○社会福祉の歴史2

(1802 英国 工場法)

(1833 一般工場法:12時間労働制)

(1824 米国 クインシー・レポートと貧民院の時代)

居宅での救済は浪費的であり、勤勉の習慣にとって破壊的である。 貧民院で労働させ、自身で生活資料を稼ぎ出すべきである。 当レポート後、労働可能貧民の救済制限および貧民院の設置が一般的に追及された。
米国では、労働力は移民というかたちで外部から導入され、英国のように資本の本源的蓄積の過程で創出された貧民=無産労働者ではなかた。 しかし、客観的には、貧民院は産業資本のための労働力の創出なり陶冶に貢献するように機能した。

(1832 天保の大飢饉 (1832-1836))
天保の大飢饉に、幕府は、救小屋を建たり、窮民に米を施すなどを行った。

(1834 米国 貧民状態改良協会)
白人プロテスタントで中産階級の1800人の個人会員によりNYに創設された民間慈善組織、労働可能者にたいする院外救済は、民間慈善機関に委ねられた。 協会の目的は、貧民の「受給貧民化の防止」(救済費削減)であり、その関心の基底にあるものは、自分たちの「財産と生命の保証」で、「慈善機関であるよりは社会統制の装置であり、社会秩序ある、安定した平穏な状態を維持するための手段」であった。

(1834 英国 新救貧法)
マルサスの人口論は、「イギリス救貧法は、人口を支えるに足りるだけの食料を生産しないで人口を増加した。 公的な救済は、貧民の怠惰・不注意を助長し、自助独立の気概を失わせる有害無益なものである。」とした。 この原理を基に、劣等処遇原理(救済を受ける者の状態は、独立して働く最下層の労働者の状態より快適であってはならない)及び院内救済の原理を含む新救貧法が制定された。 新救貧法は、「節約と自助」という精神の下に定着化していった。 彼等は貧困の原因を、資本主義の生み出す低賃金・失業にあると考えていなかった。「行政水準の全国的統一」の具体的実施であった。自助の精神の強調は、禁欲と勤勉を勧め労働を重視したピューリタニズムからでてきたもので、イギリス産業革命の進行とともに拡大し、中産階級に広く受け入れられた。

(1837 大塩平八郎の乱)
天保の大飢饉をキッカケに、不満を持つ全国の農民・町民が百姓一揆や打ちこわしを起こした。  ついに1837年天下の台所大阪で、大塩平八郎の乱が起き、江戸幕府の威信が大きく揺らいだ。大塩平八郎は、元大阪町奉行所筆頭与力(現在の警察署長)で、米価の暴騰による民衆の苦難を救うため、幕府貯蔵米や大商人の米の解放を求めて、乱を起こした。

(1861 米国 南北戦争 1861−1865)

(1868 明治維新)

(1871 平民身分の差別廃止)
農工商の身分差別を無くし、平民とすると共に穢多・非人など賎民の呼称を廃した。

(1874 恤救規則 1874−1931)
従来の取扱例を確認・集大成し、明治政府の下に再編成した前時代的色彩の濃い救貧法で、日本社会福祉前史の起点。

(1882 アダム・スミスの国富論)
経済における市場を「見えざる手」に任せ、政府による統制を排除する自由放任主義の考え方。 結果的には、人間の利己的欲求が一部に富を偏在させることとなり、「見えざる手」はここへ及ばなかった。 1930年代の不況を経て、ケインズによる総需要抑制政策が主張されニューデイール政策で修正される。 

(1884 英国 産業民主制論 S.Webb)
社会改良の起点としてのNational Minimum、即ち国民すべての最低生活保障政策を挙げたことは、 社会保障の原点となるべきものである。

(1884 滝乃川学園創設)
日本ではじめての民間社会事業(石井亮一)による精神薄弱者の収容施設。

(1890 窮民救済法の流産)
公的扶助を国の義務と規定する法案だが、廃案となる。日本の産業資本は労働力の不足を心配するまで発展しておらず、農村からの低廉豊富な労働力が入手可能であった。 反対論者は、貧民を怠惰であり、無知であるとし、社会の秩序・国家の安寧を妨害するほど生活困窮度は深刻でないとし、公費をもって貧民救済をすべきでないとした。

(1894 日清戦争 1894−1895)

(1904 日露戦争 1904−1905)

(1908 英国 無拠出老齢年金法成立)
20年以上在住する70歳以上のすべてのイギリス人に資力要件に基づき、年金を支給。 権利としての年金支給は、慈恵性からの脱却の第一歩である。 「劣等処遇の原則」の究極的廃棄を、法的に確定するものである。

(1908 感化救済事業講習会開催)
政府は「救貧より防貧」を旨とし、公的救済を忌避し隣保による私的相互救済を優先した。  一方、市民社会の未成熟が慈善の社会化を著しく遅滞させた。  政府は、底辺の地方有力者支配秩序を強化しつつ下からの組織化を画する地方改良運動の流れの一環として、善良有力な国民をつくる事業と個人の救済にとどまらない国民相互の救済の活動事業を結合させていった。

(1911 英国 国民保険法)
健康保険及び失業保険を含むもの。 失業・貧困問題の顕在化は、労働運動・社会主義運動の高揚をもたらし、政府にそれへの対応をせまった。  自由・社会改良時代の一連の政策は、「譲歩」としての「飴」の政策の表現であるとともに、 帝国膨張路線を推進する資本家階級にとって、労働力保全・生産力維持・海外進出の尖兵確保の積極的意味を持っていた。 このような経済的・社会的状況の反映が、「国民効率」と「国民最低限」の思想であった。拠出主義に立脚する「国民保険法」の成立によって、慈恵性は完全に払拭されることになった。 失業保険における保険原理の採用は、被用者・雇用者・国家という三者による費用負担原則という新たな財政原則を確立するものである。

(1911 工場法成立、我が国最初の労働者保護立法)

(1911 社会政策学会誕生)
官立大学の教授らによる社会的軋轢の防止ないし調和をはかる社会政策研究がされるようになった。

(1911 恩賜財団済生会設立)
治安対策を強化して危険思想の撲滅を図る一方で、その予防と良民形成のために皇室を頂点とする権力の慈恵政策を遂行するもの。  感化救済事業の組織化が強められていくこの段階は、公的救済の放棄を意味し、日本社会事業の歴史のうえでもまさに「冬の時代」を確証づけるものであった。

(1914 英国 精神薄弱者法)
1800年代の隔離収容への反省としてコミュニテイ・ケアの萌芽がみられ、1940年代に第一展開、1970年代に整備期を迎え、1980年代のサッチャー政権下の市場原理導入で大きく変化する。

(1914 第一次世界大戦 1914−1918)

(1917 ロシア革命)
資本主義経済社会体制以外の体制が発足し、資本主義陣営は、これに対抗し得る経済体制をとらねばならなくなった。

(1917 米国 メアリー・リッチモンドの「社会診断」出版)
米国の慈善組織での実践者による「ケースワークが共通に所有することのできる知識、方法を確立し、それを専門的水準まで高める」書である。

(1918 米騒動)
米価の急騰により厳しい生活難に陥った民衆の大衆行動で、日本における市民運動として意義は大きい。 但し、これに市民運動としての意義を見ない学者も多い。

(1918 方面委員制度(大阪府)導入)
細民階級者の生活状態を知る機関として創設され、主に小学校が事務所になった。 後の民生委員の前進である。 地域住民に密着した調査は、「有産者階級と無産者階級の諒解」を深めることに多少の効果はあったばかりでなく、治安維持にも効果があった。

(1919(独)ワイマール憲法)
世界で最も民主的といわれた憲法で、主権在民、普通選挙権、社会保障、生存権、団結権等の労働基本権等を定めた。 人権の思想のもとに社会福祉を考える法的根拠が与えられた。

(1919 大日本労働者同盟友愛会)
1912年の友愛会を改称、この頃、労働運動の活発な時期で、ストライキも多発した。 友愛会は、労働非商品化の原則、労働組合運動の自由、8時間労働制などを目標にしていた。

(1919 社会課発足)
内務省地方局救護課が社会課と改称された。 明治以来政府に忌み嫌われた「社会」の用語が、政府部内に採用されたことは画期的なことであった。 救護課−社会課−社会局への変遷は、福祉政策の慈善事業から社会事業への変遷とみられる。

(1922 健康保険法成立)
同法の目的は、@労働者の生活上の不安除去、A労働能率の増進、B労使の協調、C国家産業の健全な発展

(1925 ILO労働保障の最小限度の規模に関する勧告採択)
第一次世界大戦における傷痍軍人の雇用対策の必要性から出された障害者対策の最初の勧告。




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