雲の城 第三話 招き人(2)
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「ちょっと話したいんだけど、いいかな」
 聞きたいことは山ほどあった。
 二人は本当に東雲高校の生徒なのか。東雲高校の生徒なら、この島にどうしているのか。なぜ、ここに来てまでスリをする必要があったのか。貴人さんとは誰なのか。そして、二人は野球部なのか。
 その前に、警戒と誤解を解く必要がある。まずは転ばせて原付を壊したことを謝らなければいけない。いや、元々僕がそうしたのは向こうがこっちの財布を掏ろうとしてて、それはさっき二人が勝手に暴露していて、でも僕は先にやられかけたとはいえ半ば腹いせにやったようなもので……
「あんた、古峰の人じゃないだろ?」
 僕の思考は、それまで顔を見合わせて様子を窺っていた二人のうちの一人、運転手だった先輩の言葉で中断された。僕の質問には答えず、逆に質問で返してきた。これでもかというくらい、警戒の色を露わにしている。威嚇している、と言ったほうが良いだろうか。
 ここで聞いてるのはこっちなんだけど? なんて言うのは、どう考えても逆効果であることぐらい、鈍い僕でも分かる。嘘をつくのはやめておこう。ボロが出たときが怖い。
「……そうだよ」
 先輩は一度僕一通りを目定めするように目を走らせた。革ジャンを、ジーパンを、バッグを。
「何者だ、あんた」
 警戒の色は崩さず、そう質問してきた。
 確かに、僕みたいな人は重い荷物を背負いながらこんな悠長に歩いたりはせずに、横を通り過ぎていく同世代の若者と同じように会社へ向かうのが普通だろう。やはりそこから説明する必要がありそうだ。
「いや、一介の雑誌記者だよ」
「記者?」
「うん、君たち、東雲高校の子だろう。僕もそこに用があるんだけど……良かったら、東雲高校について何か話を聞かせてもらえないかな」
 なるべく明るく、気安い感じで話しかける。人見知りの僕にしたら、これにしても大きな勇気が必要だ。人見知りする記者、というのもまた笑い者だが。
「いや、別にスリのこととかは気にしてないから、ただ話を聞きたいなと」
 僕は続ける。まあ、いきなり転ばされておいてほいほいと付いてきてくれる訳ないか、と思っていると、
「名刺」
「え?」
「ほら、記者なら財布に名刺とか入れてるんじゃないの?」
 そう来たか。
 なるほど。意外と抜かりない。僕も是非そうしたいものだ。僕は右ポケットに手を伸ばそうとしたが、しかし、
「ああ……、悪いけど、財布ごと盗まれたんだ」
 というより、掏られたんだ。何てこった。身分証明ができないじゃないか。免許証はカバンの中に入っているから良いにしても、これを見せたところで僕が記者であるなんてことは分からない。例えば「スーパーマリオRPG」でマリオがジャンプすれば身分証明になるように、僕も何かそういうものが欲しいものだ。
「まあ、あんた隙だらけだしな。……だから盗まれるんだよ」
 その隙だらけの奴にしてやれたのはどこのどいつだ、とは勿論言わない。きちんと返事をしてくれたということは、少しは心を開いてくれたのだろうかと思ったが、今だその眼光は鋭い。ただ、小柄で、年下を扱っているという感覚からか、正直全然怖くない。同じ「先輩」でも、僕の先輩の方がそりゃあもう桁が違うぐらい畏れ多い存在だ。
 押してもだめなら、少し引いてみるか。
「嫌なら別に良いんだよ。さっきは咄嗟にとはいえいきなり転ばせて悪かった。ごめんよ」
 謝ってはみたが、先輩の表情は大して変わらなかった。まあ、偽善と受け取られても仕方ないかもしれない。
 すると、向こうから質問が投げかけられた。
「記者、ねえ……。どこの人? ここじゃないんでしょ?」
 もう一度そこに戻った。記者という事に胡散臭さを感じていると思ったが、そうでもないのだろうか。とりえあず、言ってみるだけの価値はありそうだ。
「ああ……。大阪にある会社なんだけど。『月刊野球時代』って知らない?」
 雑誌の名前を出してみる。確か、全国チェーンなのでここ、古峰にも刊行されているはずだ。しかし、先輩は無反応。
 やっぱりダメか、と思ったそのとき、事の成り行きを見ていたマサ、もとい、横井雅道君(以下、横井少年とする)が突然、素っ頓狂な声を上げた。
「あーーっ!」
 先輩もぼくも、以前の落ち着きを取り戻しつつあった群衆も動きを止めて、マサの方に目を向けた。
「あ、ああ、知ってます『野球時代』! あなた『コージーコーポレーション』の人ですか? まさか、取材って……野球?」
「……何だ、マサ。何か知ってんのか」
「知ってんのか、じゃないですよ先輩! おととい監督が今度練習試合の時に取材が来るかもしれない、って言ってたじゃないですか!」
「何テンパってんだお前。俺はあいつの言うことは信じないから」
「先輩だってちょっと前までぼくと熱き討論を繰り広げてた割によく言いますね! あたかも『俺は冷静で大人な高校生だから』みたいに斜に構えてれば良いとでも思ってるんですか? ……そうですよね? あなたが『コージーコーポーレーション』の」
 ああ、やっぱり。この二人は。
 僕は首肯する。
「まあ……、一応そういうことになってるのかな」
 横井少年の顔はぱっと明るくなり、先輩の目は少しだけだが、見開かれた。
「やっぱり! 良いですよ、やった、単独取材じゃないですか! ねえ先輩」
「……あんた、本当にその、工事コーポレーションの人なのか?」
 工事コーポーレーション、なんだそれは、うちは雑誌会社ですが何か、とは当たり前だが言わない。揚げ足を取る人は誰にとっても嫌われるものだ。
 だがまあ、この先輩の判断は賢明だ。「コージーコーポレーション」の話を切り出したのは横井少年の方だから、ただ単にその場をやり過ごす為に話に乗っかっているのではないか、と考えているのだろう。
「ああ」
 即答した。本当の事なのだから、もったいぶることもない。
「本当に」
「本当だよ。……このバッグの中の『野球時代』に、僕が書いた記事がある。読んでみる?」
 まあ、僕はまだ名乗ってないし、名乗ったとしても、記事がそれを証明してくれる訳ではないのだけれど。
 先輩は再三僕を睨みつけたあと、
「……マサ」
「は、はい」
「ダルマに行く」
 ダルマ。何だろう。建物か、組織か何かか。僕を袋叩きにするならそれでも構わないが、精一杯の抵抗はさせてもらうつもりだ。ただ、あまり勝てる気がしない。現段階で、僕の味方はこの島、いやこの県で僕自身しかいないのだから、思いっきりアウェーだ。TOTOだったら間違いなく「負ける」に賭ける。
「……は、はい! なんだー、やっぱり先輩何だかんだ言って会いたいんじゃ」
「おじさん」 
 横井少年の言葉を無視して、先輩は話を続けた。それにしてもおじさんか。さっき横井少年と口論していた時は「青年」と言っていたような気がするが。どちらにせよ、年の差で七年かそこらしか違わないのにおじさん呼ばわりされるのは心外だ。しかし、ここで何か言ったところでどうしようもないので、「おじさん」という言葉を甘受しておこう。
「場所を変えよう。すぐそこだから、ちょっと付いてきて」
 まあ、路上で横倒しになった原付の側で永延と喋る続けるのも難だろう。もしかしたら警官か誰かが駆けつけて来るかもしれないし。僕は頷いて、二人の後を追った。

 ちなみに、壊れた原付は、僕が引っ張っていった。


 着いたのは船着場の目と鼻の先、潮風が心地よい繁華街のような場所だった。さっきのメインストリートとは違って、何だかすれ違う人達が活き活きして見える。今日は土曜日なので、さっきのように仕事に追われる人もいれば、ここにいるみたいに自由気ままに休日を過ごしている人もいるのだろう。周りは露天商やお土産屋、野菜や果物の量り売りと賑やかだ。東雲行きのフェリー乗り場は、ここからもう少し行ったところにあるらしい(と、さっき見た案内板に書いてあった)。目的地から逸れないで話を聞けるのは好都合だ。もしかしたら、この二人も僕と同じ船で東雲に向かうのだろうか。
「……ほう」
 そして、今僕の目の前にあるのは赤レンガづくりの、小屋というより工房のような建物だ。かろうじて玄関の前に置かれたブラックボード(『今日のランチ』が書いてある)と「珈琲と紅茶の店 だるま亭」という看板に、内から染み出る香ばしい炒り豆の匂いが、かろうじてここが喫茶店であるということを示している。
 その外見はいやがおうにも重厚な雰囲気を醸し出していた。今は真冬なのでこのつくりには好感が持てるが、真夏に涼もうと思って入るには、いささか抵抗を感じる。
 二人はその玄関には入らず、裏手の駐車場の、自転車置き場に回った。
「ここに停めて」
 先輩は雨どいの下に、原付を停めるように指示して、そそくさと玄関から店に入っていってしまった。全く、愛想がない。一応は和解したんだと思ってたのだけれど。
 僕の視線に気付いたのか、横井少年が声をかけた。
「先輩はガードが堅いからあんな風になってるだけなんですよー。ちょっと人見知りって言うか、あ、でも基本的には本当良い人なんですよ。多分ここも先輩がおごってくれるはずです」
「高校生に喫茶店でおごってもらうというのは、僕のプライドに反するな」
「ははっ、あなたも面白い人ですね」
 真面目に答えたつもりなのに、軽くあしらわれてしまった。あなた「も」か。あの先輩のどこが面白いのか、僕にはちっとも理解できないけれど。
 僕は、横井少年と一緒に店の扉を開けた。

 窓が小さかったので外からはよく分からなかったが、中も期待を裏切らないレトロさだった。戸棚に陳列された珈琲豆と紅茶の葉の束があんどんと白熱灯の光に照らされて、非常落ち着いた感じだ。そこもまた非常によろしい。ここまで来たのなら渋め路線を貫いて欲しかったのだが、店内のBGMは軽快なポピュラーソング――Mr.Childrenの「Worlds end」だった。僕の頭の中にしおしおと枯れていくトマトの様子が鮮明に、ありありと浮かぶ。とりあえず、スパゲティやミネストローネやその他赤に準ずるものは、食べたくないと思った。
 そして、客の入りもそれなりに上々のようだ。ファミレスより少し小さめの敷地で、席のあちこちで親連れやカップル、老人等が漫談に花を咲かせているが、時間待ちのお客はいない。土曜の朝でこれなら、まあそれなりにやっていける程度は稼いでるんじゃないかと思った。先輩の姿が見えなかったが、横井少年は気にせず目の前のカウンターを通り過ぎ、左折二回、右折一回。迷うことなく進んでいった。
 そして、店の一番隅の席に先輩はいた。相当、通い慣れていると見える。先輩はジャンバーを椅子にかけて、制服姿だった。やっぱりスリをする人間にしては無謀だと思う。律儀にも、襟元に校章が象られたバッジも付けられている。四人用のテーブルで、横井少年は先輩の隣り、僕は先輩の前に、それぞれ座った。横井少年もジャンバーを脱いだ。やっぱり、中は真っ黒な学ランだった。
「よくここに来るのかい?」
 とりあえず、当たり障りのないところから聞いてみよう。
「こっちに来た時はほとんど毎回来てますよ。珈琲も良いけどやっぱりぼくは紅茶派ですね。ここって普通の喫茶店じゃなくて専門店なんですよ」
「ああ……、やっぱりそうなんだ」
「最初僕らがここに来たのは、夏大の帰りに貴人先輩に誘ってもらってからで、それからはもうここの常連なんですよ。ほら、このスタンプカードだってもう少しで五十点ですよ! 五十点で『だるま亭 ホテル食パン』がもらえるんですよ! これがまた本当市販のものと比べ物にならないぐらい……」
 案の定、答えたのは横井少年だった。余計な豆知識のおまけつき。そのまま喋る続けているが、とりあえず無視した。横井少年はその持ち前の饒舌っぷりを生かしてDJかコメンテーターにでもなることをお薦めする。もしくはテレビショッピングの案内人とか。ちなみに僕は珈琲派だ。残念ながら僕と横井少年は、ソリが合わないらしい。先輩は、僕の顔をじっと見ている。正直、怖い。
「おじさん」
 おじさんとは失礼な、僕はまだ二十五だ、という反論さえ受け付けない頑なな表情のまま、先輩は声をあげた。
「名前」
 単語のみの会話。いや、僕はまだ一声も発してないから発言か。なるほど、名前を教えろと言う訳か。
 そう判断した僕が何か言うとしたとき、先輩は制服の胸ポケットからボールペンを出して、テーブル上にあった紙ナフキンを引き抜いて、僕に差し出した。書けということらしい。
「……入念だね。本間だよ、本間幸明」
 わざわざ書くまでのことじゃないだろう。口頭で伝えた。先輩の癪に触れたのではないかと一瞬後悔したが、先輩は表情を変えずに、僕の名前を反芻する。
 ちなみに、学生時代は僕の苗字を聞いて「え、ほんま?」と、自分が大阪人でもないのにからかう人が後を絶たなかったので、中学時代に僕は母親に本気で離婚してくれとせがんだことがある。
「ほんまゆきあき、ねえ……。やっぱりこの辺りの苗字じゃないな」
「へー、それあなたの名前なんですか?良い名前ですね、あ、ゆきあき? ダウン症? 『たったひとつのたからもの』?」
 横井少年がいつの間にか語りを止めて、僕らの会話にマニアックな突っ込みを入れる形で割り込んできた。ユーモアもへったくれもあったもんじゃない。冗談にしても、それは加藤さん一家及び明治生命に対して不敬極まりない。僕はペンとナフキンを手に取る。
「違うよ……。あの子は『秋雪』でしょう。ほら」
 と、僕が名前を書こうとしたとき、二人が顔を上げた。視線の先は僕……より、もっと後ろだ。誰かが来たらしい。ちなみに、僕は通路側に座っているので、誰かが近づいてきてもよく分からない。ただのウェイターだろうと思って、僕はあまり気にしなかった。そう言えば何も頼んでないな、と思ってメニューに手をかけようしたところ、

「いらっしゃーい、なんてね。友くん、雅道くん久しぶり。って昨日も来てたか」

 その妙に馴れ馴れしい言葉で、僕はようやく振り向いた。目があったその人は「おっ」と声あげて、怪訝そうな目で僕を見る。
「へえー、友くんにお客さん? これは失礼しました。ご注文は」
「由奈さん……。そりゃないでしょ」
 それまで言葉数が極端に少なかった先輩が、急に表情を崩して、その人、もとい、由奈さんに反論した。こちらもタメ語。
 それにしても、友くんとは、また。
「あー、そうかそうか。席が一つ空いてるね。呼ぼうか?」
「いや、良いです。良いですから注文を聞いてさっさとカウンターの方へ戻って下さい」
「ほおー、今日も毒舌が冴え渡るね友くん。まあいいや、密会ってやつ? なら良いや。ご注文は?」
 この馴れ馴れしすぎる女性ウェイター(ウェイトレスと呼ぶといささかその道を極めた方に誤解を生みそうな程地味な服装だ)、由奈さんと二人の関係と、誰を「呼ぼうか?」と言ったのかに疑問を感じつつも、僕は二つあるうちのメニューを取ろうとした。すると、
「キリマンジャロとブルーマウンテンとダージリンとオレンジペコとアッサム。それとホットケーキ」
「アメリカンとアールグレイとハイグローン。あと抹茶あんみつ」
 飲みすぎだ。
 前者が先輩、じゃなくて友くん、後者が横井少年の注文だ。メニューを見ないで答えている。僕は少し引け目を感じたが、張り合って食べ切れない方が格好悪いので、
「……カフェオレ」
 一品だけ頼んだ。いや、朝の喫茶店なんだから一品だけ頼むことなんて普通じゃないか、この二人がやり過ぎなんだ、と心の中で自分を正当化した。
「へいへい。あ、そういえば、店の前に森里ご一行様が来てたよー」
 そんな僕の苦悩など気にも留めずに、由奈さんは手首の動きだけで伝票に文字と刻んで、そそくさとカウンターへ戻っていった。
 森里、また知らない言葉が。とりあえず、僕の容量が一杯になりそうだったので、運ばれてきた水を飲んで情報処理精度をアップさせようとしたが、あまり効果は無かった。
 だから、その「森里」という言葉に二人の顔が強ばったのにも、全然気付かなかった。

 再びテーブルに沈黙が訪れる。
 BGMはいつの間にか宇多田ヒカルの「Passion」に変わっていた。Passion、パッション……。僕の頭にいかにも沖縄出身らしい、筋肉ムキムキで自分の胸を叩くお笑い芸人の顔が浮かんで、すぐに消えた。
「そういえば、二人の名前も聞いてなかったね」
 僕は手にしかけてそのままテーブルに置きっぱなしだったペンとナフキンを取って、素早く「本間幸明」と書いたあと、二人の前にそれらを差し出した。
 横井少年が先に手を伸ばして、すぐ書いてから、友くんに渡した。
 躊躇するかと思いきや、友くんは由奈さんに負けず劣らずの殴り書きで自分の名前をつづった。殴り書きといっても、それなりにまとまった綺麗な字だった。
「久世友規」
 それが友くん(失礼なので、以下、久世少年と呼ぶ)の名前らしい。友規だから友くん、ありがちだ。
「ふうん、いい名前だね」
 本心半分、お世辞半分で言ってみた。
「聞きたいことがあるんじゃないの」
 由奈さんが去ったら、また元のあの顔、あの突き放すような口調に戻っていた。何だか扱い辛そうな子だな、と柄でもなく思った。
「ああ、じゃあ、まず聞きたいんだけど、二人は野球部だろう」
「はい!」
「そうだけど」
 言うまでもないが、前者が横井少年、後者が久世少年のものだ。
 これで「違います」と言われたら、全てが水泡に帰すところだった。さっきのやり取りで確信していたが、改めて確認できて、僕は安堵した。
「東雲高校の」
「はい!」
「そうだよ」
 やっぱり、あのエナメルバッグと、身につけている学ランのバッジは嘘ではないようだ。この言っていることも嘘だという可能性もあるが、疑っていてはキリがないので、そのまま続けることにした。それに、嘘なら、いずれボロが出るだろう。
「なら、なんで東雲市じゃなくてここにいるんだい? 東雲からここは遠いし、フェリーでしか来れないんじゃ」
「あ、そ、それは……」
 横井少年が尻すぼみになったところで、久世少年が助け舟を出した。
「俺ら、いつも土日は安関のグラウンドを借りて練習試合してるんですよ。だから金曜の夕方のフェリーに乗ってここに着いたんですけど、取材……そう、おじさんが来るっての俺知らなくて。そうだ、なんでマサ、お前俺にそのこと言ってなかったんだ。知ってたんならフェリー乗る前に言えば良かったじゃねえか」
「せ、先輩があたかも知ってるような顔してるもんだからぼくも『ああ、安関で取材受けるのかな』って思っちゃったんですよ!」
 つまり、いつもはここで練習しているものを、今週末はホームグラウンドで練習するということを知らないでここに来てしまった訳か。
 でも、それが原付でスリしたことと、何の関係があるのだろう。
「それで……?」
 今度は、横井少年が答えた。
「それで、船に乗ったらキャプテンからすぐ『戻って来い』って連絡が入って、こっち着いたらすぐUターンしようと思ったんですよ。で、行きと帰りじゃフェリー乗り場が違うから、移動してる時に……」
「? 移動してるときに、どうしたの?」
「掏られました」
「財布を? 二人とも?」
「はい」
「えー、それで帰るためにスリを」
「……そうです」
 何と難儀なことだ。しかしまあ、くどいようだけどそうやって事情を説明されたところで、はいそうですかと財布を差し上げるほどの自己犠牲精神は持ち合わせていない。
「一応、予備の財布は持ってたんですが、フェリー乗れるだけのお金がなかったんですよ。いつも練習した時に泊っている公共の合宿場だって閉まってて」
 いや、あれだけの飲み物の料金を全て換算すれば、フェリーのお金は浮くだろう。二人の中でこの喫茶店の優先順位はフェリーで島に帰るよりも高いのだろうか。つくづく訳が分からない。
「あ、もしかしてやっぱり怒ってます?」
「……いや、何か、あの時はもう既に怒っていたから、あの時はどっちかっていうと驚きの方が強かったかな」
「え、どうして怒ってたんですか?」
「ほら、だからさ、僕ももうあの時掏られてたんだよ、財布を」
 僕はもう一度右ポケットを漁ってみた。やっぱり何も入っていない。
「あー……。さっき言ってましたね」
 そう、さっきそれで、路上で僕は久世少年に罵倒されたのだ。隙だらけだ、と。二人は僕も、スリ防止の為に財布を分けて入れていることには気付いているのだろうか。
 そういえば、スリ防止で思い当たるところがあった。
「ああ。そういえば、ここって、スリが多いって聞いたけど本当?」
「本当ですよ。今まで野球部でぼく達だけ遭ったことなかったんですけど、今日で晴れてそれが更新されました」
 全然晴れ晴れしくない。東雲高校のメンバーが何人かは知らないが、それが本当だとしたらここは思ったより遥かに物騒なところらしい。
「ここって、他にもそういう事件がよく起こるの?」
 つい、好奇心で範疇外の出来事を聞いてしまう。高校野球記事に古峰県の治安を書いてどうするつもりだ、と自分に言い聞かせる。
「あー、そういうのは貴人先輩に聞いたほうが良いですよ」
 また出てきた。貴人先輩。久世少年は貴人先輩を相当仲が良いらしい。一緒にフェリーに乗って安関まで行くこの久世少年との仲も、相当なものだが。それにしても、原付の持ち主で、久世少年が恐れている、貴人先輩とはまた、一体どんな人なんだろう。
「あのさ、悪いんだけど……。貴人先輩って、誰? チームメイト?」
 僕の質問に、二人ともきょとんとして、しばらく僕を見て、
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
 こういうのはタチが悪い。分かっているという前提で話をするものだから、あわや僕が置いてきぼりになるところだった。
「言ってないよ」
「あ……、すみません。このままだと本間さんが蚊帳の外状態になっちゃうところでしたね。えー、どこから話しましょう……」
「最初から話してくれれば良いよ。次のフェリーなら僕も乗るし、その中でも話せるだろう」
 僕は時計を見た。八時半。東雲行きのフェリーは三十分後、九時の予定だ。
「あ、そうですか?なら……」
 と、横井少年が口を開きかけた、そのとき、

「マサ」
 それまで黙って僕らと、通路の方を交互に、黙って見ていた久世少年が、横井少年を呼んだ。この店に入ったとき、僕が最初に口を開いたときより険しい表情をしている。やっぱり正面から見ると、少し怖い。
「あいつらが来た。行くぞ」
「え、何でわざわざこっちから……?」
「遅かれ早かれ見つかる。というか由奈さんがバラしてるかもな」
 そう言って久世少年は立ち上がり、左手で隣りにいた横井少年の腕を取った。右手にはいつの間にか、あの、横井少年のスポーツバッグがある。
「そ、それ、使っちゃうんですか……?」
 相変わらず堅い表情の久世少年に対し、横井少年は明らかに怯えている。それがその「来た」連中のことなのか、そのバッグに入っているものなのかは分からない。でも、この反応からすると、多分、両方だ。
 さて、僕はどうしたものやら。
「……本間さん」
 久世少年が久しぶりに僕に声を掛けた。「おじさん」が「本間さん」に昇格したのは喜ぶべきかもしれないが、今は多分そんな場合ではないということぐらい、僕でも、ボビー・オロゴンでも分かる。
「なんだい」
「とりあえずあんたはここにいて下さい。動くな」
 半分お願い、半分命令。変な言葉だ。
 そう言って僕の返事は待たず、久世少年は小走りで、横井少年は嫌々ながらその後に付いていった。

 僕は二人の姿が見えなくなったのを見計らって、そっと席を立った。
「『動くな』ねぇ……」
 僕は久世少年の言葉を、もう一度繰り返す。
 そして、僕は横井少年よりもっとゆっくりとした足取りで、カウンターへ、二人がそうであったように、同じ道を行く。
 僕の好奇心はとっくの昔に加熱を続けて、既に沸点に達してしまった。またこの向こうに何かがあるんだ。
 「動くな」。久世少年の言った言葉に、
「そんなの、無理だよ……」
 僕は待たれてもない返事を、独り呟いていた。

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