大いなる光を乗せた舟が、西の空へ傾いていった。
東の空には明確な輪郭でもうひとつの舟が確認できる。
そして頭上の、暗い夜空に浮かぶ星々は地上の冷気を反映させるよう美しく輝いている。

追い続ける心は、はたしていつまで続くのだろう。

薄汚れたフードを目深に被った長身の男は、その様を見て思った。
男は貧しい身なりだったが、風貌からその人物の品の良さと気高い心が沁みだしているようにみえた。
今は泥に覆われた肌は本来透き通ったように白く、その髪はエアの虚空のように深い黒を携えている。
何より泥だらけのフードからのぞく瞳は、頭上の星々のように美しい光を湛えている。彼が母から譲り受けた、偉大なもののひとつだという者が大半だったが、ある年老いた男だけはそう言わなかった。
彼の父を仰ぎ見るときのように眩しそうな顔をして、しかし決して父の前では見せない表情をして笑う彼に、言いたいことがあったというのは否定できない事実だった。
そしていま、あの瞳にあるのは悲しみとは別の感情だろう。


「殿」
「・・・・・・。」
男の瞳が僅かに細められると、後ろから低い声がかけられた。
彼が気配を後方に向けると、男は目礼をしながら傍によってくる。男は呻くような、しかしはっきりと聞き取れる声で主に囁く。
「つい今しがた、早馬が我が陣営に到着いたしました。・・・我々は時節に遅れました」
「そうか。ご苦労だったな」

返事は簡素なものだった。
しかし男に長年仕えてきた男、オホタールはその心を占める感情を理解していた。痛ましい表情を一瞬返してから顔を引き締める。
「如何いたしますか、殿よ」
問いかけというより確認の言葉だった。
オホタールの主がはるか南の空を見上げて息を吐き出す。

凍りつきそうな厳しい寒さの残る北の大地は、もともと父のものだった。
今でもそうだといえる。
だが父はそれを否定するだろうと彼は思った。

「きまっている」
瞳にはその名と血筋の如く、美しい星々の力が宿っていた。
天空のエルベレスのようであり、ギル・エステルのようであり、ナルシルの光のようであり、今はヴァラキアカの暗い光をも飲み込んでいる。
この西方の地で、今や最も高貴な血脈を受け継ぐ者。
「いま、あなたの息子が参ります。・・・父上」

二年前の、友との約束を果たすために。




石牢の王  星々の子





「父王陛下におかれましてはご壮健のようで、私も嬉しゅうございます」
「お前にかかれば私もただの年寄り扱いだな」
苦笑して口元を覆った玉座の主に、その場に控えている者の表情が笑んだように感じた。
鍛え抜かれた近衛兵たちまでもが気を抜かすほどの大きな魅力がこの王にはある。まぁ近衛兵というのは兵の中でも特に王への忠心に溢れる者たちの中から選りすぐられているというのもあるのだろうが、この場にどんな人物がいてもこの王の表情には和むまずにはいられまいと、彼は確信していた。
そのような人物を父にもったことを何よりも誇りに思っていると告げたことはないが、自分の周りには筒抜けも同然だった。確かに彼は口に出さないまでも、それと近いことはいつも口走っていたし行動にもうつしていたのだが。
彼は父王とちがう笑みをうっすらと浮かべた。そこには照れ笑いも入っている。

「なにを仰るのか。父上を年寄りなどと思っているわけがないでしょう。それよりも父上、私に父上にお近づきになるお許しをくださいませ」
「うむ。ゆるす」
笑って答えた男の顔に、幼い子供を迎える父そのものの表情を見て彼は嬉しくなる。
玉座に繋がる階段の足元に座する執政官に目礼もせずに走りぬけ、両手を大きく開いて笑った。


「お久しぶりです父上っ!!」
おそらく王の間に控えている臣たち(それは執政官も入る)には、王太子が彼らの護るべき王にタックルをかましているように見えただろう。
だが当の王太子殿下はそんなことに構いはしなかった。父に対する親愛の情を隠そうなどとはこれっぽっちも考えていないのだ。

「最後に拝顔したときのことを覚えておいででしょうか・・・。そうです、二年前の建国祭以来ですよ!この二年間は実に長かった!私も今年で六十になりますが、思えば父上とこれほどの長き時にわたり、お会いしなかったことはなかったように思います!おかげで厳しい北の大地がより一層過酷なものに感じられましたとも!私の唯一の思いは、父上に会いたいの四語でした!なのに会いたくもない妹姫たちはフォルノストに入り浸って恐ろしい強さでエリアドールを牛耳っています!あの姫たちに父上の思慮深さと優しさが受け継がれていればあんな体育会系に育たなくてすんだものを」
「エルダリオン殿下」

彼らの王を(何故か頭から)抱きしめたまま凄まじい勢いで喋りだした男・・・エルダリオンを諌めたのは、玉座よりも低い位置に座る執政官だった。
マークの民にも劣らない金の髪を今や白いものに変えた高齢の執政官に、エルダリオンよりも玉座におわす王の方が動揺したようだった。
いつにもまして気難しげな低音の声に恐怖を感じたのだろう。
恐る恐ると息子の胸から顔をのぞかせる王の姿に、臣たちは苦笑を禁じえない。
エルダリオンも父の頭を抱えたまま後ろを振り返ると、年嵩の執政は椅子から立ち上がって厳しい表情をしていた。

「殿下。殿下も御年で耳順となられるのですぞ。この場がどのようなものか御分かりになりましょう。もっとも、解らないというならば話は別ですがっ。王も王です。礼儀知らずなバカ太子を諌めることをしないでいては、ご立派な世継ぎを得ること叶わず後々苦労いたしますぞ!」
「なっ、なんつーこと言うんだファラミア!てゆーか誰がバカ太子だ!!」
「言わなければ分からない殿下に分かりやすく断言してやったのですよ。何ですか、王の間で陛下に技カマすなんて。陛下ももうお年なのです。貴方とは違うんですよ」
「不忠者だなファラミア!父王に向かってトシだなどと無礼をのたまう輩は、私の剣の錆にしてくれよう!」
「ならばお若いとでもいうのですか。私は忠心から進言申し上げているのです。バカ皇嗣のらんちき行為に振り回されるなど、お年を召していようとお若かろうと王の御体に毒です。自粛してください」
「斬るぞファラミアー!!」
「一度痛い目を見たほうが宜しいようですな」
「素に戻らないでください殿下。言いすぎです父上。」
『黙っておれエルボロン!』

「・・・・・・・。」
「難儀だなエルボロン」
父親と年下の王太子に怒鳴られて、次代の執政は小さくため息をついた。
そしてその心情を察してやるのは王だけだ。
しかしその王も、こうなった事態を自らどうもしないでいる。
むしろ大人げもなく言い合う二人を見ながら、その顔には楽しそうな笑みが浮かんでいた。父の反対側に控えているエルボロンも、それを認めて思わず微笑みを浮かべる。その場にいる近衛兵たちにも、同様に笑みが浮かんでいた。・・・怒鳴り合う声は反響し続けているが。
しかし思わぬ形でこの戦いは中断された。

「お二人とも、いい加減にしてくださいまし。」
王の館に響いた美しい声に、流石の二人も動きを止めた。
臣たちもサッと顔を引き締めて僅かに頭をたれ、ファラミアは奥周りの宮廷に繋がる扉を向いて膝をつき、兵たちと同様に頭を垂れる。
扉から現れた姿にそれまで玉座に座っていた王が、年齢を感じさせない皇かな動きで立ちあがって王の階段を下りていった。
その顔にはこれ以上ない愛しさが見て取れる。この間にいる者全てがそうだった。
「・・・・・・。」
だが唯一エルダリオンが表情を強張らせて出口へ足を向けるが、
「ぎゃ!」
走り出そうとしたそのマントを笑顔で踏みつけたのは、あのエルボロンだった。
「何処へ行かれるのですかエルダリオン殿下。母后様にご挨拶を」
「は、放せこの鬼畜一族の末裔め!私を鬼に売る気かー!」
「まぁ、だなんて・・・。」
その様子を見て花のように笑ったのは、先ほど現れたエルダリオンの母だった。
世にも美しいその微笑を何よりも恐ろしいと感じているのは、おそらくこの地ではエルダリオンしかいないだろう。

王妃・・・アルウェンは傍に立った夫に笑いかけてからエルボロンを見て少し困ったような笑いを顔に載せた。
「有難うございます、エルボロン。私はこの子にはほんとうに手を焼いていて・・・ほんとうに、苦労をおかけします。母としての務めを果たせず、誠に恥ずかしいことなのですが」
「何を言うのだ夕星妃よ。エルダリオンの教育には私も携わってきた。もしも貴女の言うとおりだとしても、それは私の力が至らないということなのだ。断じて貴女のせいではない。それにエルダリオンは一応、もう分別ある大人なのだ。彼も久々に貴女に会えてはしゃいでいるだけなのだよ。素直になれない子だからね、照れているんだよ。」

(いや、違うと思いますよ陛下・・・)
その場にいる者全員がそう思ったが、懸命にも口に出すことは控えた。
「まぁ。エルダリオンにそのような可愛らしいところがあるなんて、なんて素晴らしいことなのでしょう。殿、わたくしはなんと幸せ者なのしょうね」
「アルウェン・・・」
王が愛しそうに王妃を見つめると、その場にいた者たちからため息が漏れた。王はそれを気配で察して苦笑する。
自分たちの惚気た場面を見せられる臣たちも、それは呆れることだろうととったからだ。
しかしおそらくそのため息の意味は、王には一生分からないことだった。

「くそう、父上は母上に騙され続けてる!」
「そうですかね。麗しい愛の形がそこに御すようにみえますが」
「お前も騙されてるんだぞエルボロン!」
「・・・・・・・。」
エルボロンが何か答えようと口を開いたが、ファラミアがそれを遮って声を発した。

「ご機嫌麗しゅう、夕星王妃様。お恥ずかしい場をお見せしてしまい、申し訳ありませぬ」
「いえ。愚息を諌めてくれる貴方は私にはとても有難い存在です。これからも息子を宜しくお願いいたします」
「御意に」
「・・・しかしアルウェン。エルダリオンは今年で60になるのだし、もうファラミアたちがかれこれ言うものではないと思うのだが・・・」
「父上!やっぱり分かってらっしゃる!」
「何を仰られるのか王よ。御子はエリアドール領内でただ剣を振るうのみで、学問を満足に学びにならない。特に歴史を敬遠しておいでなのです。ほんとうに、世継ぎがそんなことでどうしますか」
「それはいかんなぁ。歴史は大事だぞエルダリオン。私は君の母君の父上で私の養父上でもあるエルロンド卿が学問の師だったが、後々助けられることも多々あったものだよ。・・・かなり厳しかったけど」
「父上は殿をご立派に育てようとそれはもう必死でしたわ。代々の族長の中でも特に力をいれていたようです。あまりに勉強ばかりさせるものですから、兄上に及ばず、あのエレストールまでもが父上を止めたという話を聞いたことがありますもの。」
「あの頃はまだ貴女ともお会いしていなかったが、あの運命的な出会いにはその年月も必要だったのだとここのところ強く思うよ・・・」
「殿・・・」
「アルウェン・・・」


「・・・・・・。」
「父上。お二人の飛ばすラブパワーに眩暈を覚えておらずに、もっと気張って頑張ってくださいませ」
「そうだよ。何で父上が母上とイチャついてるトコを黙って見てなきゃならないんだよ」
「そりゃあ夫婦ですからね。あのお二人がイチャつかねば、貴方はお生まれになってませんよ」
「・・・・・・。ファラミア、とにかく頑張れ!」
息子と王太子に急かされて、100才を大きく越えているファラミアが重い息を吐いて立ち上がろうとする。

「ああファラミア、無理をするな」
王はそれに気づき、ファラミアの傍へ駆け寄って手を貸そうと、身を屈めてやった。
「・・・・・・。」
腕に手をかけられた方は一瞬眩しそうな、寂しそうな目で王を仰いでから、目礼をして素直に従った。
その動作にエルダリオンはどこか違和感を感じて眉をひそめた。
漠然とした不安がそこにあるようで、どうにも目を放せない。

ファラミアは王に恭しく礼を述べてからエルダリオンを振り返った。
エルダリオンは再び宿った瞳の強さにビクついた自分を叱咤しながら、その瞳を見返す。
「殿下」
その声は衰えを知らない。
エルダリオンは、そう感じた自分の思考に笑いたくなった。

自分が北方領土の領主になって20年余の年月が過ぎ、その間この苦手な執政とろくに向かい合っていなかったことを、今更ながら思い出したのだ。
エルダールの血を色濃く受け継いでいるとはいえ、なんと薄情なことだろう。
そう思ったら、今度は急に泣き出してしまいそうになる。

「殿下。殿をお呼びしたのは私です。どうぞ暫くこの地に残り、私の説教を受けては貰えませぬか。」
彼にしては珍しく短い嘆願だった。
だがそれが余計にエルダリオンの心を落ち着かなくさせた。
それに気づいたのか、ファラミアの傍に佇んでいた王が僅かな笑みを浮かべて息子に言った。
「私からもお願いしよう。そなたが心底嫌になったらば、いつでも北に戻ってもよい。しかしそれまでこの国の賢者であるファラミアに歴史や徳性を学ぶことは決して時間の無駄にはならないはずだ。そなたが益々大きくなることは私にとっても嬉しいことだから。・・・どうするかね?」
いつ言葉を遮って断りを入れられるのかと不安げな表情で見上げてくる瞳に、エルダリオンはまたもや悲しくなった。

そういえば、いつから父の背を越してしまったのだろう。
私は優しい父の大きな手に頭をかき回される、無邪気な存在でありたかったのに。
父が幼さを理由に自分の傍から離さないような、何も知らない存在でありたかったのに。
父に疑いや不安を持たせぬような、従順な存在でいたかったのに。

たとえ父が私を放そうとしても・・・。

ここでエルダリオンは自身の妙な考えに終止符を打った。
そんなことを父に望んではいない。
そんなことを父に望んではいけないのだ。

表情を隠すために俯き、なんとか苦笑の形をとる。
「父上。貴方は未だに何も分かってらっしゃらない。」
「・・・?」
「私が、貴方の言葉に背けましょうか。もちろん、お言葉の通りにいたしますとも」
「・・・有難う。エルダリオン。」
嬉しそうに笑う父王の姿にエルダリオンの顔にも笑みが浮かぶ。
ファラミアにも目を向けると、あの気難しい執政官がとても穏やかな表情でこちらを見ていた。
コイツもたまにはまともな顔を自分に向けられるのかと思ったとき。

その光景が脳裏に浮かんだ。
鮮明で、明確な映像で流れてくるものは、エルダールの血を嫌でも知覚させられるもので・・・。


「どうしたんだエルダリオン!?」
いきなり泣き始めた息子の姿に、王は驚いて声をあげた。
エルダリオンは涙を流しながら強い力で彼を引き寄せ、腕の中に抱き込む。
「どうした、気分でも悪いのか?悪かったな、長旅のあとなのに手間を取らせてしまって・・・」
自分を抱きしめる腕が震えているのに気が付いて、王は腕を回して背中をさすってやった。

「お久しぶりです、父上」
「?うん・・・、おかえり」
首を傾げながらも背中をさすってくれている、その手は昔と変わらない。
「・・・私の帰る地は、ここなのですね」
鼻をすすって笑うと、王は即答できなかったようだった。
しかしその理由は王よりもエルダリオンの方が、その場にいる者たちの方が、充分に理解しているのではないかと思われた。

「お前の故郷は、ここだよ」
強く優しく告げたその声に、エルダリオンは父を思って笑った。
父王は息子の身体を抱きしめて目を閉じた。
その後ろでは夕星王妃が哀愁に満ちた表情で二人を見守っている。
ファラミアも普段よりも幾分か暗い表情で目礼をしている。
唯一エルボロンだけが外見の上では平静を保てていた。


「父は、お前に会えて嬉しいよ」
強く迷いのない声に、エルダリオンは腕に力を込めるのを止められなかった。

そして父を思って、泣いた。








時はゴンドール暦80年、エレスサール王の御世。
西方には平和な日々が訪れ、エンヴィンヤタールはその名の如き偉業をなしていった。
旅の仲間であり、最後の指輪所持者サムが西へ旅立ってから二十年の年月が流れようとしている。
エレスサール王と共に轡を並べたローハン王は既に亡く、トゥック家のセイン・ペレグリンも、ローハンの騎士ホルドヴィネももはや旅立ち、帰ることはない。

そしてまた一つの永遠の別れが、彼の王の目の前に横たわっていた。









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