたりは、情熱的なひとときを共にする。
“彼”は故国では医師だったが、ある出来事をきっかけに出奔、いまは料理人として生計を立てている。ただ、昨今の国際情勢ゆえに、中東出身の“彼”は一部の同僚からは反感を持たれており、決して安心して働ける環境ではなかった。
“彼女”と夫のあいだに子供はいないが、友人ケイト(サマンサ・ボンド)の、“彼女”が名付け親となった長女グレース(ステファニー・レオニダス)を自分の娘のように可愛がっている。だが、ケイトにしてみれば、しがない主婦である自分よりも聡明な“彼女”に娘が懐いているのがあまり愉快ではない。“彼女”もまた、お互いに好き勝手をしているだけで空虚に夫婦生活を送っている自分よりも、きちんと家庭を築き外聞を気にする必要のないケイトのほうが羨ましく思えている。友人関係でさえ、“彼女”にとっては罅の生じたものになりつつあるのだった。
ある日、“彼女”が“彼”と心地よいひとときを過ごしているあいだに、グレースが“彼女”と夫の家を訪ねてくる。迎え入れたアンソニーは、思わずグレースに対して、妻に関する不満をぶちまけてしまうのだった。後日、グレースの買い物に付き合った際にその話を聞かされた“彼女”は夫に対して不平をぶちまけるが、一方のアンソニーは冷静に、成功者である妻を持った苦しみを訴えるだけだった。
同じころ、“彼”もまた自身の来歴をめぐって職場で議論となり、フライパンを振りまわしてきた同僚に対して包丁を向けてしまったために、即刻解雇されてしまう。同僚たちの口振りから、自分たち民族に対する西欧社会の厳しい認識を再確認した“彼”は、“彼女”の知らぬあいだに重大な決意をするのだった……[感想]
“詩的な映像”とか“詩情に溢れた映画”という言い方をされる作品は幾つもあるだろうが、本当に“詩”によって構成された映画はそうそう見かけない。
本編は台詞自体が“詩”に近い発想で作られている。意味を重視した言葉遣いと演出を狙ったため、意識していないと解らないが、一定のセンテンスごとにきちんと韻を踏んでいるのだという。予めプログラムでそのことを知った私はなるべく意識して字幕ではなくもとの音を聴くようにしていたのだが、巧妙に織り込まれているようで音韻を見つけるのは決して楽ではなかった。
しかし、そうした工夫が物語全体の流れを流麗にし、まさに音楽のように観ている側に状況を染みこませている。これほど言葉の数が多いのに邪魔にならず、また一般的な恋愛ドラマの文脈で綴られれば歯が浮きそうな台詞を自然に織りこんでいるのは、言葉ひとつひとつの吟味が徹底しており、はじき出すタイミングが絶妙であるからだ。
だがその反面、聴き取りやすい台詞はその饒舌さにも拘わらず登場人物たちの感情や関係性の変化をほとんど説明しておらず、展開にいまいち理解しづらい箇所がある。粗筋の締め括りとした“彼”の行動もそうだし、ついで“彼女”の身に降りかかるある出来事がどうして“彼女”をああいう行動に走らせたのかも把握しづらい。胸中を開け拡げたかに聞こえる豊富なモノローグも、寧ろ主要登場人物たちを韜晦させているだけに感じられる。
実のところ本編は、観客を感情移入させて齎すたぐいの感動など狙っていないに違いない。それを如実に証明するのは、主要登場人物たちではなく、名も無き掃除婦たちだ。随所に複数の姿形で登場しながら物語にはまったく容喙せず、しかし作中で彼女たちだけがカメラに直接目を向ける権利が与えられており、とりわけ“彼女”と夫・アンソニーの家で働く掃除婦(シャーリー・ヘンダーソン)に至っては、登場人物たちに成り代わって背景を説明する権限すら与えられている。
彼女たちの役割はいわば、そうして突き放したように展開する物語に、カメラを意識した言動をすることによって、観客を一種神に近い立場に祭り上げることにあると考えられる。そうすることによって、観客を感動させるのではなく、出来事をより客観的に捉えさせようとしていると思われるのだ。“詩”そのものの台詞の組み立ても、そのリズム感を阻害しない巧みな演出も、真意を完全に説明しないことも、すべてそうした目的のもとに計算したうえで選んだ表現の仕方なのだろう。
主観の枠に収められていれば感動させることも憤慨させることもかなりやり易くなるが、どうしても物事を冷静に捉えることは難しくなる。しかし、ある程度超越した視点に立てば、感動を齎すのは難しくなる代わりに、全体を冷静に見渡すのは容易になる。そうすることで本編の物語に包み込んだ現実の社会の縮図と、製作者が盛り込もうとした主題を簡明に伝えやすくしているのだ。
“彼女”はアイルランドから十歳の頃にイギリスに移住している。自身はマイノリティの視点に立っているように思いこんでいるが、しかしその考え方にはとうに国際的な勝者の理論がこびりついている。一方の“彼”は度重なる戦争によって発狂したようになった祖国を離れ、愛していた仕事も捨て、自由な視点を求めて西欧社会に移住した。だが、西欧社会もまた“彼”ら民族の一部がなしたことを全体の罪と思いこんで憎悪しており、やがて“彼”もその事実を痛感するのだ。その後、“彼女”と“彼”の感情は悪循環に陥っていき、並行して“彼女”の周辺に宿る火種も密やかに曝け出されていく。そのシンプルなようでいて解き明かしにくい込み入った関係性は、そのまま“彼女”や“彼”の所属する社会の歪な状況をも象徴している。
そのうえで提示される、一見唐突なあの結末は、そうした前提からすると極めて楽観的とも感じられる。だが、ああした結末に至る根拠でさえも、掃除婦が物語の文脈に沿って簡潔に説明しているとおりだろう。起きたことはひとつとして覆せない。すべてを受け入れていけば、辿りつく箇所というのは“Yes”という単純な境地だけなのだ。それを、物語の枠のなかに存在しながら、影響を一切齎すことの出来ない掃除婦が語っているのが意義深いのである。
単純だが決して受け入れやすいとは言い難いメッセージを、格調を下げることなく、しかし平易に伝えることに腐心した本編は、間違いなく高い志に支えられた名作だと思う――が、どういう層ならば受け入れられるのか、ちょっと悩む代物でもある。本質的には、いわゆる映画好きが観て楽しむだけで済まされるのは勿体ない作品であるはずなのだけど、期待の仕方次第でかなり不満を覚えることも想像できるので。(2005/10/23)