雲の城 第一話 船上―古峰県安関市香東湾沖合にて
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 朝焼けの光に照らされた水面はきらきらと輝いて、その白色は陽の赤と空の青の見事な調和をなして、枠に収められた一枚の絵画を見ているようだった。

 ……というのはいくらなんでも言い過ぎかもしれないけど、とにかく、僕が今見ている風景はそれなりの感性を持った人の心を揺り動かすのに充分な感動を与えられるものだった。
 沖縄やハワイ、グアムやタヒチといったリゾート地に勝るとも劣らない絶景、「地方で見つけたいい風景」といって写真の一枚でも撮って誰かに見せれば、その人もまた感嘆のため息を漏らすに違いない。
 空を見上げると、そこはムクドリが群れをなして駆けていた。黒い影が日の出に映った姿もまた絵になっている。心の中にオアシスの見つけたような気分だ。
 まさに夢幻、桃源郷。船旅万歳!

「……ではなぜ、僕はこんな最高の景色がすぐ目の前にあるのにも関わらず船の中で横になっているのだろう?」

 自問する。
 僕は人並みの感性だってあるし、自前のカメラだってカバンの中にある。別に船がジャックされたわけでもない。そもそも(言っては失礼だが)こんなしがない漁船「六竜丸」をジャックするような人のがいるのだろうか。漁船の中でも恐らく最も小さいであろうそのボディは錆び付き、大きく「六竜丸」と描かれていた側面はペンキが剥がれて、「ノ田九」になっている。そんな漁船を乗っ取ろうなんて奴らは、僕がもしディナーをおごった上で今夜の寝床でも紹介してあげたとしたら、地面が陥没するぐらい土下座をしてお礼の言葉を散々述べてくれるくらい極貧を強いられている連中なのだろう。
 そんなことを考えていると、この「六竜丸」の運転手兼持ち主である漁師のおじさんと目が合った。太陽と重なって分かりにくいが、怒っているような哀れんでいるような、微妙な表情をしている。
 僕の背中を悪寒が伝う。もしや、今思っていることがバレたのかもしれない。僕の中で以外にもこのおじさんは読心術を会得した心理学のスペシャリストである可能性が急上昇した。
 もしそうだとして、おじさんの沸点が低いとしたら僕はこのただっ広い海のそこに沈められてしまうかもしれない。今は真冬だ。そんなことされたら僕は冷水でショックを起こして死んでしまう。おじさんは年こそ僕の二倍以上ありそうだが、ウン十年漁師をしいたというさっきの話が本当だとしたら、腕っ節は僕と互角、もしくはそれ以上かもしれない。何せ僕は高校卒業してから一度も運動らしい運動をしていない。おまけに今の僕の体調からしたら、劣勢は必至だ。
 しかし、そんな僕の心配は杞憂に終わった。
「大丈夫か? さっきから何か様子が変だに。魚に当たられたか?」
「え? あ、いえ大丈夫です。横になってればすぐによくなりますよ」
 僕も馬鹿なことを考えていたものだ。普通見ず知らずの、何処の馬の骨とも分からない青年記者にいきなり
「安関まで用があるので、良かったらそこまで乗せてもらえませんか」
 と言われて二つ返事であっさり快諾してくれるような人が、勘に触ることを言われただけでいきなり海に突き落とすなんて理不尽で不条理な真似する訳がない。もっともこの「六竜丸」が実は水爆実験の被害に遭った思い出の漁船だったとか財宝を積んだ沈没船を改修したものであるなんてことだったらそれを大事にする気持ちはよく分かるが、そんなのであっさり殺されるの程の自己犠牲精神を僕は持ち合わせてはいない。
 それにしても、おじさんは微妙にイントネーションのズレた独特の方言を使っていた。
「いやすまんの。これで全て終わったで、あとはこのまま真っすぐ安関に行く。今日は波が穏やかだで、一時間もかからんだろう」
 ちなみに、今僕の後ろではイカやらブリやらタラやらその他よく分からない魚諸々が元気よく跳ね回っている。おじさんの言う「終わった」とは、魚と、それらを捕まえるための罠のの回収のことを指している。
 本当は、僕を送った帰りに魚を回収すれば良いだろう、と言いたかったが無賃で乗せてもらっている手前そんな図々しいことを言えるほど僕は図太い性格ではない。そんなこと言おうものなら、それこそ
「じゃあここから泳いで行け」
 と、この大海原へ投げ出されてしまいそうだ。今は真冬だ。そんなこと(中略)しまうだろう。
「あ、あと一時間ですか」
「んー、大体そんなもんだな。それんしても、良い景色だの」
「そ、そうですね……」
 僕は適当に相槌を打つ。
「だなー、素晴らしいな。自然の賜物やわ」
 おじさんはそう言って、銀色に輝く物体を取り出した。
 ここでグロックやワルサーなんていう拳銃が登場しようものなら僕はそのおじさんとあまりにもナンセンスな組み合わせに終始呆然としながらおじさんの手によって蜂の巣にされていたかもしれない。
 が、残念ながらそんな物騒なものは出てこなかった。僕はおじさんが銃を構えながら
「残念だが、君はここで海に沈んでもらわねばいかん」
 なんて言うシーンを想像して、少し吹き出しそうになった。
 さて、実際におじさんが取り出したもの、それはデジカメだった。しかもかなり新しい。以外にもおじさんは漁だけでなく最新のエレクトロニクスにも精通しているらしい。
 と思ったら、違った。
「おじさん、あの、それ僕の……」
 脇に付いているあのストラップは紛れも無く僕のである証拠だ。おじさん、いつの間に。やはり侮れない人である。
「ん? ああ、いやちょっとな、兄ちゃんのカバンからちょっと拝借させもろうたわ、ははは」
 と、軽快に笑い声を飛ばすおじさん。ははは、ですか。
 そんな具合でおじさんは僕の訴えを軽くスルーした。デジカメの扱いは以外に巧みで、楽しそうに風景を撮っている。
 世間一般に言えばそれは窃盗と言う。こういう大人がいるからきっと日本の政治は良くならないのだ。
 ついでに、僕をこのまま海に突き落とせば殺人未遂もしくは殺人だ。今は真冬だ。そんな(中略)だろう。
 シャッター音とムクドリの鳴き声だけが、海原に響く。

 しばらくして、おじさんは満足したのか、丁寧にデジカメを僕のカバンに戻した。そして僕のほうを向いた。
「そういや兄ちゃん、安関に用があるって言っとったが、何するんで? 長崎で朝まで待っとりゃフェリーが出たろうに」
 いきなり核心を付いてきた。そういうことは僕が乗せてくれと行ったときに聞くものだが、このおじさんはどこか抜けているところがある。それとも、おじさんは僕が何をしてきても勝てる自信があるのだろうか。もしくは、僕が何をしようと無関心なのか。
「その身なりでまさか観光って訳でもなかろう? どうせわざわざ夜明け前から兄ちゃん一人で行くことなんぞ無かろうに」
「取材なんですよ。安関から東雲に行って」
「行って? それから」
「あ、ああ……。僕、高校野球の記者なんですよ。だからそこの高校の練習の様子とかを見ようかなと思って。一応昼までにはあっちに着いてないといけなくて」
「何処の高校なんで? 東雲になら五つはあるに」
 さっきまで随分大雑把だったのに、これに関してはことごとく突っ込んでくる。向こうに知り合いでもいるのだろうか。語気も強くなってきている。
「え、そのままです。東雲です。東雲高校」
「し、東雲? 兄ちゃん、本当な。西でも工業でも総合でもないのな!」
「は、はい……。東雲、です」
「……東雲」
 おじさんの覇気にも少し驚いたが、そのとき、僕は見逃さなかった。
 おうむ返しにその名前を呟いたおじさんの微妙な顔が、一瞬、ほんの少しだけ、しかし、

 ――はっきりと、歪んだのを。

「そうか」
 僕は一瞬おじさんの逆鱗に触れたかと思って身構えたが(もちろん寝転んだままなので、大した意味はない)、おじさんは特に激昂も狼狽した様子もない。表情も、またあの微妙なものに戻っている。さっきのは一体なんだったのだろう。また背筋を悪寒が伝う。あっさり僕を船に乗せてくれたり後になって僕の目的を聞いたり高校名を聞いただけで嫌な顔をしたりと、本当によく分からない人だ。
「まあ、気いつけな」
「え?」
「何でもねえ」
 おじさんは再び舵をとる。これ以上話しかけるな、とでも言いたいのだろうか。
 陽はすっかり上がっていた。仰向けになって空を見上げると、憎らしいぐらいの快晴だった。本当に、雲ひとつない。
 視線を横にずらすと、水平線の向こう側に青い影が見えた。ところどころ凹凸があるようにも見える。あれが安関だろうか。腕時計を見るとおじさんが言っていた時間からまだ三十分も経っていない。おじさんに聞いてみたかったが、さすがに少しはばかられた。すると、
「あれが安関だよ。思ったよか早う着くに」
 まさしく、絶妙なタイミングだった。
 やはりおじさんの観察力は凄い。ただ単に僕が分かりやすい行動をとっているだけかもしれないが。
「ほれ、一回ぐらい起きて見てみたらどうなんだい」
 やはりさっき感じたのは錯覚なのかと思わせるほど、おじさんはいつもの温和な性格に戻っていた。
「あ、いえ、良いです。このままでも見えますから」
「? 兄ちゃん」
「は、はい」
「なんで兄ちゃんはずっと寝転がってんだい」
「酔ったからです」
 即答。単純明快。僕が絶景を目の前にしても船の床に平行に寝そべっていた理由、そしてさっき僕が自問した答えだ。少しでも吐き気を緩和できるように、無理矢理思考を巡らせてみたが、やっぱり気持ち悪いものは気持ち悪い。
「……よく、それで記者なんかやっとれんだな」
 おじさんの返答は至極もっともな意見だった。乗り物酔いが激しい記者なんて、周りに知れたら笑いものだ。もしかしたら取材場所に着くまでが僕の一番の試練かもしれない。
 
 徐々に陸が近づいてくる。もう泳いででも着けるような距離にまでなった。
 港には多くの漁船が停泊していて、その向こうからは島の活気が見て窺える。ここまで来て僕は、初めて日常から隔離されたような感覚にとらわれた。

「兄ちゃん」
「は、はい」
 さっきからこのおじさんの唐突な話のふり方は、ちょっと心臓に悪い。さっきから萎縮しっぱなしだ。
「あそこに行くんは初めてかい」
「そ、そうですけど……?」
 そうか、と言っておじさんは再びこちらを振り返った。おじさんの表情は相変わらず読み取りづらいが、かろうじて、笑っているようにも見えた。それはもしかしたら錯覚で、恐ろしい顔をしているのかもしれないが、そんな雰囲気は微塵も感じられない。
 今度は何をするつもりなのだろうか。また急に語気を荒くして、今度は「あの島へ行くのは止めておけ!」とでも言うのだろうか。
「すまんな兄ちゃん。これを言わんとしまりが悪くてな」
 おじさんの声はどこまでも穏やかだった。口ぶりからおじさんは何度もこうやって人を送ったことがあるのだろうかとか、ちょっと喜怒哀楽が激し過ぎやしないだろうかと思ったが、そんな考えはすぐに霧散した。
 おじさんは呼吸を一拍置いた。僕のほうはというと、何故か唾を飲み込んでしまう。
 そして、おじさんはやはり、僕の予想をことごとく裏切った。
 
「古峰県安関市へようこそ! 我々は貴方を歓迎します!」

 歓迎。それはもう、頭の中に強烈に残るぐらい大きくはっきり、僕の頭の中でリピートした。
 僕はしばらく呆然としていたが、やがて意識が覚醒してくると、はっとなって
「……ありがとうございます」
 口少なからずとも、お礼を言った。
 嬉しかった。
 でも、よくよく考えてみるとまた随分大袈裟な表現だ。確かにここは何処か日常から離れた雰囲気を醸し出しているが、ここはやっぱり日本で、沖縄よりずっと本州から近いところにあるのだから。
「そんな、またオーバーですね。海外に来た訳じゃないんですから」
 と言いたかったが、僕はその言葉を呑み込んだ。何だか、おじさんの熱に水を差すような気がしたからだ。
 でも――

 ――僕はその時、おじさんの言葉はあながち間違っていなかったことに全く、これっぽっちも気付かなかった。

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