○社会福祉の歴史3

(1929 救護法成立 1932より実施)
昭和初期の深刻な社会不安の中、政府は「国民生活の不安と思想の動揺を防止する」ため恤救規則に代わる新たな救貧制度が必要になった。  ここに、明治以来の隣保相扶の精神と決別し、社会連帯責任主義に基づく公的扶助義務の確立となる。

(1929 英国 地方自治法:救貧業務の地方自治への委譲)
1884年新救貧法以来の中央集権的救貧制度の見直しにより、はじめて地方自治制度と社会福祉行政の体系が成立した。

(1932 三井恩賜会)
三井財閥は、金本位制の復帰を利用した円売り・ドル買いにより莫大な利益を得た。 政府は、金流出に耐え切れず前年、金本位制を放棄することとなる。 政府財政危機の一因を三井財閥にあるとする右翼により、三井財閥の総帥団琢磨が暗殺された。 かかる世論の批判を回避するために三井恩賜会が創立された。

(1933 米国 連邦緊急救済法)
ルーズベルトのニューデイール政策の下、失業者を貧困者のうちに含めて救済するもの。 州・地方に負かせていた貧困対策を連邦政府が担うこととなった。

(1935 米国 社会保障法)
老齢年金、失業保険、老人扶助、児童扶助、盲人扶助、及び若干の社会福祉サービスを含むもの。 ニューデイール救済政策の意義は、救済制度の運用を通じて大衆の不満を緩和し、彼等を受益者に替え、そのことによって崩壊するアメリカ資本主義の体制が社会主義やファッシズムへ向かうことなく、維持されて行くことに成功したということである。一方、ルーズベルトの政策は、救済を「政府の施与」の地位から「国民の権利」としての地位に引き上げたのである。

(1936ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」発表)
ケインズは、経済における自由市場至上主義への反省と、政府による調整の必要性をもたらした。 均衡財政政策を廃止し、所得の再配分を実施しするニューデイール政策を生んだ。 しかし、インフレーションを解決できず、1973年の石油ショック以降、「ばらまき福祉」と批判されるようになった。

(1938 社会事業法制定)
昭和に入っての経済不況等により寄付金収入は減少し、多くの社会事業家の財政基盤が悪化し、社会事業施設の経営は困難になっていった。 そこで、国民生活の不安の緩和を目的として、民間社会事業への助成とともに、指導、監督を強化するなどを内容とする社会事業法が制定された。 戦前の社会福祉制度は、国民の権利として保障されたものではなく、あくまで、私的救済を基本としつつ、公や私人による恩恵的な救済事業の仕組みを活用した制度であった。

(1939 第二次世界大戦 1939−1945)

(1942 ベヴァレッジ報告,イギリス)
社会保障体系と民主主義原理を貫徹し、国家と個人の協力による「ゆりかごから墓場まで」モットーに、社会保障を広汎な社会政策の中に体系化した。  現代資本主義は、ケインズ(完全雇用と経済成長のための国家介入)、フォード(大量生産・大量消費社会の実現)、ベヴァレッジ(社会保障・公共福祉の制度化)のトライアングルといわれる。

(1944 英国 1944−1948の社会保障法の改正)
国民保険省設置法(1944)、家族手当法(1945)、国民保険法(1946)、国民扶助法(1948)。  英国では、独占資本が労働組合運動を押さえ切れず、両者の妥協の結果、その有利性を先取りして、労働組合運動みずからが資本主義的危機対策の解決の担い手となった。 社会保障政策は、危機脱出の国家的課題として国・資本・労働者階級のまがいのない合意―資本主義の修正―による改革であった。

(1945戦災児等保護対策要綱)  1945/9
大量の戦災孤児及び外地引揚げ孤児が、浮浪者として都市を徘徊していた。 政府は、戦前の取締り的観点からの対策を打ち出した。

(1945 GHQ Relief and Welfare Plan 救済並びに福氏計画) 1945/12
GHQより日本政府に、占領軍の福祉原則を下記の通り提示した。
優遇措置禁止の一般扶助主義:無差別平等の原則。
単一の全国的政府機関・公私責任分離:国家責任の原則。
救済総額の制限禁止:最低生活保障の原則。

(1945 援護要綱の閣議決定) 1945/12
GHQ提示に対して、政府は独自に援護要綱を作成。 しかし、戦前の救貧法の思想に基づくものであった。

(1945 農地改革)
当時は、3/4が小作地で、50%以上の小作料を取られていた。
1945年第一次改革
1946年第二次改革、自作農創設特別措置法
不在地主から小作人への土地移転
小作料の上限を25%

(1946 労働基準法制定)

(1946 GHQ Public Assistance 公的扶助に関する覚書) 1946/2

(1946 旧生活保護法成立) 1946/9
占領軍の福祉原則に基づく緊急救済で、GHQの Public Assistanceを満たすものでは無かった。 日本政府がGHQの Public Assistanceに対応できるまでには、あと5年を要した。
生活保護法を基本法とし、児童福祉法・身体障害者福祉法を特別法とする福祉三法が戦後緊急救済対策として制定される。GHQによる福祉改革は、戦前の我国福祉政策と比べれば格段の進歩であるが、イギリス等福祉先進諸国と比べると見劣りするものである。 それは、米国は、自助の精神の国であることによる。

(1946 浮浪児その他児童等の応急措置実施に関する件) 1946/4

(1946 主要地方浮浪児保護要綱) 1946/9
浮浪児対策は、「狩り込み」であり、警官が浮浪児をトラックで収容所に運び込むというものであった。 収容施設においては、餓死寸前の状態であった(但し、国全体が同じ状態であったが)。

(1946 日本国憲法成立)

(1947 地域保健法成立)

(1947 児童福祉法成立)

(1947 共同募金運動始まる。)
憲法89条による公私分離の原則により、公的財政支援が打ち切られ、民間社会福祉事業の運営は悪化した。  共同募金運動始まったのも、民間社会福祉事業への財源確保を背景としていたからである。(社福P8)

(1947 国連に人権小委員会設置)
国連の経済社会理事会の人権委員会に「差別防止・少数者の保護に関する小委員会」(差別小委員会または人権小委員会)を設置。

(1948 世界人権宣言 国際連合宣言)
すべての個人の尊厳と基本的人権を宣言

(1949 身体障害者福祉法成立)
GHQによる旧軍人・軍属に対する優先的保護の禁止のため、傷痍者保護対策を身体障害者一般に及ぼした法整備となった。

(1950 生活保護法成立)
1946年GHQ Public Assistanceに対応する法整備。

(1950 精神保険及び精神障害者福祉に関する法律成立)




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