○社会福祉の歴史
(668 律令国家における義倉)
668年の近江令から718年の養老令で、唐を見本とする古代律令国家が形成され、公地公民制度のもとで、班田制による土地の支給と租庸調の税の賦課が行われた。
基本税の租庸調の外かに、義倉・出擧(スイコ)と呼ばれる雑税が、貧富の差に応じて付加税として徴収された。 義倉は、窮民救済のための備蓄であり、出擧は貧民に対する種もみの貸与であった。
しかし、これらは「重税の賦課」に利用される結果となった。
(710 奈良時代 (710-794) 、福田思想)
種を蒔いて収穫を得るように、善行を積むことにより福徳を生ずるとし、敬田・恩田・悲田を三福田という。 行基は、諸国を廻って民衆を教化し、道場を建て、病人を救い、用水施設を作った。 その影響は大で、やがて大僧正になった。 光明皇后は、悲田院をつくり孤児や病人を収容し、施薬院を設けて薬を供し病気治癒を図った。
(1160?(仏)ワルド派の運動)
12世紀後半、フランスのリヨンの商人ワルドは、ローマ教会の堕落を批判し、私財を貧民に施して人々に清貧と悔い改めを説いた。 南フランスや北イタリアに広まり、教会側から厳しい弾圧を受けた。
(1201 律宗の僧 叡尊(1201−1290))
各地で施食や殺生禁断などの事業を行い、餓者を救うこと一万余回という。
(1215(英)大憲章、マグナカルタ)
ジョン王は失ったフランスの領土回復を図ったが、国内貴族は軍役を拒否し、反乱を起こした。 これにロンドン市民も同調し、王は貴族たちの要求条項(教会の自由、貴族の負担制限、都市特権等王の専横制限)に譲歩調印した。 未だ、基本的人権と言えるものではないが、その萌芽といえる。
(1217 律宗の僧 忍性(良観1217−1303))
忍性は叡尊の弟子で、文殊信仰により病人・貧者・癩患者などの救済に尽力した。 奈良に癩患者収容所(北山十八間戸)を設け、各所に悲田院を設置し困窮者の救済をした。
(1297 永仁の徳政令)
蒙古襲来以降、窮乏した御家人たちは自己の生活基盤である所領を売却・質入れが増えた。 幕府はこれを禁止するとともに、従前の売却・質入れの所領を原則として無償返還とした。
(1426各地に土一揆、徳政一揆、宗教一揆発生 (1426頃−1580頃))
室町時代に農業生産力は向上し、農民の隷属状態から自立独立の傾向が現れた。 多数の小名主が密集した集落を形成し、村落は地域的に一つにまとまり、郷村制が芽生えてきた。
農民の年貢の減免が聞き入れられぬときは逃散、強訴、更には土一揆へと発展した。 1485年山城の国一揆では、応仁の乱以来の戦乱に悩む土民が、国人層と組み10年間の農民の自治国家を作った。
(1461 寛正2年の大飢饉 勧進聖願珂の京都六角堂での施食)
(1516 トマス・モアの「ユートピア」発表)
貧困浮浪者の発生の原因を羊毛工業のマニュファクチュアの進展と看破し、これを「人間を食う羊」と批判した。
(1531 英国、1531年救貧法)
中世封建社会の構造は、農奴や職人にとって甚だしい制約をもたらしたが、彼等がそれに従順である限り、自給自足的村落共同体であり強固な相互扶助機構でもある構造として機能した。
絶対王政下の資本主義により生産手段を奪われた貧困にあえぐ浮浪者対策として、「法と秩序を守る」ために、救貧法により乞食と浮浪者の禁止・規制をし、就業を強制した。(右田p29−31)
(1582 豊臣秀吉の支配 (1582-1598))
直轄地の租税2公1民(付加税なし)で、7割近くが課税された。
(1603 江戸時代の農業政策 (1603−1867))
幕府や諸藩は勧農政策を講じたが、農民のためというものではなく、「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治める。」というものであった。 このモットーを”なんと封建的”と非難できるほど、現代が進んでいるわけではない。
明治から昭和にかけての産業振興・富国強兵の考えも同じであり、現代社会においてこの思想が払拭されたと断言できない。
(1601 英国 エリザベス救貧法)
救貧税を設け、その収入を基金として働く能力のある貧民に亜麻、大麻、羊毛、糸、鉄などを与えて就労させ、働けない者には金を与え、貧民の子弟は技術を教え込むため徒弟奉公に出させた。 重商主義絶対王政においては、商工業の発展が基軸であり、それを維持しようとしたものである。
(1628(英) 市民革命、権利の請願)
絶対主義は、貴族と商業市民層が組み、特権マニュファクチュアを保護した。 これに対して農村を地盤として成長した私的マニュファクチュアの中産産業市民層は、自営農民、手工業者、小商人、貧農、労働者と組み、民衆が一団となって人民解放を戦った。 チャールズ1世は、課税や逮捕権についての議会の同意を約束した。(マグナカルに引き続き、人民の権利の拡大と言える。)
(1662 英国 居住地法)
産業資本家などを支持層とする市民革命により、絶対王政は崩壊した。 結果、貧民救済は中央集権から教区主義となった。 居住地法は、教区の負担になる可能性をもつ貧しい移住民増加から免れるために、移住の制限をする目的で制定された。
この規制は、18世半ばに産業資本が労働移動を要求しだすまで続いた。(右田p35)
(1676 英国 トーマス・ファーミンの労役場)
リンネル製造を行う労役場を設立し、1700人の貧民を雇用した。 しかし、賃金だけで生活できず、救済費による補填を必要としたが、結局破綻した。(右田p38)
(1688 イギリス名誉革命、権利の章典)
ジェームス2世は専制的であり、議会は王を追放し王女メアリーとその夫ウイリアム3世を共同統治の王として迎えた。 両王は議会の提出した権利の章典(課税権、徴兵権の議会同意、議会の自由選挙等)を認めた。(1628年の権利の請願とほぼ同様。「人民の権利」の概念の萌芽である。)
(1716 享保の改革 (1716-1745))
幕府財政悪化により直轄地の租税を4公6民から5公5民へ引き上げ、司法制度整備をし、江戸町奉行に大岡越前守忠相を登用し、江戸小石川に貧民疾病救済のための養生所設立した。
(1722 英国 労役場テスト法)
労役場を制度化し、救済費の削減を図った。 労働と生活は悲惨を極め、「恐怖の家」に転化した(右田p35)。 労役場制度の導入は結果的には徐々に発展しつつあった産業資本に対して低賃金による労働力の確保を約束したし、労役場での強制労働は労働力の陶冶に貢献した。(右田p43)
(1776 アメリカ独立宣言)
(1784及び1787年天明の大飢饉)
浅間山大噴火、関東地方大出水と天候不順により大飢饉が発生した。 幕府は窮民への施米、救米払い下げ、粥食励行、米買占め・売惜しみ禁止などをおこなった。
(1789 フランス革命)
(1789 寛政の改革(1787-1829))
旗本の給米を取扱う札差に6年前の貸金を全部放棄させ、5年以内のものを利下げ年賦償還にするとした(棄捐令)。 農村の荒廃、農民の離村流亡は年貢の源泉を枯渇させるものであったから、間引きを禁じ、多産者に米金(養育金)を支給した。 大飢饉に備えるため、諸大名に1万石につき50石の米穀の貯蔵を命じた(囲米の制)。
また、大阪・京都など幕府直轄地に補助金を出して社倉・義倉をたてて貯穀を奨励実施した。 江戸では町会所をたてて、貧民救済、低利貸付のため、町入用を節約し、7割を積立てさせた(七分金積立法)。 農村の窮乏により都市へ流入した浮浪者を帰村させるため、長谷川平蔵の建議により教科更正施設として石川島人足寄場を建設した。
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