サボテン今昔 No.2-1 「奇想天外」  
Bornman古書表紙

(青色になった
“Welwitschia”の文字をクリックするとアルバムにリンクします)

Welwitschia mirabilis 奇想天外。1科1属1種の超珍稀植物であることは広く知られている。だが、この種物がどれほど変っているのかは余り知られていないように思われる。植物に関する辞典、単行本など、思いつくままに調べてみたが、多くは形態、性状などについて坦々と記述してあるのみで、竜膽寺雄先生が“世界で一番珍奇な植物”(シャボテン幻想 毎日新聞社1974)と題して記された18ページに及ぶ記事と、特にこの植物のためにクリス・ボーンマン氏Chris Bornmanにより出版された“Welwitschia”(1978 ドイツ語・英語対訳で総71ページ)と言う本以外に詳しい記述は見つからなかった。そこで本稿もこの2冊の本を中心に、他の資料を検索、併せて勘案したいと思う。
ウェルウィッチアは植物分類学上ではどんな地位にあるのだろうか。分類学はご承知の通り、学者の立脚点によって幾通りもあるが、ここでは、ボーンマン氏の分類と、佐竹義輔氏(植物分類学の権威)の分類とを対比してみよう。
分類 Bornman 佐竹義輔
植物界 植物界
亜界 管束植物亜界
種子植物門 種子植物門
亜門 裸子植物亜門
裸子植物綱 マオウ綱
グネツム目 マオウ目
ウェルウィッチア科 ウェルウィッチア科
ウェルウィッチア属 ウェルウィッチア属
奇想天外 奇想天外

佐竹はマオウ目の下にマオウ科をおいているが、学者によってはこれを“目”に格上げしている。ボーンマンもその立場である。グネツム目をウェルウィッチア目と併せてグネツム綱とする説もあるとか。因みにヤコブセンH.Jacobsen:Handbook of Succulent Plants(1960)と、最新園芸大辞典(誠文堂1970・近藤典生・水野辰司執筆)ではグネツム科としている。何れにしても奇想天外は植物学的にはグネツムやマオウに一番近いと言う事になる。近いといってもグネツム属Gnetumは常緑の高木であるし、マオウ属Ephedraはトクサやスギナに似た外観をしている植物だそうで、奇想天外とは甚だしく異なる。私には外見的には綱の段階まで遡ってソテツ綱の植物が何となく似ている様に思われる。
三大珍植物として奇想天外とともにラフレシアとオオオニバスを挙げる人もいる。たしかにラフレシア・アーノルディーは直径1mの花が咲く事で有名だが、ほかに4種の類似植物があり、オオオニバス(ビクトリア・レギア)も同様であることを考えると、奇想天外はこの二つとは同列ではない。まさに珍中の珍と言って差支えなかろう。

ラフレシア オオオニバス                  (オオオニバス ‘植物の私生活’ 山と渓谷社 より転載)
  (ラフレシア ‘植物の私生活’ 山と渓谷社 より転載)

次にこの植物は多肉succulentか、というと、多肉植物の定義にもよるが、まず普通の意味では多肉とは言えない。これまでに出版された多肉植物の本でもその取扱いにはかなりの差異がある。
奥一:趣味の多肉植物(1959)“サボテン・多肉植物の中で、たった一つだけの裸子植物”ヤコブセン(前出)は多肉植物ハンドブックで取上げているのだからサキュレントとして認めていると解釈できるのだろうか。
龍膽寺雄:シャボテン小百科(1964)では多肉植物の項目に中に、裸子植物・奇想天外科を挙げているが解説はない。
W.Rauh:Die grossartige Welt der Sukkulenten(1967)では取上げていない。
R.Rawe´:Succulent(1968)では地域ごとの主要多肉植物を挙げてあるページのNamib砂漠と、南西アフリカ北部の頁にWelwitschiaの名前が出てくる。
瀬川弥太郎:趣味の多肉植物(1969)では“多年性宿根性植物”と述べているが多肉とは言っていない。
松居謙次:サボテンと多肉植物(1970)には“ウェルウィッチア科(奇想天外科)として解説が出ている。
G.Rowley:The Illust. Encyclo. Succulents(1978)では“厳密な意味では多肉植物ではない。と明言している。同氏のCaudiciform&Pachycaul Succulentsには自生地写真を掲載してはいるが、この本では扱わないと言っている。
Index of Garden Plants(1994)には“長生きの乾性植物xerophyte”と書いてあるがsucculentとは言っていない。と言うようなわけで、多肉植物とは言えないが、多肉の本の中に取上げないのもおかしいし…、くらいの所が諸先生の本音ではなかろうか。
それではこの飛切りの珍植物を誰が、園芸分野のどこが扱うか、と言うと球根、球根ベゴニア、シクラメンなどの世界には接点が無いらしいから、矢張り多肉植物園芸の分野に落着く事になろう。大体、多肉植物園芸は言うなれば“よろず引き受け園芸”で、余り多肉らしくなくても他で誰もやらなければ何となしに扱ってしまう風潮がある。サルコカウロン、ダシリリオン、ノリナ、フィクス、タリヌム、ハエマンタス等々、日頃「エッ、それ多肉?」等と言いながらせっせと行き場がない植物を受入れる事に馴れてしまっている我々は真に心の広い人間と言えよう。だからこそ、本来多肉植物の分野で開発した植物、例えばパギポディム・ラメーレイやサンゴ油桐などが、多肉とは何の関係もない鉢物屋に奪られてしまっても文句一つ言う事をしないのだ。
瀬川(前出)によれば「本種がわが国に渡来したのは1936年で、園芸商石田兼六氏(岡山)により、原産地から13粒の種子が輸入された事に始まる。その後、色々な人により種子が輸入され、栽培されている。和名のキソウテンガイは1936年9月石田英夫氏(岡山)の命名である。また、松崎直枝氏(東京大学小石川植物園)は“砂漠おもと”と命名しているが、この名はほとんど用いられていない。」としている。石田氏は当時石田商会を名乗り、“乾生植物”と言うジャーナルを出し、サボテン・多肉植物を通販で扱っていた。例の津田宗直氏が“シャボテン栽培法”を連載していた“シャボテン”にも名前が出てくる。これを見ても分かるように、奇想天外は初めから多肉植物関係の人が係わったのであって、多肉かなあ、ちょっと違うんじゃないかなあ、などという野暮な事は言わないで、すんなり多肉植物の仲間入りをしたわけである。
上野壁画

科学博物館壁画→

わが国への渡来については龍膽寺(前出)も書いている。若干違うところもあるので紹介する。「“奇想天外”という日本名がつけられたのは、たしか昭和10年1935頃のはずだが、その前、東京の上野に今の科学博物館が出来た時、三階の大広場へのぼる大段階の正面の壁に、長さ数間にわたる大壁画で、この植物が紹介された。改装後この壁画は、そっくり二階の陳列室に移されて、現在に至っている。この絵は内藤秀因氏によって昭和7年1932頃描かれたといわれているが、これは、じっさいに自生地を目で見て描いたのではなく、黒白の写真か植物学の記述などを資料としたらしく色彩を間違えて、本物と全く違ったイメージの植物として描かれているのは惜しい。(中略)この事を私(竜膽寺)は、ずっと前に、当時の科学博物館長に注意した事があるのだが、まだこの絵は、そのままになっているらしい。」初のカタログと種子
この植物の種子が日本にはじめて来たのは、たしか昭和8、9年1933−4頃で、シャボテン愛好家の数氏が実生を試み、結局すべて失敗に終った。

 ←日本初のカタログ


奇想天外を最初にイギリスに紹介した人の名はFriedrich Martin Joseph Welwitsch(1806-1872)。オーストリアのナチュラリスト。彼はナミブ砂漠を歩き、多くの動植物を発見した。その数550に及ぶ。1科6属300種の植物と290種の動物に彼の名がつけられている。奇想天外に出会ったのは1859年9月3日、所はアンゴラのカーポ・ネグロ。彼は大変驚き、熱い砂にひざまづいてこの植物を当惑して見つめた。正に想像を絶するアフリカの創造物である事を確信した。命名者はJ.D.Hooker。Welwitschia bainesiiがその名であるが、ウェルウィッチ自身は現地語で「切り株」を意味する属名を考えていたらしい。学名はその後色々あって、結局1975年権威ある機関によってWelwitschia mirabilisに決定した。(ボーンマンによる)

奇想天外の学名についてはご承知の通り、Welwitschia bainesiiという学名を採用している書物も多く、私自身もW.mirabilisと、W.bainesiiが併存している事実に疑問を持っていた。龍膽寺(前出)は“Friedrich Welwitschと、南西アフリカの植物学者William Bainesが前後してこの植物を見つけて、ロンドンのKewキュー王立植物園へ、その報告や標本や種子を送って来たのが最初で、世界の植物学者を驚かしたのだった。その後この二人の発見者を記念して、同植物園の園長のフッカーWilliam Hooker卿が、この植物をWelwitschia bainesiiと名付けることにした。”と記している。龍膽寺先生がどういう出典でこの記事を書かれたか知らないが、ボーンマンはBainesについては触れていない。また、ドリーン・コートDoreen Courtはその著「Succulent Flora of Southern Africa 1981」の中で学名論争は1975年にW.mirabilisとすることで決着がついた、と記している。尚、彼女(コート女史)は「ウェルウィッチュは1859年にアンゴラの南西部で奇想天外に出会ったが、見つけたのは彼が最初ではない。ケープから来た数人の旅行者がそれより以前に発見、採集し、ジェームズ・チャップマンJames Chapmanが写真を撮った。ところがある理由で彼等の発見は認められなかった。ウェルウィッチュは彼の発見の重大さに気づき、キューの王立植物園長に手紙を書き、植物標本をイギリスに送った。かくして、このオーストリアのナチュラリストの名は奇想天外のおかげで不朽のものとなり、彼の墓石にもこの植物の姿が刻まれている」と内情を明らかにしている。
南西アフリカ、現在のナミビアに住むエミール・イェンセンVon Emil Jensenによると、「1858年トーマス・バイネスThomas Baines氏はこの植物を発見し、その翌年ウェルウィッチュ氏がツンボア・バイネシーThumboa bainesiiという名で記載した。ヘーレHerre氏によるとこのツンボアというのは土人の呼び名だそうであるが、この語がどこから出たものか、また何の意味もわからなくなっている」と記している。ウェルウィッチュが考えていた“切り株”を意味する現地語がこのツンボアである。
(註)エミル・イェンセン著の文献“奇想天外についての観察―ワルビス湾のナミブ奥地にて1953年〜1955年に亘る―”というもので、平尾秀一氏の訳により “サボテン日本”No.1、1958に掲載されたものである。私は原著を見たことはないが、奇想天外の自生地の近くに住み、調査を重ねた貴重な著述であるから、本稿でも引用させて頂く事にする。
なお、アフリカーンス語では“不死の2枚葉”という意味のtweeblaarkannedoodと呼ぶそうである。
奇想天外の発見は大変衝撃的で、多くの植物学者がコメントを残している。日く「植物学的に最も驚異的発見」日く「最も奇怪」「グロテスク」「怪物的植物」等々。中でもチャールズ・ダーウィンは、「植物界におけるカモノハシ」といい、命名者であるフッカーは「嘗て大英帝国にもたらされた植物のうちで最も興味深く、しかも醜い植物」と形容している。
サボテン日本誌
それから100年。前記“サボテン日本”No.1は主幹の奥一氏が満を持して創刊したものだけに、きわめて 日本的ともいえる斑ものを特集して真価を世に問うたわけであるが、同時に奇想天外に関する記事を特  集している。この植物発見から100年を意識されたものかどうかは知る由もないが、
  奇想天外を栽培して……………龍膽寺 雄
  奇想天外記………………………瀬川弥太郎
  奇想天外大壁画…………………奥 一
  奇想天外の観察…ヤンセン……平尾秀一訳
と並んでいて、日本の文献としては初めての企画であった。
前記イエンセン氏の記述によると、「この興味深い植物に関する文献はそう多くはない。二、三のドイツの 学者の古い論文の他にはヘーレ氏の“種子から種子までのウェルウィッチア・スレンボッシュ大学植物園  における―”とボスBoss博士の“南西アフリカの植物の生活”が参考になる。」としている。
以上の様な経緯で本稿をまとめるに当たって参考にした外国文献は、年代順にE.Jensen、C.Bornman、 D.Courtの3氏の記述である。
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