|
私は、恐ろしくてたまらないのだ。 『父上。北へ帰して頂きたく、参りました』 「・・・何故?」 『北が懐かしく思いますから。明日にでもミナス・ティリスを発とうと思っています。』 「・・・随分と慌しいな。」 『いえ、実は前から決めておりました。すでにファラミア卿の許しも得ております。』 「・・・北の大地に、まだ緑はあるか?」 『はい。当たり前でしょう。ささやかな潤いは消えずに生きています。』 「そうか・・・。」 『父上。北の大地は父上と母上の故郷です。しかしお二人の魂が住まう場所はこの地でしょう?』 「私は逆に感じるよ。おまえに、・・・子供たちに対する負い目も感じる。」 『父上・・・。父上は嘆いてばかりおられるが、エルダリオンは父上と夕星の光りから生まれたことを苦く感じたことはございません。私は私なのです。父上がいて、母上がいて、エルボロンやファラミアにイビられ、妹たちと喧嘩をし、オホタールに苦労をかける。それが私です。』 「だがいま挙げた名は、お前より先にいなくなるだろう。」 『何を当たり前なことを。もちろん肉体は失われましょう。』 「・・・お前も永遠を否定するか?」 『父上お得意のマイナス思考と一括りにしないで頂きたい。』 「・・・・・・・・・・。」 『何のために現世において人の子が脆く作られたのか、エルに問い質せば良かろうと思います。』 「・・・私の息子は恐れ多いことを軽々と言うな。」 『はい。恐れ多くも言わせていただきます。しっかりしろよバカ親父!!』 「・・・・・・・・・。」 『夢ばっか見てねーで現実見ろ!!アンタがそう言うたんびにあのクソ執政官はますます弱ってくんだ!!わかったら前見てしゃんとしろ!!』 「・・・・・・エルダリオン・・・。」 『死を前にした者は、無様だとでもお思いなのか?』 「・・・誰がそんなことを言った・・・」 『・・・・・・すみません。でも、・・・ああ、まったく。貴方たちに無礼をはたらくような真似させないでくださいよ嫌になるなぁ。』 「エルダリオン。・・・私は、どうすればいいのだろうか。」 『父君はいつから息子に教えを乞う君主になったのですか』 「私は、お前たちに、周りの者たちに教えられるばかりだよ・・・。」 『・・・・・・。まぁ、私は父上のそのようなところを愛しく思うのですがね。・・・どうか彼と向き合ってやってください。彼には時間がないのです。お分かりでしょう?』 「・・・・・・・・・。」 『それと、父上のご事情をよく知りもせずに無礼を働いて申し訳ありませんでした。しかし、どうかご理解ください。私はファラミアを見捨てることは出来なかったのです。・・・約束しましたから。』 「約束?」 『はい。破ってはいけない約束です。』 ・・・エルダリオン、助けてくれ。 それから二年後。 最後を迎えるにしては質素な部屋には、二つの影しか見られない。 この国の王と執政だった。 重厚な扉の前で物悲しい風景画のように立ち尽くす王は、頭の中でこの数十年間を振り返り、特にこの二日間を反芻していた。 身体は動かない。 しかし崩れ落ちてしまいそうな震えが全身を襲っているわけでもなかった。 そこに横たわっているのは、逃れえぬ死を迎えた老人だった。 寝台に横たわる老人は、いつかの記憶を思い起こさせる。 王が、今や老人と成り果てた男と初めて見えた場面を・・・。 彼は高熱にうなされ、闇にその身を蝕まれようとしていた。 彼の顔を見た瞬間、更に昔の記憶が蘇ったものだ。 そしてこの世におかれた、過酷な運命を享受するしかない者たちを思った。 この石の都の、空の玉座を見上げるしかなかった一族を思った。 私は、私たち北の血脈は、・・・・・・・そう。 ・・・見捨てたのだ。 そして私はいま。 私を支えた彼さえも見捨てようとしているのだろうか。 石牢の王 〜秤のうえの約束〜 昨日。 彼の執政はいつものように嫌味たらしい口調と共に執務室に入室してきた。 これまたいつも通りにしぶしぶと書類を眺めていくと、どうやら今日の事務仕事は北方王都の再建と更なる発展に関する事のようだった。 (・・・エルダリオンは元気かな) 少々苦い別れ方をした息子の顔を思い浮かべて、優しい笑みを浮かべる。そんな王を見つめるファラミアの表情もどこか柔らかいものになった。 (・・・あれ?) 暫くして王は書類の束の最上段にある書類を数枚めくり、眉をよせる。 チラリと視線をファラミアにやると、彼はゆっくりとした動作で王に背を向けるところだった。 台車上の書類を纏めている様を見やりながら、控えめに声をかける。 「・・・ファラミア。フォルメノスの再興作業の修正案の書類、肝心なところが抜けているようなのだが・・?」 それを聞いたファラミアはいま思い出したように「あぁ、」と言ってから振り返った。 そして今日。 城内は慌しく、その動きは王城だけでなく各地域にまで及んだ。 情報の伝達はこれ以上ないほどに素早く、その日の夕刻までには国中の者がミナス・ティリスの方角を不安げに見やっていることだろう。 情報の内容は簡潔ながらも重いものだった。 すなわち、執政官の危篤である。 だが、王は一人で執務室にいた。 一日中、執務室で椅子に座っていた。何を考えているわけでもない、悲しみも怒りも喜びも期待もない無の表情が、その日の王の顔に張り付いていた。 王位に就いてからの数十年間、執務机に書類が並ばなかったことは一度もない。しかしその日、彼の机に羊皮紙が置かれる事はなかった。歳を感じさせない優麗な動きで毎日の書類を運んできた執政は、いまや床に伏していたのだ。 傾いてきた晩秋の陽光りが絨毯を照らすなか、王は一人椅子に座り続けた。 テラスで小鳥が鳴いている。衣替えを始めた木々は静かな風に揺られて何事か囁いている。 今ごろ、白の木も銀色の実をつけているはずだ。しかし王はこの月にあの木を見に行ったことはなかった。 初めて実をつけた苗木を嬉しそうに見上げ、珍しく、子供のように無邪気に笑った彼。 『テルぺリオンの恩寵のようです』 そう言った彼は、いまこの部屋にいない。 おそらく、正面の重々しい扉を開ければ侍女たちや薬師が駆け回る姿と出くわすのだろう。 城中が何かに縋り、手を合わせる様と出くわすのだろう。 そうだ。 木の扉を一枚隔てた向こうでは、違う世界が待っているのだ。 そこでふと、机の上を見る。 この漆の塗られた重厚な机の表面を見るのは、なんと久しぶりな事だろう。零れたインクにまみれた手と羽ペンによって付けられた痕があって、じかに書類を置けずに王妃が作ってくれた下敷きを置かないと仕事が出来なかった。いつも紙が散乱していて、居眠りのためのクッションをその上に置いて寝ていると、いつのまに入ってきたのかエルボロンが「父に叱られますよ」とグシャグシャになった書類をなおして起こしてくれた。いまあの下敷きやクッションは何処かに片付けられ、そして・・・。 (・・・私は何故、ここでこうしているのだろう) 改めて広い部屋を見渡す。 仮眠用の寝台は国王の使用する物とは思えないほど質素だ。そのことをよく彼に注意された。 部屋に敷き詰められた豪奢な絨毯には眼で確認できる汚れが沢山残っている。昔、彼の皇子の遊び場だったものをそのまま使用しているからだ。これにも彼はいい顔をしなかった。 出窓に置かれた花瓶は、花を愛する彼がいつも水を換え、美しい季節の花をさしてくれていた。彼が花を好きな事を王子はからかいのネタにしていたが、不思議と王だけは違和感なく感じていた。 いま、あの花瓶には昨日と同じ水が入っている。 王はそこまで考えて初めて椅子から腰を上げた。何枚にも重ねられたエルフ風の王衣だったが彼は音もなく花瓶のところまで歩いていく。 出窓から差し込む光りは、執務机の後ろのテラスに近づく大窓よりは幾分か弱く感じられた。 優美な花瓶は、エルフの友が王に贈ったものだった。 彼の執政は。 ・・・ファラミアは、その花瓶をとても気に入っていたようで、朝やって来ては嬉しそうに花瓶の水を替えていた。いつだったか「貴方にそんなことをさせるのは申し訳ないな」と告げたらば、彼は憮然として「私の生きがいを、そんなこと呼ばわりですか。心外です」と口を尖らせたものだ。 彼は昨日、まだ花開かぬ、つぼみの膨らんだ花を刺した。まだその花が何色なのかはっきりとしない。 黄色に見える。だが白にも見える。ひょっとして、赤なのだろうか? 王が花瓶の淵に触れると冷たい感触が指に伝わった。 (・・・私は何故取り乱さないのだろう) それが一番不思議なことだった。驚くほど彼の心は穏やかだ。 自分でもまったくわからないことが益々混乱を招く。 先ほどまで膝の上で握り締めていた腕を見た。力の限り握っていたから、きっと血が滲んでいるだろうと思っていた掌は、だが汗の一つも見られなかった。 (いつまで、ここでこうしているつもりなのか) 光りが執務机に差し込んで、高価なニスの艶はそれを反射している。 初冬の光りは攻撃的だ。 「・・・・・・・。」 常ならば目に痛い光りだったが、王はまったくの無表情だった。 空はどこまでも青く、吸い込まれそうな高度でもって光りを注いでいる。 そんなところで天と自分との有り余る違いを知る。 (行かなくて、いいのだろうか) 自問しても答えを返す者はいない。自分で答えを出せないから、自分に聞いているのだ。答えを知りたいわけではない。・・・本当は、答えなどとうに分かっているのに。 「陛下」 ふいに、それまで人の声など聞かれなかった部屋に低い声が響いた。 王が驚きもせずにゆっくりと声の方を向くと、いつの間に入室したのかエルボロンが控えている。その後ろには彼の嫡子であるバラヒアが頭をたれていた。その肩が僅かに震えているのを見て、王は初めて自分の背中に伝う汗に気付いた。 エルボロンが僅かな王の表情に気付いたのか、畏まったまま膝をついて頭を垂れた。その顔は平静を装っていたが、内心の不安はどうしても拭えない。 「陛下。父が殿の御名を呼んでおります。・・・御越し願えますでしょうか」 「わかった」 返事をして長いマントを翻す。 王の返事は力強かったが、エルボロンには乾いた音にしか聞こえなかった。 感謝の言を述べて頭を下げながら、息子を率いて王を案内する。バラヒアは涙ながらに王に何度も感謝の言葉を述べ、王もそれにいちいち対応している。 石の廊下に出ると、ヒヤリと冷たい風が顔を撫でた。王はその感触に眉を顰め、浅く息を吐き出す。 その足取りはしっかりしたもので、不安定なところなど微塵もないようにバラヒアは感じた。バラヒアはそのことで心配していた事の一つが解消されたように思った。 しかしエルボロンは。 彼は、父親の部屋にたどり着くまで、とうとう王の顔を仰がなかった。 + + + + 人払いがすまされた部屋に、ファラミアの苦しそうな息遣いが響いている。 光の刺激を与えないよう暗い幕の張られた部屋は重々しい空気で、王をひどく不安にさせた。元より、暗闇は好むべきものではない。 そしてこんな場所で横たわるファラミアを酷く不憫に感じた。 そこまで考えて、顔を上げる。 部屋の中心に置かれた寝台に、年老いた執政がいる。 彼はいま、高熱におかされていると聞いた。今夜が峠だと言った医療長は、涙を流して退室していった。執政の親族たちもだ。 自分から姿を表さなかった彼らの王を、彼ら自身はどう感じたのだろう。 そして、彼の執政は・・・。 (・・・一本調子に黒い服を纏った私を、死神だと思うのではないかな) こんなことを考えていいわけがない。だが王はぼんやりとそんな思考に取り付かれた。 王と執政だけが、ここにいる。 「・・・・・・。」 王はなるべく音を立てないよう気をつけながら一歩を踏み出した。 シャラ、とマントが音を立てたことに彼は気付かない。一歩を踏み出せば簡単なもので、足は自分の思考と関係なく動いてくれた。その点で見ると、ある意味非常に厄介な作業ともいえたのだが。 寝台まで近づき、ファラミアの様子を見下ろすと、彼は薄く眼を開けた。 彼は目の前にいるのが王だと気付くと、時間をかけてだが、柔らかく微笑む。王はその表情に自分の胸が痛むのを隠せなかった。 寝台のすぐ横に片膝を着き、精一杯の微笑を返す。 上掛けから出ている細い両腕を布団の中に戻そうと手を伸ばすと、ファラミアは驚くほどの強い力で王の手を握った。 弱りきっているとは思えないその力に、王は僅かな困惑の色を瞳に張り付かせてファラミアを見下ろした。 自分の手を握り締める掌は汗をかいていて、燃えるように熱い。・・・そういえば高熱を出していると医療長が言っていたような気がする。 「ファラミア・・・熱いのか?しかし、そのままでは身体に悪い・・・」 「いえ。」 すぐさま帰ってきた否定の言葉に、王は瞬きをした。 その様に苦笑してファラミアは目を閉じる。 「いえ・・・。・・・凍えるような寒さです。老衰も、それほど安らかというわけではないものなのですね」 「・・・私は、寒いのは平気だ。慣れてる。」 的外れなことを言っているということは重々承知している。 しかし王の口から出たのは的外れなことだった。 ファラミアは笑って天井を見上げた。 「私は苦手ですよ。南は比較的暑いものですから・・・。しかし、貴方も南の冷えにはとうとう慣れてはくれませんでしたね」 「・・・・・・。」 苦笑して王を見ると、王はどう答えてよいのか分からないといった表情で、ファラミアを見下ろしている。 眉をハの字にしている王を見上げてファラミアが再び笑う。その笑みには隠れた自嘲の色があった。 「なに、責めているわけではございませぬよ。貴方はゴンドールの王だが、北方王国の統一者でもある。貴方の脈は何処にでもある。・・・喜ばしいことです」 黙って聞いていた王だったが、心の中は穏やかではなかった。 疑問が頭の中で渦巻いていた。 そうだろうか? 本当にそうだろうか? 何故ファラミアはそう思うのだろうか? 混乱することを繰り返す王に、ファラミアはひどく穏やかな目をやった。 高熱に浮かされているとは思えない、真摯でこれ以上ないほどの、正気の目である。 「・・・貴方は覚えておられるでしょうか。辛いことも時が癒し、いつからか笑いとなると言った方がいました。フロドには無言で否定されましたが、私は今もそのことを信じています。魂は、いつか取り戻すことができるものと信じています」 「・・・あんたは、突然何を言い出すんだ?」 何の脈絡もない話題に王は眉を寄せた。 ファラミアは一度目を閉じてかすかな光をも遮断し、言った。 「王よ。貴方は兄の魂を救ってくださったではありませんか」 それで、王はファラミアが何を望んでいるのかを悟った。 真実はそこまでに止まらないものだったが、王がそのことに気付く事は生涯ありえないことだった。 ここでファラミアの願いをかなえてやる事は、人には簡単なことかもしれない。 しかし今のこの王にとっては何よりも恐れる言葉なのだった。 ファラミアはゆっくりと、彼にはとても重かっただろう瞼をあげて息を吐いた。 そして目を反らすことなく王を見つめている。 王の言葉を、待っている。 純粋な心が彼にはあった。 今の彼には、あの大いなる暗黒の武器を手にしても興味を示さないだろう確信があった。 何にも左右される事はできないであろう、彼の信じる王が目の前にいたのだから。 だが王は小さく目を伏せた。 それでファラミアは、彼の声を聞かずとも、その答えを知った。 次に顔を上げた王の目には、動揺と悔恨と、ファラミアに対する罪悪感が存在した。 だがファラミアは、敢えて気付かないふりをした。 気付いていないふりをしているのは、王のほうも同じであったが。 「・・・ファラミア。貴方は覚えているだろうか。貴方が初めてフォルノストに訪れた時のことを。」 ---あの、空寂の大地を。 ---あの、物悲しくも、懐かしい大地を。 「かつて幽鬼の手によって荒廃の地となり、人々が恐れ、蔑み、寂しく思った光景を。」 ---忘れ去られた、蕭蕭とした大地を。 ---山々の影が深く、花々は小さく、緑少なき大地を。 「・・・あのとき、貴方は憧憬 の目でただ一言、美しいと言ったのだ。」 ファラミアは眼を細めて王を見上げた。 それは王が背中を向けているときにだけする表情だった。だから王がその表情を見たことはなく、これが最初だった。 それは、欲してやまない手の届かない太陽を見上げるも、ただ見上げることしかできない、その表情で。 そのまま王を見上げる。 そして微笑んだ。 -----私の----、 「ええ、覚えておりますとも、我が王よ。・・・貴方の故郷です」 故郷を---------。 ふいに、王は頬を伝うものに気付いた。 だがそれはいつものそれとは違う。冷たいとも、不快とも、辛いとも思わない。 暖かい涙というものを、王はこのとき思い出したのだった。 ファラミアの力の抜けた掌を優しく、だが力強く握り締める。 自分の涙でファラミアの手が濡れるのも構わずに、彼の手に顔を埋めながら囁く。 「ありがとう。嬉しかったのだ。私は、どうしようもなく、嬉しかった・・・。ほんとうに、嬉しかった・・・。貴方が私の背中を押してくれた瞬間だった。・・・・・・貴方の兄君もそうだっだ」 だが王はそこで身を起こした。 ファラミアは王に縋らず、ただ彼を見上げている。 その眼は愛情と切望で溢れていた。 王は一人、部屋を出た。 ファラミアに声もかけず、視線を向けることも出来なかった。 この行動に後ろめたさがあることは否定できない。 だが彼とは、ファラミアとは、彼の兄としたような約束をすることは、出来なかったのだ。 「・・・兄上」 背後で呟かれた、震えた呼びかけに答える者はもういない。 もうずっと昔にいなくなった。 石の壁に吸い込まれた声は、その人のものとは似ていなかった。 ・・・最愛なる兄ボロミアよ。 私は、私たちは、いつになったら柵 から解放されるのでしょう。 あの方は、いつになったら貴方を忘れてくれるのでしょう。 私は、いつまで貴方を愛せるのでしょう。 ・・・・・・私は、もう疲れてしまいました・・・。 |
ほんとうに救いようのネェ話だ・・・。
こんなのに素敵MIDI使ってよかったのか・・・。
⇒4