おじさんに降ろしてもらった場所から東雲に発つフェリーがある港は、バスで二十分くらいかかる場所にあった。割とすぐバス停は見つかったので普段なら素直に乗るべきだったのだけど、船酔いして吐きそうな人がバスに乗るということがどういうことを意味するのか、僕はよく分かっていたので、歩くことにした。安関の街を歩いて見てみるのも、悪くない気もした。
案の定、歩いているうちに気分は良くなってきた。やっぱり歩いてきて良かったな、と思った矢先に、僕はまた気持ちが悪くなりそうな出来事に遭った。そして、
「安関のメインストリートは通勤ラッシュに紛れてバイクや自転車に乗って通行人からスリをする手口が多いから、財布を分けて持っていた方が良いですよ!」
という、ネットで仕入れた信憑性の欠片もない情報を鵜呑みにして来たのは、何だかんだで正解だということを思い知らされた。
大小様々なビルから突出した店の看板や、乗用車やバス、タクシーの合間をバイクや自転車が縫うように走っているその光景は、台湾や上海の町並みを彷彿させた。量で言えばバイクと自転車の数は圧倒的で、乗っているのは大学生からお年寄りと幅広く、僕みたいな会社員も沢山いた。今が一番混み時なのだろう。
歩道と車道の境界は曖昧で、時折バイクや自転車に接触したりと危なっかしい場面にも遭遇するが、今は混み合っているせいでそれぞれの乗り物にスピードがそこまで出てないからか、僕は特に怪我はしていない。
古峰県の最東端に位置し、同時に県庁所在地であり、県外への門戸として開かれている安関市の市街地の様子は、大体こんな感じだった。安関市の人口は三十万人と聞いていたが、これだけのものが行き交う様子を見ていると、とてもそんな数じゃないように思えてくる。
僕がよく見ている町並みとの大きな違いと言えばそれぐらいで、あとはいつも活動拠点にしているオフィスの窓から見える天王寺の町並みと、あまり変わらなかった。
さっきの情報を真に受けた僕は、なるほど、やってみて損は無いと思って、早速ズボンの両ポケット、膝上の両ポケット、ジャンバーの両内袖、靴の中、更にベルトの内側にまでサイフを分けて入れた。その数、実に七個。カバンの底の封筒に入れたものを含めれば八個になる。当然動きづらいが、有り金を全て持っていかれるよりはましだ。下手すれば僕は、この島から出ることが出来なくなるのだから。
それに、いくらそんなにスリが多発していたとしても、普通に歩いていてすぐ掏られた、なんてことは無いだろう。
そう思って、僕は手の届きやすい、本来一番財布を入れるのに適したズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。その手には黒塗りの財布が握られて、
――なかった。
……おいおい。
僕はもう一方のポケットに手を突っ込んだ。無事だ。膝上のポケットはチャックがしてあって盗みようがないし、ちょっと上下に動けばジャンバーから財布の重みを感じる。足元からは相変わらず財布の革の感触が伝わってくる。ジャンバーと上着を少しめくってみると、腰骨の部分、ベルトと重なっているところがポッコリと浮き出ているし、カバンはずっと持っていたので確認するまでもない。
そして、もう一度右ポケットを探る。やっぱり、ない。
なるほど、あの情報は本物だった。本当に、見事なまでに、してやられた。
バイクや自転車に乗った人なら、軽く二十人はぶつかっているはずだ。ぶつかってなくても、僕のズボンに手を伸ばせる距離まで接近した人なら、十倍、二十倍に膨れ上がる。ガードレールは無いに等しいので、車の群れから多少飛び出していても、それほど気にはならない。信号待ちか何かで停まっている間に接近して抜き取った後、一気に逃げたのだろう。バレたとしても、人海戦術とスピードで逃げ切れる。
いつやられたのか、見当も付かないという訳だ。
とりあえず、盗まれたのは財布一つ。被害額、七千円なり。
「マジかよ……」
見慣れない光景にはしゃいで無闇に近づいた僕が悪い。あれではどうせ犯人は捕まりそうにないだろう。さっきの二の舞は避けたいので、メインの車道から少し離れてなるべく歩行者の多いところを歩くことにした。
とは言ったものの、船着場が近くなるにつれて車の密度は増え、車道の幅も大きくなっていった。目的地はもうすぐだが、すられる確率も高くなる。僕は左ポケットに突っ込んだ手を、強く握った。これ以上の被害は避けたい。
信号が赤になった。乗用車は一斉に停まり、バイクはその合間にそってちょっとずつ前進する。この間が、スリにとっての絶好のチャンスとなる。
僕は交差点の前に停まって、フェリーの中で何をしようか考えようかとした。バッグには他社の野球雑誌やスポーツ新聞、野球選手の自伝や、取材に使うスピードガン、双眼鏡、そしてカメラが入っている。暇つぶしには事欠かせないので良いが、あまり多く持ってき過ぎるのも考え物だ。記者はもっと軽装でいるべきなのだが、暇は持て余したくない。そんなに急ぎの取材ではないのだし。
すると、不意に背後に気配を感じた。嫌な予感がする。僕は、少しずつ視線をずらして、その元を探った。
バイクだった。原付で、乗っているのは二人(ちなみに原付の二人乗りは思いっきり違法だ)。ジャンバーを羽織った上にヘルメットをしている。前には籠が付いていて、エナメルのスポーツバッグが入っていた。明らかに車道からズレている。歩道と車道のはっきりとした区別はないが、思いっきり車道の中心から外れている。
原付はゆっくりと前進して、やがて僕の後ろ数メートルというところで、ピタリと停まった。信号が青になった直後に財布を抜き取って、一気に車道に戻っていくつもりなのだろう。荒っぽいが、それなりのスピードを出れば確実に成功する。
が、ここまであからさまだと、その計画を壊してやりたくなる。見た感じ二人共小柄で、あまり力は無さそうだ。僕は原付に乗れるぐらい経済的余裕のある人に、財布を一個丸々献上してあげれるほどの自己犠牲精神は持ち合わせていない。というより、やられっ放しというのは性に合わない。この二人には悪いが、今度はこちらが一泡吹かせてやろう。右ポケットを狙ってくれればもらい物だ。そちらはもう既に空っぽなのだから。
信号が青になった。バイクは乗用車より一足先に走り出す。それに倣って乗用車も。掏るとしたら、間違いなくこのタイミングだ。
そして、あの原付も動いた。
後ろに来ていた原付は速度を上げる。すぐにスピードは出ないが、僕との距離を少しずつ、確実に縮めていく。
原付は僕のほぼ真後ろに来たかと思うと、急にハンドルを切って右脇に出た。改めて見ると、やっぱり二人とも小さい。バイクのスピードはハンドルを切ったお陰で少し減速していたが、大人が走った時ぐらいの速さは出ているだろう。
僕を追い抜こうかというところで、後部座席に乗っていた一人が急に手を突き出した。仕掛けてきた。狙いは右ポケット。
しかし、タイミングが少し遅かったのか、その手はあと少しで届くかのところで空を切った。
今なら。
判断は一瞬だった。
僕はその手が掠ったの皮切りに、その手首を思いっきり掴んだ。掴れた相手は焦るというより、何が起こったか分からないといった顔をしているし、実際、運転している方にいたっては前を向いているのだから、相方がスリを失敗して逆に返り討ちに遭おうとしているなんて分かりまい。
「え?」
声が聞こえた。それでようやく状況を理解したようだが、もう遅い。
僕はここぞと言わんばかりの力を込めて手首をひねり返し、――そのままそいつを歩道の外側へ引き摺り下ろした。もとい、引き摺り倒した。
「うわぁ!」
「え、な、ああぁ!」
僕がひねった方の手ぶらだった右手は、前にいた運転手の肩を掴んでいた。それは横断歩道に投げ出されたとき、とっさに強く握られたのだろう、それでバランスを崩した運転手も、一緒に転倒した。主を無くした原付はそのまま運転手と同様、派手な音を立てて形で倒れ、止まった。
通行人の目線が、釘付けになる。
思った以上の効果に驚いた僕だったが、やはりこいつらは、思ったとおり、窃盗未遂者だ。それをダシにして取り押さえれば、盗られた分のお金の何割かは貰えるかもしれない。それが警察であれ、この子達の親であれ、この子等本人であれ。
捕まえよう。
動機は不純だが、そんな考えが僕の頭をよぎった。相手は犯罪者なので何らかの武器を携帯している可能性もあるが、体格は僕の方が大きいし、倒れて、もしかしたら怪我をしているかもしれないこの状況ではまともな抵抗はできないだろう。あるいは、誰かが止めに入ったところで僕の身の潔白を照明すれば良い。勝機は、十分過ぎるほどある。
しかし、二人の動きは、そんな僕の考えをあっという間に打ち消した。
二人は投げ出された後、地に足が着く直前に体を微妙に回転させ、手と足で衝撃を吸収させることで、受け身をとっていた。そのお陰なのか、二人とも相当派手に転んだのにも関わらず怪我はほとんど無いように見える。
僕が手をひねった方ならまだしも、前を向いたまま運転していていきなり倒れた方にもこんなとっさな受け身なんてものはとれるのだろうか。
「くっそ……、この、マサ、手前! あんだけやってなんでしくじれんだ!」
「あ、す、スミマセン! その、何か返り討ちに遭っちゃいまして……」
「そんなこと聞いてねえ! なんでしくじったのかって聞いてるんだよ!」
「あ、あのそれは、せ、先輩が、多分、スピード出すタイミングが早すぎただ……い、いえ、ぼくがあの人に手首を、こう、ぐいってやられて」
「見りゃ分かるだろそんなもん! あの、いかにもしてやったり顔してる人畜無害装ってますよ的な青年だろ! 俺が言ってるのは」
主犯の「マサ」という少年は、先輩らしき運転手の言葉を無視して、僕のほうを向いた。
「ご、ごめんなさい! 悪気は無かったんです。あの、これには本当複雑な理由があって」
「人の話を聞けお前は!」
どうやら運転手が、主犯、マサの先輩らしい。そしてそのマサが今僕に謝っていて、運転手は怒っている。やはり怪我で怯んでいる様子は全く無い。
それにしても「あたかも人畜無害装ってますよ的な青年」とは、随分な言われようだ。ついでに言わせてもらうと、生意気なのはどう考えても向こうの方だと思う。僕のは正当防衛だ。
「あの先輩も怒ってるんですけど良い人なんですよ。この前もぼく、先輩に焼きそばおごって貰って」
「少しは黙れマサ! あんたもあんただ、一体何してんだよ! あのまま大人しくし盗まれていりゃ俺等が島に帰れたかもしれねえのに!」
「な、何でそんな神経を逆撫でするようなこと言うんですか! だからそれは大丈夫でしょう先輩。貴人先輩に頼めば何とかしてくれますよ! 今だってスリをやるとか言っておきながら本当は貴人先輩に会いに行きたかったんじゃ」
「冗談言うならもっと笑えるのにしろ! 一体何が悲しくて貴人に頭下げなきゃならんのだ! あの詐欺師、ペテンが! あーもう、思い出すだけで腹立ってきた!」
「またまた、先輩。あの原付って貴人先輩のやつでしょ? ……あ」
二人と、僕の視線の先には、あの時盛大に吹っ飛んだ原付があった。
思いっきり地面にぶつかった原付は、籠が取れ、ハンドルが曲がり、割れたミラーとライトの破片があちらこちらに飛び散っていた。まだ動きそうだが、まともな運転はできないだろう。このバイクも二人のように受け身をとっていればこんな事にはならなかったろうに。僕は受け身の大切さを、この尊い原付の犠牲を通して知った。
酷い有様だ。
原付、可哀想に、こんな理不尽な出来事に巻き込まれて。でもよくよく考えると、バイクが壊れるのは大体理不尽な出来事ばかりのような気もする。
「ど、……どうするんだよマサ! 大体お前があんなところで手出したりするから」
「な、何で僕のせいにするんですか? 『仕方ない、こんなことはしたくないが、この原付でスリをやるしかないようだな』って物憂しげに言ったのは先輩じゃないですか! あんなの先輩独りでやれば良かったんだ!」
「そんなの知るか! お前だって『え、乗せてくれるんですか? いやー、ぼくバイクに乗ってみるのが夢だったんですよー』って言ってただろうが!」
「そんなこと言ってません! そもそも原付はバイクじゃないです! 原付は正式名称を『原動機付自転車』って言って自転車の仲間になるんです! ここがあやふやにバイクに入るもんだと思っている輩が増えてるんですよ! これからはこういった混乱を防ぐ為これからはみんな原付のことを『原動機付自転車』ときちんとした正式名称で呼ぶことを推薦します!」
話の方向性がだんたんおかしくなってきているが、僕にいちゃもんを付けられるよりはまだマシなので、放っておくことにした。僕が引き摺り倒す直前でもあまり慌てている様子もなかったのにここまで狼狽しているとは、「貴人先輩」は非常に恐ろしい人物なのだろう。
それにしても体型といい先輩後輩といい。しかも原付に乗っているということは、やっぱり。
……ん?
視線を周囲にやると、僕はあるものを見つけた。原付が倒れる際に壊れた籠に乗っていた、エナメルのスポーツバッグだ。倒れる前、つまり傾いた時に落ちたのだろうか、すぐ近くにあった。
その側面には、筆記体のローマ字で何かが書かれていた。達筆というか殴り書きというか変わった字というか、外人が好んで書くようなものだ。
その文字を読んでみる。
「ま、まさみ、ち……、よこい。よこい、まさみち」
よこいまさみち。マサの本名だろうか。
ただのカモフラージュだとしたら大したもんだが、スリをやろうとしている人が自分の名前の入ったバッグを携帯しているのは、割り箸一本を武器に前線基地に突入する並みの自殺行為だ。この焦りようといい、「マサ」というあだ名にも一致するところから、まずマサのもので間違いないだろう。
「よこいまさみち」
もう一度読んでみる、というより呼んでみる。
すると、向こう側の口論が止んで、マサがこちらを向いた。
やっぱり。
「あっ、あああ……っ!」
マサは色をなした。
「ば、マサ馬鹿かお前! なんで部活指定のやつ持ってきたんだよ、この馬鹿!」
「バカバカ言わないで下さいよ! 『まあ、これぐらい持っていったところで俺らの計画に何ら支障は無い』って自己陶酔してたのは先輩じゃないですか!」
僕はそんな二人を尻目に、バッグを裏返した。表と同じ位置に、やはり同じような筆記体のローマ字で何かが書かれていた。
そして、
「あれはお前がちゃんと仕事をしてくれるからって思ったから言ったんだ! スリし損なった上に手首ひねられて転倒なんて日本中探してもお前しかいねえよ!」
「それはさっき謝ったじゃないですか! まだ謝り足りませんか? じゃあ何度でも言ってあげますよ、ごめんなさい、私が悪かったです、私は何の前触れもなし急にスピードを上げた敬愛すべき先輩のバイクからこの人当たりの良さそうな青年の財布を掏ろうとしましたがいかんせん初めてだったのにも関わらず減速しなかったバイクに乗っていたので引ったくりに失敗し、あろうことかその青年に手首をひねられて転倒させられてしまいました。これで満足ですか?」
「それが敬愛すべき先輩に対する態度か? まー、本名がバレちゃったらそりゃあ焦るよな、横井雅道君!」
「だからどうしたって言うんですか? 貴人先輩の怒りの鉄拳を喰らった先輩の顔がありありと目に浮かびますよ!」
「はっ! お前こそ引ったくり未遂でブタ箱へ留置されるんだろ! そんなことしたら退学だ、退学!」
「それはどうでしょうかね、先輩? あのバッグの裏には……」
「ちょっと良いかな」
僕は二人の間に割り込んだ、あのバッグを持って。
「今から、ちょっと時間あるかい?」
そして、そのバッグには、
「Shinonome High School」――シノノメハイスクール――東雲高校。
すなわち、僕の目的地がこれでもか言うぐらいはっきりと綴られていた。
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