cinema / 『妖怪大戦争』

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妖怪大戦争
監督:三池崇史 / 製作総指揮:角川歴彦 / プロデュースチーム「怪」:水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆき / 製作:黒井和男 / 企画:佐藤直樹 / プロデューサー:井上文彦 / 原作・脚本プロデュース:荒俣宏(角川書店・刊) / 妖怪キャスティング:京極夏彦 / 脚本:三池崇史、沢村光彦、板倉剛彦 / 撮影:山本英夫,J.S.C. / 照明:木村匡博 / 美術:佐々木尚 / 編集:島村泰司 / 録音:中村淳 / 音響効果:柴崎憲治 / 音楽:遠藤浩二 / 主題歌:忌野清志郎with井上陽水『愛を歌おう』 / CGIプロデューサー:坂美佐子 / CGIディレクター:太田垣香織 / 妖怪デザイン・造形:百武朋 / 妖怪特殊メイク:松井祐一 / 妖怪デザイン:井上淳哉、竹谷隆之 / 機怪デザイン:韮沢靖 / 出演:神木隆之介、宮迫博之、菅原文太、南果歩、成海璃子、佐野史郎、宮部みゆき、大沢在昌、徳井優、板尾創路、ほんこん、田中要次、永澤俊矢、津田寛治、柄本明、近藤正臣、阿部サダヲ、高橋真唯、田口浩正、遠藤憲一、根岸季衣、三輪明日美、吉井怜、蛍原徹、石橋蓮司、忌野清志郎、竹中直人、荒俣宏、京極夏彦、水木しげる、岡村隆史、栗山千明、豊川悦司 / 配給:松竹
2005年日本作品 / 上映時間:2時間4分
2005年08月06日公開
公式サイト : http://yokai-movie.com/
丸の内ピカデリー2にて初見(2005/08/29)

[粗筋]
 東京で生まれ育った稲生タダシ(神木隆之介)は、母・陽子(南果歩)の離婚で鳥取県の祖父・俊太郎(菅原文太)のもとに身を寄せた。転居から半年が近づき夏休みが近づいてもなおタダシはどこか新しい学校に馴染めず、いじめられがちだった。
 そんな彼が、夏祭りで“麒麟送子”に選ばれた。麒麟送子とは世界に平和を齎す勇者であり、そのためには大天狗の山に隠されている聖剣を抜きに行かねばならない。いじめっ子たちの揶揄に耐えかねて山まで向かったタダシだったけれど、あまりに異様な雰囲気に踵を返すのだった。
 帰るために飛び込んだバスのなかで、タダシは猫に似た妙な生き物と出会う。傷ついたそれは不思議にも人の言葉を解し、身振りで“スネコスリ”と名乗った。どうやら自分以外の人の目には見えないらしいその生き物を前に、タダシは“妖怪”というものを思い浮かべる。惹かれるように境港の水木しげる記念館を訪問したタダシは祭を取材するために鳥取を旅していた雑誌記者・佐田(宮迫博之)と出逢い、大人になったらもう妖怪を見ることは出来なくなるらしい、と言われた。
 家に帰ったタダシは、祖父の署名入りの「大天狗山で待っている」という置き手紙を見つける。ボケた祖父が事故に遭遇する場面を想像して慌てて駆けつけたタダシを待ち受けていたのは――無数の妖怪たちであった。彼の勇気を試すために祖父の名前と声を借りて誘い出した張本人・猩猩(近藤正臣)は、怯えながらも祖父のために魑魅魍魎のまっただなかへと向かおうとしたタダシを認め、川姫(高橋真唯)・川太郎(阿部サダヲ)らとともに、彼を大天狗(遠藤憲一)のもとへと導いた。
 そこへ突如襲来したのは、鳥刺し妖女アギ(栗山千明)と、屑鉄を接ぎ合わせたような異様な化物。大天狗を連れ去ろうとするアギたちに、タダシは抜いたばかりの聖剣で応戦するが、一瞬手を離れた隙に、聖剣はアギによって叩き折られてしまう。もはやこれまでか、と思ったとき、アギは何者かに呼ばれて、大天狗とスネコスリとを攫い去っていった。
 ことの黒幕の名は、加藤保憲(豊川悦司)。遥か古代から日本に存在したこの魔人は、人によって捨てられたものの怨みや呪いの念の集積である“よもつもの”を甦らせ、その力によって妖怪と捨てられたモノとを融合、破壊の限りを尽くす“機怪”に変貌させて各地を襲わせていた。対抗するための聖剣は折られ、打ち直す技術のある一本ダタラ(田口浩正)は既にアギによって囚われの身となっている。
 この危急存亡の時に、知恵者の油すまし(竹中直人)は、妖怪の総大将・ぬらりひょん(忌野清志郎)はいかな決断を下すのか。そして、いじめられっ子タダシは聖剣を甦らせ、“麒麟送子”として世界に平和を齎すことが出来るのだろうか……?

[感想]
 正しいジュヴナイルにして、正しい妖怪映画である。当たり前のことを言っているように聞こえるが、これは結構厄介な代物なのである。
 単純に子供受けを狙っただけのものは、ジュヴナイルではあっても決して正しいものではない。正しいジュヴナイルとはその子供が長じて大人になってから観ても失望を覚えず、新たな発見があるものを言うのだ、と思う。そういうものこそ名作と呼ばれる価値があり、後世にも残っていく資格がある。本編が傑作かどうかの判断はもう少し先に譲るとしても、とりあえず子供だけが楽しめる安直な作りをしていない点で、正しいジュヴナイルになりうる要素を秘めていることは間違いない。
 妖怪が出てくる作品は映画に限らず小説においても漫画においても無数に存在するが、そのどれだけが妖怪を正しく捉えているかどうか。フィクションなのだから幾らでも想像を汲み入れても構わないのだけれど、その妖怪が備えていたディテールを崩したり、妖怪であるが故の資質をなおざりにしてしまっては、“正しい”妖怪映画とは言えない。その点、本編に登場する妖怪たちは、伝えられている性格をねじ曲げられることなく、ほぼ本来の姿で描かれている。
 象徴的なのは冒頭に登場する“くだん”である。妖怪についてほとんど知識のない方にとっては単なる予兆に過ぎないだろうが、その予兆をこの妖怪が告げるのは必然と言っていい。“くだん”の性質には諸説あるが、なかでもいちばんポピュラーなのは作中で登場するような頭が人間で躰は牛、普通の牛がまれに産み落とし、何らかの予言を齎して、すぐに死んでしまう、というものである。物語の開幕を告げるのにこれほど相応しいキャラクターはいない。
 その後の、妖怪たちの動きも(妙な表現だが)実に理に適っている。とりわけ、粗筋で記したちょうど直後の出来事など、素晴らしいぐらいに妖怪“らしい”。なまじ子供向けに改竄されたがためどんどん実像から離れていった妖怪を、本来の形に引き戻すよう練られていることにただただ感心する。
 但し、そうして本義に忠実であったためにかなり苦しんでいるのも窺われ、そうした点がやもすると意表を衝きすぎて、乗りきれない観客を呆気に取るような展開に向かわせている。粗筋の直後の展開もそうだし、それを目標に向けてもういちど軌道修正させるためのアイディアなど、うまい発想ではあるがほとんどギャグすれすれだ。
 このことはクライマックスについても言える。慣れている人間は伏線からだいたい察知できるとは言え、あまりに予想外のものが想像を超えた形で事態を収拾してしまうので、真面目すぎる人だと怒り出してしまいかねない。だいたいああいう決着では、ここ最近見ないほど強烈な悪役っぷりを示した加藤保憲がいっそ気の毒ですらある。
 が、それもこれも、作品を単なる子供向けとして安易に組み立てなかったが故でもある。勧善懲悪もののありがちな筋を一切拒絶し、捻りを利かせた展開は(すれっからしであれば見抜けるけれども)常に意外な方向へと突き進んでいく。クライマックスの成り行きは観客の希望通りでないこと確実だが、しかしちゃんとカタルシスとして機能しているあたり、その計算の確かさが窺われる。
 筋としての完成度以上に、細部のお遊びで楽しませようとする姿勢が娯楽作品として好ましい形で活きている。意表を衝きまくる筋のなかに、例えば妖怪たちの会話や、最終決戦に臨むタダシたちの移動手段といったところで擽りを入れており、まったく飽きることがない。ありがちな展開だけではだれがちな中盤がこれほど楽しい“冒険もの”もちょっと珍しいだろう。
 だが何よりも本編の魅力となっているのは、看板に偽りなく、本来の主人公たる妖怪たちである。名だたる大物キャストが特殊メイクや視覚効果を駆使して、それぞれ嵌り役としかいいようのない妖怪に扮しており、誰が誰かを判断して驚き、納得するという楽しみがまずあり、それぞれが本来の特徴通りに活躍しているさまが嬉しい。クライマックスにおいて殺到する映像上何万にも見える、けれど実際の撮影でも五百を超える特殊メイクを施したエキストラを動員した妖怪たちの様子もまた、大スクリーンで鑑賞する映画ならではの醍醐味がある。
 そんななかにあって特筆すべきは、スネコスリという小さな妖怪の愛らしさと、事実上のヒロインとして登場する川姫のエロティックさである――スネコスリの可愛さは、愛嬌があるといってもグロテスクさと紙一重の妖怪たちのなかで救いとして機能するのみならず、弱虫でしかなかったタダシを奮起させるモチベーションとしても大いに役立っている。そして川姫の艶っぽさは、良識があると信じ込んでいる大人なら排除しがちであるけれど、少年が大人になっていく過程で必要な“性の目醒め”をも、実に上品に織りこんでいる点で傑出している。作中、彼女の手によって救われるふたりの少年の描き方がどれほどのキーポイントとなっているかは、物語のはじまりと終わりとを対比して考えていただければお解りになるだろう。
 個人的に、エピローグとなる箇所でもうひとつ繊細な描写を入れてくれれば完璧だと思ったのだが、その辺は作り手の微妙な判断の違いでしかない。子供に安心して見せることが出来て、しかもある程度知識のある大人が観て充分に楽しむことの出来る、優秀な“夏休み”の映画と断言しよう。休み明けに観た人同士で語り合うにも最適の一本である。

(2005/08/29)


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