日常生活


鍋を焦がさない工夫鍵をなくさない方法 ADHD専用ウエストポーチ
バザー出店・初挑戦
今年、新入社員になって
鍵をなくさない方法(2)
ノートの工夫
きれいな机を目指して
ちょっとしたネック
大掃除
ADHDとしての自覚
鬱状態対処の方法
HOW TO コツ〜愛蔵版
記憶力を向上させ、脳の老化を防ぐ方法
運動 散歩の勧め
生活の知恵について
私の場合の興味のない物を覚えられないことへの対策
ご教訓
強運になる方法とおしゃれに見えるトリック
ADHDならではの特技?
古雑誌を思いっきり捨てよう!
私の衝動買いへの対処法
手抜きアイロン?
部屋が汚れる、を考える・・
読書嫌いをいかに克服したか
ADDらしき人を指導する立場の仕事
物事の視点を変えてみること
自分を大切にするということ
時差ぼけを防ぐ10の方法
日常の工夫
春という季節
多重債務の処理方法
(高機能・アスペ)の保護者学習会
インターネット中毒
普通の人にできること
無洗米
少しでも良いからいいことを探そう
露見してしまう不注意
身体の記憶を形づけるための効果的な方法
障害者合同面接会
トイレットペーパー
アイデアノート
聴覚刺激
職活動のその後
燃え尽き症候群
新たなる戦い 血糖値
ダニ
向かいの家
近所のカゴ猫
自作時計
鬱の状況
データのバックアップ
クレジット審査
ほどほどに・・  (投稿)
鬱の日々_その2
事の顛末
楽な生き方
病気で仕事を休んだとき
最近の私の食事
はるかの私的「一年の総括」
年齢の本と遅咲きの花<
AD/HDのホームページの作成
ペット遍歴_01
成功体験
3歩進んで2歩下がる 自分の心の状態を助けるヒント
子どものころからの大好物
人体改造・装飾という趣味
軽度発達障害者ママには育児サポートが必要だ!
やわらかいご飯とかたいご飯どっちがすき? 等
自分が信用出来ないとき
トットちゃん
思考停止実験
カンチュウハイ飲んで
思考停止実験その後
障害を受容する事、それに伴う問題
no music,no life
うちの息子たち
株で失敗した経験
15分の運動で気分が爽快になる!?
ベジタリアンは長生き!? 僕の現状
悩みの解決法としての方法<
言葉考 無駄な言葉が多すぎる<
AD/HDをもつ母親のAD/HD児の子育てについて
マスコミのイメージ作り
障害を持っているという甘え 酢豆腐
仕事に過集中
うちの猫
スィッチ
最近出会った奇妙な服装の人々
You are what you eatの真相
ビジネスマンのリラックス空間
ひょうたんから駒
わすれ癖<
記憶力 1
ガラスの世界
記憶力 2
鬱鬱的日常 Aタイプマダムの日常(1)
『Aタイプマダムの日常』1
脳の覚醒 鍋焼きうどん<
架空請求や振り込め詐欺の天敵 指の体操 1
目標達成へのリマインダー
指の体操 2
泥棒さん
自殺願望と長生き願望
あわや火事<
気になる言葉遣い
枯れる
ませた子供
頭が働かない状態
隣人は酒鬼薔薇聖人
棚からぼた餅<
英会話に浸りまくり
エチュードについて(1)
注意欠陥な犬
エチュードについて(2)
スキヤキ
朝の鳥
プロのお掃除
交通事故
意識障害
大きなお世話
よくものを聞かれます
キャーッ!
転落
紫陽花
サングラス
端っこの席
ADHD猫 ー チロ

80歳の父の腸閉塞
ADHDである私への目
人が大手を振って歩く街
計算ドリル
育ての家でのお話
母と躾<
私の行動の違い
当たり前の事が出来ない
掃除機<
ADHDを持つ心の中
見つかった!
当たり前のことが出来ないPart2

多動と衝動の傾向と対策
D社モップ
難しい事簡単な事
心の重荷
自由な行動・発想とADHD 英会話
写真を撮る行為
会社ってみんなで作っていくもんなんだよね
上るまで待つ
ホルマリンに気をつけろ プーさんのぬいぐるみ 学者の奇行
給食
ADHD論 脳内映像
時間管理
脳内映像2
脳内映像3
日本語は難しい
ADHDと思考回路 1
夏を乗り切るために
ADHDと思考回路 2
改めて、障害とは
ADHDと不理解
見解の相違
一日千秋とADHD
自分の脳を見せれたら楽なのに
お茶など
体を動かせない子供達
不審人物
不審人物2
雨降りで気分はどんより
品物の価値・オークションとADHD
自分なりの認め方
何もする気になれない
セキュリティー研修
年度末
私は大馬鹿だと思ったとき
電話の応対で失敗したこと
出産、育児、人生のもろもろ
外食
兎に角、障害との格闘
年をとったかなと思うとき
確定申告
年度末
えらい目に遭いました
食生活を見直す
鍼灸
誰にも負けたくない症候群
俺は俺症候群
上司様 サポートのお願い (1)
上司様 サポートのお願い (2)
上司様 サポートのお願い (3)
--> 猫のいるくらし
上司様 サポートのお願い (4)
上司様 サポートのお願い (5)
手のひらに水がザーっ
上司様 サポートのお願い (6)
早く移動すること
電車の中のイヤホン
朝の混んだバスに思うこと
捨てれない事
ああ無情の入院川柳
All or Nothingー完全主義
ADHDの自分なりの操作法
依存症
ADHDを理解してもらうための努力
ADHDの執念
風邪をひいて健康を思う
胃酸勝った現象
ATMってかしこい!
健康であること
ADHDと回路
ネット右翼とADHD
非ADHDの方々への叫び
フランスパン消失事件
ADHDを取り巻く環境を考える★@
ADHDを取り巻く環境を考える★A
娘のパン作り講習会・誕生会 (NEW)
ADHDを取り巻く環境を考えるB
ADHDを取り巻く環境を考えるC
ADHDと気が付いたときの対策 1
ADHDと気が付いたときの対策 2<
またまた、猫がやってきた
また、また、また猫がやって来た
年を取ると能力が衰えるのか? (NEW)
パソコンを組み立てる
コガネムシ
英語の読み書きができない元高校教師
ADHDなりの対処法@
ADHDなりの対処法A
ADHDと対処法についてB
酒嫌い?
草の生命力

プチ成功体験(その1)の1
プチ成功体験(その1)の2
--> プチ成功体験(その1)の3
脱・オール オア ナッシング思考(の勧め)
物作りの勧め
提言?・”のび太くん成長重視型”の新版どらえもん
提言・ADHD/ADD専門医の受診を容易にするために(1)
ADHDと集中力
プチ成功体験・3 体調を崩さない
エッ、わたし、ごみ拾い?!
(プチ)成功体験3・少しずつ片付ける
ADHD克服のためのプログラム
ユニバーサルデザインとADHD/ADD
適正努力
少子高齢化とADHD/ADD
メタ認知
突出した発想が潰されないための仕組みとは
ADHDの生活サイクルについて
前向き的表現
プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(1)
プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(2)
プチ成功体験5・ネット投稿、サイト運営で得る緊張感
自転車を見直す
失敗学の実践とADHD
プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(3)
ADHDの特性をもってADHDを制す
人の振り見て我が振り直せ
目標達成
できる人モデル、できない人モデル
自分を変えられないことの厳密な証明はあるか?
今日のワンフレーズ:「達観」
先延ばしについて考える(1)
先延ばしについて考える(2)
能力ホワイトボックス、性格ホワイトボックス
今日のワンフレーズ:「改善ロードマップ」
「自己改善カウンセリング日記(1)」
「自己改善カウンセリング日記(2)」
金銭管理のあり方について考える
生活支援・極力お金を使わない方策集
この一年を振り返って 〜今年の取組みの自己評価と来年の抱負
新年の目標 〜自己サイトの内容拡充を中心に(1)
ADHDのメリット
ゴミ屋敷問題
競争する社会から棲み分ける社会へ
ご近所散歩の勧め
何を学ぶか

天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(3)
不便な物
天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(4)
睡眠障害とその改善
天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(5)
天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(6)">
公開診療、カウンセリングの提案<
パソコンダウン
天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(7)
今日のワンフレーズ:「じぶん、新発見」
公開診療、カウンセリングの提案(2)
今日のワンフレーズ:「3年先の自分が見えますか?」
自己改善カウンセリング日記(3)
読書
> 今日のワンフレーズ:「今しかできないこと、今だからできること」
熱中症
今日のワンフレーズ:「自分だからできる、自分にしかできない(と思える)こと」
今日のワンフレーズ:「上の空で差をつける」
リユースの勧め (NEW)
今日のワンフレーズ:「失敗は成功の素、にしないと」
夏の健康
外国人と空気読み
猫ちぐら
ID野球に学ぶ(1)
ロコモーションシンドローム
欠点・悩みを逆手にとって生きてやる!
ID野球に学ぶ(2)
今日のワンフレーズ:男性の視点
ID野球に学ぶ(3)
今日のワンフレーズ:呆れ、嘆きを一歩進める
要らない物
二者択一ミス
今年の一年を振り返って
悪いことは続く
今日のワンフレーズ:実践、実践、伝達、理屈
不可思議、不気味な出来事
今日のワンフレーズ:素人は勉強すれば玄人
ネットの怖さ
今日のワンフレーズ:苦労の平等
先延ばし、時間管理について考える(3)
「気にしない、気にしない」と言われても
先延ばし、時間管理について考える(4)
好奇心が衰えた?
今日のワンフレーズ:「苦手なら専門家を目指せ」
先延ばし、時間管理について考える(5)
私たちに出来ること
オールジャパンで行きましょう!
能力の可視化、相対化
要らない物2
勉楽
働くを楽しもう
散歩の薦め
心の知能指数(EQ)
断捨離
文房具 (NEW)
肩書きは後から付いてくる (NEW)














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散歩の薦め

同じような傾向の人が多くいるようだが、私もご多分に漏れず春鬱症状がある。つまり、春になると無気力になり、何かをやろうとする気が失せ、何をやっても長続きしない状態がひどくなる。悪いのは、その状態になっていることを自覚できない点だ。ある日気がついて、そう言えば最近何をする気にもなれない、何をやっても集中できないと自覚するのだが、そう自覚してもそれでどうにかしようと言う気にもならない。

春鬱は時間が経てば治るのだが、毎年それを繰り返していてもしょうがないので、何年か前から始めた対処法に、散歩がある。天気の良い日を選び、弁当や飲み物を持って電車で出かける。行くのは精々電車で1時間の範囲だし、私の住んでいる場所から1時間では自然に恵まれた場所はないが、むしろ自転車で1時間走れば大きな寺や神社、公園、河川敷などに行けるので、そこで半日くらいのんびりする。少なくとも人混みに揉まれるような場所には行かない。

散歩の効用はまず体を動かすことで精神的にもすっきりする。これは別に散歩でなくとも、精神的に落ち込んだときは軽い体操などをすることでかなり改善するのだが、問題は精神的に落ち込んだとき、軽い体操などをしようと言う気にならないことだ。そんなときでも散歩なら気晴らしになるような気がするので、私はよく出かけるし、自転車で買い物でも良い。それだけで、かなり落ち込みが改善される。

だから、計画を立てて遠出の散歩をするときは、それなりに精神的に落ち込みが改善しているときでしかないのだが、改善したからそれでよいとせずに、もう少し心を活性化するための積極的な手段と考えるようにしている。

また散歩のもう一つの効用は、光を浴びることにある。人間は昼行性の動物であり、太陽光を浴びることで体も精神も活発に動くように出来ている。だから、鬱の治療にも光療法があるくらいで、強い光を定期的に一定量浴びることで鬱状態を改善するやり方だ。また不眠治療にもこの光を浴びる方法は有効であり、結局人間の精神、体を活動させるためには光が欠かせないとされているのは頷ける。たしかに散歩に行って歩き回って体を動かし、良い空気を吸いながら体いっぱい太陽光を浴びることで、一日それをやると見違えるほど生き生きとする気がする。下手な薬などを飲むよりよほど効果的だと私は思う。

医者に行っても散歩をしろ、外に出て光を浴びろと言われるはずだ。

最近は節電が方々で言われ、煌々と灯りをつけていると非難を浴びそうだが、私は普段からかなり明るい照明器具を使っている。それは目のためではなく、自分で気がついたのだが、暗いと精神的にも低下する気がするからだ。物を見るためなら、もちろん今の半分以下の照明で十分だが、精神的なレベルを保つためには必要以上に家の中を明るくしておかなければならないと思っている。

いくら部屋の中を明るくしても精々1000ルクスにもならないが、戸外だと曇っていても1万ルクスにはなる。やはり、散歩の効用はこの面でも大きい。

by ロクスケ











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心の知能指数(EQ)

今日のワンフレーズは、特に発達障害者へのケアのあり方について論じるためのものです。

今から10年ほど前、「こころの知能指数(EQ)」という本が世間でベストセラーになりました。知能指数(IQ)の対になる斬新な概念として、また世の中で成功する要素はIQではなくEQであるという主張が受けたことがベストセラーの要因であったように思います。それほど前のことでもないため、ご記憶の方も多いのではないかと思います。

その本の中での主張内容の一つとして、IQが先天的な要因で決まる、言い換えれば後天的にIQ値を上げることはできないようであるのに対し(注:あくまでこの本の中での仮説的な論述です。実際には、IQ値も後天的に向上しうるものです)、EQは後天的な生育環境や本人の努力等によって決まるとされていることが挙げられます。

併せて、感情を上手く理性でコントロールできるようにするための「感情教育」が成長期に必要であると本の最後の方で主張されていました。

(IQに対する考え方はともかく、)それらの概念や主張は確かに斬新なものではあったとは思います。ですが、センセーショナルにEQの概念や主張が総論として述べられているだけで、では具体的に感情教育とはかくあるべきかといった各論が全くありませんでした。その点は当時の書評でも述べられており、かつ小生も全く同意見でした。

あれから10年経ちますが、EQの話題はその後殆ど耳にしません。Googleで「EQ」「こころの知能指数」と検索してみても、当時の書評やその後に刊行された続編の著書などがヒットするのみで、最近のホットな話題が、言い換えればその後のEQに関する進展の話題が全くヒットしません。残念ながら、一過性の流行語として片付けられてしまったように思います。

とりわけ、発達障害とEQとの関連性については、あまり論じられたものがありません。Googleで「心の知能指数 発達障害」、「EQ 発達障害」と検索すると、発達障害児の教育に関連して一部ヒットするのみです。成人当事者も含めた、抜本的なEQ、言い換えれば社会的知性の向上のあり方、具体的な感情教育なるもののカリキュラムのあり方の論述が強く望まれるところです。

発達障害向けとしては、SST(ソーシャルスキルトレーニング)がありますが、これもごく基本的な対人関係のスキルの習得を目指したものです。EQ向上のための感情教育なるものは、勝手な解釈ながら、特に発達障害向けについては、恐らくこれの続編として位置づけられることになるだろうと思います。

EQ教育、感情教育に関する各論の言及を、EQの著者を含め、誰もしないのであれば、僭越ながら小生がその一端を担わせていただければと本気で考えております。

手前味噌ながら、個人的な取組みとして、最近別のシリーズ記事として投稿している、暗黙知に関する論述、また特にそれの具現化として「〜という場面で相手が〜と言ったとき、本音では〜と思っている(或いは、暗に〜と言っている)可能性が高い」というパターン事例集の整備があります。例えばこれらを活かせないものでしょうか。

今後、これらの取組みの延長として、或いは加えるものとして、特に発達障害者向けのEQ教育のあり方について、積極的に論じてみようと思います。

by なさ











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断捨離

今ネットなどでは断捨離という言葉がちょっとしたブームのようだ。元々は仏教用語で、欲望を断ち、欲望を捨て、欲望から離れることを言うらしいが、俗人である私は、そんなことをしたら生きていることも意味がないではないかと思ってしまう。なにしろ、人間は欲望を満たすために生きているような物だから、それがならんというなら、生きていることもならんと言うことになりかねない。

同じような教えは、キリスト教などにもあり、金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るより難しいそうだから、私など全く問題なく天国にゆけそうだ。ただし、他の理由で難しいとは言われるかもしれないが。

それはともかく、人間はとかく欲望に支配される生き物であり、それを否定されるなら人間であることを否定されるのではないかと、俗人である私は思う。むろん、その教えの真意は、精神的な平安、喜びこそ真の人間の目的であるということなのだろう。

理屈では分かるが、その通りにはならない。物欲がある程度満たされないと精神も満たされないのが普通ではないか、物欲を離れた出家でも、在家の喜捨が無ければ生きてゆけず、精神的な高みに立つための修行も出来ないのだから。

といろいろ屁理屈を並べたところで、本題にはいるが、ネットで話題になっているのは仏教の話ではなく、身辺の整理についてであり、周りの物を捨てて最小限の物だけの生活にすることで、精神的にも整理がつくということを言っている。

ある程度それは同意できるのだが、ただし問題が生ずる。みんながもし同じような考えにいたって物欲を抑制してしまうと、つまりは物が売れなくなる。新しい物を開発しても、需要がなければ開発費も調達できずまた投資もされないので、新製品が生まれなくなり、結局同じ物が作り続けられ買われ続けることになる。つまり、製品の新陳代謝が無くなる。

そうなると、経済全体が沈滞し、雇用が減るし人々の収入が減る。結局経済はまた沈滞し、最終的には弱者、すなわち病人、障害者、高齢者、子供から生きてゆく余地が無くなって、社会全体が滅びてしまう。

人間は精神的な世界を持っている唯一の動物であり、精神的な価値を求める大切さを知っている。だが、その人間の生存を支えているのはあくまで物質世界であり、それを支えているのは、人間独自の経済なのだ。その経済が存在できるのはまさに人間の尽きることのない物欲なのだ。

したがって、精神的な高みを追求するためには物欲を捨ててはならないということになる。

結論として、今ブームになっている生活上の断捨離は、きわめて限定的な範囲に限られて、すなわち、断捨離を実行できる限られた人たちだけに許された贅沢だと、私は思う。ただし、無駄を廃することは否定しないが、無駄も必要だと言うのも真実だと考えるからだ。

by ロクスケ











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文房具

昔、文房具メーカーの人と話をしたことがあるが、「文房具とはいくら売れても金額はたかがしれているし、それに競争が激しいのと必需品だから価格が高いと売れない。だから、儲かる商売じゃないんです。貧乏具って言われてますから・・・」と自嘲していたのが印象に残っている。

当時私たちが普通に考える文房具とは、筆記具、ノート、定規やコンパス、筆入れ消しゴムなどなど子供の頃からの必需品で、だからこそ大量に売れるだろうが、どこの製品も変わり映えせず、それにそろって値段の安い物だ。この人の嘆きを聞いて、さもありなんと思ったものだ。

この基本状況は今でも変わらないのだろうが、それでもやはり電子文具の登場や、電卓、コピー機、パソコンなどが文具の分野に入り込んできて、技術開発力のある大手はそれなりに新製品で売り上げを伸ばしているようだ。

ネットなどにはびっくりするような高い文房具が有る一方、100円ショップでもよくこんな値段で売れると驚くような文房具がたくさんある。

最近見たのは数千円もするノート、数万円のシステム手帳、数万円の色鉛筆、やはり数万円のボールペン、数十万円の万年筆などなどがネットにあった。けっこう売れているようだ。一方、同じ製品が100円ショップに売られていて、一応使えそうだ。

ただし、日常的に使う物であれば、私も使い心地を優先する。一時期はけっこう使っていたが、今私はシャープペンシルをほとんど使わない。2,30円で買える物もあるが、今使っているのは一ダース1000円ちょっとの鉛筆だ。100円の鉛筆は書いていてもざらつき引っかかり、書き心地が悪すぎてとうてい使い物にならず、一方その10倍の値段の鉛筆は、鉛筆の理想を全て具現化しているようだ。書き心地はもちろん、削り心地も気持ちがよい。一ダース有れば一年以上使えるのだから100円の物を買う気にはなれない。今私の机の上には鉛筆立てに20本以上の鉛筆が削られキャップをかぶせられ(最近金属製の鉛筆キャップが無くなった)が用意されており、いつでもすぐ使えるようになっている。芯が減ったら、まとめて自分で作ったナイフで削るのもなにやら楽しみだ。ちなみにカッターで鉛筆を削るのは落ち着かないので、私は金鋸の歯をグラインダーで研いで柄をつけた自作の鉛筆削りを使っている。これがまた、売りに出したいほど使い心地がよい。

ノートも使い心地を重視して選んだが、とうていネットで紹介されている数千円ではない。システム手帳は、自分が一番使いやすい(とはいえほとんど使わないが)物を自作して40年ほど使っている。電卓は、100円ショップの物も持っているが使わない。ある程度の大きさとキータッチが優れた多分数千円で買ったものを使っている。

文房具はこり出せばきりがないし良い物を使いたいとは思うが、常に使うだけに、使い心地、手にどれだけなじんでいるかが選択基準になっている。私は万年筆が好きでかなり投資したと思うが、結局一番使い勝手の良い国産の物を40年使い続けている。いくらで買ったか覚えていないが、多分今の価格に換算して数千円以内だろうと思う。他にももっと高額な国産、外国製を何本かかったが結局この万年筆が一番使いやすい。

高い物が使いやすいというわけではない。たまたま文房具を例に挙げたが、値段が高ければ良い品物とは言えないことを改めて考えた次第だ。

 by ロクスケ











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肩書きは後から付いてくる

今日のワンフレーズは、小生が前職の頃に、とあるビジネス書を本屋で一読したときに出ていたものです。働く上で、金稼ぎや昇進にばかり目が行くのは良くない、良い仕事を真摯にしていれば、周囲が自然と評価してくれ、昇給、昇進は自ずと実現する、という意味だったと思います。

小生が前職の頃、特にまだ若手だった頃、職場でお世話になったある程度上の先輩がいらっしゃった。その先輩は、ご自分でペーパーテストの類は苦手なんだよなぁと言っておられ、聞けば、社内の昇進試験に何度か落ちているとのことであった。しかし、普段の仕事の上では非常に真面目で、きめ細かい人であり、後輩の面倒見も良く、人望も厚かった。その人の悪い噂は一切聞いたことが無かった。

当時、ご自分が直前の昇進試験に落ちたことを夜の席の場などで愚痴っているのをお見かけしたが、酒に酔った勢いもあり、小生が思わず、「大丈夫ですよ。××さんのように良い仕事していれば、肩書きは後から付いてきますよ!」と、本で読んだことの半ば受け売りで励ましの言葉をかけたことを覚えている。ある程度上の先輩であり、後輩の分際でそういった言葉をかけるのは失礼だったかもしれないが、小生はその先輩を慕っていたし、本音でポロっと言ったことなので、失言ではないと今でも思っている。

その後、小生は転勤し、その先輩の下を離れたが、聞けば、その直後、その先輩も栄転されたとのことであった。面白いのは、その先輩が落ちたと言っていた昇進試験に合格しないと本来就けないはずのポスト(課長代理クラスのグループリーダー)に、合格前なのに異例の抜擢を受けたとのことであった。その後、無事試験にも合格されたそうで、ポストと肩書が程なく一致したと聞く。

この先輩氏のキャリアは、まさに、上の言葉の通りになってしまった。小生が以前に申し上げたこととは何ら関係なく、全くの偶然ではあろうが、個人的にはその話を聞いたとき、驚いた。と同時に、「あぁ良かった、やっぱりその通りになった。」と、他人事ながら嬉しく思ったことを思い出す。

ビジネス書に書いてあることが何でも正しいとは決して思わないが、これに限っては、まさにその通りであったと強く確信している。自分に話を置き換えてみれば、前職を辞めてはしまったものの、次の仕事を意識して、少しずつ準備は進めている。その際、いかに金を稼ぐかとか、社会的地位を得るかという欲望に駆られることなく、いかに良い仕事をするか、いかに良いものを世の中に生み出していくか、現状を改善していくかを純粋に考え進めていきたいと、上の先輩の例を常に思い出しながら、意識していきたい。

by なさ











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鍋を焦がさない工夫


 鍋を焦がさない工夫というのがありましたが、家の両親、魚焼きっぱなしで、仕事にでてしまうことが、あまりも多いので、ガスレンジを、コンピューター制御の物に買い換えました。15万円ほどかかったそうです。弟が一緒に住んでいた頃は、弟が火を消し、火事にはならなかったんですが、今は弟は独り暮らしを始めたので、弟のかわりに、ロボットじゃないけど、コンピューター制御付のガスレンジが役立ってます。母は、私が「あー、魚焼く時間見なきゃ!」と言うと、「あ、いいの、いいの、自動で止まるから。何分焼くか、セットしてあるから。」なんて、のんきに構えていました。煮物も鍋にかけたまま、味噌汁も火にかけたまま、仕事にでてしまうことが、よくあるらしく私は心配していましたが、新しいガスレンジのおかげで、今は安心です。私はガスレンジに15万もかけられないので、タイマーを使います。

 一度にいくつもの事をしようと思うと、なんでタイマーがなっているのかを忘れるので、やかんでお湯を沸かすのと、お風呂を沸かすのは、同時にしないようにしています。

 タイマーをかけていても、パソコンで書き込みをしていると、タイマーの音がなってても、「あー、やかんのお湯が沸騰してるなあ」と思いつつも、書き込んでて、やかんの事を忘れてしまうので、書き込みの時は、書き込みだけに専念することにします。

 今、やかんの事で不安になったので、火の確認をしてきました。大丈夫でした。コーヒー飲もうとして、お湯を沸かしながら、パソコンの電源を入れてしまうと、お湯が沸騰し、娘が「お湯沸いてるよー。」と知らせてくれます。娘はいろいろな刺激にとても敏感に反応するので、私にとってはありがたい存在です。パニックになった時、なだめるのは私の役目です。良くも悪くも、たいへん、おおざっぱな私は、みんなが動揺していても、私一人だけ動揺してなかったりしてます。だから、みんな落ち込んでいても、「なんとかなるよ。」とか、「私は気にならないけど?」とか言ってます。大胆で楽天的でいいねえ、と近所の友達からは言われてます。逆に私は、細かい事が眼中にないので、周りの人に教えてもらっています。長所を認め合い、短所をカバーしながらやっていくと、うまくいく気がします。相手の長所に注目し、おおげさなくらい、ほめてます。相手が照れるくらいがちょうどいいんです。

 別の視点から問題を見つめることも、他の人が同じ角度からしか見ていない事を発見できて、いいことだと思います。

 っていうか、なにがあっても、動じない、くよくよしないのが、一番です。同じ一生、くよくよしたってしょうがないじゃないですか。

 自分自身の気持ちを損なわない、健康を損なわない、というスタンスを崩さないで、やっていく事、好奇心でキラキラした心を忘れない事、笑顔を忘れない事、大事にしてるのはそんなことです。

 自己評価を高くしないと、やっていけないので、出来ない事、苦手な事にも、あきらめず、トライしていくつもりです。

 かたづけられないんじゃない、工夫すればなんとかなる、と思います。あきらめずにやっていこうと思います。by ぷちとまと



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鍵をなくさない方法


 鍵をなくさない方法ですが、決まったバッグの決まった場所へ入れることです。それも、鍵を入れるための、スペースがついた物を購入します。ぷちとまとは、○ニクロの、1000円ウエストバッグ愛用です。必要最小限セットの入る小さいバッグを最初に買ったのですが、水道代集金用の封筒や、医者からもらった薬を入れるために、中くらいのバッグに変更しました。なぜなら、手提げを持つ必要がないため、手提げ置忘れ防止になるからです。

 多動な子供の追いかけにも、便利です。

 ちなみに、靴はすぐに走れるランニングシューズが便利です。ヒールはねんざの原因になるので、はきません。 

 ぷちとまとは、ニューバラ○スの、アウトドア用を愛用しています。でこぼこ道でも、ダッシュで走れます。

 時計はできれば、Gショックの、防水モノがオススメです。いい値段なんでまだ買えませんけど。携帯も防水モノがオススメです。

 以前、洗濯機で腕時計を洗ってしまい、こわれてしまいました。友達には「あなたらしいわ。」と笑われましたが、「3万もしたのにあ〜あ、やっちゃったよ。」と、経済的にショックでした。(精神的にはそれほどショックじゃありませんでした。)ビール飲みながら、洗濯なんてするんじゃなかった。一つの事に、集中しないと出来ないですね〜。一つのことやってても、注意力が散漫でオオボケなこと、やりますからね〜。

 主人とは、かたづけの件で、けんかもしょっちゅうですが、私が、キレて、イスをけり倒すので、主人はアザんなってしまいました。今日は、多動な子が家の中で三輪車に乗って、泣くので、「うるさい!」とどなって、三輪車ごとけり倒してしまいました。

 衝動的にやってしまうので、医者からは衝動性や攻撃性を抑える薬をもらってます。

 薬飲んでても、抑えられなそうな日は、外出しないようにしています。よその人とケンカしちゃうからです。よそのお姉さんの車庫入れで、うちの子たちが、ひかれそうになったので、車の窓をこぶしでガンガンたたいて窓を開けさせ、「ばかやろう!」とどなってしまいました。

 よそのおじいさんに「しつけが悪い」と誤解を受けたので、障害の事を説明したんですが、わかってもらえず、「障害なんかない、しつけが悪いんだ。あっちへいけ。」と言われて、ブチキレてしまい「あんたがあっちへいけば!?」とどなってしまいました。それでも、はらわたにえくりかえっていたので、しつこく追いかけて、しかえししようと思いました。(オヤジ狩りですね。)主人も加勢したいと希望して、○イエーに何度となく通ったのですが、おじいさんは現れず、お礼参りは、実現しませんでした。実現しなくてよかったけど。「障害児の親、傷害で逮捕される」なんて、新聞に載っちゃったりして。

 今はできるだけ、逆ドメスティックバイオレンスしないように、心がけてます。でも、かたづけている最中に口出しされると、やっぱ、キレます。おとといもやっちゃいました。衝動的に持っていたモノを投げつけんですが、そのとき持ってたのが、洋服だったから、主人に怪我させずにすみました。ああよかった。

 翌日、主人はいつも通り、朝食にサンドイッチとサラダを作ってくれました。私は鼻歌歌いながら、洗濯物を干しました。

 主人は無言で出社したことが、唯一の抵抗だったようです。さわやかな朝、今日も一日、明るく元気に行こう!

 以上、我が家の平和な日常風景でした。

by ぷちとまと」

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ADHD専用ウエストポーチ


 ADHDの人は出かけるとき、あれがない、見つからない、自分は全部持っただろうか…と心配なまま出かけることが多いことと思います.そこで私は、この度、「ADHD専用ウエストポーチ」を採用しました。といっても大したことはなく、町でポケットの多いウエストポーチを見つけ、お出かけに必要なものは、何でもそこへいれておくことにしたのです。

 これが、極めて便利。出かける・・・ポーチを持っていく。これだけでいいのですから。ポーチの中は、車のキー、お財布代わりのポケット、薬、ティッシュ、ハンカチ、お気に入りのMD2枚、カードセット、文庫本、印・・・・など入っています。

 そして、このウェストポーチをより完璧なものにするように、次のことを心がけています。

 @毎晩寝る前にポーチのチェックをする。 ・領収書を捨てる. ・減ったお金を補充する。 ・減ったティッシュの残量確認。 ・減ったお薬の補てん。A必ず、所定の場所にポーチを置く。

 こうやって寝ます。これで、明日も安心。どこへ行くにも体の一部です。

by わんわん********************************

 わんわん様、ご投稿ありがとうございました。

 わたしも似たようなことをやっていますが、遠出の時と近場の時で分けています。

 遠出の時は、薄いショルダーバックを持っていきますが、ノート、手帳、筆記用具、デジカメ、電卓、ティッシュ、ハンカチ,読むための本。

 近場の場合はポケットに(私は通常作業ズボンをはいており、大きなポケットがたくさんあります)メモパッド、鉛筆、ティッシュ、財布、眼鏡、携帯(キーホルダーつき)をもって出ます。家にいるときは、メモパッドと鉛筆以外は決まった場所のバスケットに入れてあります。ちなみに、作業ズボンというのは便利で、長年愛用しています。仕事ではむろん油染みだらけのをはいていますが、普段でも別に綺麗なのを着用しています。ポケットが多く、丈夫で丸洗いできてゆったりしていて動きやすいからですが、ポケットが多いというが第一の理由です。安いのも理由の一つ。いよいよ汚れたら仕事用にまわしています。ファッション性は、まあ犠牲になっていますから、それで良いという方にはお勧めです。

 結局、決まった物を決まった物に入れて、決まった場所におくように癖を付けると言うことですね。ロクスケ


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バザー出店・初挑戦


 ぷちとまとは、福祉バザー明けで、ほっとしております。ケーキ作りも、縫い物も、かなりぶっつづけでやっていまして、時々仲間に連絡をとり、「今、なにやってる〜?私は、今日3回目のケーキ作り終わったところ〜!朝、昼、晩だわ〜!」「私も、ぬいぐるみ完成したところ!明日は次の作品にとりかかるの〜。」「すごいね〜。明日もまた、頑張ろうね!」と、仲間と励ましあいながらやってると、頑張りつつも楽しく作業がはかどります。これがたったひとりで黙々と作業していたのでは、ちょっと「辛い!でも頑張らなきゃ!」という風になってしまうだろうな、と思い、一人で頑張る事は私には向かない方法なんだな、とあらためて思った次第であります。

 さて、今回初めてバザーに自分の作品を、お店に並べて売るという体験をしました。新入学、新入園応援グッズとして、キルティングの手提げを何点か出しました。自閉症の娘の意見を取り入れ今どきの子供にウケるキャラクターの布地選びを手伝ってもらいました。やはり視覚的な物にはかなり敏感でシビアな選択眼を持っています。これは障害を持っていても、その反面得意な分野にはかなりの力を発揮できるのではないかという新たな発見にもつながりました。

 パウンドケーキ作りも、子供達と材料を買いに行ったり、砂糖などを計ったり、粉をふるったりなどの、お手伝いをさせながらやってみました。

 お店に出したケーキは、あっというまに完売し、子供達と共にその喜びを分かちあいました。

 将来、子供達が働くことへのイメージ作りのために、母として初挑戦したのです。障害を持ちながらも働いて自立した生活を送ってほしいとの、切なる思いからやってみようと思い、「私にも参加させて下さい。」と志願しました。「子供が小さいから無理しなくていいのよ。」と先輩お母さんから言われましたが「でも、私、楽しいから。」と、笑顔で答え、先輩に理解していただけました。

 バザー初挑戦、ひとこと感想を述べるとしたら、今の気分は、「やったー!」これにつきます。

by ぶちとまと」

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今年、新入社員になって


 こんにちは。いつもホームページやMLを楽しく読ませていただいています。これからもよろしくお願いします。

 今年、新入社員になったものです。遅刻は朝早く起きて会社につく前に一時間は考え事を作る時間を作ることを目標にしてから問題はほぼなくなりました(それでも電車の方向を間違えて遅れそうになったことはありますが、おかげで対応ができました)また、予定は予定表に書き込むことで結構対処できることもわかりました。

 ずっと大学院時代も、考えていたことですが、やる気があることとスキルがあること以外の何らかの原因でずっと予定表を使うことができなかったです。人間必死になると面白いものです。ただ、うっかりミスの管理がまだできません。この一週間にネクタイを閉め忘れて会社に行くことと、部門の新入社員歓迎会で鞄(社外秘入り)を忘れるということをしてしまい、まだ、これだけなら、なんとか対処して楽しくやっていく自信はあるのですが、もう、当分あとがない状態です。

 私は手帳に席を移動するときのチェックリストをメモ帳に作って、毎回見る習慣を作ること、いままであったミスやミスしそうになったことを記録していくこと、玄関にメモを張る等のことで対処しようと昨日考えてみたのですが、いい方法を知っている方がいましたら教えてください(こういう類のことは、なかなか自分用にカスタマイズしないと他人の方法は使えないことが多い気がしていますが、それでも何かしらのヒントが得られるかもしれないと期待しているのです)

 PS 斉藤茂太さんの著作はあまり好きでないものもあるのですが、この前読んだ「時間の使い方 うまい人・下手な人」はなかなかおもしろかったです

by 匿名

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鍵をなくさない方法(2)
鍵をなくさない方法ですが、決まったバッグの決まった場所へ入れることです。それも、鍵を入れるための、スペースがついた物を購入します。ぷちとまとは、○ニクロの、1000円ウエストバッグ愛用です。必要最小限セットの入る小さいバッグを最初に買ったのですが、水道代集金用の封筒や、医者からもらった薬を入れるために、中くらいのバッグに変更しました。なぜなら、手提げを持つ必要がないため、手提げ置忘れ防止になるからです。多動な子供の追いかけにも、便利です。ちなみに、靴はすぐに走れるランニングシューズが便利です。ヒールはねんざの原因になるので、はきません。

ぷちとまとは、ニューバラ○スの、アウトドア用を愛用しています。でこぼこ道でも、ダッシュで走れます。時計はできれば、Gショックの、防水モノがオススメです。いい値段なんでまだ買えませんけど。携帯も防水モノがオススメです。以前、洗濯機で腕時計を洗ってしまい、こわれてしまいました。友達には「あなたらしいわ。」と笑われましたが、「3万もしたのにあ〜あ、やっちゃったよ。」と、経済的にショックでした。(精神的にはそれほどショックじゃありませんでした。)ビール飲みながら、洗濯なんてするんじゃなかった。

一つの事に、集中しないと出来ないですね〜。一つのことやってても、注意力が散漫でオオボケなこと、やりますからね〜。そういえば、カイカイのママさん、ども。はじめまして。ぷちとまとです。うちにも自閉の子2人います。ひとりお絵かき系、ひとり多動系です。ついでに主人も、高機能自閉のようです。個性派ぞろいで、なかよく暮らしてます。

主人とは、かたづけの件で、けんかもしょっちゅうですが、私が、キレて、イスをけり倒すので、主人はアザんなってしまいました。今日は、多動な子が家の中で三輪車に乗って、泣くので、「うるさい!」とどなって、三輪車ごとけり倒してしまいました。衝動的にやってしまうので、医者からは衝動性や攻撃性を抑える薬をもらってます。薬飲んでても、抑えられなそうな日は、外出しないようにしています。よその人とケンカしちゃうからです。よそのお姉さんの車庫入れで、うちの子たちが、ひかれそうになったので、車の窓をこぶしでガンガンたたいて窓を開けさせ、「ばかやろう!」とどなってしまいました。よそのおじいさんに「しつけが悪い」と誤解を受けたので、障害の事を説明したんですが、わかってもらえず、「障害なんかない、しつけが悪いんだ。あっちへいけ。」と言われて、ブチキレてしまい「あんたがあっちへいけば!?」とどなってしまいました。

それでも、はらわたにえくりかえっていたので、しつこく追いかけて、しかえししようと思いました。(オヤジ狩りですね。)主人も加勢したいと希望して、○イエーに何度となく通ったのですが、おじいさんは現れず、お礼参りは、実現しませんでした。実現しなくてよかったけど。「障害児の親、傷害で逮捕される」なんて、新聞に載っちゃったりして。今はできるだけ、逆ドメスティックバイオレンスしないように、心がけてます。でも、かたづけている最中に口出しされると、やっぱ、キレます。おとといもやっちゃいました。

衝動的に持っていたモノを投げつけんですが、そのとき持ってたのが、洋服だったから、主人に怪我させずにすみました。ああよかった。翌日、主人はいつも通り、朝食にサンドイッチとサラダを作ってくれました。私は鼻歌歌いながら、洗濯物を干しました。主人は無言で出社したことが、唯一の抵抗だったようです。さわやかな朝、今日も一日、明るく元気に行こう!以上、我が家の平和な日常風景でした。 

by ぷちとまと
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ノートの工夫
 こんにちわ わたしの投稿は大人専門ADD-ADHDのHPに「わたしは治しましたPart1,2,3,4」って感じで載ってるので参考にしてください。ところで改善というかわたしが仕事で使うノートは以下のように工夫してます。

 1.A4縦型でいうと各ページの左端から3cmくらいのところで定規で縦に仕切り線をピーッと引く。そして右端から3cmくらいのとこでもやはり定規で縦に仕切り線を引く。

 2.するとA4だから横幅20cmとすると3cm,14cm,3cmと3つの部分に各ぺーじが分かれることになります。そして右端3cmのところは日付となにをやったか後から見て一目でわかるような適当なタイトル、次の14cmの部分は当然、肝心な中身。そして最後の右端3cmのところは懸案事項をメモ書きでかいてます。するとあとから見返す時、あの仕事はいつやってたかとか、なんかやり忘れていたことなかったかをみつけやすいです。

by ペンネーム水田X(MrX)

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きれいな机を目指して


 きれいな机を目指して==「とりあえづBOX」のすすめ==

 私の机は、ADD族にしてはかなり片付いている方だと思うのですが、私の方法でよろしかったらお聞き下さい。これは、長年の苦労の末なのですが、「とりあえずBOX」と「とりあえず引き出し」を採用して、わが机は格段にきれいになりました。方法として、手順は次の通りです。

 @まず、机の引出しの中の必要なものだけを取り出して、現時点で不必要なものは全部捨てる。

 A残った「必要なもの」の住所(置き場)をきめる。例えば、ハサミは中央引き出しの中央…とか。このとき、書類は、ファイルに分類して、ファイルに必ず名前をつけておきます。道具類は、中央引き出しの中を細かく部屋割りにして、置き場を決めておきます。

 Bここで、いよいよ「とりあえずBOX」の登場です。引き出しのどの部分でもよいのですが、箱を設置し、「とりあえずBOX」として、住所のない物が出現した時(例えば、書けなくなったサインペンとか)とりあえずその中にいれます。これだけで、小物の始末はほとんどかたがつきます。

 Cもうひとつ、書類、プリントの類のために、「とりあえず引き出し」を一つ決めておきます。おそらく、小引き出しの上から2段目あたりが最適です。この引き出しを、思いきって、いつも空にして、「とりあえず引き出し」と命名します。そして、今すぐファイルするには面倒なプリント、書類をその中に入れておきます。または、分類がわからない書類もとりあえず入れます。

 D最後に、1週間に1度くらい、まとめて、「とりあえずBOX」と「とりあえず引き出し」の整理をします。(曜日を決めておくといいです。)捨てるべきものは、必ず捨てましょう。提出するべき書類は、そのとき記入してしまいましょう。

 E亡くし物の心配もなし。きっと、とりあえずのBOXか引き出しの中から出てくるはずです。これだけでも、ストレスはけっこう軽減されます。

 応用編として、家庭での部屋の維持には、大き目のダンボールを、「とりあえず箱」としてかたづけの面倒なものを、とりあえず入れておきます。そして、月に1度くらい箱の整理をします。何かがない!と思ったら、「とりあえず箱」の中だけさがせばいいのです。

 「とりあえず…」を活用して、ストレスのすくないADDライフをすごしましょう!

by わんわん



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ちょっとしたネック


 私たちのBBSに投稿してくださったいしすさんの書き込みに、次のような一節がありました。

 「掃除をする時、床にあるものをいちいち持ち上げなければならないところがネックになって掃除したがらないのだと気づきました。掃除がしやすくなると、これも不思議に、嫌々するのではなく、「掃除でもしようか」という積極的な気分が出てくるのです。あと掃除に費やす時間も短くなるし、綺麗になって、快適&満足を味わえます。これが「達成感」なのでしょうね。」

このネックを見つけるというのは非常に大切かもしれませんね。考えてみれば、わたしも今までやらなければならないことを先送りしていたとき、出来ない理由を無意識に見つけていたみたいです。それがネックじゃないでしょうか。ちょっと、やればそんなネックなどなくなるのにです。

ネックを見つける、これは大切だと思います。逆に、何かをやり出そうとしてぐずぐずしているとき、ちょっとしたきっかけ、つまり最後の一押しが必要な場合があります。というより、大半の場合はそうだと思います。

単にやれない、ぐずぐずするというとき、そのようなネックや一押しを見つけるのが早道だと思います。いかがでしょうか。

by いしす


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大掃除


 今日は部屋掃除をした。知人が遊びに(泊まりに)来るからである。実にXヶ月ぶりの掃除である。

 夫には掃除をしようという心意気があるだけでも「ADDのリハビリの第一歩は合格だね」と褒められた。

 そうじをしていると本など(200冊以上ある)整頓するのに混乱して嫌になるときがある。考えすぎてかたずけられなくなってしまうのだ。この本はまだ読みかけだから、これはまた読みたいから、しまえない、とか、本棚に戻したら忘れてしまいそうだ、とか、色んな考えが頭を駆け巡ってしまうからだ。ADDの特徴(欠点?)として、「優柔不断」ということを訴える人が多くいるが、わたしもそのひとりである。

 考えすぎて、掃除をする前に疲れてしまう。しかし、今回はその度、夫に「混乱して何をすればいいのかわからなくなってきた。助けてくれ〜」と助けを求めることにしてみた。(わたしの苦しんでいる姿を見た夫からの提案である)その都度、ヒント、たとえば、何も考えずにとりあえず本を一箇所にまとめるとか、とりあえずゴミだけまとめる等、をもらうと、頭がすっきりして、すべきことが明確になるので大変に助かった。

 今回、実感したのは、かたずけられないのではなく、掃除・整頓の方法や手順がわからない(又はわからなくなってしまう)のだ、ということだ。

 1日がかりで、昼食もマクドナルドのお持ち帰りだったが、非常に充実した1日だった。視点を変えると色んなことが快適に簡単にできるということがわかった。この、視点を変える、というのはADDにとって大切なことかもしれない。

by Bunny_Lab

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ADHDとしての自覚

 次は、私のページをごらんになって投稿いただいたものを、ご本人の了承を得て掲載するものです。

ADHDとしての自覚

 ホームページを拝見させていただきました。簡単に感想を述べてみたいと思います。

 自己紹介小生、50代の男性です。最近、自分がADHDであることに気がつきました。マイナスとして?物忘れがひどい、情報が多いとパニックになる。記憶するのが苦手だ他者とのコミュニケーションがにがてだ。かたづけるのが、苦手だ。凝り性のお宅人間だ。字が下手だ。

 プラスとして?その反面、発想するのが得意だ。物事を、論理的に正確に捉えるのが得意だ。

 マイナス要素は、いったいどんな状況の時起きるのか、その時、自分の中で何が起こっているのか知りたい。これが、解ると、自分のコントロールがうまく出来る。困った状況に陥るのが回避できのではないかと考えている。

 人から自分のことを次の様指摘された。何かをしている時、時々全く違う動さをしていると指摘された。包丁で、物を直線に切る時。本人は、包丁の軌跡を見ていると感じているのだが。他者から見ると、視線を時々はずして見ていないと指摘された。切れた物の結果は、直線が曲がって切れていた。このことで気がついたのだが日常の中で、自分の意識は、頻繁に飛んでいる。その結果人の話を聞いても、100の内いくつかの情報が欠落している。話しの内容を取り違えたり、細かいニュアンスをつかめないのでコミュニュケーションが上手く出来ない。うっかりミスが多いのが良く説明出きる。字が下手だは、思惑からそれたラインは通常の人は修正して思惑の綺麗な字が書けるのだが。

 意識が時々欠落している私は、修正の量が普通の人に比べて少ないのだから、汚いのは当然だ。フィードバック量(帰還量)が少ないのだから。このために起こる日常のの出来事はどんなことか又、どんなふうに欠落しているのかがわかると補正も出来るようになるのではないかなと思う。この様な事例を集めると、共通項などがあり糸口にはならないか?この内容を深められたらと思っている。

 プラス要素で考えると私の場合は、情報の欠落が起こる為、図形などのパターンを記憶するのが苦手で、必ず言語化、意味付けしないと覚えられない。このため為、概念の取り扱いが子どものころから訓練され今や概念、論理の転がし方のプロ?だと思う。特に、概念化され物は、短時間の意識の飛びによる情報欠落は弊害をもたらし難い。情報が欠落しているため、周囲の雑音が、普通の人に比べて入りにくく、この一番の集力が高い。正確と言う意味でも雑音が入りにくい為、正確に考え易い。特に困難な状況では、普通の人は、感情に支配され感情のフィルターを通して物事をみるので正確さに欠ける。このため、概念による世界では、ADHDの発想力、集中力、思考力が普通の人に比べて高くなると思う。どんなところで、ADHDは強みを発揮してるのかな。

 私は、ADHDの持っている強みと弱みを知り自分の生き方を創って行きたいと今考えている。

 ホームページを見て感じたこと。プロジェクトは良い企画だと思っています。ロクスケさんの言われる様、出版するのが全てではないと思います。出版に向けADHDが集まり努力し、その中で生まれたADHDが見出した、生きがいとか、居場所とか、ADHDを見つめるとかの成果が非常に重要だと考えています。これもプロジェクトの目標のひとつではないでしょうか。

 昨年9月末にキックオフされ、9ヶ月あまりが経過致します。この期間に蓄積された成果はどうだったのでしょうか?是非知りたいと思います。

 プロジェクトであれば、スタートとエンドがありスタートからエンドまでを、一合目から一〇合目まであるとすると。今何合目まできているのでしょうか?各合目でどんなことがあったのでしょうか?そんな報告があるとプロジェクトの成果が良く解るのですが今のホームページでは、良く解りません。プロジェクトのプロセスの表記と各合目でのプロジェクトメンバーの感想でも載せてもらうと良く解ると思うのですがいかがでしょうか。感想までに

 プロジェクトメンバー皆様の活躍を期待しております。

by 浮雲

ここからロクスケ

 上記に対し、最後の部分にたいして私の方から追記しておきますが、当プロジェクトメンバーも入れ替わりはありますし、全員ADHD特有のかなり極端な波があります。ですから、理想通りとは行きません。また、プロジェクトのエンドは想定していませんので、何合目とは考えていません。


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鬱状態対処の方法


 ところで、ネタ提供ということも兼ねてWing Brainの掲示板にも投稿したのですが、今日は持病とも言える鬱が酷くなってきたので、初めて近くの精神科医のところへ行って来ました。

 お薬を勧められたのですが、拒否したので、カウンセリングが中心の内容となりました。

 現在、海外に住んでいるので、カルチャーショックを伴う、鬱だと言われました。色んな提案が出されたのですが、初めてということもあるのでしょうが、ちょっと不満なところもあります。

 その提案とは:
1.超低血圧なので、それを改善するためにも運動をもっと積極的に行う。

 2.もっと社交的に活動する。

 3.暇な時間がないようにする。

 の3点です。

 みなさんの鬱を元気にする方法も良かったら教えて下さい。

 それでは。

 Bunny_Lab

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HOW TO コツ〜愛蔵版
『HOW TO コツ〜愛蔵版』からどれだけADHD/ADD族に役に立つの?『家の本棚をのぞいていたら、親戚からずっと借りぱなっしの本が1冊あった。親戚から返して欲しいと言われてないので、もう我が家の本になってしまった。

 「HOW TO コツ〜愛蔵版」と言う本である。この本は今から12,3年前ほど流行った本らしい。家にあるので第24版だと書かれているのだから。とにかく生活の工夫や昔ながらの知恵など実用的でかつ役に立つコツ集を集めた本である。果たしてADHD/ADD族にはどれくらい実用的でかつ役に立つのかは分からない。私でさえも全部試していないので、とりあえず私が一度でも試したものやこれは役に立ちそうなものをピックアップしていきたい。

 第1回目は『忘れ物防止には腕時計を逆の腕にはめる』と言う項目の内容で行きたい。この項目は53ページに載っている。ADHD/ADD族にはうっかり物忘れをしてしまう事が多い。余談だが、最近では時計をしない人がいる(携帯電話の文字画面が時計の代わりになっているから時計をしないと言う話を聞いた事がある。

 ホステス時代、時計をしていない客に「何故、時計をしてないの?」と聞いた事があるが、彼らに言わせると「携帯電話の文字画面が時計代わりになっているから」と私が聞いたほぼ全員が同じ答えを返していた事を覚えている)。要するに左腕にしている人は右腕に、右腕にしている人は左腕に時計をしておくと言うのである。

 それは「何かしなければならない事を覚えておく」と言う記憶らしいと書かれているのだから。実は私は“うっかり”意味を間違えて同じ腕(私の場合は左腕)に向きだけを変えていたのだった。図書館などで本を読んで熱中しすぎると時間を忘れてしまい、遅い昼ご飯になるのは当たり前。母に怒られるのもしょっちゅうだった。私の場合は、“意味のはき違え”で成功はしてないが、皆さんも一度、時計を反対の腕にするのはどうだろうか?

 黄ばんだ歯はイチゴで白くするについて:芸能人は歯が命だと言う某CMであったが、黄ばんだ歯にはイチゴがいいと本には書いてある。実際、私もイチゴで試してみたが、歯は全然白くならなかった。白くなるどころか歯ブラシや歯にイチゴの粒がついてしまう有様になってしまった。歯ブラシにすりつぶしたイチゴをつけ、歯を磨いていたら、黄ばみや汚れが落ちて真っ白な歯に戻ると書いてあるのに、私の場合と言うかほとんどの人に言えるかもしれないが、イチゴで歯磨きするのはADHD/ADD族にとっては不必要なものなのかもしれない。

イチゴでの歯磨きにうんざりしてすぐ止めてしまった私が言うのだから、イチゴでの歯磨きはお勧め出来ない。それと前に見たあるテレビでイチゴをすりつぶして歯磨きは歯に挟まるし、歯ブラシの衛生上かえって歯の状態を悪化すると言っていた事を覚えている。そう考えるとやはりイチゴでの歯磨きはお勧め出来ない。

「沸騰が分かる方法」

 ADHD族にとってついうっかり忘れてしまう事が多々ある。やかんに入れた水が沸騰した事すら忘れてしまう事が何回かあるだろう。沸騰したお湯をこぼしてやっとやかんに水を入れていた事に気づいてしまう。気づいたらジューと音を立てて火が消えていたと言う事になってしまう事もあるのだ。

 今から十年以上前には沸騰するとピーと音を立てるやかんが出始めた頃であろうか。今ではピーと音を立てるやかんは一部では当たり前のようになっているらしい。我がADHD族にはピーと音を立てるやかんを使っている人は私の記憶にある限り聞いた事がない。もしくは私が知らないだけなのかもしれない。すでに使っているADHD族もいるはずだろうか。

 ピーと音を立てるやかんを買わずに手作りの音で沸騰した事が分かる物があるのだ。それは貝殻を一つやかんに沈めておくだけで、ピーと音を立てるやかんと同じような効果が出るのだとか。貝殻はやかんの中に入るものなら何でもいい。ある程度の大きさの貝殻を探してきたりするだけでいいのだ。沸騰してくるとカタカタと言う音で知らせてくれるそうだ。

 貝殻一つで沸騰したお湯をこぼさず、お湯を沸かしている事を忘れなければ便利なアイテムであろう。ただし、いくら貝殻一つやかんの中に入れてもお湯の沸かしているんだと言う事をお忘れなく。貝殻一つやかんの中に入れてお湯を沸かしている事をうっかり忘れないように願うのである。

「いただき物のお礼状はどうする?」

 いただき物のお礼状を書くってとても邪魔くさいと思っている人が多いではないでしょうか? 特にADHD族はお礼状を書く作業は難しいはずである。先延ばし、字が汚い、筆不精さが重なって憂鬱なものになってしまう。お礼状を書かなければいけないのに、お得意の先延ばし癖を発揮し、気がついたらたいてい「もういいわ」で終わってしまうのだから。

 最近はパソコンのEメールでお礼状を書いている人が増えてきている。ADHD族も例外でない。ADHD族はパソコンとは相性がいい人が多いと聞く。私も今年から年賀状はEメールと決めている。私も字がとても汚いので直筆の年賀状を書くのが一大イベントで、とても神経をすり減らしてしまい、全部書き終わったら頭の中が空っぽな状態になってしまう。こんなものは二度と書きたくないと思いつつ毎年直筆で年賀状を書いているのだ。パソコンと出会ってからこんな楽で自分の字の汚さと格闘しなくいいものはないんだと嬉しくなり、Eメールで大量に年賀状を送ったのだから。

 どんなお礼状も直筆で書くのは温かみがあって書いた人の人柄が出るので心がこもっていると誰もが思ってしまうではないか。前にも書いたが、ADHD族の筆不精さを克服するアイテムがパソコンである。Eメールでお礼状を書いたり、宛先や名前までソフトを使って印刷したりなどパソコンは重宝がられるのではないかと思う。

 どうしても直筆で書かなければならない場合は絵葉書を利用しよう。普通の葉書より文章を書くスペースが少ないから簡単に一言お礼を述べるだけですむし、送られた方も反対側の絵を見て楽しむ事が出来るから。ある意味一石二鳥である。お礼状、特に年賀状には通用しにくいが、それ以外のお礼状には使えるはずだ。ただ、お葬式には絶対使えにくいのだが。

 ・「飲み物をこぼさずに持ち運ぶには?」

 コップに入れた飲み物をお盆に載せて持ち運ぶ時、飲み物を一杯に注ぎすぎてこぼれそうだったら、スプーンを一本入れてみてはどうだろうか。不思議な事に飲み物がこぼれないらしい(私は試した事がないので「らしい」としか書けないのだ)。一杯に注ぎすぎなくてもある程度の量でも緊張していても、スプーンを一本入れてみて飲み物がこぼれないのなら、そそっかしいADHD族なら使えるアイテムかも。

 そそっかしいから精神的にたるんでいるのではないかと余計に落ちこんだり、もう一度最初から入れ始め直してしまう状態になってしまうから余計に緊張してしまう。「私はそそっかしいからごめんなさいね」と平謝りをひたすら繰り返すADHD族の定番コースを歩んでしまいかねないのだ。

 これを読んだ読者はコップの中にスプーンを入れたままで運んだ人はADHD族だとすぐに分かってしまうかもしれない。ADHDと知らなくてもとてもそそっかしいうっかりさんだと分かってしまうかもしれない。が、相手の服やテーブルの上に載っている書類などに広範囲にこぼすよりはマシかもしれないと思う。一度試しにしてみてはどうだろうか?と読者に勧めている私から先にしないといけないはずだと思っている人もいるかもしれない。

by Rosamonde


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記憶力を向上させ、脳の老化を防ぐ方法


 いつまでも若さを保ちたい、いつまでも若々しくありたい、そう願う人はたくさんいると思う。「若々しい容姿は若々しい心から。若々しい心は若々しい脳から生まれる」 今回は若さを保つ秘訣について具体的に、アメリカの各専門家のアドバイスの中で簡単にできる方法の一部をを紹介したいと思う。

 秘訣1)脳に栄養を与える食品を積極的に摂る具体的には、ブルーベリーを初めとする苺などのイチゴの仲間の果物。ブロッコリーなどの色の濃い野菜、鮭・マグロなどオメガ3の脂肪がふんだんに含まれている魚。

 秘訣2)新しいことに挑戦する新しい活動をすることは脳に大変に良い刺激を与える。

 秘訣3)運動をするヨガや太極拳、合気道などが一番最適だが、普通の有酸素運動でも脳に新鮮な酸素を送るので、とても有効である。

 秘訣4)利き手と反対の手を使ってみるこのことによって、いつも使っている脳とは反対の脳に刺激を与えることができる。

 秘訣5)音楽、特に楽器をひいてみる

 秘訣6)恋する心を忘れない恋愛生活が充実していると、脳にもいい刺激を与える。

 秘訣7)良い睡眠を充分にとる8時間が理想的とされているが、(自分にとってベストな時間であれば短くても構わない)量より質を重視して睡眠をとろう。

 秘訣8)動物に触れ合う猫を飼っている人は飼っていないひとと比べて10年長生きするという。

 秘訣9)よく笑う笑いは脳にも健康にも驚くべき効果を発揮する

 秘訣10)人生を楽しむ先の心配をするより、今のこの瞬間を楽しむことが脳の健康にも繋がる。

 全部を実行するのは無理かもしれないけれど、できることから変えることによって、記憶力が向上し、いつまでも若々しくいられること間違いなしに違いない。

Bunny_Lab

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運動 散歩の勧め


人間は体を動かさないと精神的に落ち込む。従って健全な魂は健全な肉体に宿るというのは、ある意味では本当であり、虚弱体質で運動をしないと精神的にも不活発になるということだと考えられる。ただし、健全な魂が必ずしも崇高な魂、善良な魂という意味ではない。健全な魂とは好奇心に富み、弾力性があり、活動的な精神のことを言うのであり、人間の決めた善悪の判断基準とは異なる。もちろん、虚弱な肉体で崇高、善良、潔癖な精神を持っている人は大勢いるし、頑健な肉体に邪悪な精神を宿している例も多数ある。健全な魂という意味を誤解しないでいただければ良いが。

それはさておき、気分的に沈んで何もする気が起きない時こそ、軽い運動をする方がよい。天気が良ければ散歩をし、あちこちの庭先軒下の花々を愛で、顔見知りの犬や猫に挨拶をし(ちなみに私にはお友達犬、遊び仲間の猫がいていつも変わらぬ友情を示してくれる)ぶらぶらと30分も歩く。なんなら、ビールとサンドイッチでも買って、公園で食事をしても良い。多少のへこみは治る。これは気分の転換というより、むしろ動くことで血の巡りがよくなり、また明るい光を浴びた結果である。人によるが、運動といっても集団プレイは私は嫌いで、一人運動、つまり散歩あたりが一番良い。気晴らしに映画を見る、ナンセンスビデオを借りてくるなどあるだろうが、散歩が一番効果的である。くさくさしたら散歩に出よう。雨が降ったら傘を持ってでかければ、雨に濡れた草花が楽しめる。

虚弱体質で悩んでいた人が散歩の習慣が付けば、一年くらいで目立って体力が付いてきたことに気がつく。もちろん、健康な人が散歩をしてもそれなりの効果はあるが、目立って健康状態がさらに向上したという自覚はないかもしれない。いずれにせよ、睡眠が良くとれるようになる。

 ふだん座ったままで仕事をしている人など、かなり効果的である。都会では散歩コースが無いと言うかもしれないが、ちょっと電車に乗れば幾らでも見つかるし、神社仏閣、河川敷、公園など、探せば結構あるものである。時間は早朝が良いが、それぞれの生活リズムに合わせて選べばよいだろう。一回30分くらい。休日にまとめて時間がとれたら思い切ってランチでももって半日ご近所ハイキングをしてみるなども良い。その時は一人歩きに限る。出来るだけ一人で出かけるのをおすすめする。


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生活の知恵について


 私の場合、整理・整頓が上手くありませんので、その事に関しては、いつも課題です。今回は、私が結婚前までしていた身のまわりの整理の仕方と、結婚して気づいた事ついて説明させて下さい。

先ず、整理の仕方です。私は『自分のまわりで、一番規則正しく整理整頓されている所はどこか』と言う事を考えました。「家の中はぐちゃぐちゃなのに、きちんとしていられた場所・・・あっ!そうだ!学校だっ!思い出した。小学生の時、私美化係りだっんだ。きちんとしているって、褒められた事あったし・・・。」と言う訳で、『部屋を限りなく学校状態にする』と言う想像で生活したのです。()内は小学校時の場所等の名前です。心の中でネーミングするのも、楽しく出来る私の特徴です。

 (1)文具や切手など、細かいものを置く場所(落し物コーナー)(2)本好きなので、本の場所(学級文庫)。(3)台所(調理室)・トイレ(勿論、学校のトイレ)(4)お風呂(これだけは銭湯と言う事にしました)(5)規則のストレスを発散する為に、『散らかしてもいい場所』を設ける等々等々。

このような感じで、学校をそうていした所、当時『模範生』だった私が現れ、しっかり出来るようになっていました。また、私は『公共のものや他人のものは大事にするが、自分のものはボロボロにしてしまう』と言う特徴があるので、このやり方は上手く行きました。十五年位続きました。

次に結婚して気づいた事です。結婚してすぐ妊娠して切迫早産し、自宅療養になり、家事を主人にまかせてから、とんでもない生活になりました。私の性格(当時は性格だと思っていました)の事を説明して、物の位置や場所を変えないでと頼むと。「学校じゃあるまいし、そんなので生活できるか!馬鹿!俺は小学生か?」と言われました。そして、いつも入れる場所がその時によって変わったり、勝手に整理したくせに、しまった場所を忘れられて何処に何があるか分からなくなったりと言う事になってしまいました。それがきっかけで私は、『片付けられない女』が始まり、毎日罵られ、トラウマをかき混ぜられ、鬱っぽくなりました。ADDも全開!大暴走です。

私は、ADDは『対症療法』のやりかたいかんで、上手くいく、いかないが決まると思っていました。でも、それは結婚して分かったのですが、今までの私のやり方に、無意識に家族も協力してくれていたのだと分かりました。自分で上手くしていても、その考えに家族が共感したり、あまり干渉しすぎなかったりする環境でない場合。ADDは暴走するのだと分かりました。

主人は「女のくせにだらしない」とか「お前の整理整頓は奇抜で分からない」とか「人が覚えられる事を覚えられない馬鹿のくせに、誰も出来ない事ができるからって、天狗になってるだろう」とか。まぁ、おなじみの、定番の、子供の頃言われた懐かしい台詞を沢山言われました。やはりキャラクターを認めて貰えない場合は、医学的に説得しなければならないな。と感じました。

現在は、私自身通院しているし、先生からも主人はご注意を受けているので、何とか少しずつ改善していますが、やはり、主人には抵抗があって決まりの守れていない部分から、散らかって行きます。子供も上の子(小一)はADHDです。やはり、学校ではきちんとしている子です。早く、結婚前の生活に戻したいと思っています。

以上です。言葉足らずで説明が不足している部分もあると思いますが、分からない点等ありましたら、ご質問下さい。宜しくお願い致します。

 by怜緒

 下記はロクスケ

 ADHDではそれに沿った生活改善が不可欠ですが、配偶者の理解があるなしで大きく変わります。どうしても配偶者の理解が得られないときは、一時的に距離を置く方がよいときもあるようです。ケースバイケースですが、無理強いは事態を悪化させるようなケースをよく聞きます。

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私の場合の興味のない物を覚えられないことへの対策


私は他人(特に頼まれる回数の多いのが家族や恋人)に頼まれた買い物の内容など3っつ位の物でも完璧に覚えられないのだ。理由は、興味がそのものにわかないから。私の頭は、興味のないものは覚えることがなかなか出来ないのです。

メモを取らないで買い物に行ってしまうと、微妙に違うものを買ってきてしまいます。先日、恋人にマクドナルドのチーズバーガーを頼まれてダブルチーズバーガーを買ってきてしまいました。相手には、「お肉が1枚多くて儲けたね〜。」と笑ってごまかすけど、心の中では、「また、やってしまった。」と少し自分の障害になんともいえない感情を抱きます。ここで、落ち込んでじめっとしてしまうと、マイナススパイラルの罠にはまってしまいます。

マイナスな事が起きると、ああ、私ってやっぱりだめなんだわと、自分で自分の魅力に1つづつ蓋を閉めて行って、最後に本当に魅力のない人になってしまう罠です。そんなマイナスな不の感情は、まあ一種の反省として、一応持って当然だと思います。

さて、ここでスパイラルの罠に陥らないためには、次回からこういうことが極力おきないようにする方法を考えることだと思います。たとえば、買い物の前にはメモを取る様にする。簡単なことですね。メモが取れない場合など、失敗してしまう可能性のある場合は、前もって頼んだ相手に、こういう買い物の内容を覚えるのは苦手なので、間違うかも知れないって伝えておくこと。

あと、自分にとっての心のケアも考えてあげること。ADD/ADHDの人は、自分を含めて、感受性がすごく高いから、落ち込みもかなりきますよよね。なので、失敗してしまう自分を許してあげて、「でも、興味のあることは人の倍以上覚えられるじゃない?私が何回も違う物買ってきても、一緒にいてくれる恋人がいて私はラッキー!」って、こう自分に思ってあげるだけで、マイナススパイラルの罠から回避できると思いませんか?それに、次回の買い物では、どんな微妙に違うものを買うかも楽しみだったり!?

 by ニャオミャム

買い物リストは、どんな小規模な場合でも必要ですね。必要なものを買い忘れてまた出なければならなかったり、同じものをいくつも買ってしまったり、衝動買いで要らないものを買ってしまったりしがちですので、出る前にメモを整理して(私は常にメモパッドを持ち歩いていて、何かを買わなければならないと思ったときに書きとめておきます)それに基づいて買うことにしています。メモにないものは、だいたいにおいて買いません。以前は、漫然とやっていてずいぶん間違いや無駄があったのですが、メモを使うようになってからかなり改善されています。
 ロクスケ


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ご教訓


 夏の暑い日、大きな樹に蝉Aと蝉Bがならんで留まっている。その斜め下に少し離れて蝉Cも留まっている。

蝉A「ミーン、ミン、ミンミーン」
蝉B「ジジ、ジジジ、ジィー」
蝉C「・・・・・」
蝉A「ミミミーン、ミーン、ミン、ミンミーンミンミンミン、ミミンのミーン」
蝉B「ジジ、ジジジ、ジィー、爺ぃ、ジィジィー、ジジジジジ〜」
蝉C「・・・・・、・・・・・・・・・」

蝉A「ねぇ先輩、あいつずいぶん無口なやつですね」
蝉B「そりゃそうよ。あいつ雌だぜ。おめぇに気があるみたいだな」
蝉A「そうすか?自分は何も感じませんよ。さっきから黙ったままこっちを見てるから、何だろうと思ってたんです」
蝉B「なんだ、あんなにモーションかけられてわからねぇのか。おめぇ、まだ若すぎるんだな」
蝉A「実はそうなんす。自分は今朝羽化したばかりで、世間のことは何にも知らないんす。それに、羽の色だって先輩みたいに濃くないし、鳴き声だって違うし、自分はおかしいんじゃないかって悩みはじめてたとこなんす。こんなに暑いんだから、先輩みたいに灼けつくような声で鳴きたいっておもってるんすが、そんな声が出ないっす。
 先輩、聞いてくださいよ」
蝉B「お、聞いてるよ。それより、あのねぇちゃん、本当にいろっぺぇな。ほとんど裸だぜ。セミヌードだな」
蝉A「自分たちも裸っす。ねぇ、先輩、自分は本当におかしいんでしょうか」
蝉B「気にするコたぁねぇよ。おめぇも3日もすりゃぁ一人前ぇの蝉だ。人生はな、なげぇんだ。俺なんざもう4日目だ。世の中のことは知り尽くしてる。油の乗り切った大人のアブラゼミよ。それにしても、見ろよ、あのねぇちゃん、もうおめぇに夢中だぜ、ありゃ」
蝉A「自分はまだわからないから、なんなら先輩、遠慮しないでどうぞ」
蝉B「おめぇとあのねぇちゃんはミンミンゼミだ。俺はアブラゼミだから、くどけねぇ」
蝉A「なんだ、種類が違うんすか。自分がおかしい訳じゃないんすね」
蝉B「だから、人生はなげぇんだって。あせるなよ。ま、それにしてもまだ若すぎるから、ねぇちゃんの色気も通じねぇか。さて、おれはそろそろ行くぜ。女房を待たせてるんだ。ジジジジジィ〜」
飛びさる

 蝉A、あこがれの目で見送りながら
「かっこいいなぁ。俺もああいう蝉になりたいなぁ。あ、ところで彼女ォ。俺、2日したら戻って来るから、待っててくれないか。世間を渡り歩いて、一人前の立派な蝉になって帰ってくる。約束するよ。待っててくれよな。ミーンミンミン」
飛びさる。

 蝉C「・・・・・」
内心独り言(ふっ、黙って聞いていれば、男っていい気なモンね。あたしは、これから下におりて卵を産むの。そして、明日の朝には死んじゃうんだから、坊や、もうあえないわよ。でも、がんばって立派な蝉になるのよ。
 それにしても、長い一生だったなぁ・・・・)


教訓 その1) 自分が他と違っているからといって落ち込む必要はない
教訓 その2) 誰でも心がけ次第で成長することを忘れてはならない
教訓 その3) 人生は長い。焦る必要はない
教訓 その4) 年長者、経験者の言うことがいつも正しいとは限らない
教訓 その5) おやじだじゃれには腹が立っても暖かくつきあってあげる
教訓 その6) 自分でもてると思っている男は、全て錯覚である
教訓 その7) 蝉の場合雌は無口である
教訓 その8) しつこい教訓は嫌われる

by ロクスケ


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強運になる方法とおしゃれに見えるトリック


 日本で人気のあるブランド、「フォクシー」のオーナー兼デザイナーの前田義子という人の書いた「強運に生きるワザ」という本を読んだ。実は、カリスマブランドといわれても、海外生活が長いせいか「フォクシー」のFの字も聞いたことがないわたしなのだが、この本に書かれているあることはとても心に残った。

 「強運になるために大切なことはただ3つ。

 「整理整頓、清潔、身奇麗にする」

 それだけなんです。」

 整理整頓、清潔、身奇麗にする・・・。それは実はADDの人の多くが出来なくて困っていることそのものではないか!

 整理整頓は難しいにしても、余裕があれば、人に任せることができる。今日は、「清潔・身奇麗にみえるトリック」(主に女性向)を紹介してみることにしよう。わたしが実践済みのものばかりを集めた。

 1.定期的に美容院に行く。髪型がさっぱりしているととても清潔にみえます。カラーリングも「プリン状態」になっているとだらしなく見えます。わたし自身もこれを実践しただけで、随分まわりの見る目が変わりました。プロの美容師さんなら、「自然乾燥」するだけでブローしなくてもカワイイ髪型にしてくれます。

 2.スカートはシフォン、または合成化繊のロングスカートがおすすめ。合成化繊のスカートはしわになりにくく、手洗いしてもすぐに乾くので、とても便利です。わたしはシフォン地のロングのフレアスカートを愛用しています。色は何にでも合う、黒、紺、エンジなどがお薦めです。夏にはストッキングをはかなくても目立たないのでロングスカートをよく履いています。ロングスカートはちょっとフォーマルな席にもはいていけるので重宝しています。(勿論、素足で・・・<笑)

 3.デニム地のスカート、シャツ、ジーンズなど洗濯に強く、アイロンをかけなくても良いので、良いです。わたしはデニム地のワンピースも最近買ったのですが、洗いざらしで着ていけるので助かっています。デニム地は爽やかに見えるらしく、周りの評判もとても良いです。

 4.化学化繊のシャツこれも、スカートと同じ理由でしわにならず、アイロン要らずですぐに乾き、洗濯に強いので助かっています。

 5.コットン100%のニットこれも、洗濯してアイロンをかけなくてもしゃきっとしているので重宝しています。ウールは肌にかぶれたりするのと、家で洗濯できないので、あまり買いません。マフラーのような物だけ、ウールにしていますが、季節が終わるとクリーニングに出します。

 6.ヘア・エクステンションパーティーや結婚式など、あらたまった席に参加するときに、髪の毛をセットしたりするのが面倒くさい・・・または、髪の長さが中途半端なひとにぴったりなのが、ヘア・エクステンションです。わたしも今は髪の毛を短くしているので、パーティーに行く時はエクステンションをつけていく時が多いです。つけるのがとても簡単で、髪の毛の色に合わせたものを買えば、とても自然です。それでも、面倒くさいという人は、エクステンションを持って美容院に行けば、15分もしない間にセットしてくれます。

 7.爪は磨くだけマニキュアがはげているととてもだらしなくみえます。ネイルサロンに毎週行っているひとはともかく、面倒くさがりのひとは爪をみじかく切りそろえて、バファーでつやをだすだけで、とても爽やかで清潔な印象の爪にすることができます。それもめんどうくさいというひとは、ネイルサロンにいって、爪を磨いてもらうといいです。(ただし、マニキュアは無し<笑)

 8.眉毛を整える眉毛が流行の形になっているだけで、随分垢抜けてみえます。眉毛は化粧品を売っているカウンターでただで揃えてくれるそうです。美容院でも、眉毛を整えてくれるところがあります。

 9.黒い靴を用意するあらたまった席で履けるようなフォーマルな靴があれば、突然のお葬式も、面接も、結婚式も大丈夫です。(黒いスーツも用意すればなお、準備万全です)

 10.真珠のネックレスを用意する上の黒い靴と同じで突然の冠婚葬祭イベントで重宝します。わたしは小粒の真珠のピアス、ネックレスを持っていますが、とても役に立っています。

 最後は、マナーの本のようになってしまったが、このヒントが皆さんの役に立つと、とても嬉しい。皆さんの「おしゃれ、清潔、身奇麗に見えるトリック」があれば、是非、教えて頂きたいと思う。

 by Bunny_Lab

 ここよりロクスケ

私たちの年代では、男は多少汚くても良い、おしゃれなど女々しいことはしない、というのが普通の意識でした。おしゃれなんかしなくても、男は中身だ、という訳ですが、初対面では中身はわかりませんし、初対面の評価が後々尾を引きます。

そんなわけで、私にはおしゃれ感覚が身に付いていません。身に付いているのはだじゃれ感覚だけです。それでも、同年輩でおしゃれに気を遣っている男性はかなりいますから、個人的な問題なのでしょう。汚くしているつもりはありませんが、どうも野暮ったいようです。人に積極的にプラスイメージを与えることは必要ですから、たとえば背広やワイシャツ、ネクタイでもTPOに応じたコーディネートをするなどの配慮は必要です。特に、年輩になればなるほど、必要な心がけで、可能な限り気にすることにします。

だれか、男性向けに書いてくれれば良いですね。私はとうてい無理です。



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ADHDならではの特技?


 私は、とっても、うっかりさんです。よく、読み間違い、書き間違いをします。ADHDの人には結構見られることですよね?この間、うなぎのひつまぶしを「うなぎのひまつぶし」と読んでしまいました。「にしむらさん」を「にしうらさん」と呼んでしまったり、心の優しい西村さんは、私が「西浦さん」と呼んでも返事を最近はしてくれます。私のこのお惚けを、周りの人は面白がってくれています。次はどんな面白いことを言うのかかなり楽しみだとも言って貰いました。決してばかにしているとか、おもちゃにしていると言った感情ではなく、親しみを持って言ってもらえるのです。これって、一つの個性として、楽しいですね。一つの「人を楽しませる能力」として役に立っているのかな?と解釈しています。会うと楽しいので、落ち込んでいても気持ちが晴れる、。と言ってもらえたときは、本当にうれしかったですね。こんどは、どんなうっかりをしようかしら〜?うふふふ。と考えてしまいます。

 by ニャオミャム

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古雑誌を思いっきり捨てよう!


 我々ADHD族は(全てではないが)雑誌などを思いっきり捨てる事が出来にくい人が多いらしい。ご多分にももれず私も古雑誌などを思いっきり捨てられない人間であるのだ。

 先週、約八年分たまったビートフリーク(エイベックス発行のダンス・音楽雑誌でフリーペーパーである)を自分にとって必要だと感じる号以外思いっきり捨てたのだ。一号あたり約八十ページほど(何回もリニューアルしているので今の基準で換算した)の薄さだが、八年分なので量は意外とあるのだ。七年分近く捨てる事が出来た。

 どれもかれも自分にとっては必要だから捨てるのはもったいないなと思っていたら、いつの間にか本棚の4分の1以上を占領してしまう状態になってしまった。ずっと持っていたら価値がついてお宝としてなるのではと甘い夢を抱いてしまいかねない状態である。よほどのプレミア物でない限りお宝としての価値はないのだから。それだったらある部分だけを残して思いっきり捨てようではないか!と言う事になった。ある部分とは「目次だけを切り抜いてファイルにしておく事」である。

 後で調べたい事が出てきても便利である。「目次だけを切り抜いたファイル」があれば、出版社や図書館で簡単に調べる事が出来る。最近はインターネットでも雑誌のバックナンバーを見る事ができるようになってきたのだ。私もビートフリークのバックナンバーをインターネットで見る事にしたので、思い切って捨てる事が実現したのだ。

 一度、自分だけの「目次だけを切り抜いたファイル」を作ってみてはどうだろうか。もしくはネットで自分のお気に入りに登録してみてはどうだろうか。ファイルの保存場所は常に自分の目にふれるところに置いておく事。横積みにして置かない事をお忘れなく。それかネットで保存できるなら自分のお気に入りに登録するのが一番いいみたいだが。

 by Rosamonde

 ロクスケより

 この方法は優れていると思います。私も実践していますし、切り抜いたページを、簡単に製本しています。閉じる側をそろえて両面を適当な大きさのベニヤ板で挟み、クリップで固定しておいて、閉じる側にたっぷり木工ボンドを塗り乾かします。あとで、ちょっと丈夫な紙で背表紙と表裏の表紙を作り、タイトルを書けばできあがり。目次をつけるのを忘れずに。丈夫にするには、千枚通しで穴をあけて針金で綴じるなどすれば万歳です。

 裏技入手できない本など図書館から借りてコピーして製本してしまえばほくほく。ただし、著作権の問題があり、あくまで自家用にしてください。これは秘密ですが。


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私の衝動買いへの対処法


私は、とてつもなく高いものを買ってしまったりはしないので、、家計に非常に日歩区言うことはないけれど、衝動買いを結構してしまう人でした。あるときこれの対処方法を偶然見つけたのです。

それは、友人と買い物へ行ったとき、私は、「欲しい商品は店を出るときにレジへ持っていけばいいや。」と思い、その商品を持ってブラブラ店内をうろついて他の商品も見ていました。そうしたら、不思議とその欲しいと思って持っていた商品が別に欲しくなくなってしまったのです。

そのとき私は、もしやこれは一種の「ADHDの熱しやすく冷めやすい。」?と思いました。何はともあれ、今はお店に行って、「これ可愛い〜。ほしい〜。」と思った物があったら、とりあえずそれを持って店内をうろつく様にしています。そうすると大抵は店を出るときにはどうでもよくなっているのです。お店を出るときにまだ欲しかったら、それは本当に欲しい物だと私は思って買うようにしています。しかし、店を出る時になるまでもまだ欲しいと思うことは本当に少ないのす。

また、ADSLにしてインターネット見放題になった理由もあり、色々な商品を見て、自分の目を肥えさせた後、買い物へ行った時に、もうインターネットでウィンドウショッピングを済ませてしまっていたからか、他の店舗へは行かずに目的の物だけ見て済んだ日がありました。このとき、もしや?と思った私は、それ以来ネットで沢山商品を見た後、お買い物へ行くようにしています。最近は、この2つの対処法のおかげで、他の余計なお店に行っても欲しい!という欲求も以前ほど生まれなくなりました。

これは、ADHDの症状か私だけの症状かわかりません。でも、他の人よりも私は衝動性が強くあり、無駄な衝動買いが多かった事は確かです。無駄なお金を使ってしまって欲しい物でもお金が足りなくて、1ランク下の商品しか購入することが出来なかったり、もっとひどいときは購入すら出来なくなってしまう事も少なく無くなったので、それが減ったと言うことは、私への対処法としてちゃんと効いている。という事ですね。ところで、皆さんの衝動への対処法は何ですか?

 by ナオニャム

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手抜きアイロン?


われわれ家事の苦手な人には衣類のアイロンがけは面倒な作業の一つですよね。そこでアイロン器具を使わないアイロンがけをお教えしたいと思います。但し、この方法はズボンやハンカチなど形が単純なものにしか使えないので、その点は勘弁してください。

(手順)・まず、ズボンを縦にきちんと折りたたみ、さらに横に二つ折にする。(このとき、ヒップ付近や、裾はしわになりやすいので、ぴーんと伸ばしながらたたんでください)・そして、折りたたんだズボンを椅子などに置いて、その上にのしつけるようにして座ってください。座り仕事やPCをするときには最適でしょう。(作業中、ズボンの上でオナラをしないように気をつけましょう。ニオイ移ってしまいますので)*お尻でアイロンがけなんて汚いわ!という方も中にはいらっしゃるとおもいますので、この方法は無理に勧めたりはしません(笑)。

 by エミュー 

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部屋が汚れる、を考える・・


僕の部屋も例に漏れず汚く足の踏み場がありません。この間、おふくろに手伝ってもらって片づけた部屋も、かなり汚くなってきました。何で散らかってきたかというと、僕の場合はまず、衣類です。体臭がかなりきつい(らしい)ので、毎日のように着替えます。そして、洗濯物が乾いて、部屋に運び込まれても、きちんと収納されるべき所に収まらないからです。次に、書籍類です。何かに興味を持つと、調べたくなる性質なので、辞書や地図、ノウハウ本、説明書などが部屋中に散乱し始めます。そして、パソコンを使い始めると出てくるのが、印刷ミスしたPPC用紙です。それも、ちょっとした間違いや、テストプリントのために出た紙なので、裏が使えます。そのため、机の上に積まれた品や、文具類の上に覆い被されるのです。小さな小物類はその本やコピー用紙の密林の中に紛れ込んで姿を隠してしまいます。つまらないがらくたや、ちょっと一息、つまんだお菓子の袋なども一緒に散らばっています。

ADHDのものにとって、片づけはとってもたいへんな一大事業になってしまいますが、それは同時に、日常の文化活動の現れ、足跡でもあるんです。たとえ、くだらないものであっても、利用価値はないかとか、何かの記憶に結びつけている場合もあるでしょう。ただ、汚い、きれいにしろ、というのはADHDのものにとってはアイデンティティーに関わる問題なのですよ。もちろん、きれいにすることにはやぶさかではありません。気分のいいものです。でも、片づけの課程において、ちょっと考えていただきたいのです。自分たちももちろん、手伝ってくれる人にも言いたいのです。どうして、このようになってしまったかを。生活しているからです。意味無く汚しているんじゃありません。思考の積み重ねが、このような形で現れて来るって事です。自分たちは、どこから手を着けるべきか、どの様にして汚くなったかを知れば、片づけのヒントにもなりますし、指導する方も、そこを理解してから片づけ方を指導したり、手伝って欲しいんです。変な理屈に聞こえますか?もうそろそろ、次の片づけが必要になってきました。あなたの所はいかがですか?

by むーんらいず(むん)

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読書嫌いをいかに克服したか


タイトルの通り、短大を卒業するまで大の読書嫌いだった。子供の頃に遡ると、言葉を覚え始めるのが周りの子達よりも少し遅かったそうだ。

小学校に上がってからは文字は比較的早く覚えられるようになったが、読解力はなかなか付かなかった。文章を読むというよりはただ「字」だけを読んで内容を全然把握できなかったので、授業中先生に質問されても途方にくれるばかりだった。読書感想文も書けず、いつも私がクラスで一番最後に提出したものだった。国語の成績も最悪だったのは言うまでもない。そういえば、「カヌー」と「スキー」は幼い私には字面が似ているように見えたので「スキーをしている人の絵」を見て「カヌーだ!」と答えたら父親からこっぴどく叱られたのを今でも覚えている。

そんな私もあることがきっかけで読書好きに転じてしまったのだ。当時愛読していたファッション誌「anan」の読書コーナーを何気に見ていたら、すごく興味をそそる本が紹介されていたので早速、書店で買って読んでみた。本当に面白くてあっという間に読み干してしまったので、そこで初めて読書の楽しさを知ってしまった。まさに「一度覚えたあの味は・・・・・」で、それ以来、周りからも活字中毒と言われるくらいに読書にはまってしまった。あるときは部屋中に本であふれ返ったこともあったくらい。

やはり何事にもきっかけというのは大事だと思う。ただ上から「本を読め、勉強しろ、訓練しろ」と精神論でもって押し付けられれば、読書嫌いを助長させてしまう。それよりも、自分の興味のある分野(恋愛モノ、タレント本でもいい)入った方がやりやすいのではないか。漫画からでももちろん学ぶことはたくさんある(いかがわしい内容のものは別として)。私自身もあるギャグ漫画を読んでいたらたまたま中東問題が触れられていたので、

それがきっかけで中東関係の文献を読み漁ったりということもあった。学校時代は世界史の授業なんて拷問に近かったのに・・・・。

ここでふと中学時代の同級生の話を思い出した。彼曰く「国語の試験問題ってなんかおかしいよなあ。『作者の言わんとしていること』とか『何を意味しているか』なんて人によって感じ方が違うのにそれを『4つの中から回答』させるのって変だよ。はっきり言ってバカじゃないかと思うぜ。」と。当時の私にはピンと来なかったけど、彼の言わんとしていることを理解できるようになったのは中学を卒業して数年たってからだった。いつか高校入試や国公立入試の国語の現代文問題を解いてみたことがあったけど、やはりちょっと首を傾げてしまうような設問がちらほら見受けられた。出題者は、「常識的に考えればのどの解答がもっともふさわしいか」という受験者の「常識度」を問うているのだろうけど、「次の4つの中から正しいものを選べ」という問いに対し正解が仮に2番目だとしても、時と場合によっては答えが1番目にも3番目にもなり得る。そう、常識というのは常に変化しているものだし、世の中いろいろな考えを持っている人だっているわけだから解釈の仕方も当然違ってくる。そういう意味では4択式の出題の仕方は見直したほうがいいのかもしれない。ここまで書いてしまうと今問題になっている画一教育に行き着いてしまう。教育問題に関しては何処から語ったらよいか分からないので割愛しておく。

by エミュー

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ADDらしき人を指導する立場の仕事


今日からその人(ADDらしき人)を指導する立場の仕事が始まりました。

仕事面を見ても、ひとつのことに注意が集中しやすいところや、普通の人がまちがえないような(以前はわたしもしていた)ミス(郵便物をノートの間にはさんでしまったままで、出すのを忘れる、記憶ちがいがひんぱんん、ひとつのことをしていると集中してしまう、パソコンのウイルスバスターが起動している間中、他の仕事をすすめるでもなく、画面を見続けていたなど)を私の目の前で繰り返す様を見ていると、つい何年か前の自分を見ているようでした。

仕事中は妙に受けてしまって(人事ではないですが)笑いをこらえていましたが、帰宅してから少しかわいそうにナって私がブルーになっていました。

これからは指導方法やマニュアル作りなどに取り組もうかと思っています。仕事を与えるときはなるべく使うものなどを一まとめにしてわたすようにし、説明は口頭ではなく、なるべく付箋紙に書くようにして自分がしてもらって助かるようなやり方をしていきたいと思っています。

本当は放っておいて自分で2人分の仕事をかかえてやってしまえばよいのでしょうが、私自身がADDで、今まで社会に出て散々苦労し、周囲に迷惑をかけてきたので、世間への恩返しと自分のリハビリも兼ねてめんどうを見るつもりでいます。

少し大変になるかもせんが。経過は折を見てロクスケさん、みなさんに必ず報告していきますね。貴重な経験になるように一日一日を大切にしていきたいです。しかしリハビリと仕事と人の面倒を見る三重の苦労はしんどいと思いますので行き詰まったらみなさんどうぞアドバイスお願い致します。

 by プルーン

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物事の視点を変えてみること


「私たちの視点は、放って置くと、すぐに固定してしまって、それが一度固定されるとほとんど変わることがない。でも、視点を固定し続けているとどうなのでしょうか?」とある記事を先日読みました。自分の周りで起こること、周りにいる人の印象、話していることそれら何かに対して、いつも自分が見ている視点を少し変えて見ると、色々な物が見えてくることに気が付くと思います。

今まで見えなかったものが見えるようになったら、どうなるでしょうか?

私は、最近、そのことについて考えてみて、行動をしてみました。

たとえば、不平不満を言って、周囲の人を不愉快にさせる人。そういう人、周りにいませんか?会社や学校で、毎日顔をあわせなければならない場合、嫌ですよね。

私の場合は、会社であります。先日、ただ単に、「あ、この人の話って、いつも文句ばかりで、話したあと、気分が悪いのよね〜。嫌だな〜。一方的に話すしさ。」と、いつもの視点で見て話すのではなく、「なんで、そういう風に不平不満ばかり言うんだろう。」と思いながら、話を聞いてみました。そうすると、「話していることも、まあ、そうかもしれないけど、それに対して、何か対処してる?」と思い、彼女に、「それに対して何か行動した?自分の要求を伝えた?」と聞いてみました。すると、彼女は、一瞬あっけにとられた顔して、でも、納得した感じで、どうしたら、問題が解決できるかを話し始めました。

その日、話した後、いつも彼女に対して持っていた自分の感情も変わったし、また、新しい彼女も見えたし、自分の「彼女はいつも不平不満を話す7嫌な人」という固定観念にも気が付きました。次回からは、もう少し、楽な気持ちで、話せるかも?と思いました。

今回はそれで、たまたま上手くいきましたが、ほかの人へ同じことが通じるかどうかはわかりません。もっと、膨大な不平不満を聞かされるかも知れません。

でも、あらゆる物事への対処は、さまざまな種類があって、そして、一つのものに対しても、さまざまな接し方、対処方があるので、1回や、2回で決め付けるのではなく、視点を色々変えてみる事は大切で、そして、少し自分自身に対する気持ちの負担も楽になるかも〜?と思う、今日この頃です。

by ナオニャム


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自分を大切にするということ


 ADHDの人たちに関わらず、自分を大切にしている人ってどのくらいいるのでしょうか?この自分を大切にするって、自分の心と体を大切にすること。

 私自身は周期的な鬱に悩まされている。そんなときこそ、自分を大切にしてあげなくちゃいけないのに、体や心に無理して、かえって悪循環に陥っているのかもしれない。

 頑張った自分を誉めず認めないであら捜している時は、人からも認められず、誉められもしない。

自分を思いやっていない時は、必ず人からも大切にされない。 自分を罵っていると、人からも汚い言葉をかけられてしまう。この反対のことも無いでしょうか?がんばっている人をけなしてみたり、困っている人を見てみぬふりをしたり、そんな時って、必ずと言って良いほど、自分にとってよくない事が起きていませんか?

 今この時点からでも遅くは無いので、自分を大切にしてあげよう。そうしたら、自然と周りにも、周りもやさしくなっているはずです。そう思う、今日この頃です。

 by ナオニャム

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時差ぼけを防ぐ10の方法」


 お正月休みに海外に旅行された方も、国内で帰省のために飛行機で旅行なさった方も多くいらっしゃると思います。時差ぼけで、旅行がだいなしになってしまったことはありませんか?今回はそんな方のために、時差ぼけを防ぐ簡単な方法を紹介いたします。

 1.時計を目的地の時間に合わせておく。こうすることによって、現地の時間に身体を慣れさせることができます。

 2.朝に到着する予定のフライトの場合はよく休む。耳栓、アイ・マスク、枕などは、飛行機の中で睡眠をとるのに役に立ってくれます。また、炭水化物が多く含まれる食事をとることによって、よりよく眠ることができるようになります。

 3.夜に到着するフライトの場合は、起きているようにする。機内で放送されている映画や、面白い雑誌、本などを読んで、過ごしましょう。

 4.脱水症状を防ぐために水をたくさん飲む。

 5.キャビンを歩き回る・自分の席でストレッチをする。こうすることによって、足のむくみや腫れを防ぎます。

 6.リラックスして、空の旅を楽しみましょう。

 7.現地にすぐに慣れるようにする。目的地についたらすぐ、現地の食事時間、睡眠時間に自分の身体を調整する。

 8.メラトニンを利用する。眠れない場合はメラトニンなどのサプリメントを利用するのも良いでしょう。

 9.飛行機の中でのアルコールを控える。二日酔いを防止するため、旅行の前日、旅行当日はアルコールを控えましょう。

 10.睡眠を充分にとる。特に旅行の前日は良く眠るようにしましょう。

 Bunny_Lab

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日常の工夫
 

 下記は、私たちのBBSに載っていたもので、ご本人たちのご了承を得て転載いたします。小さなことですが、ADHDのせいでできないと思っていたことが、実はほんの些細な原因でできなかったということはあるのでしょう。ADHDは、とにかくできない、とあきらめがちですが、そうではないという見本として興味深く、ご紹介いたします。

 from:プルーン 

 ご無沙汰しています。 
 
 今日は、今まで日常生活の中で不便に感じていたことが、ちょっとしたことで改善できて非常に嬉しかったのでそのことについて書きます。元々、大雑把な性格なので、他人が簡単に出来る、手先の細かい仕事がとても苦手でした。例えば数十枚束になった、紙を整えたり、枚数をかぞえたりすることや、印刷したネームタグを貼るなど、とても不器用にやっていました。最近特に手先に力が入らず、つかんだものを他のことを考えているあいだに地面に落としたりして、自分でも気が滅入ってしまって、私はADDな上に、筋力まで低下してしまったのと、一人嘆いていました。
 
 ところが、ある晩、気分転換に明日は爪の手入れをして会社に行こうかと思い、爪にマニキュアを塗りました。明くる日仕事に行ってみて、面白いくらいに指先に力が入るのです。細かい仕事も普段よりも随分、難なくこなせました。モノを誤って地面に落としてしまうことも随分減りました。結局、今まで指先の細かい作業が苦手だったのは、実は爪を切りすぎていたことと、少し爪が薄い性質だったことも原因だったようです。
 
 少しのばして、マニキュアを塗ったほうが硬さもちょうどよくて、指先に力がはいりやすいことが分かりました。何事もADDのせいにしないで、少しの工夫で改善できることがあるのですね。最近私は何もしないで、自分を責めてばかりいて少し鬱状態に陥っていたので少し気が晴れました。
 
 喫茶子 

プルーンさん、はじめまして。

良かったですね!以前に何かのテレビ番組で「手先の器用不器用というのは爪によって決まる」というのを聞いたことがあります。

つまり指先がものにふれたときに、微妙な感触をキャッチするのには指先にしっかりとした裏打ちがあることが大事なんだそうです。

マニキュアを塗るという方法があったのですね。最近私も物をよく落とすので試してみますね。年のせいかな。 from ロクスケ(BBSへのレスではありませんが)

 私も、ちょっと油断をするとものを落としたりすることがあり、年のせいかと思ってましたが、どうも指の構造のせいらしいですね。わたしは、いろいろなことをやる割に自分では不器用と思ってました。どうも、指が短くて爪が反っくり返っているせいらしく、喫茶子さんの書き込みで納得しました。マニキュアを塗ることもしませんが、爪が反っくり返っていて引っかかりやすいのでのばすわけにもいかないのです。指自体短いですしね。


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春という季節


 私自身、今年に入った頃からどうも心身ともに調子が悪く、困っていましたがなんとなく回復してきたようです。ところで、当WingBrain委員会のメンバーも、いろいろ不調を訴える人が多く、というよりほとんど全員が調子を下げているようで、原稿が書けない仕事が進まない気分が落ち込んでいるなどなどの悩みを持っているようです。

 どうも春はそのような季節ですね。考えてみれば昔からそうでして、春というと野山が一斉に芽吹き希望に満ちた季節のように言われていますけれど、実際は冬から夏への切り替わりのためか体の調子が不安定な時期のようです。考えてみれば、私は春という季節が昔からあまり好きではなかったようで、寒くても冬、暑くても夏の方が調子はよかったようです。日本では4月が年度替わりで、役所も学校も職場もすべてが新しくなりますが、なぜなんでしょう。気分一新をするにはよい季節だと昔の人は考えたんでしょうか。海外では、10月に年度替わりをするところがたくさんあるのですが、その方がうまくゆきそうに思えます。よく観察してみると周囲の一般人にも乱調子の人が結構目に付きますし、やはり春は調子を狂わせる季節のようです。

 ま、それはともかく、空回りをしているときはある程度は逆らわない方が結果はよいというのも今までの経験から得た知識です。とはいえ、積極的に状態を改善する方法も模索してゆくべきでしょう。そのかねあいがまた難しい。くよくよしないのが一番とわかっていてもそうはいかないから問題なので、せめてくよくよしていると自覚したら深呼吸でもして、散歩かショッピングにでもゆくようにします。その結果遅れに遅れている仕事がまた遅れても、頭を切り換えて取りかかった方がかえって速く進むと考えれば気も楽になります。本当は遅れたままですが。

 今日もこれからクレーム処理です。頭の切り替えのために、メルマガ編集に取りかかったわけです。

 調子の悪いのは季節のせい、そう割り切ってしまって、それなりにできる努力をするのがよいと思うようになりましたね。

by ロクスケ

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多重債務の処理方法


私は今、まったく自分の責任だけで多重債務者となり、支払い不能な状態に陥りました。現在、債務者の自助グループのようなものに入り、その処理に追われているのですが、何回かに分けて、この処理の模様をメルマガにて発表していこうと思います。

とりあえず、何故、このメルマガ原稿を書こうと思ったのか。それは、多重債務がADHDにとって、割合に身近なことだからです。多重債務とは、ようするに色んなところからの借金が重なっている状態のこと。これは金銭管理が上手くできないこともその特徴の一つに上げられる、ADHDが陥りやすい罠だといえます。そして、この多重債務が生む二次被害は日常を蝕み、鬱や引きこもりを引き起こします。自分を責めたり、あまりの辛さに、死んだ方がマシだ、とさえ思うようになります。しかし、ここでその気持ちや恐怖(支払いが滞ると、電話がかかってきたり呼び出されたり、精神的に辛い状態になることが多くなります)に負けてはいけません。何故なら、解決策はあるからです。

ご存じの方も多いかもしれません。でも、知らない方のために。破産・民事再生・調停・任意整理の4つです。

それぞれ、メリット・デメリットがあり、また、自分一人ではできないものも多いのですが、私は、調停という方法を選択しました。その理由は、

1つ目は、自己破産が、両親が家を持っているため難しいということ。2つ目は、借りた分くらいは返さんとなーという自己反省。3つ目は、調停以外の方法は、やはり弁護士さんの力を借りた方が良く、そのためには20万から50万の費用がかかるということ。

これははらえん!となってから、市の法律相談センターに行って話を聞いてもらったのですが、破産するなら、自分でもできるけど、普通は弁護士に頼んで、費用はこれくらいかかるね。という、かるーいお返事でした。お金が無くて払えないから破産しよかー言うて相談に行ってんのに、そんなに払えるかっちゅーねん。という憤りは胸にしまいまして、次に、そういった債務を抱える人たちをボランティアで支えてくれる団体、自助グループのようなものに相談に行ったわけです。そこで、相談に乗ってもらい、破産以外の方法を教えてもらい(ちなみに法律相談の時は教えてもらえなかった)何とか、一人ででもできる調停という方法をとることにしました。

しかし、ここで落とし穴。この調停、ADHD族には非常にきつい。裁判所に提出する書類として、上申書を書かなければならないのですが。そもそも明日払うものの振り込み用紙をなくす人が、数年前の契約書やら振り込み証明やら置いてあると思います!?(自慢するな)何とか記憶をたどり、上申書を書いているのですが、かなり厳しいです。実際それらのものが証拠として絶対に必要な訳ではないのですが、記憶と事実の齟齬があると、いろいろと突っ込まれるようです。

ただいま、私はこの上申書を仕上げるのに必死です。しかし、この手の相談を行っていて、今手続き準備中ということを伝えると、大手金融はしばらくは電話をかけてきたりしなくなります。一時だけですが、心の平穏(苦笑)。この後、まだまだ大変なのですが、経過は、また、お伝えしたいと思います。

次回は、調停の具体的な方法など、書きたいと思います。もし、苦しんでいる人がいれば、ぜひ、一度、相談されることをお勧めします。ほんとに、気持ちも楽になります。はい。
さて、前回ご紹介した調停という方法ですが、これは、意外に簡便な方法です。正式には特別調停といい、手続きは簡易裁判所で行います。簡易裁判所で特別調停の申立を行い、裁判所の調停室の中で、調停員を交えて、各金融会社の担当者と返済について話し合う。というのが、ざっくりとした流れです。破産と違って、返済することが前提ですが、その際、利息制限法に基づいた計算で債務を計算し、また、将来的な利息が付かない形となるため、何度か返済している債務(借金)に関しては、大抵額が減ってきます。また、長年の契約で返してはちょっと借り、というのを続けていた場合でも、金額はかなり減ります。

 これは、大抵の金融会社が利息制限法で定められている利息=18%よりも高い金利で貸しているからです。もし、今、金融会社から借入をしている人は、その明細などを見てみてください。大抵29.2%だと思います。最近、大手金融は、少し下げてきていますが、それでも利息制限法に照らし合わせてみると、高い金利になっています。ですから、計算し直してみると、かなり元金が減ってきます。どうかすると、こちらの方が過払いしている場合もあるくらいです。ただし、この特別調停は、返済が前提ですから、少額でも返済できる能力、すなわちある程度の定期的な収入があることが大前提となります。

 自分の借金の金額と月々の返済額、また、最初に契約してからの期間などを照らし合わせ、特別調停にしよう、と決めたら、行動です。*弁護士さんや司法書士さんに依頼することが出来ます。しかし、自分でやってもそんなに難しくないですし、かかる金額が全然変わってきます。依頼すればその分料金がかかりますが、自分でやれば、申立の手数料などだけですみますから、返済できなくて困ってるわけだし、自分でやってしまってもよいと思います。*

 まず、自分がお金を借りている金融会社の【支店所在市】の簡易裁判所に出向きます。大体、自分の家の近くか職場の近くか、という人が多いのでは?と思いますが、最近はネットキャッシングもあるので、自分が契約している支店の住所を調べ、その所在地の市内の簡易裁判所にいきます。ただし、支店が複数市に渡っている場合(私もそうでした)、最も多い市の簡易裁判所が担当となります。さて、これは大阪市の場合ですが、簡易裁判所の受付で特別調停をしたいというと、申立の方法とともに、色々説明してくれます。その際、何社くらいあるのか、何故調停をしようと思ったか、など聞かれますが、自分のことを自分で把握する意味でもちゃんと答えましょう。ただし、相談には乗ってくれません(ここ微妙)。説明を十分聞いて、本当に自分が特別調停をするのかどうか、決めるのは結局自分です。説明を聞いて、必要なものを把握したら、一旦ウチに戻ってよく考えるのも手です。

 必要な書類は、1.簡易裁判所でもらった申立書に完全記入したもの。2.自分の収入を証明するもの、3ヶ月分。3.債務(ようするに借金)を証明するもの。*理想は契約書と最後の取引(返済/借入どちらでも可)の明細(ATMの明細書でOK)。ただし、私も含めて、当初の契約書を持っている人は少ないと思われますので、実際には最後の取引の明細だけで大丈夫です。もしくは、葉書などで送られてきた督促状(苦笑)。これも最新のものを。*以上です。

 ※被害者の会という形で存在するボランティア団体で書いている上申書は、実際には必要ありません。何故書くか、というと、もう二度と返せないほどの借金はしません、という反省の意味を込めてのようです。また、破産手続きには上申書は必ず必要になります。それの下準備も兼ねて、というところのようです。被害者の会が自助グループのようだと私が思ったのはこういうところからもあるのですが、この自助グループに関しては、また別項で書きたいと思います。※

 簡易裁判所によっては、その場で書くように指示するところもあります。ちなみに大阪簡裁はそうなっていて、最初に必要な書類や申立書を書くのに必要な情報などの説明を受け、すべての書類と情報を持って、再度受付へ赴くと、その場で申立書を書く形になります。

 申立書を書く上で絶対に必要な情報としては、1.各社ごとの自分の残債務(ようするにあといくら借金が残っているか)2.各社支店の住所と電話番号。*これは、それぞれの債権は契約書をかわした支店にあるためで、支店に向けて、連絡や確認が行くためです。必ず、電話番号は必要で、フリーダイヤルでは却下です。場合によっては管理センターに処理が移動している場合があります。その場合は、管理センターの所在地が必要になります。*3.各社ごとの最初に契約した年月日。*契約書があればOKですが、なくしている場合(私はもちろん?ありませんでした)、出来るだけ正確に思い出しましょう。*

 必要情報については詳しくは簡易裁判所で教えてもらえますが、あらかじめ調べておいた方が、手間が少なくて良いと思います。

 申立書と書類が揃ったら、次は費用です。費用は、1社につき800円程度の印紙代+書類郵送費です。私は8社あったので、トータルで約7,000円程度でした。申し立てに行く際には、財布にお金が入っているのを確かめていきましょう。

 裁判所の受付の人は、別に敵ではありませんから、解らないことはばんばん訊ねてみるのがよいかと思います。

 申立は、書類不備などなければその場で受理されます。受理されて、債権者のところへ連絡が行った段階で、債権者は取り立てが出来なくなります。さらに、こちら側も1社にだけ返すなど、してはいけません。すべての会社に平等に、対処しなければならないからです

 申立受理後、しばらくすると裁判所から、出頭日時の書かれた葉書が届きます。私の場合は約1ヶ月後の出頭でした。

 次回は、出頭するまでにしておいた方がよいことを、書きます。

 by アンジェラ
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(高機能・アスペ)の保護者学習会


HFA(高機能・アスペ)の保護者学習会でAD/HDに関わること

先月、関西某所でHFA(高機能・アスペ)の保護者学習会で自閉症スペクトル者本人として話をして来た。一見、AD/HDに関係がないのかなと思う方が普通であろうか。メルマガ原稿に書く以上、AD/HDに関わることがあるのではないかと期待している人もいるのではと。自分の事をメインに話すので、メルマガ原稿ネタにはなりませ〜ん。

が、質問時にAD/HD関連の質問が出てきたのだ。参考までに質問の内容は家にお友達の呼び方から進路まで幅広かった。全部の質問に私なりの考えで答えた。そのAD/HD関連の質問とは?

「物事の優先順位が付けられない」と言うのが質問だった。自閉症スペクトルとAD/HD両方を持っている人は意外と多いのだ。現に私もLDありーの、AD/HDありーの、自閉症スペクトルありーのの軽度発達障害のデパートと言う有難い“異名”をもらっている人間である。

私の答えとしては「これはAD/HDの領域に入るので、自閉症スペクトルだけの人にはわからないと思いますので、簡単にAD/HDの事を話しておきます。(中略)私が実際している物事の優先順位の付け方はABCプライオリティーと言うもので、すぐしなくてはいけないものはAで、今週中にするものはBで、どうでもいいものはCにしておきます。Aの中にも123と分けておきます。そうするとCランクのものがAランクとしてする必要はなくなるし、物事の優先順位の付け方が付けられる様になります。」と答えた。(※詳しく書くと長くなるので一部省略した。)

自閉症スペクトルの話の中にAD/HDの領域が入るとまさか思わなかった。が、実際、質問の中に出てくるのはある意味当然なのかもしれない。

by Rosamonde

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インターネット中毒


 5年も前だろうか、「インターネット中毒」と言う本が、翻訳されて日本でも発売された。そのときは、何の気なしに、みていたのだ。インターネットへの心理的な強度の依存が書かれてあったと思う。
 
 しかし、それは私には別世界だと思っていた。むしろ、テクノストレス症候群といって、パソコンに適応できずに心身症になることのほうが、ずっと自然であるし、ずっと普通だと思っていた。このたび、パソコンの一部が壊れ、五月のゴールデンウィークの前に修理に出したところ、帰ってきたのはゴールデンウィークをはるか過ぎてからだった。
 
 その間、精神的によりどころを失ってしまって、携帯メールをしまくるという結果になった。また、子どもたちがいないときは、パソコンがあればぜんぜんなんとも感じなかったのが、非常に取り残されたように寂しく感じてしまった。
 
 朝起きるとすぐ立ち上げるパソコンがないので、職場につく時間も早かった。そして、職場のパソコンでインターネットを必ず立ち上げ、机の上に置いておいてから、仕事にとりかかった。何を検索するでもないのである。でも、気がつくと、そういう行動をとっていた。家に帰っても、パソコンがないのでぼーっとしていたり、早く寝てしまったりしていた。
 
 休日は、とりわけ長く感じたのである。自分でも、これは「まずい」という感触をもった。「インターネット中毒」か!?アルコール中毒も薬物中毒も、自分の状態を判断できない。強制的に病院などへ入れられて、禁断症状が出てはじめて自覚するものだ。私にとって、今回のパソコン修理は禁断症状に近かった。もっとも、パソコンは本当に便利な機械で、あれば生活に潤いをもたらすものである。みなさんも、「インターネット中毒」という症状があることを念頭においてパソコンとお付き合いできるといいと思う。メンタルヘルスのためにもお勧めしたい。

by musica

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普通の人にできること

 
 引っ越しの準備で大変です。ADHDにとっては片付けが人生最大の問題でしょう。僕の場合も、家財道具の山を前にして呆然としてしまいました。どこから手をつけていいかわからないのです。ひとりでやると、モノをこっちからあっちに移し、またあっちからこっちに戻ししているだけで、結局なんにも進展しません。
 
 それで友人の一人に声をかけ、手伝ってもらうことにしました。彼は去年の11月に会社をやめ、今は失業保険をもらいながら職探し中でヒマしているようなのでちょうどよかったのです。もちろんタダというわけにはいきません。日当一万円払いました。実を言うと、僕は普段から彼の事を能力的に低くみていたんです。
 
 在職中でも年収は僕の半分くらいで、それほど仕事ができるわけではない。酒と女とギャンブルの好きな普通の中年男。性格的には悪くないが、人畜無害で平凡なごく平均的人間。特別な能力、特技もなく、集団の中にいたらまず間違いなくその他大勢の中に埋没してしまうとおもわれる男。そう思っていました。
 
 ところがです。台所のそうじを任したら、「捨てるモノと、いるモノを分けるから指示してくれ」そう言って、段ボール箱とゴミ袋を持て来ました。ゴミ袋は燃えるゴミと燃えないゴミに分別しています。そして「コレは?」「いるよ」「じゃあ箱の中に入れよう」「これは?」「いらない」「プラスチックだから燃えないゴミの袋だ」そういってどんどん片づけていくのです。それがおそろしく早く、てきぱきと、まるで魔法をみているようにあっという間に台所まわりがきれいになってしましました。
 
 5年間の使用でレンジにこびりついていたギトギトした油もすっかり落ちて、清潔感を取り戻したアイボリーの輝きがまぶしいくらいでした。その他、ベランダと風呂場も同様に手際よくぬかりなく片づけてくれました。僕がやったらまず一週間はかかったと思います。はっきり言って目から鱗です。えっ、こんなに簡単にできるの?というより、なんの悩みもなく、躊躇なく、臨機応変に自然に体が動くということが、どんなにすごいことか。普通の人はみんなこんなことが簡単にできるのでしょうか。

ADHDの症状を持っている人間であれば、相当のエネルギーを使わないとできない芸当です。間違いなくくたくたになって翌日はなんにもできないと思います。

我々が、どうして手早く効率的に作業ができないかを分析してみたんですが、モノを動かす時にいろいろよけいなことを考えてしまうからではないかと思います。「このビデオの山をなんとかしよう」「なんとしても今日中に片づけるんだ」「この中には必要なビデオテープとそうではないテープがまじっているはずだ」「ああ、このテープはNHKの大河ドラマ武蔵の第8話まではいっていて途中で切れちゃったやつだ」「一乗寺下り松の吉岡一門との決闘シーンは別のテープに録画したはずだが…」「そういえば、あのシーンは昔池袋文芸座で見た内田吐夢監督・中村錦之助主演の殺陣のほうがはるかに迫力があったなあ…」「そういえば別のビデオで時代劇のいいやつを録画したと思ったけど、どこにおいたかなあ…」そんなぐあいに思考が連綿と続いて手のほうがおろそかになってしまうようです。気がつくとぼおつと考え事をしていて、ビデオの山はもとのとおり、全く整理されていない。そういったていたらくです。

 by mogurin



ADHDの問題が具体的に書かれていたので、掲載しました。こういう問題に心当たりがある人は大勢居ると思います。 ー ロクスケ

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無洗米


 最近、スーパーなどへいくと、無洗米というお米が売っている。私は、生協の宅配でそれをみつけて、無洗米をつかうことにしている。

 無洗米は、神戸の地震のときに水が不足して、とがなくてよいお米をということで急遽開発されたものらしい。ふつうのお米よりもより精米しているので、少々小さい。

 しかし、子どもにも米をいれて水を入れるだけで炊けるし、私も、仕事から帰って簡単にご飯が炊けるのがありがたいものである。

 味は、普通のお米とかわらない。お値段は、とぐお米より、10キロで100円くらい高い。

 しかし、日本人なんだなあと思うのだが、お米は毎日必要だ。無洗米で水を入れて、炊き上がったご飯のおいしいこと。

 是非、ご試用あれ。

 by musica

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少しでも良いからいいことを探そう


「毎日、少しでも良いからその日々に起きた良いことを探そう。」最近の私は、自分にこう言い聞かせています。私は、過去に起こった事を思い出し、そして、周期的な欝に襲われています。でも、最近はその欝である期間が短くなってきているのが分かります。物事には、たいていの場合は陰と陽があります。陰の面ばかりに目を向けていると、陰の方しか気が付かなくなり、鬱に成りがちです。少しでも良いから良い方に眼を向ける様に心がけています。少しずつで良いので、少しずつ自分の良い面を探していってあげるようにしています。長く時間はかかるかも知れませんが、気長にあせらずにすこしづつ回復していきたいです。

 by ナオニャム

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露見してしまう不注意


 仕事で、非常に細かいエクセルの表を作ることになった。それも、一票でなく、一人一人の状況に応じてフォームが変わる。10種類くらいあっただろうか。

 一人一人の病院や薬剤の領収書を見ながら、一枚一枚、総医療費や保険者の一部負担金、本人負担金、国保・社保で出た高額医療費、本人の負担限度額、実際の支払額を、支給決定額を医療機関別に、あるいは入院外来べつに計も出し、総合計もだすのである。人によっては、A4の紙で2枚にも渡る。

 一人の人に何枚失敗の紙を出力したことだろうか。一枚領収書が抜けていれば、合計が合わず、コピーして作れば、何気にずれていたり医療機関名が違っていたり、もう自己嫌悪の権化である。

 これを、都の役人が審査する。だめだと、つっかえされるので、こちらも必死だ。

 しかし、この作業で私は本当に注意欠陥障害があるのだということを、自己認識してしまった。再検した人も、いらいらしただろうが、自分自身で本当に嫌になってしまったのである。なんで、こんなにできないのであろう・・・。私には仕事の能力がないのだろうか・・・。どんどんと悪いほうにはまっていく。いろいろな場面で自己認識することは多くあった。でも、今回は特別である。仕事に結びつく部分でこのように、だらしないことしかできないなんて!ショックだった。しかも、かなり注意してした仕事だったのだ。

 人に理解してもらう前に、自分を理解することがどれだけむずかしいか、今回はよくわかった。自信満々で仕事をしていた自分が恥ずかしい。少なくとも人の批判はできないことがよくわかった。気をつけよう。そして、あきらめずに前向きに。

 by musica

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身体の記憶を形づけるための効果的な方法


ADHDだと日常の家事がうまく出来ない、簡単な雑用が出来ないと言われているが、何かを始めても瞬間的に他の事に注意が移ってしまう、ふと浮かんだ雑念に気をとられてしまうなどがその理由と考えられる。
 
 掃除でも炊事でも洗濯でも、あるいは仕事上での計算やコピー取り、ファイル整理などがうまく出来ないのも頭の中にある手順を追ってその通りにやれば問題はないはずなのだが、ADHDの場合、その手順、つまりマニュアル自体がうまく出来ていない、出来たマニュアルが自分のものになっていないので細かい一つ一つのステップを参照しながらでなければ出来ない、その参照という作業が雑念にじゃまされるという訳だ。
 
 それに対処するには、うまく出来ていない頭の中のマニュアルを自分に合わせて作り直し、それを完全に自分のものにして、いちいち意識をしなくとも自動的に身体が動く様にしておけば上記の問題は解決するという理屈だ。結局は基本に戻り、自分がどうしてマニュアル通りの事が順序よく出来ないか、どこにひっかっているのかを見つめ直し、作業を小さな部分部分に分解してその一つ一つを何度も繰り返し身体が自然に動くまで癖付けをする。
 
 癖付けして無意識に出来る作業を増やしていけばやがて全体が無意識に出来る寸法だ。結局、焦りながら出来ない作業を無理矢理しようとするより、このように基本から癖付けをしていった方が結果としては早いし、そして精神的負担が少ない様である。
 
 by ロクスケ

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障害者合同面接会


盲学校を卒業してから、体調を崩し早3ヶ月が経過。精神状態も悪くなかなか外に出かけることもできないまま過ごしてしまった。

気がついたらもう6月。半年がたってしまっている。いい加減、就職決めないと。

面接が大の苦手な私ではありますが「縁故」や「コネ」がないもので、正攻法で行かざるを得ないので、ここはひとつ気合を入れていかないといけないと思い、就職面接会に臨みました。

今日は午前10時から面接会の会場に赴いたのですが、東京体育館(千駄ヶ谷(新宿の近くです))はすでに多くの人でごった返していて目的の場所にたどり着くにも一苦労の有様でした。

 私の今回の面接先は某企業でのヘルスキーパーの面接でした。不況下でもありますし、視覚障害者の場合どうしてもあんまマッサージ指圧師・鍼師・灸師という伝統的な職域に偏りがちでありますし。応募は多いと踏んでおりましたので、経験をつませていただく心積もりで臨みました。

 履歴書の提出をすませ、あとは私の面接を待つばかりとなり、おとなしく待ちながらも周囲の状況に注意を払い、どのように面接をしているのか聞いてみていました。緊張しすぎて受け答えがキャッチボールにならなくなることがしばしばあるもので、ほかの人はどのように答えているのかが分かり、自分自身を落ち着けていくようにしました。

 私の面接の順番まであと10人というところで面接会の時間が終わり履歴書提出に代えるとの指示が職安の職員の方よりあり、履歴書を提出して帰宅したのでした。

 実際はというと、採用人数一人に対して40人前後の応募者ガいる状況でした。

 今回、残念ながら結果は不採用でしたが、これにめげずに挑戦し続けて内定をいただけるよう今後とも精進してゆきたいと思います。

by はるか


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トイレットペーパー


我が家には、高校生の男の子が2人います。特に長男はよく食べるし、体も大きく、トイレも長時間はいっているのです。力がありあまっているのか、彼は、しょっちゅうトイレットペーパーを芯の棒からはずしてしまい、床に落としたままADHDのせいか面倒がってそのままにしています。それで、直すのは私の役目。これがもう15年も繰り返されてきたとはいえ、私もかなり面倒だと思いながら、直していました。

 賽の河原のようだ、とある時期思いました。

 床にころがった、芯の棒と、トイレットペーパーにためいきをつく私。ふうー。ところが、このところ仕事が楽になり、残業しない身になったところ、なんだか嫌な気持ちが一向にしないでトイレットペーパーをつけてしまう私がいました。ぜんぜんめんどうくさくない。当たり前のようにできてしまう。もしかして、これは仕事が暇になったからなのか、それとも習慣になったのか?普通の主婦のように、トイレットペーパーをつけ、手洗いの丸い桶まで洗剤できれいにして、気持ちがいい!

 これが、正常な感覚なのかもしれない!そうだ、きっとそうだ、と思いました。やっとおとなになったのかもしれませんね。(笑)

by musica

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アイデアノート


 (下記は、当サイトのBBSに書き込まれたものを、ご本人の承諾を得てここに転載したものです。これは子供向けのアイデアノートですが、基本的には大人のADHDでも応用の利く方法だと思います。やはり、このような、具体的な方法をそれぞれの人に合わせて工夫してゆく事が大切だと思います)

最近、色々な人から長男が言われている共通した台詞。「ぐずぐずしない」「ぼーっとしている」「時間が分からない」「何度言っても分からない」私が子供の頃言われ続けた台詞を、やはり言われ。更に私も言ってしまう。

・・・私のトラウマカイロがぴくぴくして来たので、坊主と話し合い、『たー坊すくすくアイディアノート』(私は長男をすくすくどんどん君と呼んでいるお陰様で小2で身長130cm)を作る事にした。

国語のノートを買ってきて、次の順に坊主に書いてもらった。

条件として。 
 1.全て箇条書き 2.思いつくままにいくつでも勿論重複してもかまわない。 
 3.更に思いつかない、分からない時はそのまま正直に「分からない」等と書く。 
 4.文章はマスの中にきちんと書く、字はきたなくて良いが、作文の練習にもなるので、作文のルールにのっとって書く。

項目は下記の通り
1)氏名/P>
2)たー坊の良い所(長所) 
3)たー坊の悪いところ(短所) 
4)先生に言われた事 
5)お父さんに言われた事 
6)お母さんに言われた事 
7)友達に言われた事

ここで本人が書く事によって、本人に自覚があるかどうかが分かった。特に長男は毎回同じ台詞を多数の人々に言われるので、自分の事を何も覚えられない馬鹿と思い出しており、そうとう自身をなくしていた様子だった。しかしC〜Fを書くことによって、自分は記憶していると言う事が分かり、やはり「分かっているのに出来ない脳」である証明が出来た。息子本人もおどろいている様子。

自分の事を自分で確かめる事が出来たので、『傾向と対策』にうつる事にした。
 一、言われた事の中で、自分の行動をたださねばならないと思うもの番号を赤鉛筆でぬる。
 二,赤く塗った番号を『課題』と命名する 
 三、課題を別の行に抜き出し、それを克服する為のアイディアを思いつくまま、どんどん書く。 
 四、アイディアを自分以外の人にも書いて貰う。 
 五、その中で『これなら自分にも出来るかも』と思ったアイディアを少なくとも一ヶ月はやってみる。 
 六、やってみて出来なかったり、長続きしなかったりした場合、もう一度アイディアを練る。勿論時間が解決する事もあるので、保留とし、別の課題をしても良い。 
 七、問題が解決したり、行動等が習慣化出来たりした場合。課題の番号を青鉛筆で消し込む。黒でつぶすと何の課題がクリア出来たか分からなくなるので青とする。 
 八、クリアした課題は、どう言う風にしてクリアしたかを書いても良い。勿論書かなくても良い。 
 九、そして出来た時は『頑張ったね』とか、『やったね』とか、ねぎらいの言葉を書く。 
 十、絶対してはいけない事。出来ない課題に対して『なんで出来ないんだ』とか『馬鹿』等、書いたりしない。自分で自分にマイナスの暗示をかけない事。しむけられる時もあるから注意する事。

基本ルールは崩さないが、途中でルール改定をする予定。まだ長男が七歳であると言う事と、本人からの要望があるかも知れないと考えたからである。

・・・もう、苦肉の策です。長男は私に似て、インドア派でやんちゃもまとも出来ず、ちっとも男の子らしくありません。でも、じゃれ合いとか暴れん坊大会が嫌いなのに、無理に「男の子なのに」と定義づけてさせる事もないと私は思います。でも、『普通じゃ無い』と言われ続けて自身の無くなっている息子を見て、何とかならないか?と考えた『アイディアノート』です。また経過発表致しますので、この件について他にアイディアがあれば教えて下さい。宜しくお願い致します。

by 怜緒

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職活動のその後


 みなさま、ごぶさたしております。はるかです。

 前回の「就職活動」でもお伝えしたように、就職に際しては不況のおり、各社とも選考がさらにきびしくなってきているのを痛感させられた次第です。

 自分がするべき、与えられた仕事があることは幸せだなあと感じています。

 しかし仕事が見つからずにいるのに「若いもんが、暢気なもんじゃのー」などとハラの立つ一言をかけてくる年長者の方もいらっしゃいます。正直、私だってあせっているのに…あせると、なおのこと結果が出ないからなのですもの。

 世間では公務員試験のシーズンですね。民間でも、公務でも「現場第一主義」なのは同じですものね。その気持ちを忘れずに課題に取り組みたいと思います。

 まずは夏を乗り切らないと…ガンバレ自分!

 それでは、また。

 by はるか

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近所のカゴ猫


 私の家の周りには、いわゆる地域猫&飼い猫が沢山います。それぞれ個性があってみ
ていて大変面白いです。その中で、とてもインパクトのある猫がいます。その子に私が付けた名前は「カゴ猫」です。

 何でそんな名前かというと、彼女(?)はいつも近所のアパートに停めてある自転車のカゴの中で丸くなって寝ているからです。カゴの中にすっぽりはまって眠っています。カゴの中に居ないときは、自転車の椅子の上にちょこんと座ってポーっとしています。
 
 私が、「おはよぉ〜。」とか、「こんばんはぁ〜。」とか言ってなでまわしても、お構いなしで寝ています。たまにスリスリもしてくれます。とても癒されます。
これからも癒して貰っていこうと思っています。

by ナオニャム

 わたしもご案内の通り、少し度の過ぎたネコ好きで、散歩の途中でも、仕事中でもネコを見るとつい挨拶を交わしてしまいます。近隣にもお友達ネコが沢山います。
 
 ペットの癒し効果は広く知られていますが、たとえば痴呆症の老人にペットを世話させて痴呆の進行が停滞したとか、アメリカの刑務所で囚人にペットを飼う事を許可したら再犯率が下がったとかいろいろあるようです。わたしも猫など飼いたいのですが、都会ではとにかく責任を持ってペットを飼う事は不可能ですし、家を空ける事も出来ません。なにしろ、無責任な飼い主が多すぎますし、ペットにいやしてもらうだけではなくペットをいやす責任もあると心得なければならないんですがねぇ。
 
ところで、近所のスナックの常連カップルを紹介したく、ここに画像をおきますので、見てやってください。
http://addproject.cool.ne.jp/yopparaineko.html
 
by ロクスケ

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聴覚刺激


次男は、言語性が非常に優位なLDである。そしてADHDでもある。彼は、耳で聴いたことは、きちんと大脳皮質の奥までインプットされるらしい。私はピアノを選考していたので、家には2台ピアノがある。次男は、適当に耳で聞いた音楽を、弾ける範囲内でいろいろと弾いていた。もちろん、私は彼に一度もピアノを教えたことがない。だから、運指はめちゃくちゃであるが、よくまあこれだけ弾ける物だと感心していた。
 
 昨日、久々に私がピアノを弾いていると、俺にも教えてくれよお、と次男がやってきた。それで、坂本隆一のエナジーフロー(うらBTTB)を弾くことにした。彼は、ヘ音記号が読めないので、私が弾いてやりそれを覚えるということで進めていった。もちろん、運指はめちゃくちゃだが、私は何人もの生徒さんにピアノを教えたが、はじめからちゃんと習った人以外は、指の運び方はどうでもいいことにしている。というのは、ピアノの指使いというのは非常に独特で難しいからである。
 
 さて、次男だが、昨日で1ページ目の大きなフレーズをクリアした。ものすごい集中力である。1時間半くらい没頭していただろうか。すっかり見事に弾ける様になった。今日は、続きを教えてくれというので、和音の部分に入って例示し、彼が耳で覚えてから私は、今こうしてパソコンを打っている。ほとんど弾けている。まったくの度素人が、よくここまで弾けると思うのだが、その集中力にも驚く。
 
 耳がいいというのは、ものすごい特技だと私は思う。私は、どちらかと言うと視覚優位なので、字から入ったほうが頭に入りやすい。でも、耳がいいということは、たとえばギターを与えれば、ちょっといじっている間に和音を弾けて伴奏ができてしまうし、CDを聞けば歌詞をたちまち覚えてしまう。人の言ったことは決して忘れない。私は、人の言ったことを次々と忘れてしまう。だから、聴覚刺激に強い人はとてもすばらしい贈り物をもらっているのだ。 
 
by musica

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燃え尽き症候群


昨日、試験が終わった。それまで、何度も本を読み直し、家事をさぼり、とにかく払った授業料の元をとろうと、必死でがんばってきました。でも、終わってみたら、2教科は全然できていない!終わったことは、もう取り返しがつかないので仕方がないのだが、試験準備が悪かったこと反省しきり。
 そして、待っているのは、たまった家事。あまり疲れてしまったので、夕寝をしたら、自分が責められている嫌な夢を見てしまいました。仕方なく起きて、炊事場にたまった食器を一気に洗う。洗濯も同時進行である。夕食は何にしようか、と考えては見るものの、体が動かない。精神的に、疲労している感じがする。何のために、試験を受けたのか。私はいったい何がやりたいのか。なんで、子供たちは汚す人で私は片付ける人なんだろうか。あれこれと、頭に浮かんでは消えていく。
 そういえば、発達心理学に45から55歳は、人生の再構築のときだと書いてあったっけ。もうそんな年だ。バーンアウトしていられないが、半ば燃え尽きている。昔は50歳まで生きればよかったのに、まだまだこうして元気に生きているのは、食生活と治安のおかげかもしれない。だからこそ、悩むのかもしれない。これを乗り越えて、元気に陶芸の講師をやっている80の父がうらやましい。

by musica

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新たなる戦い 血糖値


先日、職場の検診で血糖がでてしまった。今まで、どんなに暴飲暴食しようが、肝機能、血圧、血糖ともに正常で、ただし、肥満なため、高脂血症と総コレステロールが高かったので、その薬は飲んでいた。 血糖と書いてあったのを見たとき、思わずうっとなった。糖尿は厳しい病気である。やはり、このまま、肥満ではいけないらしい。意を決して、糖尿病食をインターネットで注文した。早速届いてしまった。一箱320Kcalである。食事制限の一番加減は1200Kcalと言われている。そこで、朝糖尿病食、昼はお弁当をとってお米の半分以上を若い男子にあげてしまい、夜糖尿病食とかるい補助食品をとった。

 ついでに、血糖値が気になる方にと銘打ってある飲み物も超まずいが、飲んでいる。職場から帰る道筋、今まで気が付いたこともないようなお店が目に入ってくる。すべて食べ物やである。参った。初日でめげそうである。明日になると慣れるのか?

 とにかく、考えることは食べることばかりだ。私はこんなにも貪欲だったのか!!おお、神よ!!ADHDの集中力を食べること意外に使おう。なにかしているか、寝るか、どちらかである。そうだ。私はおなかがすいているとねむれないのだった。

 何か、カロリーのないものをさがしてみよう。こんにゃく?わかめ?あとは?あとは?こんなことではだめだ。眠剤で寝るしかない。成功を祈ってくだされ。

 by musica

 6人に一人が糖尿病予備軍だとのこと。お互い気をつけましょう。血糖値が高い初期だと治りますしね。一度血糖値が高く出たら、とにかく医者の言う事を最大限聞いて押さえなければならんですね。とても人ごとと思えません

少しだけ腹の出ているロクスケより

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ダニ


 いくら掃除が嫌いだからと言っても、ダニに食われるようでははなはだ住みづらい。4日ほどまえだろうか、ぷつんと赤い発疹ができた。あれれと思っているうちに、毎日どんどん増えていく。とうとう、膿んできたり、周りが大きく赤く腫れて、いよいよ医者にいくことになった。

 たくさん薬を飲んでいるので、薬疹かもしれないと考える。ところが、朝遅刻して医者を探したのだが、開業医は、お盆の季節は稼いで、その後休むものが増えたらしい。どこも、ここも、8月19日から1週間休みと書いてある。

 4つ目の皮膚科であきらめようとしたところ、内科が目に付いて、事情を話すと、「一般的なことしかわからないからね、それでよければ診て上げるよ。」と言われて、診てもらった。内科の医者は、「これは、虫じゃないな。だって体中にできているもの。とりあえず、ステロイドの入った飲み薬、飲んでみて、だめなら皮膚科行ってね。」と言われて、仕事に就いた。仕事をしている間にも増えていく。

 子どもに染らないので、大丈夫だろうと仕事をして、帰りに皮膚科を探してから、帰路に着いた。ぎりぎりで、皮膚科に飛び込んだ。でもそこは、どうも普通の皮膚科とちょっとちがうようだ。自費診療と称して、ピアスの穴あけ(両耳で4000円)とか、美白診療6000円(学割あり)とか書いてあるし、ピーリングなんてわけのわからない自費診療があるらしい。

 どうも美容皮膚科らしい。私の前に呼ばれた人は、4000円も払っていた。おばさまの顔のしみとりもやっているらしい。

 とにもかくにも、やっと私の番が来た。若いなんとなく薄黒い日焼けした医者が、あちこち見ながら「これは、虫だね。ダニ。じめじめしているからねえ、発生しやすいんだよ。猫とか犬とか飼ってる?」「いえ、喘息もちですから」「じゃあ、化膿しているから、抗生剤入りの軟膏だしておきますね。1週間したらまた来て下さい。」「はい。」「家の通気性よくして、よく掃除して、お布団干してね。」はあー、最後のとどめ、耳の痛い言葉だった。内科医のほうが正しいとうれしいのだが・・・だめだろうなあ。このあいだ、ダニ退治したんだけどなあ・・・・。あ〜あ。ダニはみんな布団のなかに逃げ込んだんだなあ、きっと。人間刺すダニっているよねえ?

 by musica

ええと、確かにダニは現代の密閉度の高い家に発生し、それがたとえばアレルギーの原因になっていたりするんですが、同じ環境に住んでいながらダニや蚊、シラミなどに食われやすい人と食われない人、食われてもなんでもない人やものすごくはれたり膿んだりする人がいて、これは個々人の体質の違いによるものだそうです。まあ、現代人はダニに弱いんですが。ダニが躰に一匹もいないのは悲しい事だという古い歌があります。

 「七重八重花は咲けども山吹の、身の一つダニ無きぞ悲しき」太田道灌

 ただ、これを書きたかっただけでした。

 by ロクスケ

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向かいの家


最近、道路をはさんで向かい側に家が建った。こちらは、南向きにベランダとサッシがあるから、はじめのうちは、夜丸見えになることが嫌で、ブラインドを下げていた。でも、毎日、ブラインドを下げて部屋の中ばかりでも窮屈だ。向かいの家は、北側だと言うのに、窓を3箇所も作っている。うちの隣の家などは、もうカーテンを引きっぱなしだ。向かいの家の窓は出窓だったりする。普通、お互いに見えないように窓も工夫するものだが、そういう気が全然ないらしい。私は、ある日、背よりも高いヤシを買って帰った。それをサッシのところに置いた。それから、しばらくして幸福の木の大きいのを買ってきてその横に置いた。幸福の木の小さいのも買ってきて、テーブルにおいて、窓をさえぎるようにした。そうは言っても、実は丸見えである。特に夜電気をつけると、丸々見えてしまう。

それは、向かいの家も同じである。薄いレースのカーテンだけで開けっぴろげな人なのかと思っていた。目が合うとまではいかないが、お互いに出くわしたこともある。私は、子どもたちの反対を押し切って、ブラインドを開けっ放しにした。1週間たったころ、向かいの家が暗いのだ。どうやら、見えないようにカーテンを引いたらしい。そうだよ。うちだって、北側はまども閉めてある。窓らしい窓もない。勝った。と思った。だいたい、真正面に窓を作るなんて、失礼だ。だけれども、隣のうちほどひどくないかもしれない。お隣さんは、うちをのぞいて「お宅のおぼっちゃま、漫画読んでらしたわよ。」とわざわざ言いつけてくださる。しかも、うちの子供はしつけが悪いから口も利きたくないのか、挨拶をしても答えないそうだ。そっちのほうは、まだ勝負していない。そのうちやったるぞ。

by musica

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ちょっと思い立って、100円ショップで買った時計をばらして機械を取り出し、捨てるCD、針金、ラッカースプレー、ヨーグルト容器などで時計を作ってみました。

所要時間はおよそ30分。いろいろ作ってみようと思って、先日100円時計を5個ほど買ってきました。本当に簡単に面白い時計が作れます。特殊な道具も要りませんし、みなさんも試してみてはいかがでしょう。物を作るのも、気晴らしで面白いですよ。

前回ご紹介した時計を少し充実して、焼き板でケースを作った時計を作ってみました。

http://addproject.cool.ne.jp/tokei/tokei.html

 に載せてありますので、興味のある方は覗いてみてください。和風の焼き板ケースの時計はとても100円で出来た(わたしの場合ですが、あり合わせの材料を使えばそのくらいの費用かと思います)とは思えない見栄えです。作り方も簡単で、ちょっと手を掛ければ何処にでもある道具で作れますよ。もし、時計を作ったら画像を送って紹介していただければ嬉しいですね。サイトに載せてみたいと思います。
 
 具体的な根拠はありませんが、わたしの私見として時計によらず、物作りはADHDにとって好影響があるような気がします。わたしも色々作っています。電気スタンド(これは簡単、誰にでも作れます)、キッチンワゴン、パソコンケース(あり合わせのベニヤ板で)、真空管アンプ、鉋やノミなどの刃物(仕事用の道具)などなど。また、つい思いつきで作った竹製鉛筆ホルダーがえらく気に入って今や手放せません。この鉛筆ホルダー画像を、ついでと言っては何ですが、上記の時計画像に入れます。つまり、簡単に作れても愛着がわけば作る価値が非常にあるという事を言いたかったわけです。
 


by ロクスケ

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鬱の状況

 
鬱症状が悪化すると夜型になる。午前中の活動がだめで、お昼近くまで寝床でうつらうつらぐずぐずして、外部からの電話でおこされる。
この電話は仕事の催促の場合が多い。仕方がないので、ゆっくり起きあがり、顔を洗って、着替えをし、昨晩回していた洗濯機を開いてベランダにしめった服を干す。台所のゴミのはいった袋を二つばかりつまんで外に出る。
太陽がまぶしい。地面の照り返しが目をつく。
ポリバケツにゴミを投げ入れて、なぜだかうんざりする。
玄関の鍵をかけて出勤する。
ウェストポーチの中から抗うつ剤デプロメールを取りだし、なめながら歩道を歩く。
毎日のおきまりだ。
この日常がずうっと続くのだと思うとまたやりきれなくなる。
僕の住居は代々木公園の近くにある。
公園の近くとは行っても山の手通りのすぐそばで車の通行はひっきりなしにある。
だからでけっこううるさい。
その通りの歩道を地下鉄の駅まで歩くのが日課だ。
いつもなにやら工事をしている。引っ越した当初は大きなクレーンや赤いブルドーザー、原色のレモンイエローに塗った巨大な建設機械が珍しく、デジカメでさかんに写真を撮ったが、最近は全く興味がない。
今日も地面を掘り返す鉄のシャベルのカクカクした動きを、金網越しにつまらなそうに見ていた。
「青になりました。左右に気を付けて渡りましょう」突然歩行者用信号機が話す。
僕は、横断歩道を渡った。
ジーパンを穿いた白いTシャツの若い女がへそをみせながら反対側からやってきた。
右手で携帯を持って高い声で話をしている。
あいつ車に轢かれて死ね。
そう思った。
むしょうに腹が立つ。
駅の近くの小さな本屋に立ち寄った。
昼食を取るのに、何か読むものがないと物足りないのだ。
村上龍の「すべての男は消耗品である」を買った。タイトルが気に入ったのだ。
角川文庫480円。
ラーメン屋に入った。
たどたどしい日本語を話す、背の低い中国人ウェイトレスがやって来た。
ネギラーメンをひとつ注文した。
店内はすいていたが、奥のテーブルに建設工事関係の労働者と思われる男たちの集団があった。
四人かたまって昼間からビールを飲んでいた。
気になるので、興味もなく見ないという振りをした。
「ブスと貧乏人は論外である」本を開くといきなり過激な言葉が目に飛び込んできた。
「才能もなく、金もなく、きれいでもない哀れな牡たちはどうしようもない」僕はますます落ち込んだ。
本を閉じようと思ったが、抗しがたい文章の吸引力に負けて読み続けた。
「芥川賞なんて二十代で簡単にとって、億単位の金のかかった映画をサラツと撮って、スクーバダイビングとテニスをして、一年のうち六十日は南の島へ行って、速いヨーロッパ車に乗り、無数の女とうんざりするほどいいセックスをしていないと、いい小説は書けない」「才能がない人間に愛をもとめる資格はない。世界は厳しいのである。
誰だって、ひとつや二つ傷を持っているし、乾いている。
いま時、心が潤っているような奴は、智恵遅れだけだ」いやな奴だなと思った。
本当のことを書きすぎる。
描写がストレートすぎるのである。
40すぎて鬱でADHDの僕はどうすればいいのだ。
借金もある、女もいない、頭もよくない。
顔もよくない。肥満と運動不足で体調もよくない。
締め切り前のおもしろくない仕事が山のようにたまっている…。
どっと疲れが出てきた。
駅のホームの自動販売機で缶コーヒーを買う。
地下鉄に乗るときはいつもカプチーノを飲むのだ。
昼時の地下鉄はすいている。
一列だれも腰掛けていない処女ベンチをみつけると、
その端っこに座った。列車が動き出す。
苦くてちょっぴり甘いカプチーノの味が舌に回っていきた。
乗り物はいい。乗り物に乗っていると、停滞した自分の人生もつられて動く気がする。
このまま永遠に乗っていたいと思った。
 
  by mogurin


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データのバックアップ


powermacG4のHard Disk-1がマウントしなくなりました。一週間前から時々調子が悪くなってnortonなどをかけていたんですが、日曜日は朝から起動した瞬間にディスクの回るカリカリ変な音がして、全く認識しなくなり、結局あきらめました。

HD-2で起動してアプリケーションもインストールしなおして使っています。最悪なのは進行中の仕事のデータ、バックアップをとっていなかったことです。

メールのデータの一部、インストール済みのアプリケーション、ATM,作成済みのデータが飛んでしまった。

マックの修理屋さんにきてもらって、診断してもらったら、ディスクが破損している可能性が高いとのことで、ディスク修理の専門業者に頼んで、強力なソフトを使い、なかのデータを読み取ることは可能ですが、頼むと14〜15万はとられると、聞いてあきらめがつきました。

なんでもハードディスクは一番壊れやすいらしく、とくにさいきんのものは大容量高密度化してから耐用年数が短くなってきているとのことでした。かりかり変な音がしだしたらあやしいそうです。

スペースシャトルの最終データ、昨日CDに焼いて納品しました。photoshopEPS/CMYKでなんと450MBiteパネルにするので、横1メートルの大きさで150dpiが必要だそうです。A4横で600dpiでつくりました。

レイヤーが増えると作業中に200MBを軽くこえ300MBに達してしまいます。パーツを個別につくって最後に統合します。やっぱりphootoshopの重たいデータは、スペックの高いマシンっでないと時間ばかりかかりますね。こんな仕事で直しが多いといやになります。

とくにこのスペースシャトルは途中までのデータ(仕上がり70パーセントくらい)がHD-1に入っていたんで、やむなく最初から全部作り直したもの。クライアントからはいつまで待たせるんだ、プロとしての意識が低いんじゃないかとガミガミ文句をいわれて、最悪です。

(まあここからは二度と仕事がこないだろうが、きてもせいぜい年に一回かそこらだからど
うでもいいんだけど)データが重いから時間はかかるし、つくづく因果な商売だなと思いました。

とにかくまめにバックアップとることです。

ここで、mogurinさんの作品をご紹介します。

http://addproject.cool.ne.jp/spaceshattle.html

by mogurin

そうですね。昔の話しですけれど、やはりHDDがクラッシュして大量のデータを無くし、数日間惚けたようになった経験があります。やり直すなどという事も出来ませんでしたしね。それに当時はバックアップと言えばFDにシコシコとるしかなく、ついおっくうになっていたんです。当時のHDDの信頼性はかなり低かったんですが。

それに懲りて、当時としては大容量のバックアップメディアであるMOを買い、これにバックアップをとりましたら、今度はドライバがいかれて、泣きながら再度ドライバを買い、別にHDDを買ってそれにバックアップをし直してから、そのドライバを人に売りました。使うつもりも無くなりましたしね。メディアは今も十数枚ありますが、もう使う事もないのでばらして捨てるつもりでそのままです。

そのご、CDに焼くようになってかなり楽になり、今では月に一度はバックアップをとっています。DVDを使うまでの大容量じゃないですし。でも、FDは全く使いませんね。今のメインPCにはFDDもついていません。

わたしのバックアップ方法は、120GのHDDを2台使い、一台をメインに使い、もう一台は完全にそのバックアップ用です。さらに、ランでもう一台のPCをつなげて、これに随時作製したファイルをバックアップし、そして別にCDに焼いているわけです。

仕事上のファイルは無くした、では済みませんからね。

新しく作ったファイルは、だいたいマイドキュメントに入れ、それごとバックアップして、あとはメール関係のサーバやFTPログ、ホームページのフォルダをバックアップしてますね。
 
from ロクスケ


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クレジット審査


power macG4が遅くなってきたので、もう一台仕事用に
購入しようと思いました。
遅くなったといっても、使っているアプリケーションがバージョンアップにともなっ
て重くなり、以前と比べてサクサク動かないだけなんですが、とにかく、3〜4個アプ
リを立ち上げるとフリーズが頻繁におこります。
時間に追われて仕事をしていると、再起動のあの待ち時間が本当にいらつくのです。
ADHDはふつうのひとよりよけいいらつくと思う。
ですからなんとしても速いマシンが欲しい。
欲しいとなるととにかくいてもたってもいられず、
今すぐにでも手に入れたくなりました。
いまの時点で最速のデスクトップはなんといってもpower mac G5 dual
ですが、こいつは本体だけで36万します。もちろんメモリやハードディスク、ビデオ
カードその他をスペックアップしていくと軽く50万は超えてしまいます。
とくにG5のメモリは特別高く、512MBひとつが(安いものでも)25,800円します。し
かも二個ワンセットで増設しなくてはなりません。
そうなると選択肢は糞Windowsしかない。
そう結論づけました。
(Windowsは普段から糞だと思っています。サブで使っているdynabookG3もしょっちゅ
う何かダウンロードしろというメッセージが出るし、作ったファイルはどこにいった
かわからず、さがすのに一苦労するし、マウスボタンが三つもあるし、macとくらべ
てひどく使いづらい。macは単純で視覚的で直感的、ADHDにはmacが救世主に思える。)
とにかく、安くて速いクソwindows。
仕方がない、しばらくそっちで仕事をしよう。
そう思ったのです。

で、PC激安ショップで自分好みのマシンをカスタマイズできる、とあるので
やってみました。
CPUはやはりpentium4の3Ghz(これが3.2Ghzになると急に高くなる)
メモリはphotoshopや3Dもやるので2GBはほしい
ビデオカードは3Dゲム用にスペックの高いもの、GeforceFX5900だぜ!
DVD+-RW/CD+RWのドライブでDVDもCR-Rもみれるし焼けるぞ!
TV録画をして仕事の資料にしたいので、高画質ビデオキャプチャも必要だな
canopusのMTV3000FX(DivX対応)がよさそうだ!
当然HDDも大容量のもの二個160GB/ATA133+200GB/ATA133
(シリアルATA×2という手もある)
スピーカはYAMAHAのYST-M8
キーボード&マウスは当然ワイヤレス、この21世紀に邪魔なケーブルは必要ないぜ!
Microsoft Wireless Optical Pro
発熱対策に静音型ケースファンを二個追加して…

な、なんと、消費税込みで30万を超えてしまった!
くそ、欲張りすぎたか!

と、そのとき目に飛び込んできたのが「分割払い」の四文字。
そうだ、支払いを先延ばしにしてなおかつ分割にすれば、すいぶん負担軽減になる。
さっそく、申し込みました。

返事は翌日メールできました。
「この度は、コンセプトBTOショップVSPECをご利用いただき、誠にありがとうござい
ます。下記の内容のお見積もりメールを、確かに頂きました。
本日、審査の結果、誠に残念ながらクレジット会社の総合的判断によりお見送りとな
りました。
いろいろお手数かけて大変申し訳ありませんが、今回オリコWEBクレジットでのお申
し込みはできませんので他の支払い方法をご検討いただき再度ホームページからご注
文ください。/以下略」

また落ち込んでしまったのでした…

by mogurin

ところで、mogurinさんがまたイラストを描いてくれたので紹介します。
http://addproject.cool.ne.jp/byouki.html
をご覧下さい

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ほどほどに・・  (投稿)


いつも、メールマガジンを拝見しています。

 感想を投稿したいと思いながら出来ずに日にちが過ぎていく有様で、こうした事は日常茶飯事の事で、かつてなら、かなり凹む日々を送らざるを得ない所でしたが、今の私は凹みません。それと言うのも、ADHDだと分かっているので、そうなって当然で、上手くやれたら、Oh, Wonderful ! なのです。 ですが、やはり上手くいかない事が続きます。(今日は、つまんない話かもしれませんが、そんな私の思いを書かせてください。)

ADHDの私としては、特に、時間が守れない事に関しては、一般的に理解しては頂けない訳で、非常に困ります。(色々と、工夫をしながら生活するのにも、少々疲れを感じています。)

 今私が取り組んでいる事に関しては特にそのことで問題を抱える羽目に陥っています。今日も、遅刻をしてチームの皆さんに、多大な迷惑を、お掛けしてしまいました。私はもう駄目だろうと半ば諦めていたのですが、何とか責任を果たせるように取り計らってくださり、無事、事なきを得たのですが、帰るときには、さすがにチームの皆様に感謝を込めて、深々と頭を下げて出て参りました。

 全くもって、情けない事ですが、今に始まった事ではなく、ただ、以前は、そんな自分だから目立たないように、余計な事には手出し口出しをしないように、となるべく失敗をしなくて済むように、やにはからんや、やり過ごしていただけなのでした。ただし、地団駄踏んでいた事は確かで、自分だけが、あ〜あ、なんてこった!と情けない思いを味わっていた訳です。

 やればできないわけではない事も事実なので、怠け者で人格を疑われるような事態になったとしても、そう思うだろうなあ、と自分でも思ってしまっていたので、必死になって、一生懸命に頑張って、頑張って、頑張っていたのに、最近では、そんなに頑張らなくてもいいんですよ、などと言われると、涙が出そうになります。
 
 どうしてか?頑張って、裃つけて自分をがんじがらめにしなければ、まともにやれないと思ってしっかりと枠組みにはめ込んで生きてきたからです。もう、頑張らなくていいと言われたら、今までの私は何の為に必死で頑張って生きてきたのかと思うと、いじらしくて、切なくなってきてしまうのです。それでも、頑張らないとやはり目的は成就しないのが現実です。その頑張りを、どう平衡を取れば良いのか、分からなくなります。

 今、本当に頑張らなくても良いとしたら、私は何もしないでしょう。生きることさえ、しなくなるかもしれません。とは言え、確かにかつては本当に死にたいと思う事が何度かありましたが、今は、あえてそれを実行すると言う事ではありません。ただ、本当に息をするのも面倒に思う事があります。かといって、鬱がひどいわけでもありません。

 全く、他人に左右されてしまい、支離滅裂な自分がいることに困惑する事もありますけれども、けして、統合失調症なわけでも無いようです。どうしてかと言うと、他人に左右されている自分がわかり、非常にばかばかしくなるのです。長い間、自分の矛盾にさいなまされてきた結果の感情のゆれと言う事でしょう。

 私は今、こうした自分の事が分かってしまったので、今度は話さないでいられなくなっています。

 でも、本当は、もっと落ち着いた人生を送りたいと思って生きているのですが、いつも慌ただしく過ぎてしまうことに、時々疲れを感じます。ですから、ストレス対処法をもっとマスターしたいと思っているのですが、呼吸法は、どうなのでしょう?自己コントロールに役に立つと聞きますが、ADHD者にはどうなのでしょうか?そんな事にも興味を持ち始めて、これから取り組んでみたいと思っていますので、そんな話題も色々と知りたいですね。

 若さのエネルギーがあふれていた頃は、突っ走る事ができましたが、もう、出来ません。やりたい事は沢山合っても、体も頭もついて行けない年齢になって、今度は別な意味で地団駄を踏んでいると言うのが、ちょいと悔しい所です。

 このまま、しょうもないことで情けない思いをして生きていたくないので、やはり、頑張る事にしようと思います。ほどほどに・・・ですかね?ほどほどに・・・、何と難しい表現でしょう! 

もっと、しっかりと勉強が出来ていれば、もうちょっとまともに文章も書けただろうに、そんな事を感じる私です。だから、これからの若者達は是非とも自信を持って、取り組んでいって欲しいと願っています。その為に、何ぞ私に出来る事はないか?!?あははは、と笑わないわけには行きませんが、そう思っています。

それでは、メルマガに心より感謝を込めて、失礼致します。

by Windy

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鬱の日々_その2


運動がいいとわかっていても体が動かない。
片づけたほうが気が楽になると知っていても、物をわきへ寄せることさえしない。
どうしようもなくなってからおもむろに活動のエンジンがかかる。
他人からみたら、単になまけているだけにみえる。
自分がみても自分はなまけものだと思っている。
日曜、祭日などぽっかり時間があいたときが特に困る。
前日から酒を飲んで体細胞の末端まで酔っぱらっている状態だ。
起きあがることができない。
地球の引力を振り切って床の上に二脚でしっかりと立ち上がる、これは大変な意志の
力を必要とする。だいだい地球上の生物のうち、陸上のほ乳類は大半が四つ足である。
二足歩行をするのは人類と一部の霊長類にすぎない。二足歩行のおかげで、人類は両
手が使えるようになり、大脳の発達を促し、こざかしい文明を築き上げたが、その代
償として、移動速度の低下と、弱点である腹部を敵にさらすという危険を背負ったわ
けだ。胃腸病と肩こりは二足歩行がきっかけに生まれた人類の業病ではないかしらん。
そんなことを考えながらうだうだ布団のなかでもがいている。
そうこうするうち、膀胱が破裂しそうになり我慢の限界に達する。
おもむろに飛び起き、トイレに駆け込む。
我ながらくだらない人生を送っている。
きょうはビールと麦茶の空き缶を6個、コンビニの袋につめて口をしばった。
食べさしのプラスチック容器は水道水でざっと洗って、したたっているやつをそのま
ま袋に詰め込む。ネギとラーメンの袋もくしゃくしゃにまるめて詰める。びんのふた
も割り箸もなんでもかでも詰め込む。しばった袋がみっつできた。袋の底から割り箸
がつきだして、なにやら汁がぽたぽた落ちている。下に手を添えてそのまま歩く。
玄関の戸を肩でおしあけて外に出る。
地面の反射がまぶしい。
影が短く、正午をすぎているようだ。
階段の下の不燃ゴミ置き場に袋を放り込む。
台所に戻ると流しの隅にまだ生ゴミがだいぶ残っていた。
昨日食ったそうめんとモツ煮の食べさしだ。
まだ臭くないから大丈夫だ。こいつが実際に腐敗し、耐え難い臭気を発するまで
まだ40時間はかかるだろう。
そう思って部屋に鍵をかけ、外に出た。
面倒なことはなるたけ回避する、そんな習慣がついているようだ。
それに、なにごとにつけても自信がないのである。
借りていたビデオを返却した。
一週間レンタルで二本借りていたのである。ハリウッド映画「ネバーセイダイ」と中
国映画「至福の時」の二本。
だいたい僕は借りていたビデオをちゃんと最後までみて返すことが少ない。
一週間の執行猶予があるということで、安心してなかなか見ないので、結果的にみる
時間がなくなり、最後まで目を通さずに返却するのである。
あるいは、見始めたはいいがあまりにつまらないので、すぐに飽きてそのままといっ
た例もある。幸運にも最後まで鑑賞できた一本は、よっぽどおもしろい内容というこ
とになる。
この日は、めずらしく二本とも最後まで見ることができた。
ことに中国映画のほうは感動のあまり泣きながら見た記憶がある。
満足したのである。
そんな顔で店員にビデオを渡した。
茶髪の店員がけげんそうな顔をして「すみませんが…」
僕は、はっとした。もしかして延滞では、いやそんなはずはない、借りたのは先週の
水曜日だ。まだ期限内のはずだ、いや、しかし、しかし自分の記憶ほどあいまいな物
はない、もしかしてまた一日延滞?すると二本で600円?くそ、痛い出費だ!もう二
度とビデオなんか借りてやるものか
「ちゃんと巻き戻してください」
そういって店員はネバーセイダイのビデオのラベル面をこちらに向けた。
「あ、すみません」
巻き戻しを忘れていたのである。
「結構です」
僕はビデオ屋の外に出た。
またつまらないことで動揺した自分にうんざりしながら。

by mogurin


鬱の状態だと、まさにこの通り。わたしもその傾向がありますが、程度はその時々でひどかったり何とかなったり。わたしの場合ですが、ひどい状態が続いていると、かりに多少良くなっていてもどうせ駄目だろうと思いこんでいる場合があるようです。

とにかく、やってみる事にしていますが、案外出来るときはそれがきっかけで精神的にも楽になります。やってみようとしてその気にもなれないときは、まあ死んだ振りですね。

mogurinさんも自戒しているように、怠け者に見える時と、本当に怠け者になっているときがあった、やっかいな事に自分でもその区別が付かない。だから、とりあえずやってみようとして確認する作業が有効だと気が付きました。確認する気にもならない・・・死んだ振り。

from ロクスケ



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事の顛末


次男との会話の中で、子供たちが元夫の恋人と会っていることが判明し、私は、彼女を心から恨みました。そもそも「自分の子供(娘)に近づくな」と内容証明なんか送ってきたのは向こうで、私は「じゃあ、あなたもうちの子供に近づかないでね。」それから元夫には「父親として、一人で子供と会うよう」内容証明をお返ししておいたのですが、全く無視されていたようです。

 長男が小学校1年の時から同じクラスに彼女の娘がいて、いっしょの学童保育に通い、兄弟のようにして3年間過ごした後も、大勢の学童仲間とともにいっしょにキャンプに行ったり、スキーに行ったりする仲でした。でもそれでも、後半、彼女が元ダンにかなり入れ込んでいるのはわかっていたけれども。でも、中3で卒業まで同じクラスだった子供の母が、子供を置いて毎晩私の元ダンの家に入り浸りというのも、けっこうげんなりな話で、彼女に離婚別居後1ヶ月で「プロポーズされたの〜うふっ」なんて告白された仲間は「体中が鳥肌たった」と嫌がっていました。まあ、私に捨てられた元ダンは、新しいお母さんが必要だったのだろうけれども。

 で、何が嫌かって、元ダンには全然未練はないし、もう絶対にいっしょになんかなりたくないし、もともと稼ぎも悪かったので、いなくていいのだけれども、子供たちが会うときに、なんで彼女がいつもいっしょなのよ!!!!!!!!!という、苛立ち。

 しかも、次男に言わせると「彼女は普通の人だね。ま、お母さんとお父さんは人格破壊者だけど。」とその言い草がまた、もうどうしようもないくらいに、ハラがたつんです。

 わかった、もう、このうち売ろう、ね、もう私たちは別々に住もうよ、彼女とのんきに会って話している子供となんていっしょに暮らしたくないからさ、と私が切れると、今度は、この家にものすごい愛着のある次男が切れる。ののしりあい、攻撃の応酬、最後は、私は消えたくなる。

 薬に手が伸びる。今回の次男は泣きながらこう言った。土下座してね。「おかあのさあ、自殺、見なかったことにするからさあ、それでいいよ。大きくなるまでそだててくれてありがとう。もう、自由になっていいよ。じゃあ。」って。家出て行った。手のひらに押し出した薬が行き場を求めている。無性に少量に思える。がばと飲んで、また残った薬をだかだかと飲んだ。

 頭が朦朧としている。そのうちに次男が戻ってきた。なんだあ?その時、偶然にも、友人が電話を寄越した。「ちょっと、あんた、おかしいよ。なにやったのさ。こどもは?え?電話教えて、子供の。早く」電話がかかってきた次男は、教師に叱られたように、救急車を呼ぶ。

 意識がだんだんとなくなっていく。救急隊のおじさんが「この薬全部飲んだんだね」と聞く。もうあとは覚えていない。

 次男からのメールで長男が私の親友に電話する。親友は「間に合わないかもしれないから、言ってきて見て頂戴。」と私たちの仲間に頼む。次男と仲間の一人が救急車で病院へ。親友のほうは、後ろの車でと言われて、それに乗って病院へ着いたら「さて、何があったんでしょうか。話していただけますか?」と相手は覆面刑事。はあ?と思ったそうだ。

 親友にだって、その晩の出来事なんかわからない。

 ともかく、親友が私の実家に電話して両親と姉を呼んだ。

 私は意識がない。ただ、何年か前の胃洗浄のように地獄絵だったような気がしない。多分、今は技術が進歩して胃カメラで、吸引したんだろうと思う。水でやる原始的な胃洗浄は、死ぬより辛い。胃袋にぱんぱんに水を入れて、うつぶせにして、喉に手を突っ込まれて、上から押すのだ。髪の毛はびしょびしょ、おされた背中が痛いこと痛いこと。もっとも、今回は死ぬという大きな危険よりも意識がもどらないかもしれないとか、自発呼吸ができなくなる可能性のほうが高かったらしい。私は、大事をとって(と言うよりも、その日は満ち潮だったのか、大勢の重症患者が運ばれてきたらしい)挿管された。今も右唇の端っこが割れていたい。喉も焼けるように痛い。そうだ、ラインが入らなくて、7箇所刺されてやっと一箇所確保したのは覚えている。相当に痛かったのだろう。

 私は意識が2日もどらなかった。朦朧と父母や姉の顔は見えるのだが、自分の意思とか自分の考えとか自分の声とか全くない。

 意識が戻った時のことも覚えていない。ただ、ふと小さな病室に寝ていた。前のように、ベットの柵をおろしてはいけないとか、トイレに一人で行ってはいけないとか、うるさい看護士がいない。ただ、げろげろとオムツに中和剤とともにでるものがでていくのだ。ものすごい異臭とともに。

 3日目には、もう歩いていた。4日目に、神経科に移った。これが最悪だった。その病院の神経科はものすごくレベルが低かったのである。見ただけでもわかる、弱い抗不安薬、主にパニック障害に効く薬のみが日に6錠も出された。そして、夜も弱い睡眠剤のせいで、夜中に1時間おきに「眠れません」と薬の追加をお願いに行く。そして、最悪なことに夜中の3時過ぎになって、信じられないほどの強い向精神薬がばーんと出るのだった。

 私は、ドクターを捕まえて、「もう自殺念慮はありませんから」と懇願して、さっさと退院した。ドクターからも、その日職場に行くと言ったけれども「自宅療養の必要性」などの文句は一言もなかった。7階から階段でおりたら、ふらついた。

 タクシーで自宅にもどり、タクシーで出勤した。ところが、こんどは課長さまさまだ。母が何か言ったらしい。課長は「今日の出勤は認めない。明日までの間、病欠をとって休むように。」との仰せ。30分やりあった。「顔色が悪い」「そんな、病院でろくに化粧品もなくて化粧したからですよ。」「いや、目つきが変だ」「それは、病室が毎晩いびきの大合唱で全然眠れなかったのでそりゃあ、眠いですよ。でも、仕事はできます。」「いや、もう他の人にもできるように体制を整えている」「課長、この仕事は手馴れてないとできないんです。1円でも違っていれば、新聞に載ることもある。その時責任取らされるのは課長ですよ。それに、職員も手一杯だ。片や夜残業のできない高卒君と31歳君の2人ではできません。」「いや、できる。責任なんか俺が取ってやる。」・・・・あ、そうですか。じゃ、休みましょ。

 気が抜けると、気力も抜ける。現場の人たちは明らかに私に仕事をやって欲しがっていた。だから、13時に行って、16時までは質問やら、整理やら、進捗状況を見ていた。今日までの仕事が終わっていなかった。もう、あえて言う気にもならなかった。

 夜7時に医者に行くために、その間職員保健室で休ませてもらった。その間に、携帯メールが何通か来た。友達も顔を出した。

 医者は驚いていた。まだ、知り合って浅いのだから仕方がない。だが、話はかいつまんでしたあと、その病院の情報提供書にかかれていた薬が、本当だと知ると「もうちょっと、??って思ったんで、さっさと出てきたんです。」と言ったら、医者も「本当にねえ。他に出しようもあるだろうに!」と言うことで、いつもの薬が出された。でも、1週間後に再度行く。

 ケーキを買って帰ってきた。子供にメールを「ケーキ買って来たぞー」と送るとわらわらと帰ってきた。見舞いになど一度も来ない。おっかーがわりーんだよ。わかったか。とあっけらかんとしている。その後で「おっかあの気持ちもわかる・・・。」としおらしいことも言う。まったく百手観音だ。

 生きているから、喉が痛い。

 もう、自分で死ぬのはやめよう。後が辛い。自分が。死んでしまったら辛くないのだろうが、子供が辛いに違いない。

 むなしいだけで、徒労だったような一週間だった。母が疲労で下血した。別れた夫の母も先達胃潰瘍で大出血したばかり。罪をつくっているのは私なのか。

 ADHDの衝動性には、十分な注意が必要なようです。そうは言ってもね・・・・。私も生身の人間だから。誰もブレーキをかけられなければ、こうなるしかない。でも、少しずつ、おりこうさんになるのよね。こんな歳とっても。今回死滅した脳細胞が、悪いところだったろよいのにね。あー、馬鹿なことばかり。脳みそ、腐っちゃったかもしれないわ。

by musica

少し重い話ですが、考えさせられる内容です。誰も故意に相手を傷つけようとは思っているのではないでしょうが、想いが相手に通じなければ傷つける結果になってしまうでしょう。もちろん、相手の言葉がその時は理解出来なくとも基本的に相手に自分を傷つける意志はないと信じていれば、つまり相手を信じていれば傷つく事はないはずです。そうは分かっていても、出来ないのが衝動性を抱えた人間の問題の一つでしょう。

場合によっては相手と時間的空間的距離を置く必要があるでしょう。一人になって相手と自分の事をじっくりと考える時間があった方が良いようです。わたしはそうしています。その時間が少し長すぎるとは思いますが。

from ロクスケ


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楽な生き方


 私は二十代の後半ぐらいまで、とても緊張するタイプでした。それは、たとえ長い間付き合っている恋人の前でも、親兄弟の前でも、同じでした。自分がどう見られているのかが気になって気になって、いつもびくびくしていました。その上プライドが高いので、失敗を見られることを恐れて、自分を出来た人間に見せようと、やたらと自分自慢をする、うざったい奴でした。
 
 自分の中に芯が無くて、蟹みたいに外側ばかり強化して着飾っていました。
 
 ところが、この一年くらいの間に、なにがあったのか自分でもわかりませんが、すっかりそういう鎧が取れてしまいました。そうなると、とても心が楽です。人の視線が殆ど気にならいので、DAHD特有の、聖徳太子の様な、いっぺんにたくさんの声や音を聞いてしまう現象にも、ぼーっと浸っています。
 
 その時面白いと思う事を、他の人がいても楽しんでできるようになりました。そんなことしたら、変な人と思われる!!と、以前はひどく気にしていましたが、実際やってみると、人はそんなに他人を意識していないという事がわかります。それに、ちょっと変なやつだなーと思っても、個性として大体は理解してもらえるもんなんだ、ということもわかりました。
 
 取り越し苦労に押しつぶされそうになりながら歩いていたんだなぁと、軽くなったこの頃は、思います。どっちかと言えば、今までの変に緊張して、いつも落ち着かなくて、自分の話ばかりする私のほうが、よっぽど変な奴でした。
 
 家の中なんかも、すごーく散らかっているのに、それを人に言えなくて、「私、整頓された家じゃないと落ち着かないの」とか言う友達の前では、私もそうなのー、と言う態度でいたので、いつばれるかとひやひやしてましたが、最近は、そんな見栄を張らなくても自分に安心できるようになってきました。
 
 「こいつは今まですごい優等生みたいな事言ってたくせに、実はそんなぼけーっとした、だらーとしたやつだったのかー!」と、周りに思われたとしても、「そうだったのよー、見栄はちゃってて〜!ごめんね〜!!ほほほ。」という気分で、楽チンです。

by こゆき



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病気で仕事を休んだとき


甲状腺機能低下症になって、鬱状態で仕事を休むことになった。朝、ごみだしすると、また11時半くらいまで寝てしまう。なんともはや、時間がもったいないものである。そして、午前中やおきてからも当分おなかがすかないのだが、夜寝る前になると、猛烈におなかがすいてしまう。しかも、甘いものが食べたいのである。

はじめ、痩せてきて「しめしめ」と思っていたが、どうやら元に戻ってしまった。これでは、復帰しても「だいじょうぶそう」と思われて、仕事がどっさりと来そうである。

鬱のせいか、夜は元気だ。夜元気なせいで、朝眠いとも言える。体内時計が狂っているのだろう。もちろん、仕事に復帰すれば、夜は早く寝て朝起きられるようにしなければならない。

昼間は何をするかといえば、パソコンをいじっていたりする。この休暇でホームページなぞ作ってしまった。(^^;;;;こんなことではいけないのだが、かと言って、寝てばかりと言うわけにもいかない。自宅療養とは実にむずかしい休養である。しかし、疲れれば昼間もごろっと横になって眠れるのが至福の幸せかもしれない。復帰すれば、ごろっとなどできないからだ。

あとは、病気休暇の間も、結構病院へ行かなくてはならない。これが結構たいへんなのだ。私など、紹介された病院が結構遠いので、タクシーでいけば3700円くらいかかってしまう。でも、まだ、電車でいく元気がないので、仕方がない、身銭を削っている。

甲状腺の機能低下による鬱とはいえ、内科の内分泌の医者だけでなく、やはり神経・精神科の医者にもかからなくてはならない。しかも、普段からペインクリニックに通っていたり、このところ蓄膿症っぽかったりして、また、免疫力が弱っているのか、婦人科系まで問題ありで、かつ、アレルギーによる眼科、喘息と皮膚科など、病気のオンパレードなので、1日おきに医者にいっている状態だ。

しかし、仕事に復帰してしまえば、またベルトコンベアーのように平静な毎日が待っているのだろう。サラリーマンとはつくづくつまらない商売である。しかし、病気休暇がとれるのは、特権でもあるかもしれない。

by MUSICA


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最近の私の食事


引越しを機に食材の宅配サービースを受けるようになりました。

このサービスの私にとってありがたいことは、食材を選ばなくて良い。ということです。私はいつもスーパーに行って何を買ってよいのか判らないでとりあえず買ってみて、使わなくて、腐らせて捨てる。というパターンが多かったのですが、このサービスを受けるに当って嫌でもある程度の種類の食材が送られてくるので、その食材を調理するようになりました。作り方が判らない場合の方が多いのですが、ネットで調べてなるべく簡単なものを作るようにしています。そして、素材が良いのか、なかなかの味になってくれて、食べる気にもなるのです。

単価を考えると同じ食材サービスの生協や、スーパーよりもちょっと高いのですが、なんせ食材を選ばなくて良いし、買い物に行く手間も省けます。スーパーに行くのは少し足りない食材を買いに行くときです。今までは、スーパーに行くと気が散ってあれもこれも見てしまっていて、結局余計なものを買ってしまっていたのですが、今は、目的の物が決まっているので、それのみを購入し、他はいままでの半分くらい時間でチロチロ見て楽しめるようもなり、無駄買いがなくなったので、お財布にもやさしいです。少しこのペースになれてきたら、食材の保存方法や、あ、冷凍していたのでこんなものがあったから、混ぜてみようとかも考えられるようになりました。

今までの私の食生活は、きっと怒られると思いますが、スーパーに行ってもいろいろ回って結局弁当&お菓子とか最初にも話したように食材買ってみて腐らせる、ファーストフード、ピザ、寿司など、栄養も偏っているし、割高なものばかりでした。スーパーに行っても、レシピの本を見ても食材も種類も沢山ありすぎて混乱していました。でも、今は半強制的に食材が送ってきてくれるので、送られてきた食材を使ったレシピを選ぶことが出来る様になったので混乱しなくなりました。また今までなら買ったこと無い様な食材の美味しさも知ることが出来、総体的に良かったと思っています。あと、スーパーに行っても、「あの食材が残っているから、これは買わない。」と自分に言い聞かせることも出来るようになりました。

あとは、食べすぎで太らないようにしないとね。

by ナオニャム

ナオニャムさんはスマートで美しい女性です。おそらく現時点では食べ過ぎは心配ないのでしょうけれど油断は確かにしない方がよろしいでしょう。私自身、食べ過ぎの自覚はないのですが、肥満の自覚は深刻で、おそらく自覚していないだけの食べ過ぎなのでしょう。こわいものです。

ロクスケより


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はるかの私的「一年の総括」




みなさま。こんばんわ、はるかです。

私にとってこの一年は公私共に大きな波があった一年でした。
特に印象的だったのは先日治療を終了した元の主治医の最後の言葉でしょうか。
「はるかさんはだいぶ発達障碍の症状がなくなりましたねえ。」
(主治医は私の身近な人(彼女)が治療に多大な貢献をしてくれた(というより彼女の行動を通して、説明を受けて改善したために状況がよくなったのである)という事実を知らない…)
本来発達の遅れがあるならば自ら違和感に気づき補正をする努力を行うのがスジというものであると私は考えているのだが、それができず他人(彼女)の力を借りねば気づけなかったというところがマイナスではあるものの、状況が改善されたことは評価したい。

まず初めに「遅刻癖」がほぼなくなったことがあげられる。
いままではその日のうちで最も大切なものにフォーカスを当てて、そこだけは守れていた状態だったのだが最近は2番目以降のものについても優先順位がつけられると同時に時間の感覚も掴めてきたのとそれに係る余計な動作を極力抑えることが項を奏したようで、本来であれば余裕を持って到着できるはずの時間に遅れるのは交通機関の遅延によるもののみになったことが挙げられる。

次に「日常生活動作」が徐々にではあるがスムースに行えるようになってきたことが挙げられる。
前述した時間の概念、そして金銭感覚ならびに本来私が持っていた空間概念とがしっかりと噛み合ってきたため、動作に無駄がなくなり、生活動線も会得できたこと。

3番目に「あきらめ癖」がなくなり「根性」がついたことが挙げられる。就職活動を行う上で分かったことなのかもしれないのだが、(やっぱり遅いかも…汗)日々遭遇する諸問題に対して簡単には逃げたりせずに真っ向から立ち向かう度胸がついてきたこと。

たとえ目的の動作や問題が一回でできなくても投げ出さずにできるまであきらめずに食らいつく根性が身に付いたこと。

以上、端から見たら至極当たり前の事なのですが…。
私的「一年の総括」でした。

本日は関東では雪がちらついていたようです。
お風邪など召しませぬよう皆様お体ご自愛くださいませ。

すこしはやいですが読者の皆様ならびにWingBrain委員会にとって来年も良い年でありますように…。

それでは失礼いたします。おやすみなさいませ。
はるかより。

by はるか

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年齢の本と遅咲きの花

 わたしが10代の頃は「30歳になる前に死にたい」と思っていた。もともと、わたしが鬱傾向の家系に属していることと、10代にありがちな「うつくしいもの」や「死」への憧れのようなものが、わたしに「できるならきれいな時に死にたい」などと思わせていたのだと思う。愚かだと笑われるかもしれないが、友達とどうしたら一番美しく死ねるか、というのを真剣に話し合ったりもした。

 そんな「死にたがり」だったわたしも、20代後半にさしかかり、30、という年齢もそう遠くない未来となった。10代の頃思ったよりも、25歳、30歳、というのは大人でもなく、10代の頃のほうが考え方がまだ「成熟」していたというか、むしろ、今のほうがまだまだ子供だ、と思うことが多い。40歳以上の友達をみても「老化、老衰、老いて醜くなった」などと感じることはない。むしろ、35歳、40歳と年を重ねるごとに魅力的になっていく人が多い事実に驚いている。

 一般的に、才能が開花したり能力が完成されるのは、乳児期から青年期である、と考えられている傾向にあると思う。わたしたちが、普段見ているメディアの中で活躍している芸能人、音楽家、スポーツ選手などは幼少の時からの才能が青年期に開花し、中年期に引退するケースが少なくない。わたしたちは、必然的に「人生は20?30代をピークに下っていく」という刷り込みがされているのではないだろうか。

 わたしたちの人間としての発達は本当に幼少?青年期に限ってしか行われないものなのだろうか。人は一生に何歳のとき、何をするのだろう。人間の発達をエソロジーの視点から見て、この疑問に答えようとした人物がいる。「年齢の本」の作者モリスである。モリスは「年齢の本」の中で、世界の著名な人物の人生における出来事を年齢によって、1年ごとに並べて見せた。その結果、さまざまな興味深い事実が浮かびあがってきたのである。もちろん、各年齢でみられた典型的な特徴(結婚、出産など)も見られたが、その一方、年齢を超越した驚くべき多様性も「年齢の本」によって示されている。

 モーツアルトのように10歳以前に活動を始めた音楽家もいれば、80歳を過ぎても現役で活躍した人物もいる。さらに60歳をすぎて新たな分野に挑戦した画家の「モーゼスばあさん」のような人もいる。彼女が絵を描き始めたのは、なんと67歳の頃だという。

 このような発達の多様性を知ることによって、ジョージ・エリオットがかつて言ったように「あなたがなるはずだった人物になるのに遅すぎることなどない」ということが事実になりえることがわかった。わたしは鬱などで人よりもかなり遠回りをした。ADDで苦しんでいる人にもわたしのような人も多くいるかもしれない。遠回りをしてもいい。時間がかかってもいい。遅咲きの花は咲きたいときに咲くのである。

 (参考文献:「心理学への招待」梅本崇夫・大山正編著・一部引用)

by Bunny_Lab

ある一定の年齢になってから全く思いもかけない才能を開花させる例は結構あります。伊能忠敬が測量の勉強を初めて幕府の測量方になり、日本地図を作ったのは60を過ぎてからです。当時、50まで生きれば人生を全うしたと言われている時代の話です。芸術的な才能とは違うでしょうが、やはり大きな業績を為したと言えるでしょう。

ポール・ゴーギャンは中年を過ぎてから株の仲買人を辞めて絵を描き始め、バン・ゴッホは27才になってから画家になろうと決心し、アンリ・ルソーも税関職員であり中年過ぎに始めた日曜画家であり、同時代の画家達はルソーの稚拙さを笑ったとのことですが、彼の絵は残りました。画壇とは関係なく、描きたいものを描いていたと言うことです。

小説なども中年を過ぎて名作をいきなり書き始める人もいるようです。

臨界期(脳のスペックが固定する年齢)以前に開発しておかなければならない才能も確かにありますが、様々な経験から改めて見いだせる才能もあります。

いくつになっても、可能性はいくらでもあり、あとはそれを見つけようとする自分自身の目と、意欲の問題ではないでしょうか。

from ロクスケ



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AD/HDのホームページの作成
 私は、いままでホームページのHTMLについて多少は知っていたが、自分のホームページを作るなどという元気が全くありませんでした。ところが、必要に迫られて、自分のホームページを作ることになりました。ジオシティで、既成の簡単ホームページを作ったのですが、まあ使い勝手の悪いこと。それに既製品だから、なんにんも同じパーツでつくっているのです。だから、同じ壁紙でタイトルだけ違うホームページが山ほどあるのでした。  AD/HDはそういうのは大嫌い。と私は思うのです。だから、アドヴァンストエディターで作り直し始めたら、なんと、思っていたよりもずっとたいへんだったのです。ジオシティのファイル構造が良くわからないし、どうやっても、うまくいかないので、とうとう、助け合い広場に「ホームページを初めて作るときはわからないことがいっぱいあります。でも、恥ずかしがらないでわからないことは聞いてください。」というスレッドに飛びついて、「うまくいかないんです」と書いたら「そんなことくらい勉強してからいらっしゃい」とか「ホームページビルダー使えば」とか「はじめから作り直したほうが早い」とかお返事が来てしまい、私は逆上してしまいました。

 わからない人は「聞いてね」というから聞いたのに、「そんな返事ならいりません」とレスしてしまいました。すると、ほうぼうから「お前は何者だ」とか「お前のはHTMLの基本的なところが違ってるだけだ。礼を言え。」とか、全くひどいもんでした。しかし、逆上しながらも、いろいろな返事の中から自分の間違いに気がつき、修正することができましたので、そのひどいレスをくれた人々にお詫びとお礼を書きました。  そうしましたら、やはり言葉だけでつながっているというのは怖いことですね。お礼をすれば、心もなごむ、発端となった相手の方からも「いや、ついきつい言葉での発信になってしまっていました。」と返礼を頂き、なおかつ「私でよければ、サポートしますよ。」という方まで現れました。

 本当に、ありがたいものです。その中に「悪い言い方は無視する。良いことだけを良いほうに受け取るのが、インターネットで失敗しない方法ですよ。」と教えてくださる方もいました。そうですね。いちいち逆上していてはこちらの精神状態にもいいことはありません。

 それから、ホームページを作るためのたとえばホームページビルダーを使えば、簡単にできるのでしょうけれども、HTMLを使って、タグをうちました。HTMLの本も3冊買いました。無料のレンタル掲示板などをいくつか借りて、リンクしました。レンタル掲示板も同じのだと面白みがないので、全部違うところのを借りました。

 レンタル掲示板も、かなり加工ができるものから、色指定くらいしかできないものまで、いろいろとありました。いろいろとインターネットサーフィンしてみて歩きました。それは、たいへんでしたが、たいへんおもしろかったです。

 画像もフリー素材を探して歩きました。かわいくても色が薄くて、視覚的にAD/HDに不向きなものはありました。画像もたくさんダウンロードしました。直し直し、作っている間にも、覗いてくださる方がいて、もうじき1000人にもなろうとしてます。

 おとなのAD/HDや軽度発達障害者と家族のためのサイトですが、私のセカンドライフでもある音楽療法関係のホームページも作ってリンクしようと思っています。こちらはまだ工事中ですが、またあたらしい概念のMIDIなどを勉強しなくてはなりませんね。楽しみやら、うんざりやら。(*^^*)

 でも、既成のものに頼らないで、HTMLを使ってホームページを作ったので、なかなか自信になりました。もちろん、デザイナーが作ったようなすてきなものはできないのですが、私らしいものができたかなあと思います。もちろん、掲示板なども自分で作れるようになればいいのですが・・・。

 よかったら、遊びにいらしてください。http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Gemini/5398/です。ゲストブックに足跡残していってくださいね。

 また、音楽の癒しの森のサイトができましたら、宣伝させていただきます。ここ何週間か、ホームページに入れ込んで、過集中のわたくしでした。 
 by musica
 


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ペット遍歴_01
動物とは動くもののことです。

あたりまえだけど、僕はことに動くものにひきつけられる。子供のころからずっとそうだった。近所の農家のにわとり、ひよこ、犬、猫、トンボ、バッタ、セミ、クモ、サカナ、小鳥…何でもひきつけられる。ペット遍歴を書くときりがないのでここでは「もぐりん」と「とびまる」について書くことにする。

「もぐりん」はオスのモルモットで、ネーミングはその当時女の子がつけてくれた。色は全身黒で、手足の先に少し茶色が混じっていた。体重は1キログラム強、体長約20センチ。頭や背中をなでてやるとポヨポヨとかわいい鳴き声を発した。モルモットはおとなしい動物で、製薬会社の新薬開発で実験動物にされている。運動能力はあまり活発でなく、狭いケージの中でも一日じっとしていることが多い。暑さ寒さにも強く、繁殖力もあり、人になつきやすい、かわいくて飼いやすい小動物だ。

値段も安く、ゴールデンハムスターとたいして変わらない。1500?3000円といったところだろうか。実はハムスターと一緒に飼ったこともあった。ひとつのケージに二匹いれていたがなんの問題もなかった。餌も仲良く半分こして暮らしていた。ハムスターはケージの天井を前足を使ってモンキースイングするのが好きで、ある日僕が糞の掃除をしている間に天井の出口から脱走してしまい、戻ってくることはなかった。

「もぐりん」も逃げたことがあった。しかしすぐに見つけることができた。こいつは狭いところが好きでどこでももぐりこむ癖があり、それで「もぐりん」なわけだが、このときは大変だった。なにしろ140キロあるオフィス用のコピー機の下にもぐりこんでしまったのだ。もちろんコピー機はキャスターがついていてどの方向にも転がすことができた、が、たとえ一センチでも持ち上げることは不可能だった。

「もぐりん」はコピー機の底に挟まっていた。どうやら狭くなる方向に突進していったらしい。バカなやつ。しかし飼い主の僕としてはこのままほうっておくわけにもいかず、コピー機を押してずらそうとした。「もぐりん」はキーキーと悲鳴をあげた。天地の空間にまったく余裕がないようだ。へたに動かすとやつがつぶれてしまう。

しかたがない。僕は床の上にはいつくばって手を伸ばし、やつの後ろ足をつかむことに成功した。さいわいこの部屋はすべてフローリングで、ものを引きずるのにそれほど抵抗は生じなかった。でも「もぐりん」はかなり硬く挟まっていた。引きずり出すのに苦労した。悲鳴は号泣にちかい音に変わり、僕はなんだか動物虐待をしている気になった。お前が悪いんだぞ、そんなところに勝手にもぐりこむせいだ。幸いケガはなかった。

「もぐりん」と暮らしたのは一年ほどだった。7月の暑い日、帰ってくると動かなくなっていた。うっかりケージをベランダに出していたのがいけなかった。ケージの床に伸びている黒いかたまりを見て、一瞬心臓が止まった。取り出すと柔らかいただのかたまりだった。もぐりんの頭は僕の手の中でぐらぐら動き、ただ地球の中心に向かって引っ張られ、目は閉じたままだった。

またやってしまった。絶望。暗黒だった。ほんとに一緒に暮らしてきたペットが死ぬときほどつらい瞬間はない。人気のない深夜の公園に埋葬した後、空になったケージが寂しかった。ペット愛好家が何度も動物を飼うのは、空のケージを見るのが耐えられないからだ。

僕はそう思う。その空間にはなにか主となる生活者が存在しなくてはならない。その空間にいて、その空間をなわばりとして、命のあかしを証明するごとく、常に動き回り、餌を食って寝て糞をする生き物が存在しなくてはならない。ケージは中の生活者と一心同体で、ただ空のケージはあってはならないのだ。で僕もその例にもれず、ケージの胃袋を満たすべく、また僕自身の喪失感を癒すべく、次なる小動物を飼い始めたのだった。しょうこりもなく…。

以上今回「もぐりん」のことを書きましたが、「とびまる」の章は次回

by mogurin



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成功体験


LD学会行って来ました。大変疲れています。
しかし、有意義な体験もありました。
そのひとつには、学会初の「本人が語る」というシンポジウムがあって、LDの大人になった本人がお二人いろいろと語ってくれました。一人は大学生の男性で、もう一人は社会人の女性です。

男性のほうは、書字障害があって小さいころから、ある程度のサポートをされていたが、勉強は個人塾に頼んでいた人で、ものすごく算数が苦手だったそうです。

でも、非常に前向きな人で、中学で分数ができないので、思い切って小学1年生の算数から復習したそうです。そうしたら、なんと簡単に解ける!ということが成功体験として非常にうれしくて、どんどん算数を勉強するようになったそうです。そうしたら、中学の数学も、もう人に教えてあげられるくらいにできるようになったそうです。それで面白くて夢中で勉強したそうです。

また、弟さんも自分ほどではないがLDっぽくって、弟さんに教えていたら弟さんもこれがやはり成功体験になって、自分ひとりで勉強するということになって、今ではよくできるようになったんだそうです。

それで、専門学校へ行こうかと思っていたのですが、先生に「勉強したい気持ちがあるならば、大学へ行けば」と言われて、大学を受験して今は大学で勉強しているということです。字は相変わらず汚いんですけどね、とにこにこ笑って話していました。

それと、親御さんが、自分の人生を自分で選ばしてくれたことがとてもよかったと言っておられました。親の姿勢というのを子供はやはり見ながら育つんだと思うと、その方も言っていました。もちろん、その影には、親御さんの目に見えないような、努力や苦労があったのだと思いますが、こうして、難関の高校を終えてみると、とてもハッピーな生活が送れているそうです。

あとは、誰とでもすぐ仲良くなることが、すごく役立ったそうです。たとえば、ノート、書くのが遅くてとりきれなくても、友達にあとで見せてもらえたり、大学でも、友達にわからないところを教えてもらえたり、すごく友達は大切だと思うとのことでした。今では彼女もいるそうです。

また、もう一人の女性は、算数障害で、現在も10−2もままならぬ状況だそうです。でも、苦難の高校生活を終えて、ものすごく成績が悪かったにもかかわらず、介護関係に行きたいとの希望があって、入った大学を一度休学して、再考してから、やめて、介護の専門学校へ1年通ったそうです。また、ボランティア経験というのが、そうした仕事に就くのに有利だということで、中学1年から高校3年までの6年間毎週施設にボランティアに通ったそうです。

それで、福祉施設に応募して、夜勤もやりますっていうことで、採用になったそうです。でも、算数ができないために、食事の数を数えて一表にしなくてはならないことがつらくて、電卓を使うことにしたそうです。それで、ほかの人が暗算で間違えたことがあって、「みなさんも電卓を使いましょう」と係りの人が言ってくれたそうです。

現在は恋人がいるそうです。恋人に買い物のときに「なんでおまえ小銭あるのに出さないんだ。」と言われて、恋人が離れていくことを覚悟して障害のことを話したそうです。そうしたら、「それがどうした」と受け止めてくれたそうです。

また、彼女はお母さんが成育についてお話したのですが、子供のころはいじめられても決して話さない、芯の強い子供だったそうです。それから、水泳を本人は嫌でやめたかったということを後で知ったそうですが、ともかく小学校から高校3年までやったことが、結果的には、成功体験として自信につながったとおっしゃっていました。

また、とても明るい子供で、どの人にも好かれる子供だったために、経営しているお店にいると、近所のおばさんたちが手を振ってくれたり、高価な薬を買ってくれたりして、驚いたそうです。

まあ、ざっとですが、これがシンポジウムとしては、たいへん印象に残りました。
また、ほかの事は、追って書きます。
ではー。

by MUSICA


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3歩進んで2歩下がる


たのしいお正月休みも、気がつけば3が日を過ぎ、とうとう今日から仕事始め。
(といっても私は求職活動中。仕事を得るところからのスタート…。)
今日は治療と仕事の相関関係について思うところを書いてみようと思います。

先日、私は3年半通った八王子の某クリニックへの通院を終えた。
理由は「学校を卒業したため、通うのが大変になったこととクリニックでは診ることができない検査などをするため」というものである。


いままでも感じていたことなのだが、治療が順調なときは(当時は学生だったので学業だが…)仕事がはかどっていて、治療が停滞していたときは学校の成績も凋落していたということをこの3年間は改めて知った時期でもあった。至極当たり前のことのようだけど自身が意外とその渦中にいるとわからないものであるのだ。

治療は「365歩のマーチ」ではないが、(正確に言うと停滞はするが後退はしない)これでもかというくらい進むときもあれば、進みの遅いときもある。兎に角、あせらずたゆまず進むことのみを考えたほうがいいのかもしれないということを知った。

かく言う私も医師ではないが治療者のはしくれであり、自身の抱える疾病について患者として治療にあたりどう臨むかを、自身が治療をする際に患者さんに携わりながら自分の患者さんから多くのことを学んだつもりだ。このことは得難い経験であったと思う。


この場をお借りしてそれのうちのひとつを紹介したいと思う。それは、「あきらめないこと」である。

きわめて単純なことだが、あきらめないことは強いと心底思った。以下は個人的な今年の目標です。読者の皆さんはどんなことを目標になさったのでしょうか?

また、今年もあきらめることなく今年を終えることができるか、新たにイチから勝負だ。そして最後に笑うのは私だ。

それでは、お大事に。

by はるか


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自分の心の状態を助けるヒント


今日は自分の心の状態を助ける物として毎日私が実行している事を具体的に紹介しようと思います。

1.プラスになる言葉を発しているメルマガ、自分の興味のあるジャンルのメルマガの購読プラスの言葉を発しているもので私が今購読しているのは下のものです。1日数分で読み終えることが出来、なんとなく勇気が出ます。

〜プラスになる言葉〜
※NAPOLEONHILL POSITIVE ACTION PLAN S365 

『 HILL'S MESSAGE−成功の黄金律− 』
知っている人もいると思いますが、ナポレオンヒルズ財団が発行しているメルマガです。
自分の行動についてのヒントを毎日くれます。

自分の興味のあるメルマガは皆さんそれぞれ違うと思うので載せませんが、それを読んでゆくと色々やってみたいことが出てきます。

最初は、色々取ってみて、だんだん時間が経ってくると、本当にいつも読むもの。読まないものと判ってくると思います。読まないものは購読を解除すればよい。それだけです。

2.毎日することリスト、したら良いと思われるリストをスケジュール張に見やすい場所に作る。これは最初かったるいかも知れませんが、これを続けていくと、びっくりするくらいにしなきゃいけないものを先延ばしにしていたことに気が付かされます。それに、期限内にしなければいけないものをちゃんとできるようになります。したらいいなと思うこと出来たら自分はどうなるかワクワクして考えてみてください。心がウキウキしてきてプラスの空気を作ることが出来ます。もちろん、出来ることだったら行動してみてください。自分の自信につながります。

3.自分のお気に入りの物を持ち歩く。小さいものが良いと思います。バックの中に潜ませておくとなんとなく嬉しいです。(これは私の個人的な趣味?)

4.1日の最後に今日あった素敵なことを思って眠る。失敗してしまったことや、悲しい出来事はなるべく考えないようにしましょう。鬱の状態にあるときは最初これは大変な作業だと思います。でも、毎日続けてください。楽しい事を考える方が、自分にとってとても良い状態を作り出すことに気が付くはずです。


以上、この4つの事を私はしています。最初は、もう、全く効果がありませんでした。でも、ある日効果が自分に出てきていることに気が付きました。周りに助けてもらうのを待っているのではなく、自分の中にある自分の力を信じて使ってあげてください。最初は無力でも、だんだんとても力強いものに変化していることに気が付くと思います。



by ナオニャム


やはりポジティブシンキングが大切だと言うことでしょう。何をやっても駄目だ、どうせうまく行きっこないというあきらめ癖がどれだけ生き方をむしばんでいるかは、すこし考えてみれば分かることです。たしかに、絶え間ないミス、人との摩擦など自分の問題を考えるとそのようなあきらめ癖、負け癖が付いてしまうのは当然でしょうが、それがまたますます結果を悪くし、さらに負け癖が強く染みついてしまうと言う悪循環に陥っていることが多いようです。

理屈抜きにとにかくうまく行く、と強く自分に言い聞かせ、仮に失敗してもどこかにうまく行った点があるはずだと探し、次はもっとうまく行くと信じることで負け癖に陥っている負の循環から抜け出せると言うことだと思います。

ナポレオンヒルズの理論については批判的な人もかなり居ますが、とにかくプラス思考が大切だという点では正しいと考えられます。

昔はスポーツでもただただ根性、練習に明け暮れ本番で実力が発揮出来ない、という問題が指摘されています。練習による自信の裏付けや技術の向上は当然として、あとは結果の成功を強くイメージすることが大切だと言われるようになってきました。

とにかく、自分を勇気づけ、自分の心を明るくし、成功を信ずるという姿勢は取ってゆきたい物です。むろん、それを実現するための努力も欠かせません。

from ロクスケ


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子どものころからの大好物



 私の母は千葉の四日市場というところの出身である。母の親は早くに亡くなったが、母は末娘だったので甥と年が近くて、いっしょに育てられた。そして、母は看護婦になるべく、上京して慈恵の看護学校を卒業する。今考えると、向上心が高かったのかもしれない。看護婦だけでなく保健婦の資格も取っている。そして、勤めた先で父に出会って、結婚した。

 私が子どものころは、毎年のようにお正月には千葉に家族でお邪魔した。母の甥は米を作っている。その娘たちに言わせると「お父さんは、百姓の天才なの。天気のことから、豊作不作、なんでもわかってしまうのよ。」とのこと。と言うわけで、お正月は餅つき。昔は、本当におじさんがついてくれたのだが、最近は機械で餅をついているらしい。しかし、もち米がものすごく良いのだろう、本当に本当においしいのだ。

 私は、物心付いたときから、餅はからみ餅が一番好きだ。海苔も、納豆も悪くないが、大根のからみ餅から、体が離れない。いろいろな餅がテーブルに並ぶのだが、からみ餅の前を陣取っている。その反面、きなこやあんこは苦手だった。もう、生まれた時からののんべえ体質である。そうそう、おばさんの作った雑煮がまた旨いのである。大根とにんじんと鶏肉、しいたけ、ほうれん草が入ったしょうゆ味の雑煮。これに海苔をかけて食べる。んー、たまらない。

 今は、もう千葉に足を運ぶこともなくなってしまったが、お餅だけは田舎から実家へ送られてくる。そして、毎年私はそれをわんさと自宅に持って帰るのだ。のした餅は、かびないように食べる大きさに切って、ラップして冷凍しておく。食べるときは、水をさっとつけて、少し高さのある皿に入れて、ラップして2分ほど電子レンジに入れて暖めれば、あっという間に「つきたてのお餅」に変身する。その上に、大根をすって醤油をたらして、よだれをたらしながらほおばるのである。

 これで、太らないわけがない。毎年、正月は大太りしてしまう。おじさんが元気でお米を作ってくれているうちは、毎年好物のからみ餅が食べられるというものだ。おじさんに感謝。

 それから、おじさんの亡き母君は、毎年きゅうりの古漬けをそれは上手に漬けるのだった。きゅうりの古漬けは、もうあの味しか私の脳裏には残っていない。ほかで古漬けをいただいても、おいしいと思えないのである。それに、私はたくあんが苦手なのだが、田舎のたくあんだけは、本当に好きだった。黄色く染めてない素朴な味だったが、あのたくあん以外は食べられない。

 子どものころは、田舎は本当に田舎だった。牛を飼っていて、その臭いはすざましかったし、トイレが母屋から離れていて、広い庭を横切ってぽつんとあったので、夜中には怖くて一人では行けなかった。ニワトリは、庭をコケッコッコと走り回っていたし、それに混じって、猫もぞろぞろいて日向ぼっこしていた。

 昔覚えた味覚は忘れないものである。
 
by musica

それにしても、味覚とは一番原始的な感覚の一つで、子供の頃見に染みついたものは終生変わらないようです。わたしも色々ありますよ。イナゴ、カボチャの葉、かっぱらって浜辺で焼いたジャガイモやトウモロコシ(かっぱらったものでなくてはならない)、台所の身欠きニシン 昔の我が家の台所によく身欠きニシンがあり、それが無くなくなるたびにばあさんに”ロクスケ、またお前盗ったな!”と言われたモンです。むろんわたしは”俺じゃねぇよ〜”と口の周りを脂でギタギタにしながらしらばっくれたんですがね、どうしてばれるのか不思議だったですね。

まあ、とにかく子供の頃染みついた味覚は未だに懐かしいです。

from ロクスケ

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人体改造・装飾という趣味


 自分の体に穴を開けたり、彫って色を入れたり、体に金属を埋め込んだり。そういう趣味の人がいます。かくいう私も、つい先日TATOOを入れました。そこで、今回、そういう人体装飾について、ちょっと書いてみたいと思います。

 最も一般的なピアスは、耳に開いている分にはどうにか市民権を得たようですね。でも、ここでとどまらないのが、人体装飾趣味。ピアシング趣味の人は、耳に幾つも穴を空け、向こう側が見えるほどに、穴を大きくしてみたり、鼻、臍、唇、眉、瞼、舌、指、乳首、性器へとエスカレートしていくことも多いようです。
 
 少なくとも、耳に5,6個の穴が開いていれば、そしてそのピアスが太ければ、その人はピアシング趣味であり、まだ自分ではそこまで行かない・・・と思っていても、いつかは耳以外の場所に空けたくなってしまうのです。ちなみに、ピアスはボディーピアスなどをやってくれる、きちんとしたショップがあって、素人がいきなり臍とか鼻とかに自分で開けたりはしません。念のため。

 さて、TATOOですが。市民権など全く得ていないTATOOは、生活に制限も生まれてしまうため、かなりの熟慮が必要です。基本的には消えないですし。TATOOアーティストの人たちも、よく考えて決めて下さい。といいます。
 
 私は10代の頃からずーっと考えていて、30すぎて、初めて入れました。いろいろと不運なことやイヤなことがあった2003年に、厄というかそういうのを落とす意味と、2004年こそ、本当に生まれ変わりたいという気持ちを込めた絵柄を彫りました。人として、一人でもしっかりと立って生きていく覚悟。そういうものが生まれたので、彫ったのですが、背中なので、気に入ってはいるものの、しょっちゅう見れるわけではないのが玉に瑕です。
 
 TATOOは、皮膚の深い部分まで傷を付けて、その傷の中に色素を入れ込み、肌の上に絵や模様や文字や記号を表現していくものです。従って、それなりの痛みはあります。これが、耐えられない人も結構いるらしく、何故か男の人の方が弱いという。女の人はやっぱり痛みに強いらしいですよ。色んな表現をされるのですが、私が背中に彫った時の痛みは、鈍い刃先で引っかかれるような感じ。部分部分で酷く痛い場所があったのですが、全体としては耐えられるレベルでした。虫歯の治療の方が、よっぽど痛いです(苦笑)。
 
 体の場所によっても痛みの感じ方は違うらしいのですが、二の腕などは比較的痛くない場所なのだとか。二の腕当たりに彫る人は案外多いですしね。で、最初の一つを入れてしまうと、これまた、次はどこへ入れようか、と思ってしまうもので。日常生活を鑑みて、とりあえず、半袖を着ていれば隠れる場所にしようとも思うのですが、彫ってしまうと見せたくなるのが人情(?)夏にはタンクトップとかキャミソールとかを年甲斐もなく着てしまうのでしょう。もっか、TATOOを入れて困っていることといえば、親に温泉に誘われても一緒に行けない・・・てことですね。

 ところで、金属を体に埋め込む・・・というのは、正式な名称は私も知らないのですが。骨と皮の間に、セラミックや金属を埋め込み、まるで、角が生えていたり、異形の骨格をつくるというものです。最近ではさらにエスカレートして、スキンヘッドや額から、鋲が生えているような人もいるようです。私はまだ見たことはないんですが、大阪にいるらしく。怖いけど、ちょっとみてみたいような。

 人体装飾は、基本的には痛みや傷を伴う、危険な行為です。だからこそ、自分もきちんと勉強をして、ちゃんとした施設や設備のある場所で、プロにお願いしなければいけないと思います。よく考えて、軽々しくはせずに・・・とかいいつつ、春には二の腕にまた何か彫ってしまおうかと考えている私でした。

by 小町

 *私が彫ったのは、サラマンダーと呼ばれる想像上の生き物です。火より生まれ、燃えさかる火の中で再生すると言われ、錬金術などでは、忍耐と再生、純血の象徴と言われています。
 
画像はtatooです。



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軽度発達障害者ママには育児サポートが必要だ!


 つい最近、某軽度発達障害者(AD/HD&AS)の自助グループのオフに行って来た。今年最初のオフなので、新年会を兼ねてのオフだった。今回のオフは子供連れの親の参加が目立ったのだ。子供はと言うたら半分以上が軽度発達障害を持つ子供の参加だった。本領発揮だなぁと思う場面が多々。自分ワールド全開と言った感じであるのだ。会場には育児ボランティアがいないので、親が自分で子供の面倒を見なくてはいけない状態になっていて、なかなか“大人の時間”がないのが少々気になった。

 ある程度大きい子供だったら自分たちで遊んだり出来るのだが、幼稚園に入るまでの子供が参加したら大変だ。目が離せない状態が続くのだから。あるAD/HDと診断された女性が子供を連れての参加となったのだ。その子供と言うのが2歳になった子供で目が離せないのである。2歳の子供の相手をしてたら大変である。女性が言うには「言うことは2人前」とのこと。2歳のお子ちゃまですから色々注文をつけるのはまあ当たり前だと思い、お子ちゃまに合わせて相手をしてたら大変だと言うことが分かった。

 今回のオフに参加しているあるアスペと診断された女性が「家事と育児の同時進行は絶対出来ない」と前々から言っていた。要するに2系列のことが出来にくい自閉圏の場合は家事と育児と言う同時進行が入ると家事している時に育児をしようとすると到底無理な話だと言うことなのだ。彼女はIQが高い為、何も手帳がもらえないのだと言う。私は「障害者手帳」をもらっているが、彼女の場合はIQの高さゆえ何も取得出来ない状態になっているのだとか。結局、育児ボランティアを呼ぶことになったそうだ。家事をしている間に育児ボランティアに育児をしてもらうことになる。

 2歳のお子ちゃまのママであるAD/HD女性は「障害者手帳」を取得したばかりである。彼女自身も育児の難しさから約1年前に子供も保育園に預けることを決意した。

 約1日だけ、2歳のお子ちゃまの相手をして思ったことは私には家事と育児の同時進行は絶対出来ないと言うことである! 育児だけでもの凄く体力と精神力を使うと言うことがわかったのだから。アスペのママとAD/HDのママは毎日必死になって家事と育児の同時進行をしようとしていることを知った。

 今、軽度発達障害児対策が動き始めているが、親になった軽度発達障害者の育児サポートが絶対必須アイテムになってくるのではないかと思った。今の状態では彼女たちの家事&育児の難しいまま、誰かに支援したくても支援がない体制なのである。ママたちもモチロンだが、パパたちの育児サポートいやファミリーサポートが今すぐ必要ではないかと思った。これは声を大にして言って行かないと大変なことになることは間違いないから。

by Rosamonde


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やわらかいご飯とかたいご飯どっちがすき? 等


 私の父母は、毎度ご飯のことでけんかする。それは、父は基本的にやわらかいご飯が好きなのに対して、母は固いご飯が好きなのだ。だから、父が炊くとやわらかいご飯になって、母は決して食べない。それはもう傍で見ていても笑ってしまうくらい、頑固なのだ。このご飯戦争は、私が子どものころから繰り広げられていた。

 ところで、父は定年前に胃がんをやり、胃を2/3切除した。そのときに、固いものはさけて、小食で一日何回にも分けて食べるように指示があった。それにもかかわらず、母はけっしてやわらかいご飯は炊かない。がんとして、かたいご飯を炊き続けているのである。同居している姉もいささか呆れているくらいである。

 私は、父がもうじき80になるので、それではかわいそうだと思い、1合炊きの小さな炊飯器をプレゼントした。ただ、最近は一合炊きなんていうものは売れないらしくて、保温もついていない。手のひらにのっかるくらいの小さなお釜である。しかし、あっという間に炊けるそうだ。父は喜んでくれて、御礼のメールを寄こした。

 さて、私はやわらかいご飯が好きである。父譲りなのだ。先日、3合のご飯を炊こうとしたときに、ちょうど長男がそれを見ていた。そして、素っ頓狂な声で「おかー、何合炊くつもり?これじゃあ、水が多すぎるよ。」と言う。だから「私はやわらかいご飯が好きなの。だからいつもこのくらいで炊いていますが」と言うと、なんと長男が「俺はかたいご飯が好きなの!」と炊飯器の中のお水を無理やり自分の好みの水加減に直してしまった。

 「うっそー!!」と私は思った。今まで、ごはんがやわらかいと文句などでたことがないのだ。我が家では一番の大飯食らいの長男が、かたいご飯がすきだったなんて。

 長男には、小学生のときにご飯をといで炊くことを日課としていた。今は無洗米を使っているが、そういえば長男はよくひとりでご飯を炊いている。まったく、裕福な世の中になった。うちも一合炊きを買いたい位である。

by musica




ゴミ捨ての憂鬱

 私の住んでいるところは、以前は燃えるゴミが週3回で、燃えないゴミが週1回だった。ところが、何年か前にリサイクルの概念から燃えるゴミを2回に減らし、資源ごみの日というのを1日つくって、燃えないゴミは今までどおり1日とした。

 ときどき収集日が変わるようだが、今は次のようになっている。日曜日:なし月曜日:なし火曜日:なし水曜日:燃えるゴミ木曜日:資源ゴミ金曜日:燃えないゴミ土曜日:燃えるゴミ

 日月火とゴミの収集がないのが辛い。日にちを間違えて、水曜日に燃えるゴミを出し忘れることが多々ある。

 また、資源ゴミは、4家で2ヵ月ごとの持ち回りで、箱を出しておかなくてはならない。資源ゴミは、ビン・缶・新聞紙・ダンボールである。缶ビールなどをたくさん消費した週はたいへんである。また、衝動買いでいろいろとモノを買うと、ダンボールの山になる。

 金曜日の燃えないゴミは、なぜか週の終わりで疲れているせいか、どうも出し忘れが多い。まあ、腐るものではないので、家のガレージのほおりだしてあるが、時折、猫やカラスに狙われてガレージ中にゴミが撒き散らされていることがある。気がつくと3週間分たまっていたりする。

 土曜日は朝一番に収集に来る。8時くらいには来ているのではないかと思う。私は土曜日は休みなので、ゆっくり寝ていたいのに、ゴミのために起きなくてはならない。したがって、よく寝過ごして失敗する。

 うちの集積所は、4家だけでやっている。それで4家で相談して、ゴミ箱(蓋つき)に入れて出すことにしている。汚れないためと、猫・カラス対策だ。だから、夜遅くまで起きている長男に最近は夜中に出してもらうように頼むことが多い。いくらゴミ箱に入っているとはいえ、さすがに、早い時間に翌日のゴミは出せないものだ。

 しかし、このゴミだしは私にとってかなり苦なものである。こういう地道な仕事が苦手である。前の日に用意しておけばよいのであろうが、なかなか先延ばし癖がでてしまって、気がつくと家中ゴミ袋だらけとなっていることが多い。元夫を追い出した最大のデメリットはゴミだしが私の仕事になったことだ。はー。それ以外は実に幸せな生活なのだが・・・。(ため息)

by musica













































自分が信用出来ないとき


 いま、私はこの何週間かまともに寝られないのですが、やっている仕事がそんなに難しくはないはずなのに、とにかくうまく行かないのです。

 で、愚痴ではなくなぜ今うまく行かないのかを考えてみたわけです。いつものことなんですが、とにかく異常に間違いが多く、同じ間違いを何度も繰り返すんですね。こういうときはパニックを起こしていて、ミスをすること自体に意識が固定されてしまい、自己暗示にかかっているようです。

 参考までに、今やっている仕事の有様をちょっと写真に撮りましたので貼付しますが、とにかくICや細かい電子部品を組み合わせて試作回路を作っています。

 手順としては

 目的に合わせてどのくらいのコストで出来るかを考えながら設計します。

 特殊部品を使わず、一般に入手出来る部品を組み合わせ、いかに簡単で故障しないかを考えながら回路図を書きます。

 回路図に合わせてプリント基板を作ります。

 部品を取り付けます。

 様々な測定器を使って回路の働きを確認します。

 修整に従って設計図を書き直し、何度か変更しながら完成図を作り、完全な試作品を作ります。

 これだけで、別に難しいことではないけれど、いま頭の働きが特に異常でやるはずのない間違い、配線ミス、計算ミスを繰り返しています。電子部品はたとえば電気のプラスマイナスをつなぎ間違えると一瞬で壊れますので、それは何度も確認しそして電源を入れます。その電源をつなぎ間違えて一瞬で部品がすべてパー。すると、次の朝店が開くのをまって買いに行かなければならず、仕事は中断。そんなときにちょこちょこっと寝るわけです。

 とにかく、分かり切ったことを何度もミスをするのは今の頭の状態がよほどおかしくなっていて、頻繁に休憩を取りながら時間をおいてやらなければなりません。試しに脳みその状態をシンクロスコープで測ってみたのが今号の写真(うそです)

 前に、何度やってもうまく行かなくてパニックを起こしてみたら測定器がいかれていたことがあり、今回は測定器は大丈夫です。それでもうまく行かず確かめたら測定器につなぐケーブルがいかれていました。ハンダ付けがつながっていなかったり、プリント基板が目に見えない所でショートしていたりで、不思議なほどミスが続きます。

 パニックを起こしている一つの証拠でしょうが、頻繁に工具や材料が紛失し、それを探すのに相当な時間をかけざるを得ない事があります。結局、あきらめると目の前にちゃんとあったと言う事も珍しくなく、つまりは無いと思いこんでいることから目の前に見えているものを脳が認識出来ないのでしょう。
 
 今の私の頭の中の状態をイメージで表した画像はatamaですが、とにかく何もかも配線がぐちゃぐちゃで、測定してみても波形もめちゃくちゃでとぎれがちという訳です。(画像上の波形は失敗続きの試作品の波形で、まるで私の思考のようなので載せただけのことです。実際の脳波などではありません)

 もうひとつ、使っているものに限って紛失するのは、使い終わったとたんにきちんとおかないで意識のないまま何処にでも置いてしまうからです。とにかく、このような状態がひどいと、自分のやること自体が信用出来なくなり、無意識に、何かをやろうとしてもブレーキをかけてしまいます。それこそ、用心しなければならないことでしょう。

 ブレーキをかけてしまえば、何も出来なくなります。開きなって、失敗したらまたやればよい、と割り切る必要があるわけです。私の場合は深呼吸をし、濃いお茶を飲み、すこし動き回ってからまた取りかかります。とにかく、うまく行くまでがむしゃらにやり、自分に対する不信の念を取り去る必要があります。

 よく考えてみると、時々意識が飛んでいるようです。飛んでいるといっても気絶しているわけではなく、一つのことを考え続けているつもりで、瞬間的にまったく別のことがフラッシュのように思考の流れの中に入り込みそこで思考の方向がまったく変わり、またしばらくして元の流れに戻るようです。

 通常の場合思考はビデオの様に連続しているはずが、私の場合、スライドショーのように不連続になっているようです。

 まあ、疲労もありパニックもありそれが原因で今の状態になっているようですが、仕上げなければならない締め切りが決まっていますから気分の切り替えもままなりません。

 そんな状態ですが、それでもとにかく一歩一歩完成に近づきつつあり、トラブルを一つずつつぶしています。おそらく、今日中に形が付くでしょう。

 これがADHDのためかどうかなど考えても仕方がありませんが、自分が今どんな状態になっていて、それはなぜなのか、どうすれば改善出来るかを考えることは必要でしょう。

 そのような意味で、気分転換をかねて書いてみました。
 
by ロクスケ













































トットちゃん


黒柳徹子さんが、新しい本を出した。「小さいときから考えてきたこと」という本だ。(新曜社
¥1400)トットちゃんの子どものころのおはなしは「窓際のトットちゃん」で詳しく書かれているが、その本から、トットちゃんはLDだとかAD/HDだったのだろうと言われている。

新しい本は、難しい漢字にルビが振られており子どもでも読めるようになっている。トットちゃんが、子どものころにこんなこと考えていて、どんな風に感じていたか、よく書かれている。おとなになったからこそ、こどものころの行動が意味を持って本となり、人へのメッセージとなる。

自分が子どもだったころを思い出すのは、私には容易でない。嫌なことばかり、思い出してしまう。でも、振り返って客観的に見つめられたら、それは自分の財産になるかもしれない。そして、それを本にして出したら、大勢の人の財産になるかもしれない。

また、トットちゃんは、アフガニスタンに行ってその報告もしている。その中で、アフガンの子どもたちの様子を、本当に暖かいまなざしで書かれているのだ。私たちは、ある意味で平和に慣れすぎている。

軽度発達障害を持つ子どもが、トットちゃんのようにいきいきと語れる人に育って欲しいなあと私は思った。そういう世の中を作っていくのは私たちだ。がんばらなくてはならない。

by musica













































思考停止実験


 最近僕は、思考を停止する実験を繰り返しています。なんか、ばかばかしいことを始めたとおもわれるかもしれませんが、つまりは、ほとんど不可能なことなんです、思考を停止するのは。
 
 人間の脳は常に活動していて、何かについて思考を巡らしているのが普通の状態です。その考えが建設的、前向き、積極的な内容であれば何の問題もないんですが、鬱におちいった状態だと、てきめんに暗くて消極的な思考のループにとらえられてしまいます。思考はすべてその人の過去の経験、記憶から引き出されます。過去がなければ、思考も始まらない。
 
 そういった意味では、ぼくは完全な記憶喪失にあこがれることもあります。そういった人はきっと思考を持たない。失敗の経験も挫折の体験もない。したがって、それから引き出される暗い想像もありえない。まあ、これはあくまで僕の勝手な憶測ですが。
 
 人生経験を積むほど、人生の諸問題にうまく対応でき、幸福に生きられるか、というと、まったくそんなことはなくて、失敗を積み重ね、その傷を背負って逆におしつぶされる人もいる。生まれたばかりの赤ん坊のほうが幸せそうだ。きっと過去を背負っていないからだ。そう思った。だからといって、成人した大人が赤ん坊のまねをするわけにもいかない。
 
 じゃあ、諸悪の根元であるこの思考の連鎖をどうすればいいか。自分の思考を観察することから始める。今、何か考えている自分を第三者の目で観察する。今、こういったことを考えているな、ああいったことをほじくり返しているな、そういった視点にたつ。これはできるんです。
 
 常にではないけど。それをやっていると、時々ふっと何も考えていない時がある。この瞬間を引き延ばせないか。そういうことです。少なくとも、思考の嵐にほんろうされるよりはずっといい。幸せな経験も、次の瞬間には不幸をまねく。とある本にかいてありました。
 
 その幸福体験に執着し、それを失いたくない恐怖が生じる、あるいはそれをもう一度体験したく思う。その考えが不幸をまねく。一番いいのは、幸福な体験をして、その時点で終わらせる。ジエンドにする。それ以上求めない、追求しない。ところが、幸福は善、不幸は悪として順序づける。これがまちがっている。幸も不幸も善も悪もない、経験はただの経験、たんなる自分にふりかかった出来事。そういった並列的な目で人生を静観すれば、幸不幸を超越できるのではないか。
 
 この考えは、禅の思想に近いと思います。思考というのは、脳でおきる精神活動すべてのこと、つまり自己のこと。思考を停止するのは、自己について考えなくなること。自己をなくすこと。これは仏教や禅でいう無我の境地かな。
 
 ちなみに、仏教では無我の境地を経験すると、「梵我一如」つまり大宇宙の真理である梵天(ブラフマン)と、本当の自分自身である真我(アートマン)が同じ存在であることがわかるそうです。これぞ東洋思想って感じなんですが。だいたい西洋思想は、あれとこれが違う、その個々の物どうしの差違をきわめることで発達してきたように思われます。
 
 分析と総合、比較と分類。サイエンスはその最たる物で、精神医学も患者を細かく分類し、さまざまな病名をつけて現在にいたっています。新しい病気は毎年のように発見され、新薬もどんどんできる。それはいい。ただ、患者である人間は一個のトータルな存在で、ばらばらに切り離すことはできない生命体です。精神の状態にそんなに多くの病名をつけるということじたい、まったく人間の心がなにかをわかっていない証拠ではないかと思う。それはともかく人生の幸不幸の超越というのにすごくあこがれます。

by mogurin

 結局幸不幸を全く超越するもっとも完全な方法は死でしょうね。つまり自殺です。多くの人がその方法をとっています。
 
 次善の策が睡眠です。つまり、ただひたすら寝ることです。起きた後のことを考えなければかなり有効ですが、問題は寝ている間の時間経過を認識出来ないということです。起きたときは時計を見ない限り自分が何時間寝ていたのか何分間寝ていたのか解らない。けっきょく、幸不幸を超越は出来ても、その恩恵を実感出来ないわけです。と言うより、不幸の解決のチャンスを先送りしてしまったわけで、不幸がより大きくなるケースがままあります。わたしも散々後悔しています。
 
 人為的に記憶を消去する方法は消去する以前の時間が存在しません。したがって、記憶を失った時点から再出発するわけで、そこからまた幸不幸の葛藤が始まります。結局解決にはなりません。人為的ではなく、強いストレスに晒されたりすると人間は防衛手段の一つとして記憶を失うことがあります。結果は同じ事でしょう。
 
 他に、不幸を他人事にしてしまう解離性同一障害(離人症)、解離性健忘症なども自己防衛から生ずると言われています。いずれにせよ、非常に強いストレスが原因で、これは幸不幸の超越などというより、これで苦しんでいる人が大勢居ます。
 
 幸不幸を超越するとは単に忘れたり感じなくなることではなく幸を正当に評価し、不幸を克服することだとわたしは思います。ただし、幸不幸は大きく個人の価値基準により変わりますから、その価値基準の見直しも含まれるとも思う次第です。
 
 貧乏であることが不幸だと感じる人と、金のために煩わしくて不幸だという人を(このようなことを言ってみたいものですが)同列には考えられないし、どちらが優れていると言う問題でもないし。梵我一如を持ち出すとちょっと宗教問題に踏み込みそうなのでこれ以上は触れません。
 
from ロクスケ













































カンチュウハイ飲んで

 
 このところ、ずっと忙しい日が続いている。そのせいか、リタリンが過剰に働いているらしく、切れたときのギャップは、異様だ。もう動くのも辛い。しかも、疲れは確実に翌日に持ち込み、翌朝は起きたつもりでいても、ふと気がつくともう昼近くなっていたりする。
 
 ソーホーならなんとかなるかもしれないが、常勤となると、休暇との戦いになる。すでに非常サイレンは鳴っている。なぜこんなに忙しいか。異動するつもりだからだ。
 
 課長は「君は異動希望ということで、先方のほうとも話してみる」と言った。その言葉を額面どおり受け取ると、私は異動対象者リストに載っている。ただ、希望の部署にいけるかどうかは定かでない。
 
 少なくとも課長は、私の病気後の仕事ぶりには、一定の評価をしていると私は思っている。誰も手をつけられなかったことに今着手している。こちらも、かなり権力的に動いているが、相手も結構危ない相手であって、本当に身の危険を感じるくらいだ。
 
 でも、もう始めてしまった。私がやらなければ、新しく来た人ができるわけがないだろう。それを、3月までに終わらせたい。すでに1件は、もう強硬手段に出ている。向こうが悪いのだ。仕方がない。もう一件の案件は、ほぼ固まっている。あとは相手方に知らしめるだけだ。最後の件が一番大変だ。何箇所かが同じことをしているので、まとめて裏をとって、あとは強行手段にでる。法で裁くのだ。

 どちらにしても、異動対象者リストに載ったものは、異動しないということがない。必ずどこかへ異動する。時限爆弾のようだ。あと何秒と数えながら仕事をしている。
 
 近頃、すっかりやめていたアルコールが飲みたいと思う。ストレスだ。うちへ帰ったら帰ったで、子どもの友達がうじゃうじゃといて、きゃあきゃあ騒いでいる。その声を聞きながら、洗濯物がたまっていれば洗濯し、食器が底をついて入れば食器洗い機にほおりこむ。
 
 前の日に「米がない!」「トイレットペーパーがない!」「醤油がない!」と子どもに叫ばれては、帰りに重い足取りで買い物をする。やれ、牛はどうの、鳥はどうの、豚もどうのとゆっくり新聞も読んでいないから、正確な情報がなく、しかも、スーパーでは、確実に品数が減っている。
 
 魚は値上がりした。これは、さすがに世事に疎い私でも実感する。金もないと来ている。しかも、私は病気の問屋と来ている。3割負担の重いこと!薬代の高いこと!とうとう、親が生きているうちにいくらか工面してもらった。
 
 私の病気はほとんどが、難治性で、薬も一生飲まなくてはならないものがほとんどである。健康な人がうらやましい。つかれたー。決して病弱には見えない、病弱な私が、こんなに重い仕事をしなくてはならないのは、なんでなんだ!!
 
 元夫の養育費が子ども二人分で3万円じゃあ、塾代にもならない。養育費の値上げを裁判所に提出したい。そんなことさえも、忙しくてできない。さすがに、4車線ある道路に飛び込んで死んでしまおうという気持ちはなくなったが、あっても不思議じゃない。
 
 ADHDをもちながら、サポートしてくれる人もなく、墓穴をほって再度事務仕事をやり直したり、もうそれだけでもうんざりしている。ああ、ADHD!我ながら、なんと愚かなミスが多いのだろう。
 
 幸い、愚かなミスよりも、普通の人がやらないような大きな仕事をこなしていることで、上司の評価は悪くないのだが、自分ではもう本当に自分にうんざりしている。もう、いい若い者と同じ仕事はつまらない。私は、思い立つのだ。この仕事に欠けているものは何か。
 
 この仕事を効率的に行うにはどうすればいいか。この仕事の最低限の知識と抗弁はなにか。上司にも思いつかないことを、直感で思いつくのだ。だから、言われたとおりにだらだらと仕事をやっている若い衆には、嫌気が差す。
 
 おまえさあ、頭使って仕事してるか?と聞きたくなる。ADHDという特殊能力を最大限生かして仕事をすることは、かなりむずかしくもあり、スリリングでもある。でも、実績を作り、周囲の信頼を勝ち取れば、こちらの勝ちだ。ちいさなミスに、重箱の隅をつつく上司は捨て置けばいい。
 
 私は、今日たいへん疲れている。この文章は半分以上愚痴かもしれない。だが、社会に出て、ADHDと知らずに20数年働いてきて、やっと判明して、自分の生き方を考え直そうとしている一人の社会人の真実である。自分を生かそう。プレッシャーに負けるな。医療を受けることは、自分を後押ししてくれる。自分の信じた直感を実現しよう。人にはいろいろな生き方がある。どんな生き方を選択しても、愚痴程度で済むように自分を信じよう。がんばろうぜ!


by MUSICA













































思考停止実験その後


 最近、自分の心の動きについて考えていて、ある種の発見があったので書いておきます。
 
 これはあくまで僕の個人的経験から引き出された結論で、世間一般のひとが僕と同じように考えるかどうかはわかりません。自分の意識の中では、常にもうひとりの自分がいて、いつもそいつと会話をしているんですが、不思議とその時は何のこだわりも、苦しさもなく、きわめて自然体なんです。
 
 子供の時は、そいつは赤い服を着た少年のかたちでイメージされました。いまではもう少し年を取り自分の分身にふさわしい格好をしています。そいつと心の中で言葉を使って会話しているとき、心理的な圧力、マイナス感情はありません。ことばで会話するとは、心の中でぶつぶつ独り言を言うように、ことばのキャッチボールをすることです。
 
 そいつは意外といろんな返事をしてくれます。ときどき僕が思ってもいなかったような回答をしてくれることもあります。
 
 問題は、彼ではなく、友人、知人、親兄弟など、自分と別の人格と心の会話をしているときです。その時はことばにいろんな感情の重みが付け加わっているのです。反感、共感、好意、敵意、嫉妬、愛着、尊敬、軽蔑などなど。その感情の重みは、他者と会話している状態だけでなく、他者を意識するだけでも、即座にうまれてきます。動植物、自然について思いを巡らしたり、単なる論理を考えているときは、そんなことはありません。
 
 これはやはり、自分の心の中で勝手にこしらえた他者の人格、これが諸悪の根元なのではと思い至りました。他者と会話するのは、他者と実際に会って会話しているときだけにすればいいのに、他者と別れたあともずるずる会話している。つまり現実には存在しない他者と会話するというのは、リアルではない虚構の世界にどんどん入っていくということで、最も身近な存在、自分自身からは、ますます遠ざかっていく。ここに問題があるのではないか。
 
 「他者との会話」だが、会話が言葉のキャッチボールであるという定義にしたがうなら心の中で「他者」と会話するのは、現実には不可能で、この場合心の中で「他者」の「イメージ」をふくらませているにすぎないのではないか。ことばを使わないイメージ思考、右脳思考とかいうのがちまたではやっているようですが、僕にとってはこれはマイナスで、イメージをうまくコントロールしないと、他者の人格に圧倒されて心のエネルギーがどんどんなくなっていく。
 
 むしろ言葉をつかった左脳思考「いちたすいちは、に」といった制限された思考法のほうが心の健康にとってふさわしい。脳も肉体の器官のひとつ、手足と同じようにその使い方を学ぶ必要がある。人間ならだれでも歩くことを学習するように、自然に脳を使うようになるが、巧く使うかどうかはその人次第。その方法は他人に教えてもらうわけにはいかない。自分の身体は自分で使うしかない。
 
 おのおの最も疲れない歩き方、効率的で気持ちのよい脳の使い方を発見しなくてはならない。僕にとってキーワードは「自分の分身」と「はっきりした言葉」を使って会話する。「他者の人格」と会話をしない。これはつまりいつも自分自身とともにいるということです。
 
 以前思考停止の実験をしていたことがありましたが、非常に難しいことがわかりました。何も考えないことがこれほど難しいとは。ほとんど不可能に近い修行でした。唯一できる瞬間は排便をするとき。ウンコをする、りきむ瞬間そのときだけは何にも考えていません。

by mogurin

 脳のどの部位を使っているかは意識してコントロール出来ないと思います。ただ、頭の体操をしておくことで、理論的、あるいは情緒的な部位のどちらを重点的に使うかはある程度鍛えられるとは言いますが。
 
 それと、思考停止実験ですが、わたし個人としてはあまり勧められませんね。ただでさえADHDは覚醒レベルが低いと言われており、それが衝動性の原因とされています。つまり、きちんと思考していないからです。思考していなければ、あとは本能で行動することになり、ひどい場合は犯罪につながりかねません。
 
 思考はいつもクリアにしておく努力をし、その思考を可能な限りプラス側に持ってゆく方が、思考停止よりよほど効果的ではないかと思います。
 
from ロクスケ













































障害を受容する事、それに伴う問題


 障害を受容するという事について、あなたはどのように思われるでしょうか?ADHDや脅迫性障害、各種のLD(学習障害)、軽度の自閉症を認識した人は、かなりの割合で一旦はその事に安堵の感情を持ちます。それは、その人の人生において、パーソナリティーや、家庭環境、生育環境によって生じたと考えられ、自分の過失であったと思われていたことの原因がそれらの障害によるものであったという事を知るからなのですが、その時点においては、過去の自分の過ちに対して赦免されたという意識が強いのです。しかし、それが障害を受容したという事にはならないと思うのです。障害を知り、しばらくすると、自分がなぜ障害を負うことになったのか、障害を負って自分が失ったものが少なくなかった事に気づいてしまうからです。

 僕自身のことを言えば、27歳の時に自分の行動に違和感を感じて精神科に通院しました。しかし、その時点では発達障害についての認識も一般的でなかったので、うつ病と診断されました。しかし、当事者としてはその診断に対して納得も行かないわけで、それ以後通院はしませんでした。本格的に診断を受ける事になるまでその後10年の歳月がかかりました。ADHDであるとの確信と共にうつ病の療養が始まり、通院するうちにアスペルガー症候群であるという診断を受けました。その後になって、脳の精密検査を受ける事になって始めてADHDである事が確定しました。気持ちの上では、未知の障害によって人生が閉ざされていたのが、障害が確定した事によって先の見通しがついたと言う安堵感が大きかったのです。しかし、そう思えたのも永くはありませんでした。発達障害は行動やコミュニケーションに制約を与えます。思い通りの行動ができないのです。診断を受ける前からその制約の為に犠牲にしてきた事も多いので、コンプレックスを抱えているわけで、それに伴う悩みはなかなかなくなるものではありません。うつ病を2次障害として抱える事も多く、劣等感を感じやすい発達障害者は、診断がついた後もなかなか先の展望が持てない事も多いのです。ぼくもうつ病があり、自閉の症状もそれにつれて発現したりすることがあります。未来への展望が持てず、自己実現に対して失望感を持ってしまいがちで、期待する出来事と違う場面が現れたときにかんしゃくを起こしたり、泣き叫び、地団駄踏んでしまうことすらあります。ですから、障害の受容という面から行けば、いまだその境地には達していないというのがぼくとしての正直な気持ちなのです。

 受診が確定してしばらくの間は、生活が安定しない例も多く、経済的なことから情緒不安定になる事も多いのです。職業に就いたまま受診している場合には収入があるので、それほどダメージはないと思われますが、多くの場合療養の為に無職の事が多いので、必然的に障害年金などに頼る事になります。これも、重度発達障害者の場合は、知能障害も抱えているので療育手帳による自治体の補助金があったりしますので、経済的にはあまり問題ないと思われますが、一番問題になるのが、軽度発達障害者の場合だと思います。働く事もできず、障害年金の基準に満たない軽度発達障害者は経済的な不安からうつ病を重くしてしまう事も多いのです。そのため、生活補助を利用せざるを得ない人も多いのです。

 障害の受容とは、障害をそのまま受け入れ、その特性に合わせて生活の設計をしていく事だと思います。多くの人が健常者の基準に自分を合わせようとして挫折を味わう事になります。しかし、ADHDやアスペルガー症候群の人には、健常者にも勝るとも劣らない才能があります。ADHDの人は発想が豊かで、おそらくブレーンストーミングをさせて新しい考えを生み出す事にはかなりの威力を発揮するはずです。また、アスペルガーの人なら、健常者とは違ったアプローチですぐれた発想を出す事ができるでしょう。何も、世間に自分を合わせる必要はないのです。障害があり、不自由な自分をわざわざ標準のプロセスにはめ込むことなく自分にあった方法でアプローチするのです。職業選択もそういった見方から洗濯していけば、おのずと自分にあった仕事を見つけ出せるはずです。

 未だ、ぼくにはそういった実感を持つに至りませんが、多くの先人が克服してきた方法を自ら取り入れてやってみるのもいいかもしれません。幸い、デイケアプログラムに参加して、創作活動の中で自分の才能を見出す手ごたえを感じ始めていますから、意外と障害の受容をする日も近いかもしれません。
 
by むん













































no music,no life


 …音楽なしじゃ生きられない。これは、某有名CDショップの名コピーである。これは、かなり私自身の生き方を表していて…尤も、すべての音楽を愛している人のキャッチコピーでもあるのだけど。
 
 私の場合、もっといえば、ライブなしじゃ、生きられない・・・である。音の刺激、リズム、グルーブ、体を揺さぶられるのと同じ衝撃でやってくる感動。ロックやパンクは、その中に身を浸していると、脳の回路がかちりと繋がる音を感じる。これは、もちろん感覚的なもので、実際にそうかどうかは解らないけれど、血流が激しくなり、脳の隅々にまで血液が行き渡り、ある種の興奮と快感、そして、異常なまでの集中力が自分の身に宿る。絶対に、自分が生きていく中でなくせないもの。むしろ、その中に生があり、そのためだけに生きているとさえ感じることもあるほどに。ライブとは、まさにLIVE。生きているということそのものかも知れない。
 
 すべてのロックアーティストが、それを私達に与えられるワケじゃない。しかし、確実にそれを・・・いともたやすく、惜しげもなく、与えてくれるごく少数のカリスマがいて(そんな言葉もふさわしくないかも知れないが)、それを享受することに堪らない悦びを覚える。それが、ライブである。実際、そんなことを冷静に考える暇はない。飛び、踊り、必死でその音に耳をそばだて、リズムを体感し、グルブに身をゆだねる。時にステージの上の彼らの一挙手一投足を見逃すまいとし、瞬きすら許さない自分がいる。
 
 ロックやパンクは、全天候型のすべての人に受け入れられる音楽ではないのは重々承知だけれど、本物を音にするステージの上の彼らは、その思考、思想、想い、メッセージ・・・それらを物語に乗せて、あるいはストレートな言葉で、届けてくれるのだ。もし、まだ、音楽に身をゆだねたことのない人は、特に若い世代の人には上質の本物のロックを聴いてほしいと思う。自分のすべてを預けてしまうのではない。ただ与えられるものを受け止めて、その中でだけ生きていくのではない。音と言葉から物語を紡ぎ、自分の脳のフィルターを通し、想像し、再構築し、自分自身と照らし合わせ、振り返り、すべての思考という脳活動を最大限に行うことで、自分と世界を見つめる子とができるのではないかと思うのだ。

 時間が限られている。若い頃、やり直しは何度でもきく、時間は無限にある、そう思っていた。でも、実際はそんなに多くの時間は存在しない。生き急ぐことはないけれど、この有限の中でいかに自分と見つめ合えるか。その上で、人生が変わるほど楽しいことを見つけてほしいと思う。
 
 
by 小町













































うちの息子たち


今日は、連休最後の日である。と言っても、1日は病院へ行き、1日は友人宅へ行きお泊りして、2日間は出勤した。今日は文字通り最後の日で、昼まで寝ていた。

起きてきて、LD学会の資料を整理していると、息子たちが集まってきた。

 次男に、「お前は他のみんなが右・左がわかっている歳になっても、わからなかったんだよ。だから、ヴァイオリンをやって、右と左が違う動作なので、やっと右と左がわかるようになったら、靴もすべて右と左の区別がつくようになったんだよ」と言うと、「えー。オレってそんなに馬鹿だったんか」と驚いていた。

 それから、「たまには飯作ってくれよ」というので肉を焼いてやると、「おー。いいにおい!」と食べながら、「でもオレって良く育ったんじゃない?今はぜんぜん問題ないゼ。」と言うので、「あのさぁ、お母さんの苦労しらないからそう言うんだってば。お前たち育てるのを第一に生きてきたんだから。今やっとお前たちが先々のことを自分で考られるようになったから、お母さんも出世を考えているのじゃない。少しでもえらくなったほうが、お金も入ってくるからね」と言うと、「でも死んでも生命保険で十分に俺たち生きられるからさあ。」と厳しい。

 子どもたちの「痛い」経験の話になると、次男は歯医者が一番痛かったというし、長男は覚えていないという。だから、いろいろな痛みを伴うエピソードを話してやると「いつのこと?ぜんぜん覚えていないよ。」とか「あ、それ覚えているよ」といろいろな反応が返ってきて面白かった。

 お母さんは、「お前たちは、LDやADHDがあるから、常にお前たちのことを肯定しつつ、自己評価が低下しないように、努力してきたんだよ。」と言うと「そうだな。お母さんはそういう意味でよかったよ。他のうちの障害児なんて、罵倒されて育てられていることが結構あるんだよな」としみじみ。「俺に子どもが生まれてADHDやLDだったら、お母さんの実践を生かすよ」と言ってくれた。

 子どもはいつか育つ。必ず親が広いバックグラウンドを持ち、暖かく育てればなんとかなるものだと思う。もちろん、子どもたちの努力も認めてやらなくてはならない。

 親も子どもとともに育てられるというものだ。
 
by MUSICA

前々からADHD当事者としての子育ての難しさをMUSICAさんは書いている。もちろん、何処の家庭にもあるように、MUSICAさんの家庭にも子育て上の問題や失敗はあるだろうけれど、基本的にお子さんの障害の本質をきちんと見据えて、その上での子育てをしてきたのだから、他の多くの家庭に比べて、息子さん達は幸運だったと言える。

わたしも思い起こせば子供の頃から、とにかくよく叱られた。学校でも家でもきちんとしろ、人の話を聞けなどなど。親や教師にしてみればもちろん私をまともな大人にさせるためにうるさく言ったのであり、いわば私のためを思っていってくれたのだが、残念ながらそうしかりつけるだけでは、私が他の子供のようには出来ないということを理解していなかった。むろん、当時としては無理のないことだったと思う。

しかりつけて直るなら叱ればいいのだろうが、いくら叱られても出来ない場合、子供は自信を無くし、本来出来るはずのことまで出来なくなってしまう。よほど親や教師の心に余裕があって、その子供の出来ないことがあるのだという認識を持っていてくれれば、そこをかばいながら他の能力を伸ばせるだろうし、そして本人が自信を持てれば、苦手なことも余裕を持って克服出来る。

やはり、問題の本質を親が理解すると言うことがいかに大切かを、前々からMUSICAさんの原稿を読むたびに痛感してきた。

ちなみに、このサイトのトップページに紹介してあるが、その問題を扱った小説「弟」が載っている。ぜひ、下記をご一読戴きたい。

小説「弟」

by ロクスケ













































株で失敗した経験


 2002年の7月に、事務所の同僚から「実は今、Sさんから電話があって、これはさるルートから極秘の情報なのだが…」といったことをきかされた。それはIという店頭銘柄が暴騰するであろうという情報だった。それまで株などやったこともないし、興味もなかったぼくだが、そのシステムをきけばきくほど、これはすごい錬金術であることがわかった。
 
 ただし買った銘柄が上がればである。その銘柄は仕手株で、裏では金持ちのご本尊なる人物が株価操作をしていて、まちがいなく200円、300円まで上昇するとのことだった。7月の上旬の時点で一株60円弱だった。
 
 「私は金をかきあつめてとにかくこの銘柄を買うわ。上がって利益がでたら売り逃げればいいんだから」同僚のおばさんは完全にはまっていた。きけばバブルの頃は株で500万ほど利益をだしたこともあるとか。知り合いには1億ちかくもうけたつわものもいるとか、
 
 話がどんどんでかくなっていくのだった。銘柄 Iの株価表を調べてみたら確かに数年前には一時700円近くまで暴騰し、その後すぐに暴落していた。そのような奇妙なうごきをする銘柄がほかにもいくつかあった。
 
 僕はとりあえず、同僚の証券会社の口座に金を振り込み、共同購入というかたちで一万数千株買ってみた。その当時はほんの少し生活に余裕があり、借金もなく、100万くらいの金なら都合がついた。でもやはり貧乏人であることにはかわりはない。それで全財産はたいてしまった。
 
 もうあとがない。その年の夏、お盆は実家に帰省して山登りや温泉などをたのしんでいた。しかしその最中でも例の株がどうなったかつねに気にはなっていた。実家から携帯をつかって東京の同僚に電話すると「ついに始まったみたい。もう、大変なことになっている。まいにちじりじり上がっているわよ。今日は70円」それをきいて僕は興奮した。数週間で差額10万円ちかくもうけたことになる。この銘柄は上昇気流に乗っている。もっとつぎこめばもっともうかるはずだ。
 
 「私は、とにかくお金を借りてあと二万株買う。あなたも借りられるのなら借りちゃいなさい」同僚は興奮していた。ぼくもその悪魔のささやきにそそのかされ、ついに封印していたカードに手をつけ始めた。まずはクレジットカード、銀行のローンカード、それから消費者金融系のカードである。そして自分の証券口座を開き、200万ほど新たにつぎこんでしまった。すべて借金である。
 
 銘柄Iは70円台をじりじり上昇中であった。僕はなんとかプラス3万株手にいれることができた。8月に入りついに100円を突破した。これで100万以上のもうけである。このまま株価が上昇し200円、300円にまで行くとみんなが思っていた。年末はホテルセンチュリーハイアットの最上階で祝杯をあげよう。そんな計画までたてていた。
 
 ところが現実は118円を天井にどんどん下がり、一気に50円の底値にまで暴落してしまった。これでは売ったら100万近くの赤字である。どうしよう。もう上がりそうにない。Sも同僚も僕もみんな噂に踊らされていたのである。
 
 銘柄Iを売ってほかの銘柄に乗り換えるという手段があった。しかしIはまだ300円の夢を持っていた。今、一時的に低迷しているが、いずれまた吹くだろうと思っていた。よく天井3日、底100日といわれる。一度暴落した株はそうそうあがったりはしないのだ。
 
 結果的にこの銘柄は下がり続け、2004年の5/9の時点で18円。一度も70円をこえることはなかった。僕はIを売ってほかの銘柄に乗り換えることもした。それに加えて信用取引などという素人が手を出してはならない取引もはじめた。
 
 現物株を担保にほかの銘柄を買うことができるのだ。しかも担保の評価額の2倍から3倍の金を動かせる。ぼくは銘柄Iは50円を切ってこれは底値であって、まさかこれ以上落ちることはあるまい、こいつを担保に他の銘柄を買って動かしてもうけてやれなどと、虫のいいことを考え、実行にうつしたのである。
 
 毎日9時から3時まではパソコンの株式の画面とにらめっこ。完全なデイトレーダーと化してしまった。ある時など10種類の銘柄をもっていたこともある。しかししょせんは素人。高値で買い、下がったら売るを繰り返し、損失がどんどんふくらんでしまった。結局信用買いした株も、担保にしていた株も両方下がってしまい、追加保証金を払いきれず。ほとんどを強制的に持って行かれてしまった。
 
 僕の信用口座も閉鎖となった。結局損失は300万以上となった。同僚の口座に現物で持っていた銘柄Iの2万株も暴落し、25円で売り、23円で売りを繰り返して、すべて損切りしてしまった。以上がだいたいのことの顛末である。その後は鬱が悪化し、薬を飲んだり飲まなかったりをくりかえして現在にいたっている。

 失敗続きの自分の人生を考えるとつくづくいやになる。今朝は見ていた夢の続きがみたくて二度寝してしまった。夢のなかでは自分がなにか重要な任務についていた。パートナーにはボンドガールのようなセクシーな女の子がそばにいて、いつも一緒に行動しなくてはならないのだ。これなら敵の銃弾にあたって死んでもよい。
 
 そんな内容の夢だった。ひるがえって現実に戻ると、なんと色あせた世界か。自分の生活環境の問題よりむしろ周りの人間が信用できない。どうやらだまされ続けてきた悪影響が出始めている。ある本に「人は何かをほしがっているときだまされる」と書いてあった。なるほど、欲に目がくらむとはよく言ったものだ。古人の知恵は偉大である。
 
by mogurin

 非常に切ない話だ。だれもmogurinさんのことを笑ったり責めたり等は出来ない。実際に多くの人が株で泣き笑いをし、よほど運がいいか、専門に日夜株だけをやっている人がハイリスクハイリターンで儲けて、その足下には屍が累々と横たわっている。
 
 株で大もうけした話は得意になってみんなが吹聴するだろうし、株屋はそれを宣伝にするけれど、株で大損をして首をくくった人の話は出てこない。当然ながら、株は損をする割合の方が大きいと考えておくのが無難ではないだろうか。誰かが株を買わなければ株式会社は作れないがあくまで投資なのだという意識を持った方が良いと思う。
 
 金銭管理が出来て衝動性をコントロールしにくい人が手を出すとあまり良い結果にはならないと思う。その点が全く駄目なわたしは当然手を出したことはない。
 
from ロクスケ













































15分の運動で気分が爽快になる!?


たった15分の中くらいの強度の運動が気分を良くし、元気なムードにしてくれる、ということがアイオワ大学の最近の研究でわかりました。

研究者が被験者の29人にトレッドミルでの15分のウォーキングの後と前にどういう気分かと質問すると、被験者の殆どが気分が穏やかになった、ハッピーな気持ちになった、元気が出てきた、などの前向きな感想を口にしたそうです。あなたも今日から15分の散歩をして、気分を爽快にしてみませんか?

by Bunny_Lab

「ADD/ADHDという才能と」言う本だったと思いますが、激しい運動をたまにすることを習慣づけることでADHDが改善されたという報告があります。鬱状態も改善されるとか。結局、運動をすることで脳内物質が旨く働くなるようになると言うことらしいので、気分が良くなるという事も十分裏付けがあります。

わたしも、散歩を習慣づけることで精神的な状態改善にも役立つと思っていますが、少し汗ばむくらいの速度で歩き、そのかん周りの景色を楽しみ、そして明るい光を沢山浴びることが効果を上げる秘訣です。光は運動とともに鬱状態改善のキーワードです。

from ロクスケ













































ベジタリアンは長生き!?


最近は日本でも海外でも、食べ物、特に牛肉や鶏肉が危険だとされる風潮にあるようです。狂牛病、鳥インフルエンザなどと続いたので、「ベジタリアンになろうかしら?」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ほとんど肉なしの食生活は寿命を約3年半長くする、ということが”American Journal Of Clinical Nutrition”の6つの研究の結果により報告されています。ただ、これの
結果を出すためには最低でもベジタリアン生活を20年続けなくてはいけないそうです。長くベジタリアン生活をしようと考えている人は、充分な蛋白質と鉄分を取るように気をつけましょう。豆腐などの大豆製品やその他の豆類、栄養強化されたパンやシリアルなどを意識して取るようにすると良いでしょう。

by Bunny_Lab


和食が塩分さえ控えれば理想的な健康食だと言われています。和食は、長い間四つ足を食べない習慣があり、どちらかと言えば菜食に近いですが、むろん魚は食べるのですから完全菜食ではありません。ただ、一般庶民にすれば魚は高いので勢い菜食にならざるを得ず、それが現在も和食の基本になっている訳です。

ただし、日本でも長寿県の沖縄は小魚や豚肉を非常に沢山食べます。元々人間は雑食性であり、植物性も動物性も食べ消化吸収出来る体になっていますので、完全菜食が長寿の条件ではないと言われても居ます。Bunnyさんがいうように、殆ど肉なし、ということで完全に肉を排除するということではないようです。

菜食に重点を置くか肉食に重点を置くかを選択するなら、菜食の方が長寿健康を得られるのは疑いありません。ただし、全く動物性を摂らないのは却って良くないとも言われています。

from ロクスケ













































僕の現状


 今日もデイケアでした。いやはや、今日は帰りの電車で不覚にも居眠りをして木更津まで行ってしまった・・・。手持ちのお金も交通費ぎりぎりしかなくて、結果としてどこにも寄り道するわけでもなく、千葉駅に直行して電車に乗って帰ってきたというのに。どうも、昨今の「遅寝早起き」(3時に寝て5時半には起きてしまうようなことがよくあるので。)のせいかもしれないなぁ。

 ぼくは、よく自分の観察をしている。すると、いろんな部分が見えてきて、なんだか面白い。最近、特に自分の特異な部分がわかるようになってきたふうに思うのね。たとえば、時間に無頓着だし手元しか見ていない僕だから、デイケアの通所時間ぎりぎりになるまでパソコンをやってて、身支度に時間がかかるから、おろおろしていて、家を飛び出していっても、バスに一歩及ばず、しかたがないから1時間後のバスに乗って行ったり、徒歩で最寄駅まで行って、高運賃で名高いK鉄道に乗っていく羽目になったりしてるし、休みになれば、日ながパソコンに向かってるんだけど、パソコンをやってる最中だって、思い立てばはんだ付けが始まったり、粘土を取り出して何か作り始めたり、TVを見始めちゃったりしてる。台所に行ってアイスを食べてみたりもして、ほんとに気が散り放題といった感じ。まさにADHDの本領発揮なのです。
 
 でも、そうかといえば、立体物の造形に興味を示し始めて、それがまた何とか形になっちゃうのも発見だよね。こちらは過集中とアスペルガーのこだわりの成せる業だと思うなぁ。

 ここしばらく―というか、約1年もの間、障害年金の請求に時間やお金、情熱までも注ぎ込んできたけれど、3度の審査の結果はすべからく却下になっちゃった。ぜーんぶダメ。なんだか、心底疲れちゃったんです。年金のことばかりにかまけてたから、やるべきこと、というかやっておきたいことが疎かになってしまっていたように思います。年金のことは、自分の生活が切羽詰ってるからいずれまたやらなきゃいけないと思うけど、今はとりあえず忘れることにして、自分探しの旅にまた戻ろうと思います。
 
 僕の周りでは、社会復帰の可能性とかが語られているけど、今の僕にはまだ無理だから、ゆっくりあせらずに、でも前向きに考えなくちゃいけないと考えています。

 僕がデイケアにいくことが時間とお金の浪費だという意見もありますけど、僕自身、デイケアへの通所には満足しています。
 
 家にいるとどうしてもセルフエスティームは悪いほうに向かってしまうので、よく言えば訓練のため、悪い言い方をすれば、家での不整合を避けるシェルターになっています。
 
 作業や行事の中で自分のいい点を見つけ出したり、対人関係を訓練したりしています。 
 周りから見れば道楽し放題のように見えるかもしれませんけど、陶芸の作業をしてみて、立体物の造形をすることが僕の特性に合っていることを見つけ出すことができましたし、アスペルガーとしてのこだわりの部分を満足させることができています。ただ、発達障害なりの訓練という面からみればまだまだ不十分です。回避性人格障害ともいわれている僕のことですから、会社恐怖や対人恐怖があり、フラッシュバックも伴うので社会復帰には時間がかかりそうです。
 
 とはいえ、主治医からも言われているのですけど、とりあえずはあせらず落ち着いてというのが今の僕に求められているスタンスです。

 今、この原稿はデイケアの帰り道のバス停でバス待ちしながら書いています。僕の文章はまったく脈絡もないところがあって、読んでくださる方には、恐縮しだいもありません…。

 アスペルガー+ADHD混合タイプのσ(⌒▽⌒;) ボクですのでそこのところはご勘弁願いますね。m(_ _;)m ゴメン!!

By むーんらいず(むん)




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悩みの解決法としての方法



 最近、自分を元気つける為に、昔読んだ、デールカーネギー著の「道は開ける」を読み直しています。悩みの解決法について書いてありました。
 
 その方法は、まず、悩んでいる事柄を詳しく書き出す。そして、それについて自分ができることは何かを考える。その後、どうするかを決断し、実行する。というものです。なるほど。と思いました。
 
 私は、3月に信頼している人に少しだまされ、わずかな貯金(でも、これが私の全ての蓄え)を失い、家計が赤になる損失を被りました。4月はまだカードの請求がドカンと来なかったのでしのげました。5月悶々と悩んでいました。
 
 で、ずっと前に自分がADHDだって知ったときに、読んだ本を読み返して、悩みの解決法を実行しようと思いました。時給は安いですが、週末、中華料理店でウエイトレスのバイトをすることになりました。でも、凹んで、そう実行するのに、1ヶ月以上もかかりました。
 
 悩んでいる事柄を詳しく書き出すと、案外そんなに大きな問題として捕らえなくても良いかもしれないぞ。この悩みを解決できたら、自分の自信にも繋がるぞ。がんばろう。実行しよう。そんな気になってきます。そして、心が軽くなります。実行することお勧めします。
 
 過去の失敗、未来への不安に囚われている自分
 
 色々なことを考えていて、悶々をとしている自分を考えてみると、そういう考えていることは、過去に起きたもう変える事の出来ないことに後悔して凹んでいたり、まだ起きていない未来に不安を抱いて凹んでいたり、そんな感じです。
 
 過去は変える事ができないので、過去での失敗を起こさないよう自分を鍛える、未来はそうならないよう、準備する。そのために、今をちゃんと生きることに専念すべきなんですよね。そして、こうやって前向きなことを書いていると、元気が沸いてきます。自分を凹ませるのも、元気にさせるのも、自分次第。実感してきます。
 
by ナオニャム



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言葉考 無駄な言葉が多すぎる


 メルマガ 61号、ロクスケさんの「言葉による意志の疎通」を読んでいて僕の場合はまた別な観点から感じるのもがありました。

 乱暴で、文法破綻の日本語ではなく、丁寧で必要にして十分ではあるが、その場にそぐわない不自然な表現が多すぎる気がします。居酒屋などで必要以上に声をはりあげ「いらっしゃいませ」と言う。いっせいにこちらを見て礼をする。注文のために声をかけたら「はい、よろこんで」とこれまた力んだ声ですっとんでくる。
 
 友人と人生の微妙な問題について歓談しながらちびちび酒でも飲もうと思ってはいったのに、店員の声が大きすぎて相手の声が聞こえない、客も声を張り上げる。こいらも負けじと声をはりあげ、店内はまるで新宿の駅前でやっているロックのライブ会場みたいになってくる。こんな店では落ち着いて飲めない。
 
 なかには古本屋で同様の店もあり、ゆっくり品定めしたいのに「いらっしゃいませ」これでは万引きを心配して客の監視でもしているのかと思ってしまう。おまけに店内は昼間でもこうこうと照明をつけまぶしくて目がくらみそうな明るさ、立ち読みは許さないぞ、はやくブツを持ってレジに行けといわんばかりの雰囲気。
 
 テレビなどでも映像と音声で事件の内容を十分表現しているのに、なおかつテロップを流して文字でうるさいほど強調する。もうそういった番組ばかりなので、なれてしまったが、やはり不自然。
 
 外食系のフランチャイズ店などはマニュアルが完璧にできあがっていて、「いらっしゃいませ。お飲物は何になさいますか?」「店内でおめしあがりですか?お持ち帰りですか?」「はい、○○○一つお願いします。お会計○○○円になります。」などと次に言う言葉がすべて決まっている。
 
 この流れからは「ユミちゃん最近きれいになったね。だれかいい人でもできたんじゃない?」「まあmoguさんだってちょっとおやせになっていい男になったみたい」などという会話がはいりこむ隙間はまるでない。
 
 それは冗談ですが、西洋風プラグマティズム、効率第一主義に汚染された日本文化は、かつての芭蕉の時代につちかわれた”わびさび”のおくゆかしさを失ってしまった。いわなくてもいいことは言わないでおく、言外の意味を想像させる表現、行間の意味の読める読者が極端に減ってしまった。
 
 だからなんでもかでも描写する、説明する。そこには間とか沈黙とかはない。俳句や短歌の精神は日本画にも端的に現れていて、墨絵のあの余白は塗り残しではない。縦長の掛け軸一枚があったとして、右上の空間に藤の花がかいてあれば、左下はたいてい何も描かずに白く残す。あるいはそこに落款を押す。これは空間の広がりと描かれた対象物の重さのバランスをとるための余白で、これがないと息苦しくなってしまう。
 
 これが西洋絵画なら、その余白に、奥に伸びる透視図法のラインと遠景にある家や山を、それらしく描き込む。全体がひとつの三次元空間を切り取ったものになってしまう。物と物との関係は数学的に割り出され、空間は測られる。その視点から見える物すべては関連づけられ、説明されつくす。しかし、これはうまくやらないと混乱をまねく。
 
 西洋の油絵でも下手な画家が描いたものは、ごてごて塗って描き込んで、これでもかという押しつけがましさを感じるだけだ。こういった画家は空間認識があまく。描写技術が稚拙なため、見える物すべてを画面に描き込もうとし、主題と副題との強弱、近景と遠景の対比をつけられず、すべてを同じ強さで描き込み、その結果破綻する。
 
 新宿のアルタ前交差点の雑踏になってしまう。言葉でも同じことが言える。なんでもかでも言おうとすると、一番大事なことが伝わらない。枝葉末節をそぎ落とし、残ったエッセンスに自分の感情をのっけて発言すれば、伝わるんじゃないか。そう思う。いずれにせよ訓練ですね。
 
by mogurin


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AD/HDをもつ母親のAD/HD児の子育てについて


 私は、自分がADHD児の母親でもありましたから、子どもたちが落ち着けるように自分で考え、工夫しました。もちろん、その為にたくさんの本を読みました。最終的には子育ては母親の腕にかかっているといっていいと思います。子育ての専門家は母親だと思います。もちろん、医学的なことは医者が増えればそれに越したことはないでしょう。でも、子どもの発達障害を扱う医者は確実に増えています。

  人からアドヴァイスを受けることも大切ですが、やはりケースバイケースです。自分の頭で考えて実践する教育というものは、軽度発達障害を持つ子どもの親にとっては、課せられた使命だと思います。

  例えば、私は子どもたちが右左がわからなかったり、セルフエスティームが低下することを防ぐために、何か他の人にできないことをやらせようと思いました。そして、ヴァイオリンを保育園から中学の半ばまでやりました。ヴァイオリンは左右の動きが違う楽器です。次男は、間違えて持つと音が違うのですぐ間違いに気づくことができ、右と左の概念がわかると、すべての右左の区別がつくようになりました。また、ヴァイオリンという楽器が弾けるというのは、結構都会の真ん中に住んでいても珍しく、学校の音楽の時間に特別に弾かされたり、道端で会った級友に「弾いて」と言われて、道端で弾いたりとそれはおもしろいことでした。また、小さいころから始めたので非常に音感がよいのです。彼らの心には、これは他の人よりすごいぞ、という確信がもてたようです。ですから、劣等感は持っていません。今、子どもは「俺に子どもができてADHDだったら、おかあの教育方針を俺も真似するぜ」と言ってくれます。

  音楽によるADHDとLD併存児に対する療法例として、このことは昔に日本音楽療法学会でも学会発表致しました。まだ当時はADHDやLDについての見識も浅い時代でしたが、 先駆けて私が発表し、今はそういう事例を重点事項として募集する段階になっています。

 私はずっと働いてきましたが、子どもをちゃんと育てることを第一に考えて勤めてきたので、今まで昇進試験も一切受けずに来ました。

  でも、子どもたちも高校生になり、もう私をいたわってくれる歳になりましたので、やっと自分の人生を生きれるようになりました。 また、役人だからあるいは頭が固いから理解できないのではないのです。まだ社会自体が、軽度発達障害について関心が低すぎます。そういう意味で、まだ社会的に成熟していないものでもあります。 しかし、教師の中には多くの非常に熱心な先生方がいます。私は、教師を中心とした東京LD教育研究会という会を立ち上げました。その中で、たくさんの熱心な教師の方々と知り合いになりました。これは、とても心強いことです。研修会も200人規模のものになることがあります。その中で、いろいろと教室の子どものことで悩んだり、親との関係で悩んだりする教師と出会うことがあります。私も、親として、またLD教育士としてそういう議論に参加しています。 私も、役人として是非この資格と知識を有効活用して欲しいと人事には頼んでいますが、今年の異動はむずかしい仕事が残されていたのでかないませんでした。 役人がすべて無能ということはありません。19年度までに、特別支援教育を各自治体で実現しなくてはならないことになっています。この間滋賀県の甲西町の教育指導主事さんの講演を聞きましたが、厚生労働省の見解に先駆けて縦割り行政を改革、サスペクトの子どもを乳児期から自立するまでサポートするシステムを作ったと言うことでした。こういうことができる人は、確かに少ないかもしれません。相当なパワーが要ります。でも、やろう!と言う人はいるのです。

  どうかすべて役人や教師が悪いと思わないでください。親にも改革するためのパワーや知識が必要なんです。また、当事者がどんどんと社会に発信していく必要性を私は感じております。少なくとも、社会で有意味に軽度発達障害が認められるように働きかけることは、当事者やその親にしかできません。国がいくら音頭をとろうが、国民の熱意に勝るものはないはずです。

 by MUSICA


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マスコミのイメージ作り



 昨日は日本テレビでモーツァルトに関する番組をやっていました。それを見て少々言いたいことができたので、書いておきます。
 
 僕はモーツァルト大好きで、レクイエム、フィガロの結婚、ピアノ協奏曲、クラリネット協奏曲などなど時々聞いています。番組ではモーツァルトの神童、天才ぶりをことさらに持ち上げていました。
 
 彼が、天才であることは万人が認めるところですが、一度聞いたポリフォニーの楽曲を正確に再現したとか、生涯六百数十曲の譜面を書き残したとか、妻と談笑しながら作曲したとか、曲想に1/fゆらぎがあるとか、譜面に書き残しの跡がほとんどなく、一気に書き上げたとか、彼の曲は自閉症児の治療に使われているとか、トマトを甘くしたり、乳牛の乳の出をよくするために使われているとか、音楽性とはまるで関係のないところばかりを番組では取り上げていました。
 
 本質的に重要な部分でなく、枝葉末節にこだわっているんです。マスコミというのは、いつも物事をそういったふうに解釈するものだと思いました。いともやすやすと、一気呵成に作り上げるほうが、苦しみながら修正に修正を重ねてつくりあげるより、かっこいいではありませんか。
 
 後者の例としてベートーベンの譜面が紹介されていましたが、その取り上げ方は見ていて少々腹が立ちました。世間というのは、どうしてこうも、神童や天才が好きなんですかね。ああいったものは大道芸や見せ物と同じで、人を驚かせはしても感動はさせないんです。芸術作品はその作品そのもので判断するべきで、作品が作られた経過や作者の私生活などどうでもいいと思います。作品自体がくだらなかったら、どうしようもない。
 
 テレビには○○の達人とか天才□□とか、しょっちゅう出てきますが、そういった目新しい芸をする人間、タレントを消費しつつ視聴率を稼いでいるメディアなんだから、これはテレビの宿命なんでしょうか。マスコミはそういった突出した部分、エキセントリックな箇所だけをことさらに取り上げ、全体がそうであるかのように断定するのが常ですが、対象が巨大なもの、難解なものである場合には、群盲ゾウをなでるの結果になるのがオチです。
 
 今、思い出したんですが、台の上に積み上げられたモーツァルトの譜面、25000枚ほどあったでしょうか。一日8時間労働で、1人の人がただ譜面をそっくり書き写したとして28年間かかります。1人の人間のできる仕事の限界に近いと芸大の教授が言っていました。
 
 しかし、バッハの曲はBWV(バッハ作品番号)で千数十番まであります。バッハのほうが長生きしたとはいえ曲数からしたらモーツァルトを上回っています。同時代のヘンデルも多作な作曲家ですが、なんとテレマンという作曲家はヘンデルとバッハの曲をあわせたよりも多くの曲を残しています。つまり数だけだとモーツァルトの数倍か?いったいどうやって作曲したんでしょうかね、ベッドの上でもトイレの中でも作曲したんでしょうか。謎です。
 
 モーツァルトが妻と世間話をしながら、何の不都合も感じずに作曲を続けたというエピソードで思い出したのは、フランドルの画家ルーベンス。彼は手紙の口述筆記をしながらキャンバスに向かう手を一時も休めなかったし、ダンテの詩を朗読させたりもして同時に複数の仕事をこなした、と史実にあります。
 
 これは言語脳の左脳とイメージ脳の右脳が完全に独立分化して働いていたせいではないだろうか。古今の天才的人物は一般人と脳の使い方が違うのではと思われます。
 
 ちなみに僕は全然ダメで、絵を描いているときは言葉が出てこない、文字が書けない。突然電話がかかってきてもまともな受け答えができない。これは右脳が左脳の働きを抑制しているせいではないか、脳のキャパシティがもともとあんまり多くなくて、その少ないメモリーでいろんな仕事をこなそうとするから無理が出る。そして時々フリーズもします。

 by mogurin 



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障害を持っているという甘え



 先日、こんな光景に出会いました。それは、駅のホームへ降りるエスカレーターに乗っているときに、誰かがホームで「すいませーん!」と叫んでいるのが聞こえました。何事か!とパタパタ降りていくと、他にも何事か!と声の主に近づいていっている人たちがました。

 声の主は、目の不自由な方で電車の乗り口がわからなかったので、それを教えてもらうために、大声で「すいませーん!」と言ってました。で、彼は近寄ってきた人達に誘導されながら大きな声で「もう!誰も助けてくれないんだから!なにやっているんだよ!」と愚痴っているではありませんか。

 そばに彼を誘導してくれる人がいなかったので、ちょっと時間がかかったし、せりもあって愚痴ってしまったのかもしれない。でも、私はその光景を見て、ちょっとどきっとしました。彼は、目が見えないという障害を持っていて、今回の愚痴は助けてもらって当然という甘えから出たもの?と私の心に思い浮かびました。

 自分もADHDを抱えています。障害を持っています。目の見えない彼の場合は本当に助けが必要な場合が多いと思います。ただ、助けてもらって当然という感覚はちょっと違うと感じました。手を貸してもらったらやっぱり、感謝しなくちゃいけないんじゃないかと感じました。

 私にも「ADHDなんだから、助けてもらって甘えちゃえ!」ということをして良いとき悪いときあるはずです。そして感謝しなくちゃいけません。

 こんな例と私のADHDのことを同じにするなんてと感じる人もいると思います。ただ、私は、障害を持っている。ということで助けてもらって当然という考えから生じる甘えは自分を成長させないな。と感じました。

by ナオニャム


 わたしも、このような甘えというか権利意識はいやですね。何か卑しい。というより、障害の有無によらず人間は人の助けが要ります。人を助け、人に助けられるのは当たり前なんで、ここに描かれている人はちょっと違うなぁと言う気がします。
 
 もちろん、目が見えず、そのために人の助けを要するのは当たり前であり、またそのような人に手を貸すのも当たり前です。もっと当たり前に、無意識にやれないかと思う次第です。
 
 ちょっと思い出しました。いぜん、車いすの人が駅の段差を乗り越えられず駅には入れないのを見ました。少し遠回りをすればスロープがあるのですが、おそらくその人はそのくらいの段差は乗り越えられると思ったのか。いずれにせよ、わたしはそれに気づいてその人の車いすを押し、段差を乗り越えさせました。その人はわたしに会釈をしただけでそのまま行きましたが、非常に自然でさわやかな感じがしました。
 
 時々そのような経験はありますが、あまり大げさにお礼を言われると却って恐縮してしまいます。逆に何かの関係でナオニャムさんの見たケースのようにすぐに周りの人が手を貸せない場合に、愚痴を言われるのもそれ以上にしらけてしまうでしょう。わたしはそのようなケースは経験していませんが。
 
 もっと自然に、本人も周りの人も無意識にやれるのが一番良いのではないかと思います。
 
from ロクスケ



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酢豆腐


 今年は記録更新の猛暑で、更にもうすこし暑い日は続くでしょうね。

 みなさん、ばててませんか?わたしは、かなりばてましたね。暑いとどうしても食べ物が傷みやすく、よほど注意しないと食中毒の危険があります。そこで、食中毒に関してクイズ

 ここに魚が二切れ在って、一方は色も変わり臭く、触るとぶよぶよして糸を引く。つまり、明らかに腐っている。もう片方は、多少乾燥しているが、色もあまり変わらず、匂いもせず、触ってもしっかりしている。

 食べるとしたらどちらを食べますか。答えは最後に。
 
 さて、タイトル酢豆腐とは落語にあるはなしで、食通ぶる若旦那を町内の若いもん達がからかい、腐った豆腐を珍味の酢豆腐だと言って、若旦那に食わせる話。

 じつは、私も先日冷や奴で一杯やろうと思って豆腐を買ってきたのですが、食べる段になって冷蔵庫の中に無いんです。それからずっと探したんですがとうとう見つからずどうしたんだろうと思っていたら、2,3日後に作業場の道具棚に袋ごと置いてあるのを見つけました。猛暑の中で2,3日放って置いたんですが、パック豆腐だからハエも湧かないし匂いも漏れません。でも、明らかにふくらんでいます。開けてみたら目を突くにおいで、酢豆腐を食べてみようかと思わないでもなかったけれど、結局捨てました。

 ところで、腐敗と発酵(熟成)は同じ現象で、人間に有用な現象を発酵と言い、有害なものを腐敗と言います。煮た大豆が糸を引く状態になれば日本人は発酵食品と考えますが、西欧人は腐った豆なのですてるでしょう。

 ステーキ用の肉は、欧米ではウジが湧くくらいまで熟成させてから焼きます。日本ではとにかく新鮮なものを喜ぶ風潮から、ウジの湧いた肉などをレストランで出せば間違いなく営業停止です。むろん、日本でもちゃんとしたレストランでは、肉は熟成させます。

 有機物は通常微生物により分解されますが、ある微生物が最初に繁殖を始めると他の微生物を寄せ付けないための阻害物質を出します。ヨーグルトの乳酸菌による乳酸、酒の酵母によるアルコール、酢の酢酸、青カビのペニシリンなどがそれに当たります。これを利用して人間は発酵食品や医薬品などを作っているわけです。

 一方食中毒菌というのがあり、サルモネラ菌やボツリヌス菌などが代表的ですが、これらも毒成分を出し他の微生物の繁殖を防ぎます。ただし、この毒成分は人間も命に関わる猛毒です。

 それで、最初に腐敗菌(発酵菌)が繁殖を始めると、食中毒菌は繁殖出来ず、したがって致死性の毒はできません。ところが、食中毒菌が最初に繁殖すると、猛毒が生成されしかも腐敗菌は繁殖せず、つまり、腐敗(発酵)はおきません。

 だから、腐敗した食品には致死性の猛毒はなく、危険がないと言える理屈です。ちなみに、上記の酢豆腐は毒性がないものと考えられます。現実に沖縄には豆腐養という豆腐を泡盛などにつけ込んで発酵させた食品がありますし、中国には猛烈に臭い、豆腐に黒カビを生やした腐乳という食品があります。

 ただし、腐敗したものがすべて安全だというわけではないので、けっきょく怪しいものは食べないのが一番安心だと言うことで、一見腐っていないものでも安心は出来ないと言いたい訳です。夏場は気をつけましょう。いや、冬場も怪しいものは食べないようにしましょう。特に魚介類や卵の腐ったものはまず生死に関わると考えた方がよいでしょう。

 わたしの子供の頃は冷蔵庫など無く、炊いたご飯が余った場合夏場など糸を引いて酸っぱくなることがありました。今ではそのようなご飯は捨ててしまうでしょうけれど、昔は水で洗っておじやなどにして食べました。そのようなご飯が毒にならないことは経験的に知っていたわけです。だいたい、なれ鮨はご飯の乳酸発酵を利用して魚を保存しているのですし。

 世界には知らない人から見れば腐っているとしか思えない食品がたくさんあります。発酵させたニシンの缶詰、シュールストレミングはガスで缶がふくらんでいて、室内では開けるなと言われますし、実際いたたまれない匂いがするそうです。クサヤをヨーロッパのホテルに持ち込んで焼いて、ホテルから追い出された日本人が居ます。

 さて、クイズの答。理屈の上では、明らかに腐っている方を食べる方がまだ安全です。でも、私が保証するわけではないので、自分の責任で決めて下さい。現実に、発酵食品であるなれ鮨で食中毒が発生したケースがあります。

 さらに、食中毒は個人の免疫力の違いによって発症したりしなかったりするので、健康な大人が毒味をしてみて大丈夫だったから子供や高齢者、病人に食べさせるというのは間違いです。下手をすればそれらの食品で免疫力の弱い人が中るかもしれません。
 
 また、少々傷んでいても加熱すれば大丈夫というのも間違いで、加熱により確かに微生物は死にますがそれらが生成した毒は残っているのでやはり食中毒の危険はのこります。
 
   
by ロクスケ



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仕事に過集中


 私が今の仕事に着任したのは、昨年12月末である。それから、手当たりしだい本を読みまくった。たった一冊出ている「支給基準」と言う本は、大事な部分をコピーして家に持ち帰り、家でもなんどもなんども読んだ。それで、12月の段階で「これは違法だ!!」というのを発見して、早速係長と協議、課長の許可をもらって、自主返還依頼をした。相手も相当抵抗したらしいが、所属している会の会長さんらが説得して、結局お返しいただいた。今、同じ件で、N市が返戻依頼をしたところ、再審査請求を出されたという。こんなものは、元から違法なので「再審査請求しても通るわけがない」N市はどうやって、返還請求したのかなあと思った。まあ、でも再審査請求でも蹴られるだろうから、結局N市には返還されることになるのだろうが・・・。

 2月になって、前々から「あやしいゾ」と思っていた業者がしっぽを出してきた。私は、これぞ!とワシっとつかんで、「不支給決定」を出し、「調査後に支給する旨」を伝えた。しかも、その月は他の業者も悪事を働いていることを係長が指摘し、「これも払えないわよ!」と強く言われたので、2箇所止めた。決定したのは2月末。3月になって弁護士が来た。何回か弁護士を含んだり、当事者だけと話し合いをしたが、悪いやつは本当に「うそ八百」述べるものだ。この間いったものと、次に言うことが全然違っていたりする。

 結局、話は平行線に終わり、うちは独自で調査を行い、支給決定した。なんと1/3と言う金額になった。今まで、何年も、うそ八百で、何千マンも払ってきた。とうぜん、自主返還も求めている。

 しかし、悪いやつは悪い。さっさと、廃業してしまった。そしてその6日後には、名前をかえてリニューアルオープンときたもんだ。

 本当にあくどい。もう一つ止めているところも、請求金額の根拠となる資料を請求したところ、全く払えるものがでてこかった。

 こんな、仕事はしたくない。どうして、自治体から搾取して儲けようとする業者が多いのだろう。今まで管理を怠っていた自治体も悪い。最近、各方面で問題になっている。

by MUSICA



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うちの猫



 私の同居人の猫のはなしです。

 最近彼女の餌が変わりました。それが異常においしいらしく、すぐにたいらげ、もっと頂戴とおねだりをしてきます。朝、寝ぼけていつも餌をあげているので、最初の数日、あれ?さっきあげた気が。。。と思いつつ空いたお皿に1日分の食事を与えてしまってました。つまり結構な間、いつもの倍の量の餌をあげてしまっていたのです。

 最近その量になれてしまった彼女は、すぐにたいらげてしまいます。すぐにおねだりをしてきます。ごめんね。。。と思いつつだんだん少ない量の餌を与えてます。多分倍の量をもらえてたのに、どうして?と彼女は思っているはず。
 
 でも、彼女の健康管理をしないといけないのは私です。心を鬼にして、通常の量からちょっと多めにあげて、あげる量を今までの量にだんだん近づけてだんだん彼女の胃を小さくしていこうと思っています。現に今、少し前より丸くなってきた。。。

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「博士の愛した数式」を読んで

 最近小川洋子作の「博士の愛した数式」を読みました。読み終えた後、少し切ないけど心が温かくなる話でした。

 この話に出てくる博士の記憶は80分しか持ちません。交通事故にあって脳の損傷を受け、そうなってしまいました。彼は毎朝、「僕の記憶は80分しかもたない」という自筆のメモを見て、悩んでショックを受けます。これが彼の日課です。(彼にとっては毎回初めての体験だけど)

 一概に脳の障害といっても色々あります。自分も脳に障害があるけど、みんなそれぞれなんだよなぁ。私も「ケアレスミスが多い。どうしてこうなる?」と、会社で私がADHDということを知らない上司や同僚に攻められる度につらいけれど、博士の毎朝もつらいよなぁ。と思いました。

by ナオニャム



ネコについて: ペットを飼うのは大変な事です。何しろ一つの命を守ってやらねばならず、ペットはすべてを飼い主に依存しているのですから、その飼い主ペットに対する関心を失ったりすれば、ペットは死ぬしかありません。
 ADHDの場合、どうしても何かを管理したり関心を保つことが苦手と言われていますが、ナオニャムさんのように愛情を注いでいれば大丈夫でしょう。結局、仕事にも私生活にもある意味で愛情、すなわち興味を持ち続けることで、かなり改善出来ると思うのですが。
 
 わたし自身はネコと会話が出来るほどネコ好きですが、それでもネコを飼う自信がありません。子供の頃、家では一時ネコを7匹飼っていましたが、責任を持てたと思えないからです。
 
 
記憶について: 病気や事故などで海馬中枢を破壊されて長期の記憶が出来なくなる人が居ます。人によるでしょうが、大体数秒から数十分以上記憶を保つことが出来ません。その場合、生活のすべてをメモとアラームに頼って生きてゆくことになり、また仕事も体で憶える事に限るようです。
 
 わたし自身、数秒どころか一瞬前の記憶も失われることがあり、そのための失敗は数限りなくあります。それを防ぐためにやはりメモとアラームを使っています。幸いなことに、一度記憶したことを保つのは結構大丈夫で、年の割には記憶力はあるかと思っていますが、基本は最初の数秒の記憶です。やはり、メモとアラームが欠かせません。
 
 私が肌身離さず持っているメモパッドには折々に触れてのメモが書き込んであり、別に持っている一覧表には今日一日かけなければならない電話、払わなければならないお金、買わなければならないもの、そしてやらなければならない作業が事細かに書いてあります。
 
 それを確認しながらやらないと、必ずと言っていいほどやり残しが出てきます。また、簡単な時間も書いてあるので、かなり時間管理も出来ます。
 
 わたし自身海馬自身は大丈夫なようですが、海馬に取り込まれる過程に問題があるようで、つまりは前頭葉の機能なのでしょう。メモを活かすことでかなり改善されていると思います。
 
 
from ロクスケ



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スィッチ


 ナニゴトにもスタートが遅い。どうしてぎりぎりになるまでやらないの。だから間に合わないのよ。…というのは、子供の頃から言われ続け、もはや慣れてしまったに近い言葉である。

 今でも、〆切間際にならないと、取りかかれない事というのはたくさんある。それを、自分なりに考えてみると、どうやら、スイッチがオンになるまでに、ある一定の条件を満たさないといけないらしいことに気がついた。

 〆切が迫ってくる。あるいは、まだ取りかかっていないことに対して、注意を受ける。そうすると、何かせり上がってくるようなものを感じて、自分の器の中が…自分の内側にある受け皿の中が、それは、焦りなのか憤りなのか後悔なのか、ともかく感情の高ぶりで満たされていく。それが臨界に達して溢れだしたとき、一気にスイッチが入る。カイロが繋がるといっても良い。そうなると、早い。まるで、アナログのダイヤルアップが光ファイバーになったかのように、自分の中のアイディアや思考がきちんと形をなすためのカイロへ流れていくのだ。だから、なんとか〆切までに仕事が上がる。それも短期的に過集中になるためか、時間をかけていじくったものよりもずっと良いものが出来上がったりする。

 まるで、火山のようなものだ。脳の中に火山があって、マグマが臨界点に達したら一気に噴火する。それ以外は至って静かで…眠っているのか?と勘違いされるのも、似ているかも知れない。

 仕上がれば、大した文句も言われないのだが…いかんせん、もっと早く取りかかればいいのに、もっと丁寧に時間をかけてやれば、もっと良いものが作れるはず、と思われ、口にされると辛い。それが出来ていれば、最初からやっている…と反論はあえてしないけれど。それでも時には言いたくなることもある。それが出来たら苦労はしないんです。だから、悩んでいるのですよ、ADD/ADHDは。
 
 
by 小町





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最近出会った奇妙な服装の人々

 私は2,3ヶ月に1度の割合で駅のホームで奇妙な服装の人に出会う。きっと、ただの奇妙な人に出会う確立はもっと高いとおもう。でも、今回は奇妙な服装の人に焦点を絞ります。
 
 つい先週であった奇妙な服装の人は、坊主頭に50cm位の長さの口ひげを携えた若者。多分二十歳前半の人です。彼は普通に駅のホームに立っていて、黒っぽいしわしわのジャケットに白いTシャツと黒いズボンでした。とてもやせていて、ちょっと仙人もどき見たいでした。その前に出会ったのは、おさげをした中高年サラリーマン。白髪の混じったおさげで普通にスーツ着て駅のホームを歩いていきました。
 
 そういえば、今年の始めに、赤いロリータの服装をした野村サッチー似にも出会いました。ちっとも似合ってなくて、携帯で話しながらタバコを吸っていました。あー、なんか口臭そう・・・。と勝手に思いました。
 
 たまにバスの中で会う女子高生もものすごいヤマンバ化粧で、髪の毛を金髪に染めていて、眉毛も金髪に染めているので、一瞬、眉が無くてとても怖いお顔です。
 
 こうしてみると自分がとってもまともに感じます。変な優越感。次回はどんな変な人に出会えるか楽しみです。
 
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パキシルが切れて・・・。

 パキシルを止めましょうということで2週間ほど過ぎて、禁断症状のめまいもなくなってきたつい最近、私は些細なことでパニックを起こしてしまいました。なのでパキシル復活です。今日はパキシル飲み直し始めて4日目です。なんとなく落ち着いてきた気がします。やっぱり私にはパキシルがまだ必要のようです。

 あせらず、ゆっくり直していきたいです。
 
by ナオニャム



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You are what you eatの真相



 You are what you eat、あなたはあなたが食べているものである、というのはよく聞く言葉です。脂肪の多い揚げ物や砂糖が多いお菓子を食べ過ぎれば、肥満になったり、糖尿病になったりする、というのは現在では誰でもが知っている知識です。

 しかし、健康以外のことでわたしたちはわたしたちの食べているものに影響を受けているのでしょうか?

 生活習慣病などの病気だけではなく、イギリスで行われた調査では、新鮮な果物や野菜を食べている中流階級以上の人々の平均寿命は新鮮な食物を買うことの出来ない貧困層の人々に比べて、なんと平均で20年も違っていることが判明したそうです。

 また、イギリスでかつて魔女狩りが行われた場所を調査している大学教授は、魔女狩りが行われた場所、魔女と言われていた狼にとりつかれたといわれていた人々の住んでいた場所共々が海に近いまたは低地の湿度が高い場所であったことを発見しました。魔女は実は湿度が高かったためにパンに発生したあるカビが人々に妄想や幻を見せたために起きてしまった悲劇だったというのです。

 アメリカでは、非行少年の食生活、栄養、行動を調査した結果、ある特定の栄養分が不足していたために暴力的な行動に出るケースが発生していることが報告されています。

 わたしたちが食物に影響されているということは少なくとも真実だといえるでしょう。食物はわたしたちの命を作っているものです。ですから食事をとる時は「いただきます」食事を終えたときは「ごちそうさま」という気持ちをいつも忘れずにしていきたいものです。

by Bunny_Lab


 低所得者の寿命が短い理由に、喫煙率が高い、飲酒量が多い、肥満が多いことも挙げられています。新鮮野菜や果物の件もあるでしょうけれど、それだけではありません。それと、低所得者層は健康管理をせず、高所得者、高学歴者ほど、運動や食事に気をつけ、体重管理をし、医師にも必要に応じてかかります。そして、低所得、低学歴層では犯罪や事故による死亡率も高いですし。

 統計は正しいでしょうけれど、食物ばかりが原因ではなく、あらゆる要素を加味して考えなければいけないでしょうね。
 
from ロクスケ



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ビジネスマンのリラックス空間


仕事で新幹線によく乗ります。普通の電車とは違う光景がそこにはあって、大変面白いです。座席の形状がそうさせるのか、隣の席には知らない人が座っているにも拘わらず、プライベートな行為が繰り広げられます。

特に、私が出張に出かける午前中の早い時間は、多くのビジネスパーソンが同じく出張に出かけるので、男性も女性もスーツ姿の人が多いのですが。

新聞や雑誌を読む人、パソコンを取り出す人、資料を繰り出す人…女性で多いのは、やはり化粧をする人。電車の中などでのお化粧はマナー違反、見苦しいといわれますが、新幹線の中では、鏡をテーブルの上に置き、しっかりメイクを始める人も少なくありません。かくいう私もその一人なのですが…

そして、男の人で多いのは18才未満禁止の本を読んでいる人。隣に女性が座っていても、あまり気にしないようです。新聞、雑誌、小説類…きっとご家庭では読む場所がないのでしょうねーと同情しながらも、もう少し、周囲に気を使ってくれても良いのでは、と思うこともしばしば。ヌードや風俗情報を真剣に見入っているサラリマンも、おうちでは家では可愛いお嬢さんがいるんじゃないのかなーと思ってしまいます。


夜の新幹線は、また別の雰囲気。出張帰りに缶ビールは、女性も男性も同じようです。そして、大抵靴を脱いで、眠ってしまう。新幹線には独特のリラックスさせる雰囲気があるようです。他の移動手段には、あんまり見られない光景じゃないでしょうか。


by 小町


旅の恥はかきすてと言いますからね、旅の途中の新幹線も同じなんじゃないでしょうか。飛行機も国内線だとせいぜい2時間くらいですから、同じような雰囲気ですね。昔は汽車に乗るのは大仕事で、半日同じ顔で過ごすことが当たり前でしたし、普通車で夜を過ごすこともありました。そうなると、お互い親近感が湧いて、目の前のだるまストーブでするめを焼きながら差しつ差されつなんて事もありましたよ。

ちなみに当時は蒸気機関車で、冬の暖房は客席の間におかれただるまストーブで、客が石炭をくべていました。今でも寝台車などだと、近くの人が親しくなって浴衣のまま酒盛りをすることもありますが。

海外へ行くときも飛行機に十数時間乗っていると、隣の席の人と親しくなったりしますし、国籍によるかどうか知りませんが人なつっこい連中も結構居ます。まあ、海外と言ってもこの十年以上行ってませんから最近のことは知りませんが。

たしかに、新幹線が出来てから、車内はそれぞれのプライベート空間になったような気がします。

from ロクスケ



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ひょうたんから駒

 最近、いろいろなことがありました。

まずその1

 日刊スポーツに連載をされている、月崎 時央さんというフリーライターの方とお会いして、発達障害の当事者として、取材を受けてきました。

 取材に至る経緯なんですけど、ぼくが月崎さんの本「精神障害者サバイバー物語」を図書館から借りてきて読んで、その裏表紙にMLを発行しておられることを知りました。
んで、ぼくもそれを講読するようになって、それに対する意見をメールで送ったりするようになり、そうしたやりとりの中で、ぼくのほうから、「発達障害について取材してみま
せんか?」と持ちかけたことからなんです。

 そのやりとりから約1ヶ月して、取材依頼があり、10/13に地元で取材を受けました。
取材時間は2,3時間だったかな?とにかく、当事者として今までの自分がどうであったか、障碍を知ったことや、これからの希望はどうか、など、いろいろ話してきました。

その2

 その月崎さんとの取材のあと、時間が空いていたので、どこかで話をしようと言うことになり、市の商工会議所が設けている、パソコンを自由に使える施設があるので、そこで、自分のHPや、発達障害についてのおすすめサイトを紹介したりしていたのですが、話をしているうちに、仕事を手伝ってくれる人が欲しいという話を聞き、ぼくにそれをお願いしてもいいだろうかと打診されました。詳しく話を聞いたら、自分でもできそうだったのでOKする事にしました。

 一応、10/20より仕事に行く予定でいたのですが、打ち合わせと言うことで、10/16から事務所に通っています。デイケアのない、水曜日と土曜日の週2日、市川の事務所に通うことにしました。
 
 仕事の内容としては、取材資料の検索や本の注文、名刺や取材費の整理とパソコン入力、コンピュータ回りの保守などをすることになっていて、フレックスタイムで5時間、今の連載が12月までなので、約2ヶ月半の仕事です。
 
 まあ、そのあとにまた仕事の依頼があればぼくも手伝う予定でいますが。仕事の内容的には、パソコンを使った仕事が多いので、場合によっては、事務所に行かなくても自宅で検索などをしてメールで返す形でもいいということになっていて、ほんとにいい仕事に出会ったという感じです。

 ライターの月崎さんは、メンタルヘルスを専門に執筆されている方なので、ぼくの障碍というか、不都合なところを良く考慮してくれています。仕事の段取りもよく間違えちゃうぼくですけど、それも全部書き出して壁に貼ってくれました。

 実は、ぼくが手伝う以前にも、精神障害者の方が、お手伝いに来ていたことがあるそうですが、パソコンのことが全くわからなくて、パソコン教室のようになってしまったと、苦笑されていました。そんな具合なので、職場恐怖があって、自信を喪失していたぼくが仕事をする気になれた訳なのです。

その3

 これもずいぶん前なのですが、(7月ぐらいだったかな?)地元のミニコミ誌に「みんなと生きる」というコラムがあって、そこには障害者や障害者と共に生活している人の事が掲載されるのですけど、それに投稿していました。その後音沙汰なしだったので、選から漏れたのだなと思っていたら、突然電話があって、写真を撮らせて欲しいのと、原稿を1200字ぐらいにまとめて欲しいと言うことでした。 10/17日にミニコミの編集者の方がみえて、企画の内容説明と、ぼくの写真を撮って行かれました。

ぼくは、ウィズエブリワンという障害者と健常者の交流のためのNPOに入っているのですが、どうやら、ぼくのところに取材が来たのは、その会長さんの紹介だったようです。

by むーんらいず




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わすれ癖

 私は、物を必ずどこかに忘れてくる癖がある。もちろん、AD/HDにより注意散漫で、かつ短期記憶が悪いので仕方がないのだが、子どものころからこの忘れ癖には自分でも本当にほとんど毎日のように苦しんだ。

 学校時代は笛、絵の具、鉛筆、消しゴム、下敷き、ノート、教科書、下手をしたらランドセルを開けると空っぽだったこともある。私の周囲には、常にブラックホールがあちこちに開いていて、物は吸収されてしまうのだと、いい加減なわけを作って自分を正当化していた。今考えると笑ってしまう。

 それで、その忘れ癖が治ったかと言うと、全然である。もちろん経験的に忘れないように注意はするのだが、お風呂で自分用のタオルを必ず干すのだが、よく忘れてそのままにしてしまう。それに、片付けていて、大事なものがなくなってしまって、せっかく片付けたところまでぐちゃぐちゃになってしまう。あれもこれもともって歩くから、かばんは普通の人の倍にはなる。で、絶対持っているのだが、ものがかばんに多すぎるからさがせないという、あほらしさである。
 
 今入院していて、始めはナースたちもわからなから「忘れっぽいわね」くらいだったのが、あまりにも頻回にあちこちに物を忘れてくるのでいまや全員が忘れ物を見つけるといの一番にわたしのところへきて「MUSICAさんの?」と言われてしまう。で、そうだと「ご、ごめんなさい。す、すみませんっ!!」となり、違うと「あーよかった。私のじゃないで〜〜す。」るんるんとなる。情けないばかりである。

 私は、人生の半分を忘れ物の捜しだしに費やしていると言っても過言でない。病院の予約も忘れてしまうし、友達とのお約束も忘れてしまう。情けない・・・・。AD/HDから痴呆に向かっているとしか自分では考えられない。私の脳は半分ゼリーなのかもしれない!! 
 
by MUSICA

 忘れ癖には色々あり、覚えているべき物事を忘れる、品物をどこかに忘れるの二つに分けても良いでしょう。前者は、基本的に覚えなければならないときに意識が明後日に行っているために覚えないと言うことだと思います。
 
 何かをしていてふっと自分が何をしていたか忘れたり、何をしようとしていたのかを忘れたり。
 
 ものを紛失するのも何かを何処に置いたという意識をしないで置くからそうなるのであり、基本的に何かを使用し終わったとたん、それが意識から消えてしまうと思われます。私ももの探しにどれだけの時間を費やすかいやになるほどで、それも使うものに限って見つからず、探すのをあきらめると出てくるという有様です。時に、あきらめた振りをしてみますが、駄目ですね。
 
 両方とも、瞬間的に意識が飛んでいるのが原因と考えられ、それは治りません。解決するのは、とにかくメモ、落書きそして整理整頓に尽きるようです。何を何処に置くかを無意識に出来るようにくせにすることも必要です。それでかなり改善されるとは思いますが、完全に治ることはありません。
 
 まあ、あまり焦ったり自分を責めないことで落ち込みを防ぐしかないですね。
 
from ロクスケ





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記憶力 1





 小学校の四年生ぐらいのことだったろうか、クラスの授業で伝言ゲームをやろうということになって、男女とりまぜ四つほどのグループにわかれ、戦いが始まった。僕は出席簿の頭のほうだったので、そのグループの先頭だった。
 
 先生に名前を呼ばれたので、行くと教壇の前面に張り紙があって、なにやら長ったらしい文章が書いてあった。「これを三分で覚えてください」そのようにいわれたと思う、いや正確にはどうだったか忘れたが、とにかく制限時間内にその文章を覚え、次のメンバーに伝えなくてはならかったのだ。
 
 僕はあがってしまい、プレッシャーと興奮でほとんど頭にはいらなかった。したがって、僕の次のひとは気の毒だった「あの、…その、…あれで、これで…」なまるでしどろもどろの伝言を順次伝えなくてはならなかったからだ。それに対して、他のグループは一応内容のある伝言を、微妙に変化しながらも伝えていくことができた。その様子にはゲームらしい感覚と娯楽性が感じられた。
 
 つまり僕のグループは、先頭の僕のせいで惨敗、まるでお話にならなかったわけだ。ぼくは、その授業中、机にうつぶせになって、ぐったり疲れ寝たふりをしていた。記憶力に問題ありと自覚したのは、そういう事件があってからのことだ。
 
 高校の同窓会の通知が時々届く。僕は一度も出席したことがない。高校時代のことなどほとんど忘れてしまっているからだ。クラスメイトの顔や名前も数人しか思い出せない。懐かしい話が盛り上がって、あのときこんなことがあった、あんなことがあった、などという場の雰囲気に溶け込めないであろうことは目に見えている。
 
 実は、その時代にはやっていた歌や、歌手、タレント、テレビドラマの記憶もあやふやだ。よく自分の青春時代のことは昨日のことのように懐かしく感じると人は言う。それは記憶の想起とともに感情が揺り動かされるからだろう。ともかく、記憶力が悪いから同窓会に出席できないとも言えず、仕事が忙しくて時間が取れないといつも断っている。
 
 家族と話をしていても、おまえはあの時旅行に行ってああしただろう、こうしただろうといろいろ思い出を語られても、大方忘れているからぴんとこない。その点母親の記憶力は抜群で、ほかの者の記述の誤りをつねに指摘し、指導権を握っている。
 
 僕は、そのような、ていたらくであったため、高校生になって受験勉強を始めたとき、英単語や、歴史年表をなんとかうまく記憶できる方法がないかと、あれこれ思案してみた。正攻法ではお手上げだったため、当時はやっていた連想記憶術などといういかがわしい本に手を出してた。
 
 bewilder(ビールだぁ!と一杯すすめてマイカーの客を当惑させる)とある。ああ、bewilder=当惑させる、か。indulge(インドあるじヨガにふける)とある。インド人の男がターバン巻いて、足を首の後ろで交差させ、ヨガの修行にふけっているのである。つまりindulge=〜にふける、だ。かなり難しい単語にもかかわらず、これらは今でも覚えているからたいしたもんだ。調子に乗って、僕も自作でいくつか作ってみた。at all events(あっ、通る、いいベンツ)と覚える。あなたはその高級車ベンツに近づき、手に持ったマジックでドアに、へのへのもへじを落書きする(戸にかく落書き)と続く。そしてベンツから降りて来たサングラス、パンチパーマの怖いお兄さんにぼこぼこに殴られるのである。戸にかく→とにかくである。at all events=とにかく、ともかく。これで覚えた。このように回りくどい方法ではあったが、受験英語はクリアすることができた。しかし記憶力はいっこう向上せず、妄想力が向上したのであった。
 
 
ー次号へ続くー
 
by mogurin 




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ガラスの世界              みゆき
 わたしは趣味でとんぼ玉を作っています。とんぼ玉の歴史は古く、遥か4500年前の昔からエジプトやメソポタミアなど世界各地で創り始められた色模様のついた穴のあいたガラス玉のことです。古代では、蜻蛉玉は宝石以上に人々を魅了し、魔除けや装飾品などとして、高貴な方々に用いられました。

 とんぼ玉が欲しくて奴隷と交換したという話を聞いた時は胸がキュンとなって熱いものがこみ上げてきました。

 日本でも古墳から数多くの蜻蛉玉が発掘されており、江戸時代には日本人好みにあらゆる技法を凝らした玉が創られかんざし・帯止め・根付けなどとして、広く用いられました。また奈良の正倉院などにも古代の蜻蛉玉が現存しています。現代でも蜻蛉玉は、その美しさと不思議な魅力で、装身具や鑑賞用として、人々の心を捉え続けています。今でも職人の手で1つ1つ手創りされています。昔は今のような便利な道具はなかったでしょうから
その技術たるや大変なものだったと推測されます。

 小さなガラスの中に大きな夢や思いを封じ込めていきます。ガラスは生き物と同じです。そう簡単に言う事を聞いてくれません。ガラスを溶かすバーナーの火も然り。ガラスとバーナーに合わせていくしかありません。

 ご機嫌を取り損ねると、ガラスが解けすぎで歪みが生じ、後で割れの原因になったり透明なガラスの中に煤が入ってしまうこともあります。作る前にある程度のイメージは描いていますが、創っているうちに変わってしまったり また、アイデアがどんどん浮かんできて止まらなくなったりします。

 ガラスは創る時はとっても熱いです。真夏はアゴにアセモができます。なのにできた物は、どこか涼しげな冷たい印象さえ受けます。微妙な温度の違いや歪みで置いておくだけで、パキンと割れてしまうのにきちんと出来上がった作品は、落としたくらいじゃ割れません。本当にガラスって不思議です。

 わたしは子どものころから、ガラスが好きでした。これもこだわりのひとつなのでしょうか?これからもずっと好きだと思います。

by みゆき

 昔、仕事でニューヨークを訪れたとき、裏町を歩いていてトンボ玉だけを扱っている店を見つけました。そのころはトンボ玉のことを知らなかったので、何だろうという興味だけで入ったのですが、それほど大きな店ではないもののおびただしい種類のトンボ玉があり、しばらくずうっと眺めていました。
 
 知識がなかったので、いつ何処で作られたものかも判りませんでしたが、かなり古いものがあったし、おそらく日本や中国やヨーロッパで作られたものもあったと思います。また陶器製のものもあったと思いますが、もしかしたらそれもガラス製だったのかも知れません。
 
 値段が付いていたような気がしますが(当然ついていたんでしょうけれど)価格がどのくらいか全く記憶がありません。
 
 おそらく、わたしがトンボ玉に接した初めての事だったと思います。それ以前にももしかしたら見たかも知れませんが、意識していなかったのでしょう。なにしろ、数千種類とも思えるトンボ玉が並んでいるのは壮観でした。今もその店があるかどうかは判りませんし、店の名前や場所も覚えていません。
 
 あと、ヨーロッパで同じような店を見かけたと思いますが、その時は時間もなくまた他に気をとられていて良く覚えていません。あとから、じっくり見ておけば良かったと思います。
 
 私の住んでいる近くにビーズを大量に扱っている店があり、それこそガラス、プラスチック、金属、瀬戸物、角や骨、木や竹などありとあらゆる材料の大小のビーズがあり、用もないのに買ったこともあります。小さなビーズは今はやっているらしいですが、その店にはまるでトンポ玉のようなビーズもあり、結構良い値がします。いつも大勢の客でにぎわっていますが、ネットで調べてみると、トンボ玉というのはかなりフアンが居るようですね。でも、なぜトンボ玉と言うんですかね。トンボの目玉に似ているからかな。
 
from ロクスケ







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記憶力 2               mogurin
 しかし、話かわって人類の記憶力の歴史をひも解いてみると、信じられないような記憶の超人たちが跋扈している。
 
 ギリシャ時代の詩人シモニデスは、大広間で大勢の観客を前に抒情詩の朗読をしていたが、私用で外へ出ることになった。ところが自分を呼び出したはずの男は来ていない。しかたなく朗読の続きをしようと広間にもどってみると、屋根が崩れ、みんなその下敷きになって死んでいた。ギリシャの建築だから石のかたまりが天から降ってきたことだろう。人間などひとたまりもない。死体の損傷がひどく、誰が誰やらわからなくなった。ところがシモニデスはその日来ていたすべての人の名前と席を記憶していたので、身内の者に正しい死体をひきわたすことができたという。
 
 古代ギリシャには弁論術というものが盛んで、デモステネス、クインティリアヌス、キケロなど著名な弁論家を輩出したが、聴衆の面前でいっさいメモを持たず、長文をよどみなく滔々と謳いあげるという厳しいものだったという。きっと、鈴木健二が特別番組の司会をするみたいに、客席をみながら身振りたっぷりに話したことだろう。
 
 当然、話す内容はすべて記憶していなくてはならない。そのために発達したのが、記憶するための技術だという。つまり、古代人は現代人よりもはるかに記憶力が優れていた。すかしガラスのモニターを見ながら、それに映し出される政策を棒読みする、今の政治家たちには逆立ちしてもできない芸当だ。
 
 グーテンベルグが活版印刷を発明するまで、書物というのは貴重品で、それを手にできるものは一部の特権階級に限られていた。聖書やコーランなどの聖典も筆写するか、頭に記憶するしか情報を伝えるすべはなかった。
 
 人々は大事なことは復唱し、暗唱し頭に刻み付ける、そういう習慣をもっていたことだろう。そういった人々の中には、聖典の内容をすべてそらんじ、次世代に伝えるという役割をになった聖典の生き字引がいたといわれる。彼らのおかげで古代の知恵は文書を介さず、口頭で受け継がれたそうである。グリム兄弟が童話を収集したときも、子供のころ親や親戚から聞いた話を、昔話として語ることのできるある女性の協力をあおいだらしい。彼女は数百の話をそらんじていたという。こういった記憶の達人は日本にも存在した。昔話や語りをなりわいとする語り部である。
 
 視点をかえて美術の世界では、1839年にダゲレオタイプ・カメラが発売されるまでは、映像データを保管するには紙にデッサンするか、頭に記憶するかしかなかった。17,18世紀のヨーロッパの画家たちはこぞってイタリアに遊学し、ルネサンスの巨匠たちの絵画や彫刻をデッサンして頭に刻みつけ、その形態を本国に持ち帰り、独自に発展させていった。
 
 西洋美術史の流れの中で、17世紀のイタリアは素描の超絶技巧の時代であるといわれている。つまり自然描写の能力が頂点に達したのだ。素描力はまた映像記憶力の問題でもある。映像の記憶力が弱いと、素描は上達しない。現代の画家、イラストレーターはリアリズムのスタイルで描く場合、写真を下敷きにトレースするものが多い。これでは記憶力の向上など望むべくもない。ミケランジェロの最後の審判の大壁画や、ルーベンスのマリー・ド・メディシスの生涯を描いた一連の作品など、あの信じられないほどの複雑さは、超絶的素描力と映像記憶力に裏打ちされたたまものだと思われる。結論を言えば、現代人の記憶力は古代中世の人々と比較してかなり低下している、そう思えるのだ。

by mogurin

 確かに記憶力が発達していると便利だとは思います。世の中には人間離れした記憶力の持ち主がおり、数分間眺めただけの景色を細部まで正確に画に描く人、10万年分のカレンダーを記憶している人、15才以降の毎日の天候を記憶している人等々。
 
 しかし、大抵は自閉症だったり、知的障害があったり頭部に怪我をしたりしたケースが多く、専門家によればそれらの状態により本来記憶をブロックしている脳の部分が壊れて、記憶が出来るようになったのではないかとの事です。つまり、人間の頭はわざわざ記憶を抑え、そして忘れる能力を備えたと言うことです。
 
 子供の頃の記憶力が大人になると失われるのは万人に共通の現象ですが、これは脳が衰えたのではなく、脳が発達するプロセスだと言うのであり、つまり高すぎる記憶力は人間の脳の正常な発達を妨げるという事でもあります。
 
 病的な物忘れは問題ですが、まあ日常生活にそれほどの支障がなければ、あまり気にしない方が良いのではないでしょうか。
 
from ロクスケ







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鬱鬱的日常


 どうも、まずいらしい。長期間、実家に戻っていたのがである。のんびり田舎で仕事しながら、肉体と精神のリハビリをしようと、計画をたてていたのである。
 
 まずは朝の散歩、朝六時に起きてすぐ出発、Tシャツ一枚の軽装で、携帯とデジカメを持って早足で歩く。携帯は時間を計るために時計がわりに持っているのだ。一度など、発奮して五時過ぎに出発したこともあった。
 
 その時間だとまだ薄暗い、街灯もあまりない松山の郊外では、足元の判別もおぼつかない。国道沿いに歩いて、時折すれちがう車のヘッドライトが地面をなめるときに、まだ自分が歩道を歩いているのを確認するしか手がないのだ。
 
 これではあぶないので、時間をずらすことにした。肌寒い朝の空気の中、早足で歩いているとだんだん温まってくる、朝日が山の端からさし始め、空がいちだんと明るくなってくると、一日の始まりを感じ、なんだかいい気分だった。
 
 「規則正しい運動と食事、休息を取ること。陽の光をあびることがとにかく大事」僕のかかりつけの医者の忠言である。国道11号線沿いに毎朝一週間ほど歩いたあと、ルートを変え、川沿いの山道や田んぼのなかを縫う道にチャレンジしてみた。
 
 途中、柿の実がたわわに成っている農家の庭先であるとか、道端に咲き誇るピンクや白のコスモスとか、朝顔、パンジー、芋の葉、つる草、飼い犬、廃屋など、目に留まるものは何でも写真に撮った。
 
 小川で餌をあさるサギなどはいい被写体だった。白いやつと灰色のサギがいた。こわれたトラクターにつる草がまとわりついている光景も、面白いと思った。
 
 朝の7時ごろ、せせらぎの音を聞きながら山道を歩いていると、農家の主人が田んぼで作業をしていた。干草を集めて野焼きをしているのだ。白い煙が、稲を刈り取ったあとの田んぼから立ち上り、風に吹かれてたなびいている。老人は向こうをむいてクワを片手にたたずんでいる。遠景はわらぶきの民家、その後方に黒々とした愛媛の山々がつらなり、太陽が山頂から顔を出した瞬間、オレンジ色の陽光が天に走り雲の端をかすめる。雄大な光景にみとれ、思わずシャッターを切った。
 
 これらの画像はあとで、絵に描くための資料として保存しておくのだ。ひととおり歩いて写真を撮り、家に戻ってくるのが9時前後、ちょうど腹が減っている。玄関を上がってすぐにシャワーを浴び、着替えをして台所にいくと、朝飯が用意されている。メニューはいつも決まっている。味噌汁と納豆、漬物に梅干二個、それにごはんだ。
 
 時々前日の夕飯のおかずの残りが出ることもある。しかし朝はそれほど食えないので、残すこともある。うちの味噌汁はただの味噌汁ではない。野菜やきのこ、海草がたっぷり入ったうえに玉子がまるごと一個はいった、ごった煮とでもいうようなものである。それ一杯でたいがい腹がふくれる。
 
 母は合理主義というか、間に合わせ主義というか、あんまり躊躇しないタイプである。掃除洗濯料理と、とにかく何でも作業が早い。一日中、常に何かしている。「お前は何にもしない」とよく文句をいわれるが、僕が部屋のかたづけでもしようか、と思う端から母の手がのび、片付けてしまうのである。ゴミ箱が一杯になったから捨てにいかなきゃと思っていると、その瞬間を計ったように母が登場し、ごみをゴミ袋に移し変え、風のように去っていくのである。こちらが動くいとまがないのである。
 
 料理に関して言うと、早くてまずいのである。一度など、晩飯にシシャモが出たが、解凍したあとレンジで暖めたものらしく、生焼けで、さすがにもう一度焼いてくれと頼んだこともあった。でも作ってもらっているのだからそうそう文句は言えない。
 
 おおかためぼしい場所の写真を撮って、朝の散歩は三週間ほどでおしまいにして、あとは日がな一日二階の部屋でごろごろしていたが、それでも三キロちょっとダイエットできたのは、母の手料理のおかげと感謝している。まずいので食が進まず、結果として胃が小さくなったようだ。小食でも満足できるようになった。酒もほとんど飲まなくなった。父が酒を飲むなとうるさいからである。自分は若いころから浴びるように酒を飲んでいたので、酒の害をよく知っているというのだ。といいながら毎晩チュウハイをコップに一杯飲んでいる父である。
 
 お前は40過ぎていつまでもそんなことでどうする。年をとってふらふらしていて情けない。親戚の○○ちゃんはもう結婚して子供ができ、家を建ててりっぱにやっているぞ。それに比べてお前は…小学校からもいいっぺんやりなおしたほうがいいな。そんな両親の小言を聞きながら無言で夕食の箸をすすめるのだ。うーむ、だいぶ鍛えられる。
 
 田舎暮らしの目的は、そうそう肉体と精神のリハビリであった。長期にわたる東京のぐうたら生活ですっかり堕落し脂肪がつき筋力の低下した僕の肉体、鬱と緊張感のない暮らしのせいでまったくアホになった僕の脳みそをもとのレベルにまで引き上げるのが本来の目的であった。
 
 しかし、半分もいかず、30パーセント程度の達成だったようだ。いや20パーセントかもしれない。子供のころからのことをいろいろと思い出してみた。結局、高校時代に考えていたこと、特に趣味嗜好はほとんど今でもかわっていないようだ。若いころ興味をもっていたことは今でも好きだし、興味のなかった対象は大人になった今でも相変わらず燃えないし、そういった意味では、まったく進歩していないのかもしれない。
 
 ウサギの絵をかきためて個展でもひらこうかと、油絵の道具を買い揃え、F4のキャンバスに絵の具を塗りたくってみたが、突然何もかもおもしろくなくなり、途中で筆をおく結果になった。描こうと思えばいくらでも描けるけど何かが足りない。自分独自の視点である。今描いているのはただ対象をかきうつしているだけのコピーにすぎない。単なる現実の絵解き、図解だ。イラストだとそれでもいいが、絵画にはなっていない。肝心のものが足りない。そんな思いがつのってきたためである。
 
 何か、答えが見つかるかもしれないなどと、甘い考えではじめたのがまずかった。現実はそんなに甘くない。荒波さかまく日本海、鉛色の空、小雪まじりの刺すような北風。雄島と雌島に張り渡した一本の綱。その綱の上で綱渡りをしているやじろべえのイメージ。あっちにふらふら、こっちにゆらゆら。ちょっとでも足を滑らすと、奈落のそこへまっさかさま、ドボン。そういえば、僕はカナヅチだった。
 
 結論はこうだった。何か、継続して積み重ねられる価値のある対象物をみつけだすこと。仕事は下手をすると、生活手段の獲得だけに終始してしまうきらいがある。いや、仕事というものはおおむねそうだ。世間の需要に自分の考えを従わせ市場のニーズを受け入れることだ。そうではなく、何か、ライフワークのようなもの。テーマ。小さく言えば、自分だけの創意工夫。

 by mogurin





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Aタイプマダムの日常(1)

 プロローグ〜マダムになりました。

 私、Rosamondeは12月、マダムの仲間入りしました。苗字が変わり、住所も変わりました。変わらなかったのはAタイプぶり。※この場合のAタイプとはAS,Autisum,ADHDなどの頭文字を取った発達障害者の事を指す。Aタイプ使用については『A typeで行こう』の管理人であるウーシャさんのお許しを得ています(Aタイプと言う用語の最初の提唱者はウーシャさんではなく村上京子さんと言う人です。詳しくは『A typeで行こう』のサイトを見て下さい)。

 マダム業は楽チンだなと思って思っている人がいるかもしれないが、現実はAタイプマダムにとっては楽チンではありません。あま〜い気持ちでAタイプの人間がマダム業してたら偉い目に遭いますわよ。

 マダムとして『ダンナより遅く寝て、ダンナより先に起きる』ことを心得としてしておりました。見事、マダム業修行3日目で見事に玉砕。ぶっ倒れてしまいました。以後『ダンナより早く寝て、ダンナより先に起きる』スタイルを取る様にしました。

 12月に式を挙げたが、11月から新居に住み始め、マダム業修行をしておりました。ダンナから式までに新居に慣れておいた方がいいと言う理由で、ダンナとの共同生活に備えていました。1月間はマダム業模擬練習と言った方がいいのかもしれません。今、思ったら、ダンナの判断は正しかったなと思いましたわ。

 と言うことで、今後はどうなることやら。お楽しみに。

by Rosamonde






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『Aタイプマダムの日常』1
『Aタイプマダムの日常』1


マダム業修行中3日目でぶっ倒れる。

 結婚したのは12月。が、ダンナと一緒に新居に住み始めたのは11月の上旬。入籍するまでの1月近くはマダム業修行の身分であった。1月近くのズレはダンナの一言だった。『早くマダム業になれる為』である。今でもマダム業には慣れておりませんけど(苦笑)。

 お試しマダム業をし始めて、決意したことがあった。『ダンナより遅く寝てダンナより早く起きる』のがマダムの鑑を目指すこと。それも3日目であえなく挫折。1日目、2日目は『ダンナより遅く寝てダンナより早く起きる』スタイルがよかった。しかし、3日目の昼から頭痛がして来て、正確に言うとダンナのお父様(お舅さんのこと)と一緒に役所の人から新居の固定資産税の話を聞いている時から頭の中がボーとしてして来たのだ。

 夕方に『ダンナより遅く寝てダンナより先に起きる』スタイルのツケが来てしまった。ダンナの晩御飯が作れない! 作ろうとするともの凄い頭痛がする。立って料理が出来ないのだ。かろうじて休憩を取りながら膝をついての料理だった。料理も冷凍物や総菜屋で買ってきた物を盛り合わせるスタイル。

 お茶を飲んでからが悲惨だった。昼食べたものを全部戻してしまったのだ。ダンナが仕事から帰って来る前に。ダンナは1人で寂しく食事をしたと言うことは言うまでもない。

 ダンナのお父様が気になって新居に来た。私はベッドの中からしか挨拶が出来ないほど寝込んでしまった。寝込んでいる間、教訓を思いついた。『ダンナより“先に”寝て、ダンナより“先に”起きる』と言う教訓。ダンナのお父様にも思いついた私の教訓を言い、最後に「お先に休みます」と言って、8時過ぎから寝た。

 昔ながらの『ダンナより遅く寝て、ダンナより早く起きる』スタイルは私には似合わない。質のいい睡眠時間の確保の方が大事なのだ。『ダンナより早く寝て、ダンナより早く起きる』スタイルを取り出してからマダム業がはかどったことは言うまでもない。

by Rosamonde





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脳の覚醒



 「寝てたでしょう」電話口で相手からそう言われることが多い。それも一度や二度ではないのである。
 
 もうお天道様が空にのぼり、こっちはまじめにパソコンにむかって仕事をばりばりやっていて、フル稼働の状態でありながら、僕の声は寝起きの状態に聞こえるらしいのだ。たしかに、生活のリズムが乱れ、お昼近くにようやく目を覚ますことも多い。
 
 仕事先の相手はそれを読んでいて、かなり遅い時間に電話をかけてくる。だからこっちはたいてい起きている。それでも、そう言われるのだ。かというと「お休みのところ、申し訳ありませんが…」先手を打ってそう言う人もいる。相手は僕の生活パターンをしっていて、寝起きの場合、突然電話で起こしてしまった失礼をわびるのだ。
 
 「寝てなんかいませんよ。ちゃんと起きています。大丈夫です」こっちは念を押さなくてはならない。こんなやりとりがなんども繰り返されると、まるで嫌がらせのようにも思え、腹が立ってくる。もう20年近くこんなことが続いている。

 しかし、特定の相手ではなく、不特定多数のあらゆる人から同じようなことを言われると、これはいやがらせではなく、本当に寝ているように聞こえるのだと納得してしまう。寝ているような声に聞こえるというのは、やはり体と脳が寝ているのである。覚醒していないのである。
 
 じゃあ、覚醒するにはどうするか。リタリンだ!そう短絡的に話を進めません、今回は。実は、一時実家に戻った10月から現在まで3ヶ月ほど、計算ドリルと記憶力のトレーニングソフトを継続して使っている。毎日ではないが、二日に一度はやっている。その学習効果が最近ようやく少し出てきた。
 
 ネットで検索すると、記憶力を鍛えるパソコン用ソフトも数多く出回っているが、僕の使っているのは多湖輝監修の「記憶道場」あとaskの「脳を鍛える大人の算数ドリル」。
 
 「記憶道場」の場合、基本となるのは数字記憶のトレーニングだ。ほかにも映像記憶、カテゴリー、文章、位置記憶などいろいろあって苦手分野を選べるようになっている。数字はまったく無意味な情報のつながりで、一つずつ区切られているので、いくつ覚えられたか即座にわかり、進歩の度合いも測りやすいので、記憶トレーニングの定番ともいえる。画面に数字が10秒間だけあらわれて消える。次の画面でその数字をキーボードで入力するのだ。偶数桁のトレーニングを重点的にやっているが、これは四つ一組の数字が何段かつらなって出てくる問題。最初は二段しか覚えられなかった。
 
 最近は四段、時々五段(つまり20個の数字)正解するようになってきた。明らかに記憶力は向上している。しかし、そのためにはいろいろと工夫が必要だ。7538・0264とかをなな・ご・さん・はち・ぜろ・に・ろく・よん・などと読んでいてはとうてい間に合わない。なごさやわにむし・と読む。とにかく意味がなくても、情報をできるだけコンパクトに縮める必要がある。
 
 なにしろ勝負する時間は10秒間しかないからだ。こういったことも、成果が全くなければ、そのうち飽きるに違いないが、いまのところ少しずつではあるが、成績が向上している。向上しているからには、どこまでいけるか挑戦してみたい。「計算ドリル」は単純な7+4とか2-8とかの計算ばかりだが、5-(-9)なんてのもまじっていて、よく+と-を混同する。これは制限時間内にどれだけ正解するかといったゲーム。こちらのソフトは三日に一度くらいの使用頻度なのでそれほど成績は上がっていない。
 
 初級、中級、上級とあって、僕は初級のCクラス。最近は飛び級にチャレンジ、中級をやっているがいつもDクラス「もっとがんばりましょう」と最後に激励の言葉を読まされる。プレステのシューティングゲーム、アクションゲームと違って、これらの能力開発ゲームは脳を覚醒させる作用があるように思われる。
 
 続けていけば成績が向上し、励みにもなる。脳の情報伝達が活発になり、鬱状態に陥るのを防ぐ効果がある。僕の場合実際そうで、ここ数ヶ月は落ち込むことがほとんどなくなった。人によっては何でもいいと思う。とにかく新しい技能、知識を学ぶことが脳の活性化に役立つ。それを楽しく続けられたらもっといい。

 by mogurin
 
 脳は身体と同じで廃用萎縮があります。つまり動かさないと小さく縮んで働きが鈍くなります。身体の場合、一週間寝ていると高齢者などはそのまま寝たきりになる危険性さえありますが、脳の場合目に見えないだけに機能が衰えていても気が付かなく、寝たきり脳になる可能性もあります。
 
 従って、mogurinさんの積極的な脳の体操は絶対に必要だと思います。体操として何が良いかは、人それぞれでしょうが、日頃使わない部分を使うというのは身体と同じで、例えば円周率の暗記で先頃日本人が世界記録をうち立てました。4万桁以上記憶したんですが、むろん生活上の実用性はなく、役に立たない記憶データですが、脳を鍛える、集中力を付けるという意味で計り知れない効果があるそうです。
 
 自分で興味の持てる、従って長続きのする方法で脳の体操を積極的にするべきだと思います。わたしも最近脳の廃用萎縮が進んでいる自覚があり、焦っています。
 
from ロクスケ





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鍋焼きうどん



 わたしは幼いころ、母とよくうどんを食べに行った。家に程近い店で、年老いたおじいさんとおばあさんがやっていた。中はとても汚く、4セットしかないテーブルやイスはいつもべたついた感じがした。座敷もべたついた感じで、座布団はテカテカしていた。
 
ついでに、作っているおじいさんが着ていた白衣の襟はいつも真っ黒で運んでくるおばあさんのエプロンもうす汚れていた。

 それでもなぜ行っていたのか?と言えば、おいしかったからに決まっている。

 狭く汚い店なのに、いつも混んでいた。うどんは手打ちで、店先に干していたが、それもあまりいい環境ではなかった。母が、お湯で茹でているから大丈夫だと言っていた事を覚えている。
 
 わたしはたいていタヌキうどんか衣がやたら大きい海老のてんぷらののった天カレーうどんを注文していた。そして母はいつも鍋焼きうどん。(夏でも)おばあさんはいつも運んできたときに、どんぶりの中に親指を入れうどんの汁に浸しながら、テーブルにどんぶりを置く。

 母が鍋焼きうどんを注文していたのは鍋焼きうどんなら熱いのでおばあさんの親指が汁の中に入らないからだった事を高校生くらいになってから知った。もっと早くに教えて欲しかったと思ったが、それでも天カレーはやめられなかった。

 時々天カレーが食べたくなりますが、わたしが高校を卒業してまもなくおじいさんが亡くなり、お店もなくなってしまいました。
 
 あの味と、あの汚いお店が今でもわたしの心に残っています。

by みゆき





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架空請求や振り込め詐欺の天敵



 ニュースにも連日大きく取り上げられている、架空請求や振り込め詐欺。捕まえても捕まえても、雨後の竹の子よろしく、また新たな手口や内容でアプローチしてくる。ご多分にもれず、私の携帯にもメールがたくさんやってくる。入った覚えのないサイトから仮登録になっているからこのままだと金を払わないといけなくなる云々。いや、アタシ、これでもまだ(年齢はさておき)嫁入り前の女だし、人妻なんとかとか、女子高生どうとか、そんなところを見て回る趣味はないよ(笑)。

 こんなメールへの唯一絶対の対処法は、完全なる無視である。メール内のURLには絶対にアクセスしない。メールは一応保存して、あとはこちらからは絶対にアクションを起こさない。ようするに、彼らのやっているのはダイレクトメールやチラシのポスティング(各家庭の郵便受けにチラシやら宣伝を突っ込んでいくアレ)と同じで、こちら側がリアクションしなければ、なんにもできない。そうと解れば、鬱陶しいだけで、怖くも何ともないわけだ。どうしても不愉快だったり気持ちの悪い人は、ネットカフェなど不特定の人が使用する端末から、検索してみてはいかがだろう。URLで検索してもよし、もっともらしいメールアドレスのドメインで検索するもよし、同じところから請求メールをもらった人たちなどで、コミュニティもできているようだ。

 振り込め詐欺にしても同じだ。どんな電話がかかってこようと、基本的には無視である。警察が示談を勝手に進めたり、金を払えということは全くないし、何を言われても、確実に事実関係を確かめてから対処することだ。冷静な判断、なんてものは、ビックリするとできないものだが、かかってきたら、一旦電話を切って当事者や最寄りの警察にかけ直す、というのが一番いいかも知れない。

 ところで、大阪は全国で最も振り込め詐欺の被害が少ないそうだ。これは、何故なのか…とほんの少し考えてみた結果。大阪人…ことに、全国的に被害者である年齢層の関西のおばちゃん達は、できればお金なんか出したくないのだ。とりあえず自分の子供が悪かったにしたって、ちょっとでも安く上げたいに違いないのだ。うまい話には裏があって、その裏をかけばこっちの方が得するかも、とか思っちゃうのだ。その上、自分がこんな目にあったとかそんなことを、おもしろおかしく吹聴し、さらに、そんなモンにひっかっからなかった自分や、上手く撃退した自分をさも自慢げに語ってしまうのだ。もちろんおばちゃんに限った話ではない。架空請求の電話がかかってきた職場の後輩は、留守電に入っていたその語り口を人に聞かせて笑いを誘い、さらには自分でも真似と応用でギャグにしてしまっていた。

 すべては自分語りと笑いのネタにしてしまう、そんなパワーが詐欺を撃退してるのかも。そう考察する自分も、しっかりネタにしている辺り、関西人なんだなーと思うのである。

 by 小町





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指の体操 1


 
クラシックギターに挫折したので、次はカワイの電子ピアノes-1を購入。弾きだしたらこれが結構はまってしまい、朝起きたらまずピアノに向かい、譜面を広げてブルグミューラの練習曲といった毎日です。なんか、ギターよりもずいぶん弾きやすいので、上達が早いみたいで、今のところ仕事そっちのけで熱中しています。まあ、いずれ壁にぶちあたって挫折ということになるかもしれませんが、そうするとピアノに投入した12万がパーになるので元を取るまでは続けるつもりです。

 ピアノの話はいずれ書きますが、本題はfinger fitnessというDVDの話です。これはヤフーのオークションで安く手に入れたものです。作者は、アメリカのミュージシャン(ピアノとパーカッション)兼マイアミ大学の音楽教育の教授Gregory.G.Irwin。ミュージシャン、アーティスト、医師、アスリート、コンピューターオペレーター、その他だれでも日常手を使う人で、その機能を高めたいと思っている人々のために開発したもので、指の強さ、柔軟性、独立性を高め、手のストレスや疲労を軽減してくれ、いつでもどこでもあなたの都合のいい時間に練習でき、効果抜群の信じられないプログラムとあります。具体的には1.warm ups 2.folds 3.taps 4.bends 5.splits......と10まであります。今回は1.warm ups 2.folds を紹介します。

 1.warm ups01.両方の手のひらを組み合わせる。これは合掌ではなく、握手をするように両手を交差させて組み合わせる。この状態で左手で右手を強くもみほぐす。少しねじるように手の甲をもむ。次に右手で左手に対し同じことをする。02.両手の指をを合掌の形で組む。指は折り曲げる。どちらかの親指が上になっているはずです。次に親指の順序が逆になるように指を組み直す。この逆をやる。同様に指を組み直す動作を繰り返す。最初はゆっくり、徐々に早く、限界まで早く、またゆっくり。03.両手を下にむけ、グーのかたち。指を開き、パーのかたち。このグーパー動作を10回ほど繰り返す。04.両手を合掌。指は伸ばす。手のひらは合わせたまま動かさず、指だけ右から左に倒す。今度は左から右に倒す。これを10回ほど繰り返す。05.cross over 両手を下に向け、パーのかたち。左手の中指を人差し指の上にねじってのっける。また、薬指を小指の上にねじってのっける。右手も同様にする。ねじった指を上下に交互に動かす。10数回。またパーにもどし、左手の薬指の上に中指をねじってのっける。右手も同様。人差し指と小指を左右にはさみのように動かす。10数回。以上でwarm up終わり。ここから本番、けっこう難しいので、Irwinさんも無理をしないようにと言っています。痛みを感じたらすぐに休憩をとること。

 2.fold指と指の間を広げて両手をあわせます。両手の人差し指だけを折り曲げます。指先は反対の手の甲にくっつくくらいです。このときどちらかの指が手前にあります。こんどは人差し指の順序を逆に折り曲げます。これを数回くりかえします。重要なのは他の指は動かさず、伸ばしたままということです。またすべての指を伸ばし合掌した状態にもどし、今度は両手の中指だけを折り曲げます。次に指の順序を逆に曲げます。これを数回。次に薬指だけを折り曲げます。以下同様…同様に小指だけを折り曲げます。こんどは人差し指から小指まで交互に一回ずつ折り曲げます。これを数回くりかえします。次に人差し指と中指の二本を同時に折り曲げます。これも指の順序をかえ、同様に数回くりかえします。そして中指と薬指、薬指と小指、人差し指と薬指、中指と小指、人差し指と小指の組み合わせも同様におこないます。次に中指と薬指と小指の三本を同時に折り曲げます。これも同様におこないます。人差し指と薬指と小指、人差し指と中指と小指、人差し指と中指と薬指も同様におこないます。
 
続く

by mogurin





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目標達成へのリマインダー



 PCが本当に普及してくれていてありがたい。そう感じることが多くなりました。PCの中のメールソフトの中にあらかじめついてきているメールの送信日時設定機能を、自分用の忘れがちな用件のリマインダーとして使うのです。普段からPCの前にいる人なら、PC宛てにリマインダーを送っておいても良いですが、どこでも見られることを想定しておくなら、携帯アドレスに送るのはどうでしょう?ある程度の文字数なら着信無料の携帯もありますし。

 また、ネット上にある無料のリマインダーサービスもその一つです。
ToDoMail(http://www.aivy.co.jp/products/todomail.html)と言うサイトは、題名に日付を書いて決められたアドレスにメールするだけ。携帯から利用できます。メモ書きのリマインダーで携帯宛てにしておくと、アラームになってくれるから忘れたころに来るからありがたいです。

 今年は何と何をするぞ!と決めた目標も、どんどん時間が経つにつれて忘れていく傾向があります。
そんなときにこのリマインダーの機能を使い、3ヵ月後に「目標へ向けてどのくらい進んでますか?」と自分へ送っておくと、達成度の再確認も出来ます。

 なんだか自分の目標達成への忘れ物が減った気がします。

by ナオニャム





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指の体操 2



 fold variation両手を合掌のかたちで指を組みます。この状態で右手人差し指だけ伸ばします。指をおろします。左手人差し指だけを伸ばします。指をおろします。両手の人差し指だけを伸ばします。指をおろします。重要なのは組んだ他の指は動かさないことです。今度は中指で同様におこないます。次に薬指で同様におこないます。次に小指で同様におこないます。次に両手人差し指と中指を同時に伸ばします。同様に中指と薬指、薬指と小指、人差し指と薬指、中指と小指、人差し指と小指の組み合わせで伸ばすおろすをおこないます。

 以上です。Gregory.G.Irwinは簡単にすばやくやっていましたが、初心者にはなかなか難しい内容でした。3.taps 4.bends 5.splits......となるととてもついていけません。この人はホームページも持っていて、finger fitnessのDVDを販売したりいろんなグッズを売ったり指導をしたりとけっこう稼いでいらっしゃるみたいです。世の中いろんな商売があります。

by mogurin 

指の体操が脳の活性化につながるとは広く知られた事実で、例えば惚け防止にクルミを二ついつも指で転がすなどが良いとされています。わたしの子供の頃、爺さんがクルミをいつも指でもてあそんでいたのですが、大きなクルミで非常に色つやが良く、わたしも気になっていました。

ある日爺さんの居ないときにそのクルミを割って食べたのですが、あとで爺さんにはり倒されました。結構わたしの脳もその時活性化されたと思います。

それはともかく、わたしは16才くらいの頃から英文タイプをやり、今パソコンのキーボードを叩いていますが、これも結構指の体操になっているかと思います。文章を書くのが好きなこともあり、惚け防止になっているかも知れないし、実はすでに惚けているかも知れませんが、(惚けと言ってはいけないんで、認知障害と言います)自分では気づいていません。

手は第二の脳と言われています。実際、脳の運動野で手を司る部分は半分以上を占めています。積極的に動かすのは確かに良いでしょうね。

from ロクスケ





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泥棒さん



 一昨日、風邪で休んでいるとインターホンが鳴りました。「警察です。」と言うので、慌てふためいて玄関に出ると「泥棒がこっちに入ったようなんですが、なにか盗まれたものありませんか?」とのこと。薄ら雨が降っていて、前日の雪も少し残っている寒い日のこと。我が家には、私と長男がいて空調をつけていたせいか、はたまた泥棒には「この家には盗むものはないぞ」と思われたのか、「いいえ、うちには入っていません。盗まれたものもありません。」と言いました。すると、警察の方は「あー、でも足跡があるね。」と言われて、後方に「おーい、足跡発見!!」と叫んでいました。見ると確かに車庫内に大人の男の人の足跡がくっきり残っていました。そして、刑事達は隣の家に急ぎました。

 その後、私はまた布団にもぐりこみ、しばらく寝ていましたが外があまりにも賑やかなので、玄関から外をみるとうちの前の私道には人だかり。つかまったぞーとの声も聞こえ、大勢の私服の警官だか刑事だかと見物人だか犯人かと見分けも付かぬくらい人がいて、その中を次男がバイクでかいくぐりながら帰ってきました。「おかあちゃん、おれびっくりしたよお。帰ってきたら、パトカーがいっぱいいてさあ。泥棒だって?おれ、またなんか悪いことしたかと思ったよ。でもつかまったってね。」と苦笑い。

 翌日、私が出かけようとすると、警察が実況見分に来ていたのですが、うちの敷地から隣のうちに入ったとのこと。それが、うちの室外機の上を通って隣に入ったので、そのルートを警察の人が何人も何人も通るわけです。一言も断りなく、うちの敷地からうちの室外機の上を乗って隣の敷地に入っていく・・・。思わず「あの、室外機の上を乗らなくてはだめなんでしょうか。」と私。「あ、すみません。一応ルート確認のためなんで、どうも。まあ、犯人はもう捕まっていますから。」とそこでやっと「すみません」の一言が出た。警察だからといって、断りもなくうちの敷地に入るのだって「不法侵入」だと内心思ってしまいました。泥棒さんもそうだけれども警察さんもたいして変わらないじゃないですか。

 夕方、隣の奥さんが買い物から帰ってきた。声を掛けると、窓枠を2箇所こじ開けようとした形跡があって、1っ箇所は枠ごと壊されて中に進入されていたとのこと。家の中に足跡があったそうだ。そのとき、留守にしていたとのことだった。私も、確かに犯人が捕まったときというのはお隣は「留守だな」と思っていた。うちに警察が来てすぐ隣のうちに向かったから、犯人はやばいと思って逃げ出そうとして何も盗まずに逃げ出したのだろう。だが、犯人は2人だったと言う。私はてっきり一人だとばかり思っていた。あとで共犯が捕まったのかもしれない。でも、警察は何も教えてくれない。

 お隣の奥さんの話によると、このところこの辺一帯の泥棒が結構あったらしい。多分、同一犯だろう。でも、お隣さんにも、警察は詳しいことは話してくれないようだ。うちはもう子供が大きいからまだ安心だが、お隣はまだ小さいお子さんがいる。泥棒さんと鉢合わせしたら大変なことになりかねない。パトカーが泥棒が捕まったあとも、巡回しているが、まだ他にいるとしたら困ったものだ。

by MUSICA





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自殺願望と長生き願望



 最近、よく書店で「自殺したい人をどう救うか」と言った類の本がよく売られている。事実、インターネットを通じてひとりではなかなか実現できない人が集まり自死を遂げる人がの記事を新聞で良く見かけるようになった。
 
 私などは、ADHDの人生の中にやはり内包されているセルフエスティームの低さ、あるいは親からの愛、あるいは友人との関係などなど数え切れない場面での自己否定が存在していて、普段何気ないときは顔を出さない「生きるのに疲れちゃった」現象というのは、時に本当に衝動的に私を襲う。すでに身についてしまった、内なる抑うつ状態というのは、自分でもコントロールに余りあることがある。
 
 だから、自殺する人の気持ちがわかると言うものでもないが、こんな世の中では暮らしにくいよなと思うものである。 ところが、全く逆に「死にたくない。老齢化を防ぐためには何でもする。」と言って止まない人も片やいるわけで、そういう人たちには、テレビの1000歳まで生きられるようになるだの、長生きの物質発見だの、こういう食物が老化を防ぐと言った情報収集に余念がない。
 
 死ぬのが怖いから、ご飯なんか長生きするためのものしか食べない、と言う人もいるのだ。癌も早くなくなればいいと思うが、老衰を越えてまで生きようとするには、それなりに人類の世界全体の設計が必要になるはずだ。
 
 病気で遺伝子操作ができるようになって、難病の人が長く生きられるようになるのはすばらしいことだ。長く生きても、痛くてつらいのでは意味がない。 なんだろう。死は生と同じに、等しく人々に与えられたものだと信じて来たことが、何十年か先には違ってきてしまうのかもしれない。
 
 そう考えると、私は時折ふと消えたくなる自分の身の置き所がなくなってしまうように思える。 昔、手塚治虫の「火の鳥」の中の一冊に、悪いことをして絶対死なない体になった男性がいて、その人は大人になり年をとりまた若返って赤ちゃんとなることを永遠に繰り返しするという話で終わっていて、赤ちゃんになって自分で動けなくてのどが渇こうが、海に転落しようが絶対に死なない不死が罰として与えられた一説を思いだす。
 
 その男性を愛した女性が志願して、その惑星の死なない樹となり赤ちゃんの時のその男性の世話をすることにしたのだが、死なないというのもとても怖い気がする。 せいぜい、自分に与えられた人生の長さをまっとうするくらいのつもりで、「死」も考えていかなくては、科学の進歩で生きながらえるだけというのも、私には辛い気がする。

 by musica
 
 
 さまよえるオランダ人というワグナーの歌劇があり、元々はハイネの小説を基にしたとのことです。しかし、その小説も元々は中世ヨーロッパの伝説だとか。主人公のオランダ人は神の罰を受け永遠に生きなければならないのですが、これが罰として与えられているところがみそです。
 
 永遠の時間に耐えられるほど人間の精神はタフではないと言うことでしょうか。仮に肉体の若さが保たれても精神の若さを保てるものか、仮に保つとしたらそのために多くの物を捨ててゆかなければならないはずで、それなら長く生きている理由がないとも言えます。
 
 死を理解し恐れるのは人間だけですが、だからこそ人間は限られた人生を価値のある物にしようと努力するのではないでしょうか。
 
 とにかく、長生きするのはすばらしいですが、健康に長生きし天寿を全うしたいとは思います。
 
 from ロクスケ





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あわや火事

 
 
 今日は、子供達は誰も帰って来ないので、さーてもう寝ようと、ベッドにするりともぐり込んだ。すると、なんとなく日向臭いにおいがする。なんだかうっすらとするので、「うーん、なんだろう?」と思いながら、布団を掛けて電気を消した。

 「はっ!」と思い出して布団を蹴飛ばして飛び起きた!!。
「そうだ。そういえば、さっき、テレビで映画を見る前に新じゃがを、弱火で鍋に掛けていたのだった!!。もう水がすっからかんになくなっているはず。もしや、火事になっているか?」

 階段を急いで駆け上がっていく。すると2階のほうがやはり、臭いがきつい。やばい!と思いながら台所に入っていく。でも、鍋からは煙もでていない。あら???と思いながら近づくと、それでもやはり鍋は焦げ臭かった。蓋を開けようとすると、くっついて開かない。ふきんで思いっきり力をいれて開けた。すると、これがじゃがいもでなくてさつまいもだったら、ちょうど石焼芋くらいのできあがりになっている。
 
 鍋が何重かの構造になっているものだったので、なんとうまくできてしまった。鍋の中自体は多少やはり焦げてはいるものの、ジャガイモは十分に食べられそうだ。
 
 腰がぬけてしまった。
 
 ジャガイモを食べる元気はもうとうになく、蓋を開けて冷ましてから、階下に下りてきた。火事になっていなくて良かった。使ったコンロのとなりのコンロはてんぷら用でさらに安全設計になっていて、一定の温度以上になると勝手に消えてしまう。こうやって、生活が便利になると、ある日、だらけた拍子に火事に見舞われてしまうのだ。
 
 特に、ADHDの私は、こういうことをすぐに忘れてほかのことに没頭してしまい易い。本当に危ない。今日はいい教訓にして明日からは引き締めて台所を使おうと決意!

by MUSICA

 このようなことはわたしもたびたびやっていました。最近は無いようですが、何度も危ない目にあって火を使っているときは側を離れない事を鉄則にしているからです。どうやら、側を離れるときは無意識に火を消すことが癖になっているようで、こうなるまでに鍋をいくつも駄目にしましたし、火事になりかけたこともあります。
 
 今のガス台は火が消えるとガスが止まるようになっています。しかし、大昔都市ガスだった頃、吹きこぼれて火が消えたままガスが出続けていた事があり、これは命に関わるかねない出来事でした。
 
 今、とにかく火の側を離れない、仮に電話がかかってきたり誰かが来たときでもほんの1分でも離れるときは火を消す。これをくせにするしかないようです。
 
 同居人がいるときは火をつけたまま平気で側を離れ、頃合いになると様子を見に行くのを不思議な思いで見ていたものです。わたしはほぼ100%忘れていましたから。
 
 ところで、わたしは電気炊飯器で煮物を作りますが、これは寝ている間に色々な物が出来ますし、安全ですから、お勧めします。
 
 from ロクスケ





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気になる言葉遣い


 言葉というのは時代により少しずつ変化をしてくるものでそれ自体は自然と考えて良い。時代が進むに連れ、新しい概念が出来てくるし、沢山の外来語が入ってくる。したがって、その理由により日本語が変化してゆくのはきわめて当然だし、また自然に言葉が変化してゆかなければその時代感覚に沿った表現が出来なくなる。
 
 ただし、でたらめに言葉が変化して良いとは思わない。まず多く指摘されるのが敬語の使い方が最近はでたらめで、きちんと教育されていないということだ。何処の国の言葉にも乱暴な言い方と丁寧な言い方の区別はあるが、日本語のように罵倒後から尊敬語、謙譲語などさまざまなバリエーションがある言語は無い。しかし、例えばきちんと敬語教育を施されていると思われるメーカーの相談窓口や苦情処理係の敬語でも時々何を言っているのか分からないひどい言い回しがある。
 
 「お名前様をうかがってもよろしいでしょうか」、などはまだかわいい方で、「その信号の方がマシンの方にうまく伝わっておられないと思われますので、もう一度コネクターをきちんと差し込んであげて、試してみてください。」などと言われると、あんた何人?と訊きたくなる。ちなみに、正しくは「その信号がうまくマシンに伝わっていないと思えますので、もう一度コネクターをきちんと差し込んで試してみていただけないでしょうか」位だろう。
 
 前に、大学の卒業生から教授に礼状が来て、その末尾に「草葉の陰から先生のご冥福をお祈りいたします」と書いてあったという話を聞いたことがある。今はまだ正しい敬語の使い方を知っている年輩者がいるからこういう言葉遣いがおかしいという話題になるが、もし今後何十年も経って全員が敬語の使い方を知らなくなったら、おそらく敬語は消え去り、日本語の一つの美しさが失われるのだろう。敬語は身分社会の遺物だとか、形式に縛られた悪しき言葉だという人も確かにいる。しかし、敬語は礼儀であり、人と人との関係をなめらかにする。言葉には思いがこもっている。敬語は要らないと言う人に、敬語を使いこなす、そして敬語を聞き慣らすことでどれだけ日本語が豊かになっているかを感じて欲しいと思う。
 
 あと、無意味なカタカナ言葉。これは虫酸が走るほど嫌いだ。もちろん、そのまま日本語になりにくい言葉はやむをえないだろう。デジカメ、パソコン、クーラーなどはもう外来語とも言えない言葉だが、これを無理して日本語にする必要もないだろうし、デジカメをデジタル写真機と言い換えても、デジタル自体に日本語がない。
 
 100年ほど前、日本が盛んに欧米から新知識を取り入れたとき、福沢諭吉や西周などは新しい日本語を沢山作り、それが今では普通に使われている。経済、経営、会社、経理、資本、株式などなど、現代生活でそれらがなければ会話が出来ないほどだ。そしてそのような漢字で表した日本語が中国に輸入され現代中国語の70%が日本語からの外来語になっている。中華人民共和国のうち、人民、共和国(共和は古い中国の年号とたまたま同音だが意味が違う)が日本語だ。同じような事が今の日本ではおきないのだろうか。せいぜい、自動車がカーではないくらいで、ボンネット、ハンドル、クラクション(全て和製英語)エンジン、クラッチ、ブレーキと全てカタカナだ。何とかならないかと思うし、CMなどを見ていると純日本製と思われるのは海苔、うどん、味噌、醤油しか思いつかない。
 
 何とかならないものだろうか。
 
ばい カタカナ嫌いのろくすけ





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枯れる


 「枯れる」とはとても悲しい感じの響きがあります。が、現在の派遣先の女性にはこの言葉が結構はまっちゃう人たちがいる。もう、乾燥しまくっている。お肌も心もすごく乾燥しているのだ。干上がっちゃっている。

 業務に関係が無くても席が近かったりしたら、半年以上いたら普通は仲良くなるのが普通。というか、私はどこの派遣先でもそうだった。でも、今の派遣先は違うのである。
もう、枯れ果てちゃっていて、毎日会う同じフロアの人間とすれ違っても挨拶も出来ないのだ。何だか私も、話し掛けると水分蒸発しちゃいそうで、話し掛けるのを躊躇してしまい、すれ違うって事が多々ある。笑顔なんて物ももちろん無し。

 もしかしたら、景色の一部として捉えられていて永遠に私の顔も覚えてもらえないかもしれない。とも感じる。先日、他の部署の男性と話があって電話したら、「今いる部署の付近は乾燥しちゃって、ドライフラワーにもなれない出来そこないが沢山いるでしょー。笑顔が無いのはやってらんないよねー。」と一言。

 ああ、他の部署の人もそう感じているんだ。と一安心しましたが、環境に異常に影響を受けやすい体質なので、心と肌には水分を今まで異常に補給して潤っていたいと思う最近です。枯れたくはありません。
 
by ナオニャム












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ませた子供



 病院の帰り、電車に乗って座っていると、目の前に小学校低学年とおぼしき男児と女児が二人で乗ってきた。男児はさっさと席をとってすわってしまった。すると、女児は男児の股のところめがけて、吊り輪につかまって足蹴りを入れている。男児は痛がって辞めて欲しがっている。手で押さえたりしているが、女児は一向に構わないでやっている。女児が身体を思いっきり振るたびに、肩にかけたラケット様の荷物が隣に座っているおじいさんに当たる。

 女児は調子にのって、大声で「痛いだろう。お前のあのおしっこの出るところを痛めてやる。おちんちんだあ」と叫んでいる。そして、ますます激しく男児の股めがけて足を振り上げ、膝でぶつかるようにわざとやっている。男児は本気になって怒っているが、女児は楽しそうにやっている。

 一駅、二駅・・・・五駅くらい様子をみたが、ついに私の堪忍の緒が切れた。後ろから、女児の背中をつつく。
「お嬢さん、お嬢さん。あなたがそうやって動くと隣の人にそのラケットみたいのが、当たっているのだよ、わかってる?それと、お嬢さんなんだから、そういうこと言っちゃだめだよ。」とささやくように女児に言う。

 女児はそこでやっと自分のしていることのあからさまなことに気が付いたのかもしれない。ふと、男児の股を蹴飛ばすのを止め、動くのを止めた。

 私は、「ふうー」と胸をなでおろす。こんな、お嬢さんだったら、変態でなくとも連れて行って何かしてやろうかと思ってしまうかもしれない。まだ小学校低学年だ。まったく末恐ろしいことだと思った。まだ、周囲の反応がよくわかっていないだけに、このぐらいの年齢の子供は返って怖い。おじさんが近づいてきて「もっといいものを見せてあげよう」なんて言われても、何のことだかわからなくて、喜んで付いていってしまうかもしれない。

 近頃の子供への犯罪は、半分は子供の側にもあるのかもしれない。テレビなどからの情報の氾濫で、知らなくてもいいことまで知っているために、変にませていたりする。いや、やはりこういう環境を作っている大人が悪いのだろう。どうしたらよいのだろう・・・。これでは、犯罪は増えるばかりだ。

by MUSICA


子供にはもともと善悪の基準などありませんし、何をやって良いか悪いのかの区別は、最初はしつけにより教えなければならず、あるていど基準が身に付いてくると後は自分で区別するようになります。したがって、最初に善悪の基準を覚えさせるのが大切で、そのしつけはやはり親の責任でしょう。

この例は、ASやADHDとは関係が無く、その善悪の基準を教えられていない為と思われます。むろん、もっと詳細に観察すればそうではないのかも知れませんから断定はしませんが。

ただ、子供がどう育つかの基本はやはり親のしつけでしょうね。

from ロクスケ







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頭が働かない状態


 膀胱が破裂しそうになる感覚で、やっと目が覚め、おもむろに体を起こし、トイレに行く。便座にすわり、長い放尿をする。これが何十年とつづけてきた毎朝の儀式である。頭は朦朧と夢うつつの状態。
 
 これから1時間、いやへたをすると2時間は現実感に手が届かない半覚醒の闇の中。コーヒーや緑茶、リタリンなどでむりやり脳を覚醒でもさせないと、また重力に負けて寝床に身を横たえてしまいそうだ。
 
 自分がサラリーマンにでもなって勤め人の生活を余儀なくされでもしていたらどういう生活が考えられるだろう、想像するだに恐ろしい。あちこちぶつかりながら、動かぬ体をひきずり、あの悪名高い通勤満員電車に身を押し込み、人波に押され汗だくになって出社し、タイムカードをがちゃんと押し、イスにすわるやいなや、電話の応対、書類のチェックなど仕事がどっと押し寄せるのである。オープンなオフィスの空間では、何をしてもつつぬけだ、ティシュを落としても、鼻くそをほじっても、おならをかましても同僚の目は厳しく僕をチェックしている。
 
 こんな所では何一つ自由にできない。ストレスで肩こり腰痛、胃潰瘍が即座に発症するだろう。
 
 それに比べて、今は、マックを起動させ、音楽ソフトをたちあげて、典雅なバロックハープの調べを聞きながら、おもむろにモンカフェを一杯。片手でちょびちょびすすりながら、ヤフーのテレビ欄をチェック、今日は面白い番組があるかな、ああ、この映画はHDDに録画しとかなくちゃ、などど好き勝手な毎日。ああ、人目を気にしないでもできる自由業でよかった。つくづくそうおもう。だだ、唯一の恐怖は「締め切り」というやつである。これさえなければ、もう言うことはない。

by mogurin








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隣人は酒鬼薔薇聖人



 わたしが住んでいるところに酒鬼薔薇聖人がいると言う噂があります。2月ころご近所に引っ越してきて、新聞販売店で働いているというものです。正直不安です。かなり残酷な事件でしたから。少年犯罪でなければ...

 その噂を、AD/HDじゃないかな?と思っている近所の奥さんに話したところ気になったからと、新聞販売店を何件かまわり「いますか?」と聞き「いない」とか「迷惑」と言われ、交番に行き「そんな事実はない」と言われ安心して帰ってきたそうです。

 いたとしても「ハイ、うちにいます!」なんて言わないでしょうし交番だって「そうなんだよ〜、こまっちゃうよねぇ」なんて言うはずもなくなんだか釈然としません。と言うよりまさか聞いて歩くとは。ご主人に「わざわざ行くなんて、信じられない」と叱られたそうです。ご本人曰く「どうぢても気になって仕方なかったから。」との事。う〜む。

 これまでも、お土産を持っていこうと「これから行っていい?」と電話をすると「待ってたのよ〜。きれいだよ、早くおいで?」「どこに?」 「ん?花見よぉ!」わたしはちんぷんかんぷんで公園に行きお弁当を食べさせてもらい..

 夜になってPCの電源を入れると「ねぇ、花見に行かない?」「先に行ってるね」 「お弁当はいいよ」などのメールが入っていてそこではじめてそういうことねぇ。と理解できたり。なぜ携帯の方にメールしないの?自分は携帯から入れてるのに?

 彼女には息子の事を話しているので、軽度発達障害はよく知っているはず。彼女が不自由を感じていないなら、わざわざ「あなたAD/HDじゃない?」と言うのはどうかと思ってみたり。でも、鬱がわたしよりひどいのか?病院にも行かないようなのですがちょこちょこと出て歩いては、お誘いを受けたかと思うと誘っても出てこない。と言うのが1年くらい続いたりします。

 去年は学校関係にも一度も顔を出しませんでした。伝えるべきかどうか、お節介にも迷いますが迷うことで、わたしが鬱になっていきそうな..まったくわたしという人は..

by みゆき







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棚からぼた餅


 わたしは自宅で細々とんぼ玉を創っています。
 
 とんぼ玉とは、遥か4500年前の昔からエジプトやメソポタミアなど世界各地で創り始められた色模様のついた穴のあいたガラス玉のことです。古代では、とんぼ玉は宝石以上に人々を魅了し、魔除けや装飾品などとして、高貴な方々に用いられました。
 
 とんぼ玉が欲しくて奴隷と交換したという話もあります。

 日本でも古墳から数多くのとんぼ玉が発掘されており、江戸時代には日本人好みに、あらゆる技法を凝らした玉が創られかんざし・帯止め・根付けなどとして広く用いられました。また奈良の正倉院などにも古代の蜻蛉玉が現存しています。

 現代でもとんぼ玉は、その美しさと不思議な魅力で、装身具や鑑賞用として、人々の心を捉え続けています。今でも職人の手で1つ1つ手創りされているます。わたしがその創りての一人だなんていたら恐れ多いですがわたしなりにど素人と言い続けてはや5年になります。

 今回、島根のある作業所にとんぼ玉を収めていた作家さんが値上げを言い出し、値段の折り合いがつかないと、わたしにその仕事がまわって来ました。1個700円で月に20個ほどで儲けは薄そうですがコンスタントに納入できそうなことと、何より自分の作品が売れること。わたしの作品がどこかで売られて、誰かがそれを買ってくれて、身に付けてもらえたら..なんて思うと、とっても嬉しいです。

 単価が安いからとか数が多いからといって私の作品として買ってくださるのですから、絶対に手を抜きせずがんばりたいと思っています。

 今まで創ったり創れなかったり創らなかったり。準備したり片付けしたり..なんて考えるとどうしてもやる気がうせてしまってあんまりやらないから、なかなか上達しない。よくあるパターンですがそれでも、投げ出さず続けてきてよかったと思います。
 
 神様っているのかなぁ?

by みゆき














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英会話に浸りまくり


 ADHDだからこんなにこりまくるのか、いったん始めた英会話にはまりまくっています。一日2レッスンは受けていますし、週2日はフリートーキングのレッスンをそれぞれ3レッスン受けています。一日1レッスンだと物足りないという気持ちになってしまう。疲れていても、億劫でも、眠くても一度レッスンをすると、もう一度レッスンをしたくなってしまうのです。

 だからといって、まだ1ヶ月たっていないので目に見えてすごく会話がうまくなっているとは思えない。第一にボキャブラリーが不足しています。テレビでのレッスンが6月から受けられるので、そうするとボキャブラリーの特訓を受けることができます。それまで、ボキャブラリーは保留。

 昔、英会話をある外人宅で受けようと思ったことがありました。でもそのお宅は、伺ったらなんとなくトイレが臭いんです。で、あ、これはだめだと。そんなの理由にならないのでしょうけれども、要するに決心が固くなかったんでしょうね。

 会社でも英会話のビジネス用の研修を2回も受けさせてもらいました。一回約10日間に渡ってです。まあ、その間仕事を休むわけですから、職場としてはいい迷惑なわけですね。でも、いざ外国人が来ると「頼む!」とヘルプが来るわけです。おまけに自分のセクションでない仕事でも外国人が来ると呼ばれてしまうのです。一度などは、坂を歩いて10分のところに出張していて、ヘルプの電話がかかってきて、仕方がない、隣のセクションのお助けマンではせ参じたら、お金を払いたいから単に請求書を切ってくれということだった。まったく、そこには有名私立K大学の卒業生なんかもいて、「なんでそんなこともわかんないんだい!?読み書きはできるんだろうから、書いてもらえばいいだろうが!」と内心かなり立腹したものである。K大学やW大学なんかあるいは京都の国立K大学なんか出ていても、ちっとも役になんか立ちはしない。レベルの高い大学って卒業しても、なにが役に立っているのかなあ。

 場合によっては、外国人の苦情まで他セクションのものまで聞いてやる羽目に陥るのです。全く持って不条理であります。

 でも、英語ができるっていいなって自分では思うのです。通っていると、高校生といっしょだったりしてがっかりするけれども、それでも彼らは一番下のクラスからだんだん上がってきたのであって、私は今のクラスにすんなり入った。今のクラスはレベルは高いほうで、あと1クラス上に上がるともうその上がまだ開講されていないほどだ。

 楽しみである。こういうことは老後に取っておこうと思っていたけれども、記憶力がまだ衰えていない今のうちにやっておくのもまたよしと思う。それに、講師によっては、その国のADHD事情も教えてくれたりする。非常に興味津々である。


by MUSICA

 過集中タイプMUSICAさんの面目躍如ですね。わたしはとにかく何にでも食いつきすぐに飽きるタイプでうらやましいと感ずるときもあります。わたしも一応は英語が読み書き話し聴き出来ると自負していますが、集中して勉強したと言うより、いつの間にか何とかなったという感覚ですね。もともと好きだったので色々な言語をかじりましたが、何とか仕事でもプライベートでも使えるようになったのは英語だけです。
 
 今でも仕事中はラジオでAFNをかけっぱなしにしていたり、テレビの字幕映画をかけ放しにして観ていないなどを何となくやっていることで耳は慣れているのでしょう。
 
 わたしの場合は集中しての勉強は苦手です。
 
from ロクスケ










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エチュードについて(1)


  ピアノとギターは相変わらず続いています。ピアノはブルグミューラがだいたい暗譜し終わり、鍵盤を見て弾けるようになりましたが、そろそろこの曲集に飽きてきたみたいです。これから表情やタッチの強弱に気をつけて弾き込むべきなんですが、なにしろ暗譜が終わるまで、100回以上は弾いているのでややマンネリ気味です。ギターはカルカッシ作品60、相変わらず暗譜にてこずっていいます。覚えたと思っても、翌日になるとポロポロ欠落が生じていて、またやり直す、この繰り返しです。友人に言わせれば、ピアノ譜は覚えられるのだから、ギターやめてピアノだけに専念したらどうかということでしたが、僕は基本的にギターの音が好きなんです。ただギターだと音域の関係で弾ける曲が少ない。それでまあピアノもやっているわけです。

 今回は、エチュードについていろいろ考えていることを書いてみようかとおもいます。(以下あくまで音楽ど素人のアマチュアの戯れ言です)エチュード(練習曲)というのは楽曲の演奏技術向上のために作られた曲で、特定の音型や指使いの繰り返しが多い。エチュードは大まかに二種類にわけられる。曲の体裁をもっているものと、もっていないものの二種類である。前者はピアノでいえば、バイエル、ブルグミューラ、ツェルニー、クレメンティ、バッハ、ショパンのエチュードが有名。
 
 後者は、ハノン、ピシュナなどがある。それで面白いことに気がついた。ツェルニー(カール・ツェルニー/1791〜1857)はベートーベンの弟子である。かれは師を大変尊敬していて、ベートーベンのピアノソナタを弾くために、エチュードをたくさん作った。ツェルニー30番,40番,50番,…日本では真剣にピアノを習おうとする連中はみんなやらされるらしいが、後になるほど長ったらしく難しくなり、速度指定もむちゃくちゃ速く、これのしごきでピアノ嫌いになるものが多いらしい。あとこのようなエチュードをまともに弾けるようになるためには、ゆうに10年はかかる。
 
 このあいだツェルニーのエチュードの録音されたものを聞いてみたが、繰り返しが多く、音楽性もあまり感じられなかった。通して聞くと退屈だ。残された短い人生、つまらないエチュードに10年を捧げるのはいかにももったいない。よってツェルニーは弾かないことに決めた。まあ、それは置いておいて、このツェルニー先生、作曲家なんだが、エチュード以外の曲は作曲していないらしい。ピアノ教師もやっていたので、生徒指導と作曲で忙しかったのではないだろうか。音楽の世界ではこのように、まともな曲を作曲せず、技術向上のためのエチュードだけを作曲したエチュードのプロというものがいるようだ。ハノン、ピシュナもそうで、僕は一見すると無味乾燥なピシュナのエチュード(リトル・ピシュナ48の練習曲集)は、以外やこれがけっこう好きで、毎日弾いている。
 
 
ー 続く ー

by mogurin


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注意欠陥な犬



 我が家にはリリーという犬がいる。

 息子が「ペットを救おう」とかなんとか書かれたポスターを見て、痛く同情し、是非もらってくれと言うので、日野にあった収容施設まで行ってもらってきた。

 手続きが面倒だ。一度行っただけではもらえない。二度目に面接して、契約書にサインして、やっともらった。

 金もかかる。犬を飼うためのフェンスを前もって用意しなければならない。フェンスは輸入して、取り寄せた。

 8歳のリリーにとって、三宅島から避難してきて、飼い主と別れ、避難所を転々とする生活はかなり厳しいものだっただろう。その上、私たちが引き取りにいった時は飼い主が手放した犬はリリーとリリーの夫しか残っていなかった。この夫妻は子犬をもうけたが、子犬はすぐに引き取られたそうだ。

 もらって帰る時、車に乗せると、抱っこしてくる。不安なのだ。すでに8歳で、紀州犬と柴犬の雑種なので、結構デカイし、重い。

 このリリーが私たち一家に心を許すまで一年かかった。一年すると、私たちがフェンスに近づくとジャンプして喜ぶようになった。

 さて、このリリーだが、もちろん散歩は大好き。朝の散歩が待ちきれない。夜は玄関に入れることがもらう時の条件なので、朝の散歩は玄関から出かける。玄関から道路まで二段の階段があるのだが、彼女はあせるあまりリードに足を引っ掛けて転んだことが二度ほどある。

 数日前はよそ見しながら散歩していて電柱に頭をぶつけた。

 また、同じ日に自分でしたおならにびっくりして跳び上がった。

 犬はADHDだとは思っていたが、こんなに注意欠陥だとは思わなかった。人に話すと、「飼い主に似るっていうから・・・。」と言われてしまう。 


by キャサリン



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エチュードについて(2)


 たとえば1番は左手がミ−ド−ミ−ソ、右手がドレミファソファミレドのパターンで半音ずつ上がっていくのである。全調終わったら右と左を入れ替える。35番のスケールはもっと難しい。左手がミ−ソ−ド−ソ−レ−ソ−ファ−ソ、右手がドレミファソラシドシドシラソファミレで、これも両手が半音ずつ上がって全調の練習をする。
 
 すべてこの調子である。昔、イラストのテキストで、線を引く練習というのがあったのを思い出した。画材に慣れ、手先の器用さを向上させるために、点線、上にカーブした線、下にカーブした線、S字カーブ、線分と点線、クロスハッチなどをびっしり描きまくるのである。ちょっとやってみたが、すぐ飽きてしまった。線の練習は、デッサン、スケッチなどを通じてやるのが本当だとおもった。
 
 そう言えば、美大や芸大には時々石膏デッサンの達人という者がいるらしい。石膏デッサンを描かせれば、神の領域に到達しているが、それしかやらない。描写力があるので描けば何でも描けるはずなのに、自分の作品はいっさい作らない。彼らは後にデッサン教師の職についたりするそうだ。エチュード作曲家と酷似している。ただ音楽の場合は、スケール、コード、アルペジオは楽曲の構成要素だから、どうあってもマスターしなくてはならない。エチュードでもバッハやショパンのものは別格である。
 
 エチュードの域を超え、完璧な芸術作品といえる。それで次に、ショパンについて調べた。ショパンのエチュードといえば、ピアノチュードの最高峰。技術的にも内容的にもピアノエチュードの到達点といっても過言ではないとおもう。かれがこの作品10&25を作曲したのは、すごく若い頃、19歳〜25歳の6年間である。なぜこんな難曲を作曲したのか?ズバリ、自らの演奏技術向上のためである。すでにピアノの名手として名を馳せていたショパンは、自分のピアノソナタをもっと上手く弾くためにこういったエチュードを作曲した。彼の頭には一般のピアノ学習者のために教育的な目的でチュードを書くといった発想はなかったにちがいない。
 
 その点バッハが長男フリーデマンのために作曲したインベンション&シンフォニアと全然違う。これはバッハがだいぶ年を取ってからの曲だ。芸術的内容は深いが、かなり易しい初級の上レベルの曲である(まだ弾けないけど)そこで仮説。作曲家は若い頃、自分のために難しいエチュードを書き、年を取ってから一般向けの易しいエチュードを書く。実はこれを裏付ける作曲家がもう一人いる。ギターの作曲家フェルナンド・ソル(1778〜1839)である。スペインのバルセロナ生まれ、パリ、ロンドンで活躍した作曲家兼演奏家であり、ギター界のベートーベンと言われる。
 
 ハイドン、モーツァルトふうの明るい曲が多い。最近僕はこのソルにはまって、NAXOSでCDを買いあさっている。ソルは幅の広い作曲家で、ギター曲以外にも、ピアノ曲、オペラ、声楽曲、宗教曲などたくさん書いているが、自ら作品番号を付けたのはギター曲のみである。それだけギターに入れ込んでいたのだろう。このソルが最初に出版したエチュード作品6(12曲)、次に出した作品26(12曲)、超むずかしい。弾こうとしたが、指がつる。セーハ、ポジション移動が多いうえ、指間隔をめいっぱい広げなくてはならなかったりと、ハードなことこの上ない。こんなエチュード、弾けるやついるのかと思ったら、セゴビアがきれいに弾いていました。
 
 (あたりまえか)それで、やっぱりソル先生も反響がかんばしくなかったのか、あるいは出版社の意向もあったのか、もっと易しいエチュードをということで、その次に出した作品31、作品35。それでもまだ難しいということで最後に出したのが作品60。と、後になるほど簡単になっている。作品60の1番など単音でド−シソ・ドーシソ・ドレミソ・ファミレソ…とバカでも弾けますなどと書いてある(これはウソ、単に音がどこで生み出されるかを知るための実習です、と書いてある)僕もカルカッシを早く卒業してソルに行きたいのだが、まだ道のりは長いようです。

by mogurin





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スキヤキ

 吉祥地のダイヤモンド街のいつも声をはりあげている安売り肉店で高い牛肉をたっぷり買う。それから、以前から思いを寄せていた男のアパートへ向かう。彼とはここ十年来の友人だ。  ドアをノックすると、友人は案外すんなりと部屋に入れてくれた。調子にのった私は、スキヤキに要る材料の在庫チェックを始めた。  「お砂糖ある?」とたずねると、  「う〜ん。グラニュー糖なら・・・。」  「じゃッ、グラニュー糖でいいかっ。」  二人で野菜など足りないものを買い出した後にいよいよ調理だ。偏食のために料理のレパートリーが極端に少ない―一週間、毎日、酢豚ばかり作りつづけたこともあった。思った味が出せるまで作る―私だが、スキヤキには自信がある。 だが、食べてみるとマズイ。この最も純度の高い糖は、どうもスキヤキ向きではないようだ。  その後、 「今夜は泊まってくね。」と、居座りを決め込んだ。  その友人は現在、私の夫である。 キャサリン

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朝の鳥 (投稿記事です)

私の生活には他人に理解しがたい規則がある。朝4時半に近くの公園まで自転車を飛ばす。公園の澄みきった森林の空気の中、鳩、シジュウカラ、鴨や白鷺におはよう、と声をかける。毎日の微妙な空や花々の色の変化を見ながら池の靄の奥にあるベンチに座る。そこが私の指定席なのだ。他にもベンチはたくさんあるのに。そこで煙草を一本吸う。パイプを忘れると吸えない。だからいつも煙草と一緒に持ち歩く。

友人とランチをとりにいった時さへパイプがなくて外に買いにお店を出てから30分は待たせただろう。パニックになるのだ。相手を待たせているのは解っているけど相手よりパイプが大切なのだ。信じられないだろうし、そんな自分が嫌になる。相手の顔を見た瞬間に。確かにわがままだ。そうかもしれない。でも許してほしい。そうしてしまう自分がいるのだから。

by レイ


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プロのお掃除

 今月から働きに出ることにした。選んだ仕事はなんとプロのお掃除サービス!(このわたしが..)とにかく上から下へが基本である。(当たり前かぁ)上からはたき?(ボアボアの静電気でホコリを取るヤツ)を掛け洗剤を薄めたもので雑巾をぬらし拭いていく。それから床に掃除機をかけカーペットやジュータンは粘着性のコロコロでゴミをきれいに取る。フローリングや畳はしっかり気合を入れて雑巾がけをする。

 同様にお風呂もトイレも上からやっていく。細かい所に気を配り、置いてある物はすべて外に出して角から角までずずずいっと、きれいにしていくのだ。お風呂はすべてきれいにしたら、すべて水気取る。もちろん浴槽の水気も取る。(どうせ溜めるのに)

 自分の家は片付けもないのに、仕事だとちゃんとできるのが不思議だ!家じゃやらないようなところまで手を突っ込んでいる自分を客観的に見てヾ(- -;自分ちもやれよぉ。と突っ込んでいる。ついうっかり。もあるが最後にリーダーさんがチェックを入れるので「ここやった?」「これは大丈夫?」と聞いてくれるから忘れたままにならず、ホローもできる。わたしだけでなく、みんな「あっ」とか「ここもだったんですか?」って言っているので、自己嫌悪に陥らずに済む。

 毎回、午前も午後も違うお宅に伺う。その家その家で作りも内装も違うので飽きないのがいい!一軒が1時間半から2時間。みんな手馴れたもので仕事が速いから自分も負けじと手早くやろうとする(でも時間がかかっている)と時間が経つのが早い。移動中のおしゃべりも楽しい。(その時間も時給は発生している。ラッキッ)なんだか、わたしに向いているように思えている。
 
 ただ、けっこうきつい仕事である。しかもこのところの暑さ。共通の意見として一週間のフルは無理!せいぜい週3回である。このペースもいいのかもしれない。行って休んで、休んで行って。1日が経つのが早く感じるし、一週間も早い。

 ベテランにもなると、定期サービスのお宅は、きれいなのでやった気がしないらしい。わたしはまだ行ったことはないが「なんとかして〜」的な汚れたお宅を、きれいにするのがなんとも言えずいいらしい。どんなに汚いトイレでも素手でやってのける。何年か前に『片付けられない女』の方のご依頼を受けたそうだが時間契約で床が見えない状態を少し見えたところで時間切れ。2週間してまた行ったら元に戻っていたそうで「さすがにあれは悲しかった。」と言っていた。ウチは..まだ床は隠れていない。なんとなくだが、このくらいならまだ大丈夫とかここまで汚すと大変とかわかってきた。これからは少しウチがきれいになる?かもしれない。ないか。。

by みゆき




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交通事故


 先日、自転車にのって朝出勤途上で車に接触し、前輪を押されて右側にパタリと倒れてしまった。おかげで、右側は足から胸から腕からすべて打撲と捻挫である。大変痛い。相手は車庫から出てきて、大型のトラックが止まっていたので、右側をよく確認しないでいきなり飛び出してきて私とぶつかったものである。
 
 通勤途上であったので、通勤災害である。
 
 ところが、相手の保険会社はなにか若い人でよく知らないのか、通勤災害の基金と交渉してくれと言っているのに、保険会社への診断書などの請求と、初診で見てもらった後に翌朝から痛むところについては、「支払いができない」などと言っている。冗談ではない。1日目はなんともなくともあとから障害がでてくることもある。だから、わざわざ警察も呼ぶのだし、病院へも行くのだ。女だと思って馬鹿にしているのだろうか。
 
 友人の保険屋に電話で聞いてみた。すると、信じられないくらいひどい会社だなあ、そういうのは、大蔵省の保険課に言いつけてやるといいんだよと教えてくれた。私は、通勤災害の方を優先して行い、基金と保険会社の交渉にしてもらうよう再度電話をする。ところが、相手は食事中だとか言って出てこない。なおかつ、こちらに掛けるようお願いしてあったのだが、全く連絡もない。
 
 ふざけた野郎だ。再度電話するか。

 ところで、私のほうはすっかり右側が腫れているらしく、体の右側が重くて仕方がない。仕方なく2日も仕事を休んでしまった。本当にこのところ付いていないのだ。この後どうなるかはまた逐一皆さんに報告しよう。事故はめったにないが、遭遇したときはそれなりに勉強でもある。
 
by MUSICA


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意識障害


 長いこと残業に継ぐ残業で、私は精神的にも肉体的にもへとへとになってしまって、結局半年以上休んでしまった。しかし、上司は自分はちっとも悪いと思っていない。しかも、この仕事はもう「貴女にはさせないわ。」ということで、2千万以上の支出の抑えた手柄は上司が横取りらしい。なおかつ、上司が作った基準というのがこれまた非常にお粗末である。私にはやらせないといったが、これでは逆に損をする可能性があったり、訴えられたりする可能性があるので、私が知る範囲ですべて加筆訂正したものを、関係者に配った。

 まったく、女上司はぬけぬけとしている。そこで、われわれの人事を扱う人事課は、その女上司の行動や発言に問題を感じており、管理職としての適正に欠くさまざまなことに白黒をつけようとしている。通常、人事課というのは、管理職に味方するものであって、管理職の肩をもち、職員組合がそれに対抗するものであるが、今回はっ少々違っている。人事課が私というただの課員に肩入れしてくれているのだ。そして、もちろん違った立場で組合も人事に「こういうことを言うのは困る。こういうことをするのは困る。」とちくっているので、そのたびに上司は人事課に呼ばれてお小言を言われているらしい。

 ところが、このあいだその姫上司が開き直った事件があった。
 
 今まで私の仕事をめぐって、人事課が通常ありえないのだがずっと介入してきた。それを、いきなり無視して、私を呼びつけ、今までと同じこと「貴女にこの仕事はもうさせない。」と言うことと、今病気明けにつき勤務の軽減と言うのを受けているのだが、「勤務の軽減が終わっても仕事の再配置はしない。」と言い渡された。また、私は人事課が第三者として仲介していないことを心配し、姫の目の前で小さな録音機器で録音していたのだが、「あなた、なにこれ!!録音機ですか!!録音するなら初めから言ってよ。冗談じゃないわ。私も録音します。」と言って探しに言ったがすぐに見つかるものではないし、帰ってきて「もうお昼だわ。どうしようか。このままやる?」と言うので「私は構いません。」と言ったが、いきなり怒った声で「いや、お昼は休ませましょう。またあとで、ガタガタ言われるのはいやだから。」と怒鳴り、その場を立ち去った。私はしばらくその席で、はーとため息をついて座っていたが、よろよろと自席に戻る最中に意識を失った。

 気が付いたら、ある大きな病院の集中治療室だった。息子の顔が見えた。声がでなかった。聞けば、倒れて救急車で運ばれたのだと言う。医者がきていろいろ聞いてくる。なんとかかすれた声で答える。いろいろな医者が来た。精神科医も来た。
 
 カンファレンスの結果、てんかん性の意識障害だそうである。昔のいうところのヒステリーだそうである。逃げ場がなくなって、あるいはショックで倒れたのだろう。3時間くらい意識がなかったらしい。経過観察で一泊して翌日から出勤した。もちろんその間姫は見舞いにも、家に電話もかけてこない。

 出勤しても姫は一声もかけてこない。人事課にそのはなしをすると、やはり管理職として何事かということで、姫は人事課に呼ばれた。しかし、姫は言い放ったものである。
「向うが倒れて皆さんに迷惑をかけたのだから、向うから申し訳ありませんでしたと言ってきて然るべき。」と!

 自分が悪いなどとは夢にも思っていないのである。こういう上司は、今後いっさいごめんこうむりたいものである。ちなみに、姫以外の方で私が倒れたときにいろいろと気をもんでくださった方は、いろいろな人から名前を聞いてお礼をして歩いた。全く覚えていないので全く往生した。

 次の人事課が参入しての話し合いのときは、人事課がわざと「仲介をお願いしてきたから」と言って姫を納得させて来た。そのときの話し合いは前と全く逆である。人事課が今後も仲介ではいること、勤務の軽減後に再度私の仕事については考え直すということになった。

 また、これも前代未聞であるが、私の主治医に会いに行くことにし、それも通常上司だけが行くものであるが、人事課から2人も人を出すということになった。姫は今盛んに不満な顔をしている。人事課は姫を信じていない。自分達の耳で主治医がどういったか、判定しようとしている。主治医は、当然私の味方である。今後が楽しみなことだ。粘った甲斐があった。
 
by MUSICA
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大きなお世話



 私の娘―現在小2―は歩き始めて以来、色々派手にやってくれる。

 一歳の頃は幼児用イスから落ちて脳しんとうを起こし、夫を真っ青にした。

 二歳ではフィールドアスレチックの縄ばしごを頂上まで上ってしまって、高所恐怖症の私が抱えておろす羽目に・・・。また、私が花の水やりか何かのために玄関から外に出た途端、玄関ドアの鍵を閉めてしまった。私の話す言語は全く理解せず、ただ泣き喚く。この時は建築業者まで駆けつけた。玄関の鍵を壊そうとしたところ、隣の奥さんが玄関脇の出窓に鍵が掛かってないことに気付いて、事無きを得た。

 今でも相変わらず、毎日ケガをして帰ってくる。1日に2回保健室で手当てしてもらうこともあるくらいだ。

猿山の柵事件

 その娘が起こした年中の時の事件。夏休みに息子(小1)と娘(年中)を連れて、羽村動物園へ行った時のことだ。ふれあい広場でうさぎやひよこをだっこした後に猿山へ行った。

 猿山で、だっこを要求され、娘を抱き上げる時、鉄柵の間を娘の片方のひざがツーッとすべって上がった。膝だけが柵の内側に入っている。ちょっと引っ張ったりしてみたが、本人が「抜けない」と主張し、痛がる。仕方がないので、近くにいた年配の男性に動物園の職員を呼んでくれるようにお願いした。

 すると、その男性、頼んでもいないのに痛がる娘の膝をグイグイ伸ばしたりするので、娘はは泣きわめくわ、足はさらに深く入ってしまうわ。事態は悪化。

 そこへやっと、園長さんはじめ、動物園の職員さんが数人やって来た。最初、職員たちは伸ばした足を柵の中に入れ、その後柵の中で膝を曲げたために出なくなったと勘違い。そうではないと説明し、足の曲げ伸ばしはなしということに。では、柵を両側から手で引っ張って広げようということに。でも、抜けない。レスキュー呼ぼうか、といっているうちに職員が鉄棒とバールで柵を広げてくださり、何とか出た。ホッ。

 助かってみると、怪我もないし、園長始め職員たちと和気藹々の雰囲気。園長はなぜか、私たちに「せっかく動物園に来てくれたのにこんなことになってごめんなさい。」と謝罪。「猿山の柵の幅がお嬢さんの足の太さとぴったりだったんですね。」と、当然だが、全ての人が満足のいく説明をしてくださった。

by キャサリン



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よくものを聞かれます



 出不精な人間ではあるが、たまに買い物や用事で外に出ると、僕は見知らぬヒトによく声をかけられる。話しかけられやすいのだ。今日もスーパーの二階でおかずを買っていたら、痩せて背の低いおばあさんがやって来て、「これ何て書いてある?」と、とつぜん納豆のパックを見せられた。
 
 一瞬ののち、おばあさんの意味するところが、賞味期限の表示の文字であることに気がつき「7月9日、もう過ぎてますね」とはっきり教えてやった。「え、そうなんだ、文句言ってやる「どうもありがとう」と、おばあさんは納得した様子で去っていった。たぶん、老眼で文字が読みにくかったのだろう。
 
 このように唐突にものを聞かれることが、しょっちゅうある。こっちは、聞かれ
る心の準備ができていないもんだから、まごついてしまう。

先日も地下鉄のホームで、太った三十歳くらいの無精ひげを生やした男に、「町田に行きたいんだけど」といきなり言われた。僕は、ホームのベンチに腰をかけて次の電車が来るまで本でも読もうと思っていた矢先、急にそういわれてびっくりした。男は僕が答えてくれるものと確信している様子だった。男の言い方がえらくぶっきらぼうで、ヒトにものをたずねる口調ではなかった。

 後ろに痩せて背の高い美人を従えているのがわかった。どうやら女の手前かっこつけているようだ。「町田ですか、町田は小田急線じゃなかったかな。この先の階段をを上がって、改札を出て右に行けばすぐ小田急線の代々木八幡駅ですよ」そう教えてやった。「なんだ、やっぱり乗り換えか」男は面倒そうな口調だった。ぺこりと一礼して二人は去っていった。なんだか後味が悪かった。
 
 駅までの道順とか、時間とか、バス停とか、映画館とか、聞いてくるのはほとんど男とおばさんだ、若い女が尋ねてきたことはない。いや、一回だけあったか…。もうずいぶん前、池袋の芸術劇場の前をふらふら歩いていたときのことだ。いきなり通せんぼするかたちで二十台とおぼしき女に行く手をはばまれ「すみません。お茶してくれませんか?」と言われた。そのときは、さすがに冷静になって考えて、女の態度に新興宗教もしくは、妖しげなセールスの匂いをかぎつけたので、「ごめん。忙しいから」と拒絶することができた。あぶない、あぶない。
 
by mogurin


 私は逆に人にものを訊ねられると言うことはあまりありませんね。コイツに訊いてもどうせ知らないだろう、と思われるか、どうせ不親切な奴に決まっているからと思われるのでしょう。まあ、意識していないけれど、人を拒否する雰囲気があるみたいです。
 
 また確かに一部の人間には人にものを尋ねながらまことに不作法な奴がおり、車を停めて窓から首だけ出して「〜にはどう行くの?」と偉そうに訊く奴などには、昔は丁寧に嘘を教えてやったもんですが、今は単に「知らぬ」とだけ答えています。
 
 以前、東南アジア系らしい人間に「○×△△α・・・?」と訊ねられ、「□△○×・・・!(きっぱり)」と答えたことがありますが、中身は今もって判りません。彼はごく当たり前のように私にはもう用が無いとばかりに歩き去りました。
 
 ところで、一部の国の人にはとにかく知らないと言うのが恥ずかしい、あるいはとにかく相手をがっかりさせたくないという意識から全く自然に間違ったことを教える人たちが居て、外国で道を尋ねるのは危険です。一人二人ではなく何人かに同じ事を訊いてみると、大概言うことが違います。下手をすると、そこいら辺にいる大勢が集まってきて議論を始めますので、事前に地図などでしっかりと調べておく必要があります。
 
from ロクスケ


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キャーッ!


 いつも息子が遊びに出かけるときは、必ずベランダから見送ります。小学6年生になったばかりのその日は、わたしが買い物に出ていたため息子はわたしの見送りなしで出かけようとしていました。

 いつもはマンションの入り口で左右確認をして出かけるのに確認なしで飛び出そうとしました。ちょうどわたしは帰ってきて、様子を見ていたのですがあわてました。どんぴしゃのタイミングでトラックが通りかかたからです。とっさに「キャーッ!」しか言えなかった情けないわたし。

 でも、その声に息子があわててブレーキ!息子の前をトラックが掠めて行きました。
ショックでしたぁ。それまで左右確認していたのは安全のためではなくわたしに叱られないためだったわけです。考えさせられました。それにしても息子は「あっ、ママ!びっくりしたぁ。」って。わたしじゃなくてトラックに驚けよぉ!!

by みゆき

 みゆきさんの話とは違いますが、ちょっと似た事でよくお母さん達の中に、「悪いことをするとお巡りさんつかまるよ」「悪戯をするとお父さんに言いつけるわよ」というやり方で子供をしかる人が居ます。とうぜん、子供はお母さんやお父さんに見つからなければ良いと考えます。
 
 なぜやってはいけないことなのかをきちんと理解させないと、そうなりますね。むかし何かで読んだのですが、電車の中で騒ぎまわる子供に注意をしたら、その母親が子供に、「ほら、おばちゃんに怒られるから静かにしなさい」と言ったとのこと。
 
 所で別の話ですが、母親が道路の反対側にいる子供に、車が来たとき危ないと声を掛けると、子供は反射的に母親のところに駆け寄ろうとして車にはねられるという話を聞いたことがあります。原則として、小さな子供の手は離さないことと、もし何かの都合で道路の反対側にいる子供には声を掛けないというのが正しいやり方だそうです。
 
from ロクスケ



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転落



 もともと太っている割に上半身上部に贅肉の少ない私だが、加齢とともに肉は下半身へと垂れ下がってきている。その上、最近の体重減少―潰瘍性大腸炎、うつ病の改善のため過集中により多動が可能になった、薬の副作用と私は分析しているーにより胸の肉もすっかり落ちてしまった。

 ブラジャーのサイズの大小で、一喜一憂するのが女性の常である。最近、ブラをつけると、隙間だらけで、カップがしわしわなのだ。バストの周りの贅肉もすっかりなくなってしまって、寄せ集める贅肉にも事欠くありさまだ。だが、負けん気の私は意地でも75Dを主張。ここ数年間、しわしわのブラに甘んじていたのだ。今日、意を決して、サイズを測ってみた。な、なんと75Aにまでしぼんでしまっていた。

 「転落だ。」と、夫に訴えるも、「フン。そんなことはたいしたことない。」と、夫。
 考えてみれば、2人目を出産した後、やはり痩せて、胸が小さくなったと、騒ぎ立て、夫と一緒に「プライエラ」というタイ製のバストを大きくするお茶を購入した。あれ以来回復することはなかったのだ。ただ、太って贅肉がバストの代わりをしていただけだったのだ。

by キャサリン






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紫陽花(アジサイ)



 今日、西友にいくと、がく紫陽花を売っていた。大きな青い花が2輪ついていて、なんともしぶい。食べ物を買いに行ったのでどうしようか迷ったが、つい買ってしまった。帰りは大荷物である。

 がく紫陽花は、竹のようなもので編んだ籠の中に、さらに黒いビニールの入れ物に入れられている。家に持って帰ると、早速、玄関の横の畳半畳しかない庭の片隅を掘って籠から出して、ビニールもはずし、植えてしまった。

 うちの庭はこれだけしかない。私は、たったこれだけしかないから、建築士と建築屋から寄贈されたはなみずきの木以外にもいろいろと植えたくて考えていたのだが、元夫ははなみずきの周りを丸く土を残して、後はレンガをおき、レンガの周りは砂利を買ってきて埋めてしまった。しかも砂利は、買ってきたときに重くて一度に運べず、確か3回くらい店と往復して買ってきたのだ。

 でも、あきらめきれず、山に行ったときには20センチくらいのもみじを水に浸しながら持ち帰り植えたら、見事に根づいてくれた。今は高さが1mにも達していて、秋には赤く紅葉してくれる。眺めがなかなかよいのだ。これははなみずきと至近距離にあるので将来がちょっと不安である。また、はなみずきの下には、今はベゴニアを植えている。これが繁殖したら楽しいなと思う。

 紫陽花は、それらとは離して、家の下のほうに植えた。紫陽花が根づいてくれたら、いくつも花が咲いてくれるに違いない。そうしたら、嫌な梅雨の季節もちょっぴり楽しみになるかもしれない。

 それ以外にも、直径が50センチほどしかない円形の土のところにはいろいろな植物が咲いている。前に一度はバラが咲いたのだが、バラとしらない祖母が刈り取ってしまった。また、あちこちから種がふってくるらしくて、土が見えないところにも葉が生えている。私はどうやら緑がないと生きていけないらしい。半畳の庭だが、心の憩いの場所になっている。だから座り込んで暗くなるまでいじっていたりするのだ。

by MUSICA


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サングラス


 MIB(Men in Black)という映画をご存知だろうか。その主人公たちやアメリカ大統
領のシークレットサービスたちがかけているあの濃い色のサングラス。これがかっこ
いいと思い、それをかけてよくドライブしていた。夏になると太陽がまぶしくて仕方
ないこともあった。その後、サングラスをかけてばかりいると日光に弱くなると言わ
れて、徐々にサングラスをはずすようにしたら、結構なれてきた。

 現在は、かけないで昼間、運転していると、眠くなるので薄い紫色のをかけてい
る。値段が高ければ、薄くても眩しくない。

 まあ、余談はともかく、主人の実家が富山なので、高速道路を何時間もかけて、高
速道路をドライブすることが多い。関越道は道もきれいでトンネルも少ないのだが、
上越道に入るとトンネルがめちゃめちゃ増える。普通、トンネルに入るとライトをつ
けるのだが、点けて前が見えない。それでも、トンネル2〜3本は、がまんして走っ
ていたのだが、とうとう故障したライトに我慢できず、パーキングエリアに入って、
駐車し、ライトを点検した。ライトは見事に点灯した。その後、初めて、濃いサング
ラスをしたままトンネルを通過していたことに気付いた。

by キャサリン



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端っこの席


 電車にのると、どうも端っこの席はいつも開いてないなあと思う。人間の性質なのか、なぜか端っこの席があくと、座りたくなってしまうのだ。私も、端っこの横に座っているとつい端が開くと席を移動してしまう。
 
 ところが、最近端っこの席は実に座り心地が悪いことに気が付いた。多くの人が座るので、席が凹んで硬くなっているのだ。これには笑ってしまう。
 
 電車によっては、端っこをつくるように工夫しているものもある。全部長い席にしないで、途中で何箇所か柱を入れたり、区切りを入れたりして端を作るのだ。これは、長い席だと7人がけなのに6人しか座らないなどの防止にも役立つようだ。ただ、体の大きな人には少々気の毒だ。

 しかし、なぜ端っこの席がいいのだろう。私などは今職場の席が端っこで、周りが見渡せず、どうも閑職席だと自分では思っているのだが、電車の席だけは違うのだ。よく眠れるということもあるのかもしれない。(爆)

by MUSICA

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ADHD猫 ー チロ



 私の実家には3匹猫がいる。一匹はもう老猫であり、この子は食い意地が張っていて人間が食事を始めると、自分はもう食べたのにテーブルの下でぐるるぅ〜とないている。しかも、目を合わせるとたいへんだ。大きな瞳で「お願い!ボクにもちょうだいよ〜。」と言わんばかりに見つめられてしまう。
 
 いつもは人間様は嫌いだよーんというふてぶてしい態度なのに、食べ物のこととなると良く知らない人にも擦り寄ってしまう、意地汚い猫である。だが、普段はおとなしいおデブ猫だ。
 
 あとの二匹は姪が来た時に連れてきた。二匹は双子である。連れてきた時も、別々の籠に入れたら鳴きまくってうるさくて、ためしに一つの籠に二匹入れたらおとなしくなったと言うほど仲がいい。いつも二匹は身体のどこかをお互いにくっつけて寝ている。まだ子どもだ。
 
 それにしても、ゆきちゃんという白が多い猫の方は聞き分けがよく、そこはのっちゃだめ!と一度叱ると「はい。もう二度としません。ごめんなさい。」と言う感じで確かに二度としないのだ。テーブルの上にも乗らないし、キャットフード以外に欲しがったりもしない。
 
 それに引き比べて、黒が多いチロのほうは、何度ダメ押しをしてもテーブルには乗るわ、人間の食べ物は狙うわ、洗濯乾燥機から落ちて下にある化粧品をすべてひっくり返すわ、人間が来ると「遊んで遊んでー」と言わんばかりにおなかをだして前足でちょっかいを出してくる。袋があると中に入ってしまうし、丸めた袋があると早速サッカーである。
 
 一日中、多動であれこれと楽しいことはないかなあと目を光らせている。あんまり退屈すると、老猫にちょっかいを出して本人は遊んで欲しいつもりなんだろうが、老猫は本気で怒ってしまう。
 
 チロを見ていると、本当に疲れてしまう。まるでうちの子供たちが小さかった時のようである。猫にもIQの低い高いがあるだろうが、チロは頭が悪いと言うよりも、多動と言う感じがする。めまぐるしい動き、とんでもないいたずら、逃げ足の速さ、そして人なつっこさ、何度言われても忘れてしまう短期記憶の悪さなど、これは猫のADHDに違いないと本気で思ってしまう。(爆)
 
 
by MUSICA


 私も猫好きで近所の猫とはつきあいがありますが、付き合ってみると猫にも本当に様々な性格があります。人なつっこさなどは年齢や飼われ方により違うのでしょうが、それ以外にも猫によって個性が違うのは人間と同じです。虫や魚に個性があるとも思えないので、個性があると言う事はそれだけ知能が発達していると言う事でしょう。
 
 私の姉の家に猫が2匹居て、あんずとみかんと言いますが、今は二匹とも死んでしまいました。みかんはのんびり型でとにかく警戒心が全くなく、見知らぬ人でもよばれるとよっていきますが、あんずは家族が呼んでも隠れていてでてこない事があります。餌をおいて放っておくといつの間にか食べているのですが、かといって家から出て行く事もなく、どこかにいて家族の様子をうかがっています。人間の知らない内に子猫の頃なにか人間を恐れるような経験をしたのかも知れません。そう考えると可哀想で最後まで面倒を見なくては、と言っていましたが、いつの間にか居なくなってしまい、それからしばらくして物置の床下で死んでいるのが見つかりました。3歳になっていなかった頃です。
 
 みかんは家の中で死んでいて、最初寝ているのかと思ったとのことです。横になっているのは気がついていましたがいつもの事なので気にしていなかったところ、いつまで経っても動かないので見たら死んでいたとの事。6歳くらいだったはずですが、原因は分からず、医者に言わせるとなにかの病気だったのではないか、とのこと。いつも動きが緩慢でゴロゴロしていたので家人は気がついてやれなかったと悔やんでいます。
 
まあ、私の子供時代猫を沢山飼っていました。というより、猫が勝手に住み着いていて、私も同類だと考えられていたようです。じつに様々な性格の猫が居ましたが、今から考えると私は親猫から子猫として扱われていたようです。

from ロクスケ


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又やってしまった



 数日前、T駅でO線に乗ろうとしていた。せこくも降りた駅の階段へ少しでも近い車両にのろうと、出発まで1〜2分しかないというのに私は前の車両へと向かって走っていた。と、その時、カチャッという音。首からホルダーでぶら下げていためがねが電車とホームの間に落ちたのだ。 私はとっさに近くにあるKIOSKコンビニに駈け込んだ。 「駅員を呼んでください。」すると、店員はにべもなく答えた。
 「呼べません。」

 めがねが電車に轢かれてしまうのではないかという恐れと、この電車に乗って帰りたいという気持ちが入り混じり、混乱した私はわけもなく、KIOSKと逆方向へ走り出した。たしか、このホームには事務所はない。頭に浮かんだのは「物を落としたら駅員に声をかけて下さい。」という表示。そのそばにインターホンでもあったような気がしたが、見つからない。探しているうちに目に付いたのは「非常停止ボタン」。これは柱1本に一つというほどふんだんに取り付けられている。これを押してしまった。

 ブーブーというブザー音が鳴り始めたが、しばらくはなにごとも起こらなかった。ただ、電車は出発時刻を過ぎても発車しない。出来ないのだ。

 その後、駅員が1人かけて来た。私は手を挙げた。ボタンを押したのは私ですと。その後、次々と駅員が駆けつけ、最終的には5〜6人になった。

 話しかけてくるのは、制服の違う鉄道警察の腕章をつけた目つきの鋭い30前後の男だ。事情を説明すると、電車が出てから探すとのこと。このボタンを押されると電車が出発できないので、押さないで事務所に来てほしいと、丁重に注意された。

 さて、電車が出て駅員5〜6人で探すもなかなか見つからない。線路脇に落ちたように思えたのだが、線路脇からホーム下へ向かって、台形状になっているため、落下物はホーム下の暗い方へ転がってしまう構造になっている。真新しいメタリックピンクの靴だのめがねケースだの、いろんな物が落ちているが、私のめがねはない。駅員たちは膝をついてホーム下を探している。

 「この辺ですね。」とか、めがねの色などを何度か確認され、つい私も膝をついてホーム下を探し始めるが見つからない。しかも、もうここしかないだろという場所に70がらみのじいさんが居座っている。そのじいさんは何度も駅員に 「下がっていてください。」と注意されているにもかかわらず、しゃがんでいっしょになって探しているのだ。仕方なくそのじいさんの横にしゃがんで探す。めがねのつるらしき物、発見。駅員にライトで照らすようにお願いすると、やはりその近くにあった。
 「ありました。」というと、駅員は
 「あっ、これですね。」と、安物の銀縁のサングラスを指す。たくっ、なんども金縁の高級品だといってるのに・・・。
 ともかく、拾ってもらった。めがねはなぜか霧吹きで噴いたように濡れていたが、それ以外に損傷はない。
 「割れてませんね。」と駅員にやさしく確認され、 「今後は事務所に来て下さい。お気をつけて。」と、丁寧に挨拶された。

 次のO線に乗らなくては、後2分しかないのに別のホームだ。私は走った。やっと、O線に乗って、しばらくしてやっと腰掛けることが出来た。でっ、前を見るのあのじいさんが真正面に平然と腰掛けているではないか。最後の最後まで、めがね探しに付き合って、ホームや階段を走ってこの電車に乗ったのか。何者だ
 
 
by キャサリン



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80歳の父の腸閉塞

 さて、父のことですが。
 
 今日22日手術でした。腸閉塞で、がんも念頭にあり、さらに80歳と言う歳、タバコの吸いすぎで肺気腫と昔の肋膜炎の痕から肺機能が非常に悪く、通常この状態で手術はありえないと言われておりました。しかし、今まで本来だったら在宅酸素療法が適応されるくらい悪かった呼吸機能で普通に生活していたので、大丈夫かもしれないとの見通しで、手術に踏み切りました。

 大体手術自体は3時間ちょっと。他にいろいろと時間をくいまして、朝7時ころ実家を出て、帰ってきたのは16時半ころです。何事も同意書なくしてはできないとのことで、例えば、手術後、中心静脈栄養の管の入れている部分が赤くなってきていて、放っておくと化膿する可能性があるので、首にしたい、ということを理由を細かく説明し、サインをもらうといった具合です。また、首に一旦針を刺して、レントゲンをとって、ちゃんと静脈に入っているかいちいち全部確認をするので、えらく時間がかかります。でも、事故を防ぐと言う意味から、杏林ではそういうことを、細かくやっているらしいです。

 また、術後ICUに入りましたが、全室個室で、昼間は一部屋に一人の看護師、夜間は二人に1人の看護師がつきます。個室といっても、患者の足の側が大きなカーテンになっていてその向こう側には、看護師やら医師やらが忙しそうに働いていました。新しい建物なので、そういう工夫があちこちにありました。

 父の腸閉塞は、もう癒着しきって葡萄の房のようにくっついている腸が一部αのような形になっていて、その中心にさらに小腸が入り込みポケットのようになってねじれていたため、内容物が先に進まなかったからだそうです。おかげで、腸の剥離術だけですみ、切除はなかったので、侵襲が小さくて済みました。父も命拾い。毎日絶水食で「刺身が食べたい」の「もつが食べたい」の「納豆が食べたい」のとあれこれおなかがすくと叫んでいましたが、腸を切らなかったので、おそらく思ったよりもずっと早く流動食が始まると思います。

 私は、手術が終わって母と姉と三人でご飯を食べてから実家に帰り、どっと疲れが出て寝てしまいました。それも9時過ぎまでです。(爆)今も眠いです。大(爆)。手術を待っているだけでも相当疲れましたが、始めの見立てが「五分五分」の成功率ということだったので、やはり精神的に疲れました。でも娘として、父にはできるだけのことはしてやれたし、まあ、また元気になって「うるさジジイ」に戻るまでは看病してやろうと思います。

 ICUでは、朝も昼もないので、高齢者はICU呆けになる人も多いそうです。ですから、予め、暴れた時などに抑制(縛る)することの同意書をとられました。それでなくとも、高齢の人は病院で呆けてしまうことが多いので、頻繁に面会に行ってやろうと思っています。面会はICUは親族の場合は24時間いつでもOK.これは私のごひいきの聖路加の一般病棟と同じです。

 父は、鼻から管を入れた際に、あまり苦痛だったので、免れたい一身か、少し呆けました。淡々と言うので、あれ、なんか変?と思いつつもテレビのイヤホンを4本も買わされたり、あまりあるテレビカードをさらに買わされたりとなんだか、後で考えるとおかしいです。

 ICU呆けも多分なると思います。(爆)まあ、せいぜい通って、話をいっぱいして少しでもボケ防止に努めたいと思っています。

by MUSICA







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ADHDである私への目

 幼稚園から小学校から中学校、高校と私は何が理由というわけでもなく、学校へ行く事が時々に嫌になってました。というかほぼ、学校へ行ってない状態の時もありました。(高校は単位制なので必死で、年間30日程しか休んでないと思います)その事で母も何度も何度も学校に呼び出される始末でしたが何故か問題児は先生からはウケがいいんでしょうか?私は案外に楽しく学校では過ごしていました。

 そういう私を産みの母も、育ての母も[学校へ行けない子・続かない子]という認識でした、卒業しても何をしても続かない子。という認識です。勿論卒業後も働いたりもしてましたし、必死なんです、皆と同じじゃない自分が悔しくてそれでも1年も続かない自分が不甲斐なくて何度も涙をのみました。

 が、そういう部分を中々他人には見せない様な性格に育っていたので(捻くれもの?!)むしろ一部を除いての周りからは「あの子は何も考えてないな〜」という認識でしょうし(今現在も)親のすねかじって色んな事させてもらい楽しそうだし幸せなヤツだと映ってる様子です。

 言われても、ハハーンって感じで気にしてない私が余計そうさせてるのでしょうが(笑)だけど、どうしてもやはり私は私で在りたくて、「こう(ADHD)だから無理なんだよ。」と言い訳にはしたくないのです。出来ない事を。

 そういう「駄目なヤツ」という批判を常に受けつつ(周りの友人から)過ごしてきました。けれど案外にタフに育っていたので、(養女事件や、弟が身体障害者になる事件等で鍛えられたとか?)今は言われてもそこまで劣等意識を持たなくなってきています。やっとやっとですが。(苦笑)私も否定されるのはやはり辛いのです。特に身内からは本当に辛いですね。

 最近産みの母に「忍耐力がない」と台所からこっそり噂されていたのをPCを打ちながら片耳で聞いてました。流石に私も忍耐力ないと言われれば納得をせざるを得ないのかもしれないし、だけど聞こえない所(聞こえてないと思ってるらしい)で言うかあ〜?(怒)でした。

 そして敢えて「この前私の事忍耐力ないって陰で言ってたよね?聞こえてたんだけど」と切り出しました。産みの母と2人で色々な事を話しました。彼女は私の言う事を理解したらしく、案外何も考えてない訳ではないのだとやっと気がついたらしいです(これは嬉しいですよね)今まで書いてあった私の手書きのメモ帳やらを見ては涙ぐんでました。

 案外ADHDの人達は、色んなことを同時にしている為、聞いてないように思われがちです。「ちょっと人の話聞いてないでしょ?」と言われることが多いと思います。私も友達とかによく言われますが、答えたり頷いたりしてないだけでちゃんと聞いてるので、そのまま言われた事を繰り返して、それに対しての返事をします。

 学校の授業でもそうでした。そして、問題を聞いているので、問題も復唱し、ちゃんと答えまで答えると先生は怪訝そうな目でこっちを見ては(そんな目は良くないでしょ〜!笑)「よろしい。」等と言うのです(苦笑)こっちは何がよろしいんだか?です。

 案外ADHDの人間もそういう部分じゃ見た目で判断されてるんだなぁというお話でした。

by はいじ




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人が大手を振って歩く街
人が大手を振って歩く街

 私の実家は、東京のある街にある。電車からおりると商店街が南北にずらりと立ち並び、昔は、その商店街の独自のスタンプ制度がいろいろなところで紹介されたこともある。そして、私が小さかったころに比べると、ずっと整備されてきれいになった。

 しかし、昔からそうだったように思うのだが、その街は人間が大手を振って歩いている。ほとんどの人が信号などかまわないで道路を渡ってしまう。車が来ても、狭いバスどおりで仲良しカップルは手をがっちり繋いだまま、決して車のために一列になろうなどと思わない。自動車やバスまでもが、人間中心のまちにじっとがまんで走行している。私もたまに車でこの街のバスどおりを通ることがあるが、いつも自分が信号を守らず、(一応私は車が来ていないことを確認して渡るのだが)横断しているので、なんとも怒れない。

 この街の風潮は昔から人間がそういうふうな風土に築いてきたように思う。私の両親が結婚してこの街にやってきた時は、電車が走っていたらしいが、その少し前にやってきた方の話を聞くと、馬車できたという。道路が整備されようが、おしゃれな街に変身しようが、住んでいる人間は変わらないのだなあと思う。

by MUSICA


 町にも色々あります。商店街、工業街、住宅街etc。また古い下町、新興住宅街などの分け方もあります。MUSICAさんが育ったのは古い下町に属するのでしょうか。私が育ったのは地方都市でしたが、久しぶりに返ってみると全く面影がないほど変わっています。しかし住んでいる人たちはあまり入れ替わりがありません。
 
 今私が住んでいる町は東京の一角ですが、ここも古い町で、あまり変化が無く住んでいる人もそれほど変化はないようです。しかし、友人の移り住んだ町は新興住宅街で、彼が移り住んだ時点ではまだ畑や田圃が目立つ所でしたが今ではびっしりと住宅やマンションが建ち並んでいます。しかし、住んでいる人は数年単位で移り変わり、昔は若い夫婦が多かったけれど今は子供達があまりいない年輩者だけの町になってしまった、そして大手のスーパーが引き揚げ一時のにぎわいが嘘のようにくたびれて寂れた町になってしまった、と言っています。若い人間が居着かず、越してきた人間もすぐ出ていってしまう町というのが確かにあるようです。
 
 人が住み着く町と、住み着かない町。何処が違うんでしょうか。
 
from ロクスケ



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計算ドリル

 

 最近、パソコンの計算ドリルにはまっています

 このソフトは、初級、中級、上級の三レベルで構成されていて、なかなか良くできています。もともとコンピュータは電子計算機という名前で呼ばれていたので、計算はお手の物です

 いわゆる百ます計算のドリルソフトなんですが、かちかちと時を刻む効果音が流れ、間違えるとブーという警告音が出るしろものです。答え28が27でも許してくれません

 間違えた回数だけ間違い数が容赦なく加算されます。その非情さはまったくコンピュータならではです

 各レベルはA,B,C,D四つのランクにわかれ、計算を終えると、どのランクかが表示されます。僕は初級のCランクからはじまり、なんとかAランクまでいきました。初級は一桁の正と負の数の足し算、引き算、掛け算のドリルです。飽きてきたので、いきなり中級コースにチャレンジしました。これは680問あり、一桁の正と負の数の足し算、引き算300問、二桁の正の数どうしの足し算、引き算240問、一桁の数どうしの割り算140問くらいのドリルです。680問のうち20問くらい間違え、25分くらいかかって終えると、「成績D,もっとがんばりましょう」と最後の画面に表示があらわれます。ここ数ヶ月、まったく進展がありません

 いったい、どうやったら上のCレベルにいけるのか、見当もつきません。たぶん時間がかかりすぎるため、成績が悪いのだと思います。一問1秒くらいでどんどんやっていけばいいのでしょう。7+8とか3-9とかの一桁どうしの計算なら1秒で入力できますが、68+57とか73-95なんかだと、考え込んでしまいます

 このソフトの解説によると、仕事をする前、朝の冴えない頭をたった5分でリフレッシュとかいった宣伝文句があります。そうか25分もかかっていたらいけないのか。計算の達人への道は嶮しいと思いました

 「計算力を強くする」という本を読むと、重要なのは暗記力と計算視力の二つだと書いてありました。暗記力はあたりまえなので、計算視力について書くと、48×15=(12×4)×15=12×(4×15)=12×60=720といった具合に頭の中で数字を操作することです。あと達人への道に必要なのは、すくなくとも19×19までの組合せ、および1から19までの平方と立方は、その答えをすべて覚えておくこと、いちいち計算しなくても瞬間的に答えが出ることが必要なようです

 計算脳と音楽脳は重なり合っているため、楽器演奏が計算力アップに貢献し、またその逆も言えると、この本の著者は書いています。さあ本当にそうなのか、まだ実感はありません。

 by mogurin
 
 
 
 もともと日本人は算盤が普及しているためもあり、世界でも計算に強い国民だと言われています。二桁の加減算くらいなら普通に暗算出来ますし、一桁のかけ算なら誰でも暗算が出来るでしょう。それ以上の暗算が出来る人も日本人には珍しくありませんが、これが外国に行くとそうでもないようです。わたしも外国で釣り銭などの暗算で感心された経験が何度かあります。確かに九九など基本的な計算は丸暗記しておくと全く違うみたいですね。
 
 惚け防止や脳の活性化に百枡計算や音読が有効だと言われてますので、mogurinさんのやっている計算ドリルなども良いでしょうね。わたしも表計算ソフトのマクロで暗算練習ユーティリティーを作った事があります。かなり苦労して作り上げた頃には飽きて、それを実際につかわない内に、どっかに行ってしまいました。知らない内に消してしまったと思われます。 機能としては簡単で、画面に二つの数字が時間をおいて現れすぐ消えます。時間内に正確な合計を入力するとご褒美画面が、間違うとお叱り画面が出るというもので、数字の桁数、数字の数、表れる時間が変えられるわけです。
 
 なんなら、もう一度作ってみようかなという気になりましたが、実行するかどうかは別の話です。
 
from ロクスケ



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育ての家でのお話


 私の育ての親はとても綺麗好きです、幼い頃からずっと見てきましたが滅茶苦茶掃除しますね(苦笑)気が狂った程に。その代わり料理作る事が苦手なようでした。今では料理を作る事は私の仕事化しております。洗濯などは、私は1人暮らしするまでは経験した事ありませんでした(それも凄いですよね)勿論理由は過保護な親がすぐ洗濯して、全て管理していたからです。

 洗い物なども、食べたらすぐに皿を出せと言わんばかりの攻撃が来ます(爆笑)中々おもしろい母上です。何でも気になるのでしょう。だから、生まれてここの家で育ち、台所に洗い物が残っている事を見た事も無いし私が洗い物をする時といえば、母が居ない時や(それでもお婆ちゃんがしていることが多い)というか、今でもほぼ親がやってしまってますね。

産みの家でのお話

 最近、姉が子供2人連れて帰国してきていたので、2ヶ月実家にずっと居ました。改めて育ての家との違いに気が付くというか、私も自分は何もだるいからやらないんだと母に言われていたのでそう思い込んでました。

 ところが・・・産みの家の母は洗い物滅茶苦茶ためます、自分の家じゃ目に止まらないので気が付かなかったけども、気が付いたらどうしても台所が汚いというのは気になるのでしょうか?えぇぇ?こんなのでいいの?という思いでした。つまり姉も母も私より洗い物が後回しにするタイプというか、あとでまとめてやっちゃえ。という感じなのだなって気が付きました。

 私は客観的に見て、躾されてもないのに、洗い物をやっている自分に少し驚きました。あと洗濯物に関しても、取り込むと暫くそのまま居間に置かれているのです。私はついついすぐたたんでしまうようです。(他の作業していたら後回しにしますが)

by はいじ




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母と躾

 このところ、父の具合が悪いので、毎日実家に帰っている。私は二人姉妹で、姉は嫌になるくらいのきれい好きだ。ところが、私ときたらADHDのせいか、全くお掃除はだめ。これでは汚ギャルならぬ汚ババである。
 
 我が家と実家の落差は例えばこのようである。
        我が家            実家
食べ物     食べっぱなし         食べたら即片付け
お皿      流しに入れっぱなし      即洗って食器棚へ
生ゴミ     大きなゴミ箱へ        小さな袋へ入れる
ゴミ      その辺へ置きっぱなし     即ゴミ箱へ
洗濯      溜まってから         少量でも即洗う
乾燥した服   部屋に積み上げ        即たたむ
同上      リビングに放置        各自の部屋へ

 母が私と姉に違う躾をしたわけではないのだろう。でも、母と姉は同じ路線をいっている。私は昔から「男のよう」と言われたように、そういった女らしいことは全くだめである。いっそ男に生まれればよかったのに、いや、男だってこんな暮らしではだめだろう。嗚呼。

 しかし、実家に帰ると実家ではそのルールにのっとって一応何とかやっているのである。でも、それはかなり疲れることである。つまるところ、私は面倒くさいのである。なぜ、こんなに面倒なのか自分でも良くわからないが、とにかく、どうしても自宅ではできないのである。
 
 母は、私が中学へ行くころに看護婦と言う職業に返り咲いた。姉が高校へ行く歳である。その3年間の違いが、躾の差になったとも考えられる。つまり、姉は中学のときにいろいろと躾けられたが、私が中学のときは母は躾けどころか毎日が戦争のような仕事だったので、「えーい、面倒だ、自分で全部やってしまえぇー。」とばかりに、私には何もさせないで自分でやっていたと言う風にも考えられる。たかが躾け、されど躾けである。
もしかして、ADHDのせいではないかもしれない・・・。

by MUSICA




 ADHDの様に見える状態が単に環境のせいだったり親の躾、本人の持って生まれた性格などのせいだったりするのはよくある事です。本来ADHDの出現率は諸説あるものの1パーセントから数パーセントとされていたのが、近年では20パーセントという専門家も居ます。
 
 つまり、怪しいのは全てADHDのせいにしてしまえ、と言う事らしいですが、医師もきちんと見極めるだけの技術を持ち合わせていなく、本人が自分はADHDではないか、と言うものだから、そうでしょうと返事をしてしまうわけです。・・むろん、極論ですが。
 
 MUSICAさんがADHDなのかお母さんのしつけのせいなのかは分かりませんが、いずれにせよ自分の弱点と認識し、自分の家のだらしなさを本当に改めたいなら単なる努力だけではなく要領を考えて改善してゆけるかも知れません。しかし、心の奥底で、まあ、忙しいんだからしょうがないと思っていれば、そのままでしょうね。
 
 わたしも自分のいい加減さに参っていますが、会社勤めの頃は結構緻密にやって信頼されている面もありました。
 
 自分には出来ないと決めつける事が一番良くないと思います。
 
from ロクスケ


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私の行動の違い

 育ちの家→洗い物× 料理○ 洗濯類× 片付け× ドアの開放×
産みの家→洗い物○ 料理△ 洗濯類△ 片付け× ドアの開放×
1人暮らし→洗い物○ 料理○ 洗濯類△ 片付け× ドアの開放×

 ある意味、親の躾で子供がちゃんとするかどうかは簡単に言えないなと思わされた一面でした。子供がどういう子に育つかは環境でしょうか?
だとすれば何でもやって貰っていた私が何故洗い物をしてしまうのでしょう?
潔癖症なのか産みの家のイメージが強くてそうなるのか。(ADHDなのでここまで考えるのでしょうが)

 いやはや、でも相変わらず産みの親の家でもトイレのドアなどは開けっ放しが多いですが、よく叱られます。ドライヤーのコンセントは使ったら抜け!という指示も受けます。余りに私が直らないので、産みの親は策を練ったらしく・・・「ドライヤーは使ったらコンセントを抜いてしまって下さい!」と張り紙があった時は思わず爆笑してしまいました。何で丁寧語なんですか、と。それからはなるべく気を付けてコンセント抜きしまうようにしていますが、たまに忘れてます。

 環境での性格の受け継ぎもあれば、遺伝の受け継ぎや、躾での性格形成もあると思います。ただ、重要なのは客観的に自分をみて見る事かと。私は最近の色々な事件で改めて自分はADHDに違いないなと思いました。

by はいじ




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当たり前の事が出来ない

 普通の事が出来ないって言えば、皆はきっと何が普通なの?と思うでしょうし、それはあたしも感じます。だけど、出来ないものは出来ないのです。

 それを、ADHDと関連付けて逃げにしてると言われればそれまでですが。

 その辺の理解は皆さんにお任せしますし。あたしの周りの人であたしを見てきてくれた人達に任せる事にします。話を聞くだけなのと、周りの人間とでは意見が違って来ると思うのです。学生時代の事書きますね。

 あたしが普通に出来ない事と言えば幼稚園や、小学校の頃からの何故かわからない理由もない学校を休む事だったり例えば皆勤賞など果てしなく遠い所にあるように思ってたし今でもそうです。決して学校でいじめられていたとかでもなく、なんとなく。なんですよね、皆そんなものだろうって言えばそれでおしまいですけどね。

 むしろ、学校では人気者でした、小中高通して周りに人は何故か集まりました。

 ただ、出来ない事は人にぶつからないよう歩く事だったり忘れ物しないようにする事だったり、そういう簡単なような事が出来ませんね。今でも母に水道の水が出しっぱなしだとかトイレのドアが開けっ放しだとか言われます(ノ∀`*)

 学生で一番顕著だったのは、もう小中高通してですが・・・ノートがとれない!!!とらないっていうか、とれない。が正しいかな?あと、提出物も小学校は少しは出しましたが、中高では一回も出した事ありません(苦笑)

 だけど人が出来ない事も逆にやってのけたりするわけで。

 小学校の頃が1番頭よかったというか(成績的な頭のよさ?)周りの音とか全てを処理してしまう癖が無意識に?意識とかの問題じゃないか。脳が色んな情報を同時に受け入れてしまうようなそういう構造なので、友達と話しつつ授業など聞いてるつもりなんてゼロだし、休みがちだったんだけども、きっと出ていた時の授業は全て勝手に脳内に吸収されてたんだろう。

 何故かテストや成績がいいんですよね(本人は言われるまで気が付かなかった)貴方それ、自慢してる?とか思われるかもしれないですけど違います本当に。

 本人ですら何でだろうというか疑問すら持ってなかったんですよね、成績がいい事。逆にあたしの疑問は普通にノート取れる子の性格だったりで、あたしにとっては、皆勤賞とかそっちの方が凄いなぁって感じで見てたなぁ。

 中学辺りからは漫画が好きで異様なマニアさを見せてましたけども。そういう好きなものへの集中力や、やる気はあるので。勉強なんてやる気もしなかったし、絶対いつも言われる言葉はやれば出来るのにもったいない。

 そんな事言われても、やりたい事違うしな!とかなり荒くれてました。

 その頃から、ん〜?何かこれ人の思考回路と少し違うなって気がつきましたが話とかが上手く出来ないわけで。論点がすぐずれたりとか、色々飛んだりとか。他の人は基本1つのお話を考えれるんです。あたしは、電話で話しながらも、何か考えて、後ろでの皆の会話が聞こえて頭に入ってしまうわけです。

 あたしの場合は1つの話を経路辿りつつちゃんと話すのが大変難しいわけなのです。

 by はいじ


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掃除機
 
 最近はめっきり寒くなってきましたが、僕の部屋はパソコンの冷却ファンによる放熱
と、照明器具の放射熱で暖かく、暖房がいりません。時々クーラーを入れないとTシャ
ツ一枚でも熱いくらいです。

 そういえば、通販でT社の掃除機を買いました。吸引力が強く使い勝手もいいので大
変満足しています。手元に大きなカップがついていて、大きめのゴミはその中にたま
り、微細なゴミは本体の紙パックに吸引される仕組みです。ゴミによってホースが詰
まりにくく紙パックもそれほど頻繁に交換しなくていいので経済的です。

 以前買った某国製のウォーターサイクロン掃除機がまったくだめで、床に落ちた消し
ゴムのかすも吸い取れない。吸引力がゼロな上に詰まりやすく、まったく役に立ちま
せんでした。なにしろ造りがちゃちで、安っぽい。電源コードも巻き取れず、本体に
巻き付けるだけ。ぼこぼこ突起物が出ていてかっこわるい上に邪魔になる。頭に来た
ので捨てました。やっぱり掃除機はT社に限る。

 日本製品は外国製品に比べたら歴然と違います。優秀です。鉛筆でもSラーよりM菱の鉛筆のほうが黒鉛の粒子が細かく書き味がなめらかで使いやすい。日本車がアメリカで売れているのもうなずける。

by mogurin

 日本製品も昔はコピーだ粗悪だなどと散々でしたが、今では世界中でも信頼の象徴のように言われ、海外のデパートなどでも結構高級品の売り場にならんでいます。やはり、たゆまぬ努力で品質向上に努めたためでしょう。円高で日本製品はかなり高額になってしまいましたが、それでも売れ続けるのはなんと言っても品質に裏付けられた信頼によるものです。なにか、人間もそのような基準で価値が決まるのかななどと思いますね。
 
 私も100円ショップはよく利用し、雑貨の類は買います。時計、電卓、ラジオなどとうてい100円では無理と思われる品々が買えるのは便利ですが、それらはすぐ壊れても腹は立たないという前提でしか買いません。
 
 100円の時計と5000円の時計がおなじコストではないでしょうけれど、50倍のコストが本当にあるのかは疑問です。つまり誰かが相当無理をして、本来得られる利益を諦めなければ100円の時計は出来ないのではないでしょうか。
 
 改めて、技術、信頼の価値を考えさせられます。
 
from ロクスケ





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ADHDを持つ心の中

 もし、ADHDの人がだだをこねだしたらどう対処しますか?

 物欲だとか、食欲だとか、言い出すときっとADHDは集中してしつこいです。私の解釈では放っておけばいいと思います(スーパードライ)持続性が困難だからその日欲しがって居ても次の日にはけろっとして他のものに夢中になってたりしますので(苦笑)

 しかし、情緒的な面の場合に限りは、あんまりにも放っておかれてしまうと、日常生活において否定されがちなADHDは傷つき、それ故に不安や不信になってしまい、二次障害に到る事が多いと思うのです。

 私は案の定その例でした、うつ病と境界型人格障害を併発してました。今は、それは違ったんじゃないかな〜?とか思いますが、どっちなのか自分ではよくわからないですね。けど自己否定が強いのは本当にそうでしたし、死にかけた事もあった程なので。

 そういう想いをする子は増やして欲しくありません。(あたしの傲慢な意見ですが)

 勿論育った環境もありますし二次障害の起因はその劣等感だけではないと思うのですが、無いと言い切れば嘘になりますし。否定され続けてきたのは本当ですし、今でも否定される事は少なくはありません。

 全ての子が同じように同じ事が出来るわけじゃ無いんです。だけど、それが甘えから来ているのか、本当に出来ないのかちゃんと見てあげる必要があると思います。「私が甘やかしたから、この子は自由気ままになったのね、私の教育が悪くてちゃんと出来ない子になったのね。」と思う方も多いと思います、実際そうだったという家庭もあると思います。

 私も過保護の家庭で育ちました。養女なのでそこらは仕方ないと思いますし、親が過保護になる理由も。過保護ながらに親は商売をしていたので躾には厳しかったです。ちゃんとこうしなさい、悪い事したら地下室等にも入れられてた位ですし。親は自分達の過保護のせいで私がこうなったと思ってます、それは悲しいですよね?私にとっても親にとっても。

 簡単にそこへ繋げずにそういうのはちゃんと良く見てあげて欲しいのです。自分も子供も。こうしなさいとか言ったり、ちゃんと正しく叱ったりしてきているのならば、子供も馬鹿じゃありません。理解してそうあろうとする筈なんです、子供にとって親は絶対ですし。なのに出来ないという事は原因は違う所へあると思います。

 その子の問題なのですから、一緒に考えていって補助してあげて欲しいです。私もやはり基本的に人に理解してもらい助けてもらいたいものなのです。

 そういう面もありつつ、1人で頑張りたいとの矛盾の繰り返しかと。(本人自覚がない事が多いですが)

 結局ADHDには周りからのサポートは必須だとは思うのです。なるべく暖かい目で周りの方は見てあげて下さい。理解とかは複雑な分、難しいでしょうけれども。

 いい面を見つけて伸ばしてあげて下さい。周りのサポート1つで素晴らしい輝きを見せるかもしれないのですから。

by はいじ

 これはあくまではいじさんのご意見です。
 
 「 物欲だとか、食欲だとか、言い出すときっとADHDは集中してしつこいです」という人は別にADHDでなくともいますし、ADHDが必ずそうだという事もありません。ADHDに特に関係があるとも思えませんし、個性じゃないでしょうか。

ロクスケ注





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見つかった!


 他のADHDの方々の例にたがわず、しょっちゅう物をなくす。1日中探してばかりいる日もあるような気がする。

 おみくじに「失せもの見つかる」という句がある。これは大抵、吉のおみくじに書かれている。ので、わたしは見つかった時、「今日は大吉だ。」と喜ぶ。

 今日、図書館から催促されていた「ひらめきすぎる人々」が見つかった。で、今日はついてるって訳だ。(言い訳:購入しようと思ったが、図書館に「購入願い」を提出して、購入してもらい、より多くの方々に読んでもらいたいと思ったのだ・・・。ところが、到着した本は大切そうにファスナー付きビニール袋に入れられた都立図書館の本だった。ロクスケさんごめんなさい。)

 本がどこにあったかというと、手提げ袋に入れられて、玄関近くのフックに掛けてあった。当時の私はここに掛けておけば、犬の散歩の時に気付いて返せると考えていたのだろう。ところが、その上に帽子やら、ジャケットやらが掛けられて、隠れてしまったのだ。


 余談ですが、この「ひらめきすぎる人々」はとてもよい本なので、一読をお勧めします。お金に余裕のある方は購入してください。ロクスケ師匠、感銘しました。


by キャサリン


キャサリンさんもお手元用に是非お買い求め下さい。(出版社より ← 私が勝手に代弁しました)

from ロクスケ




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当たり前のことが出来ないPart2


 聞いてるようで聞いてない。ではなくて、聞いてないようで聞いてる。と、いつも言われます。

 瞬間的な記憶が出来にくいのですが、多分それは興味の無いものだとデスクトップに置かれないようなものなのかなと。覚えてるんだろうけど、パソコンに例えるならCドライブのシステムフォルダのもう深い深い所へ入り込むのかなぁって勝手に思ってます。

 ちゃんと生活出来てる皆が羨ましいけど、その分この皆に無い部分や飛びぬけた部分がありますから。ADHDのお子様持つお母さんもそれを探してあげて下さい。

 大人の方は自分で見つけるか、周りの人達にどこか凄い所を、ゆっくりでもいいから見つけて貰ってみて下さい。

 例えばあたしは本当に人の言いたい事を察してしまう変な感覚があるんですが、でもその位しか自分のずば抜けた所なんて無いなぁと思ってたのだけど、

 ある日ふと、友達が何か書いてみればいいんじゃない?と。

 その一言だけです。今ここに到るのは。その友人のおかげでこういう事も書いて行こうって気になれた事をね、本当に心から感謝してます。

 文才は無いと思うんです。言語が苦手なんで。というより整理整頓が!!!頭の中がぐちゃぐちゃ状態なので。(笑)

 あたしは文才は無く、上手くも書けないんですが、それでもいいと言ってくれる人が居る限りは。書く事は好きだし、書きたいし。読みにくいでしょうが我慢してやって下さい。(苦笑)

 皆様も、自分のいい所とか見つけることが出来たら、自分の出来る部分を上手く見つけていって、有効に使っていってくれれば嬉しいなと。もしくは周りの人は人の出来る部分を見つけたりしたら教えてあげて下さい。可能性は広がると思います。

 あたしは今も実践中です。はい。楽しいですよ本当に、自分のやれる事があると。

 *ADHDとはいじ
http://blog.livedoor.jp/a_d_h_d/
からの引用です。少し訂正してあります*

 追記メルマガを読んでいる方から励みになるとのお言葉がありました、本当にありがたい事です。少しでも皆様や私達が前に進めますように。そのお言葉がある限りあたしはこうやって書き続けられます。本当にありがとうございます。

 by はいじ
 


★目次★




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失せもの

 昨日、潰瘍性大腸炎のため病院へ行った。午前中に行ったら、私の担当医の診察は午後だったので、また午後出かけた。その度に駐車券が発行される。それを亡くさないように緊張する。

 午前中の病院の帰り、大手スーパーの駐車場に駐車した。また、駐車券だ。駐車券は切符ほど小さくなく、また曲げてはいけないという心理が働くため、保管に苦労する。切符はジーパンの小さなポケットに車のキーは後ろのポケットにと決めてあるのだが、駐車券は決められないのだ。

 車に乗って、駐車券を取り出そうとすると、ない。バッグの中、服のポケット、ジーパンのポケット、探しまくったが、ない。落としたらしい。

 「紛失した方は、このボタンを押してください。」のボタンを押すと、3000円請求されることを知っている私は、サービスカウンターへ走った。なぜか走る私。サービスカウンターの主婦店員はこう言った。
「来月からは3000円頂くことになっておりますが、今日は特別にお出しします。」

 S(某スーパー)なんかもう二度と行くもんか。

by キャサリン


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多動と衝動の傾向と対策


 友人の家に行ってみてピーンと気が付いたのですが、友人は大体ソファーにじっと座ってて、「動かないなぁ。」と。それに対してあたしは動き回る程じゃないにしろ、友人と比べるとはるかに姿勢を変える事が多いのです。

 友人を見て「何故あんなに同じ姿勢を保ち続ける事が出来るのだろう?」という疑問からでした。そこから友人と自分との行動の差を客観的に見て、TPOや性格も含め何故違うのだろうと。脳の問題なのかもしれないなぁと、色々と考えはじめました。

 ADHDの人の多動性(特に子供に顕著)は、じっとして居られないという事が挙げられています。あたしは人と比べて同じ姿勢を保ち続ける事が難しいのだなと改めて痛感しました。

 あたしの場合、例えば集中している場合においては全く姿勢に関して自分でも気が付かないので姿勢を変えているかどうかはよく判らないのだけれど、何もやろうと思う事がなかったり、何をしようか悩むとついつい姿勢を変える様な感じがします。

 何故今までそこまで姿勢に関して疑問に思わなかったのだろうと考えてみると、友人宅では手持ちぶさただったという事に辿りつきました。何だかいてもたっても居られない感じというか、そわそわという感じなのです。そこまで、友人宅で気を使う訳でもないので、床に寝転がりごろごろと色んな体勢をとっていました。

 普段はどちらかと言うとあたしは家に友人を呼ぶ事が多く、比べてみると、自分がそわそわ動き回る事がかなり少ない事に気が付きました。

 理由は自分の部屋は大体興味のあるものを置いてあるという事や、何かすぐ思い立つと、色々な事が出来るという状況になっていたり(ながらが可能な状態だったりもします)あまり刺激が無いような部屋にしてあったりするのです。(故意にした訳では無くです)

 例えばテレビはまずほぼ付けません。机の上には常にメモ帳とペンとリモコンがあり、部屋は少し薄暗くしてあって、白熱灯を照明として幾つかつけてます。机の前から手に届く範囲にノートパソコンがしまってあったり、本棚には溢れて入りきらないほどの漫画や本が埋まっていて、辞書も手元に常にあったりします。ゲームやDVD機器も常に繋いであったり、自分の興味のある事は常に準備万端な形のようになってます。

 あたし部屋は気が付いたらそうなっていたんだなぁと、家に帰って改めて自分の部屋を見回して驚き、少し感動すらしてしまいました。(笑)もしかすると、ADHDの人達は機能しやすい環境を無意識に作っているのかもしれない。と思った程でした。

 よく考えてみると、自分の家の台所などに行ってもあたしはよく、廊下でごろごろと寝転がっていたりします。それも、手持ちぶさたという状態何だろうなと思います。

 普段からあたしは家でも何もしていないという状況が無いような気がします。ボーっとするという観念があまり無いというか、常に自分の興味ある行動をしているんだなと、そういう環境を自分で作れたのと、親の協力に感謝したいです。

 気が向かなければ、その日買ってきた本でも1ヶ月〜1年程本棚で眠る事が多々あります。何か思い立った時に行動出来るようになのか部屋には沢山のものが溢れかえっていたりします。単に片付けるのが面倒で、そのままになってある部類のものもありますが、自分の行動する範囲内には自分に必要な物を置いてあります。

 あたしの部屋にはソファーが2つあるのですが、案外使ってないというか、座る時といえば殆どが映画を見る時だったりなので活躍する事が案外少ないなぁと少し悲しくなったりもしました。(苦笑)一番よくいる場所が机の前だったりするので。

 落ち着きが無いながらに自分の家でもよく動くけれど(衝動で動いてるのかも?)寝転がりごろごろするとか、そういっただらり感というか落ち着きのなさ感というか、多動性は部屋にいる限り余り無いなぁと気が付いた今日一日でした。

 基本的にADHDの脳は1つの事をやっていても他の音や感覚にフィルターがかかってくれないので全てを脳が吸収してしまって、注意がそれたりしてしまう部分が多いと思うので部屋の工夫によって、外部からの刺激を少なくし、集中出来るようになるかもしれないです。

 気が散らない様な自分に合った部屋作り、子供さんに合った部屋作りをする事はいい手だなと思いました。人によってそれぞれ違うでしょうし、色々と試行錯誤はあると思いますが、良ければ是非、試してみて下さい。

 もしかすると、今までより力が発揮出来る部屋になるかもしれないです。

 by はいじ


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D社モップ


 一度、「お試し」で小さなDモップを借りたら、気に入ったので、以来定期的
に交換してもらっている。

 交換の前日に「明日交換に行きます」と電話してくれるので、助かる。一応、モップの袋にも「次回交換日:○月○日」とかかれているのだが、交換に来てくださる方が親切にも電話もくれる。

 交換は1月おきなのだが、ほとんど使ってない時がままある。けちな私は、これ以上無理というところまで使い倒さないと、我慢できない。ので、電話がかかってくると、大掃除が始まる。

 現在の担当者は2人目で、11時ごろ来てくれるので、朝、充分掃除する時間がある。今朝もおかげで台所のテーブルの上のランプのかさやら棚がきれいになった。

 前の担当者は、子どもたちが小学校へ出かけた直後にやってくるので、寝る前が忙しくて、閉口した。

 こうして毎月まいつき、部分的に掃除しているにもかかわらず、ほこりというやつは、あっという間にまた積もる。D社で掃除しているのか、D社のために掃除しているのか、時々わからなくなる。

by キャサリン


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難しい事簡単な事

 難しい事と簡単な事が、まるで人と逆なんじゃないかとふと思う今日この頃です。

 ADHDの性質なのかなぁと。基本的に何かが突出してる人が多いと思うのです、ADHDの人って。あたしに出来る事は、果てしなく自分が今まで考えてきた事を書き続ける事くらいで、しかもその考えが止む事が無いって事だったり、結局一生書けちゃいます、あたし。

 何だか事ネタ尽きないってのはこの事なのかーって。普通は無いって事かぁ。と、人の意見を聞いてはじめてそう思う訳で。あたしも自分の定規でしか中々考えれないから、まだまだだなぁと思いつつ。当たり前の事が相手には当たり前でない訳なので・・・うーん。

 逆手に取る事って簡単なようで難しいなって思うけど、理解したいですしね、どうせなら。

 人にとって簡単な事があたしにとってはとてつもなくややこしくて、人にとって難しい事があたしにとっては水を得た魚のようだったりで。あたしは、計画通りに行動する事は本当に苦手です。

 だけど、人が思いもよらない方法を考えたり色んな視点から物事を眺める事とか、人が気が付かない事に気が付ける事とかは呼吸をするに等しいわけで。何かふとした瞬間に「凄いなぁ〜。」とか言われても、褒められた気にならなかったり。やっぱり嬉しい事は嬉しいんですが。

 もし、そうならばADHDの人は、社会に適応する事が本当に難しいんじゃない?!と思って難儀なものだなぁと思います。

 殆どが、人と同じように出来る事は出来るのだけれど、好まないって事も大きいし、我が道を行く部分も大きいのかも知れません。何にしろ、悪い部分は直していい部分は伸ばしていきたいものだなぁと切実に考えてます。

by はいじ


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心の重荷


私は、心に重い物かかえていて、それが原因でたまに起き上がれないことがあります。
昨日私はそうでした。で、会社休んで眠ったり、無料配信のテレビ見たり。
本日何とか復活。

夢の中でいろんな物見ました。
知らないおばさんに、今年も最後の最後まで嫌な事件があったわね。あなたもあなたなりにあったけど克服したところもあったわね。二十世紀は大量虐殺の世紀。二十一世紀はどんな世紀なのかしらね?人間の本質はなかなか変わらないから同じかしらね?あなたはどう変わってゆくのかしらね?と言われました。
来年は、私はどう 変わるんでしょうか?目標達成できて新しい目標作れるでしょうか?
今年は、2つ達成できました。それだけでも自分を誉めたいです。

とりあえずは心も体鍛えてすぐに具合が悪くならない様にしないと・・

by ナオニャム


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自由な行動・発想とADHD


 わたしの息子が「 ADHDですね 」と、医師の診断を受けてから、3年が過ぎました。まだ、たったの3年ですが、無我夢中の3年でした。それまでは、明るく陽気な、ひょーきんBOYだと思っておりましたが、実は、ADHDだったようです。

 そこから、わたしは、子どもとともに、母という立場で、子ども時代をやり直しているようにも思います。そして、人間には、「 感情 」があるのだと、最近気がついた「 わが息子 」(どこかで、聞いたセリフ?)

 現時点では、服薬はなしで、過ごしています。が、将来は、薬の力を借りなくてはならない場面も、出てくるかと思います。現在、小学6年生ですが、あくまでも、息子だけの特徴として、(子どもの)一つの事例として聞いていただきたく思います。

 わたしは、日ごろより、ADHDについて、いや、それだけでなく、LDについても自閉症についても、一つでも多くの事例を知りたい。知っていたい。そう、考えています。(これは、わたしの特徴でしょうか)が、当面は、息子対応から。

 いま、笑っていた子が、1分後にパニックになっていた。という現実が目の前で、日常的に起こるわけです。それを目の当たりにして、わたしが真っ白くなってしまったのは、申しあげるまでもありませんが、わたしは、当然、そうなった理由を探りたくなります。

 ですが、パニック状態の息子に、話しかけるスキはなく、何とか鎮めてあげたいと思いつつも、理由がわからないので、しばらく放っておくと、息子のアタマもクールダウンしてくるため、次には、「放っておかないでよ!」と、わたしが怒られ(トホホ)次第にわたしが、悶々、イライラとしてきて、悪循環への道に、まっしぐらとなるのです。これじゃ、いかんです。

 しかし、その理由なんて、え〜?それだけで?と思うような、ほんの些細なことなのですが、本人にしたら、重大なことのようです。そして、息子のパニック行動には、もう一つ、物理的「 逃避 」があります。パニックになると、その場から、誰にも何も告げずに逃走します。学校内からは、沈黙のまま脱走し、姿を消します。これは、とても困りものです。

 いま、わたしの後ろに居たはずなのに、振り返った瞬間に、そこにはいない。
(身軽なため、逃げ足は早いです)ということも、茶飯事な行動です。これを何とか、改善したい。頻度を抑えることは、できないの?そればかりを考えながら(ほんとーは、時々です)。過ごすことが、多くなりました。

 それからは、格闘の道のりでございます。母であるわたしは、教育現場(学校の職員室)に参ること日常化となり、わたしも注意深く見てあげることが困難なため、教員の方々の協力も不可欠ゆえ、意思の疎通を図っているわけですが、息子の(アタマ)の中は、学校にいてもどこにいても、とても自由に羽ばたいているのです。

 だってね、わたしたちは、必死になって君のことを考えているというのに、話しをしている真っ最中に、「せんせ、鼻毛、抜いていい?」は、ちょっとねぇ〜(笑;)そして、人に対しての先入観などというものは、あまり、ありません。したがって、対人関係をとても好み、先生でも、誰にでも同じように語りかけ、反応を伺っているようですが、うまくコミュニケートできないため、その矛盾に苦しんでいる様子です。

 で〜も、息子もやがて、「 おとなのADHD 」になります。ADD/ADHDの先輩方、よろしくお願いいたします。


by びび





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英会話


 N英会話スクールに入って、約1年たちました。なんにも用意しないでいきなり行って、いきなりレベルチェックを受けたので、当時はレヴェル5。これは、Nスクールに入った人が、目標にするクラスです。多少ブロークンでも相手のいうことがわかり、自分の発言もできるというところでしょうか。ところが、7月ごろから父の具合が悪くなり、8月には入院してしまい、私は給料がでないのですが介護休暇をとって父の看病に専念しました。

 そして、4ヵ月後Nスクールに戻ると、3ヶ月以上空くと、再度レベルチェックを受けなくてはならないとの事。私は、前より下がったら嫌だなあとおもって、フリートーキングのクラスに5校ほど連続して通いました。ここのスクールのよさは、このフリートーキングクラスがあることです。レッスンは指定校で受けますが、フリートーキングはどこの分校でも受けることができ、やっている時間内なら何時間でも受けることができます。

 そこで、レヴェルチェックのためにここに来ました!と言うと、「え、君はレヴェル5なの?僕だったらレヴェル4にすると思うな。」とどこのインストラクターにも言われたので、だんだんと調子も戻ってきて、調子よくレヴェルチェックテストを受けました。
そうしたら、やはりレヴェル4に上がりました。感謝。

 そして、レヴェル4のクラスでの授業が始まると、なんと着いていけない・・・。おとととと・・・。会話の速度自体が早いし、単語も難しくなります。初めはふうふう言っていましたが、これも慣れるんですね。今はインストラクターの言っている事もほぼクリア。しゃべるのも、皆さんと同じ程度になりました。また、入ったころに聞き取りにくいと感じていた、Aインストラクターの発音やしゃべりも良くわかるようになりました。

 途中思わぬ休みが入ってしまったものの、やはり語学は継続です。まだ、ポイントがいっぱいあまっているので、あと2年くらいは連続していけそうです。がんばろっと。

by MUSICA


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写真を撮る行為


 私は今、カメラ、それもポラロイドを趣味にしている。一瞬を切り取るようにシャッターを押し、その結果焼き付けられたもの が、すぐに目に見えるのが、ポラロイドの良いところだ。特に何を撮るとは決めていない。心を動かされたり、ふと目にとまった光景だったり、そんなモノを思い つくまま撮っている。
 
 先日、出張で東京方面に出かけた(私は関西在住)。ホテルの部屋が7階にもかかわらず、窓が全開になる作りになっていた のをいいことに、思い切り窓を開けて、そこから見える空を撮ってみた。遠くに、工事中の高層ビルが見える写真。早朝だったからか、空はとても澄んで美しいグラデーションを描いてい た。その日、仕事までに時間があったので、銀座に出て、そこでもレンズを 上に向け、空を撮ってみた。わざと繁華街的な雰囲気や乱雑なものを写さず、ビルの先端と空だけの 写真。
 
 そうして出来上がった二枚の写真を眺めていると、同じように切り取っ たはずの空なのに、全く違う色が感じられる。もちろん、時刻や気温などの外的物理的なことで、表れるものは変わっ てくるのだが、それ以上に、ファインダーを覗いた時の自分の感覚や、その部分を撮ろ うと思った自分の感情。そういうものが表れているんじゃないかと思えた。

 写真をやっていて、空を撮る人は多い。けれど、みんな違う空を見ているのだと解るほど、違いが出てくる。同じ人が撮ったものでも、もちろんそれぞれ違う。真っ青なだけの写真なのに、撮った本人が、いつのどんな空なのか、 解ってしまうほどに。カメラは瞬間を切り取る行為であり、その光景を切り取る行為であるけ れど、もう一方で、自分の感情や思いを切り取る行為でもある。
 
 この2枚の写真を私の個人的なブログにアップしたところ、いくつかコ メントがいただけた。吸い込まれていく、と言った人も、青空は空に閉じこめられるようだと 言った人もいた。東京とは思えない静寂を感じると言った人も。それぞれがそれぞれの空を思い、そこに写るものを感じ取ってくれる。それはぴったり自分の感情や思いと同じではないけれど、何かが写り込んでいることに気づいてくれるだけで、その写真を公開し た意味があると思えた。

 私は、デジカメで写真を撮るようにはならないだろうと思う。ポラロイドというツールは、すぐさま結果が表れるという利点だけでは なく、フィルムの特性上、普通の銀塩カメラのフィルムよりも値段が高いとい う理由もあって、1枚1枚をとても大切に写すせいか、より、気持ちを込められると思う からだ。使い捨ての感覚ではなく、一つのものを集中して見つめ、シャッターを 切り、次の瞬間には結果が表れる。そして、その結果はデータではなく、現実のものとして目の前に存在す る。その確かさに嘘はなく、私はそれにとても救われていると思うのだ。

by 小町





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会社ってみんなで作っていくもんなんだよね。


 私は、いろんな諸事情から派遣社員という立場を何度も経験しています。そのたびにかんじることがありますそれは、会社は社員みんなで作っていくってことです。派遣社員で、結構大手の企業に派遣をさせてもらっていますが、必ず社員の最低二人には「こんな会社にいたら自分が腐っちゃうよ。」っていう発言。
 
 確かに、なんにもしないで受身のままでいたら腐っちゃうけど、せっかく今、社員なんだから、派遣よりももっと会社に属しているんだから動きなよ。自分の力を少しでも生かして自分の会社を良くしなよ。と感じながら受け流して聞いていました。
 
 どんな会社にも良い箇所もあって、悪い箇所もある。自分にとって不都合なことは会社のせいにしちゃ楽だよね。でも、他人のせいにしている人ほどその会社に長くいて不満があるのに転職しない。転職するための努力もしない。そんな人がいたら会社も良くなくなるわけないじゃん。そう思うこの頃です。
 
 で、そんな私は今年から正社員として働いています。今の会社でもやっぱり先に話したタイプの人がいます。不満に思うなら、変に思うなら自分の意見を発言してよい方向へ持っていこうとしなよ。と思います。自分の立場が危うくなるから、後が怖いから。なんて感じるんだったら、最初からそんなこと言うなよ。と思っていながらそんな話の輪から上手く逃げます。
 
 そんな私は、こっそり自分の良い居心地の良い風に会社の周りをカスタマイズ中。会社を作り上げているのも結局人間なんだから、良い面も悪い面もある。完全な会社なんてないんじゃないのかな?
 
by ナオニャム


 わたしは派遣はやったことがありませんが、お定まりの転職人生で実に様々な会社で働きました。完全な会社など何処もなかったですね。

 わたしは営業関係もやりましたが、初めて訪れる会社の発展性や信頼度はその会社の雰囲気で直ぐに分かります。正確に言えば社員が活き活きしているか惰性でいるだけかの違いと言えるんじゃないでしょうか。

 松下幸之助さんの言葉ですが、どんな会社にも3分の一はよく働く社員がいて、次の3分の一は普通の社員で、残りの3分の一は箸にも棒にもかからない無能社員だとのこと。で、その無能社員を辞めさせると、残った社員の3分の一が箸にも棒にもかからない怠け者になるのであり、結局は無能社員がいないと有能社員が働かないのだそうです。

多くの会社を見てきて、なんとなく納得出来ます。それなら、自分は3分の一の有能社員になるべきだと考えますね。

from ロクスケ




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上るまで待つ


 先日、ポーカフェイスの友人に、質問をした。「あなたの夢は、なにいろ?」と。答えは「もちろん、天然色さ!」であった。

 加えて、「夢を夢のなかで、コントロールできる」とのことである。(自分のスキなように、ストーリ展開をしてしまうようである)もう、これは特技と呼ぶべきであろう。

 さて、わたしのうちの近くには、JR東海道線の踏み切りが、ある。JR某駅からも近い地点にあるため、遮断棒が降りてから、電車が通過するまでがとても、長い。したがって、待ちくたびれて、頭にくる。

 ある日、あまりに待ち時間が長かったので、ヒマつぶしに、あちこちをキョロキョロしていたら、遮断棒にかかっているプレートに書かれた文字が、目に飛び込んできた。その文字とは?  → 「サオが完全に」 「上るまで待つ」

 この2つのプレートに書かれたフレーズ。要は、「遮断棒が完全にあがってから、踏み切りは、注意して渡ってね!」ということらしいのだが、「上るまで待つ」とはどう読むべきか、とてもとても気になって仕方がない。、

 「あがる」と読ませるためには、送り仮名が、足りない。間違っている。「のぼる」と読ませるならば、間違いではない。ん、いいぞ。しかし、一般的に考えれば「棒がのぼる」ことはないし、「棒がのぼる」とは、言わない。「棒はあがる」と解釈するべきだ。

 ということは、暗黙の了解なのだろう。やはりここは、「あがる」と読むべきなのだろうか。

by びび


 わたしの場合は、覚えている限り夢は必ず天然色です。夢の内容を覚えていることは余り無いので、見ていない時もあるかと思いますし、もしかしたら白黒も見ているかも知れません。
 
 またいつもではありませんが、自分が夢を見ていることを自覚し、その夢をコントロールすることは出来ます。そのような人は結構いるみたいですよ。
 
 テレビなどをつけっぱなしにしてうたた寝をしていると、テレビの内容に触発された夢も見ますね。
 
from ロクスケ



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ホルマリンに気をつけろ

 ホルマリン、と聞いたら皆さんは何を思い浮かべますか?わたしは昔読んだホラー漫画の人間の脳みそや臓器のホルマリン漬け、学校の理科室に置いてあった蛇のホルマリン漬け、などを思い浮かべます。

 話はちょっと変わってインドネシアでは、人が亡くなると通常火葬ではなく、土葬をします。海外でインドネシアの人が亡くなるとそのまま亡骸を棺に入れてインドネシアまで運びます。その亡骸に使用されているのがホルマリンなのです。お墓に埋める際も通常ホルマリンを使います。保存料として使うのです。ある人の話では、5年後に掘り起こしても亡骸は綺麗なままだそうです。

 そのインドネシアでは「死体の保存料」として人々に知られているホルマリンが、なんと「食品保存料」として使われていたのです。ホルマリンが使われていたのは、豆腐、干し魚などの魚介類の干した食品で、それが発覚してから大きなニュースになり、スーパーから豆腐や干し魚、干しエビなどが姿を消しました。インドネシアの厚生省がスーパーなどを徹底調査して、ホルマリン入りの食品を排除したためです。

 通常、製薬会社はホルマリンは食品会社に売ってはいけない法律なのですが、裏でホルマリンを横流ししたり売買している業者が多くあったようです。

 今、スーパーでは「ホルマリンは入っていません。安全です」と書かれた豆腐などが売られています。本当かどうか半信半疑ながら安全な食品を探す毎日です。

by Bunny_Lab


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プーさんのぬいぐるみ

 夫がクレーンゲームで取ってきたものだ。もっと新しいプーさんもいくつかあるのだが娘の一番のお気に入りは最も古くてお腹のところにマジックで娘の名前が書かれているものだ。

 娘は、固いロボット犬と古びたプーさんを枕元に並べて、これまたお気に入りのピンク色のおくるみ(息子(小5、新小6)のために買ったもの)をかけて、毎晩、寝る。このプーさんになぜ、娘の名前が書かれているかを娘は知らない。実は、娘2歳、息子(ADHD)5歳当時、娘には言葉は通じず、叱ることもできずにほとほと困り果ててしまっていた。息子の顔を引っかく、そこら中、思いのままグチャグチャにする。

 息子にとってはとんでもない怪物のような存在だった。そんなやつを母は叱るどころか、抱っこしたり、おんぶしたり、ご飯を食べさせたりしている。彼はトイレにこもるようになってしまった。
 
 そこで、小児科に相談に行くと、しばらく、知らんぷりして、トイレにこもっても気にしてないふりをしろと、指示された。それで、事態が改善すれば、OK。もし、そのまま、または悪化する場合は、兄妹を分離保育する必要があると言われた。

 そこで、考え出された、息子のストレス解消法。3体のぬいぐるみに「おとうちゃん」、「おかあちゃん」、娘の名前を書き、息子に本人ではなくぬいぐるみに攻撃するよう伝えた。どうやら、この方法は効を奏し、兄妹は分離せずにすんだ。

 そのなごりがこの娘の名が書かれたプーさんという訳だ。

 娘は今日もこのプーさんといっしょにベッドに入る。
 
 
by キャサリン


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学者の奇行


 最近、脳科学で有名な某教授が、大学の女子職員にセクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)をしていたとして、大学が諭旨免職処分とする方針を決めたことが先日明らかになった。(しかも教授のセクハラは今回が初めてではなく、過去にも同様の事件をおこしていたらしい)という事件がありましたが、ボクは同教授の著作を何冊か読んでいて、同教授は、脳科学の分野では日本で有数の学者です。

 教授のHQ理論に賛同し、近頃の若者が切れやすいのは前頭葉の機能低下のせいであり、人間性を測る総合的指数HQを高めなくてはならないとの論旨に、おもわず膝を打ち、教授が開発したHQを高めるパソコンソフトを大枚はたいて購入し、日夜HQトレーニングにはげんでいたのであります。開発者である教授がこのようなアホな事件をおこしてしまって、こんな教授を信頼していたボクはいったいどうすればいいのでしょうか?ボクもアホだったんでしょうか?

 教授こそHQが低かったに違いない、そう確信したボクは、2ちゃんねるの掲示板に書き込んでしまいました。もう何にも信じられなくなりました。

by mogurin

 
 同教授の著作はわたしが本を書いたときも参考にしました。ただ、このような学者には性格破綻者が割合多いようです。だから、あまり驚きはしませんでした。研究生活に埋没し、人間社会の中で正常に成長出来なかったためでしょう。スケベ心は誰にでも有ります。わたしなど、少し多いかも知れませんが、もちろんそれを抑制する術は心得ており、別に普段欲望を抑える努力などしません。最初からそのような状況でないところではそのような衝動が起きないからです。その代わり、そのような状況であればもう猪突猛進・・・
 
 閑話休題

 他に、例えば経済学者である某大の某教授などもそうでしょうが、古今科学者芸術家などにはそのような問題を持っている人は割合多いようです。医師にも性格破綻者が多いのは良く知られた話ですし、弁護士、裁判官、高級官僚など、その地位を得るために時間を取られ人間形成期に人間形成が出来なかった為でしょう。

 誰しも完全な人間は居ません。理性は努力して身につけなければ育ちません。最近の子供がキレやすいのもその方面の教育が足りない、食べ物が悪い等考えられます。早期幼児教育と称し、3,4歳頃から英才教育を施すのがはやっていますが、その時期は最初の人間形成のために使わなければならない時期です。したがって、将来性格破綻者の天才が数多く現れるのではないかと危惧されます。

from ロクスケ


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給食

 娘(小2、新小3)の担任は私と同世代、「もったいない」を実践する世代だ。娘によると、給食を残すと、口の中に押し込むとのこと。ある日、たまたま(まっ、しょっちゅう学校に顔を出しているが)、学校の廊下で担任に会ったので、立ち話をした。

 いつも忙しい担任だが、その日は風邪のため学級閉鎖なので、どうも暇だったらしい。立ち話のついでに娘の口の中に食べ物を押し込むのをやめて欲しいとお願いすると、彼女は、「とんでもない、押し込んだりはしていません。『アーンして』と言って、やさしく
口に入れてあげてます。」と言う。そうでしたかと、腑に落ちないまま、引き下がった。

 家に帰って娘に「先生に、『野菜を口に押し込まないで』ってお願いしてきたからね。」と言うと、娘は、「もう、2年目(担任が)だから、みんな自分で押し込んでるよ。」とのこと。

 が、娘は3年生でも今の担任が担任になるかどうかが、不安のようで尋ねてくる。可能性は低いがそういうケースもあると、万が一を考えショックを最小限に留めるよう答えている。


by キャサリン


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ADHD論 脳内映像

 ふと、あるアイディアが頭に浮かぶと、そのイメージがぶわーっと頭の中で描かれ、頭の中でまるで映画を見るような、自分の世界の立体映像を脳が勝手に作りがちです(私の場合)。時々ボーっとしていると言われがちですが、何も考えずにボーっとしているのではないのです。

 自分がADHDだと考え始めてから、一般の人とどこがどう違っているのだろうと、日々、色々な人を見つつ言葉に注意しつつ(注意しなくとも、脳に勝手に入るわけですが)この2年程やってきました。

 一般というものは無いと言ってしまえば終わりなので、ここでは一応の定義をさせてもらいますが、統計的な意味での標準、つまり大多数の同意が得られるような事象の見方、という意味です。

 私が一般の人と違う部分ですが、

 受ける情報量の多さ
 イメージすること(当然夢にも関連している)
 興味の移り変わりの激しさ(同時に他の事も出来る)
 TPOに気が付きにくい(自分の概念に無いというか、思ったことがそのまま行動に出てしまう)
 
と、この位を例にあげさせて貰って、今回はイメージについて話します。

 注*あくまでも、私のADHD論なので全てのADHDの方が同じだという事ではありません。

 まず一般の人々の夢やイメージがどう違うのかを知るために、友人や家族に夢について尋ねてみた所、現実と区別が付かない程のスケール感はないらしく、色すらも付いていない方もいるようで、例えば夢を見たとして、1日1個も見ないか、見ているけれど覚えてないことが多く、覚えていても多くて2個程だそうです。

 私の場合は1日1〜5個の夢を見て、そのほとんど全部を覚えています。私にとって、夢やイメージは現実と区別が付かない程、本当に鮮明で、スケールは街単位や、国単位、世界単位でも大きく描写され、走ったりする感覚は勿論、走る間に行き過ぎる建物の映像も細部までちゃんと描写されています。

 そのクオリティの高さ故、どっちが本当かわからない時があります(現実にも起こり得るような夢を見た場合)。また、非現実的であっても、もしかすると夢のパラレルワールドが存在し、そっちが本物で、私は本当はそこで生きているのかと思い悩む事も多々ありました。

 こういう話を他の人にしても、自分に無いものを理解してもらうのは困難かもしれません。自分に無いものを他人にずっと見てきた私は、苦しく認めたくなく、必死になってきました。

 逆に大多数の人々は、自分が一般の範囲内であるということで安心を得ますし、違うと思っても大多数がそうであれば気が付かないものです。

(続く)

by はいじ

 続くと言う事ですので私のコメントも待った方が良いかも知れませんが、思いついたときに書いて於いた方が良いので。実は私もはいじさんと殆ど同じ体験を持っています。つまり、きわめてリアルで五感全てを備えた夢を見、現実との区別が付きにくい事。従って、よく考えてみると事実ではない事を記憶として持っている事がかなりあります。
 
 また悪夢などをこの調子で見るとやはり心に対する大きな負担になり、精神上まことに不利です。体調、精神状態の悪いとき、悪夢をますます負担として抱え込んでしまう事がありますが、それを夢だと割り切れると良いんです。しかし、あまりにリアルな夢はそうは行かないんですが、普通の人にはちょっと想像出来ないようですね。
 
 次回を楽しみにしつつ・・・
 
from ロクスケ


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時間管理


 私と息子(小6ADHD)は非常に頭の構造が似ている。 例えば、こうだ。息子の中学受験の学習を私がみている。難解な算数に取り組んでいる息子、算数のセンスが良く結構、出来る(親ばか)が、ケアレスミスで点数を失う。添削している私も同じところで、問題を読み違えたり、ケアレスミスしたりする。だが、このことは息子には言わない。

 とまれ、そういう似たところも多いが、正反対のところもある。息子は、科学教室(月1回)だの、スイミング(週1回)だの、書道(月3回)だのに行っているが、時間や曜日をたがえたり、忘れたりすることはない。自分で、支度してさっさと行く。

 私と来たら、曜日感覚や時間の感覚が狂っている。これは若い頃からそうだ。会社員だった頃、9時〜5時なのに、8時に出社したり、4時に平気で帰り支度をして、「お先に失礼します。」と言って、帰ってしまったこともある。電車が、やにすいているので、気づいたこともあるし、しばらく、気づかないこともある。

 先日は、歯科の予約の日は翌日なのに前日に行こうとしたことがあった。歯を磨いて、出かけようとして、夫に「歯科に行ってきます。」と声をかけたら、夫が「明日じゃないの。」と指摘してくれたので、恥をかかずに済んだ。

 この現象は、緊張すると悪化する。というのは、前回の歯科のときに平然と11時半に行ったところ、看護士に注意された。「遅くなる時は、連絡してくださらないと、困ります。」予約時間は11時15分だったのだ。カレンダーにもPHSにも11時30分で登録されていたので、思いこみの前には時間を守ろうとする努力も空しい。

 by キャサリン
 
 


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脳内映像2

 前回、自分に無いものを他人に見てきたと書いた意味ですが、自分に無いものというのは自分が出来ない事であり、それは、人にとっては当たり前の事であったり、何気無い事であったりする事を指しています。例えば、時間管理であったり、同じ作業の繰り返しだったりと、色々あります。(学校や仕事へ毎日、定時に通う事もある意味そうです。)

 脳内映像についての話は、理解し難い話だとは思いますが、読んで少しでも理解しようとしてくれれば幸いだと思います。

 前回は夢の話でしたので、今回は現実でのイメージの話をさせて頂きます。頭の中でイメージが描かれる時の様子は、あくまで私の捉え方ですが、いわゆる白昼夢みたいなもので、現実の視界も、勿論見えてはいるのですが、その後ろというか前というか、二重に重なる様に映像がぶわーっと広がるようなイメージです。勿論半透明のようなものであり、どちらの景色も見えてはいるのですが、メインは脳内イメージになってしまいます。

 幼い頃からずっとこういう事はあったのでしょうが、はっきりと気が付いたのは中学校の時でした。仲のいい友達が授業中に、「ボーっとして何をしてるの?」と聞いてきた時に、はっと現実の方へ戻ってきて(映像が現実だけのものになるのです)「いや、前の子の髪の毛を三つ編みで結ったらどうなるんだろうな〜?って考えて想像してた。」と答えました。勿論イメージがついているという事までは話はしませんでしたが、それを聞いた友達は大爆笑して、周りの皆に、「聞いて!はいじがボーっとしてるから、何してるのと聞いたら、前の子の髪の毛を三つ編みにしたらどうなるんだろうって考えてたらしいよ!」いろんな人に面白そうに話をしていました。

 友達曰く、目が点のようだったらしいです。笑。

 それ以来、ボーっとしていると、その友達はそういう頭の構造を理解してくれたのか、ネタだったのか、「今、どこに飛んでた?」と良く聞いてくるようになりました。「ちょっとアメリカまで。」とか、そういうギャグ的会話が成り立つようにもなってしまってました。

 それに対して私は、それが皆に在り得る事だと最近まで考えていたので、その友達との差にも、やっと今頃気が付いた程です。

 その想像力の豊かさの話を聞くと、楽しそうだなとか、自慢だとか、偽りだとか、色々と思うかもしれないですが、

 実際の所、裏には、やはり陰も存在しているものなんです。

 (続く)

 by はいじ。
 
 
 


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日本語は難しい

 日本語は難しい言葉だと思います。英語やフランス語、ドイツ語などの外国語とくらべても語彙の数が多く、複雑であるといわれています。_するを言葉のあとにつけたら、すぐに動詞ができてしまうので、新しい単語が次々と生み出されているそうです。たとえば、チャットする。メールする。ワンギリする。留守録する。

 実は、一年ほど前から漢字検定のテキストを購入して、空いた時間にちょこちょこ勉強しています。最近は漢字にはまっているんです。はじめは自分がいい年をして何の資格も持っていないことに気づき、何か資格がほしい。どうせ取得するなら人に自慢できるようなすごい資格をとって知人にみせびらかしたい、とくだらないことを思いました。
 
 英語が好きなので、英検かTOEICはどうかと考えましたが、英語の前に日本語だ、やはり母国語をしっかり勉強して、しかる後に外国語を学ぶべきだと結論しました。
 
 漢字検定も準2級、2級とテキストを順を追ってやっていき、もともと日本語には少々自身があったので、なあんだこんな漢字全部知っている。簡単簡単と順調にこなしていきました。
 
 ちなみにテキストの模擬試験をやってみました。200点満点で160点が合格ラインです。2級の模擬試験で157点とれたので、もう少しで合格です。これだと検定試験を受けて合格証書を手に入れても、検定料4000円がもったいないと思いました。それでその上の準一級を受けることにきめたのです。
 
 今、ボクが挑戦している漢字検定準一級に出てくる漢字は、一般的な教育漢字、常用漢字1945字と違って、音読み訓読みの数がはるかに多いです。たとえば「山」(やま、サン、ザン)「谷」(たに、ヤ)「寒」(さむ_い、カン)「求」(もと_める、キュウ)などは常用漢字だけど、読みの数は音訓あわせて多くても三個、平均二個で覚えるのにそれほど苦労しない。ところが準一級に出てくる漢字「坐」だと、(すわ_る、いなが_ら、そぞろ_に、いま_す、おわ_す、ましま_す、ザ)「弥」(おさ_める、ひさ_しい、わた_る、あまね_し、いよいよ、いや、つくろ_う、ビ、ミ)となります。
 
 これらが、準一級の代表的な漢字です。「弥」の熟語は、弥高し、弥栄、弥久、弥月、弥甥、弥縫、弥撒、沙弥などになります。(答えは、いよいよたかし、いやさか、びきゅう、びげつ、びせい、びほう、みさ、しゃみ)「烏」の熟語は烏合(うごう---規律もなく集まること)烏龍茶(うーろんちゃ)烏有(うゆう、いずくんぞあらん)烏鷺(うろ---黒い鳥と白い鳥の組み合わせで、黒と白つまり囲碁のこと)「胡」(あごひげ、えびす、なん_ぞ、でたらめ、ながい_き、みだ_り、いずく_んぞ、コ、ゴ、ウ)も読みが多い。ではこれは読めるでしょうか。粥売、種籾、暖簾、滑稽、穆然、稗史、禰宜、矩形、瓢塚、瑞穂国、猪口才、狸穴、燦然、股引、肇国、葱根、蒔絵、蔚然、薙刀、菩薩、蘇芳、蛙声、蝶番、田螺、蟻い、凋む、串殺、乃公、侃直、佼しい、儘く、-------------------------

 英語では読みの問題は全くない。takeはテイクaskはアスクrunはランとしか読まない。そういった意味では非常に単純です。でも多くのidiom熟語があり、それぞれに意味を持つといった点では漢字と共通しています。run across偶然出会う, run after追跡する, run against衝突する, run away逃げる, run overざっと目を通す、轢く---------take after似る、手本にする, take off脱ぐ、持ち去る, take on引き受ける, take inだます,takeone's timeゆっくりやる---などなど。

 英語と漢字、覚えるのにどちらが難しいか、明確に言うことはできない。でもぼくの感覚では英語は聴覚的、漢字は視覚的な言葉のようです。したがって、英語は耳から聞き、口に出して暗唱する。漢字は目で見て紙に書いて手で覚えるのが得策のようです。でも日本語の文化圏で暮らし、毎日漢字にかこまれて生活していながら、日本人にとってこんなにも難しい漢字は、外国人の場合どう受け取られているのだろう。
 
 英検一級のレベルは日本人にとっては雲の上の英語の達人のイメージがありますが、native Americanにとってみたら、ふつうの日常会話がスムーズにでき、ビジネスも英語で不自由しないレベル、つまりふつうのアメリカ人と同等レベルといえます。ところが漢字検定一級レベルは、日本人にとっても「歩く漢和辞典」「人間ATOK」といってもいいくらいのマニアックな漢字物知り博士超人仙人レベルです。その意味では漢字検定のほうに軍配が上がるといえます。あくまでボクの個人的な評価ですが。

 漢字の答えは(いくばい、たねもみ、のれん、こっけい、ぼくぜん、はいし、ねぎ、くけい、ひさごづか、みずほのくに、ちょこざい、まみあな、さんぜん、ももひき、ちょうこく、そうこん、まきえ、うつぜん、なぎなた、ぼさつ、すおう、あせい、ちょうつがい、たにし、くろい、しぼむ、かんさつ、だいこう、かんちょく、うつくしい、ことごとく)


by mogurin




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脳内映像3

 人に理解され難い事は、夢にしろ、イメージにしろ多々ありますし、理解して貰いたいけれども、理解出来ないという気持ちも解ります。

 ADHDのお子さんが居る親御さん達は、色んな側面を理解しようと頑張らっしゃると思います。

 今回はあたしの脳内映像による、特殊な体験談です。

 運転免許を取る時にも、注意力不足の欄にあたしは必ず○がついてました。自転車でこけた事も何度もありますし、自分でも何だか事故しやすい体質かな?とかも薄々感じてました。けれど、普通車の運転免許はちゃんと取れました。笑。

 免許を取ってからは楽しくて楽しくて、いつも運転しては皆と何処かへ行ってました。大体あたしは、寝不足でも平気で運転していたし(というか元々眠くならないので微妙な話ですが)、取り立ての頃に2回程、軽い事故があったのですが、相手の方が「傷がそんなにあるわけでも無いし。」と示談にしてくれてました。

 初心者マークも取れた頃に、両親が、トイザらスで働いていたあたしに「車で1時間もかかる所だし、こっちがお金を出すから普通車を買えばいいじゃないか。」と言ってきてくれました。あたしは、軽でも十分だーとか思ってたけれど、気持ちは有難く頂戴しておこうと思い、あれこれと選びに行きました。

 そして納車が近づいた頃に、それまでの軽四を売り、とりあえず代車を借りてました。偶然にも同じ車種だったので、違和感無く乗れてました。

 ある日友達と広島で遊んでいて、ご飯を食べた後、広く見通しのいい直線道路をのんびりと運転しつつ、「近々、今度は一緒に遊園地に行こう。」と言う話をしていて、あたしはその遊園地に何回か行った事があったので、(あれにも乗りたい、これにも乗りたい・・・)と、自分の中でぶわーっと勝手にイメージが膨らんでしまっていました。

 あたしの場合のイメージは、前回も話したように、本当にクオリティ高くリアルに描かれてしまいます。イメージの脳内映像は、例え車の運転中でも二重に見えるのですが、その時は話に夢中な余りか、雨で視界が悪く、後ろが暗かったのが災いしたのか、そのイメージの方だけに集中してしまい、前を見ているはずが、現実の映像の方がおろそかになったのだと思います。

 前の車のテールランプは見えていたので、無意識にそれについて行っていたように思うのですが、気が付くと信号は赤だったらしく、しかもゆっくりと走っていたので、隣の友人から「危ない!」と指摘され、交差点であたしは止まり気味になってしまい、横から来る車にクラクションを鳴らされたりしてしまい、焦って、何が何だかになったままで、そのままゆっくりとしたスピードで交差点抜けようとしたら、あたしは、横の車とぶつかりやしないかと横ばかり見ていて、横断歩道を見れていなくて、自転車とぶつかってしまいました。

 本当に、怖い事です。その後、土砂降りの雨の中あたしは車を降りて、救急車を呼びました。震えが止まりませんでしたし、自分は何て情けないのだろうとも思いました。

 不幸中の幸いか、その方は骨折だけですみましたが、命を絶っていてもおかしくなかったかもしれません。勿論、相手も、あたしも、友達にも、それは言える事だと思いました。本当は書く事も嫌だったので躊躇しましたが、これが何かの役に立つのならばと。

 流石にそれから1年間は、折角の新車が来ていても、一切車に乗る事が出来ませんでした。1年経ってからも、車に乗ると怖いという想いがよぎって、どうしようもなくなったりしました。

 今でも、もうだいぶ年月は経っているのですが、まだ雨の日に運転する事は怖いですし、それは余程の事が無い限りしないようにしています(特に夜)。あと、運転中はなるべく、運転のみに集中しようと心がけています。それでもやはり、寝不足の日、雨の日などは、決して運転しようとは思いません。

 全てが、ADHDのせいでは無いと思いますし、運転する事が悪い事でもないです。けれど、そういう事も起こり得るし、ADHDであるが故に事故に遭いやすいかもしれない、という事を考えるのは大事かもしれません。例え歩いていても、事故に遭う危険性はありますし。

 こういう話を一般的な観点から見たら、ただ能力が高い(あるいは低い)だけのように見えるのかもしれないですし、やはり現実問題として、ADHDも(一般と比較しての)能力比較のような評価がされやすい気がしますが、実際の問題点はそこではなく、「構造上の問題として、自分の能力を自身でコントロールしきれないことがある」ということだと、あたしは思うのです。その問題の取り違えが、ADHDが理解されにくい(ADHDを理解しにくい)理由なんじゃないでしょうか?

 確かに、一般的には理解され難い事だと思います。だけど、だからこそ、自分に無い事でも解ってあげたいという気持ちは本当に大事だと思うのです。何にしろ、そういう気持ちを持って頂けたら、本当にありがたいものですし、これを読んで下さった方にとって、何かの助けになる事を祈り、この話を終わりにします。

 
(完)


by はいじ。






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ADHDと思考回路 1

 たまに、ずっと頭から離れない感情などがある時がある。過集中などはそういう時に起こるものなのだなと時々考える事があります。

 これは全てのADHDがそうだと言うわけではなく(そもそもADHDは明確な定義が難しいものですが)あたしの傾向からなのですが、この傾向から参考になるならばと、そういう思いとして、あたしの中の1つの症状として、ADHDの場合という定義でお話させてもらいますね。(あくまで、あたしの考え方であり、全てのADHDの方が同じだとは言い切れないのでご了承を。)

 同じ事を考え続けてしまう。そこから中々離れる事が出来ない。という事があたしには多々あります。

 そういう感情や思考回路がいい考えやポジティブだったらいいのだけれども、ネガティブな場合、切り替えたいと思っても、中々気持ちを他の興味に持って行けず困ってしまう時は、大体あたしはノートや用意してある紙に思いっきり愚痴を書くわけです。

 すると意外に1つの方向だけに捕らわれていた思考がスッキリとして、楽にその方向から、次の思考への移り変わりが出来るようになるわけです。

 つまり、1つの物事への執着を失うと、次の物事は既に進行しているわけで、その以降のタイミングをうまく作る事が大事なのだと思うわけです。

 ADHDの人が、だらしないだとか、集団行動が出来ないと言われ易いのは、そういう所にに由来してるのではないかと思う日々です。

 それを自分自身でコントロールをする事は本当に難しいのです。(体験談)

 本人は、ある一つの事象に、捕らわれている事に気が付いて無い場合にしても、気が付いている場合にしても、捕らわれて居たいから捕らわれて居るように思います。

 その問題をどうしても解決したくなる癖が、連続してしまい、解決する事やその問題を解くまでは、その問題から離れにくくなる傾向があります。

 例えば、「何でだろう?」と考える事が起こったとします。

 普通の人(非ADHD、という意味です)は、その事をある程度理解出来れば、その問題について考えなくなる事が多いと思います。だけど、ADHDの人の場合は、その先でまた、

 「何でだろう?」

 と、またその続きを、リンクさせてしまうような感覚で、脳内で勝手に疑問符が続いてしまって、答えを求めたいという、ただ単なる好奇心から、幾通りも答えがあるということを理解していても、その幾通りもの答えを考えてしまい、意味も無く、色んな展開を空想しては、其処をループしているような感覚に陥りがちです。

 それは全く本人の意識外で行われる事であり、自分が他の事へ脱線していたり、過集中になってる事に気が付き難いのです。


ー 続く ー



by はいじ


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夏を乗り切るために

 一説に因れば今年の夏は冷夏だと聞くが、それでも、7月に入ったとたんに連日猛暑続きだ。それに、九州や飽きたなどでは集中豪雨でも関東では日照時間が短いだけでまとまった雨も余り降らない。深刻な水不足にな裸無ければよいのだが。

 天候不順だったためにいつになく体調を崩す人が多いが、そのためにも夏を乗り切る工夫を心してしておく必要がある。

 私が心がけているのは:

 エアコンはなるべく使わない。電気代もかさむだろうけれど、エアコンは体によいものではないという意識があり、今は仕方が無く入れているが除湿で室温を28〜30度にしている。外は30度を越していると言っているが、エアコンを入れないと35度を超すので、28度でも結構涼しく感ずる。

 エアコンを入れっぱなしにして寝たりするとてきめんに体調が崩れるので、寝るときは暑くてもエアコンを切り、窓を開けている。ただし、防犯上出来ない人もいるとは思うが、自然の風を旨く利用する工夫はした方が良い。

 扇風機も、直接風を体に当てず、エアコンの冷気を部屋中循環させるために回す程度にして置いた方が良い。

 冷たいものをなるべく取らない。たしかに暑いとき冷たい飲み物は気持ちがいいし、それがビールだったりするともうたまらんというのはその通りだが、却って喉が渇き、また涼しいのも一時的であとから逆に体がほてったりする。暑いときは、熱い茶などを飲むと、そのあとさっぱりとする。

 水分は適度に補充する。水不足はやはり体力を損なうので、冷たい飲み物ではなく熱い飲み物で補充した方が良い。汗を大量にかくから塩分を補給すると昔は言っていたが、今の日本では何処でもエアコンが効いているし、激しい運動でもしない限り大汗をかくことはあまり無い。元々塩分摂取が多すぎる傾向があるので、日本人はあまり塩分の補給を神経質に考えることはない。

 一方、私は自分で漬けた梅漬けから取った梅酢を冷水で薄めて摂ることもやるが、クエン酸で疲労が取れる。それにさっぱりして旨い。濃さはコップ一杯で梅酢を小さじ一杯。砂糖などは入れない。ただし、飲み過ぎはいけない。

 夏野菜を多く取る。うまくしたもので季節の野菜はその季節の体を整える働きをする。トマト、キュウリ、ナスなどは体を冷やす働きがあるというし、緑黄野菜はビタミン補充に欠かせない。食欲がないからと、いつも素麺や冷や麦ばかりでは栄養不足になる。素麺冷や麦でも、おかずは十分に取らなくてはならない。

 ナスやキュウリを薄塩で乳酸発行させたものは乳酸を取れるので良さそうだ。乳酸は消化力の落ちる夏に沢山摂った方が良いから、もちろんヨーグルトなどでも良い。発酵しすぎないように、ある程度漬かったら冷蔵庫に保存する。

 体を動かし、それも陽光を浴びながら運動をするのは精神的にも昂揚させる働きがあるが、炎天下ではあまりやらない方がよい。朝夕涼しいときに、せいぜい軽いジョギングくらいでよく、炎天下でランニングなどをすると非常に危険。

 夏になり食欲が落ちてダイエットが出来たなどと喜ばないこと。単に栄養不足なだけであり、量は落としても質はなおさら気を付けて、量の落ちた分を補うように心がける。香辛料を上手に使うなどして食欲を刺激すると良い。

 熱いからと言って室内でも裸で居るのはよくない。ある程度は着ていたほうが気分的にもシャキンとするし、汗ばんだ肌があちこちにべたべた触るのは気持ちが悪い。

 汗をかいたらシャワーを浴びるのは結構だが、頻繁にシャワーを浴びる場合は石鹸を使わない、タオルなどでごしごしこすらないなどの注意が必要。何かの仕事で体が汚れたとか、3週間風呂に入らなかった場合以外、一日に複数回シャワーを浴びるならそのたびに石鹸を使うと大切な皮脂や皮膚に棲息している有益微生物がとれてしまい、却って細菌感染しやすくなる。ブラシやタオルで強くこすりすぎると皮膚を傷つけ肌荒れの原因になる。従って、お湯を浴びて手の届くところは手のひらでこする、届かないところは軽くタオルでこする位にとどめて置いた方が良い。

 汚れや匂いはそれで十分とれるし、必要な皮脂や善玉微生物を取りすぎることもない。

 私は個人的には寒いところで育ったためか、未だに暑さに弱い。汗もあまり出ないように体が出来てしまっている。ちなみに寒い地方で8才まで育つと、汗腺が発達しない。わたしは、寒いのも好きなわけではないが、我慢が出来る。熱いのは我慢が出来ない。寒ければ重ね着をすればよいが熱くても皮を脱ぐわけに行かない。

 私の場合、体温調節機能に異常を来したらしく、エアコンを抑えめにかけた部屋とエアコンのない場所(自分の居ない部屋のエアコンはつけない)と出入りをすることでなおさら拍車がかかっているのだろう。少し体を動かすと、汗が噴き出すように出てきて、シャツがたちまち絞れるほどに濡れる。目に汗が流れ込んで痛い。そして非常に疲労感が激しくなり、思考力が衰えている。基礎体力が落ちているのだと改めて自覚した。

by ロクスケ






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ADHDと思考回路 2

 本人には自覚が無い分、一生懸命その事を考えたい訳だし、それが当たり前だとも思っているのです。そこから何か素晴らしいアイディアが出る場合もあるでしょうし、出ない場合もあるでしょう。そういう部分を上手く見極める事や、理解しようとする事は、本当に難しいとは思います。

 当たり前の価値観の違いから、人とすれ違う事は多いようです。

 ADHDの人は、ある程度人の話を聞きつつも、自分の話も同時進行で考えれます。それは、普通の方には理解し難い事だと思います。しかし、ADHDの人の方にしてもそうだと思うのです。自分と同じ事を相手が出来ると思い込んでしまう訳です。

 人間は、自分と他人とは、ほぼ同じ構造、同じ考え方をするものだと考えがちです。だけど、自分がそうだからといって必ずしも相手もそうだとは限らないという事も良くあります。相手が聞いてくれないだろうと、考えてしまって諦めたりはして欲しくないです。

 もし、相手が1つの物事に固執してしまった場合で、相手をどうしても落ち着かせたい場合等には、自分も落ち着いて相手の話も聞きつつ、上手く話を逸らして行ったりする事が、1番の対応策かなと思います。無理に話題を変えようとしたり、冷たい態度をとってしまうと、

 ADHDの人は「自分が間違ってるのかな?」と考えてしまいがちです。すると、折角の思考の回路を摘んでしまったり、落ち込んで自信を無くしがちです。その思考回路を止めようと思うか、思わないかも、本当に相手次第で変わってしまう時もあるのです。

 時には反発的になる場合もあるでしょうし、感情的に走る事もあるかもしれません。けれど、落ち着いて説明すれば解らない事はありません。これは断言出来ますし、その代わり、落ち着いて相手の意見も聞いてあげる配慮が出来るようにして欲しいものです。

 相互理解こそがADHDの人が、成長するための段階かなと思います。

 基本的に、1つの事をやり出すとずば抜けてしまうADHDの人にとっては、その能力は得でもある訳です。飽きっぽいという部分もありますが、何か連続性を持てる物も見つけられるはずです。本当に興味の持てる分野を探す事は、ADHDの人だけに限らず全ての人においても、大切な事だと思います。

 あたしが思うにADHDの人が、天才なのかもしれないと言われる理由は、そのずば抜けた興味心の連続性と、過集中にあるのではないかと。ADHDの人に努力という言葉は存在しないのかもしれないなぁと思います。いや、存在しないのでしょう。在りうるならば、一般(普通の人)と同じようにしろと強制された時、はじめて、必死に努力をするのかもしれないです。

 他の事においては、自分の興味のある事や、日常生活全てにおいて、気が付くと頭で考えてしまっている訳で、決して、「考えよう。やってみよう。」という事で脳が働くわけでもなく、脳から思考が離れにくく、楽しいから考えたり、そういう作業を続けているのだと感じます。(あくまでも、あたしにとってはという話ですが)

 基本的にADHDの人は、努力をするというよりも、興味があるという方が、概念的な言葉の表現として合っているような気がします。

 

by はいじ



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改めて、障害とは

 前号で書いた、努力をする能力がないのは障害ではないかという記事に就き、まず捕捉をしておく必要がある。障害だから努力が出来なくその結果どうなろうと責任がないと言うことではない。責任は嫌でも取らなくてはならない。問題は、それが障害のために努力出来ないのか、単に怠け者だから努力出来ないのかをきちんと認識しなければならないと言うことだ。
 
 その上で努力が出来ないのが障害のためであるなら、他の方法でそれを克服するようにつとめなければならないし、いずれにせよ結果については責任を取るという意識も持たなくてはならない。
 
 その上で、障害の結果であろうと責任を取らなければならないケースはいくらでもある。例えば、最近でも悲惨な殺人事件が頻発しているが、自分の子供を疎ましくなったからと言って殺し、良く理由が分からないが近所の子供を殺したケース、親子二人を何日もつけねらって殺したケース、自分の兄弟肉親をころしたケースなどなど。どれもこれも、せっぱ詰まった状況の犯行ではなく明らかに殺意を以て犯した殺人と思われるし、通常の人間が思いも寄らない簡単さで殺人を犯す。これはやはり何かの障害を持っているとしか考えられない。先天的な情緒障害かも知れないし、アダルトチルドレンかも知れない。それらは本人の責任では無いとも言える。だが、結果については責任を取らなくてはならない。なぜなら、結果の重大さを理解する能力があるからだ。
 
 心神耗弱、知的障害、若年などの理由で結果を理解出来ない場合は罪を問われないが、そうでない場合はその理由や原因がどうであれ責任を問われるのは当然だろう。努力不足と犯罪を同じに論ずることは無理だが、結果がどうなるかを理解出来るのであればやはり努力不足も自分の責任でしかない。
 
 障害を持ったことは本人にはいささかの責任もないが、障害によって生ずる結果については責任を取らなくてはならないと言う意味がご理解頂けるだろうか。その為にも自分の障害が何であるかを知る責任から始まると思うのだが。
 
 だから障害も個性だと言う言葉に安易に乗ってはならないと考える。個性だが結果はそれでは済まない場合があると言うことだ。

by ロクスケ





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ADHDと不理解

 人が人を見る時は、まず自分のフィルターを通して考えます。例えば、”自分がこうならば、相手もこうだ。”といった一般論によるものです。そして、それに反論した時、ほんの少しだけ、相手は考えます。けれど99%の人に通じているのだから、こっちの答えが正しいと考えてしまいがちで、”自分の概念に無い物を、認めたくない。”という心の働きからか、私達に起こっている、問題を見ないように、過ぎ去るのです。幼い頃より、色々な事を否定され続けると、人間は、自分の自分たる所以に、信頼が持てなくなります。誰でも、きっとそうでしょう。

 面倒くさくても、相手の為に、話を真剣に聞く事は、大切だと思うわけです。それは、人の為であり、自分の為なんだという事が、大切だと思うわけです。ADHDは、理解され難いが為、もしくは勝手な判断が為、多くの人は、傷ついてきたかもしれません。けれど、傷つけば、何かは得れます。人にも優しくなれます。人を認めたいと、心から、思えるようになります。

 上手く伝わってないと思うのならば、その努力はするべきかと。

 全てを上手くやろうとすれば、そんな途方も無い事には、やはり諦めがちに、なってしまいます。

 今まで、否定され続けて来た分、傷ついてきた分、余計に、理解される事への努力を、放棄したくなるでしょうが、頑張るしかありません。

 自分と向き合って、人と向き合うしかないのです。何度チャンスを踏みにじられたとしても、自分で何度でも作り直せます。戦い続ける勇気と、行動力をもっていて欲しいと、本当に、心から思います。

 負けないで下さい。動けば、世界も変わります。必ず。

by はいじ





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見解の相違


 リリーは、数年前に8歳くらいの時に数ヵ所の避難所を経て我が家にやって来た。三宅から避難してきたので、心に少々、傷を負っている。慣れるのに1年ほどかかった。帰る途中、いきなり運転している夫の膝に乗ろうとする。不安だったのだろう。そのわりに私たちが近づくと、飛び上がって喜ぶようになるまでに1年かかった。

 ということで、リリーは彼女なりの理屈で行動をしているのだろうが、私たちには理解の及ばないことがままある。やって来た初日にロープを噛みきった。まあ、小型犬用のリードを、ただ柄がかわいいという理由だけで購入した私に非があったのだが・・・。布やロープを噛むのが好きだ。寝る時に敷くタオルはすぐにボロボロになるし、クッションの綿は出してしまう。

 引き取る時の条件でーそのほかに膨大な条件があるー、夜間は玄関に入れることになっている。それなのに我が家には靴箱に入りきらないスニーカーだの長靴だのサンダルなどがずらりと並んでいる。私のサンダルに顔を乗せて寝ていたことはあるが、靴を噛んだことはただの一度もない。散歩の時の態度の悪さーリードをグイグイ引っ張る、散歩している人の後ろからいきなり道路の反対側へ行く、気に食わないと座り込む、拾い食いをする、走っている車に飛びつくなどーおまけに家族揃って車に乗り込むと、フェンスの中から連れていけと要求する、つまり吠えるなどの行為と比較して、靴には手(口?)を出さないことは評価できると、家族で話していた。

 ところが、息子のブラン品のビーサンの鼻緒が木綿の布製だったのがいけなかった。ある朝、鼻緒が無残にも噛みきられていた。私たちにとってはビーサンの鼻緒だったが、リリーにとっては、ゴムについた紐に過ぎなかったのだろう。

 ちなみにリリーは、柴犬と紀州犬の雑種で中型の犬。現在、13〜14歳。
 
by キャサリン




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一日千秋とADHD


 一日千秋の想いなんてよく言いますよね?ふと気が付いたのですが、この言葉は、あたしの概念に存在してるんだけども、何かひっかかるというか。それを考えていくと、微妙な気分になるのです。

 「毎日が一日千秋のようなあたしにとって、一日千秋・・・?いやいや、只の概念の問題なんだろうけれど、時間なんて人それぞれなんだなぁ。嗚呼!つまりこれがアインシュタインの言う相対性理論なのかぁ?」という具合に。

 「アインシュタインもADHDだったとか言われているけれど、その真相は、確かめようも無いのだけれど、きっと、彼の時間の刻み方も微妙だったからこそ、相対性理論が完成したのかもなぁ・・・。それなら、ADHDっていう気持ちも解らなくないな・・・そうだと面白いな。」

 一日千秋っていうよりも、一日兆秋と言いたい!とか、急に思いつくあたりがADHDなのかなー?考えすぎって言われるけど、これがあたしにとっては普通なんだよなぁ。

 ええ、毎日がクリエイティブでございます。多分。(笑)


by はいじ




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自分の脳を見せれたら楽なのに


 あたしは毎日のように、勝手な妄想や想像が繰り広げられては、すぐ忘れてしまいます。忘れるというよりも、脳の引き出しにしまわれてしまう感じですかね。けれど、その行為は時々困りモノです。意見がコロコロ変わると、よく周りの人達に言われるからです。(ガーン)

「 話がまとまってなくて、理解できない。」
だとか、
「何でそういう結論になるかわからない。」
「前言っていた事と全然違う。」
という決め台詞のように、色んな人から同じような事をよく言われたりしてます。

 まとまりがないのは悪いようで、いい事なのだ。だって、まとめようと思えばいつでも、引き出せるもんね!そして、繋げちゃったら、こっちのもんだもんね!とか最近開き直る日々です。

 でも、よくよく考えてみると、繋げようとした時に、いいアイディア思いついてしまうので結局そこから、また枝分かれしてしまったりして・・・。

 そういう構造になっちゃってるから、膨大な量に枝分かれしている訳です。結論に至るまでの、いくつもの分岐点からなる経緯を話す事が、あたしは、大嫌いなので(面倒だし)、よく端折ります。

 だから、「何でそういう結論になるのかわからない。」と言われても仕方ないなと、気が付いたのは中学あたりでしたけれども。(確信犯)

 最近は文章を書くようになったので、余計に、自分の脳の構造のまとまりのなさに、嫌な程気が付いてます。けど、文章にする事によって、これでも、少しはマシに、説明できるようになってきてるのならば嬉しいです。

 やっぱり、上手く伝えたいですしね?

by はいじ




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お茶など


嬉しいことに最近発表されたデータでは、毎日お茶を5杯以上飲む人は飲まない人に比べて脳梗塞の危険性が半分になるし、血管障害で死ぬ可能性が30%は低くなるとのこと。5杯のお茶で脳梗塞の危険性が半分になるなら、私は最低10杯は毎日飲んでいるので脳梗塞の危険はゼロ・・と言うわけには行かない。

しかし、お茶が健康によいとは昔から言われていて、なにより元々はお茶は薬として用いられていたという。私自身は別に健康志向で飲んでいるわけではなく、お茶が好きだから飲んでいる。

癌の予防にはビタミンCが非常に有効だとのこと。さらに、食物繊維も消化器系の癌予防に有効だとのことだから結局野菜を沢山摂る事が癌予防によいと言うことになる。幸い、わたしは野菜注進の和食が殆どだ。動物脂肪の取りすぎは大腸癌の原因だそうだが、わたしは動物性脂肪は殆ど摂らない。魚、それも青背の魚が癌予防に良いと言うから、わたしは万々歳だ。魚が大好きだ。煙草は癌因子なので駄目。勿論わたしは煙草を吸わない。過度の飲酒も癌の原因。だが、わたしは週に一回程度、ビールのロング缶を一本飲む程度。百薬の長だろう。乳酸菌の摂取は癌予防によいとのこと。わたしはヨーグルトが好きだ。

だとすればわたしは癌になりっこないのではないか、とまでは思わないが、かなり危険因子は少ないと思う。ただ、運動不足と漬け物好きだから塩分量がちょっと気になるが、乳酸発酵の漬け物が主だからそれほど気にしなくとも良いだろう。他の食品はかなり薄味だから。

運動不足が解消されればほぼ完全な脱癌宣言を勝手に出来そうだ。

それにしても、私の知人達はそれぞれ結構いい年なのだが、実に不健康な食生活をしている者が大勢居る。とにかく野菜嫌い。野菜を食べないことを自慢しているのが居る。とにかく塩っ辛い物好き。塩気のない物を食う位なら早く死んでもかまわないと言う。大酒のみ。まあ私も人のことは言えない。昔は飛んでもない大酒のみだったからだが、いまは書いたように週一ロング缶一本ペースだ。しかし、毎日べろべろになるほど飲んでいる男が居る。煙草もすい放題というのが居る。それぞれ違った人間だが、中には殆ど全てが当てはまる者がいる。そう言う連中が、見てろ今に癌で死ぬに違いない、と思っていても結構元気だったりする。

そう言う人を見ていると、食生活なんかどうでも癌にかかる時はかかる、かからない時はかからないと思う人もいるだろう。だが、やはりやめておいた方が良い。私は自然にそうなったし、薄味好み、野菜好き、和食党というのは子供の頃からの習慣だ。だから、我慢をしてそうなったという感覚はない。これで、癌になったら、まあ運が悪かったと思うしかない。


by ロクスケ


 


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体を動かせない子供達


最近、体を上手に動かせない子供が多くて、何でもないことで怪我をすることが多いそうだ。例えば転んでも顔をぶつけるという。私など信じがたい話だ。まず転ぶことなど無いし、転びそうになっても必ず手で体を支える。

まっすぐ走れない子供が多いそうで、目をつぶって走らせたりすると大曲をするし、体がねじれて大きく揺れる走り方しかできないそうだ。腕立て伏せが一回も出来なかったり、懸垂が一回も出来ない、などなど私の世代では考えられない運動能力の低い子供が普通だという。

確かに体はこの数十年で非常に大きくなったが力がない、不器用、疲れやすい怪我をしやすいなど、体力は大幅に落ちているそうだ。食べ物は格段に良くなっているのに運動をしないからだ。

たしかに、私の子供の頃には考えられないほど肥満児が多い。当時はみんながらがらに痩せていて、身長も低かった。たまに太っていると周りからからかわれている子供が居たが、今の基準で言えば全く普通の体格であり、私たちが痩せすぎていた。

しかし、とにかく一日中体を動かしていた。塾もないしテレビゲームもないし、テレビ自体がなかった。どこの家でも3人は兄弟が居て、路地は子供で一杯だった。広場や野原、林などが身近にたくさんあり、そこここで数人から10人位の子供が遊んでいた。

また、山や海がすぐ近くだったので、2時間や3時間は当たり前に歩いて遊びに行ったし、とにかく思い出してみても良くあれだけ体を動かせたと思うほど一時もじっとしていなかった。今はとても出来ない。

私だけではなく、同年輩の人間は子供の頃、とにかく目一杯体を動かしていたので、骨もしっかりしているし、今でも結構身体能力は高いようだ。つくづくそう思ったのは、最近自転車で外歩きをするが、一寸した坂道などは別に何の苦もなく上れるのに、上れない子が居るのでびっくりした。それも一人や二人ではない。30代位の人でも、自転車から降りて、押しながら坂道を上っている。

私は今でも気が向けば4,5時間歩くのは平気だが、200メートル先に車で行く若い人が居る。私は、駅の階段を2段飛びで駆け上がっても別に息は上がらないが、私より若くスマートな人がしんどそうに階段を上っているのを見ると、どういう生活をしているのかと他人事ながら気になる。

最近の研究では、運動不足で身体能力の低い子供はキレやすいそうだ。もちろん運動不足ばかりではないだろう。集団で遊ぶ経験が少ないから喧嘩もしないだろうし、人間関係も上手く造れない。我慢をするしつけをされていない、という原因もあるだろう。

私の子供時代の大人達は、子供同士の喧嘩など止めなかった。子供時代の喧嘩は良い経験だと思うが、今の大人は子供に喧嘩をさせない。もちろん、過度の暴力を見過ごすことは駄目だが、多少の殴り合い位なら、子供同士たいしたことにはならない。せいぜいたんこぶを作る位だろう。喧嘩の経験がない今の子供達は、だから一度こじれると大変なことになる。いじめなども、そう言う発散が無いことも一因ではないかと、私は思っている。

勉強も大切だが、体を動かし機敏性を養ったり新陳代謝を強めておくのは子供時代に絶対に必要なことだ。過保護は絶対に良くないと思うのだが。

by ロクスケ




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不審人物


 ドアのポストにまた紙が挟まっていました。筆で書いた荒々しい文字で「ごみは 分別」と記してありその紙は、僕宛に来た封書をゴミとして出したものをそのまま使っていました。

 どうやら他のゴミと一緒に捨てたものをわざわざ掘り出して、メモ用に再利用したようです。多分、燃えるゴミとして分別したものを、燃えないゴミのポリバケツに入れてしまったのではないかと思います。この行為には悪意といらだちを感じました。

 以前からこのマンション「Yハイツ」の管理人おばさんにHには目をつけられているのです。Yハイツxx号室の得体の知れないこの男は、とにかくゴミの分別ができない。規則を守らない。昼間寝て、夜中起きてなにやらごそごそ活動している。たまに外で会っても挨拶もろくにできない。「お早うございます」とこちらが明るく声をかけても、あーー」とか「うーー」とか動物のような声を発し、視線をそらし、不気味だ。頭が悪いのではないか。何か犯罪に手を染めている可能性もある、早くこのマンションから追い出さなくては。もしかしてへんなカルト宗教に加入しているかもしれない。警察に通報しようかしら……。

 この男は、廊下にyy乳業のヨーグルトの宅配ボックスを勝手に置いており、通行の邪魔になる。そう言えばこの男だけ郵便物や宅配便の数が異常に多い。そのせいで他の住人の数倍の量のゴミを出す。

 僕の部屋のベランダだけ他の部屋に比べて汚く乱雑で、外から部屋の住人のだらしなさ、秩序管理能力のなさが一発でわかるようになっています。

 また、先日、防災点検に来た背の低いさえない格好のおじさんにも言われました。「こんなにベランダに物をおいてもらっては困る。火事になったとき、二階から避難することがじゃまされる。被難梯子から降りてきた人が防火壁を破って隣にスムーズに移動できないじゃありませんか!とにかくすぐにこの大量のゴミを撤去してください。でないと僕がおこられるのです。頼みましたよ!」そういって帰っていきました。でもよく考えると、僕の部屋は一階です。ベランダを乗り越えてすぐ外側が中庭になっています。防火壁を突き破って隣に移動する必要があるのか!!あほ!そう思ったのです。ちなみに僕は高所恐怖症です。英語で言うとacrophobiaです。三階より上の階には住んだことがありません。5階など廊下を歩くだけで足がすくんでしまいます。高いところは見晴らしがいい、気分が晴れ晴れするとか何とか言って、標高の高い、家賃も高い高層マンションの最上階に住みたがるの人がいるのははまったく理解できません。

 だからちょっと買い物に外へ出るときも、ドアののぞき穴から外を観察し、誰もいないのを確かめてからこそこそとネズミのように飛び出します。あーーー、もうそろそろ限界か。早く引っ越しをしなくては。

 安心して住める土地、約束の地はいったいどこにあるのか?先日テレビで放送していたさまよえるイスラエルの民の物語に自分をなぞらえてしまいます。ちょっと大げさか。

 いや、巨匠「葛飾北斎」は生涯に90回も転居したと言われています。彼は一切部屋を片づけず、一心不乱に描画に専念し、料理もしないで店屋物を取るので、玄関や土間には、どんぶりが山となし、部屋にはネズミやネコが走り回っていたそうです。生活環境が限界に達したとおもったら、大八車に家財道具を積んで、江戸の町をあちこち移動し、新しい住居を物色したそうです。彼こそ典型的なADHDではないか!!それでも天下の北斎先生、門人希望者が列をなし、版元は彼を追い回し、どこに引っ越しても仕事は一生絶えることがなかった。実際80歳代の傑作がいくつも残っています。

ー 続く ー


by mogurin



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不審人物2


 めざせ北斎!所詮凡人にはクリエイターの苦悩などわかる訳ないのだ。鮮明な立体的なイメージを思い浮かべ、それが消えないように心の中で大事に育てながら形にしていくのだ。その間非常な集中力とエネルギーを消費するのだ。ほかのことに削く体力など残っているわけがない。制作が終わった瞬間にぶったおれ、死んだようにこんこんと寝るのみなのだ。

 以上、ぐちとも言い訳ともとれる駄文を連ねてしまいました。とにかく実際問題として、早く引っ越ししなくてはと思っております。

 by mogurin
 
 なるほど。しかし、問題人間は何処にでも居るみたいですねぇ。少子化と核家族化、都市化などなど様々な要因で、人間関係を美味く築けない人間が増えています。最近、どうも理解しがたい犯罪が増えています。先日も福岡県で虐めが原因で自殺した中学生がいましたが、自殺の原因を作ったのが教師だったと聞き、唖然としてます。どのような理由があれ、このような教師が子供を教育し影響を与えているのであれば、たしかに人間関係にゆがみを生ずるのも分かると思います。思い出してみれば、私の子供の頃にもこの手の教師は結構いましたよ。大人になれば判断も付きますが、子供の頃は判断など出来ませんしね。

 私の隣の親父もその意味で全く駄目でしょうな。でも先方に言わせると、私こそご近所で人間関係を築けない奴と思われているでしょうな。自覚もしてるし・・・

 久しぶりに秋晴れの良い天気ですね。今日はチャリンコで遠出をしてみようかと思っています。遠出と言っても、精々多摩川土手くらいですかねぇ。

 サンドイッチとお茶など持って。ラジオでも持ってゆくか・・・
と言うことで、先日自転車で出かけてきました。


from ロクスケ


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雨降りで気分はどんより


 昨日からの雨で、空気が実に湿っている。幸い暑くないのでなんとか暮らしているが、暑かったら、気が狂ってしまうかもしれない。

 パキシルが自殺未遂を誘引するという記事をみなさんはごらんになっただろうか。多くの抗鬱剤にそうした薬があるなかで、パキシルは優位に自殺企図が高かったのだろう。報道されている。インターネットでも知りうることができるので、知らない方は検索してみると良い。先日、内科医のところで「そういうわけでパキシルを止めたので止めるときの副作用に悩まされた。」と言ったら、内科医が「えっ、パキシルってそうなの?使わない方がいいの?」と聞かれてしまい、「あの、あの、私はお医者さんじゃないので、詳しいことは専門医に聞いて!」と思ってしまった。その内科医も安易にパキシルを処方していた口なのだろう。日に1回なので、患者さんとしては飲みやすく、出す側も楽なのでつい使う薬の一つだ。ただし、自殺の恐れが全然ない人はパキシルを飲んでいても大丈夫らしい。ぱたっと、自殺未遂に走ってしまう人には、要注意ということらしい。

 それで、私は要注意だったらしくて、さっそく半減、中止となった。その間とその後の2週間くらい、自分の中で錯誤、離人感、健忘などが現れた。離脱症状ではないのかもしれないが、私の場合は複合的にそういうことが起きた。よく、頭痛や吐き気などは離脱症状として言われている。

 その中で、健忘はとにかくひどかった。時空間のずれが起きるのだ。そして、過去の一部が全く思い出せないというひどいことになってしまった。前日に時計を買っているのに、気が付かないでまた買ってしまうなど。同じものが5個も配達されたこともある。自分でも自分の行動に責任が取れなくなってしまって、自分はもしやアルツハイマーでは?とかまだらボケか?などと疑心暗鬼になってしまった。

 その後、はっきりしてくる時期があって、自然とそういうひどい状況は越えた。

 また、離人感というのは、私にとっては自分が自分の身体の内部から外を見つめているような状態であったり、ふわふわしている浮遊感であったり、自分と身体が一心同体でない感じがする状態のことで、これもひどかった。睡眠がかなり極端に不足したので、こういう事態になったのだと思う。睡眠が深く十分に取れるときは、こういうことはなかったのだが、そのころは、眠剤を飲んでも眠れず、夜中に何度も覚醒し、一日中眠い状況だった。

 こうしたことが、パキシルの離脱症状かどうかはわからない。でも、止めるときにすっと止められる人と、かなり苦しむ人がいてその差が大きいことは確かなのだ。

 今日も、雨降りで、うちの中は朝から電気をつけている。特に私の部屋は、建築物として、「部屋」でなく「倉庫」なので、窓が少なく、太陽が照っているときも電気をつけていることが多い。そうすると、今が朝だか、昼だか、夕方だか、夜だかという時間の流れが、ちょっとぼおっとしているとわからなくなってしまう。これが怖い。ボケ始めの場合は、こういう感じはないのだろうか。

 私はものすごく、悲しく切ないのだが。雨のおかげで、鬱が悪化しているような気がする。

 by MUSICA


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品物の価値・オークションとADHD

 最近、というか一時期オークションに凝った。オークションではいろいろな品物が売り買いされるが、実に品物の価値というか値段が私の感覚と異なるのである。たとえば、2000円の水晶と言ったら、安いから「買い」となり、「2000円のプレート小鉢マグカップセット2つ」では高いから「買わない」となって、「2000円のオルゴールだと超安い」となったりする。無論、物にも拠るのだが。

 だから、出品するときはその世界の空気というか、お値段を見るということが重要である。買うときは感覚で買えても、売るときはそうはいかない。たとえば、フランスの某超有名オルゴールメーカーの品物は、10センチ四方の箱に入る小さなものだが、15000円くらいからの入札が許される。しかも、買い手が必ずやいるのだ。希少品というものかもしれない。私もそれを持っているが、今から20年くらい前のものだと、動くのだろうかとか、錆びていないだろうかとかいろいろな心配が渦巻いてしまう。新品であればまだ心安らかだが、中古品であってもその価値は高く、したがってジャンク品との裏腹にあったりする。持っている間に、極希少品からジャンク品になる可能性もあるわけだ。

 しかし、日常品となるとコレがまた安く売らないと、絶対にと思うくらい売れない。何度か値下げしてやっとと言う品もあれば、値下げしてもさっぱり売れない品もでてくる。少なくとも、オークションの利用代くらいは、最低でも確保したいと思うのだが、たとえばストラップ、たかだか80円とか100円とか200円とかの品物が圧倒的で、売れても全然うれしくなかったりする。相手は、80円の品物を買うのに、送料が80円とか140円とかすることは、いったいどうなんだろうか??と思ってしまったりする。 実際、私自身も欲しいものを手に入れるのに、送料が場か高かったりすると、不思議と損した気がしてしまうのだ。それなのに、前からほしかった、オルゴールなど手に入ると、うれしくてバカ高い宅急便料もものともせずに買ってしまうのだ。

 ここに、気持ちの抑制力が伴わないと、オークションでは必ず失敗する。あと10円、あと100円で買えると行き続けると、財布のほうは破綻だ。 抑制力のない人はオークションはやらないほうがいい。私なんぞは、もう買うのは絶対にやめようと思っているのだが、そう思いつつ、また欲しいものがでてくるのを期待していたりする。 この逆説的な、自虐的な行為をやめるには、相当の努力が必要である。 買ってばかりのころは、かなり消耗したが、今度はこちらが家にあるものから売り始めたらそれは想像以上に大変だった。まず、物をきれいにして、何枚もデジカメで写真を撮って、そしてそれを加工してサイズをあわせ、出品の際にはものの説明も入念に行う。 それから、物の管理が大変である。ふと気がつくと、出品していたものが、ブラックホール入りしていることがある。ああ、こういうことは、アスペルガーの人のほうが得意そうである。ちなみに私はAD/HD。当然のように、集中力がなく、飽きっぽいので困る。自分でも自分のことをもてあましてしまうのだ。

 オークションの価格調査といい、どうもAD/HDの私には、出品のこれらの行為は難しいようである。第一、品物の価値がよくわからない。下手をすると価格破壊を引き起こしてしまいそうである。落札の際には、次々と買ってしまうおそれもある。おーこわいこわい。なむなむ。
 
by MUSICA



















































自分なりの認め方

 人を認める事は、本当に難しいなって最近よく思います。あくまで、あたしの意見ですが。自分を認める事が難しいあたし達にとって、その考えの上で他人を認める。つまりは、自分が駄目なんだ(?)って事を認めるような気になります。

 例えば、人には出来なくて自分には出来る事があるとします。けれど、それは認められがたく、明らかに目に見える物でもないとします。人はそれを信じるのでしょうか?本当に信じてもらえるのでしょうか?という、そんな疑念すらが沸いてきます。何度も何度も、「違う!」と否定されてきたあたし達には、尚更の事かもしれません。

 自分を認める事は、普通の人には簡単なのかもしれません。

1つ、考えて欲しいのです。

毎回のように否定され続ける事を。そんな状況になる人なんて少ないでしょうし、想像の範疇でしかないでしょうし、それでいいんです、想像でいいのです。

 それでもいいから、理解しようと努力してみてあげてください。嘘だと思ってしまうには、勿体無い事実が見つけれるかもしれません。

 そして、受け止めてもらった人は、その気持ちを大事にするべきだと思うんです。今までの事なんかより、今受け入れてくれる人が居るという事。過去の傷は消せなくても、今から頑張れるっていう覚悟が大事なのではないかと。

 あたしは色々な人に囲まれて、大事にされているかもしれません。けど、自分を大事だと中々思えません。けれど、あたしも、頑張ってる。と思いたいんです。その人達のためにも、頑張れる自分になりたいと。

 心を負けないよう保つ事は難しいけれど、誇れる自分になれますように。自分にも皆様にも祈って終わりにします。

by はいじ




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何もする気になれない  

 ここ2週間くらい、何もする気になれなくて困っています。仕事は朝何とかおきて、出勤してこなしていますが、家に帰るとどっと無気力に襲われます。年末でもあるし、いろいろとやらなくてならないことがあるのに、そういうことがわかっていながら、何もできないでいます。
 
 たとえば、一時期買い狂った宝石やオルゴールなどをオークションに出品しているのですが、写真を撮ることができないので新しいものが全然出せないでいます。あるいは、保険会社への交通事故の請求。書類が揃ったのに、なかなか提出できないでいます。年賀葉書も買ったのに、プリンターのインクがなく、しかもプリンターは安かったのにインクがものすごく高いので、他のメーカーのものを買ったほうが安いよと、息子に言われて新しいものを検討中ですが、決めることができないでいます。
 
 また、食欲さえもなくなっています。おなかが全然すかないのです。職場にいるときには時間でご飯を食べることができますが、家にいると本当に食べ忘れてしまいます。時々、おなかが生理的にぐるぐる鳴って、「ああ、おなかがすいているのだなあ」と思うのですが、食べなければそのままでいられます。なにか食べようかなと思えば、食べることもできますが、おいしいとか、まずいとか味も感じません。家にいると、ついついうつらうつらと寝てしまいます。
 
 下手をするとずっと寝てしまうので、無理をしておきるようにしています。仕事で昼に全く寝ていないときでも、夜中に何度も目が覚めてしまいます。また、朝は睡眠がとても浅く、目が覚めているのに起きるのがとても辛いという毎日です。感動が薄れています。時にものすごく焦ってしまうことがあり、起立性の立ちくらみが多くあります。

 こうした状況から、どうも鬱が悪化しているらしいと感じています。抗鬱剤を先週増やしたのですが、まだ効果がないようです。

 私の鬱はこのような状態ですが、皆さんはどうですか?

by MUSICA

 鬱は大変ですね。私もそれが高ずると本当に全く何もしたくなくなります。役所に出さなければならない書類もずるずると出せないでいたら(そんな理由は一つもないんですが)役所から呼び出しを食ったり。公共料金の支払いが遅れて(遅れる理由はない、但し以前携帯の料金を他人と間違われた事があったり、電話代を二重に取られたりしたので、自動引き落としを止めた。 携帯は自分で気が付き、電話代はNTTから言ってきた)電気が止まったり、ガスが止まったり。
 
 空腹にはなりますがそれが食欲と無関係で、どんなに腹が減っても食べようと言う気にならない。一日半くらい何も食べないことは珍しくない。しかし、最後にどか食いするためにデブになる。
 
 そんなわけでかなり生活に支障が出ています。でもね、嘆いていてもしょうがない。私の場合は自営業なのでそのような意味で何をする気にならない時はする気の起きることだけをしようと割り切っています。で、物書きは結構出来るので、今は毎日一作ずつ小説を書いて、たまにイラストなども描いて自分のサイトに載せています。多分このメルマガが出るまでに500作を越えるでしょう。毎日書いてます。取り敢えず是をやると、ついでに何かをやろうという気になるようです。書くことだけは比較的抵抗無くできるので、メルマガ発行も特に支障なくできるようです。書き始めればとにかく早いですから。
 
 物書きで飯が食えたらいいと思うけれど、それに責任が伴うようになったら(メルマガだって責任はありますが)書くことも出来なくなるかも知れないとの気がしています。
 
 あとは、何かをしなければならないという強迫観念を捨てて、何も出来ない時は何もしない事にしてました。自営業で、仕事にかなりトラブルを抱えることを覚悟しなければ出来ないでしょうが。そして、寝ましたね。調子の良い時は1日時間の熟睡で足りますが、駄目な時は、かりにうたた寝でもずうっと寝ていることがあります。
 
 酒を飲む気にもならず、酒の量は減っています。多い時で週にビールロング缶2本位。通常は1本かワンカップ一つ。
 
 最近少し持ち直したかも知れません。折から一寸した高額の注文が仮に決まり(これを書いている時点で)より少額の注文も予約が入り、それがきちんと出来ればかなりの収入になりますが、じっさい今の状態で出来るかな、とそれが心配。でも出来ないと、飯の食い上げですからね。


from ロクスケ





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セキュリティー研修

 今日は職場でセキュリティー研修に行かされた。なんとわが社はかなり大きな規模であるが、全員この研修を受けないといけないそうだ。そこには、かつての同僚がいた。その人は、まったくパソコンが使えない人である。
 
 もちろん、業務として、端末を使うことはできるのだが、ワード、エクセルはもちろん、メール、インターネットとは全く無縁の人である。その人が、セキュリティー研修にでて2時間無意味に過ごすのだ。一体、わが社は何を考えているのだろう。お金がもったいない。
 
 セキュリティー研修では、ちょっとパソコンの前を離れるときも必ずログオフするようにとのこと。トイレに行くときも?また、知り合いのアドレスから来たメールも本当にその人かどうか、確認する?って、本当にメールをおくったかどうか電話するの??添付ファイルは必ず保存して、ウィルスチェックをかけてから開けること?え!?添付ファイル開けるときにウィルスチェックかかっているけど??ホームページは確実に安全なところしか入らないって、普通やばそうなところには入らないってば。
 
 とうとう、「パソコンにアンチウィルスソフト入れているかどうかわからない人いますか?」あのー・・・・・・。ぐっすり眠っている人もいる。いい加減にしてほしい。前出のパソコンをいじったことのない人にとっても、毎日パソコンがないと仕事も私事もできない私にとっても、ひどく無意味な研修だった。いったい、誰が対象の研修なんだろう。つ、疲れた。
 
by MUSICA






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年度末

 やっと今一息ついている。たった今、客からメールが来て、その返事を出し終わったところ。猛烈社員というか何というか、この人、昨日の21:00に「すぐ確認しろ」とメールが来て22:00に確認の図面を描いて送ったら、今日の11:00に「よろしい。ただ最終確認は後で」と返事が来た。で、ありがとう御座います、と返事をしたところだ。まあ、一台注文を貰っていて、年度内に予算が余ったらもう一台注文するという話だから、仇やおろそかに出来ない。

 年度末とは来年3月末だが、役所や会社関係では、部署毎に予算が決まっていて、それを使い切るというのが常でである。余ると、翌年は減らされから。

 私が請け負うような機械など少額であり、だから大抵予算の端数の中に入ってしまうし、気軽に発注してくれると良いと願っている。どうせ、私は一人で出来る設計、外注できない部分の製作、設置、そして運転指導だけ。あとは殆ど外注だ。だから見積書、図面や仕様書、企画書を書いて、時にお客の所に行ってあること無いことしゃべって注文を貰って、あとは業者にいい加減なことを言って作らせて、いかにも自分がやったと手柄顔で品物を納めるのが仕事だ。余談だが、パソコンがあることで、書類関係が本当に短時間で出来るのは助かる。最近はコンピューターグラフィックで完成品の形を見せたり、動画にして見せることもやるし、書類のやり取りは殆どがメールで行える。

 業者はなるべく後払いにし、客先からは前払い、あるいは半分以上の内金で貰うので金銭感覚が発達していないと、業者に払う金がなくなり、次の客から貰った金に手をつけることになる。

 いずれにせよ、年度末までに予算を消化するためには、今発注をする必要があるので、今の時期は景気の良い引き合いが沢山ある。でも景気がよいのは話だけ。時間をかけ、資料を作り、時間と金をかけて相手の所に行き(大手の会社の工場などは殆どが鳥も通わぬ辺地にあり、交通費もすぐ2万、3万になるし、1日仕事だ)その結果相見積もりにされて本命を叩くだけの道具になるなど普通にる。昔はかなりノウハウも最初に出してたが、今はかなり制限している。

 でも・・・今引き合いをくれている新しいお客、かなりの大手で、取り敢えず一台決まってそれが気に入ったら、順次4台リピートオーダーをくれると甘い言葉をささやくので、尻尾を振って打ち合わせに地方まで駆けつける予定である。完全に1日潰れるけれど。かつて会社勤めをしていた頃は、打ち合わせだけで海外の業者が日本に来たりこちらから行ったりしたが、金額が数億単位だったから当然だろう。私の個人企業ではその百分の一がやっとだ。
 
 しかし、今の仕事も気に入ってはいる。リスクは大きいし、自己管理が上手くできないと大変なことになるが、うまく行けば利益は独り占め。体の動く限りは続けて行きたいが、とにかく波が大きいので安定するためにも色々な方法を考えている。
 
 ADHDが一人でやるにはかなり難しい仕事だと思うが、ただ客の質問や要望にその場で答えられるのはありがたい。客に考える隙を与えず畳みかけて注文を取ってしまうには私のADHDとしての特性は合っているのかも知れない。いや、私の性格がそうなのかも知れないが。
 
 
by ロクスケ







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私は大馬鹿だと思ったとき

 最近、ふと英語の本を読んでみたくなった。そこで、いくつかある本の中から、ヘミングウェイの「老人と海」の文庫版を借りてきた。しげしげとカバーを眺めてから、読み始めた。日本語で子どもの頃に読んだ記憶がある。うーん、これは読めそうだ、と私は思った。ところが、ところがである。最初のほうから、釣具の単語でつまづいてしまった。え?この単語はなんだ?え?電子辞書じゃでてこないよぉ!とりあえず、飛ばして読み進もう。と、無理無理に読み進んだ。ところどころがまだらのようにわからない。何日かすると、へこたれてきてしまった。

 そうだ。日本語でもう一度読もう、と私は思った。そこで、日本語翻訳版の文庫を借りてきた。

 ところが、日本語で書かれた釣具の漢字が最初はルビが振ってあるのだが、2回目からはルビがない。そうすると、なんと読めないのだ。また、釣具の知識がないのでイメージが全くわかない。それに難しい語彙が使われていて、意味がわからないところがある。日本語で読んでもよーーーくわからないのだ。

 参った。

 日本語で読んでも読めないとは!がんばって読もうと思うのだが、体がもう生理的に受け付けなくなってしまう。あとは、絵がついている、子ども用の本を借りてきてイメージを膨らませながら読むしかない。

 しかし!

 なんと興味が急速に失われてしまった。こういうところがADHD丸出しである。最後までやりとげられない。なんて私はだめなんだ。なんて私は馬鹿なんだ。

 結局、鬱を悪化させてしまった。

by MUSICA





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電話の応対で失敗したこと

 私は今は図書館に勤めている。

 先日、夜の当番で一人でカウンターに入っていたときだ。電話がかかってきた。女性だ。「あのー資料が返っていないと葉書いただきました。」とおっしゃる。私は「では、お調べいたしますので、図書館カードの番号をお教えいただけますか?」すると相手は名乗りたくないらしく「資料番号で良いですか?」と言って、本に貼ってある資料番号を告げた。

 「では少々お待ちくださいませ。」と保留にして、資料の置いてある場所に走った。大きな本だ。だが、ざっと見てない。もう一度確認するが見つからない。そこで、電話に戻り「棚あたりしたのですが見つからないのです。もう一度探していただけますか?」と言って電話を切った。

 すると5分位して再度同じ人から「あのねえ、おっきな本だから、絶対に返したわよ。うちにあったらすぐにわかるくらい大きな本だから。もう一度探して!」と言われたので「はい、ではもう一度複数の目で見て探しますね。折り返しのお電話でよろしいですか?」と言うと「そうして頂戴。」と言います。

 私は、貸出、返却業務の委託業者とともに再度探しに行った。すると、本のタイトルはほとんど見えないが福タイトルが大きく書かれた本があり、業者のチーフは「あ、これだ!ごめんなさい。返却処理漏れです。」と言うので「じゃあすぐに電話します。」と言ってレファレンスカウンターに戻りその人の個人情報を調べようとしたら全くわからなくなっている。なぜ?もしかして、返却処理してしまったか。返却してしまうと誰が借りていたか全くわからなくなるのだ。委託業者は案の定、すぐに返却処理してしまっていた。

 わーどうしよう。折り返しの電話ができない!業者も事態にあわてている。「すみません。」と言うが、予め相手を特定しておかなかった私が悪い。あるいは、返却すぐしないでねと声を掛けておかなかった私が悪い。やはり図書館カードの利用者番号は聞き出しておくべきだった。いろいろな思いが交錯する。

 それから小1時間、折り返しの電話もできないまま、まんじりともせず時間が過ぎた。私は胃が痛くなってきていた。

 ある頻繁に図書館を利用する男の人が訪れた。「わたしゃ、そんなの借りてないよ。家内が借りたのかもしれないが、家内の借りた本もうちにはないよ。」と言うのだ。どうやら電話の主のご主人らしい。そうか、奥さんは自分の名前で借りていなかったので名乗りにくかったのだ。委託業者が「○○さん、どうも申し訳ございませんでした。本は返却されていました。」と言い、私は「見つけ出した本をすぐに返却処理してしまったのでお客様の電話番号がわからなくなってしまい、折り返しお電話できないでおりました。奥様に申し訳ございませんでしたとお伝え願えますか?。」と付け足しました。その人は「誰にでも間違いはあること。いいよ、いいよ。」と言ってくださりました。

 やはり、相手を特定しておかないと、困ることがある。特に本を返した、返さないでは、本当にけんか腰になる人がいるから、気をつけなければと思った。



 by MUSICA



  電話の間違いで、私も苦い経験がある。車で初めて行く客先に向かったが、全く場所が分からない。そこで、携帯で相手に電話をし、場所を訊いた。そうしたら、相手は親切に教えてくれるのだが、相手の言う目印が全く分からない。

  散々迷ったあげく、再度電話をしたら最前の人が出て、今どこにいるのか再度訊いてきた。わたしは初めて行くところなので正確には説明できないがここに橋があってあそこに大きな煙突が立っていて・・と説明したところ、向こうでどこだろうと何人かが話し合っている。そのうち相手は、「どちら様でしょうか」と訊くので、何々会社のロクスケです、と名乗ったら、当社の担当者は誰でしょう、と訊かれた。最初に名乗っていたはずなのだが、場所を訊くだけなので担当者まで入っていなかった。いらいらしながら、「何々課の誰それ様です」と言ったら、うちにはそのようなものはおりません、との答え。

  初めて、相手を間違っていたことに気が付いた。登録している中からよく似た名前の相手に電話をしてしまったのだ。リダイアルだから、二回目も同じ間違った相手に電話をしていた。

  平謝りに謝り、正確な相手に電話をして正しい道順を聞いた。最初に相手が社名を名乗ったのに、思いこんでいたので、そしてよく似た社名なので、間違いに気が付かなかった。

  焦って電話をすると、ろくな事がない。

 from ロクスケ





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出産、育児、人生のもろもろ

 (これは私たちのBBSにSarahさんが投稿された文章を、ご本人の承諾を得て掲載する物です)

昨日届いた、メルマガのMUSICAさんの体験談に心を打たれました。

 メルマガを購読して半年です。

 Wingbrain にいつも励まされ、時には笑い、共感し、自分をよりよく知るきっかけを頂いています。では未だ診断はついていませんが、おそらく私はADHDです。30代で結婚し、転居、出産、育児、再就職の後、それまでどうにかやってきた心がもたなくなり心療内科を訪ねました。主治医にADHDのことを話すと、かるくかわされ、とにかく生活をやっていくため主症状の不眠のための処方をしてもらっています。

 子供が寝ないこともあって、フラフラになりながらの育児は正直、大変です。ただ、こどもは感動をたくさんくれます。未診断ではありますが、ADHDタイプの私は感動することには長けているように思います。1才を過ぎた時から、育児を一人ですることは不可能と判断して、即入園可能な保育園を探し、再就職を試みました。

 正直なところ、就職が目的ではなく、親類縁者から離れた土地での育児が予想を越えた負担になっていたことが動機だったように思います。その後不眠に陥り、子供の幼稚園入園後に仕事から離れています。

 家事・育児に溺れてしまうような思いもしますが、MUSICAさんのおっしゃるように、これまでさけてきた苦手な人付き合いをふくめ、忍耐、寛容、落ち着き、など子育てを通して多少私自身が人として育っているように思います。人生って、どのみち大変なのではないのかと最近つくづく思います。結婚しても、していなくても、子供がいても、いなくても。ただ、ADHDであることはもしかしたらそれだけで生まれてきて、そしてこれからも大変さは人よりも多いかもしれません。でも、その分、日々の感動は確実に大きいのではないでしょうか。気が付くと”人よりも少し感じやすく、疲れやすい。

 子供のような感性を持ちつづけている”ような自分がいました。今年、2007年。不器用で、まだまだ未熟な自分自身を受け入れて、日々、自分らしくいられるようにと願っています。そして他の人達の個性もうんと大切にしたいと。人とのつながりを恐れず、大切にしようと思います。WINGBRAINの皆様、キラキラした個性を大切に、自身を丁寧にケアしながら、進まれてください。これからもどうぞよろしく。

 by Sarah


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外食

 嬉しいことに、というか辛いことにと言うか、今年は年明け早々注文が沢山来て非常に忙しい。今の時期は、特に役所関係が予算消化のために年度末までに駆け込みで注文をする。いま私が貰っている注文はそんな役所の注文を大手会社が請け、子会社にまわし、そして私が丸投げで貰った注文だ。当然、沢山の相見積もりの中から注文を貰うためには相当無理をしなくてはならない。その無理が腰と食生活に来た。
 
 年の割に体力があると思っていて、それはその通り。現場で一緒に肉体労働をしている大手の会社の社員は私より6才年下だが、日頃体を動かさないので、相当参っていて気の毒になる。私の半分も体を動かしていないのだが。と言うより、私が仕事をしている間、ほとんど車の中で寝ているか、パソコンをやっている。しかし、仕事を受けた関係上、誰かが現場にいなければならないので、そこにいるのだから、べつに私が文句を言うわけはないし、足りない物など気楽に車で買いに行ってくれてついでに弁当やお茶なども買ってきてくれるので助かる。
 
 毎日体を動かし、かなり応えているところ、連日彼に飲みに引っ張り出される。夜も私は仕事をしなくてはならないし、飲むのは体力を損なうので、勘弁して欲しいと言うのだが、勘弁ならないと連れ出される。
 
 しかし、年の割に体力があると思っていても、現実には年なので、そうとう気をつけないと回復しないダメージを受ける。腰に来ているのもその一つ。それと、今月はあと2回の出張があり、一回は車で4時間高速を走った場所、もう一回は新幹線で4時間半。以前なら10時間走っても車で機材を運んだが、もうとてもそんな気にはなれず、今回は全てトラック便で送り出し、わたしは新幹線で行くが、それでも十分に余裕を見ないと仕事に差し支える。同じひとと顔を合わせるので、飲みに行くのをどう逃げるか今から頭が痛い。それと、日頃自分で作って食べているのだが、今年に入ってから殆ど外食になっている。外に出るのが多いのと、自分で仕事をするにしてもとても時間がないからだが、本当に時間がないと、コンビニから弁当を買ってきて、それを食べながら仕事をしている。
 
 たしかに体重が3キロ減ったけれど、けっして健康的なダイエットではなく、用心をしなくてはならない。昨日などお客さんと食事をしたが、めちゃくちゃに塩辛く、たしかに血圧に悪そうだった。それでなくとも、外食にはどうしてああまで緑黄野菜が無いのか、脂っこいのか、塩辛いのか。とにかく自分で作らなくてはと思いながら材料だけ買ってきて、腐らせている。
 
 もしかしたら、そんな生活が9月迄は続きそうだ。それなのにちっとも儲からない。・・・まあ、少しは儲かるけれど、でも体には替えられない。
 
by ロクスケ








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兎に角、障害との格闘

 最近色々と悩んでみてるわけです。うーん、困ったもんだ。結局は自分との折り合いをどう付けるって事かなんだろうかなぁ?よーし!自称・ADHDで決定の方向性で!!!!!!!いいんじゃないかと。はい。
 
 自分で自分に問う辺りが、ほら、セルフモニタリングできてないっていうね!きゃー!悲しい。

 ↑本当だろうか?まあ、それはさておき、ちょっと最近休憩中です。休憩中には、ネットに出没するんです。何故なら、文章にして自分の考えをまとめるため〜?(適当にイイマシタ)それも、ありきって事かもしれない。ADHDについて頑張って書いたりします。

 予定。というか予定が立てられないんです。http://blog.livedoor.jp/a_d_h_d/
詳細は↑ここで!!!どうぞ!!!HAHAHA!それなら、この話はそっちに書けよって話だよね?・・・うん。

 次から、そうしてみたりします。貼り付けます。いえ、今すぐ貼り付けておきます。↑そうして、すぐ貼り付けるつもりが、時間が経ちまくってました。つい、朝ごはんを食べちゃってた。更に言えば、朝ごはんは、まだ食べ切ってないまま放置されてます。「うつ病だと思ってた頃」ってカテゴリー作ってたけど、よく考えてみたら、ん〜???「二次的に併発してたんでは?」と、今になって思いました。ずっと、否定の中で育ってきて、それが当たり前だと思ってたんだけども・・・。
 
 思い起こすと、やっぱり、普通の事がどうしても出来なかった。当たり前に駄目だと思ってたのに?当たり前に出来ないから、頑張っても出来なかったのだろうか?そんな葛藤が生まれたり。凄く自分を客観視する事が、難しいですやっぱり。自分の形。理解はしているつもりではあるのだけど、否定される癖(?)を脳が覚えているのでしょう。もしかしたら、こうかもしれない、ああかもしれない。たくさんの考えが瞬時に派生するわけで。今まで人に言われてきた言葉が、こだまするように。形を、自分で決めても、それは普通の人達には無いから、叱られてきたんだろうなぁ。と、ふと気が付いたり。ADHDの人によるかもしれないけれど、

 あたしの場合は、受け取る部分が、凄く感受性強くアンテナを張ってるわけで。人に言われると、それを凄く受け取ってしまって。けど、自分の意見も大切であって。そこで混乱が生まれ、どっちつかずのアイウォンチューな状態になるのよー!だけど、大切にすべきは自分の意見なのかな?怖いけれど、否定されても、突き進めって事かな〜?とりあえず、あたしが思った事は、選択肢はこんな感じ。世間に縛られて生きるか、(無理して、頑張ってタイムテーブルに合わせなければになる)マイペースで生きるか。(かなり自尊心が危うくなるのと、性質上楽だけども、生業が難しい)まだ、選択肢はあるのかもしれないけれど!
 
 あたしは、社会適応力が著しく低いので、マジ悩みます。将来どうしろと?サイクルがまともに行かないっていうか、時間の概念が、無いに等しいからな〜!(自慢げ)今も引越し準備中なんだけれど、これが、はかどってないはかどってない!!!引越しとか、1番キツイ作業な気がしてきてならないですが、頑張ります。けど、今は小休憩よー!!!!!!!悩む事は良き事かな。

 さー今日ものんびり致します。フリーダームー!!!
 
by はいじ





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年をとったかなと思うとき


 昨今、保育園の近くを歩いたりして、小さなお子さんを抱えているお母さんを見ると、こんなにかわいいのになんで、目いっぱい怒るんだろうと思います。
 
 がみがみと怒ったり、しつこく命令口調だったり、子どもの命を守るのは私の責任だからちゃんと聞いて、とかまだよちよち歩きの子どもに言っているのをみると、「まだそんなわからないのじゃなあーい??」と思ってしまうんです。危ないと思うなら手を繋げばいいし、そんなに怒らなくても!!「子どもがかわいいそう。」と思ってしまいます。

 でも、私も子どもが小さかった頃は、二人ともなにしろひどい多動だったので、わめき散らしていたように思います。すぐいなくなってしまう次男。マイペースですぐはぐれてしまう長男。もしかして、すごいヒステリーと思われていたかもしれません。

 それから、図書館で児童の本を見ると思い出すシーンがあるのです。それは、子どもたちが保育園か小学生の低学年のころ、2段ベッドの(下は机が入っていました)上から、私の帰宅するのを待っていた子どもたちが、二人して顔を出して「ご本読んで!!」とせがんだ時の事です。私は疲れていて、「ごめん、今度ね。」と断ってしまった記憶が疼くのです。今、いろいろな児童書を目の前にして、「ああ、子どもたちに読んでやればよかった。今となってはもうあの時代は帰ってこない。」とつくづく思うのです。児童書にあふれる、みずみずしい感動の世界。子どもの頃しか感じないかもしれない大事な時期だったのに、ごめんね、と今でも思ってしまいます。

 それから、昨日は街を行くおばあさんと孫に出会いました。孫は1〜2歳、「ママー、ママー」と泣いてとぼとぼと歩いています。そうすると、おばあさんは、「みっともないよ。周りの人に笑われちゃうよ。いい加減に泣き止みなさい。」と言うだけで、手を引くわけでもなく、ご機嫌をとるわけでもない。ああ、このおばあさん、子どもが好きでないのだなあと思いました。

 私の視線が自然とおばあさんの高さになっているように思います。だから、孫がかわいくないおばあさんはかわいそう。

 親に怒られっぱなしの子供たちはかわいそう。お受験させられる子どもたちもちょっとかわいそうだなあ、と思いました。さて、本当に孫ができたらどんなおばあさんになることやら。
 
by MUSICA








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確定申告


 そろそろ確定申告の季節がやってきた。先日、来年からの青色申告の承認届けをもらって出してきた。青色申告はその年の3月15日までに承認書を出すと、翌年から青色申告をすることができる。私の場合、不動産所得があるので青色申告したほうが有利だ。白色の場合は、収支内訳書を確定申告書とともに提出する。今年は白色なので、収支内訳書を書いた。
 
 むずかしいのかと思っていたが、書いてみると案外簡単だった。確定申告書のほうも、書き方に沿って書けばOK。大変なのは、医療費控除だ。私はあちこち悪いので、信じられないくらい医療費がかかる。一つの病院で30万もかかかっていたりする。気管支喘息はただで、精神科は10%(上限毎月1万円まで)。これらは公的負担がある。
 
 他は、皆さんと同様に全部医療費の30%を支払っている。甲状腺機能低下症。睡眠時無呼吸症候群。高脂血症。アレルギー性鼻炎。他にもいろいろな病気に罹患している。家族の治療費も少しある。調剤薬局の薬代。交通費。これらを全部病院ごとに並べ替えて、病院ごとに集計し、送金額を出す。いつもエクセルを使って計算している。
 
 この医療費を出すのが大変だ。毎年これを出すのにかなりの労力を注ぐために、確定申告はぎりぎりだった。ところが、今年はさっさとできたばかりでなく、16年分の医療費控除もできてしまった。さあ、これはすごい額でかなり還付されるので、遡って申告することにした。還付の場合は、その年の3月15日を過ぎても大丈夫なので。
 
 今年は不動産所得がマイナスだったので、医療費控除などとあわせて還付申告になる。ああ、いっぱい戻ってくるよ、うれしい!!! ついでに、バイトしている息子の分も書き上げた。ちょっぴり戻ってくる。 このところ、周囲の人に「元気になったね!」と言われるのだが、確かに元気なのかもしれない。もっとも、翌日は疲れて寝込んでしまったのだが。
 
by MUSICA










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年度末
 このところ、年度末の予算と格闘しています。2月末に一度予算枠ぎりぎりで資料を提出したのですが、他の館の資料をみて、だいぶ調整の必要があります。私はCDを毎月選盤する仕事をしています。私は数字が苦手で、短期記憶がものすごく悪いので、CDの製品番号(例:VICC60135など)もちょっと覚えて他の資料に書き写すこともできません。一旦途中まで覚えて書いて、それから後をまた覚えてうつします。予算などまして困ります。
なるべくエクセルを使うようにしていますが、時として、23474が23747になってしまったりするミスが続発します。本当に経理などに不向きな脳です。CDを選ぶだけならまだしも、予算が絡むので、年度末は調整するのが大変です。

 こういうときはお薬を飲まないとできません。でも、そのせいで仕事が終わってからがっくりきてしまいます。非常に脳が疲れてしまうのです。医者にはなるべく薬を飲まないで!と言われますが、もう本当に困ったときは仕方がないので薬を飲みます。

 今日は遅番でした。遅番と言っても、労働自体は過酷ではなく、8時15分までです。その代わり、責任者は私なので、利用者からのクレームも、難解な資料の検索やご案内、電話など私が一人で対応しなくてはなりません。私はCDの担当ですが、図書に関してもあらゆるご要望にお答えすべく、時には、インターネットを駆使して検索します。ただあまりに難しいレファレンスものについては、後日一般図書担当や児童担当のものからお返事させていただくものもあります。
 
 このあいだは、「ある著者が書いたもので、江戸時代のある藩が川の治水工事を命じられて、そのためにたくさんの人が亡くなったが、洪水がなくなった・・・と言う内容の本を探している」というレファレンスがあって、著者がわかっているものの、題名検索もできず、お手上げでした。その著者は全集がでていて、全集を一つ一つ当たって見つかれば幸運。見つからなけば、一般担当が苦労して探すのでしょう。今日はCDのレファレンスがあって、ベートーベンのある楽曲で、演奏者の名前がよくわからないが、特別その人のものが聴きたい人ということで、検索しました。いろいろと画面で演奏者をお見せしていくうちに、「あ、この人だ!」と言うものが出てきて、偶然にもちょうど修理しようと思って手元にあったCDだったのですぐにご用意できました。とてもラッキーでした。今日はクレーマーもいなくて平和でした。
 
 資料の貸出・返却は業者委託しています。でも、委託の人は閉館後先に帰ります。改めて一人になってから、最後の火の元、セコムに出動されないためのいろいろな細かい操作が必要です。たとえば、空調を切る、電気を切る、電話を自動応答にする、施錠するなどなどです。なにか一つでも怠ると、すぐセコムが飛んできてしまいます。

 明日明後日は土日ですが、出勤です。もう本当にくたびれているので、本当は休みたいですね。でも、土日はぎりぎりの人数で運営するので、絶対に休めないんです。

 月曜日になるとお休みです。今日は帰りに眠ってしまうかと思うくらい疲れていました。お風呂に入ってちょっと盛り返しましたが。花粉症でよく眠れないのも困りものです。がんばりたくないのに・・・・がんばるしかない今日この頃でした。

 3月も末に近くなると予算からは開放されますが、異動内示が待ち受けています。さーーーて、来年はどうなることやら。私は本につくカミダニや埃にアレルギーがあるので、本庁に異動したいのですけれどもね。人事は人ならずといいます。何事もサラリーマンは希望通りには生きられないものです。サラリーマンに限らずですかね?

by MUSICA






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えらい目に遭いました

 今日の夕方、えらい目に遭いました。駅前の行きつけの喫茶店で、盗難にあったのです!トイレに行っている数十秒のあいだに、ダウンジャケットを盗まれました。濃いグリーンの、いつも僕が着ているやつです。金目のものは何にも入っていなくて、内ポケットに100円ショップで買ったサングラスが一個、忍ばせてあっただけです。盗んだやつは、さぞがっかりしていることでしょう。ぼくは、全財産を、常にウエストポーチにいれて、肌身離さず持ってい ます。

 それにしても、頭に来た!人を見たら泥棒と思え!鶏鳴狗盗、瓦釜雷鳴、呉下阿蒙、酒嚢飯袋、張三李四、泥車瓦狗、放蕩無頼、無知蒙昧、冥頑不霊、偏癖蔽固、妖怪変化、魑魅魍魎の輩に間違いない。天網恢々疎にして漏らさず。自ら犯した罪を虚心坦懐にみつめ悔い改めよ!と言いたい。このままでは、やつは阿鼻叫喚の無間地獄に堕ちるであろう!

 さっそく、インターネットで防犯グッズを注文しました。自転車用の防犯ワイヤーを二つ注文したんです。今度はバッグが盗まれるかもしれません。それを思うと、いてもたってもいられなくなりました。ワイヤーで、バッグをテーブルの脚と椅子の脚に巻き付けるつもりです。泥棒のやつも、まさか重いテーブルと椅子を持ち上げてまで盗むことはないと思います。あと、服は必ずトイレに持っていくことに決めました。本吉さんも気を付けた方がいいですよ。最近、世の中が、世知辛くなっていますから。
 
 ところが:
 
 盗難にあったのは勘違いでした。僕が、トイレに行く前に、お店の隅の席が開いたので、その席に移動したのです。そのとき、椅子に被せたダウンジャケットはそのままにしておいたようです。テーブルと椅子の上のものだけを移動させ、それで済んだと思いこんでいました。

 そのことをすっかり忘れていました。あたかも最初からその席に座っていたかのようにしばらく居座っていたのです。そして、店を出るとき、ダウンジャケットがない!盗まれた!とパニックになったのです。

 ダウンジャケットは、僕がトイレに行って、席を空けていたあいだに、店員が、お客様の忘れ物として、ちゃんと保管してくれていました。アホ!あほ!僕の馬鹿!あんぽんたん!粗忽者!間抜け!あーーー、!

 でもみつかって良かった!セキュリティロックのワイヤー二個注文してしまったんですが、どうしましょう?


by mogurin

 セキュリティロックのワイヤーはmogurinさんとテーブルを繋いでおくのに使えばよいと思います。
 
from ロクスケ




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食生活を見直す

 私は仕事が忙しくなると、食事も思うに任せなくなる。困るのは、出張や外出が多くなると、どうしても外食に頼らざるを得なくなることだが、外食で食べられるものは揃いも揃って揚げ物や肉類が殆どで、しかも味付けが濃い。野菜が不足など一回や二回ならともかく、とても続けられたものではない。
 
 仕方がないのでコンビニおにぎりで済ませたり、そばを食べたり精々野菜ジュースを買って補給したり位しか出来ない。野菜ジュースと言っても果汁が大部分だったり繊維がなかったりで、いわば気休めでしかない。
 
 家にいる時は可能な限り自分で作っているが、それも忙しくなると一々自炊もしていられないし、食材も買っていられないし、そしてまとめて買っても腐らせてしまう。
 
 結局、きちんとした食事管理とはそれを毎日考えながらやってくれる人が居なければ到底無理だとは思っている。
 
 だが現代生活では共稼ぎは普通だし、奥さんだけに食事を考えろと言うのはまずい。結局は家族の食事は家族で考えなければならないと言うことだと思うが、それは別として、なぜ外食で食べられる食事が揃いも揃って油だらけで味が濃いのか、結局はそれが受け入れられるからなのだろうが、もう一つは調理しやすく保存が利くと言うことなのだろう。私の味覚は人様に言わせるとかなり特殊で、とにかく薄味好みらしい。自分ではそれが当たり前だから気がつかないが、私が造ったものを人が食べると味がないと言う。お浸しや焼き魚には醤油をかけないし、味噌汁はお椀の底が見える。漬け物好きだが、薄塩で乳酸発酵したものであり、水に多くの塩分が出るので、実際に摂取する塩分は少ないと思われる。
 
 年齢によっては脂肪分や動物タンパク質、塩分も必要だろうから誰もが私の食生活と同じにすべきだ等とは思わないが、私の年齢や体質には合っている、というより体が求めているのだと思う。野菜主体、塩分控えめ、動物性脂肪は控えめ、酒は少量と言うことで、現時点では血圧、コレステロール、血糖値などなどは標準値に入っている。それほど大食いだとは思わないが、空腹になっても食欲に結びつかないので、ぎりぎりになってから早食いをする。これはまずいとは思っている。BMIでは27だから肥満に入る。
 
 しかし体力は結構有ると思うし、駅の階段を二段飛びで駆け上がっても特に息切れもしないし、かなりの急坂も自転車で普通に上れる。体の柔軟性はかなり衰えていると思われるので、その点は何とかしなければならないと思うのだが。芸能人などで思いがけなく早死にする人たちの普段の不摂生を聞くと、一方では普段から節制し信じられないほど若さと健康を保っている芸能人達との対比を考えてしまう。
 
 特に薬も飲まないし、気を付けている事もないが、自然にそうなった食餌傾向が、結構体力向上に役立っているのではないかと思う。ただし、最近健康診断も受けていないし、油断は出来ない。いろいろ病気の出てくる年齢だから自覚はしているのだけれど。
 
 
by ロクスケ






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鍼灸

 先月末から、左の背中がひどく痛んでいてもたってもいられなくなってしまいまいした。その他全身も痛いのです。
 
 今まで通っていた鍼灸のお店は、チェーン店で、時間単位でお金を支払い、10分1000円でした。マッサージは15分1200円です。でも、なんとなくマッサージがメインのお店なので、鍼灸で50分コースにしていても、最後の10分くらいはマッサージになってしまうし、電話がかかってきたり、店員が全員マッサージにかかっていて、たまたま1階で施術されているときなどは、ロスタイムがでるのですが、次の人の予約が入っているため延びないのです。それで損をした気になってしまいます。仕方なく途中から鍼30分マッサージ30分にしていたのですが、あるとき「一度全身をマッサージしてほぐしてみませんか?」と言われて、試してみました。そうしたら、もっとひどくなってしまって!。ううう。先生は若いのですが鍼についてはなかなか腕は良いと思っていたのですが、やはり時間制のところにネックがあります。もう駄目。シップを貼っても痛いし、我慢できません。

 友達が勧めてくれていた鍼灸院に急遽電話して予約を入れてみました。翌日の夜にどうぞということで伺いました。その先生は、40代だと思います。はじめは「ボクは患者さんとは毎回一期一会だと思っています」とか「どこどこで講師をやっていまして」とか「アメリカで解剖もやってきまして」とかいろいろ売りを言うので『あのーそういうのは、どうでもいいので結果を出してください。』と内心思いました。「ボクは治しますよ。」とはじめは威勢が良かったのですが、だんだん「多分治ると思います。」に変わってしまいました。そのときは2時間15分くらい施術していただいて9千円でした。時間制だと13500円ですね。

 それで、その回では治らないので、翌週も行きました。そうしたら「痛い痛い」と思っていたのですが、左以外の部分はかなり良くなっているという実感がはっきり沸いたのです。びっくりしました。先生も「あ、だいぶ良くなってますね。」とおっしゃいます。
ただ、一番悪い左の背中はまだ痛いです。そのときは3時間近く施術してくださいました。1万円だったのですが、治るなら出してもいいと思いましたね。

 先生いわく、私は五十肩の直前の状態にあるそうです。昔は、五十肩になると長生きしたねということで長生き病といわれたそうです。でも、今は30代、40代の人が五十肩になる。で、嫌がられるので四十肩なんていう名前も作ったりしてと言うことなんだそうです。逆に、70歳の方に五十肩と言うと喜ばれるとか。(痛くて嬉しくないと思いますが)

 紹介してくれた私の友達にはその先生は「MUSICAさんは絶対に治します。」と言ったそうなので、しばらくお金がかかりますが、お願いしようと思っています。

by musica


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誰にも負けたくない症候群


 私が、生真面目に仕事をするのは、昔から「誰にも負けたくない症候群」にかかっているからです。でも、それに対して、身体や、精神の奥深いところでは「おいおい、あなたの能力や体力ではもう限界よ。」と言って眠れなくしたり、起きられなくしたり脳がわが身を保護するために動くのでしょう。
 
 わが身であって、自由に使えない、これが人間の性なんでしょうかね。
 
 <母親業者発達障害不安シンドローム>先日、あるぺージで、2歳6ヶ月のお子さんについての投稿を見ました。下に赤ちゃんがいると書かれており、2歳のころから落ち着きない、こだわりが強い、気に入らないことで大泣きする、人が泣いていると一緒にパニくる、などの症状が気になり心配されているということでした。それまでの何歳児健診などで発達の遅れや傾向を指摘されたような記述はありません。
 
 それに対して、ある男性の医者がつけたコメントは「ADHDやアスペの可能性がありますので、専門医を早めに受診したほうがいい」というものでした。 私は正直に驚きました。何と言う無責任なコメントでしょう。2歳半といえば、まだまだ大泣きするし、わがままだし、おもちゃなどにこだわったりするのは普通だと思うからです。むしろ、下のお子さんに親の目が行き過ぎて、上のお子さんが不安定になっていると考えるのがまず最初ではないかと思いました。
 
 なんでもかんでも、発達障害にするなよ!と思った私はおかしいでしょうか?まして、2歳から気になるというのが、それこそ気になる。発達障害ならば、IQや出ている症状にもよりますが普通もっと前から気になります。医者として、どうなんだろうと思いました。その医者が言うには自分にもアスペの子どもがいるというのです。アスペの子どもがいても、どのくらい発達障害について勉強して、どのくらい多くのお子さんを診て来たかということは、全くわかりません。
 
 自分のお子さんがそういう障害があるのならまして、そういう障害名を具体的に書き、不安をあおり、「専門医受診」などとつるりと書いてしまうというのは、医師として慎重さに欠け、どういうものかと私は怒り心頭でした。
 
 私にだってアスペの子もADHDの子もいますし、他にもたくさんいろいろな子どもをみていますけれど、いきなりそんなことは言いません。その医者に「その心は?」と聞くと、「お母さんの不安をとるため」だそうで。
 
 そーじゃーないだろう。よけい不安になるだろう、と思いました。その医者こそアスペかもしれません。私はそれは例えれば「ひどい便秘です」「それは大腸がんの可能性があるから早急に専門医を受診したほうがいい」といっているようなものだと書きました。もちろん、便秘ががんでないとは言い切れない。
 
 でも、いきなり「がんの可能性」と言うだろうかと。医師という名を借りて、いたずらにお母さんたちを惑わさないで欲しい。もう、本当に本当にどうして、簡単に「発達障害」の可能性などと言うのでしょう。それでなくても、世の中「母親業者発達障害不安シンドローム」がうずまいています・・・。
 
 お願いだから煽らないで。早期発見が良い良いといいますが、そんなに一寸一秒一ヶ月一年くらいでなにもかもがうまくいくようになるわけじゃない。健常児もそうですが、発達障害があるならましてや、母親との良い関係が築けているかどうかが一義的に大切なのだと思うのです。なにもかも母親に、と言うことに反対な人はいるかもしれませんが、私はやはり「母は大地」なのだと思います。仮に周りの理解がなくてもお母さんだけは自分の子どもを守る、そういう強い決意みたいなものが、伝わってこないことがあると、本当に悲しく感じます。
 
 
by MUSICA







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俺は俺症候群


 私は早い頃から「俺は俺、人は人症候群」だったので、自分が出来ないことでいらつきはしますが人と比べてどうだという意識はありません。

さて、今回のお話。私も常々同じ不愉快な思いをしています。私が最初ADHDのことを知ったのは2000年の夏で、例のサリ・ドルデンさんの「片づけられない女たち」です。あのころは日本にはまともな資料がなく、ほとんどがアメリカ発でしたが、主として様々なサイトをみて歩き、かなり学びました。当時、ADHD(ADD)の発生率は、男女問わず、1%位とされていました。それが日本では、数パーセントといわれるようになり、一時期は20%を越す、とまでいわれていました。おいおい、と思ったものです。

まずADHDがどのような状態なのかが知られていなく、とにかくだらしがない、片づけられない状態と思われているんじゃないでしょうか。一般的な認識なんかそんなものだし、ADHDなど聞いたこともないという人も数多くいます。

日本の医者で、ADHDを本当に理解している人がどれくらいいるのか知りませんが、なにかおかしいとADHD、アスぺで片づけてしまう場合が増えているのじゃないかと思います。

だらしがない、片づけられない、約束を守らない人間などたくさんいます。しつけが悪かった、わがまま、性格がだらしない、中には鬱、精神ストレスなどなどたくさんの原因があるでしょう。ADHDはその原因の一つにすぎないのに、何でもかんでもADHDにしてしまうのはどうかと思います。

診断だけならともかく、本来生活改善、しつけ方法の改善、性格矯正などで対処すべき問題をADHDにしてしまって薬でごまかすなどがあったら大問題じゃないでしょうかね。

前回も書きましたが、WingBrain委員会のBBSにもだらしのない同僚がいて、その指導を任され困っている、というのがありました。

まず本人が自覚していないものは、他者が何をしてもだめだろうし、本人が自覚したら初めて診断を受けられるのだろうし、そしてその医者に十分な知識があって、初めて当人がADHDであると判明し、それに則った対策が講じられるべきです。おかしいからADHD、アスぺ、LDだなどというのであればいつまでたってもこの種の障害に対する社会的認識など根付かないでしょうね。

from ロクスケ









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上司様 サポートのお願い (1)
この記事は長いので、何回かに分けて連載します。

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 今の仕事については、実のところ自分自身には合っていないと思うのですが、もちろんだからと言ってやらないということではなくて、発達障害のなかでADHD(注意欠陥多動性障害)はこういう障害で、これによって今の状況が現実的にこうですと言うことをご理解いただければ幸いです。
 
 私のような、ADHD者は端的に行ってしまえば、馬などと同じで、にんじん(好きなこと、興味のあること、楽しいこと、創造性のあること)を目の前におかれると、ひた走りしてしまうと言う特性があります。昨年まで身体を壊していたのは、仕事のやりすぎによる疲労により、いろいろな症状がでたためです。
 
 自己抑制(コントロール)が悪いので、どこまでもやってしまって、ある日ぱたり、と言う風になってしまいます。医師は、そういう状況になる前にブレーキをかけてくれる人がいると良いのに!と言っています。
 
 今度の仕事では、健康的にがんばりたいので、ご理解とサポートをお願いいただければと存じます。
 
 ADHDとしてタレントの黒柳哲子さん、子どもの頃に学校から来ないでくれといわれ母が教育したエジソン、永遠の子どもと言われるアインシュタイン、寺子屋に断れ、姉が養育した坂本竜馬などがそうだと言われています。
 
 また、発達障害の学会に行きますと、ADHDやAS(アスペルガー症候群≒高機能自閉症)の教授がうじゃうじゃいます。彼らは好きな研究に没頭でき、特に対人関係の問題も必要なく、高い研究レベルを得る事によって教授などになっていますが、よく観察すると発達障害があると思うことが多いのです。
 
 日本LD(学習障害)学会の会長で学芸大学の教授である上野一彦先生も自分でもそれを認め、最近本にして出しています。カミングアウトを推奨する立場からも、潔い行動だと思います。
 
 5月連休中に行われた就業支援についての研修で、講師の先生がおっしゃっていましたが、「カミングアウトなしの就業支援はありえない」と言うことでした。私もそう思っています。


ー 続く ー

by MUSICA






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上司様 サポートのお願い (2)
 
 国際疾病分類第10版(ICDー10)による多動性障害の診断基準F90 多動性障害 Hyperkinetic Disorders注:他動性障害の研究用診断では、さまざまな状況を通じて広範に、かついつの時点でも持続するような、異常なレベルの不注意や多動、そして落ち着きのなさが明らかに確認されることが必要である。またこれは、自閉症や感情障害などといった他の障害に起因するものではない。
 
 G1.不注意:次の症状のうち少なくとも6項が、6ヶ月間以上持続し、その程度は不適応を起こすほどで、その子どもの発達段階と不釣り合いであること。

 (1)学校の勉強・仕事・その他の活動において、細かく注意を払えないことが多く、うっかりミスが多い。→ 書類の製品名の誤りや数量と単価が逆になったりということが生じています。数字に弱いので、何度も何度も確認しているのですが、それでも間違えました。(2)作業や遊戯の活動に注意集中を維持できないことが多い。
 
 →私の場合は入り込むと過集中になるので、むしろ、接客などで集中を無理に途切れさせるときがかなりのストレスになってしまいます。また、事務所に帰ってきてから今まで何やっていたのか想起して再度集中するのに時間がかかります。
 
 (3)自分に言われたことを聴いていないように見えることが多い。
 
 →「見える」というよりも、実際に聴いていないことがあります。顔ではうなずいているのですが。理解していないので、もう一度聴きなおしをすることがたびたびあります。私は視覚が聴覚よりも優位です。

 (4) しばしば指示に従えない、あるいは学業・雑用・作業場での仕事を完遂することができない(反抗のつもりとか指示を理解できないためではない)。
 
 → 私は、他のことで頭がいっぱいになると、仕事が手につかなくなります。
 
 (5)課題や作業をとりまとめるのが下手なことが多い。
 
 →目の前にある仕事が多いと、内心パニックになっています。どれからどのように処理していったら効率的か、よく考えないと順序がわからなくなるからです。もう少し慣れれば・・・とは思いますが。
 
 ー 続く ー
 
 
by MUSICA







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上司様 サポートのお願い (3)
 (6)宿題のように精神的な集中力を必要とする課題を避けたり、ひどく嫌う。
 
 →これはないですが、集中すると過集中になり、医師の話では脳が全力で働くため、その後の疲れが健常の人に比べてひどいのです。下のDSM−Wで「エンジンで動かされているように」と表現されています。
 
 (7) 学校の宿題・鉛筆・本・玩具・道具など、勉強や活動に必要な特定のものをなくすことが多い。
 
 →しょっちゅう、書類、ボールペン、ステープラーなどを捜しています。一日の三分の一くらいは探し物をしている感じがします。

 (8)外部からの刺激で容易に注意がそれてしまうことが多い。
 
 →聞こえてくる話で私の興味を引くものがあると、仕事が手につきません。また、特異な音に過敏です。

 (9)日常の活動で物忘れをしがちである。
 
 →忘れてしまうので書類にはなるべく付箋をつけて書いておくように工夫しています。また、スケジュール表を毎朝確認しないとその日の活動を覚えていないので、前の職場では遅番の日にちを間違えたこともあります。
 
 G2.過活動:次の症状のうち少なくとも3項が、6ヶ月間以上持続し、その程度は不適応を起こすほどで、その子どもの発達段階と不釣り合いであること。

 (1)座っていて手足をモゾモゾさせたり、身体をクネクネさせることがしばしばある。

 (2)教室内で、または着席しておくべき他の状況で席を離れる。

 (3)おとなしくしているべき状況で、ひどく走り回ったりよじ登ったりする(青年期の者や成人ならば、落ち着かない気分がするだけだが)。
 
 →成人の部分、これはあります。

 (4)遊んでいて時に過度に騒がしかったり、レジャー活動に参加できないことが多い。

 (5)過剰な動きすぎのパターンが特徴的で、社会的な状況や要請によっても実質的に変わることはない。

 子どもの頃は過活動でした。
 
 ー 続く ー
 
by MUSICA







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猫のいるくらし

 毎日、慌ただしく生活している中で、唯一ホッとする時間。それはのんびりと欠伸をかみころす猫と一緒にいるときだ。今、我が家には、2匹の猫がいる。三毛猫と黒猫の姉妹。もうすぐ1才になる。2匹は捨て猫で、段ボールに一緒に入れられていたらしい。この子達を保護した方がネットで里親を募集されていて、そこから、も らい受けた。
 
 子猫は日々成長する。初めて会ったときは、まだ手のひらの上にちょこんと乗るくらいの大き さだったのに、今では抱き上げるのも大変なサイズだ。写真もしょっちゅう撮っているが、毎月のように体格が変わっていく。性質もそれに連れて、少しずつ変わっているような気がする。

 本当に子猫だったのが、だんだん大人猫に変わっていくのだ。2匹は、毛の色が違うせいもあって、見た目にあまり似てはいない。性格も全然違う。でも、時折、ふとした拍子にすごく似ているところを発見する。お互いをいたわっている様子を見て取ることができる。
 
 それに出くわしたとき、何とも言えない気持ちになって、この子達と一緒に暮らして本当に良かったなと思う。ギスギスした気持ちや落ち込んだ気持ちが、猫たちの様子を見ているだ けで、すーっと癒されていく。以前飼っていた猫が空に旅立ってしまってから、酷く情緒不安定になったり、パートナーとのケンカも絶えなかったのに、そんなことも随分と減った。

 私には子供がいないし、今後、自分の子供を手に抱くこともないけれど、この2匹の猫が自分の子供であり、時に友人であり、時に姉妹であり、大切で愛おしい存在として、自分の傍にいてくれることが、本当に幸せだと思う。この存在を、私の元に届けてくれた縁に、とても感謝している。

 願わくば。猫又になるほど長生きしてくれればいいのに。
 
by 小町









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上司様 サポートのお願い (4)
 
 G3.衝動性:次の症状のうち少なくとも1項が、6ヶ月間以上持続し、その程度は不適応を起こすほどで、その子どもの発達段階と不釣り合いであること。

 (1)質問が終わらないうちに、出し抜けに答えてしまうことがよくある。
 
 →子どもの頃はよくやりました。今でも時々あるかも。

 (2)列に並んで待ったり、ゲームや集団の場で順番を待てないことがよくある。
 
 (3)他人を阻止したり邪魔することがよくある(例;他人の会話やゲームに割り込む)

 →会話への割り込み、時々いまだにやっていると思います。
 
 (4)社会的に遠慮すべきところで、不適切なほどに過剰に喋る。
 
 →努力しています。子どもの頃はおしゃべりで、おしゃまな子どもでした。
 
 G4.発症は7歳以前であること。
 
 →幼児の頃からです。そのため、親には受け入れられなかったようです。両親にはよく叱られました。姉も最近になって「昔はかわいそうだったと思っていた」と言っています。
 
 G5.広汎性:この基準は複数の場面で満たされること。たとえば、不注意と過活動の組み合わせが家庭と学校の両方で、あるいは学校とそれ以外の場面(診察室など)で観察される。(いくつかの場面でみられるという証拠として、通常複数の情報源が必要である。たとえば、教室での行動については、親からの情報だけでは十分とはいえない)
 
 G6.G1−G3の症状は、臨床的に明らかな苦痛をひき起こしたり、あるいは社会的・学業上・仕事面での機能障害をひき起こすほどであること。
 
 →自分で自分の状態にかなりストレスを感じています。時々、しかたなく集中するための一種の覚せい剤のような薬(医師から処方されています)を服用してしのぐことがあります。私の場合、精神的な蓄積疲労がひどいと機能障害をひき起こし、職場に行けなくなったことがあります。


ー 続く ー


by MUSICA









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上司様 サポートのお願い (5)

  
 (前々職場では、一人で月約100時間、3ヶ月残業しました。物理的な疲労もありましたが、他の職員が毎日17時15分に帰る中、誰のサポートも得られずに日曜祝日返上で作業を行い、精神的に参ってしまい、朝どうしても起きれなくなりました。これは私の側の問題というよりは環境整備の問題かもしれません。
 
 去年の職場での病欠も、他の同一職場が二人体制の中私のところだけが一人で、経験があるとはいえ、窓口委託や新システム、方法の変更で引継ぎ書もなく教えてくれる人もなく、仕事が他職場の倍な上、整備など必要に迫られた改善を始め、物理的に困難だと上司に人的支援をお願いしたのですが駄目で、どうにも眠れなくなってしまい休みました。医師に言わせると「脳の使いすぎ」だそうです。
 
 でも、復職してからは、朝4〜50分くらい早く行って仕事を開始し、仕事のやり方も工夫して、残業はしないで必要があれば家で行い、非常勤さんや次長に軽微な仕事を一部回して、順調に3月まで仕事ができました。喘息のための異動ですが1年で変わるお詫びに、初心者のための資料検索マニュアルを作り、引き継ぎ書も残せました。仕事にメリハリがつくと良いようです。)
 
 G7.この障害は広汎性発達障害(F84.-)、躁病エピソード(F30.-)、うつ病エピソード(F32.-)、または不安障害(F41.-)の診断基準をみたさないこと。→満たさないのですが、二次的障害として鬱が発生することが多いのです。発達障害は鬱との親和性が高いと言います。私も抗鬱剤を20年近く前からずっと飲んでいます。出典:『ICD-10 精神および行動の障害―DRC研究用診断基準ー』(中根充文ほか訳 1994年 医学書院)

ー 続く ー

by MUSICA







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手のひらに水がザーっ

 化粧水(自作の美肌水)をパタパタと顔にパッティングすること、冷たい水を飲むことが私の風呂上りの習慣です。早く両方とも早くしないと顔がシワシワになって、体の水分がなくなり、萎びてしまうようようで・・・。こんなイメージをいだく頭も全く正とはいえませんね。

 で、先日両方を早くしたいあまり、ペットボトルの飲料用の水を手のひらの上で化粧水のようにしたから、たまりません。化粧水の瓶の穴は小さいので、さかさにしても中味はほとんど出ないのですが、ペットボトルの方はそうはいきません。手のひらに水がザーっとかかり、水がテーブルの上にこぼれ、床に流れました。

 ワーキングメモリのせいですね。順序だてて出来ないのです。

 地図を暗記できないので、交差点を過ぎるたびに地図を開く羽目になったことも。これはたぶん短期記憶の悪いせいですね
 
by キャサリン


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上司様 サポートのお願い (6)

 
 アメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-W)による注意欠陥/多動性障害の診断基準
 
 A.(1)か(2)のどちらか:(1)以下の不注意の症状のうち6つ(またはそれ以上)が少なくとも6ヶ月以上続いたことがあり、その程度は不適応的で、発達の水準に相応しないもの: 不注意

 (a)学業、仕事、またはその他の活動において、しばしば綿密に注意することができない、または不注意な過ちをおかす。

 (b)課題または遊びの活動で注意を持続することがしばしば困難である。

 (c)直接話しかけられたときにしばしば聞いていないように見える。

 (d)しばしば指示に従えず、学業、用事、または職場での義務をやり遂げることができない(反抗的な行動、または指示を理解できないためではなく)。

 (e)課題や活動を順序立てることがしばしば困難である。

 (f)(学業や宿題のような)精神的努力の持続を要する課題に従事する事をしばしば避ける、嫌う、またはいやいや行う。

 (g)(例えばおもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など) 課題や活動に必要なものをしばしばなくす。

 (h)しばしば外からの刺激によって容易に注意をそらされる。

 (i)しばしば毎日の活動を忘れてしまう。(2)以下の多動性―衝動性の症状のうち6つ(またはそれ以上)が少なくとも6ヶ月以上持続したことがあり、その程度は不適応的で、発達水準に相応しない:多動性

 (a) しばしば手足をそわそわと動かし、またはいすの上でもじもじする。

 (b) しばしば教室や、その他、座っていることを要求される状況で席を離れる。

 (c)しばしば、不適切な状況で、余計に走り回ったり高い所へ上ったりする(青年または成人では落ち着かない感じの自覚のみに限られるかも知れない)。

 (d)しばしば静かに遊んだり余暇活動につくことができない。

 (e)しばしば“じっとしていない”または、まるで“エンジンで動かされるように”行動する。

 (f)しばしばしゃべりすぎる。 衝動性

  (g)しばしば質問が終わる前に出し抜けに答え始めてしまう。

  (h)しばしば順番を待つことが困難である。

  (i) しばしば他人を妨害し、邪魔する(例えば会話やゲームに干渉する)
 
  B.多動性―衝動性または不注意の症状のいくつかが7歳以前に存在し、障害を引き起こしている。
 
  C.これらの症状による障害が2つ以上の状況において(例えば学校[または仕事]と家庭)存在する。
 
  D.社会的、学業的または職業的機能において、臨床的に著しい障害が存在するという明確な証拠が存在しなければならない。E.その症状は広汎性発達障害、精神分裂病、または、その他の精神病性障害の経過中にのみ起こるもではなく、他の精神疾患(例えば気分障害、不安障害、解離性障害、または人格障害)ではうまく説明されない。 病型に基づいてコード番号をつけること:
 
  314.01  注意欠陥/多動性障害、混合型: 過去6ヶ月間A1とA2の基準をともに満たしている場合
 
  314.0 注意欠陥/多動性障害、不注意優勢型: 過去6ヶ月間、基準A1を満たすが基準A2を満たさない場合 
 
  314.01 注意欠陥/多動性障害、多動性―衝動性優勢型 :過去6ヶ月間、基準A2を満たすが基準A1を満たさない場合 

by MUSICA


 上記のかなりの部分が私にも当てはまります。しかし、ADHDという概念を全く考慮しない場合、MUSICAさんや私はまったく社会に適合しないはみ出し者だし、自分勝手でチームワークを乱し、他人との協調性がなく、気分屋でやればできるのに怠けて仕事がいい加減、ということになるのでしょうね。
 
 実は、ADHDを知る前は、私自身がそうであることに自己嫌悪を感じながらほかにそのような人間がいると、普通の人間が感じる以上に嫌悪感を感じていたようです。もしかしたら己の姿をその人間に見ていたからかもしれません。
 
 幼少時、私は学校で問題児でしたし、親もかなりもてあましていたであろうことは今ではわかります。そのころは自分を分析するなどできませんから、結果として周囲に対し激しい敵対心を持っていたと思います。
 
 さて、カミングアウトについては、するべきではないと思っています。人それぞれですが、少なくともカミングアウトが功を奏したという事例をみたことがないからです。専門家でもない人間に、真に適切なサポートは不可能でしょうし、たとえ肉親でもそのようなサポートはできないと思うからです。むろんこれは私見です。

from ロクスケ











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早く移動すること

 とにかく、子どもの頃から、やりたいと思ったことは、すぐに実行に移したいのです。スーパーマンのように普通の人の十倍の速さで、動くのが私の夢でした。

 で、まず子どもの頃はエネルギーも余ってしまうので、良く走ってました。まるで犬ですね。走って散歩するのです。

 次に自転車です。私もそうですが、私の回りのAD/HDの子どもは、運動が苦手だったりするのにすぐに自転車に乗れるようになる。速く、移動したいのです。当然、50CC、そして自動車と出来る限りの高速移動を望むのです。なくなった兄は中学生の頃から自動車を運転していたそうです。(このことはまたお話します。兄の通夜はワイワイ、ゲラゲラ凄かった。)

 以前、幼稚園の卒園児の会の会長をしていた頃、集まりのある日をうっかり忘れていたら、電話で呼び出されました。もちろん、あわてて出かけました。少し離れたところにある市なのですが、ものすごいスピードで行ったら、みんなに「速い。」と、言われました。「暴走したからね。」と、自慢げな私。
 
 
by キャサリン











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子供の成長

今日次男(19歳)が帰っきて、自動車免許を取るために貸した金の一部をどかんと返済したあと、いきなり「俺、旅に行きたいんだ。バイクで行ってくるよ。どのくらい行っているかわからないし、どこに行くかも決めてないけど、行ってみたくなったんだ。」と言いました。

 私は「はい、じゃあこれ、お守りね。」と言って、財布の中からお守りを出して渡しました。すると、次男が「どーして、お母ちゃんは、だめって言わないんだろう。ほかんちの母ちゃんだったら、絶対だめって言うぜ。」と言います。そうかな。彼はもう働いているのだし、一人でなんでもやればいいと私は思っています。

 次男は満足そうに部屋に上がっていきました。身支度をしています。シャワーを浴び、携帯とi−podの充電をしているようです。携帯は電源を切っておくとのこと。最悪のときだけかけるよと言います。いつも、携帯なしにいられない子が、どんなもんだか、と私は内心にまにまです。私は、シュラフ(寝袋)とL〜LLサイズのレインコートと正方形のタオルを渡しました。昔、しょっちゅう、キャンプをしていた私としては、テントがないのならば、雨がいつ降るかわからないこの時期のバイクでのツーリングだったら、そのくらいはあったほうがいいと思ったからです。そうでもしなければ、次男はそのまま出て行ってしまいそうでした。まあ、雨にぬれてびちょびちょになってからわかるという経験も大事なのですが、喘息があり結構風邪を引くタイプなので、親心。

 はじめ、「広島あたりいけるかなあ」と言っていたのですが、東京からの初めての単独バイクツーリングなので、自分でも計画を練り直し、「山でいいところないかな?」と言うので「お母ちゃんはお父ちゃんと八ヶ岳登ったよ。それはきれいだった。」と言うと、自分で地理を雑駁に検索し、だいたいの方向がわかると、「あとは行ってから考えよう。」と言って、発ちました。その間、長男が帰ってきて、話を聞き、「そうか、じゃあ俺のデジカメ貸してやるよ。ま、行って来い。」と兄弟仲うるわしく。

 「じゃあ、お前が帰ってきたら、母の日にプレゼントしてくれたワインで乾杯しよう。いってらっしゃい。」と私は言って二階から見送りました。

 ふう。子供は育て、巣立つもの。まさに、今日はそんな感慨の深い一日となりました。

by MUSICA






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電車の中のイヤホン

 ある日、満員電車に乗った。するとめちゃくちゃ、大音量で「チャカチャカ」音の漏れるイヤホンで音楽を聞いている人がいる。イヤホンをしている人が2人いるので、どちらか限定できず、ドアが開いて一斉に乗客が出て、「チャカマン」が一旦でたら静かになったので、「あ、こっちの奴だ」と認定した。
 
 近くにまた来たら注意してやろうと思ったが、電車の奥に入ってしまった。何人もの乗客が「迷惑だ」と言う顔をして、彼の顔を覗き込んでいるが、どうも本人はわかっていない。

 イヤホンにはオープンエアー型(開放型)、密閉型、それから最近は少々高いが、ノイズキャンセリングヘッドフォンというのもでていて、これはかなり密閉性が高い。

 音がチャカチャカ漏れるものは、主に開放型のイヤホンである。これは、言ってみれば、「安物」。でも、イヤホンをしている本人にはわからない。

 翌日、隣の席にいた高校生の女の子が開放型のイヤホンで音楽を聴いていた。あーいやだなあと思ったので、紙に書いて「あなたの使っているイヤホンは音が外に漏れるタイプのイヤホンだよ。電車やバスの中では不向きだと思う。」と書いて渡した。彼女はすぐにイヤホンをはずした。私は「ごねんね。」と言ったが、彼女は「いえ、わかりました。」と言ってくれた。

 今は下手をすると殺される時代だから、知らない人にモノをいうのは怖いけれど、みんなが迷惑しているのだから、それこそみんなの力で「迷惑なんだ!」と言える様な社会にはなって欲しいと思う。


by MUSICA

 先頃、騒音おばさんやゴミ屋敷が話題になっていましたが、普通の神経を持っている人はそんなことをしません。しかし、最初から何が普通の神経かを理解していない人は、平気でやりますね。むろん、少々精神に異常を来して何かの信念でやっている人は別です。
 
 開放型イヤホンを電車内などで使うこと自体、周りに与える影響が全く考慮の中に入らない、いわば通常の常識が身に付かないまま育ってしまったわけでしょう。以前最初にアメリカに行ったとき、主にアフリカ系の若者がでっかいラジカセをがんがんならしながら歩いていて、そのまま地下鉄やバスに乗り込んでくるのを見てたまげたことがあります。当時ウオークマンもありませんでしたが、少なくとも音量を下げるとか、ヘッドフォンを使うなどの気遣いも無縁だったようで、アメリカ社会の荒廃をそんなときに見た思いがします。
 
 それが最近の日本でも見られるようになりましたね。大音響でラジカセをならすのはさすがに見ませんが、開放型イヤホンで満員電車の中で大音量で聴く連中も、育った環境がかなり崩れているのでしょう。
 
 それにそんなことをしていると聴力が急速に損なわれます。本人達はすでに耳が駄目になっていい手、大音量の自覚がないのかも知れません。

from ロクスケ








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朝の混んだバスに思うこと

 私は毎朝都バスを使っている。この路線は、たくさん学校があって、小学生から高校生までが毎朝うんざりするほど乗ってくる。特に小学生のチンマイ子どもたちは、ランドセルが非常に邪魔だ。おかげで、バスに乗って、奥のほうはがらがらなのに、置くまでたどり着けないのだ。
 
 また、高校生にいたっては、毎日ずしりと重いバッグを持ち、肩から掛けるか、床に置くためこれも通路進路妨害になる。

 しかも、どうやら高校生は「シルバーシート」には座ってはいけない命令が学校から出ているらしい。でも、シルバーシートの前に陣取っているのだ。下手をすると、シルバーシートに荷物を置いている子どもさえいる。

 私はシルバーシートというのは、優先席であって、そこに座る必要のある人が来れば交代すればいいのだと認識している。だから、私はそこが空いていれば座る。ところが、高校生らが前にずらりと陣取っていると座ることさえできない。

 また、内部障害のある人は、運転手に頼むと「内部障害がある人がいるので、シルバーシートを譲ってください」と放送するというのだ。じゃあ、私なんかがリタリンをたくさん飲む必要があってくたくたになっている時は「精神障害のある人がいるので、優先席を譲ってください。」と放送されるのだろうか。これは、ゆゆしき人権問題である。


by MUSICA

 優先席については私も同感です。必要な人が来たら譲れば良く、それまでは座っていても別にかまわないはずです。まあ、中高生は普通の席でも座らない、というルールがあるならそれでも良いですけれど、でも一部とは言え大荷物をやたらに床におくのはまずいと誰かが教えなければならないものなのか、高校くらいになればそれが迷惑だと自分で気が付かないものかと思います。もっとも、いい大人でも同じ事をしているのがいますから高校生だけが悪いとも言えませんが。

 結局、公共マナーが悪くなったと言うことでしょうか。小中学の給食費を、十分払えるのに払わない家が2割いるとか。高級外車を乗り回しながら、義務教育なのだから払う必要はないと屁理屈を言って督促にも応じない自分勝手な奴が大勢いると言います。
 
 本来シルバーシートなど要らないはずで、年輩者障害者妊婦ロクスケなどが来たらどこに座っていようと席を譲ることが一般のルールになっていれば済むことの筈。

from ロクスケ

















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捨てれない事

 あくまで、あたしの見解だけども、ADHDの方の殆どに、見られる事じゃないかなぁとおもうのが、モノを捨てれない。という事。

 つまり・・・。「片付けられない女達」なのではなくて、「モノを大事にしたい女達」なのかもしれないです。いや、"貧乏性"みたいなもんでしょうかね?

 妙なコレクター癖があって、あたしの場合、どうしても捨てられないので、きっと周りから、"ガラクタだらけ!!!!!"と思われてると思います。どういうモノが捨てれないってのは、個人差があるとは思うのですが・・・。あたしは、瓶やら、オモチャやら、本なんて、得に無理です。なので、軽い古本屋みたいな状態になってます。ジャンプを購読してるんですが、3年前のからずっとあります・・・。(どうなんだ、それは・・・。)

 何故捨てれないか?捨てたいって、思えないのです。どうしても。理由なんて、無い。根拠の無い執着心みたいなものでしょうか?いつか、必要になるんじゃないか?とも思ってるのもありますが。

 本当に使った事があるものは、ほぼ、ないんですが、たまに役に立つ時があります。(これだけは、利点)そこは、合理性が働いてる部分でもあるのですが、邪魔になるって事を考えると、不合理かも。とも思うわけです。記憶に関する部分と似てるなって、あたしは思うのです。

 憶えているのに、どうして行動しないか?ちゃんと、物事は憶えてるんです。(人からすれば嫌味なくらいに。)脳内で、きっと、優先順位があって、それも、多岐にわたって物事を考えるから、優先順位も、衝動的です。

 新しい情報ほど、大事にされてしまっているのが、難点です。なので、その場でしか、生きてないといわれるのでしょうか?(話題がずれました。)つまり、古い情報は、記憶の奥底にいってしまう。片付けも、古いモノは、奥底の記憶にしまわれてしまっている。

 執着心すら、薄れた時、やっとモノを手放せます。そういう、要らないものだとしても、(周りからすれば。)大事にしてしまうのが、ADHDなんだなぁ。と。感じます。甥っ子が、少しADHDの要素があるみたいなのですが、やはり、収集癖があります。コレクター魂とでも、いいましょうか?

 同じ器質のあたしは理解できますが、果たして、他の人からすれば、どうでしょうか?きっと、只のガラクタ。そして、その後、放置されてしまったまま。"もう要らないのじゃないか?"と考えてしまうはずです。でも、ちゃんと憶えてるんだと思います。笑。そういう部分で、理解してもらえれば光栄です。

by はいじ



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ああ無情の入院川柳

「熱いです」 「データー見ないとわからない」
ライオンか? 医長が来ればウサギの子
主治医どこ? 診てもらうには外来へ
退院が 決まったとたんに悪くなる
「これなあに?」 私に聞くな、専門家
元気そう 孤独死可能個室制
無計画 検査入院検査なし
「データー」と 「実際」の差 深い溝
「大丈夫 頭明晰」 宮沢か       (宮沢喜一・老衰)
看護師か? 「どうしてほしい?」 何できる
試される 典型的でない場合
データー見 症状診ないで 復職可
好調時 出された指示を厳守する
軟らかめ 希望するも 普通食
微熱アリ 一日寝ていて尿にごり
だるい時 腎炎痛から診るものか
さんざんに 水飲ませた後 尿検査
精神が おかしくないから 大丈夫


さあて、どれが一番おもしろいですかね!?


by MUSICA




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All or Nothingー完全主義

 すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、私は教育ママ(古っ)です。

 息子(現在、中1)と娘(現在、小4)が、勉強しようとしない。息子など年長から勉強させる習慣(始めた当初はめちゃくちゃ大変でした)をつけてきたつもりなのに。それで、今は投げ出してしまいました。勉強させようとすると、子どもたちはトイレへ行ったり、かくれてマンガを読んだり、かくれてパソコンでゲームをしたりするし、居眠りをしようものなら、どっかに行ってしまう始末。で、もう方っておくことにした次第です。

 私自身も、夕方学習塾をしており、よそのお子さんたちの勉強をみた後、自分の子どもたちの勉強をみる気力が残ってないってこともあります。

 ここ1・2週間、子どもたちを放置しておいたところ、娘は受験勉強をほとんどしてませんでした。なんとか、宿題はやっていっているようです。

 加島祥造の「求めない」という部分が、私には欠けているのは分かっています。学習塾運営上、親御さんから相談されたり、面談することがあります。そういう時に他人の親には「お子さんに求めすぎですよ。もう少しハードルを下げましょう。」と言っているのですが、自分の子どもたちはひどくきびしい眼でみてしまいます。

 また、一方では子どもたちに中国拳法の長拳(いわゆるカンフー)を習わせ、カンフーの型やカンフー体操を録画したDVDや武侠映画・ドラマを見せ、洗脳しています。子どもたちにしてみれば、「DVDは見せられるし、勉強もさせられるし、ったく。」ってところでしょう。

 ですが、子どもたちもこの矛盾した親に負けてはいません。娘は学校から帰ると、すぐに遊びに飛び出してしまう。息子は中学校(私立)が、遠い上に部活やクラスの活動にやに熱心で、なかなか帰ってこないのです。し方がないので、息子には朝、駅に送る間の10分弱の間に英語のレッスンをしています。今日は現在完了形、現在進行形、比較級の復習をしました。

 今月の月末には英検です。今週の週末は勉強させるぞ、と意気込む私ですが、・・・。

by キャサリン







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ADHDの自分なりの操作法

 あたしは、最近、思いつきで、目標と、ご褒美制を、とっています。自分が立てた目標を、達成できれば、ご褒美を自分に与えてます。
 
 ↓これが、あたしの目標とご褒美とルールの設定です。

★目標★

 メルマガ、文章、それに関わる、芸術活動などを行おう。遊ぶ前に、その、作業をしてみよう。

★ご褒美★

●メルマガを、1本書けば、思いきり、羽を伸ばしまくって遊んでいい。
●もし、その週に3本かければ、好きなお酒を買って、飲んでいい。
●文章を書いて、ちゃんとUP出来たら、ゲームを好きなだけやっていい。


★補助ルール★

 勿論、完璧に出来なくても、遊んでもいいという事は、当たり前です、自由だからこその、ルールです。自分の好きな事を、ご褒美に設定する事。出来なかったからといって、罰はないけれど、ご褒美ではないのだ。と。考えるようにする事。

 遊ぶにしろ、その時に、書いたかな?と思い出せるようにしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上が、あたしの目標、及び、ルールです。

 今日も、遊びたいので、メルマガ書こう!と思いました。飲み会に誘われたので)

 いつも、遊ぶなどは、働かざるもの食うべからずで、駄目だ!と。働けない分の、罪悪感を抱えてはいたので、中々、思いきり、羽を伸ばして遊べませんでした。

 やはり、人間ですし、思いきり。罪の意識なく、遊びたい。モノです。

 やっと、法則を取り入れてからは、書く事も立派な仕事だと、誇りに思えるようになっています。どんな、小さな事でも、仕事です。動けば、仕事なんです。物怖じして、動けなくなるよりずっと、気分がいいです。鳥は自由に飛べるんだなぁ。って、巣立ちの気分なくらい、心地いいです。(鳥になった事は無いんですが。)

 あたしにだけ、有効に効いた事例なのかもしれないけれど、かなり、効果てきめんなので、紹介しておきたいので、書いちゃいました。お料理のレシピみたいなモノかもですね。

 ADHDのお子様などいらっしゃる方も、自分が、そうかもしれない、という方も、その、目標とご褒美、ルールなどを工夫し、設定をしてみて、試してみる価値は、アリかもです。

 はいじ
 
 
 目標を達成したら自分にご褒美をあげる、というのはいわば子供を育てるとき褒めて育てる、に当たるのかも知れませんね。それなりに有効な手段だと思います。
 
 良いなぁ、文章を書いたらゲーム三昧。わたしはゲームはやらないので、代わりに好きな酒でしょうか。でも、毎日酔いつぶれてしまわなくてはならんです。

from ロクスケ

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依存症


 こだわりがきついともいえます。常に何かに夢中になっていないと不安です。

 出かける時には中学校の数学・国語教材ー問題集や本、それから筆入れ、ノート(メルマガ原稿を書くため)、ペットボトルをかばんに入れて、持ち歩きます。全く、出先で取り出さないこともあるにかかわらず・・・。夫は、「どうして、そんなに大荷物なの?」とあきれています。先日、息子の運動会があった時も息子が出てない時は数学の問題を解いてました。

 まっ、それで今は何に依存しているかというと、やはり中国・香港の武侠映画・ドラマです。日本に入ってくるのはほんの一部だし、公開が遅かったり、全く日本で販売されないことも・・・。韓国のTVドラマとは比較になりません。レンタルビデオ・ショップでは、韓国ドラマの占める場所はどんどん広がり、逆に中国・香港映画・TVドラマは縮小されています。んっもう。

 先日「SPL(殺・破・狼)」という香港映画が日本で公開されました。この映画の製作されたのはなんと、2005年です。

 ってなわけで、レンタルショップでDVDを借りるは、通信レンタルはするは、と毎日、中国・香港の映画・ドラマを見まくっているのが、現状です。借りられる物は借り尽くした状況です。もちろん、借りたDVDはダビングして、繰り返し見るのですが・・・。

 新しいものを見たいという欲が出てきて、香港の通販で購入したいと思う、最近です。この通販、最新版が購入できるのですが、問題があります。普通、販売されているDVDは中国語(広東語・北京語・どちらか一方のことも)音声で、英語字幕が付いているものもあるという現状。

 それで、中国語を学習することにしました。やはり、原語で理解したいということもありますし・・・。

 でっ、なぜ依存症か、つまり子どもや仕事への関心がうすれてしまうという結果になってしまうからです。それで、これでは、いけないと、自分に鞭打ってメルマガ原稿を入力している私です。

by キャサリン







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ADHDを理解してもらうための努力

 皆さん、案外、理解されない事について。慣れすぎて、傷つくのもイヤだから、もう、人にこの事を理解してもらうのはやめてしまおう。という人が多いと思います。(理解といっても人間は誰しもが必ずすべてを理解できるものではないというのは根底で。)

 けれど、あきらめるべからずです。どうしても、頭がカタイ人なら、もう諦めるしかないのかもしれませんが、もし理解されなくとも、相手のためにも、自分の性格や、やり方、スタイルなどを話し合うべきだと思うのです。じゃないと、小さくまとまってしまって、つまらない人間になってしまうかもしれませんし。(あくまでコレはあたしの意見ですが)

理解してもらうために必要な事(あたしなりの現在の結論)
・最初からADHDと言わない事
・人を大切にしつつ、けれど合わせすぎない事
・理解してもらいたい人とは、長い年月を、何気なくすごす。

 はじめから、ADHDだとなると、相手もそういうモノの偏見やその他もろもろ、付き合いにくいと感じるハズです。なので狡猾に理解への道をすすめて行くためには、「猫をかぶろうホトトギス」です。そして、ダメでもともとだという事も忘れない事。

 私を理解しようとしてくれている、皆様、本当にありがとう。そして、読んでくれている皆様も、決して、ダメだとか諦めてしまわず、ふんばってみましょう。


by はいじ





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ADHDの執念


 ADHDは執念深いと言われがちである。だけども、思うに、ただ気持ちの切り替えの面で頭の中のスイッチが、うまく入らないだけで、もし切り替える事がうまく働いたのならば?執念深く(しつこい事、時間のかけ方等も含む)はないと思う。

 1つの物事から、頭が中々はなれなくなるわけで、それが優先順位で、自分の好きなものや、大切なモノであればある程、注意を切り替える事は非常に困難であり、深いモノにしろ、やめるにやめられなくなってしまいがちである。

 逆説的に、大切な事にならば、忍耐力のあるどころの騒ぎではなく、楽しみつつ、やり続けてしまうというのが、1つの利点でもある。(それこそ夜通し)しかし、それが、少し(かなり)周囲から理解されがたく、『ただ、のんきに楽しんでやっている』のだと、思われがちである。

 本人は楽しんでもおり、苦しんでもいるわけで、その辺の判断が、非常に難しいと思う訳ですが。(他人ならば尚更ですよね。)でも執念深いと言われようと、うまく使いこなせばうまく自分の能力を引き出せるハズです。

 あたしはバカですが、だからこそ、『あたしは使いようなのだな。』と思います。

by はいじ




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風邪をひいて健康を思う

 12月の半ばにひどい風邪をひき、鼻水と咳と体の節々の痛みがものすごい有様になっていた。ちょうど、前号のメルマガを出した頃だ。しかし、それらの症状はほぼ3日で収まり、一週間で風邪らしい状態はすっかり消えた。
 
 改めて、自分は健康なんだと実感した次第である。風邪をひいたくせに健康とはこれ如何にと言われそうだが、そもそも鋼鉄で出来ているわけでもあるまいし、人間風邪をひくのはやむを得ない。むしろ、健康な人間が風邪をひけば、咳やくしゃみ、鼻水が出て、熱もでる、下痢もする。これは正常な人間の体の反応であり、全身を挙げて風邪と闘っているのだとも言える。だから、極端に体が弱っていると風邪をひいても熱も出せなければ咳もくしゃみも出来ない。風邪に対して無抵抗状態であり、そのまま肺炎が悪化して死んでしまう。風邪をひいて熱が出る、咳が出るというのはそれなりに体に抵抗力があると言うこと。
 
 次に私が健康を自覚したのは、一週間で治ったと言うこと。以前なら優に一ヶ月や二ヶ月、場合によっては半年ほども完治しなかった。一週間で風邪が治るなら、十分に健康体といえる。もちろん、風邪をひかないのが一番の健康体であることは言うまでもなく、今後はそれを目指したい。
 
 自分が以前よりも健康なのかと自覚したのは、自転車でかなりの急坂も全く息を切らせることなく、立ちこぎもせずに余裕で上れることを知ったときだ。以前は到底そんなことなど出来ず、自転車を押して昇るしかなかったのに、十数年ぶりかで自転車を買ってそうなっていることが驚きだった。ある日、私が鼻歌交じりで陸橋の急坂を上ってく途中で、立ちこぎをしながらよろよろと坂を上っている二人のお巡りさんを追い越したときは、正直言って気分が良かった。私より明らかに二〇才は若い二人のお巡りさんがふうふう言いながら自転車をこいでいるのを見て、あれでは泥棒を捕まえられないだろうと心配になったくらいだ。考えてみれば、駅の階段を二段跳びで駆け上がっても全く息が切れない。
 
 もう一つ。仕事柄小さな怪我を良くする。しかし、血が出ても一時間くらいで止まるし、三日もあれば傷がふさがる。この回復力は気が付いてみるとかなりの物だ。
 
 日頃運動もしていないし、と思いつつ心当たりがあるとすれば、塩分が極端に少ない野菜中心の食事、運動をしないと思いながら結構毎日三〇分〜一時間歩いている事などが理由かも知れない。それと、以前は浴びるほど酒を飲んでいたが、今は周にロング缶ビール二本ほど、あるいはカップ酒を二回飲む程度まで酒量が減り、以前は一日最大60本喫っていたたばこをもう四〇年近く完全禁煙している。
 
 考えてみれば、数ヶ月も風邪をひいていたり、ちょっとした坂道を自転車で上れなかったのは禁煙をしてまもなく、そして大酒を飲んでいた頃だ。
 
 そこで、みなさんにもお勧めしたい。完全禁煙をし、酒は極端に減らすか完全にやめること、肉食をやめ、野菜中心で動物淡泊質は魚。塩分を摂らないこと(私は納豆やお浸し、冷や奴も醤油を使わない)は絶対に健康によい。幸いなことに、私は自分の好みで食生活は元々そうだったしたばこは一度で完全にやめられたし、酒は自然に減ら素事が出来た。これは四〇年続ければ自転車で急坂を鼻歌交じりで駆け上がれるようになる。私の場合は食べる量を減らして体重を減らせば、急坂など飛び越えることが出来るに違いない。
 
by ロクスケ




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胃酸勝った現象


ところで、年末にかけて飲む機会が増えるこのごろ、アルコールには要注意!!
胃液はpH1.5?2.0という鉄をも溶かす強酸です。この強い酸性で、細菌、雑菌を殺すと言われています。また胃液に含まれるペプシンという消化酵素によってタンパク質が分解されます。
また、胃は、自分自身が分解されないように、胃壁から胃粘液というぬるぬるした液を分泌して、直接胃液と胃壁が触れないように、頑張ってくれているんです。

急にアルコールを流し込むと、胃粘液の分泌と胃液の分泌のバランスが崩れ、胃がやられてしまいます。胃液によって、胃壁そのものが消化されてしまうんです。
これを、胃酸過多。または胃酸勝った現象といいます。

胃酸勝ったになると、ストレスで胃酸肩という肩こりになることもあり。遺産相続もママならず、国民総生産が減少するので、一大事。こういう事態に陥ったら、会津磐梯山を世界文化遺産に指定して、皆でお参りにいくとよいと言われています。ユネスコに働きかける署名活動が進んでいます。

(出典:mogurin大百科2007年度版)

by mogurin


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ATMってかしこい!

 今日、美容院へ行く予約をしていた。明日表彰されるので、少々ばさばさの髪を切って、白髪も染めようと思っていたので、お財布の四千円では足りないと思い、途中セブン・イレブンに寄った。
 セブン銀行のATMで2万円下ろした。そして、急いで美容院へ行った。

 先達、私が転倒事故を起こしてしまい、顔があざだらけになっていたのが、まだかすかに残っている。うわさを聞いていた美容室の友達が「まだ、青いわね。」と言いながらカットしてくれた。

 染めが終わるころ、友達が早く帰ると言うので、顔がひどかったころの写真をお披露目。美容室の職員たちが笑いで沸いた。

 さて、友人は帰り、ブローも終わり、髪型も整い、さあお勘定と言う段になって、
「あら???お金がないわ!!!!おろしたお金はどこ行ったの??」
と言うことで、持っている荷物を端から端まで探す。
荷物の量が半端でないので、探すのもたいへん。

 でも、ない。お財布には四千円しかない。ただ、お金をおろしたレシートとカードはあるのだ。
取られたか!?
そういえば、お金を自分でATMから抜いた記憶がない。しまった!!!

 すぐに、そのセブン・イレブンへ行って事情を話すが、店員は「入り口には防犯カメラついていますが、ATMのところにはありません。それに、お金抜き忘れたら、ピコピコ鳴りますし・・・。私たちも、角の
ATMのことは気がつきませんねえ。」とのこと。
「あの、一応警察に届けさせていただきます。」と言って、美容室に払う分を一万五千円だけもういちどATMで下ろした。

 美容院でお金を払い、その目の前の交番へ。若いおまわりさんは「え!」とか「はあ」とか聞いている。そして「自分も始めてのケースなので、聞いてみます。」と交番の別の部屋で先輩に電話。
そうしているうちに、別のおまわりさんたちが帰ってきた。一人目に話していると、次の人がまた帰ってくる。次の人にも話す。

すると、次のおまわりさんが「それって、もしかするとお金取られていないかも。ATMってお金の抜き忘れがあって、ある程度時間が経つと、自動的に元に戻るって聞いたことある。どうやって調べるんだっ
けな。明日、その銀行に聞いてみたらどうかなあ。」と言う。
他の先輩に電話していたおまわりさんたちも交番のほうに戻り、遺失届けを一応用意してくれていたので
「これ、一応書きます?記録のために。でも、窃盗は無理ですからね。あくまで遺失届けということで。現なまですし。」と言うことになった。

 私も、半分2万円なくなったと泣きべそだったので、遺失届けを書き始めた。電話していたおまわりさんが返してくれた、一回目の出金レシートと二回目の出金レシートをなんとなく眺めた。

 すると!!もともと、下ろした額がマイナスだったのでわかりにくかったのだが、一回目より二回目のレシートの残のほうが明らかにマイナス額が少ない。
あら?あら?もしかして、戻ってる?二万円!!
戻っているから、二回目のほうがマイナスが少ない?

 あ!おまわりさんも、経験だねえ。すばらしい!!誰にも取られてない。銀行口座に返っている。感動しました。若いおまわりさんにその人を呼んでもらい「おっしゃるとおり、戻っていました。残高が戻
っていました。気がつかず、お騒がせしました。」とお礼しました。「でしょう!?」とにまっ。「前もこういうことあったんですよ。」と言っていました。

 若いおまわりさん、残高を計算して納得しまして「じゃあ、この書きかけの遺失届けなんですが、シュレッダーでよろしいですか?」ということで、よろしくお願いしました。

 ATMかしこい!ドジな私に比べたら、数段頭が良いと思った私でした。



by musica


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健康であること

 先日も書きましたが今のところ私は目立った病気もせず、改めて健康であることをかみしめていますが、これであたし、10代から20代にかけて大変な病気をし、1年ほど入院した時期があるんです。病抜け、というかそれから大病をしなくなりましたが、病気というのは人生の一大事ですね。

 入院して治るくらいの病気ならまだましなんですが、これで一生を台無しにしたり命を失う病気もありますから、人間は常に病気という恐怖と背中合わせに生きていることになります。私の友人で、5歳の頃からつきあっていた男が、42の時に癌で死んでしまったし、もう一人、高校時代からつきあっていたのが、50半ばで大腸癌になり、今も辛うじて生きています。それまでは本当に病気を全くしない男だったんですが。

 ふと気が付いたんですが、メロドラマなんかでは病気を軽々しく扱いすぎますね。世界の中心出会いを叫ぶなんかはヒロインが白血病で死んでしまうし、その手のメロドラマはたくさんあります。これがヒロインは疣痔の悪化で死んだとか肥満の食い過ぎで死んだとか、ジステンパーで死んだなどではメロドラマにならないんでしょうねぇ。

 誰しも好きこのんで病気にはなりたくないし、また本人の努力ではどうにも防げない病気もたくさんあります。しかし、多くの病気は結構努力と節制で予防出来るようですから、出来る努力はしておいた方が良いのだろうと思います。

 長生きはしたいけれど、寝たきりで生きているのは嫌だし。年をとると、ちょっと転んでも骨が折れて、それがきっかけで寝たきりになることもあります。普段から運動をし、転ばないようにしなければなりません。

 最近、今の自分はかなり健康だなと自覚したのをきっかけに、昔の入院時の事を思い出して、つくづく健康を維持してゆきたいと思った次第です。

by ロクスケ











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ADHDと回路

あくまでも私論ではありますが、1つの事を瞬時に、深く拘束してしまいがちです。
そのせいで、よく人の話を聞いていないだとかいう事にさいなまれます。
同時進行等は得意なのだけれども、その場合、深く自分が考えるモノか考えないモノかによってきます。

深く考える場合には、”気になる”というフラグが立ち、その物事を考えている間は、
他の機能の方が停止してしまいがちです。
ボーッとしていると言われるのも、その同時進行型の深く考えるフラグが立った時だと思われます。

深く考えるフラグが立った場合、普段なら何気なく出来る事も、後回しにしたり、おろそかにしてしまいがちです。
これはある意味というかほぼ自分勝手だと言われても仕方ないモノだと思います(笑)
回路はたくさんあるのだけれど、いかんせん脳へは、たくさんある、出力の中の、手だとか、脳(思考だとか作業)口だとか、色々と分散されていくわけですが、ADHDの場合は、つい、2つ3つの回路を同時に行おうとしてしまう傾向にあり、そのそれぞれへの分散により今までの継続中の事がキャパシティを超えもしないが減りもしないラインにいってしまいがちになるのではないのかなと自分でそう思う増した。

by はいじ









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ネット右翼とADHD (一般からの投稿です)

 ここ数年、「ネット右翼」と呼ばれる若者が急増している。メディアが新保守層の若者を揶揄した、どちらかといえばネガティブなイメージを込めたいい方であるが、自ら好んで自身をネット右翼と呼ぶ者も増え、いちがいに印象の悪い呼び方とは言えなくなってきている。特に伝統的(?)なアウトロー集団が中心の街宣右翼と区別を付けてもらうために、わざわざネット右翼を名乗る者さえいる。
 
 彼らは戦後の定番であった平和憲法の理念をあっさりと否定し、「支那」「朝鮮」を「嘘吐きの特定アジア」と喝破し、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」、「侵略戦争」の話題を持ち出そうものなら、学者顔負けの理論武装で、徹底的に反論してくる。その情報源は玉石混合のインターネットであり、情報の受け売りに留まらず、膨大な情報を自ら精査し、自身の思考、発言を形成している。まさにネット社会が生んだ新しい世代である。
 
 従来のメディアは彼らを時にオタクと呼んだり、ときにニートと呼んだりする。確かにリアルな人間関係が苦手な若者もいるし、ひきこもりかそれに近い者もいる。しかしそれはあくまで「ネット右翼」と呼ばれる若者の一部に過ぎず、その構成は実にさまざまで、とてもひとくくりにできるものではない。また「ネット右翼=若者」という概念自体が危ういくらい、実際の年齢層も幅広い。ただ、日本が、というより世界が、ネットの洗礼を受けたのが最近であるため、まだ若い世代が多い、それだけなのだ。
 
 ネット右翼の主張は、ここでは直接関係ないことなので、本題である「ネット右翼とADHD]について考えてみたい。
 
 ADHDは関心のないことに対しては、飽きっぽく、注意が散漫になる反面、自分の好きなことには、それこそ時間を忘れて熱中してしまう傾向がある。ネット右翼の若者はひとたび関心を持ったことに対しては、完全に納得がいくまで徹底して調べ上げる。その特徴を表すものとして「ググれ」という言葉がある。サーチエンジンの「Google」で調べるという意味で、気になることはまず検索ということだ。たとえば、テレビや新聞で発言したり、ニュースに取り上げられた人物は、ネット右翼達によってこの方法で調べ上げられる。すると一般市民として発言していた人物が、じつはプロ市民の活動家であったことが判明したりする。こうなるとネット上はたちどころに「祭り」と呼ばれる状態になり、メディアが狙った世論の反応とはまったく逆の方向に流れてしまうこともしばしばだ。「自己責任」という言葉が日本列島を駆けめぐった中東での事件を覚えているだろうか。あのときもメディアが期待した政府批判とはまったく逆方向にネット世論は沸騰し、既存メディア、特に電波メディアはバツの悪さを隠しきれなかった。ネットがなかった時代には考えられなかったことだ。同時に、ここぞというネタに夜を徹してでもかぶりつくADHD達の存在なくしても起きなかったのではないかと考える。
 
 ちなみに現在、「ググられる」対象のダントツは、某新聞の投書欄の常連達であるらしい。

 またADHDは完全主義に陥りやすい。それがまた思わぬ副次効果を生んでいる。人一倍プライドが高いために、そしてそのプライドを打ち砕かれて悔しい思いをしたことも多いために、自分の発言を裏付ける「ソース」を徹底して収集する。それによって自分の意見が磨かれ、ソースを求めてネットをさまよううちに、同じ意見を持つネット右翼(当然ADHDの可能性大)同士の連帯が生まれ、ソースを共有し合い、ついにはひとつの世論にまでなってしまうこともある。ともかく間違った情報が許せないので、少しでも疑問を感じたら、完全にそれが解決できるまで相手のいうことを信用しない。日本の近現代史の真実に対する認識の変化と昨今の最近の世論形成のプロセスにADHDが関与している可能性を考えると少しうれしくもなる。もっとも暴走も付き物でとんでもない方向に流れることもあるので、両手を挙げてというわけにはいかないが。

 社会に不適応とまでいかなくても、多かれ少なかれ、自制を意識してきたADHDにとって、リアルな社会と自分との間に存在するネットは大変居心地のいいものであることは間違いないようである。匿名で参加する掲示板は、持論が共感を生めば活発なコミュニケーションが広がるし、失敗したら撤退すればよい。バーチャルな空間で、自分というものを十分に鍛えてからリアルな世界に飛び出すこともできる。ダイレクトにリアルな世界と関わるしかなかった時代と比べて、それだけADHDが世に出やすくなったとも言えるかもしれない。
 
 もちろんすべてがバラ色ではなく、ADHDはネット社会の落とし穴にも陥りやすいだろう。その衝動性がネット上のことであっても取り返しのつかない事態につながることもある。だが、あえて混迷を極める現代社会に風穴を開けた人々の一部であるネット右翼が、ADHDの可能性の側面のひとつであると評価したい。ADHDは人類が危機に陥ったときの保険であるという説があるが、なるほどさもありなんと思う。かのウィンストン・チャーチルや坂本龍馬もADHDであった可能性が高いという。第二次大戦、幕末という激動の時代に活躍の場を与えられ、常人では思いつかないような発想と行動力で見事危機を乗り切った。国士気取りの若者に迎合するわけではないが、その飽くなき好奇心と真実への執着に今後も期待したい。

by 米田隆司














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非ADHDの方々への叫び

 私達は、誰しもが完全ではありません。もちろん、全ての人々に言えます。更に、私達は否定され続けるという傷をもってます。悪い事をしたのなら、納得が出来るのです。だけど、その悪い事ですら、やはり自分に照らし合わせて考えてしまうのでしょう。

 例えば、何か相手を傷つけるような事をしたとします。だけど、それで相手を傷つけようと思ったワケではないのにどうしても、相手は傷つきます。そういう場合は話し合いになるわけですが、それもやはり”普通は。”という言葉に集約されてしまって、多数決の場では、私のわずかな意見なんて、ずっと否定されっぱなしな訳です。

 私達は、ひらき直りたくてひらき直ってるワケでもありません。そういう何事も否定され続けた人々は、どういう風に世の中が見えるでしょうか?一度考えてみてあげて欲しいのです。少しの諦めと、それでも尚、私は希望を持って生きています。どうかこの声が届いてます様にと。

*ADHDの私の心のルール達です。いや、叫びかしら?*
・私達はおかしい人間として生まれたかった訳じゃない。・人に否定されても笑っていられる強さを持てた事に感謝しつつ、そこには深いしがらみも在るのです。
・私達は私達なりに出来る事は精一杯やるのです。
 それじゃ足りないと言われない為に、自分の心が負けてしまわない様に。
・自分を自分で褒めてしまうしかない!(笑)
 コレはもう、いい意味になってしまうかもですねぇ〜。笑。
・人をうらやんだりも、たまにはするけれど、
 常に自分が駄目だとは、決して思わない事。

 +あるふぁ!
ADHDはADHDの人で集まったりする事も、いい事だとは思うのです。反対な訳ではないけれど、私はなるべく、普通の人の中で暮らしていたいと思うのです。
それこそ、日々発見なのですから。笑。


by はいじ





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フランスパン消失事件

 昨夜、フランスパンを食べた。およそ四分の一残して寝たと記憶している。朝起きて、それを食べようとしたら、ない!?どこにもない!!

 ベッドの上に置かれているテーブルの上のパソコンをいじりながら、むしゃむしゃと食べていた。パンくずがこぼれおちないように袋の中に顔を突っ込んで用心深く食べた。そして、パソコンでは、久々にチャットをやったり、無料のヤフー動画でゲド戦記の英語版(元の映画)を観ていた。それから、眠剤を飲んで寝た。

 私の周りにはいつもブラックホールが存在する。掛け布団を全部どけて、毛布も取り、隅々まで探したが、見つからない。フ、フランスパン、食べたい、おなかすいた・・・・。仕方がない。また寝る。

 昼の2時になって仕方ない、やはり見つからないので、ご飯を温め、ロコ貝と梅干とのりの佃煮で昼食兼朝食を摂った。その後、リビングでまたパソコンをいじくり回し、しばし時間を費やす。部屋に戻り、また、フランスパンを捜索する。あ!袋発見。中身がない?も、もしや、昨日全部たべてしまったのか?

 むう。前にも同じフランスパンを食べているので、そのときの袋かも。さらに捜索する。するとー。あれ?このぺしゃんこな茶色いのは何?敷き毛布と足枕の間からにゅうと出てきた。こ、これって!!2センチくらいの厚みにつぶれたフランスパンが発見された。午後6時半。

 ブラックホールから返ってきた。しかし、おいしい白い部分が消えてしまった・・・。ショック。食してみるか・・・。ぺしゃんこだが、味は大丈夫。さすが神戸屋のフランスパン。

 むう。バターが欲しいところだが、手に入らない。生乳不足でバターが店頭から消えているとニュースで見た。バターもブラックホール入りか。全く、感慨深い。 


by musica













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ADHDを取り巻く環境を考える★@

最近では、ADHDという言葉が、少しはメジャーになってきたのか、よく、「私の友達にも、ADHD(ADD)みたいな子いるよ。」っていう話を聞きます。これを素直に私は、喜んでいいものかどうか、自分でも、少しまだ測りかねています。

 特に、子供の場合、ADHDと判断される事はとても簡単であるが故、親は、「自分の子がきちんとしていないのは、自分のせいではない。」という、言い訳に使われてしまいそうな気がして、少し悲しくなるのですが・・・。まだ日本では、問題が多々あると思います。

 ・ハッキリとADHD、ADD等を診察する医療機関が少ないという事。・親がきちんとした目で子供を見れるようにする事、全てをADHDへつなげない事。・日本の親は、過保護すぎるか、放置しすぎるという、難点。

 など、例を挙げるとキリが無いので、この位にしてとにかく、ADHDと周りの対応というモノを、考えさせられる日々です。むやみに、”私の子供はADHDだ”などと騒ぎ立てる事は決してしない方がいいと思います。(日本に限り)それが、ステータスやレッテルになるようでは、何もかもが、台無しになってしまうと思うのです。

 もし、これを読んでくれていて、自分か、周りの子のADHDを疑う前に、まずは、

 @に騒ぎ立てない事。Aに自分や子供の気持ちを大切にする事。Bに必ず、大きな医療機関などで正しい判断を受ける事。

 などを、お勧めしたいと思います。(私も大きな医療機関で受診したコトはないのですが。自分は自分と考えれるようになった為。)

 本当に色んな事があります。LDや、アスペルガー障害や、自閉症やら。私は、LDも少し入ってる気がしていますが、根本的に人の性格ではなく、性質においてどうしても出来ないコトがある。という事が大切なのだと思います。周りの人や子供の性格と、性質の差というものをうまく見てあげられると、本当に嬉しいです。

by はいじ




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ADHDを取り巻く環境を考えるA
 
 さて、前回は色々な例(他人なり自分なり)をあげてみましたが、今回は、自分における、ADHD(?)による周囲の例を挙げてみたいと思います。

 基本的に、私は人に期待していません。(理解されるという点では)

 だけど、人が理解しようと努力してくれるならば、私も歩み寄りたいと思って、日々戦っています。かなり根本的な部分から、私の場合、人と違ってる様子で、普通の人(普通という定義も怪しいモノですが)なら、私は大体において、”いい加減な人物だ。””楽にして過ごしてるヤツだ。””やる気のないヤツだ。”

 という風に見られてしまいます。(もう慣れてはいますが。)ADHDというやっかいなモノには、私にもわからない程、出来ない事が多いのです。

 けれども、その補助をしてくれている、理解しようとしてくれている、私の周りの人々には、多大なる感謝と、敬意を払わずにはいられません。

 大体において、ADHD、ADDの人達は、理解されるという事は難しいと考えていた方がいいと思います。(私を含め。)けれども、少しずつ、いえ、時にはドカーンと。理解してくれる人に会えるかもしれません。その為には、私達も(ADHD、ADDの人)”普通”というモノを、ちゃんと理解していなければならないと思うのです。

 ※あくまでも、私の意見でしか無いのですが。

 その方が、少し、人生が楽しくなってきますしね。
 
by はいじ


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娘のパン作り講習会・誕生会

 娘(小5)の誕生日が5月22日だった。それで誕生会を一昨日の日曜日に近所の友だちを呼んで開いた。

 午前中はパン作りー娘の企画。それで、前日の土曜日に小6のMちゃんと娘に予行演習をさせた。2人ともへらへらしていて大丈夫かいなと、思ったが、・・・。

 当日には2人ともキリリーというか、夫に言わせると目が釣りあがっている。ダイニングキッチンの隣の部屋で聞き耳をたてていたら、6年のMちゃんと5年の娘が、年長(1人)、1年(1人)、2年(1人)、3年(3人)を整列させている。どうやら、うちの台所兼居間は、狭すぎて「前へならえ」ができないらしく、省略。挨拶から始まった。
 
 Mちゃんが
「今日はパン作りをします。」と宣言。司会を始める。続いて娘、「楽しく作りましょう。」とか、「(民主主義に)年齢は関係ないが、誰かがし切らなくてはならないので、上級生の私たちが仕切ります。」などと言い訳をしている。

 次にMちゃんが1人1人にパン作りへの意気込みを言わせている。子どもたちは、「いっしょうけんめいやります。」などと言っている。

 初めて聞いて、びっくり。これじゃボーイスカウト(ガールスカウト??)か、軍隊じゃん。いつも、娘の通っている市立小学校は軍隊のようで、気に食わなかったのに。あの市立小学校のせいか、それとも夫が言うようにチビッ子たちをまとめていくにはこうするしかないのか。

 Mちゃんと娘の活躍で午前中に3次醗酵まで終えた。後は、焼くだけ。

 午後は誕生会。1時半からと言ってあるのに、子どもたちはパンの焼きあがりが、待ち通しくて、それより前からやって来てしまう。

 午後の誕生会は忙しくて、覗けなかったが、多分Mちゃんと娘の挨拶で始まったに違いない。その後、シャンパン(サイダーです)で乾杯。ケーキを切ってくれと、呼ばれる。閉め切った部屋の中に興奮したチビッ子たちがいっぱいいるので、よけいに蒸し暑い。

 ケーキの上に砂糖菓子の飾りやチョコレートがのっている。小さい子から順に飾りを配る。もちろん、娘たちが決めたこと。家では傍若無人な娘もここではおねえさん面を決めこんでいる。

 その後、ビンゴゲーム。むすめが作った紙に書いた番号をクジのように引いて、読み上げる。ビンゴの景品はMちゃんと娘が調達(家にある新品の不要品やら百均で購入したりする)。これはクリスマス会の時と同じ。しばらくすると、もうじっとしていられないらしく、
「宝探し、していい?」ときかれた。なんのことか判らず、承諾する。どうやら誰かが隠した宝(プレゼント)を見つけると、その子がそれをもらえるというもの。子どもたちがワイワイいいながら家中を探し回るので、やかましいことこの上ない。定期テスト前の息子がムッとしているので、1回で打ち切りにしてもらった。その後、外で「宝探し」を続行していた。

 その日、夫が外で子どもたちのお母さんに会ったら、お世話になってますと、丁寧に挨拶されたそうだ。


by キャサリン





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ADHDを取り巻く環境を考えるB

 今日はADHDにおける集団においての、行動について考えようと思います。

 まず、普通の人は一般社会においては、平常心で、人々が集まる所に行けると思います。(対人恐怖症などのうつ病患者を除く)

 ADHDもある意味、平常心で集合体に入る事はできるのですが、人との感性の違いのあまり、すぐ疎外感を感じてしまうのではないのでしょうか?少なくとも私はそうです。

 人が人である為には、自分が認められて、そこで初めて少し勇気や、やる気が出てくるモノです。だけど、最初から人とは違うという理由で、疎外感を感じてしまい、尻込みしてしまう気持ちも理解してもらえないでしょうか?

 話はそれてしまったけれども、ADHDの人々が、平常心で集合体に属する事は出来るけれども、集合体へ順応する事は、他の人々に比べて極めてムツカシイという事になると思います。

 団体行動や、世間体等が取り巻く日本社会では、ADHDの人々は、そういったモノを持ってしまったが故の、ハンディは大きいと思います。

 個人で出来る事や、集合体でも無理の無い事を、見つけれればいいなぁと思っています。

 by はいじ














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ADHDを取り巻く環境を考えるC

 今回もADHDの人達のことを、あたしなりに考えていきたいと思います。ADHDの大人の方々は基本的に子供っぽいと言われないでしょうか?子供の気持ちも、大人の気持ちも理解したうえで、子供っぽいという、性質を私は持っています。

 ・その時、その時の瞬間を生きている。・本能的に見える(野生的?)。・突拍子がない。・アイディア力がある。・色んな角度から物事が見える。

 以上は、私的な大人のADHDの特徴ですが、(一部分ですが)こういうのに当てはまる人も多いのではないでしょうか?しかし、子供っぽさを持つという事は、やる事への責任力や、社会性に少し欠けてくるのだと思います。

 自分の観念で人は皆、生きていますが、多数決の中では、子供っぽさを持ってしまった大人のADHDの人々は、生きにくいのではないでしょうか?

 けども、本人がどうあがいても変わるモノではなく、苦しんでいる人はたくさん居るのだと思うのです。

 私は自分の事を「子供だ」といい切っているので、(開き直りすぎとも言う)何とかやっていけてます。大人のADHDで苦しい想いをしている人、なんとか、アイディア力でいい方向に考えて、乗り切って下さい。

 by はいじ
 
 
 
 





















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ADHDと気が付いたときの対策 1

 さて、私もADHDだと気が付いた時には、少し浮かばれた気がして、自分なりに、少し安心しました。だけど、時が経って行くと、やはり、“自分は『欠陥品』だったのではないか?”という事に、悩まされてきて、正直かなりのショックでした。

 何せ、うつ病と違って(と、いうのもうつ病の方々には失礼かもしれませんが。)治ることが無いのですし。先天性という事は、つまり性格という事である。と。私は思ってます。人と違う自分、人とは違うことが出来て、当たり前のことが出来ない自分。

 それが、凄く悲しかった時期がずっと長い間つきまとっていました。そういう日々から、脱出する事ってのは容易な事ではありません。一生、私はこのしがらみと付き合う事もあるだろうなぁ。と思ってるくらいです。(笑)

 でも、苦労も、考えてみれば素敵な経験です。色んな傷つき方をしても、『ADHDだから仕方ない。』と考えてもいいですから、屈しない自分を持っていて欲しいと思います。

 色んな方々が悩まされている今日この頃。ADHDであろうが、なかろうが。自分は、自分ですから。それと向き合う努力を、それから逃げない努力を、してみると案外楽になるかもしれないなって思います。

by はいじ

ADHDと気がついた時の心の変化は大体誰もが同じだと、サリ・ソルデンさんの本にもありますね。最初は怒りから始まり、あきらめに移行するようです。そこから立ち直るか、負のスパイラルに陥るかですね。

これについてはmogurinさんがちょっと関連したメルマガをかいてくれましたが、発達障害を抱えた天才はいるけれど、発達障害を抱えているから天才なのではなく、天才は障害があろうとなかろうと天才だと言うことですね。

まあ、私もADHDと才能について書いたことがありますが、ADHDだから何も出来ないのではなく、ADHDでも才能を活かせるからあきらめるなと言う意味です。それは喩え障害を抱えていても本人の責任ですから。

from ロクスケ
























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ADHDと気が付いたときの対策 2

 ADHDと気が付いた人が、今まさに、この文章を見る事があるかもしれません。気が付いた後、苦しんでいる人々が、この文章を読んでくれる事があるかもしれません。それが、続く限り、私も戦いは、終わらせないって信じたいと思ってます。

 私も人間ですから、時に弱くなります。

 『出来ない自分』である事が時に、この世の邪魔であるかのように感じてしまう事も多々です。

しかし、きっといい事があるって思うのです。耐え抜く事だって、ひとつの人生です。(って言い切るなー!と自分につっこんでみました。苦笑。)でも、救いの手はどこかにある筈です。自分の中かもしれないですし、他人の中かもしれません。

 諦めないで、続ける事。これが、ADHDには難しい事ではあると思いますが、ADHDが好きな分野であれば。(例えば私が文章が好きなように。)何とか、続けていく事は出来るのではないかと。

 それを見つける事は、凄く大変で、難しい事ですが、ADHDの方々、諦めないで下さい。自分を、駄目だと思ったりしないで下さい。誰しもが、駄目な人で、素晴らしい人なのだと、私は信じています。

 私も頑張りますので、ADHDの家族を持った人々や、ADHDだと気が付いた人々。どうか、信じてみて下さい。皆様のADHDの素晴らしい点を、何かに役立てますように。と、私は心のそこから願っています。


by はいじ
























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またまた、猫がやってきた

 先週の金曜日に例のごとく、近所の子どもたちと娘が子猫を抱いてやって来た。子猫はほんのハエズ2〜3か月にしか見えず、よたよた歩く。「ねえ、飼っていい?」とむすめ、この小ささだと母猫がいるはず。きくと、この辺に住むのらの三毛猫の子どもとのこと。
 
 「もう1匹いたけど、ニャーニャーいってたら、母猫がやってきて、連れてった。」というので、「その子もニャーニャー、やってれば、母猫がむかえにくるんじゃない。」というと、子どもたちは口々に母猫は1匹(やはり、うるさく鳴くほう)だけを連れていってしまって、もどって来ない。しかも、このチビすけが子どもたちの方へやってきたと言う。たしかにこの猫の声はか細い。

 私は考えたのら猫をこれ以上増やしてはいけない。それにあののらの子どもを産みまくる三毛は子どもを食糧不足のためか、育て切れない。ゴミをあさるが、何も無いと、大根葉を食べたりすると近所のおじいさんが言っていた。それで、私はOKを出した。

 だが、母親のみ捨てた生命力に欠けるこのチビ介を育てられるか、少々不安だった。ところが、このチビ介―キキ(♂)と命名―先住者のショコラ(♀避妊手術済み、推定1歳)と互角に威嚇し合う。しかも、食べる。猫用のミルクを用意しなければと思っていたが、缶詰どころかカリカリ(ドライフード)も食べる。

 哺乳類の赤ちゃんはもしもの時には他の動物にも可愛がられるよう頭でっかちのかわいい形をしていると、聞いたことがあるが、ショコラはやはり、よそ者に警戒していて、3日間は人間にもあまえなくなった。しかも、キキに真剣に攻撃するので、娘と私で、トイレや食料を運んで、子猫と部屋を閉め切って寝なければならなかった。
 
 また、笑ってしまうのだが、ショコラのえさをおく場所とは離して、キキのえさと水を用意した。すると、以来ショコラは必ず、キキの場所でえさを食べる。しかも、全部食べてしまう。いつもは流しで水を飲むのにキキに用意した水を飲む。

 4日目からは仲良くなったので、楽になった。それまでは、午後の仕事(学習塾)の時は仕事の部屋へキキを連れて行って監視しなければならなかったし、夜は添い寝しなければならなかったし、・・・。まっ、鳴いていても私はしらんぷりだが、娘(小5)は「どうちたの?よしよし。」とか言ってあやしている。

 今日も平和だ。ところが、ショコラのキキのえさを平らげる理解しがたい行為は続いている。
 
by キャサリン
















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また、また、また猫がやって来た

 クー(クロのしま)とフー(茶色のしま)と2匹合わせて、クンフー。

 先日やって来たキキはとてもなついている。触っただけでゴロゴロいうし、抱っこすると脱力してしまうし、腹を上にして仰向けに眠ってしまう。人間を信頼しきっているのだ。

 毎週、配送のたびにキキを可愛がっていた生協(食品・雑貨を配送してくれる)のお兄さんが、ある日「たいへんだ。家の縁の下に住む外猫が赤ちゃんを生んだ。」、貰ってくれと頼まれ、2匹引きうけることに。

 来てから1週間とちょっと経つ、やっと2人(2匹?家では猫も1人、2人と数えている)も慣れてきたが、最初にやって来たショコラは未だになれてくれない、(ショコラは)メスだからかわいがってくれるかなと、期待していたのだが、・・・。キキはフーとか、シューとかまったく威嚇することなく、いきなり、子猫たちと遊びたがった。が、子猫たちは2〜3日間は、隙間に隠れたままだった。夜もあまりカリカリを食べたり、水を飲んだりしない様子だった。

 心配したが、今ではキキ兄さんと仲良く昼寝したり、じゃれあって遊んでいる。ところが、ショコラは子猫たちだけでなく、キキにもシューッとするし、子猫たちの頭を前足で叩いたりする。幸か不幸か、ショコラは去勢手術とストレスで♀猫と思えないほどの体格になり、子猫たちやキキのいる隙間や引き出しに入れないので、チビちゃんたちは難を逃れている。

 ショコラは、キキがやって来た時、同様に子猫用カリカリを食い尽くそうとやってくる。ショコラように用意した成猫用カリカリには目もくれず、子猫用(ミルク入り)カリカリにまっすぐ、やってきては食い尽くそうとするので、ショコラが来ると子猫用のカリカリはテーブルの上などに避難させている。 ショコラにこれ以上肥って欲しくない。ショコラは肥りすぎて、流し台へ一気に飛び上がるのが困難になりつつある。先日などは失敗して、落ちた。それ以外はショコラは大変行儀がよく、誰もいなくてもテーブルにのったりしないのだ。家中の柱で爪とぎをするのが難点だが・・・。
 
 
by キャサリン






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年を取ると能力が衰えるのか?

 以前ロクスケさんが30代と60代の自分を比べてその30年間で体力が格段に上がっている。という話を書いておられました。
 
 ボクも同様なことを感じます。ボクは現在50歳ジャストなんですが30年前を振り返ってみると、「なんちゅうあほな男だったのか!」と唖然としますね。体力に関して言うと20代はやはり体力がありました。徹夜しても平気でした。35くらいから、体力は低下し始め、同時に体重も増え始めました。いわゆる中年太りです。それと肩こり、腰痛、疲労感が酷くて、毎週マッサージに通っていました。
 
 そこの先生曰く「あなた、このままだと50過ぎたら歩けなくなるよ。ものすごく筋肉が硬い!」そう言われました。ちょっとさするくらいの力で脚(ふくらはぎ)を押されると激痛が走ったんです!!40代前半で、最悪。半病人。ゲーム三昧も拍車を掛ける。昼間はずっと寝たきり。よく仕事ができたもんだと、不思議に思います。40前半で、病院に通うようになりそれから5年間で、劇的に代わりました。
 
 体重が20kg減少。現在53kg.定期的な運動をしていた時期があります。半年ほど毎日10000歩歩いていました。万歩計を付けて、公園を散歩していたんです。その時は、本当に快調でした。最近、仕事が忙しくて運動しておりませんが、体重は増えていません。体重が適正だと、そんなに疲れないんです。不必要な、脂肪を体に蓄えていたら、いつも重りを背負っているようなもの。疲れるに決まっています。それに、悪玉コレステロールは、成人病の引き金になることは皆さん御存知だと思います。「金は貯めても、脂肪は溜めるな!」

 あと、記憶力も、知識の量も、頭の回転も20代と50歳の今を比較してこえれはどう考えても今のほうが上です。機械的な記憶力も、何故だか向上して居るんです。今まで全然接したことのない言語。たとえばフランス語やスペイン語ロシア語なんかも勉強できそうな気がします。発達障害が関係しているのかも知れません。健常者と脳の発達のピークがずれているのかもと思っています。健常者は平均的に25歳で脳の発育がピークを迎えるといわれておりますね。発達障害者はいろんな能力がもっとゆっくり成長するのでないか??「老犬に芸を仕込むことは出来ない」という諺を見直した方が良いと思います。

 子供のころ世界文学全集、日本文学全集というジュブナイル版の文学全集と百科事典が家にありました。今の子供たちのように娯楽が少なかったから、そういった挿絵入りの活字本を繰り返し読むのが楽しみで、12歳くらいまでは本の虫でした。漢字に全部ルビがふってありましたからどんな難文もすらすら読めました。百科事典のそうはそうはいきませんでした。でも、別冊で。世界の美術、日本の美術というのがあり、これに、原色版の写真図版が山のように掲載されていました。毎日その絵を眺めるのが好きになって。画家の名前や、代表作品はその二冊でほとんど覚えました。あと、ボクの家の特徴なんですが、言葉遣いを間違うとすぐに指摘されるんです。母親が、電電公社の電話交換手をしていたこともあり、言葉のおかしな使い方には厳しくて、変なこと言ったら、「それは間違っている」とすぐに辞書が出てきます。コレは姉もそうで、今はパズル作家をしています。クロスワードパズルなんかを作っています。

 ボクが使える日本語の語彙に関しては、そういった読書と調べる癖のおかげで、普通の人よりも多いと思います。他の人のブログなどを読んでいても、「つまんないな〜〜」と思うのはいつも同じ事ばかり書いているブログで、言葉遣いが単調で、決まり切っている。そういったブログはとばし読みしてしまいます。

by mogurin









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パソコンを組み立てる

 私がパソコンを始めたのはおそらく30年位前で、当時はもちろん出来合のパソコンなどとうてい手の届かない値段だったから、自分で作った。当時の専門雑誌にはCPUや抵抗、コンデンサーなどを自分で組み立ててつくるコンピューターの記事がたくさん載っていて、私もそれをやったわけだ。そのころ自分で作ったコンピューターのいくつかの残骸が記念にとってある。そのころのパソコンに出来たことはほとんど無い。簡単な計算やカタカナの文字表示が出来ただけであり、それも、ソフトウェアを自分でくむ必要があった。それでも、今までの機会とは全く違う概念の者であることは確認できた。
 
 その後、メーカー製のパソコンが手の届く値段になり買ったのが20年ほど前だったろうか。今では、当時でも想像がつかないほどパソコンの値段は下がり、性能は想像の域を超えて上がっている。
 
 ノートパソコンは何台か買ったが、結局壊れたり性能不足だったりして今では、最後に買った一台以外持っていない。もう5年も経つ機械なのでかなり古いが、滅多に使わないので、調子は悪くない。これは長期出張等の時にしか使わないし、バッテリーがもう駄目になっているので、屋外で使うこともない。
 
 さて、今はデスクトップをメインに使っているが、もう何年も自分で作っている。私の場合動画や描画、MIDIなどをやらないので、目的は図面描き、文章作り、計算ソフト、そしてインターネットが主なので、最新型のスピードや画像処理能力はいらないし、CDを作る機能もいらない。ただ、バックアップを厳重にとれる構成にしている。
 
 そのような目的に添った自分だけのパソコンを、作るわけだが、自作パソコンでよいのは、壊れた場合でもたいてい自分で直せるのと、部品の使い回しが出来るので、新しいパソコンでも古い部品を使うことが出来る点だろう。安い予算でそれなりに一番能力の高いパソコンが作れるのも魅力だ。
 
 とはいえ、たいした知識も技術もいらない。いま素人向けの雑誌記事もたくさんあるし、ネットで調べればわかる。だから、もし自作したことがないなら、パソコンを作るなど難しいと思わず、一度挑戦してみてはどうだろうか。
 
 本当にドライバーが一本あれば、なれない人でも数時間、なれれば30分で組み立てが出来るし、その後OSをインストールし、アプリケーションを入れてゆけば自分なりに使い勝手の良いパソコンが出来る。できあがってからも自分なりに使い良くしてゆけるのも楽しい。
 
 決して難しくはない。新しく買うよりも絶対に安い。是非おすすめする。
 
by ロクスケ








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コガネムシ


mogurinさんが、コガネ虫を捕まえ、部屋の中でとばして遊んだと聞き、私も子供の頃を思い出した。

 コガネムシは甲虫類の代表格でたくさんいる、一大勢力である。よく見るのはセンチコガネ類で、全長2センチくらいの大型種で、とくにミドリセンチコガネなんかは非常にきれいな虫だ。やはり2センチくらいあり、全身が緑色のメタルカラーに輝き、例の、タマムシに勝るとも劣らない。どこで見たか覚えていないが、生きているのを見たことがあり、非常にきれいだと感心した覚えがある。おそらく、出張で紀伊半島に行ったときではないかと思うが、はっきりしない。なぜなら、この種は残念ながら日本でも和歌山、三重あたりにしか居ないとのこと。ほかにも青とか紺などのものもいるとのことだが、こちらは見たことがないと思う。
 
 わたしの郷里、北海道にはマメコガネがたくさん居て、子供の頃は空き缶いっぱいに捕まえてきては猫達におみやげとしてやっていた。一度うち中に2百匹くらいのマメコガネが広がり、婆さんとお袋が大騒ぎをし、喜んだのはわたしと猫たちだったが、あとでこっぴどく叱られた。

 マメコガネは1センチくらいの小さく地味なコガネムシで、同年輩の子供達の中には、マメコガネを針金でつないで、動く首飾りを作っている奴も居た。3,40匹のマメコガネがつながっている首飾りは、おそらくよそではあまり見られないものだったろう。ちなみに、このマメコガネはアメリカで天敵が居ないために大発生し、とんでもない害虫となってしまった種類だ。戦争中などは、ジャパニーズビートルとして、日本の象徴とされたことがある。アメリカザリガニみたいなものだ。

あと、北海道にはカブトムシが居なかったのだが、角の生えたダイコクコガネをわたしはカブトムシだと信じて、捕まえ大得意になっていた。捕まえたダイコクコガネは、むしろ小型で、おそらく1.5センチくらいだったと思うので、今調べてみるとミヤマダイコクコガネ等だったのではないだろうか。通常のダイコクコガネは3センチくらいある。実際にカブトムシに非常に近い仲間とのこと。

コガネムシはよく捕まえたが、金持ちとは縁がない。コガネムシは金持ちだと言うがあれは嘘らしい。

by ロクスケ













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英語の読み書きができない元高校教師

 十数年前、実家のそばに1年ほど住んいた頃のことです。まだ、お腹に息子がいて、結婚する前です。(妊娠6ヶ月で結婚したので・・・。)

 田舎なので文化的活動も少なかったので、国際交流会(?)に入会しました。そこに県立高校(受験校)の英語教師がいました。彼は私が来るまでは英語で挨拶などしていたようでしたが、私が来てからはあまり英語で話さなくなったとのことでした。

 ある日、その元教師が私の家に暗くなってからコソコソやってきて、翻訳を依頼するので、3000円で引きうけました。彼はその私が翻訳した文を臆面もなく、自分の名前で、町の公報に掲載しました。私は友人を介して、彼に抗議しました。なんらの返事がなく、悔しい思いで、毎日を送っていると、友人からその男が、糖尿病が悪化して入院したことを知りました。

 私は、チャンスとばかりに仲介を頼んだ友人といっしょにお見舞い(お礼参り)に行きました。本人は文句を言ったかどうか、忘れました。

 その後、まもなくその男は何かの病気を併発してなくなりました。それで、胸のつかえがスッとしました。罰があたったのだと。
 
 ――――――――――――――――――――  
 
 私としてはもっと公に抗議しても良かったのですが、友人になだめられたせいか、なぜか穏便に済ませてしまった。東京なら大騒ぎしていたと思う。 こういうことがあったので、ロクスケさんの悔しい気持ちわかります。大々的に抗議するべきです。

 by キャサリン
 
 
 







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ADHDなりの対処法@

 まず、私の欠点というものを、挙げてみたいと思います。

 
・モノに当たりやすいです。
・どうしても、やらなければならない事を、後回しにしがちです。
・上手く、人に言葉で伝えることが難しくて、つい、かんしゃくを起こしがちです。
・自分のできる部分と、他人の出来ない部分について理解するのが、難しいです。
・時間やスケジュールや予定といったモノを立てることが大変、困難です。(他人の人より)
・気分に凄くムラがあります。(これは性格?かも?)

 こういった部分を抱えている私ですが、最近は、いい部分を生かして、自分にとってマイナスになる部分を引いていってます。

 要するに、たし算と、ひき算でできているようなモノです。自分が出来てないなぁと思うと、とことん納得が行きません。だからこそ、自分に対しても、他の事に対しても凄く、苦しい状態が続きます。

 なので、なるべく、イヤな事でも、早く終わらせて、楽しめる自分を満喫出来るようになりたいと思っています。

 自分の目標を設定すると、苦しくもなりますが、やり遂げた時の達成感は、(私がADHDだからなのか(?))この上もないモノがあります。

 他の人には、当たり前の事でも、沢山難しい事を、抱えているけれど、ご褒美制をつけるなり何なりして、少しずつ、皆さんが前へ進んでいってくれたらいいなぁと思います。

by はいじ












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ADHDなりの対処法A

 この前、1年ぶりに病院へいきました。

 どうしても、何というか、抗いがたい何かがあって、病院へ行く行為がダメな為、長い間、中々重い腰が上がらなかったですが、(精神的にはうまくいっても、中々約束を守れない為)

 やっと、気力とやる気と約束の日と病院の日があい、久しぶりにカウンセリングの方も始めることになりました。(主治医とは別です)

 ADHDである私にとって、病院とは、”薬を処方してくれる場所”であり、通院とは、”何か行動に問題が生じてきた時に行く場所”だと考えています。

 薬で、ある程度の日常生活も、サポートされていて、なおかつ、主治医との関係がうまくあるから、行える話なので、あくまで、私の病院談であるので、皆様にとって良い例えに、にならないかもしれませんが、何かの役に立てたらと思います。

 本来なら、薬は私が取りに行かなければならなかったのですが、通院が難しかった為と、自分の状況が薬と上手くバランスも取れていた為、母に頼んでおりました。何とか自分でやれるとい状況になり、薬と、自分との感情面などの、折り合いになって来ていた頃でした。

 『自分の問題は、自分で考える。』というのがモットーだったので、どうしても、超えられない苦しい壁がない限り、自分が、自分を責めすぎない限りは、やっていこうと思っていたのですが、どうも、最近は、調子が、今イチで、やはり自分で病院へ行って、先生と話してみようと思ったのです。

 勿論、薬の事もそうですが、色々と自分なりに自分と向き合うしかないと思って、やっと動けました。動くことは大事ですね。

 しかし、一年というのは長い時間です。主治医とはもう8年の付き合いになるのですが、凄く久しぶりのように思えました。スタッフの人々も相変わらずで、何だか楽しかったです。

 次回は心理テストについて書こうと思います。
 
 
by はいじ




















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ADHDと対処法についてB
 
 心理テストをやってみました。”ロールシャッハ”という皆さんも、ご存知でしょうあのテストです。はじめてだったので、「何か、当たり前っぽくてイヤだなー。」とか「こんなので、理解出来たら、それは凄いって・・・」等々想っておりました。本当に申し訳ありませんでした。テストをはじめる前に、まず”臨床心理士”さんと会うのですが、私は、ココが重要だと思っています。その人の与えるオーラだとか、人それぞれありますし、臨床心理士さんにも合う合わないがあると思うのです。

 私は、一回イヤな臨床心理士さん(私の思い入れだけの判断です)と会っていたから、何となく「「カウンセリング」というモノはあやしい・・・」と思っていました。けども、今の人は凄く私にとってはベストではないかと思える程の人で、いつも(といってもまだ2度なのですが)楽しく話をさせてもらっています。私の”ロールシャッハテスト”の結果は(全てではないのですが)社会性もあるし、抑うつが無い。だけど、神経過敏である、が妄想が無い。少年的であり、気質的な部分もあり。というような、その臨床心理士さんも今まで見た事の無いような珍しいような結果だったらしいです。

 私も、言われるがままに、全てをそういう自分であるとは想っていません。が、少しでも、自分を探すキーポイントとしてカウンセリングで心理テストというのはいいなぁと思いました。
 
by はいじ










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酒嫌い?

 以前から書いてますが、最近極端に酒量が減り、これは年のせいで体が受け付けなくなったのかと思ってましたが、そうでもないような気がします。たまに飲めば結構うまいと思うけれど、後を引かないんですな。精々ワンカップ一本飲めば十分だし、それに以前なら2,3口で飲んでしまうのに、今ならちびちび1時間くらいかけているし、気が付いたら飲み残したりしているんです。

 で、飲むとしても週に一回あるかないか。これで人と一緒だと結構飲むんですがね。

 結果としては体が要求しなくなったと言うことなんでしょうね。でも、かつては一度にウィスキーを一本空けたり、日本酒を一升飲んだりしては、たまにひどい二日酔いなどで苦しんでいたんですから、あれが体の要求に従っていたとも到底思えない。

 まあ、私の周りでも同年輩だと昔から知っている人間達は大体飲まなくなっているみたいですね。でも私は極端なようです。実際は全く飲まなくても別に気にならないんです。かつては、本気でアルコール依存症なのではないかと心配したこともあるんですが。

 考えてみると、かつて私はとんでもないヘビースモーカーでした。ハイライトを一日三箱、その前がフィルターなし、特別辛口の缶入り(50本入り)ピースを毎日一缶ずつ喫ってました。到底食物の味なんか分からない状態でしたが、27歳のある日、止めようと決心して、その日以来一本も喫っていません。禁煙に苦労している人が多いというのに、私どうしたんだろうと思ったくらい。当時は別に何とも思わなかったんですが。

 たとえば昔は結構肉を食べたり脂っこい物も食べていたのが、今は殆ど食べなくなりました。大体が食べる量自体激減してますしね。でも明らかに自覚できる体力は三十代の頃よりも今六十代ですが格段に向上しています。血圧も血糖値もコレステロールも問題なし。計算上体重はかなり多いんですが、カロリーが激減しているのに体重が減らないのは、運動不足と相まって体がこれ以上減らすなと言っているような気さえします。

 年を取ると確かにおおかたの人が肉を食べなくなるし酒も飲まなくなるし脂っこい物も食べなくなるけれど、聞けば飲めなくなった食べられなくなった、あるいは医者に止められたと言うのが大半です。私もかつてあまり飲むなとは言われましたがね、それは、当時は脂肪肝だったんだからしょうがない。今は飲みたくないのではなく食べようという気にならないんですが、やはり人間の体の変化に伴う嗜好の変化なんでしょうか。

 食べたい飲みたいのに食べられない飲めないのはつらいんでしょうけれどね、食べたいとも飲みたいとも思わないのなら、別につらくも何ともないですね。

 まあ、「七十にして心の欲する所に従って、矩を超えず(論語)」と言いますが、私は七十はもう射程距離内ですが、欲望が無くなれば確かに法を冒すこともないでしょう。でも実際の世の中、高齢者の犯罪も結構問題になっているのはまあおいといて、欲望が無くなるのはちょっとつらいなぁと言う気もします。

 まあ、私にしてもそれなりにやりたいことはあるんですがね。
 

by ロクスケ
















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草の生命力

 「草をむしっているうちに気づいた。細長い土地が、ドクダミとシュウカイドウに二分されている。ドクダミの地下茎が以前より長く地下でつながっていて、竹のようになっている。以前から確かに生命力のある草だったが、あきらかに、昨年草むしりした時とは違う。 
 それから、ベコニアに似たシュウカイドウの根も変化していた。根っこははっておらず、直ぐにスポッと抜けるのだが、根っこが球根状に大きくなっている物が多く見られた。いずれも、生き残りを賭けて、いかにも戦っているようだ。一見、ひ弱なシュウカイドウだが、ドクダミの存在を脅かしているようだ。というのもその細長い、日当たりの悪い土地は、殆どこの2種類によって占められているからだ。たまに露草やシダが生えていることがあるが、今年は露草は1株、シダは2株しかなかった。」
 
「それとも、この一見全く異なる植物、何か関連があるのか。2種類とも葉っぱがス
ペード形だし・・・。」などと、つまらないことを考えている日々です。

by キャサリン 














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一度に二つ(以上)のことをしたい

 かつて、Bionic Woman(邦題:バイオニック・ジェイミー)というアメリカのTVドラマがあった。一見、普通の人間の女性なのだが、何事も高速でこなし、高速で移動し、とんでもない力持ちの女性、ジェイミーが活躍するドラマだ。

 私は彼女ほどではないにしても、通常の人の1.5倍くらいの速さになりたい。歩いていると、焦れるので、走る、自転車に乗る、50cc(ゲンチャリ)に乗る、自動車に乗ることになる。まあ、移動に関しては、よいとしよう。

 また、同時に二つ以上のこともこなしたいという欲求がある。二十代の頃は実際にできた。外資系銀行で受け付けをしていたことがあった。日本企業のいわゆる受け付けとは全く異なり、とんでもなく忙しい職場だ。だが、ADHDで人生のうちでもっとも脳力の高まる十代後半から三十代前半までのわたしのようなものにとっては、うってつけ、もってこいの職種だった。

 主な仕事は三つあった。まず、一つ目は海外からの旅行者などにカードキャッシングをすること。相手に話を聞きながら、書類を記入し、キャッシングの手続きをすること。二つ目は、他銀からメッセンジャーが持ちこむ、トラベラーズチェックや書類などを受け取る。また、それらを適切なセクションへ配布する。三つ目は一時間おきに休憩を取る交換手に代って、電話の交換をする。だから、受話器を頭と肩に挟んで、電話を受けつつ、キャッシングの手続きをしつつ、他銀から持ちこまれた書類等を受け取り、領収印を押すなどという情景は日常茶飯事だった。その上、各銀行(海外・国内銀行)の役員の交代の度に送られてくる署名(紙・マイクロフィルム)などのファイリングもやっていた。

 そして、現在、能力は低下し、ひとつのことも満足に出来なくなった。昨日などは「しだ」が、思い出せず、夫に「胞子で増えて、裏にポツポツのある、恐竜のいた頃にはでっかかったやつ、なんつうんだっけ?」と聞いてしまった。情けない。

 それでも、二つのことを同時にやりたいという欲求はなかなか抑えられない。電車に乗っている時、待合室などにいる時何かやってないと苦しい。したがって、出かけるときには数学の問題集、中国語のテキスト、メルマガを書くノート(最近は忘れ勝ち)などを持ち歩くので、いつも大荷物だ。力だけはついていると思う。

 犬の散歩のときなどは、半端に暇なので困る。もう少し景色を楽しんだりすればいいのだろうが・・・。しかも、道に落ちているゴミが気になりだした。散歩のついでに寄る所がないときは、最近はゴミを拾いながら散歩している。始めた当初、愛犬リリー(三宅島から避難してきたのを引き取ったワンちゃん)は、私がゴミを拾うために立ち止まる度にい、イライラしていた。だが、私も彼女が草を食べたり、電柱の臭いを嗅いだりするのを根気よく待つようにしたせいか、それとも諦めたのか、私がゴミを拾う度に立ち止まるのを容認するようになった。

 さて、そろそろ散歩に出かけなくっちゃ。
 
by キャサリン















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プチ成功体験(その1)の1

 メルマガ読者の皆様、先日WingBrainの新メンバーとなった「なさ」と申します。これから、成人ADDに関する様々な内容をテーマ別にシリーズで投稿してゆきたいと思います。今後の投稿に際しては(過去の自分の行為に対する反省の意味を込めて)、以下の点を心掛けます。

 〜鬱的精神状態からの脱却を図るまで、またそこから学んだこと

 1.問題解決以前 仕事の失敗の繰返し等により、一時期かなり危険な精神状態に陥っていた(失敗の具体的な事例については今回は割愛する。別の機会に個別に採り上げたい)。正直なところ、自殺願望や世の中を巻き添えにしてやるといった様々な“危険思想”が頻繁に頭の中をよぎっていた。

  後述の対策以外にも、全く手を打たなかったわけではない。今から8年ほど前だが、催眠(特に自己暗示)を勉強したことがある。テレビのバラエティー番組に出てくるような胡散臭い催眠術ではなく、正当な一心理学としての催眠である。ややマイナーだが専門的なある本を読み、さらにその著者の運営するクリニックで直接のカウンセリング指導まで受けた。部分的に効果があったが、途中で挫折してしまっていた(この一連の経験についても別の機会に採り上げたい)。

  一念発起して精神科に通院しようとしたが、当初家族の理解が得られなかった。(鬱病の目安と言われる)「2週間連続して鬱状態になっていない」「精神科通院歴ありとなってしまい、その情報がどこかに漏れたとき、冤罪に陥れられる」「お前のような自分勝手な鬱に処方する薬など無い」などと言われ、猛反対に遭った。その一方で、落ち込んで帰宅すると、「自分のせいで失敗したのに勝手に落ち込んで、家庭内の空気まで壊すな」「会社のことを家庭まで持ち込むな」など厳しい態度を度々とられた。今にしてみれば、家族の気持ちも理解はしたいと思えるが、当時は精神的に相当追い討ちをかけられ、つらかった。

  ちなみに、やはり8年ほど前、当時出版されたばかりの「片付けられない女たち」をたまたま読み、自分もこれに当てはまるのではないかと家族に話をした際、理解をされず門前払い同然に一蹴されたという経緯もあった。今にして思えば、このとき一蹴された影響で、自分が成人ADDではないかと改めて自覚するまで相当の年月を要することになってしまったのではなかろうか。

 2.問題解決以後 結局、家族の反対を押し切り、ある精神科を受診した。きっかけは、会社の健康診断での問診で産業医からメンタルヘルスの受診を勧められたことであった。当時精神的に相当辛かったこともあり、藁をもすがる思いで即座に有給休暇をとり、受診した。


by なさ










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プチ成功体験(その1)の2

  初診時に精神安定薬(レキソタン)を処方された。即座に服用したところ、劇的な効果があった。落ち込む頻度が大幅に減り、冗談を言って笑うなどの安定した精神状態が持続するようになった。それと連動して、いわゆるプラス思考的な考えやバイタリティも不思議に自然と湧いてくるのである。その後、レキソタンは手放せない常備薬となった。家族は当初反対を押し切って受診したこと、処方された薬の服用に対してかなり冷ややかな態度であったが(眠くなるという副作用に対して「危ないので車の運転も頼めなくなる」等)、劇的な効果に驚き、次第に何も言わなくなった。薬の効果の原因を探ると、(あくまで自己観察からの知見であるが、)決して全てが薬の薬理的効果によるものではなく、ある程度は自分の思い込みによる心理的効果、いわゆるプラシーボ効果によるものとも考えられる。というのも、精神的に辛くなってレキソタンを服用した際、口に含んだ瞬間気分が和らいだということが一度あったからである。それほどの速さで薬理的効果が出るとは考え難く、したがって、少なくともその場合は心理的効果によるものと考えられる。

  大きな効果はあったが、決して万能薬ではなく、効果の限界はあり、副作用も少なからずあると感じている。例えば、程度のひどい落ち込みまたは連続的な落ち込みを経験した際、薬を(許容の範囲で)何錠服用しても落ち込みが改善されなかったことが何度かあった。また、一日あたり何錠も服用した場合、昼間の勤務中に非常に眠くなり困ったこともある(コーヒーを今まで以上に大量に飲用するなどの対策で何とかしのいだ)。そもそも、自己観察から、睡眠不足だと気分が落ち込みやすくなるようである。その場合、薬を服用しても余計に眠くなりやすく、悪循環である。さらに、ただ一度だけだが、真夜中に突然睡眠から目覚め、頭がキンキンして手足が一定時間震え続けるという気味の悪い経験もあった。このとき、即座に救急車を呼ぼうかと本気で考えたが、幸い一定時間後に症状は治まり、事無きを得た。ちなみに、このときの症状を後日主治医に報告したが、「一度きりだし、症状の再現が無いのだから大丈夫では?」と話を流されてしまった(専門家として本当にそのような判断で良かったのかと今でも疑問に思ってはいる)。

  今年に入り、職場の異動を経験し、仕事の面でのストレスがかなり緩和された。精神的にある程度の余裕が生まれたこと、さらに前述の薬の効果の連動による(と思われる)プラス思考、バイタリティが土台となり、自分の能力的、性格的な問題点(今にして思えば成人ADHD/ADD特有の症状)を何とか少しでも克服したいとの思いが強くなってきた。たまたまネットで類似の悩みを持つ人はいないか探している途上、過去の「片付けられない」の本のことを思い出し、成人ADDとの自覚を持つようになった。その結果、数はまだ少ないが成人ADDを診断する専門医が日本にもいること(ちなみに、前述のレキソタン処方医師には成人ADHD/ADDのことは一蹴されてしまった)、WingBrainはじめADD当事者の自助努力的サークル的活動、サイトが存在することなどを知り、精神的に大変勇気づけられた。また、今年の初秋、成人ADHD/ADDの専門医にやっと巡り会うこともでき、専門的診療を受けている(ただし今現在は確定診断前である)。これらのことが(あくまで自己観察に基づく推測だが、)前述の薬と同様、精神状態の更なる安定化に大きな効果があったように思われる。


by なさ














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プチ成功体験(その1)の3


  今現在、ほぼ安定した精神状態を実現できているが、それでも些細な失敗によりたちまち気分が悪くなることが時々ある。この場合、スイッチが切り替わったかのように、気分に連動してマイナス思考や危険思想、周囲の人物への憎しみ的な感情などが次々湧いてきてしまう。幸い、僅かでも気分の落ち込みを感じたとき、ほぼ例外なくレキソタンの服用が頭に浮かび、実行できているため、気分の落ち込みは電気信号のパルスのようなごく一瞬の“不具合”として自分の中では処理できている。マイナス思考の自分が、そのマイナス思考状態を維持しようと、薬の服用を無意識的に拒否または忘却してしまうこともあるのではと思ったが、幸いそのようなことは今のところない(このような心理的メカニズムについても別の機会に考察したい)。

 3.まとめ (得られた成果、知見と今後の課題など) 今現在、前述の要因により、ほぼ安定した良い精神状態の実現に成功していると言える。ADD的悩みの克服はまだまだこれからだが、安定的な精神状態は全ての活動の土台になるものであり、城の築造に例えれば、強固な土台が完成し、これからその上の城本体の構築を始める段階にあると自分では捉えている。

  今にして思えば、前述の一連の経験から実に色々なことを学んだと思う。ここから得られた知見、教訓を是非世の中の人、同様な悩みを持つ人々に強く訴えてゆきたいと思っている。すなわち、  ・鬱的症状やADD/ADHDに対しての世の中の偏見や誤解はまだまだ大きい。家族や職場の同僚、専門外の医師等による助言は(申し訳ないが)過度にあてにしない方が良い。  ・かといって、それらの弱みに漬け込み変に理解を示すインチキ商法や新興宗教、NPO等にも気をつけた方が良い(ネットを見ていて、そういったサイトをいくつか見つけた)。特に個人情報の流出や金銭の振込の面で。  ・周囲の理解の無い意見や反対を押してでも、精神的に少しでも苦しいと感じたら、躊躇せず直ちに精神科、できればADD/ADHD専門医にかかることを強く勧める。  ・ただし、自分の経験から、ADD/ADHD専門医の初診を受けられるまでには一定のハードルがあると強く感じており(これについても別の機会に述べたい)、まずは精神状態の安定化が全ての活動の基盤になるとの考えから、たとえADD/ADHD専門外で成人ADD/ADHDに理解を示さない医師でも良いから、とにかくまずは身近の精神科を受診すべきである。  ・専門医の受診と並行して、ADD当事者のサイト、活動にも参加するなどし、同じ悩みを持つ方々と情報や気持ちを共有することも少なからぬ効果があると思うので、勧める。といったことである。

  最後に、今後は、精神状態と思考が完全に連動してしまっている現在の状態を上手に切り離す訓練を積み、気分的にはプラス思考を保ちつつ、視点としてのマイナス思考(ただし危険思想は除く)を上手く活用するなどの技能を身につけたいと思っている。また、前述の一度挫折した催眠の再習得、ADD的症状の克服にも全力を傾け、その経過を逐次本メルマガ上で報告してゆきたい。



by なさ







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脱・オール オア ナッシング思考(の勧め)
 
  今日の話は、半分が自分のプチ成功体験、もう半分はその経験に基づいた提言です。
 
  最近、精神状態が良くなって、出来るようになってきたことが一つあります。何かというと、物事、特に自分の能力・性格面について、「出来る/出来ない」「良い/ダメ」といった2極化した視点で決めつけて見なくなったということです。
 
  以前、精神状態があまり良くなかった頃は、些細なミスでも、「俺は駄目な奴だ」「こんなことも出来ない」とひどく悲観していました。もともと、仕事柄、自分の専門分野の研究については、対象物を細かく要素に分解して分析的に捉えるという考え方の癖が多少はついていました。ただ、日常生活や事務処理作業などの面では(全然)発揮できていませんでした。
 
  それが最近では、「確かに最後の仕上げのここだけは失敗したが、後の大部分は出来たな」「前はほとんどダメだったが、今は30点分くらいはできるようになった」などと、少しずつですが、上記の考え方を発揮でき、自然に前向きな反省ができるようになってきたのです。我ながら嬉しいです。不思議なことに、失敗しても、以前のように連動して気分が落ち込みません。(時々まだ向精神薬のお世話にはなりますが)
 
  そういった視点で捉えることで、ミスをする→精神状態が悪くなる→前向きな反省ができない→またミスを繰り返す という悪循環を断ちきれるようになってきたように思います。(以前はこの悪循環の中で泥沼化していた気がします)
 
  というわけで、上記の、いわば「脱・オール オア ナッシング思考」を皆さんにも
 一応お勧めしたく、お伝えします。なぜ「一応」とつけたかというと、人様に勧めるにはまだ少し自信が無いからです。
 
  というのは、確かに意識的に(多少無理矢理でも)そのように物事を捉えれば、悪い精神状態も少しは良くなるかもしれませんが(専門的に言えば、一種の認知行動療法?)、自分の経験からして、そういう思考法と精神状態の良悪は、いわば”鶏と卵”のような関係になっている気もするからです。
 
  すなわち、精神状態が良くなったから自然とそういう思考ができるものかもしれず、精神状態が悪いときに無理矢理にそういう思考をしようとしても無意味、むしろ逆効果かもしれない、とも思うからです。
 
  自分の経験からすると、以前精神状態が悪かったときに、時々単発的に「2極的に見るのでなく、分解して捉えねば」という視点が頭の中に浮かぶことはありました。ただ、当時は理性の自分がそう思っても、もう一人の感情的な自分の中から沸いてくる「駄目だ駄目だ、俺は駄目なんだー」という思いに押し切られていた気がします。(押し切られないように何らかの工夫する余地はあったかもしれませんが)
 
  認知療法的に見ていかがでしょうか。無意味・逆効果でないのなら、意識的にそういう思考をする価値はあるかもしれません。それなら、もっと強くお勧めできます。(もし上記の話について、色々とご経験や専門知識をお持ちの方がいらっしゃれば、ご意見などいただければ幸いです。) 
 
  以上です。今日は最後の結論がやや歯切れが悪くなってしまいました。それでは。
 
 by なさ
 







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物作りの勧め

 いろいろな趣味を持っている人たちがいて、中には到底素人の作品とは思えないような物を作る人たちがいる。私も物作りは元々好きで、だから今の仕事を始めたのだが、昔は物を作ると言っても材料は売っていないしろくな工作機械もなかった。だから、ブリキの空き缶、拾ってきた針金、木片、それから壊れた家電製品などから取ったがらくたなどを利用していろいろな物をこしらえた。その時の、あり合わせのがらくたを工夫して利用し何とか物を作る工夫が出来たが、それが楽しかった。
 
 今では、様々な工作機械も持っているし、材料も好きなだけ買える。が、それでもあり合わせのがらくたを利用して何かを作るのは楽しいし、それこそが物作りの醍醐味のような気がする。
 
 拾った木片を焦がして組み合わせ、100円時計の機械を入れて時計を作ったり、ベニヤ板を張り合わせて筆箱を作ったり、気が付けばいろいろな物を作っているが、こんな場合は商売と違い(商売でもだが)図面など描かずがらくたを見ながら細工をしてゆく。できあがった物がどうであろうと、結構楽しい物だ。
 
 物作りは金が無くとも道具が無くとも出来る。足りない物は知恵を使えばよい。そして楽しい。どうせ趣味でやるならいくら失敗しても誰にも迷惑はかけないし、好きなだけ失敗しそしてやり方を改良してゆけばよい。
 
 趣味としてやっている分には、どんなに失敗しても楽しめばよい。そうして精神的な重荷を感じないで上手くやるためのコツをつかむのは、もしかしたら通常のリハビリになるかも知れないとも思っている。そうでなくとも、楽しいなら良いし、金もかからない、誰にも迷惑をかけない。ぜひ、日常の簡単な物でも作ってみてはどうだろうか。最近では、今年のカレンダーを手作りして、気に入っている。
 
by ロクスケ











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提言?・”のび太くん成長重視型”の新版どらえもん
 
 今日の話は、基本的にADHDにやや関係する提言のつもりですが、採り上げる題材視点がちょっと変わっているかもしれません。その点ご了承ください。
 
 今日も結論(提言)から先に書きます。:
 ・「どらえもん」のストーリーを、のび太くんが日々あらゆる面で 確実に成長してゆくことを前面に出すものにできないものだろうか。
 ・どらえもんの道具のようなSF的な要素は残す一方、成長の過程の面では 現実の生々しい側面をなるべくそのまま盛り込むようにする。
 ・日本国内はもとより、海外各国への社会的認知度、影響度を踏まえると、 どらえもんを題材にすることが望ましいのではないか。
 
 以下、細々とした補足説明です。
 
 「どらえもん」はアニメや漫画として昔から広く親しまれています。
 ご存知のように、このどらえもんには「のび太くん」という、勉強もスポーツも不得手な典型的ないじめられっ子が出てきます。(ちなみに、主人公はどらえもんではなく、のび太くんらしいです。)
 
 小生も子供の頃は勉強も得意とは言えず、スポーツは特に球技がからきしダメでした。学校のクラスでも恰好のいじめられっ子でした。(その頃は、相当のいじめやからかいに悩み、耐え続けました。)
 
 当時、テレビ・漫画の中ののび太くんが自分と同じような人だなぁとの思いを自然に持つようになっていました。彼に親しみを感じる半面、自分の現実の嫌な失敗・悩みと重なって見え、テレビの中ののび太くんを見ていて、「こんなことも出来ないのかよ」と近親憎悪(ひいては自己嫌悪)の気持ちを抱くこともありました。
 
 時は流れ、小生にも二人の幼い子供ができ、彼らと一緒に再びどらえもんを見るようになりました。自分が大人になって改めて見るようになってから、また特に昨年自分がADDと自覚してから、あることを思うようになりました。のび太くんが日々あらゆる面で(主に自助努力により)確実に成長してゆくことをもっと前面に出すストーリーにできないものだろうか、と。
 
 毎週放映を見ていると、毎回毎回のび太くんがどらえもんに泣きついて未来の万能道具に安易に頼ろうとして結局失敗する、というのが水戸黄門的なお約束のストーリーになっている気がします。「安易な手段に頼っても結局は報われない。自分で努力して解決しよう」という模範的、社会道徳的なメッセージが込められているのでしょう。それ自体は良いことだとは思います。
 
 ただ、のび太くんが毎回毎回同じ失敗をし、何も成長していないようにも見えるので、「ダメな子はいつまでたっても所詮ダメな子」という印象を同時に与えてしまっているようにも感じます。(考えすぎでしょうか?)
 
 まぁ、どらえもんは(サザエさんなど他のアニメも同様ですが、)基本的に物語の設定上の時間の流れを止めていること、再放送的な内容が多いことから、今のテレビ放映の中で連続的に成長を描くのは難しいのかもしれませんが。
 
 (それでも、時々、映画公開版の長編では、その話の中だけで完結する内容として のび太くんが多少成長する場面が描かれることもあることはありますけど。)
 
 どらえもんの道具などSF的な要素は残すとして、のび太くんが直面する悩みとか、その克服手段(あくまで自力での)などは、現実の生々しいところ、現実の精神医療カウンセリングなどに基づく内容をなるべくそのまま持ってくるようにするのです。
 
 かなり生々しいですが、許されるならば、現実に即すという意味で、例えば、 ・のび太くんが精神科に行ってカウンセリングを受けた ・実は軽度の発達障害(ADHD)であり、リハビリと自助努力を始めたといった話の展開があっても良いのかもしれません。(ちょっと刺激的ですが)
 
 そして、
 ・誰が見ても、段々と、能力的にも性格的にものび太くんが(主に自助努力で) 確実に日々成長してゆくことが明確に分かる
 ・最終回(を設定するならば)では、のび太くんが十二分に成長し、どらえもんは役割を終えたので、満願成就の思いを胸に未来に帰ってゆくというストーリーにすれば、(少なくとも個人的には)かなり励みになるでしょうし、社会道徳的観点からしても好ましいストーリーのようにも思えるのですが。
 
 別にどらえもんを題材とせず、別にオリジナルの何か漫画なり創作すればよいのかもしれませんが、やはり今現在のこれだけの社会的認知度、影響度からすれば、どらえもんにあやかるのも一手では、と思った次第です。
 
 (ちなみに、どらえもんをはじめ、日本のアニメ漫画は世界中に輸出されています。 科学技術力に並んで文化的影響度は馬鹿にならないものがあります。)果たして、作者の藤子不二雄さんは理解してくれるでしょうか??皆さんはどう感じられますか?またご意見をいただければ幸いです。今日もちょっと長くなってしまいました。すいません。以上です。
 
by なさ


















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提言・ADHD/ADD専門医の受診を容易にするために(1)

 今日は、小生が専門医にたどり着くまでの経験に基づき、一つ提言をしたいと思います。文章が無味乾燥気味かもしれませんが、論旨を明確にするため、今回はまず要旨・結論から書きます。

 現状、日本国内では、成人ADHD/ADD専門医の受診(特に初診)にたどり着くまでのハードルが高いように思います。ADHD/ADDの疑いがあるにもかかわらず専門医の診察を受けられていない成人は実は相当な数(潜在的な数を含めれば国内で数十万人以上?)いるのではないでしょうか。 そこで、まずせめてもの対策として、既に専門医の診察を受けられている当事者間のマナーとして、以下の取り組みを個々人が行ってゆくことを提言したく思います。

     ・日本国内の成人ADHD/ADD専門医を”限りある貴重な希少資源”と考え、        その貴重な資源を最大限皆で分かち合えるよう、互いに配慮、工夫する。

     ・具体的には、成人ADHD/ADD専門医の診察回数・時間を最低限度になるよう       各人が意識する。
      すなわち、専門医にしかできないこと(確定診断までの問診・各種検査、       薬処方(認可後)、最低限度のカウンセリング、など)のみを専門医に委ね、      後は専門外の医師や心理カウンセラー、支援サークルの力をなるべく借りる      ようにする。
      (もちろん、これらはあくまで補助手段、メインは自助努力と思います。)

     ・その上で、さらに大きな次元の対策として、ネット上で成人ADHD/ADD専門医      の情報を直接的に公開はしないにせよ、誰でもある程度容易に専門医の初診      にたどり着けるような、間接的な情報公開・支援の仕組みを強化する。(例      えば、精神保健福祉センターの電話相談窓口の混雑状況くらいの情報はネッ      ト上で皆が積極公開するなど)

 今回は以上です。次回以降、解説的な説明を続けたいと思います。それでは。


by なさ












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ADHDと集中力

 私の場合ですが、ADHDだなぁと感じる時は、集中力が激しくある時と、全く反対ですが、集中したいのにしきれない時です。

 まず、集中力が激しくある時だと、その物事にどっぷりとのめり込んでしまいます。他の物事が聞こえていても興味がそっちの方へ向かない程に、その作業を楽しんでやっているのだと私は思います

 逆に変な話ですが、集中したいのにしきれない時もあります。頭では集中すべき事を理解してやろうとしてるのですが、どうしても周りの物音や、視界に入ってくる情報などに、気をとられてるのだろうと思います。

 その時も作業を楽しんでやってるわけですが、そこにどういう違いがあるのか?と自分でも考えてみました。

 どれだけの情報量が入ってくるかによると思うのです。

 周りの環境ももちろんありますが、その作業の持つ情報量が関係してるのではないかと思うのです。

 ADHDは、どうしても、不必要な情報を遮断出来ない為、どの作業にしてもいろんな情報が入ってきてしまいます。

 情報の受け取り方は人それぞれだと思いますが、

 *どの情報に興味がより大きいか*

 という事が集中力の有無を決めるのかと思います。物音だけなら気にならない人も居れば、物音について考えてしまう人も居ると思うのです。

 それと同様に視界の方もそうではないかと思います。気を取られるものがどれだけ存在するかでその人の作業の進み具合、というか集中力の具合が変わってくると思いました。

 あくまでも私の意見ですが・・・。

 私の場合、作業に当たって、*視界に入る情報量の多さ+人がそこに介入する*と人の事まで考えだしてしまうので、そういった場合は集中する事が困難になります。

 一人での作業の方がはかどる事が多いです。そう言ってしまうと、皆さんそうかもしれませんが・・・。

 というわけで、その人の興味の対象による反応から集中出来ない時と、出来る時が別れてしまうのかな。と思うワケです。あくまで私の考えなので、全ての人にあてはまるとは思いませんが・・・。

 こういった傾向が強いのではないかと私は考えてます。

 by はいじ
 

さて、集中力ですが、ADHDには一説には6つのタイプがあり、それぞれを本来は別の障害として分けるべきであり、それぞれに従った治療方法があるとも言われてますね。

 ただ、それらが単独で顕れるのではなくいくつかが共存したり、代わる代わるにでてきたりするような感じですね。あたしの場合などは、それが鬱状態とおおいに関係があるような気がします。

 集中できる場合、他のことに注意が向かない、いわゆる過集中状態になるわけで、これもまた困った物です。

 結局人間は要不要で集中する対象を絞ることが出来、つまり優先順位を決めて集中するわけですが、ADHDのばあいはこの優先順位が決められないんですね。だから、仕事で知りに火が着いているのに、ふと歴史問題が気になったり、芸能人の経歴が気になって、本当はそんなことなことをやっている場合じゃないのに仕事を放り出してしまうことがままあります。

 これは自分の意志ではどうにもならず、結局仕事では失敗をすることになります。

 ADHDの問題点はこう言うところにあるんですよ。だから、過集中でものめり込んだ対象についての知識などは大変な物ですが、喰ってゆくには役に立たない。

 なんど後悔したことか。

 from ロクスケ
 
 
 
 









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プチ成功体験・3 体調を崩さない


 今日も、自分が最近良い意味で変わってきたことの一つについてお話します。

 ここ最近、以前とを比べて体調を崩さなくなったと感じています。昨秋を最後に、今年の冬は全く風邪も引きませんでしたし、概ね身体の状態は良好な状態を保てています。(まだ寒い時期なので、時期尚早かもしれませんが。。)

 体調を崩さなくなった原因としては何点か挙げられるとは思います。が、やはり一番の原因は精神的な状態が良くなったことではないかと考えます。心身相関とか言いますが、精神的に辛い状態が続いていると、体の免疫力にも少なからず影響があるのではないでしょうか。

 以前ロクスケさんも書かれたように、精神的に辛いと、頭の中も前向きな考えが浮かびにくくなってきたりします。逆に、精神状態が良いと、心身の様々な面の歯車が良い方向に噛み合い出して、良い結果に結びついてくるような気が改めてしています。

 このように、精神状態とは人間の心身の根幹を成していると言えます。良い精神状態を維持することは非常に重要なことだと改めて感じる今日この頃です。

 ちなみに、医学の素人の勝手な経験則なのですが、体調を崩す、何か大きな病気にかかるというのは、長く続いた苦労や緊張状態が解け、ふっと気が緩んだときに起こりやすい、ということはないでしょうか。

 事実、上で「昨秋を最後に」と書きましたが、その最後に体調を崩したのは、実はADHD専門医の初診とWAIZ-IIIなどの心理検査を受診した直後のことです。足掛け数ヶ月もかけてADHD専門医を見つけだし、初診で専門の先生と話をしてもらえ、その上検査まで受けられ、ある種ほっとした瞬間だった気がします。

 以前も書いたように、小生自身の正直な、率直な思いとしては、最終的に昨年末にADDの確定診断をもらったときには、あまり内面の心境の変化はありませんでした。むしろ、初診と心理検査を受けられたときの方が変化が大きかったと記憶しています。その意味では我ながら、辻褄の合う話だと思っています。

 その心境の変化以降、体調は崩していないし、考えも前向きに、やる気も出てきて、WingBrainに、さらには夜明け掲示板にも参加するようになって、現在に至っています。重ね重ね、この今の良い状態を今後も長く維持していきたいと思います。

by なさ


心と体はそれぞれ独立した物ではなく、密接に結びついているのは言うまでもなく、たとえば断腸の思いなどと言うのは、ストレスが高じると実際に腸から出血をする現象を言います。精神的に落ち込んでいるとき体調が崩れるのは誰しも経験すること。

 しかし、生きている限りストレスはさけられず、同じストレスでも精神的に落ち込んでいるときはもろにその影響を受けるけれど、精神的に高揚しているときはストレスを無視できると言うことでしょう。

 分かり切ったことですが、常に意識しておく必要があると思います。むろん、体調がいいと、精神状態もよいという逆も成り立ちます。すると、私たちにとってコントロールしやすいのは体だと思えるので、散歩をしたり、運動をしたり、食生活に気をつけたりして体調を整えることから始めるのも確実な方法だと、わたしは考えます。もちろん、意識できる範囲で心を改善する努力もしなければなりません

 体調を改善し、心が改善され、また体調が改善されるという良いスパイラルに乗ることができれば最高ですね。
 
 
from ロクスケ













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エッ、わたし、ごみ拾い?!

 春スキーに備えて、足腰を鍛えるため、夫の犬の散歩についていく。で、歩くだけでは手持ち無沙汰だし、子どもたちのために「ひとりガーディアン・エンジェエルス」のつもりで、道路のごみを拾て、歩くことにした。

 先日、いつものように夫の後ろからごみを拾って、歩いていた。すると、前から来た幼児とその父親らしき男とその母親(つまり、幼児の祖母)らしき女がやってきた。かなり、近くまできているので、彼らの話しは内容まではっきり聞こえる。それに男は無礼なほど、大声でしゃべっている。男「あれ、何?」「何やってんだろ?」女「さあ? 何だろうね。」男「わかった。ごみ屋だ。」

 この男、戦後のくず鉄拾いじゃあるまいし、ごみを拾って、金になると思っているのか。この時代錯誤男め。私は犯罪のない、きれいな町のためにごみ拾いをする善良なボランティアだ。ウなことも分からないのか、このボケ。

 こころある人は一目で私のやっていることを理解して、すれ違いざまに「ごくろうさまです。」と声をかけてくれるというのに。


by キャサリン







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(プチ)成功体験3・少しずつ片付ける

今日は片付けについてのお話です。
ADHD/ADDには典型的な特徴かもしれませんが、小生はご多分に漏れず、片付けるのが相変わらず苦手です。とはいえ、何とか少しでも克服したいとは思ってはいます。

そのせいかどうかわかりませんが、最近少しずつ片付けられる癖、コツが身に付いてきたような気がしています。そう思うのは、自宅の居間や台所の掃除に関してです。

二人の幼い子供(特に下の子)は、おもちゃ箱、本箱を次々とひっくり返しては、また次のおもちゃや本に興味が移っていってしまいます。放っておくと、たちまち部屋の中が足の踏み場もないくらい散らかります。

以前は、部屋が散々散らかってから、正直嫌々片付けていました。が、(かなり初歩的なことですが)最近あることに気付きました。子供が次のおもちゃや本に興味が移った時点で、さっさと前のおもちゃや本を片付けてしまえばよいのです。子供にも、「出したものは片付けてから新しいものを出そうね」と教え、なるべく自分で片付けさせてもいます。

今のところ、これで結構うまく行っています(と思っています)。

自己分析するに、子供へのしつけの効果だけでなく、小生自身の片付け力?の向上にも多少たりともつながっている気がします。少しでも散らかった時点ですぐ片付けるという行動を起こすこと、一回の片付け作業を少ない量に分散させていることなどが小生を嫌々な気持ちにさせず、結果的に先延ばし防止になっていると思われます。

食事後の台所の片付けなども同様です。食べ終わった食器から次々台所に運び、さったと洗ってしまうのです。最近そういう癖がつきました。こうなると、食事が終わる頃には食器の片付けもほぼ終わっています。

個人的にはこの身に付いた癖は気に入っています。もっとも、自分以外の家族から見て、あまりマナー、印象として良くないのかもしれませんが。次は、何とかして、小生の自室の書類の山を「少しずつ」片付けたいと思います。これを今年の目標の一つにしたいと思います。

by なさ

常日頃散らかったら片づけることで、どうしようもなく散らかる、汚くなると言うことは避けられるはずで、おっしゃることはその通りだと思います。

私も可能な限りそうしていますが、それを癖づけるのは大変で、やはり相当時間をかけ習慣化する必要がありますね。つまり、使った物は元に戻す、その場で出たゴミは処理すると言うことにつきますが、それがADHDの性格上できないとうことですからADHDの本質に関わる問題です。なかなか難しいですね。

from ロクスケ

















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ADHD克服のためのプログラム

 早いもので、4月になりました。小生がADDと自覚して行動を起こしてから早や一年が過ぎました。この一年、自分で言うのも何ですが、皆さまのおかげもあり、大きく成長できたと思います。引き続き、さらに成長できるよう、以下の目標を立てます。

 ・「新年度の目標:”ID自己成長”の実現」

 野村克也氏の”ID野球”と言えば、データ重視、プロセス重視の理論的な、緻密な戦略の情報戦野球です。それを真似て、データ重視、プロセス重視の緻密な、できるだけ科学的に裏打ちされた方法での自助努力、自己成長を図ってゆきたいと思います。

 細かく言い出すときりがないので、まずは以下の1点を具体的な”マニフェスト”として掲げます。

 ・「具体的目標1:先延ばしのメカニズムの徹底分析」

 先延ばしを完全に無くしますと宣言すると、かえって挫折しそうな気がしたので、敢えて変化球をつけた言い方にしました。

 自分の先延ばし(その他の欠点も)を物理現象の一種、と客観的に捉え、その原因や発生パターン、対策のあり方などを、いわば”自己人体実験”を通じて見出したいと思います。

 まずは以上です。それでは。


by なさ











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ユニバーサルデザインとADHD/ADD

 最近、バリアフリー、ユニバーサルデザイン、ノーマライゼーションといった言葉を耳にします。ご存知の方も多いと思いますが、小生は正確な意味を知らなかったので、Wikipediaではありますが、調べてみました。

 例えば、ユニバーサルデザインとは、「文化・言語・国籍の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに 利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)」という意味であり、「もともとバリアのない世界を最初から構築することを目指すのが真の狙い」なのだそうです。

 障害、バリアと聞くと、小生はどうしてもADHD/ADDと結びつけてしまいます。最近の公共施設などに見られるユニバーサルデザイン(例えば案内サイン)では、ADHD/ADDに特有の傾向を持つ人のことがどこまで考慮されているのでしょうか。

 例えば、小生の場合、非常に不注意、おっちょこちょいであり、
   ・急ぐあまり、純粋に男子トイレと間違えて女子トイレに駆け込み、用事を済ませてしまった。(やや下品な話ですいません)
   ・大浴場の入口の下駄箱用ロッカーを脱衣所のロッカーと間違え、
   服を抜き出してしまった。といった大失敗を過去にしています。(冗談でなく、本当にやったことです)

 いくら考慮すると言っても、ものには限度があるでしょうし、デザイン性とトレードオフになる点もあると思うので、一筋縄には行かないかもしれません。でも、施設の案内サインなど、非常に不注意度の激しい人を基準に設計してくれたら、小生の日々の失敗も多少は減るような気がしています。

by なさ

ユニバーサルデザインですが、全ての人々が使えるデザインは、全ての人々により便利なデザインではありません。だからこそ、例えば階段のとなりに車いす用の長いスロープがあるわけで、全てに人に便利なら階段など廃止してしまえばよいのです。

したがって、ユニバーサルデザインとは、ある程度全ての人々が使っても使えるが、特定の人にはそれしか使えないデザインであると言うこと。

ハンディを持った人たちのためにバリアフリーにするのは大切です。しかし、そのためにハンディを持っていない人たちに過剰な犠牲を強いるべきではなく、そこはハンディを持った人々とそうでない人たちの為に各々の施設を作るべきです。何でもかんでもハンディを持った人々が優先と主張する人たち他が居るとしたら、それは間違ってますね。

from ロクスケ











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適正努力

適正努力とは、小生の勝手な造語です。

 最近、自助努力、自己成長という言葉を我ながら多用している気がします。とはいえ、小生自身がどれだけ日々努力、成長しているのか、と言われれば、非常に耳の痛いところです。

 言い訳になってしまいますが、ADHD/ADD当事者に限らず一般論として、なかなか努力ができない、あるいは努力が続かないことの原因とは、正しい努力のあり方、方法論が十分に確立されていないことにもあると考えます。

 例えば、野球などのプロスポーツの場合、トレーニングメニューを考える専門家がいて、どのような練習を、日々どの程度やるべきかといった方法論を科学的に細かく追求し、それに基づいて選手の指導管理を行っています。

 禁煙やダイエットなどの特定の分野の方法論は既に色々と考えられてはいます。しかし、それらも万人への効果という点ではまだまだ発展途上だと思います。さらに、もっと一般的、汎用的な努力の方法論というものは殆ど見当たらず、多くの場合、とどのつまり根性論、精神論で終わっているように思います。

 特にADHD/ADD当事者の場合、自助努力してゆくにあたり、適正な方法論や「努力の専門家」による個別指導を根本的に充実させる必要があると考えます。ここで、努力の専門家とは、具体的には精神保健福祉士、臨床心理士、精神科医、心療内科医、あるいは新たな資格の専門家、それらの複合体かもしれません。

 将来的にそういった社会制度や方法論が確立されれば望ましいのですが、それまで指を加えてただ待っているのは今の小生には耐えがたいので、自ら、特にADHD/ADD当事者の努力のあり方を追求してゆきたいと思います。心理学等の一応用分野として「努力学」を創始したいとすら考えています。
 
by なさ

私も常日頃思っているのですが、無駄な努力をいくらしても無駄ですし、成果が上がらないから心が萎えます。目の不自由な人がいくら物を見る努力をしても無駄であり、聴覚を鍛えたり触覚をつかって点字を読むなど、したり、杖を使って歩行訓練をします。つまり視覚に変わる代替感覚を養うわけで、これは視覚障害が目に見えるからできること。発達障害も目に見えるようにして、代替機能を鍛える必要があります。

ところで、努力とは集中が伴うのであり、集中が出来ない人は努力も出来ません。努力をすれば何でも叶うのは努力が出来る人の話であり、努力をする能力に欠ける人はそれが障害です。しかし、これも目に見えないので結果として怠け者の烙印を押されます。

努力をする能力が無いことを自覚し、努力をしなくてもリハビリが出来る手段を、つまり代替機能を開発すべきです。つまりは、興味の対象にする発想の転換からやらなくては。

これもまたリハビリだと思いますよ。

from ロクスケ



















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少子高齢化とADHD/ADD

 少子高齢化と叫ばれて久しいですが、景気の好不況にかかわらず、団塊世代の大量退職は進み、日本の生産年齢人口は確実に減少してきています。それでも、”アクティブシニア”と呼ばれる活発な中高年世代のパワーでまだまだ持ち堪えている面も大きいとは思います。

 しかし、今さら言うまでもなく、今後はより若い世代が徐々に中核を担ってゆかねばなりません。その際、少子化を逆手にとって、今までは世の中の環境整備が不十分であったために活躍しようにも十分な力を発揮できていなかった方々を今こそ積極的に認知し、掘り起こし、深い理解と手厚い支援を差し伸べてゆく必要が多いにあると小生は考えています。

 これは特にADHD/ADD当事者、あるいは若い世代と限定するつもりはなく、発達障害の確定診断の上ではグレーゾーンに位置付けられる人たち、シニア世代の方々も含め、同様な症状で悩みを抱える人たちも皆積極的に含むものです。

 支援の一例として、小生の非常に苦手な事務処理作業などは、今現在の最先端のIT技術を駆使、工夫すれば、小生の苦手な作業を十分カバーできる機能性をもったシステムを作ることなど、決して不可能ではないと以前から思っています。例えば、入力データの高度チェック機能など。(そんなシステムが未だできていない理由は、上記の理解、支援がまだまだ広まっておらず、企業としての効率投資が優先されている結果ではないか、とも思います。)これはあくまで一例であり、このような改善の余地はまだ世の中には一杯あると感じています。

 今回はまずは総論ということで。今後は具体的な各論に踏み込みたいと思います。是非、皆様も色々と考えていただければ幸いです。それでは。

by なさ


少数化にともない、将来の日本では労働力不足が懸念されています。私個人はそのようなことはないと思っていますが、その理由はともかく、今まで社会参加を諦めていた障害者達がその特技を活かして参加することで、かなりの部分を補うことが出来るし、分野によってはリードも出来るはず。結局、人間の最大の労働は知的分野であり、肉体的労働は機械化できるからです。

この知的労働分野では、大半の障害者はハンディを克服できるはず。どうでしょうか。

from ロクスケ










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メタ認知

 何のことかよく分かりませんが、もともとは認知心理学の専門用語のようです。専門の教科書の記載によると、「認知に関する認知」(それでもよく分からん)、噛み砕いて言うと、要は  「自分の能力的、性格的な特性を熟知すること」ということです。学校教育、学習心理学において最近特に重要視されているようです。(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/メタ認知)

 で、これは、とりもなおさず、ADHD/ADDにも当てはまることと思います。今さら小生が言うまでもなく、ADHD/ADDならではの特性(例えば過集中など)を熟知して、それを上手に活用すれば、自分の強みに十分なりえますよね。

 また、逆に失敗を重ねないという意味でも、自分の行動パターンを多少分析的に見てみると、それなりの対策が打てるはずです。 (もっとも、これまでの議論からすると、興味・集中を伴わないと対策という行動をとれないのかもしれませんが。。)

 例えば、小生の場合、やってしまう失敗、ミスには一定の法則性があります。車の運転などでも、うっかり忘れてしまいやすいこともあれば、癖が身についてまず一度も間違えたことのない動作もあります。昔、自動車教習所で教官から「〜の操作は、10回に1回くらい間違えるね」と言われました。間違えやすいことも細かく見れば、個々にそのような傾向があるはずと思います。

 自分の特性をそのような目で多面的、分析的にに見てゆけば、「私って何やっても駄目」などと自分の全てを否定してしまう、悪い意味での0−1思考にも陥りにくくなると思います。(もっとも、これは精神状態によるところも大きいですが)

 不注意、先延ばしなど、ADHD/ADD当事者全体、もしくはその何割かに共通する傾向は少なからずあると思います。それを具体的にもっともっと掘り下げて、「失敗・ヒヤリハット大辞典」みたいなもの(WingBrainの「実用集」の対になるもの?)が作れれば、各当事者、ひいては世間一般の人たちにも非常に役立つものになるかと思っています。

 とはいえ、いざあらゆる分野を対象として作ろうと思うと、相当なボリュームになりそうなので、同じ悩みを抱える当事者で分担作業して作ってゆけるといいなぁと思っています。(どなたか、ノッてくれる方、いませんか? ←賛同いただける方、募集中です。)

 

by なさ



ひやりはっとをリストアップし、自分が意識していないのにパニックになっている事を知るのは有効だと思います。。つまり、ひやりはっとは結果が良ければ忘れたいことばかりなので反省につながらず、繰り返すからです。

でも、そればかりに一生懸命になると、自分のあら探しになりかねないので、目的を達したら止めるべきと私は思います。また、本当に不注意で失敗したのか、身体能力の衰えや不慣れから失敗したのかの区別も大切ですね。

もう一つの方法は、成功体験をしっかりと刻みつけることでしょうか。

from ロクスケ



















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突出した発想が潰されないための仕組みとは

 ADHD/ADD当事者の優れた特性の一つとして、様々なアイデア、突出した発想が浮かびやすいという面があるかと思います。小生自身も、多少たりともそういう面があると自覚しています。

 そういった良い面が世の中で十分に認知され、活躍できる場が十二分にあるならば、多くの当事者が十分なやりがいや幸福感、自尊心を保て、職・収入に困ることも無くなるだろうと思います。

 しかし、まだまだそんな理想的環境は整っていないのが現状です。むしろ、与えられた仕事や責任をきちんと果たさず、自分の好きなことに関するアイデア提案ばかりしていると嫌われる、アイデア自体を潰されたり、横取りされたりもするのが現実ではないでしょうか。

 以前あるノーベル賞受賞者が、日本では突出した発想は認められない旨の発言をしていました。ちなみに、その人は渡米して研究したそうです。ADHD/ADDに関係なく、日本ではそういった面があるのでしょう。

 そんな現状を生んでいる原因の一つとして、世の中の仕組み、環境が整っていないことが挙げられると小生は考えます。裏返して言えば、そういった当事者の良い面を活かせる仕組みを作れば良いのです。

 そこで、ここでは一つ、”提案を活かす仕組みの提案”をしたいと思います。

 すなわち、特許制度の敷居を大幅に下げたようなもの、いわば全国規模、世界規模での”アイデアバンク”的な仕組みです。言いかえれば、WingBrainサイトの有益なノウハウ集「実用集」の大幅な発展系とも言えます。

 日本国内、あるいは世界中のあらゆる分野のアイデア、ノウハウを大規模に集積し、最先端のIT技術を駆使して高度に体系化するものです。成功/失敗体験、その他色々なノウハウ、アイデアを含みます。

 そして、そのアイデアバンクからアイデアを引き出すのを有料とし、逆にアイデアを登録するとお金がもらえる仕組みにします。(課金、報酬の仕組みはもっと詳細に詰める必要があります。)

 Googleのような高度なデータベース検索技術をフル活用すれば、類似、関連アイデアとの重複判定や結合、引き出しなども、少なくとも将来的には、そう難しいことではないだろうと思います。

 アイデアを思いついたら、このバンクにバシバシ登録してゆくのです。先例と完全に重複しなければ、アイデアに見合った報酬がもらえます。これにより、主収入にならないまでも、副業、小遣い稼ぎにはなります。つまり、アイデア提案自体が容易に金になる、ということです。

 逆に、企業など、アイデアを欲しい側にとっても、必要な発想をこのバンクから適正な料金で容易に得ることができれば、メリットがあります。つまり、このバンク全体が一つのビジネスモデルとして成立するわけです。

 これが実現できれば、”ひらめきすぎる”ADHD/ADD当事者には福音になると思います。いかがでしょうか。今後は、引き続き、具体的な仕組みについて考えてみたいと思います。

by なさ











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ADHDの生活サイクルについて

ADHDと生活サイクルは、関連付けられるのでしょうか?必ずしもそうだという事は無いかもしれませんが、あくまでも、私の場合ですが、かなり生活サイクルが変です。どこまでが1日だかわからないくらいです。

私の場合は、睡眠のサイクルが狂うことが多いです。例えば、30分だけ寝てしまう時や、3時間寝る時や、下手すると私は2日程寝続ける事もしばしばです。それも、自分でも理解ができないのが悲しい所ですが。(苦笑)まぁ、直すつもりもないし、直らないとは思いますが。(開きなおり)

生活サイクル単位で考えると、

・同じ事を繰り返すことが嫌いである
・いきなり思い立ったら行動してしまう
・同じ失敗を何度も繰り返す
・何かによくぶつかる(人とかドア等)
・よく物を落とす
・やらなければいけない事であるほど引き伸ばしてしまう
・ひらめいたら即何でも試してみる

等があります。(私の場合ですが)

こうなると集団生活には向いてない事は、明白だなぁ。と、自分で書きながら改めて思い直した程です・・・。なので、ADHDの方々は大変苦労して一般に馴染まないとならないという事です。

そこら辺、何か損をしてるけども、得をする部分もあるので、前向きに私は生きてますがっ・・・!


自分なりの生活サイクルと生活スタイルを確立するしかないかなぁと。色んな試行錯誤の中で、諦めるべき部分と、上手く使う部分を探してみる努力の日々です。


ADHDの皆様も自分なりの生活スタイルや生活サイクルを、何とか探し出して、自分を責めずに生きていって欲しいなぁと。祈るのみです。前向きに生きていっちゃいましょう。

by はいじ












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前向き的表現

今日は言葉の言い回しに関するお話です。

一般的に、「(〜という理由により、)〜〜することはできない、難しい。」という言い方をよくするかと思います。これを「〜という点さえクリアすれば、〜〜できるようになる(可能性はある)」という、いわばプラス思考的、前向き的表現に意識的に換えられないでしょうか。

論理的には同値な言い換えに過ぎませんが、その表現が与える印象としては大きく異なったものになると思います。もちろん、〜できないと言うこと=後ろ向き、と決めつけるつもりはありません。でも、特に何か悩みを抱えたり、物事に行き詰っているときなどに、そのような言い換えを意識的にすることにより、何某か解決策や方向性が見えてくる可能性は多分にあると小生は考えます。

巷のビジネス書に「『何故』を3回繰り返せ」などの指南が書かれていますが、それと同様なものかもしれません。

例えば、小生が過去によく思い込んでいた、決めつけていたことの一つに、「自分の欠点を直す、性格を変えることはできない。難しい。」ということが挙げられます。同様の表現をどこかの本やサイトでも時折見かけてきました。これを、「〜という課題さえクリアすれば、自分の欠点を直す、性格を変えることはできる。」と言い換えてみます。すると、何となく、「『〜という課題』さえクリアすれば良いのか!」と思えてこないでしょうか。

で、(無事?)そう思えたならば、より具体的に「〜という課題」とは一体何なのか、それはどのように解決できるのか、を徹底的に突き詰めてゆけば良いのです。もちろん、それで確実に解決できる答が見つかる保障はどこにもありません。でも逆に、世の中の「〜できない」の中で、数学の定理のごとく極めて厳密に不可能と証明されていることも少数です。裏返せば、何でも突破の可能性は探れば多少はあると思います。

むしろ、実際の壁になっているのは、「〜できない」という思い込みではないでしょうか。小生の狭い経験からしても、思い込みの効果(この場合負の効果)は意外と無視できないほどに大きいと感じています。小生自身が思い込みの激しい性格だから尚更なのかもしれません。皆さんのご経験の上ではいかがでしょうか。

個人的には、そのような言い換えを今後意識的にどんどんしてゆきたいと思います。
今回は以上です。

by なさ












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プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(1)

 10年ほど前だが、小生は社会人となって間もなく、早くも壁にぶち当たった。

 仕事で散々失敗(今にして思えば、典型的なADD的失敗)をやらかし、人づき合いの下手さも重なり、上司や先輩から繰返し叱られ、嫌味を言われるうち、精神的に滅入ってしまった。

 すぐに精神科に行けば良かったのだろうが、当時はそういった行動を採らず、どういうわけか、以前から興味のあった心理学に解決策を求めようとした。

 当時はネット環境が貧弱であり、主に本屋の立ち読みで情報収集していた。心理学のコーナーで悶々と本をあさっても、自分の悩みにそのものずばりと言えるものはなかなか見当たらなかった。

 当時まだADHD/ADDを全く知らず、例の「片付けられない女たち」の本も出版前(2000年5月出版)と記憶しているので、無理からぬことだったかもしれない。

 その中でも、精神の安定化、能力・性格の改善という点に魅かれ、催眠やNLP(神経言語プログラミング)などに段々と傾注し、本を買いあさることを繰り返した。

 ちなみに、後者については、(そもそも本を買って安心してしまい、書いてあることの実践もロクにしなかったが、)何も効果は無かった。後にネット上で全くのインチキである旨の記載を見つけ、全く信用しなくなった。

 前者の催眠については、これもピン〜キリと言え、胡散臭い本も少なくなかった。胡散臭くはないにせよ、ヨガのようなものを解説した後、「生きることの意味について考える」ことをやたらと推奨するなど、哲学・宗教色の強い本もあった。

 段々と希望を失いかけていたとき、ある大型書店の片隅で「感情モニタリング」という本に出会った。お世辞にもメジャーな本とは言えない代物であったが、著者の経歴や資格、何より本の内容から、個人的には「これだ!」と感じた。

 指先の触覚など身体感覚を意識することにより、喜怒哀楽的な感情を自在にコントロールするという、ある意味では画期的な方法である。

 姉妹編の本も探して読み、半ば自己流で(ではいけないのだが)色々と実践した。後にその著者のカウンセリングルームにも一年ほど通った。その結果、数か月を経て、精神の落ち込みが非常に減った。家族からも「ねぇ〜、落ち込まなくなったよねぇ。」と驚かれるほどであった。

 ただ、結局このときは、後のあるきっかけで落ち込みやすい自分に戻ってしまい、その意味では失敗に終わったが、部分的には成功体験と言えるものであった。

 次回以降、その成功、失敗の話を掘り下げて述べたいと思う。次回に続く。
 
 
by なさ











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プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(2)
 

今日は、話の続きとして、特に以下の2点について触れたい。
  ・感情モニタリングなる方法やそれを開発した心理士を何故信用したのか?
  ・具体的にどういう手法なのか?どういう訓練が必要なのか?


まず、何故信用したのかについて述べる。

小生がたまたま見つけた「感情モニタリング」なる本は大型書店の片隅で埃をかぶっていた本ではあったが、特にそれまで小生が読んた本の内容と比べ、理論的、体系的であり、またそれが首尾一貫していたからである。

また、商業色や哲学・宗教色が全く無く、むしろそれらを批判的に書いていたことも挙げられる。(それまでに読んだ本は、肝心の部分の科学的説明をぼかし、セミナー等の金の支払に誘導しているもの、途中から宗教的思想や教えに走っているものも少なくなかった。)さらには、人間の感情のメカニズムを分析し、高度な心理学的技法によってそれらを制御できるという、いわば人間機械論的な思想を感じたこともある。(最後の点は思想信条にも関わる部分なので、受け止め方は人それぞれだろう)

何より、(初めはそれでも正直半信半疑だったが、)一念発起してその心理士の下に通い、数か月を経て効果が少なからずあったからである。


次に、具体的にこの方法がどういう方法なのかについて。

良いまたは普通の精神状態で、指先の触覚などの身体感覚や、喜怒哀楽的な感情(に起因する身体感覚、たとえば頭にかーっとに血が昇っている状態、緊張して心臓がバクバクしている状態など)に気付き、それを対象化して客観的に見つめてみるという方法である(と小生は解釈している)。

これは、先日のワンフレーズにも挙げた「眺める自分」を前面に出すことの言い換えとも言える(と勝手に理解している)。

こうすることで、不思議にも、怒りや落ち込みなどの感情がぼやけ、精神に落ち着いた状態(トランス状態、潜在意識が出やすい中立的な感情の状態)に入る。訓練を積めば、強い不快感や精神の落ち込みをも落ち着かせられるとのこと。つまり、精神状態の安定化が図られるのである。

加えて、トランスの状態に入っているとき、自己暗示をかけると、その暗示は通常時よりも効きやすくなるという効果もあるのだそうである。自己暗示は、禁煙やあがり症の克服などの自己改善に役にたつ。

この方法を適切に訓練を積めば、このように様々な面で少なからぬ効果が見込まれるようだ。


なお、この方法を開発したきっかけの話が本に出ていた。面白いので、ここでご紹介する。

古い年代の哲学者・心理学者が、人間の感情とはいったい何なのかを探究すべく、自分の内面の感情を客観的に観察しようと試みたそうである。

だが、どうやっても、湧き起こる喜怒哀楽的な感情(に起因する身体感覚)を客観的に見つめようとすると、すぐに感情が治まってしまい、全然観察、研究ができないという泣き事が古い文献に書かれていたそうである。

これは、裏返せば、湧き起こった感情を客観的に観察することでその感情を静められるという大きな発見でもある(上記の哲学者・心理学者はその価値に気付かなかったらしい)。それを応用して開発したのが、この「感情モニタリング」なる臨床心理学的技法だそうだ。


今回はここまで。引き続き、次回以降も話を続けたい。


by なさ


















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プチ成功体験5・ネット投稿、サイト運営で得る緊張感

早いもので、小生がWingBrainに参加させていただいて、半年が過ぎました。また、自分のサイトを開設して、3か月が経ちました。

この間、色々なことをネット上に投稿、議論しました。その中で、この世界の先輩方々からいただいた有益なお話が何より有難いものです。


それ以外にも、小生自身の日々の体験記や日誌的なものを定期的にネット上に報告、投稿する形を採るようにしたことで、良い意味で自分を追い込み、適度な緊張感を保てるようになったと思っています。

今までは思いついてちょっとやっては、すぐ飽きたり忘れて挫折、というパターンの繰返しだったので、それが毎日ペースで日誌的なものをつけられ、ひいてはそれで自分を客観的に見つめられるようになったのはすごく大きな進歩です。

自分で言うのも何ですが、他サイト掲示板の過去記事や自分のサイトの記事、更新履歴などを見ると、この先延ばしが激しく、意志薄弱な自分が、我ながら良く継続できているなぁ、とちょっと感慨深いものを感じます。

この達成感を味わうと、今の精神状態が良いからというのもありますが、何だか先延ばしなどの欠点を克服できた、あるいは今にもできそうな気さえしてきます。大袈裟かもしれませんが、でも自分を良い意味でだますことは必要と思います。


正直なところ、掲示板の記事や自分のサイトのヒット数、アクセス数がどうしても自然と気になります。初めは意識的にそんなの気にすべきではない、と言い聞かせていましたが、最近はむしろ意識的に気にするようにしています。

というのも、それで投稿、サイト運営への意欲を保て、ひいては上記の良い緊張感を保てることにつながるからです。あと、日々の生活の中で、ささやかな楽しみを増やすことも、ストレス解消、気分転換の意味で重要と思っています。


この緊張感を保ちつつ(と言いつつも、最近ちょっと中弛み気味ですが)、またどんどん新たなことにチャレンジしてゆきたいです。それでは。

by なさ




 














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自転車を見直す

最近、自転車で通勤する人が増えているとのこと。会社によっては自転車通勤を積極的に進めているそうだが、確かにむべなるかなと思う。

まず、車通勤をする人間は逆賊売国奴人非人と心得ているが、一人二人の移動に車を使うなど、空気を汚し人を危険にさらし地球を温暖化する不届き者と言わざるを得ないからだ。もちろん、貨物運搬や多人数の移動、さらに地方で公共機関がない場所、そして高齢者や病弱者障害者については当然車の使用が不可欠であり、彼らの車利用を妨げているというわけだ。

ただし、私の場合、買い物などはもっぱら自転車を使うが使っている自転車は中国製の安物であり、もう3年くらい使っているし殆ど手入れをしていないが、未だにちゃんと動いている。とうに元を取ったが、なにより、おそらく健康に寄与しているのではないだろうか。いちど自転車で出れば2,30分は走り回るし、長い時は2時間くらい走りっぱなしであり、、坂道の多い日本の地形ではかなりの運動になる。自転車で出る時は少し遠回りをしてもJRの跨線橋の坂道を駆け上がることにしているが、ありがたいことに全く苦にならない。

私の自転車は変速ギアもない安物だが、坂道を駆け上がってもまったく体に負担を感じないのはありがたい。自転車の効用であろう。

人間の移動手段として自転車が一番効率が良いのは証明済みだが、最近車離れが著しくそれに伴い自転車の販売量が伸びているとのこと。

日本は元々世界に冠たる自転車製造国であり、また中古自転車が大量に中国に輸出されていたのは良く知られた話だが、今では中国から大量に安い自転車が入ってきている。しかし、本当の高級品となればやはり日本製に人気がある。

とにかく簡単な乗り物であるだけに、どんなメーカーでも作れるが、こういう品物に限って技術力の差が非常に大きく出る。変速ギアや軽量フレーム、駆動装置などはやはり日本製が世界でも第一級の信頼を得ている。

チタンフレームやカーボンフレームの自転車などになれば、車一台が優に買えるだけの値段がするが、私の知り合いの社長が乗っている自転車は50万円したそうだ。

150万の自転車などがネットに載っているが、もっと高いのもあるだろう。

それはさておき、確かに最近自転車が増えてきたような気がするが、若い人間なのに全く体力が無くて坂道を立ち漕ぎで必死に昇っているすぐ側を軽やかに中国自転車で追い抜くのは気分がよい。そんな楽しみも自転車は与えてくれる?

電動アシスト自転車が売れているようだが、あまり見かけない。駐輪場などでも無数の自転車の中に数えるほどしかないようだし、もし体力的に問題がないので有れば電動自転車は使わない方が良いと思う。が、それは余計なお世話だ。

レンタル自転車も増えてきたし、自治体ではどこで借りてどこで返しても良いレンタル自転車を用意しているところがある。世田谷区では使い放題で月額2000円だそうだが、私の場合、4,5ヶ月で元が取れてしまう。

それに放置自転車のリサイクルなどもあり、おそらく3000円くらいで自転車は買える。

メタボ対策にも有効なようだし、もっと積極的に自転車を利用することをおすすめしたい。


by ロクスケ











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失敗学の実践とADHD

「失敗学」の考え方が提唱されてからだいぶ経ちました。流行り言葉になっている感もありますが、失敗を学問化するという視点は今でも非常に画期的です。

 小生も初めに出版された「失敗学」の本を買って読んだことはありますが、知らぬ間に失敗学はどんどん進化しているようで、こんな公的なデータベースが構築されていることをつい最近知りました。http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search

 日本人はそもそも失敗を良く分析せずに済ます場合が多いとの話もあります。先日、会社内で安全対策部門の研修があり、部長による特別講義の中で「失敗を分析しないのは日本人の悪しきDNA」といった発言までありました。世の中にもっともっと失敗学が浸透してゆくことを願っています。

 これまで、ADHD(的症状)と失敗学というのを直接結び付けた話は当事者や専門医師、カウンセラーの話としてあまり聞いたことがありません。ですが、ADHD/ADD当事者こそ、失敗学を積極的に実践すべきではないでしょうか。

 ゆくゆくは、上記の失敗データベースのような、ある程度公的な、ADHD当事者特化版の失敗データベースを構築してゆきたいと思っています。メルマガ原稿や自分のサイトの記事はそのための基礎作りとも言えます。

 小生は、今から10年ほど前ですが、あまりに社会人になってからあまりに仕事上の失敗が多く、自分なりの対策として、催眠などに手を出す一方(別記事参照)、その日その日の失敗を日記に綴ろうとした時期がありました。

 今にして思えば、失敗学の自分なりの実践の先駆けになるものだったと思います。ただ、そのときは、それなりに失敗を記録することは続いたのですが、失敗の記録にばかり拘ってしまい、分析と対策を殆ど実行しないうちに挫折してしまっていました。

 最近メルマガ原稿を定期的に書き、自分のサイトを開設してから、改めて挫折した失敗日記と分析を復活しようと思いました。今回は、挫折防止のため、ネット上で内容を公開していこうと思います。

 既に今まで自分のサイトでまとめてきた内容として、「自己分析の実践」があります。http://docs.google.com/View?id=dhnsf7jb_12hfhxrnjc自分の悪い癖を挙げ、事例を分析したものです。

 これを書きながら、最近改めて気付いたことがあります。空気が読めない、時間管理ができない、先延ばし、過集中、不注意…。いずれも、共通することの一つは「偏り」なのです。

 例えば、過集中、不注意は集中力の配分の偏りの結果と言えます。また、時間管理、先延ばしは時間感覚の偏りの他、自分の感情・欲望的な面(面倒くさい、他のことを先にやりたい)を理性で抑えられないことの結果です。空気が読めないのは、五感から入ってくる情報の処理に偏り、または欠如があることとも思えます。

 年度初に目標として掲げた、先延ばしの原因の追及という面で一歩進められたかなと思っています。引き続き、取り組みを続けてゆきます。
 
by なさ

 失敗学ですが、私が書いたひらめきすぎる人々に、失敗をしたら書き出してみて、どのような失敗が多いか、自分が自覚しないままにパニックに陥っているのではないかの分析をしてみようと書いてあります。ただし、毎回書き出すと精神的に落ち込むので、決まった時期にやってみて結果が出たら止めた方が良いでしょう。

 そして、失敗の中には決して治らない失敗があることに気がつきます。つまり意識が飛ぶためにする失敗ですが、意識が飛ぶとは失神とは違い、或瞬間にまったく違った思考の流れに移ってしまう状態です。普通の人にはあり得ない状態ですが、ADHDには珍しくありません。

 自分がたった今考えていたことを次の瞬間に忘れてしまう状態です。

 これにより起こる失敗は絶対に防げません。一つの方法は、日常的に行うことであれば体に覚えさせる、つまり習慣化することですが、日常的に行うわけではない事については、もしそのような失敗が頻発するようになったら、その時は止めて、無自覚のパニックが収まってからやり直すしかないようです。

 あとは、メモを取りながらやることで、ある程度カバーするしか有りません。

from ロクスケ















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プチ成功体験4・催眠、自己暗示による感情コントロール(3)


 今日は、話の続きとして、特に以下の点について触れたい。・感情モニタリングなる方法は具体的にどんな方法なのか? 習得するには、どのような訓練をどの程度、どんな頻度ですべきか?・本の通りにやってみて、実際のところどうなのか?

 本の受け売りだが、どんな感じの方法なのかをまず簡単に述べる。(本記事はあくまで小生個人の視点で書いているので、詳細は前回紹介 した本を直接参照されたい。念のため、本記事の最後にも再度挙げる。)

 人間の五感(触覚、味覚、聴覚、嗅覚など)を意識するという方法である。まずは触覚が良いとのことなので、その通りにしてみる。指先で物を触れているときの感覚、あるいは立っている・座っているときの足が床に触っている感覚、尻が椅子に触れている感覚などを意識する。

 慣れないと何だかよく分からないし、初めに言葉で言われるだけではピンと来ないと思うので、とにかくまず試してみるとよい。ここで、意識する際、気楽な感覚で、興味本位で眺める程度の感じでやることが大切のようだ。歯を食い縛るほど強く意識しすぎるのは逆効果である。

 小生の主観的な感覚で言うと、特に目をつぶって触覚を意識すると、頭の中に触覚に対応した漠然としたイメージのようなものが浮かぶ。そんな状態を気楽に構えてしばらく(数十秒?)維持していると、何となく感覚的にホワーっとした、視界もややぼやけるような気分になってくる。

 それが催眠の言葉で「トランス」と言い、感情的に中立な、暗示のかかりやすいリラックスした状態である。自然に体の力も抜けてくる。(強いて言えば、テレビをぼーっと見ているときの感覚に近いだろうか? 誰でも、そんな感じになるときはあるでしょ?)

 このような触覚の意識化と合わせて、今現在の自分の気分、精神状態が良いのか、悪いか、あるいは普通なのかをチェックするという行為を行う。(触覚の意識化でトランスに入ってしまえば、気分は悪くはなくなるはず)

 自分の経験からすると、初め本を読んで、自分の精神状態の良悪を自分で気づくのは案外難しいのでは?と思ったが、やってみると意外とできる。ただ、慣れないと、何でもない普通の状態というのはピンと来ないかも。

 頭の中や腹、胃のあたりの身体感覚(のイメージ)を意識してみると良い。あとは、自分に対して心の中で「今の気分はどうだい?」と語りかけてみると心の奥から返事が返ってくるかもしれない??。

 チェックして、気分が悪くなければ(=良い、普通ならば)、やはりしばらく(数十秒?)その気分、精神状態のときの感覚を気楽に構えて味わうように意識する。逆に、気分が悪ければすぐに意識化を止めることが大切だそうだ。

 気分の意識化をしばらく続けた後(あるいは悪い場合に意識化をすぐ止めた後)、また上記の触覚の意識化に戻り、今までの流れを5〜10回程度繰り返す。これら一連の動作を一パックとして、一日あたり一パックを3回(朝・昼・晩?)やり続けると、約2週間で触覚や気分の意識化が自然とできるようになるそうだ。

 これらができるようになることが、感情モニタリングの基礎になるとのこと。小生はまだ基礎がしっかりできていないので、しばらく続けてゆきたい。今回はここまで。続きは、追って2週間後に次回の記事として報告したい。

 参考文献:「感情モニタリング・実践編」(河野良和著、1988年、河野心理教育研究所出版)

by なさ















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ADHDの特性をもってADHDを制す

 最近自己分析を進めながら、一つの自助努力の方向性として思っていることです。

 最近、自分のサイト上で自己分析として書いていることですが、小生は過集中、同じことを繰り返したがるなど、いわゆるADHD的症状として典型的な傾向を持っています。これらの傾向を、単に克服対象の欠点とばかり捉えるのではなく、逆手にとってそれらを利点として活かしつつ悩み解決につなげられないかと考えています。

 例えば、過集中などは、(方向性さえ間違わなければ、)知的生産活動としては有益です。また、同じことを何度も繰り返したがる傾向は、例えば論文を書くときの仕上げチェックなどに有用です。初めに細かい点は気にせずざーっと書き上げるうち、何度もその論文を読み返したくなってきます。その読み返し意欲を誤字脱字等のチェックに活かしたりするのです。

 このようなADHD的特性を利点として活かすという発想は、WingBrainサークル初め各自助サークルでも従前より言われてきたことかと思います。

 ここではさらに、利点として活かす対象として、ADHD的悩みの解決そのものにターゲットを絞ってみても良いのではないか、と思っています。

 これらの能力を、自分の悩み、欠点を克服すること自体に活かすのです。今の小生自身は、それ自体に強い興味、意欲を持っています。過集中的に考え続けることもあります。また、このサイトやWingBrainメルマガ原稿を書くときに、繰返し癖を活用しています。

 これらの利点を活かしつつ、ADHD的特性を活かしたADHD的悩み克服カリキュラムなんてものを具体的に考えてみたいと思います。

 自分と真正面から向き合い、自分の失敗、欠点を見つめる、というのはなかなか意欲も、勇気も湧いてこないものです。とはいえ、最近経験則で気づいたのが、自分を客観的に対象化、文章化すると見つめやすいということです。

 例えば、自分に「Xさん」と名前をつけ、Xさんが過去にどういう場面でどういう失敗をしたかを文章化してゆきます。「Xさんの失敗日記」「Xさんの事例分析」などのタイトルでシリーズで文章を書くのも良いかもしれません(小生は他でそのような内容を書いたことがあります)。自分をXさんとして対象化して見ると、意外と客観的に、冷静に見つめられます。

 今後、メルマガ原稿でもそのような内容を失敗事例分析としてシリーズで書いてゆきたいと思います。何通も書いたら、WBの実用集のように、体系化してまとめたいと思います。

 by なさ
 
その通りと思います。欠点や長所の多くは表裏の関係であり、自分で欠点だと思っていたことが、別の視点で見ると長所だというのは良くあることです。ADHDでの過集中はおっしゃるとおり、うまく使えば、例えば学究関係などでは非常に有効でしょうし、そもそも何事も一芸を極めるには間断の無い継続した集中が求められます。したがって、ADHDの過集中は積極的に利用すべき事だと思いますし、ASに見られがちなこだわりの強さも同じ事が言えると思います。

ただし、ADHDの過集中やASのこだわりの困った点はそれを自分でコントロールできないことです。ADHDの過集中も必要な事に対し発揮できれば良いのですが、必要なことではなく興味を持ったことに対して過集中してしまう点が困るのです。人生、興味を持つことと必要なことが一致することはあまり無いために、必要なことをほったらかしてどうでも良いけれど興味を駆られたことに集中してしまうのが困るのです。

そこで解決策としては、必要なことに興味を持つ、と言うことになると思います。普段面白くも何ともない仕事でも、もし仔細に見てみれば面白い点が幾つもあるはずであり、そこに興味を持てば集中も出来ると言うことです。

興味を持つには何らかの理由があるはず。それをきわめて興味を持てばADHDの過集中の利点を遺憾なく発揮できるのではないでしょうか。


from ロクスケ
 









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人の振り見て我が振り直せ

 月並みなことわざですが、最近心がけていることの一つです。

 自分の欠点を克服しようとしても、なかなか自分と真正面から向き合う意欲、勇気は湧いてきません。でも、家族や職場の人など他人と接していると、嫌でも人の欠点は見えてしまいます。

 見えてしまった人の欠点をもって、その人を悪く言うのではなく、自分に置き換えてみて、同様な(あるいはそれ以上に悪い)欠点を自分は持っていないかを良く考えてみることは自己改善の上で非常に大事なことではないかと思います。

 スポーツの世界でも、自分の技を上達するのに、他人を良く観察するというのは比較的基本的な姿勢の一つだろうと思います。さらに言えば、プロスポーツ選手は、自分のスイングなどをビデオに撮り、コーチとともに自分の姿を良く分析して、改善、上達に活かすことが多いようです。

 最近思うことですが、このようなプロスポーツ選手の姿勢、上達法は、ADHD的症状の当事者も実践してみる価値が多分にあるのではないでしょうか。自分をビデオにでも撮れば、嫌でも自分を客観的に見れてしまうのかもしれません。

 例えば、自分自身のしゃべり方、ふるまいをビデオに撮って、それを自分で何度も見返して自己分析するのです。そういえば、10年以上前に就職活動するとき、自己分析なるものを色々した記憶がありますが、そのときにも面接でのしゃべり方などをビデオに撮って練習すべきだったなぁと当時思ったことがあります(当時はビデオカメラなど持っていなかった)。

 四六時中自分をビデオに撮ることはできないでしょうが、発表や面接など大事な一場面での自分を撮ることはできるかもしれません。しゃべり方、間の取り方など、改めて自分を良く観察してみようかと思いつつある今日この頃です。

 by なさ

自分を観察する一番良い方法は、人と交わることです。相手の反応を見れば、自分がどう見られているのか、客観的な自分の観察が出来ます。とは言え、結構難しいのですが、それは誰でもが時分が正しく、相手が間違っているとの前提で物を考えるからです。これはこれで必要なことですが、ただし、これとは別に相手の目で見て自分がどう見えるかを考える訓練はしておく必要があるでしょう。

人間は集団生活をする動物です。人との協力が得られなければ、殆ど何も出来ないと考えて良いでしょう。従って、自分の正義、自分の基準、自分のけじめとは別に、相手の正義、基準、けじめを理解できる人間が結局社会の中で人の助けを上手に借りながら大きな事が出来るという結果になるのでしょう。ただし、これをはき違えると、自分を失いかねませんが。

from ロクスケ













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目標達成

 私事で申し訳ないが、私個人のサイトに毎日一作ずつの小説を載せると決めて開始し、とりあえずの目標を1000作品としていた。現在、何とか992作目にこぎ着けている。予定よりも何と一年四ヶ月あまりおくれてしまったが、とにかく1000作品はあと数日で出来るだろう。私が何かを達成することはあまり無く、挫折することが多いのはご多分に漏れないが、おそらくあと8作で目標達成だと思う。
 
 ただし、992作品の中には、書いたことを後悔するような駄作がある、というよりかなり多いが、とにかく1000作品を書き上げることが目標だったので、質より数と言うわけだ。それと、実は長い作品を毎日少しずつ書いてUPした物もあるので、正確には1000作品とも言えないのだろうが、まあ、それも目をつぶる。
 
 私は元々文章を書くのは好きなので、小説を書くのも好きであり、例えば今号にも一作品載せている。この手の作品を毎日一つずつなら書けるだろうと最初に考えたのだが、少し甘かった。一作品の長さは四百字詰めで八枚から十枚くらいのもので、平均一時間で書くし、気が乗れば一日に4,5作品書くことも出来る。しかし、精神的に落ち込むと全く書けなくなり、そんなときは何ヶ月も放っておくことになる。それが、一年四ヶ月達成がおくれた理由だ。
 
 それはともかく、あと八作品で目標の数が書き上がるので、とりあえず誤字脱字(これが結構多い)を直し、どうしようもない駄作は他の作品と差し替え、余裕があればイラストを添えるなどの作業をしてみたい。そのあと、どうするかは考えていない。とにかくやり遂げることが目標だったので、次に二千作に挑戦するか、止めるかと言うことになる。
 
 同時にブログを書いているが、これは2,3日に一回のペースで書いていて、それも結構長文であり、小説よりも長い。このブログは結構私の思想信条を吐露したもので、中立厳正とは言い難いが、個人のブログなので全く構わないと思っている。自分の価値観や思想がむろん完全に中立公平で正しいなどと思いもしないが、それでも遠慮しないで好きなだけ書いているのは肩が凝らなくてこれもストレス発散になっている。ただ、余りに好き勝手を書いているので訪問者はあまり居ない。
 
 このメルマガのような、あるいはWingBrain委員会のサイトのような場所は公共の場所と考えているので、個人の戦時信条宗教観などは一切載せないようにしているが、その分小説はフィクションであり好き勝手を書き、個人ブログも遠慮しないで私の独断と偏見を書き殴っている。これはストレス解消に結構効くようで、落ち込んでいるときなど結構過激なことを書いているようだ。読む人は辟易だろうが。もっとも、そんな好き放題を書いている場所でも、個人の中傷誹謗などは絶対に書かない。それさえ守れば、それと余りに過激で犯罪に結びつくとか、犯罪を助長するような内容でさえなければ、まあ大目に見てもらいたいものだ。
 
 なにしろ、あと八作品で1000作品完成だから、あと2,3日で上がるだろう。今はそれを確実な物にしたい。そしてささやかな達成感に浸りたい。
 
 
by ロクスケ
 







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できる人モデル、できない人モデル

 仕事にせよ、家事、勉強、趣味等にせよ、何かが得意/不得意、できる/できないというのは人それぞれの個人差としてあると思います。

 例えば、学校の勉強に関して、物理が苦手な人がいた場合、その人は何故理解ができない、問題が解けないのでしょうか?逆に、できる人は何故それができるのでしょうか?

 勉強に限らず、一般に人間の能力、性格的な側面について、このような「できる理由」「できない理由」を認知心理学等の観点から、徹底的に分析してみたいと思っています。

 その上で、典型的な「できる人」「できない人」の状態、およびその根幹原因を何通りかの(何通りもの)モデルとして表し、そのモデルとの差異から分析対象とする人の改善、成長させるべき要所を細かく割り出し、その人の能力的、あるいは性格的成長につなげたいと思います。

 あらゆる人(特にADHD的症状を持つ当事者)について、その能力的、性格的特性の大部分、もっと言えばその根幹原因の大部分をもモデル、パターンとして表せるならば、自己改善するにも、他者の力を借りてのカウンセリングも、だいぶパターン化して進めることができると思います。

 (現状は、自己改善するにも、他者カウンセリングするにも、人それぞれ手探り、オーダーメード的だろうと思います。それがある程度画一化されたものにできれば、それなりにやりやすくなるはずです。)

 人それぞれ個性はあるのだし、画一的なモデルなんてナンセンスでは、との意見もあるかもしれません。ただ、小生はある程度大まかな次元では、能力的、性格的側面を画一的なモデル、パターンとして表せると以前から考えています。

 例えば、上で述べた、物理や数学が苦手、得意という場合、自分の経験も踏まえれば、苦手な人、得意な人それぞれの典型的な頭の中の状態というのがあると思います。

 それを具体的に、何らかの図絵や数式、言葉などで表現できたとすれば、面白いし、苦手の改善などにも有効ですよね。(もしかして、世の中の理科系離れにも一役買うかも??)

 これらの点について、今後ライフワークとして取り組んでいきたいと思います。

 by なさ

 











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自分を変えられないことの厳密な証明はあるか?


 精神的な悩みに関する書籍や精神科、カウンセリングなどの場面で、自分を変えようとしても変えるのは難しい、そのままでいいよといったアドバイスが多く散見されます。

 もちろん、決して、それらの助言を全面的に否定するつもりはありません。これまでの医師や心理士、当事者様々な人たちの経験則から、人の性格的側面を変えることが難しいことには一定の説得力があるのだとは思います。

 あるいは、脳科学または精神医学、心理学といった少なくとも何らかの科学的見地から見て、自分の性格的、能力的側面は変わりにくい性質があるのだろうと思います(しかし、それを精緻に解き明かした研究は存在するのでしょうか??)。

 しかし、それがいつのまにか、「自分を変えることは不可能」というニュアンスに意味がすりかえられていないでしょうか?それは大きな論理の飛躍だと小生は思います。

 今現在、自分の性格的、能力的側面を誰でも効率的、効果的に変えるための最適な手法、訓練カリキュラムが仕上がっていないだけ、その分野の研究が十分に進んでいないだけだと小生は強く思っています。

 そういった方法論を追求、構築する余地は多分にあると思うのですが、そういった取組みを専門家の側の人たちが十分にせず、患者を、自分を変えようとしてみてもなかなか変わってくれないという専門家、当事者それぞれの単純な経験則から、いつのまにか「自分を変えることは無理」「自分を無理に変えない方が良い」などという考え方が広まってしまってはいないでしょうか。そうだとすると、個人的には非常に納得が行きません。

 先日、大学病院で主治医と話をしたとき、「発達障害の人は、無理に自分を変えようとすると精神的に良くないから、最低限度の部分を人に合わせるようにして、好きなことをやって、ストレスを溜めないように過ごすのが良い」と言われました。

 それに対し、「自分の性格的側面を変えることが困難であることは、何かの科学論文等で論証されているのか?」と聞き返したところ、「いや、論文とか、そういうことでは…」とのやや困ったニュアンスの返事が返ってきました。

 是非、専門家の立場の方々には、あるいは当事者の可能な範囲での自主的な取組みとしても、そういった自分を変えるための方法の追求をもっともっと行って、考えてほしいと思います。

 少なくとも、小生は、(当事者の立場ではありますが、職業柄研究者のはしくれとして、)その方法の追求を今後一生をかけて、半ばライフワークとして精力的に取り組んで行きます。

 その宣言を今日の最後の一文とさせていただきます。

by なさ


 日頃から私なりに主張していることですが、障害は本人の責任ではない。しかし、結果には責任を取らなくてはならないと言っています。これは、自分は障害でうまく出来ませんからそれを認めてくださいと周囲に容認を求めてはならないと言うことです。よく、障害も個性だからありのままでよい、そのまま認めてもらえばよい、と言う人が居ますが、それでは単にハンディを認めてもらっているだけのこと。障害を負ったのは100%時分にも誰にも責任はないけれど、それを認識し改善するのは本人の責任だと言うことです。まちがっても個性だから認めてもらう、という考え方は容認出来ません。

 自分は変えられますよ。少なくとも原因を知り、理解すれば、それに対する自己卑下は無くなるはずだし、二次傷害の改善にも役立つはず。またもしそれを自分の特性としてうまく使えるなら、それに越したことはないはずで、障害自体が治らないのと、それに伴う性格が直らないというのをなささんの医師は混同しているのではないでしょうか。

 いまだ、日本には専門医がまともにいません。そのつもりで医師と対峙する必要があると思いますよ。時には医師を退治する必要もあるかも知れません。

from ロクスケ

















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今日のワンフレーズ:「達観」


 小生の好きな言葉の一つです。何か一つのことを極めたとき、あるいはその道の専門家である場合、その分野については深い、膨大な知識と鋭い洞察力を持っていることになります。

 ADHD的な人、あるいはアスペルガー症候群的な人の場合、何か特定の一つに非常にこだわる傾向があると思います。逆に言えば、それがADHD、アスペ的な人の優れたところの一つだと思います。

 それを上手く持って行ければ(あくまで上手く持っていけば、ですが、)、その分野を極めて大成することも決して不可能ではないと思います。

 勝手な意見ですが、そういった傾向を持つ人は、何か自分の好きなこと、興味あることをテーマに、その道のプロ的な専門家、研究者になることをお勧めしたいと思います。また、それを支援する世の中の仕組みも必要ですね。

 小生は研究者のはしくれですが、自分の専門分野について、一刻も早くそんな次元に到達したいと願っています。物事を達観できる次元に到達できた自分をイメージトレーニングすると、仕事のやる気もより一層沸いてくるというものです。

 最近は、仕事の専門分野だけでなくて、ADHDについても同様に強い興味を持つようになってきました。当初は、一当事者として必要に迫られて、という感じでしたが、最近はADHDについて考える、取組むこと自体がライフワークになってきています。良いアウトプットを出せるよう、是非このまま続けたいと思います。
 
by なさ

 

 













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先延ばしについて考える(1)

 今日は、小生が自分のサイトで今年度の目標として掲げていた、先延ばしのメカニズムについて、重い腰を上げて考察してみたいと思う。

 まず先延ばしをしてしまう原因について考えてみる。自己分析を通じて考察してみると、以下のようなものが考えられる。:

 1.やるべきことのやる気が起きない小生は脳科学について素人ではあるが、やる気を出す脳内物質が適切に分泌されれば、やるべきことをやりたくなるのではないだろうか。

 そういった物質の分泌に普通の人と比べて大なり小なり何らかの異常、あるいは異常とは言わないまでも、何らか上手く働かない面があって、普通の人ならばやろうと行動するところ、ADHD的な人はやる気が起きずやれない、ということはないだろうか。

 ネット上でにわか勉強してみると、「ドーパミン」などの神経伝達物質がそういった役割を果たしているようだ(違ったらすいません)。この点についてはもっと深く勉強してゆきたいと思う。

 2.やるべきことではないことをやってしまうこれは、上の1.の裏返しで、やる気を出す脳内物質が不適切なところで普通の人よりも多めに分泌されてしまうことではないだろうか。

 あるいは、これをやりたいといった欲望、やり出した行動を抑制する脳内物質が不足しているという考え方もできる。まさに、「わかっちゃいるけど止められない」という状態そのものである。逆に、上の1.は「わかっちゃいるけどやり出せない」といったところか。

 これについても、上の1.と同様、もっと深く勉強してゆきたいと思う。

 3.他にやりたいことを先にやってしまい、手がつけられないこれは、脳科学の領域まで突っ込んで考えれば、上の1.や2.と切っても切れない面はあるのかもしれないが、敢えて区別してみた。

 要は優先順位付けである。上の1.と2.では、ある一つのやるべきこと、やりたいことについて、やる気が起きるか起きないかという観点で考えてみた。そのやるべきこと、やりたいことが複数個あった場合には、時間的な順序付けをしなければならない。その順序付けが適切に行われないということである。

 これも、脳科学の次元で考えると、1.や2.と別の原因とするならば、にわか勉強の上での浅はかな考えに過ぎないが、前頭葉や大脳辺縁系などの働きに関係するのかもしれない。これについても勉強を続けたい。

 4.やるべきことをそもそも忘れてしまうこれも上の1.〜3.と多少関連性があるのかもしれないが、敢えて区別した。やるべきことがいくつもあった場合、純粋に忘れてしまうということもあろう。その場合のことである。

 ADHD的な人の場合、忘れっぽさは対象物に興味をどれだけ持てるかによって大きな影響を受けるようだ。まさに小生自身もそんな感じである。はたから見て、どうでも良い細かいことはいつまでも覚えているくせに、大事な直前のことをすぽっと忘れてしまうのである。

 脳科学の次元で見ると、短期記憶に関係するところだろうか。長期記憶は優れているけど、短期記憶に何らかの問題があるといった場合には、学校の勉強の面では良い成績をとれるけれど、直前の大事なことを(ある程度の興味が無ければ、)すぐ忘れてしまうので、仕事や日常生活の面では支障を来たすといった事態も十分考えられる。

 やはりこれも、脳科学の面から深く勉強してゆきたい。

 5.時間感覚の狂いどの時点でやるべきことをやり出せば十分無理なく終わるかといった時間的な面での読みに狂いがあると、(あるいは、そもそも、そういった時間的な読みを何もしていないと、)大事な課題に全く手をつけず、直前になって慌てふためくという事態は十分考えられる。それがまさに先延ばしそのものでもある。

 脳科学の面から見て、時間感覚はどのような部位の、どのような脳内物質が関係しているのか、まだ不勉強なので、分かっていない。これについては特に、基礎的な面から勉強してゆきたい。

 6.シミュレーション力の欠如これは上の5.と切っても切れない面もあるが、敢えて区別した。

 普通ならば、物事の筋道を立てる場合、頭の中でシミュレーションをするのだろうと思う。そのシミュレーションが適切でない場合、あるいはそもそもシミュレーション自体をやらない場合、このまま行くとまずいという予見ができなくなり、何でも行動が場当たり的になり、失敗を招くという流れが考えられる。

 場当たり的な行動という意味では、上の2.も関係はしていると思う。すなわち、衝動、欲望を抑えきれず、発作的、場当たり的な行動をついしてしまうということである。今述べている6.はそれとは少し違うものである。

 これも、脳科学の面からの知識が今現在無いので、追々勉強してゆきたい。

 7.他人の迷惑度、気持ちを推し量る力の欠如これは今までの1.〜6.とは少し性質の違うものだが、関係はするものと思われる。

 課題を先延ばしにし、締切り直前になって慌てたり、締切りを守れなかった場合、関係する人々に大なり小なり迷惑をかけることになる。

 他人の気持ちになって考えるという力があるならば、そのような行動を多少たりとも抑制する効果が生じるのではなかろうか。逆に、その力が無ければ、何の歯止めも無いことになり、ついついやらかしてしまうことにもなる。

 これも、脳科学の面で何がどう関係しているのかの知識が今現在無いので、追々勉強してゆきたい。

 考えられる原因としてはとりあえず以上である。他にもあるかもしれないが、それは追って追加してゆきたい。

 今回はここまで。次回は、上に挙げた原因への対策について考えてみたい。
 
by なさ
















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先延ばしについて考える(2)

 今日は、前回述べた先延ばしの個々の原因に対する対策を考えてみたい。先に敢えて別々に原因を挙げたのは、この対策のためでもある。

 「1.やるべきことのやる気が起きない」ことへの対策要は、やる気(を出す脳内物質)が出ればよいわけである。そのためには、小生自身の経験から、以下のような方法が考えられる。

 ・場所などの環境による強制力を活用する。他のことをやれない環境を作る。例えば、家ではついつい好きなことをやってしまい集中できないが、職場なら多少は集中できるはず。・他人に協力してもらう。家族や職場の人など、他人に仕事などの進捗ややったかどうかのチェックをしてもらうと良い。・器具を活用する。小生は携帯のアラーム機能、Gmailの作業日誌、職場のWebスケジューラをかなり役立てている。なかなかやり出せなくとも、やらなければという意識付けにはなろう。

 ・何度も何度もやるべきことをイメージトレーニングする。これは催眠の応用になのか?臨床心理士のK良和氏は、認知心理学のマジカルナンバーオブセブンと結びつけ、7回イメージすると良い旨を述べていた(確か)。

 ・やるべきことを細かく分解し、中途半端でもよいから、まず手をつける癖をつける。例えば、掃除をするなら、押入れなどから掃除機を出してきて、コンセントにつなぐだけでもよいとする。そこまで出来たら、「第一段階クリア!」と自分を励ますと自信がつく?仕事などの作業をやるときも、まずPCを立ち上げ、GmailやWord、Excelなどの作業用ファイルを開くところまでやっておく。

 ・僅かな余暇時間で少しずつ作業を進めるようにする。後でまとめてやろうとしない。文書書き、日記付けや片付けなどは特に事前に僅かずつやっていくことが有効。少しでも手をつけておけば、自然に気になって考えるようになってくると思う。小生の場合、一度やったことを何度も後で繰返し見返す癖があるので、それを活用する。まさにこの原稿を書くこと自体もそのようにしている。

 ・いったんやり出して集中できてきたら、それを回りの環境によって阻害、中断されることのないような環境を作るようにする。ある程度長い時間集中しないと進まないこともある。例えば、小生の仕事で言えば、コンピュータプログラム作成など。

 「2.やるべきことではないことをやってしまう」「3.他にやりたいことを先にやってしまい、手がつけられない」ことへの対策これら2つはほぼ同じことなので、ここでは一緒にしてみた(そもそも分ける意味なかった?)。また、上の1.ともだいぶ共通するので、上の1.の対策に加えて、以下のものを挙げる。

 ・ついやり出してしまったことから上手く転移する方法を考える。そのため、やり出してしまったことになるべく近い作業を始められる環境を作る。例えば、ネットサーフィンを始めてしまったら、InternetExplorerなどのWebブラウザ上でもう一つタブを開き、そちらではGmailを起動させ、書き途中の原稿、メール下書きなどを表示させておく。ネットを見終わったら、あるいは少し飽きてきたら、すぐ開いておいた作業を少し手をつけるように念じておく(注:作業を全部一気に片付けようとは思わない方がよいと思う。経験上。)このような作業の移行をなるべくスムーズにできるような、一般的なノウハウ集があると良い。

 ・やるべきことは何でも、締切までの時間余裕を十分にとれるよう、早期に手をつけるようにする。その上で、一旦やり出してしまったら自然に手が止まるまでやり続けてしまう。やるべきこととしての優先順位が低いことでも、せっかくやり出したのなら、自然に止めるまでやってみる。他のやるべきことも含めて締切までの時間的余裕があるなら、それで大丈夫なはず。

 ・ついやってしまうことが時間的に際限なく続かないのであれば(例:ネットをつい見てしまうとしても見るサイトや箇所が決まっているなら、限られた時間で見終わるはず)、一通りやりたいようにやってしまう。やってしまえば、他の本来やるべきことに少しでも手がつけられやすくなるはず。ついやってしまうことも、事前に少しずつ時間を見つけて、やってしまうようにすれば良いかも。

 「4.やるべきことをそもそも忘れてしまう」ことへの対策・1.で述べたような、携帯アラーム機能などの器具の活用。器具の活用は失念防止に一番役立つものかもしれない。小生の場合、携帯アラーム機能が薬の飲み忘れに非常に威力を発揮している。

 ・やるべきことを作業日誌やスケジューラに細かくメモしておく。具体的に細かくメモしておけば、抽象的に「片付け」などと書いておくだけよりもイメージしやすく、したがって忘れにくいと思う。

 ・1.で述べたように、それをやることが楽しいと思うように何度もイメージトレーニングしてみる。あるいは、やるべきことが何かを考える作業であれば、問題意識を持って事前に少しでも考えておけば、問題意識が生まれて自然に気になるようになり、忘れにくくなる。

 「5.時間感覚の狂い」「6.シミュレーション力の欠如」「7.他人の迷惑度、気持ちを推し量る力の欠如」への対策・これらは皆、まず忘れずに、面倒くさがらずにやる癖を身に付ける必要がある。その上で、正しい時間感覚を身に付けるといった、認知の歪みを矯正するための訓練、できれば専門家の指導の下での認知行動療法的訓練が必要になろう。小生は臨床心理のカウンセリングルームに最近通い出したので、そこでの経過をサイト上で追って報告してゆきたい。

 ・カウンセリングに頼らないまでも、巷で言われている時間管理のノウハウなどを部分的にでも採り入れてみて、どの作業にどの程度の時間がかかるかを読めるようにする。いきなり細かく正確に何分何秒かかるというのを読むのは難しいので、ごく大まかにおおよそ何時間、半日/丸一日、何日分といった期間を読めるようになると良い。

 ・他人の気持ちを読むには、まず大まかに、相手が怒っているのか、機嫌が良いのか、悲しんでいるのか、など喜怒哀楽のどれに相当するかくらいを読み取るようにすると良い。

 また、上に述べた全てに共通する間接的な対策として以下のものが挙げられる。・催眠、感情モニタリングを身に付けるようにする。トランスに入ると動作がゆっくりになり、やるべきことをやりたくなる、あるいはついやってしまう衝動的、欲望的な行動を抑えられるかもしれない。イメージトレーニングは本質的には催眠であると考えられる。だから、トランスに入れれば、やるべきことをやりたくなる良い暗示になるのではないか。

 ・ワーキングメモリトレーニング(WMT)をやってみる。今小生も実践中であるが、いわゆるADHD的症状の改善に有意に効果があるそうなので、上に述べたような原因の改善にも間接的につながるであろう。・歯科治療(BBO)法。夜明け掲示板で紹介されていた方法。小生は未だ実践してはいないが、WMTと同様、大なり小なり間接的な効果はあるであろう。

 ・自分なりに対策を色々と考え、実践してみる。この記事を読まれても、なかなかつぶさに一つ一つ全部やってみようとはなかなか思えないと思う。そこで、各人が自己分析して、自分なりの対策を列挙してみるようにする。そうすることで、それらの対策が自分のものになってくる。自己分析などを進めるには、小生の経験からすれば、Gmailで日記をつけたり、自分のサイトを作って公開するなどの方法が有効である。

 今回はここまで。追って、対策を実践してみて気付いたことなどを述べる。
 
by なさ










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能力ホワイトボックス、性格ホワイトボックス

 NHKの番組「ITホワイトボックス」を真似たタイトルにしました。

 ホワイトボックスとは、ブラックボックスの対義語です。ブラックボックスとは中身が全く不明、あるいは中身には全く触れない、考慮しないという意味です。ホワイトボックスとは、中身を完全に明らかにする、中身を十分に考慮するといった意味になるかと思います。

 会社の中では、あるいは世間一般では、この人には能力がある、無いなどの言い方を通じて評価がなされます。この場合の評価とは、あくまで仕事ができるかなどの表面的なことであり、決して評価対象となる人の内面(頭の中、心の中)まで探るものではありません。

 小生のように、仕事ができず、職場の先輩同僚、上司から散々な評価をされるというのは、非常に辛いものです。自己改善をしようとあれこれ本人なりに努力しようとしていても、表面的な仕事の処理能力などになかなか効果が出てこないと、気持ちも段々と萎えてしまいます。これでは悪循環です。

 評価が内面まで適切になされていれば、あるいは別の言い方として、結果のみならず、その取組み、改善のプロセスに少しでも進歩点があり、それが適切に評価されるならば、好循環につながってゆくと思われます。

 したがって、物事の能力を評価する場面では、必ずその人の内面、言い換えれば頭や心の中のメカニズムがどうなっているのか、どう改善されているのかを必ず見るように世間全般を強く啓蒙してゆく必要があると考えます。

 いわば、能力的、性格的な面をブラックボックスとして見るのではなく、徹底的にホワイトボックス化する必要があるということです。

 そのためには、先日の記事「できる人モデル、できない人モデル」にも書いたように、そもそもできる人は何故できるのか、できない人は何故できないのかという理由、メカニズムを正しく解明し、適切なモデルを立てられるようにする必要があります。

 そのためにはさらに、当事者各人の徹底的な、適切な自己分析的なデータ、様々な分野の専門家(精神科医、臨床心理士、脳科学者など)の横断的な連携などが必要不可欠と考えられます。

 現状、そういったホワイトボックス化の取組み、特にADHD的症状へのホワイトボックス化の取組みはほぼ皆無と思われます。当事者はもとより、専門家の立場の人たちを引っ張り出してホワイトボックス化の取組みに参加してもらえるための仕組み、体制づくりに尽力してゆきたいと思います。

 小生自身も、一当事者としてはもとより、人工知能系の研究に携わるはしくれとして(注:人工知能の直接的な専門家ではありませんが)、モデル化やメカニズムの解明にもライフワークとして精力的に今後取り組んでゆきたいと思います。

 さしあたり、自分自身の内面や表面的な能力、性格的な面をコンピュータ上で仮想的に表現してみたいと思っています。自分の能力、性格をバーチャルに再現するというのはなかなか刺激的ですが、これも自分を客観的に見つめるための良い材料になると思っています。

by なさ











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今日のワンフレーズ:「改善ロードマップ」

自分がこれから自己改善を図ってゆく際、今後いつまでに何をどのように克服してゆくかの改善目標と実現予定時期を具体的に、詳細に立てたいと思っています。

これも克服できる、あれも克服できる、…と考えて、書いていれば、段々とできる自分になりきれる気がしてきています。いわば、一種のイメージトレーニングを兼ねたものと言えます。

最近、会社の進路面談があり、来春からまた異動する可能性が出てきました。現在の研究部門から再度離れ、研究開発の中でも、より実務よりの部署に異動するかもしれません。場合により、現在の前職場に出戻る可能性も出てきました。

以前はミスをしまくって人に迷惑を散々かけ、精神的にも大きな打撃を受け、大変でしたが、改善ロードマップを自分で描いていると、何だか全てを克服できる気になってきました。

今服用している向精神薬(ドグマチール)の影響もあるのかもしれませんが、むしろ異動先でバリバリ仕事をしている自分を無理なくイメージできて、楽しみでもあります。

今から異動に向けて少しずつ新たな仕事に取り掛かる準備をしておこうとも思っています。その準備には上記の改善ロードマップを具体的に、詳細に示すことも含んでいます。モチベーションが高いうちに、どんどん進めたいと思います。

場合により、今後シリーズで改善ロードマップを記してゆきたいと思います。以上です。

by なさ





















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「自己改善カウンセリング日記(1)」

前回で催眠のシリーズが終わったので、今回から新シリーズを始めます。今年5月から通院している主治医から紹介のあったカウンセリングルームに9月から通い始めました。

そこで指導されている日々の仕事や私生活面での改善について、その経過、結果を報告してゆきます。

今年5月から東京23区内の某大学病院に月一回通院している。そこの医師に日々の仕事や生活面での指導について相談したところ、その医師が理事をしているという東京近郊の某カウンセリングルームを紹介された。

職場、自宅のいずれからもそれほど遠くなかったこと、料金が1回60分で初回3000円、2回目以降6000円とこの手のものにしてはまぁまぁ、決して安くはないが、特に初回が安いのが良心的と思い(少なくとも、以前通った催眠のK氏の毎週1回30分7000円よりはだいぶ安い)、試しに通ってみることにした。

医師から紹介されたのが6月頃だったと記憶しているが、またも大得意の先延ばし癖で実際に申し込みの行動を起こしたのが8月頃であった。それまでに7月頃に何度かネット上のサイトからそこのカウンセリングルームに予約を入れようとしたのだが(そこのルームはサイトを開設している)、都合の良い日に空いていなかったことも理由の一つであった。

8月に申し込みをしたのも、ネットの予約サイトからではなく、先方のメール相談窓口に直接したものである。治療方法などの面でいくつか疑問点があったため、予約を入れる前に質問のメールをしようと思い、メールを送ったところ、返事に○月○日が空いています、との返事が入っていて、結局そのやりとりの中で初回予約日が決まった。

申し込んですぐ予約がとれるものかと思ったら、最速で1ヶ月後とのこと。結局初回の面談は9月中旬になってしまった。のんびり待っていたが、やっとその日がやってきた。その初回の面談も、その後の面談も開始時間は平日火曜日の16:00。概ね月一回のペースで予約を入れている。小生の勤務先はフレックス勤務だが、コアタイムが15:00までなので、ギリギリだが15:00過ぎに職場を出れば間に合う時間である。

場所は東京近郊の某駅近くのマンションの一室。女性の臨床心理士二人が対応してくれる。所長である心理士の一人は、比較的有名な中央線沿線の某クリニックのカウンセラー、および保育園、小中学校を巡回して発達相談指導の業務を兼務しているそうである。そういった業務で忙しく、こちらのカウンセリングルームは毎週火曜日しか開けないとのこと。話を聞けば、ずいぶんと多忙そうな心理士である。

8月にメールで質問した際、催眠について聞いてみた。以前のK氏のような催眠治療が可能か?と。回答は、必要により催眠を扱える心理士もいるので要相談、とのことであった。これまでに2回面談をしているが、まだ催眠という話は切り出していないので、催眠治療については何とも言えない。今後必要により相談してみたい。

初回の面談で、小生の特徴や悩み、置かれた状況などを詳細に話した。特に先延ばし癖や時間ギリギリ癖がひどい旨を切々と訴えた。心理士の回答は、一般的なADHDの症状として見れば、それほど深刻なものではない。改善指導で仕事や私生活面での「グレードを上げて」ゆけば十分なのではないか、とのことであった。初回は詳細にそのような相談のやりとりをし、次回以降に改善の実践を始めましょうとの話をして終わった。

2回目の面談はつい先日、10月中旬であった。早速改善トレーニングということで、白紙のスケジュール帳のコピーをもらった。A4用紙いっぱいに拡大コピーしてある。これを持ち歩き、自分の予定を書き込んで管理しましょう、とのことであった。その心理士自身もそれを使っているそうで、ご自身のものをサンプルとしてコピーしてくれた。

締切りのある仕事や打合せなどのアポイントを書き込み、そこから逆算していつまでに何をどれくらいのペースでこなしていくかを書き込んでゆくのである。以前読んだ新聞記事にも、時間管理術のコツが書いてあり、そこでも同様なスケジュール管理方法が提唱されていた。全く違う人が同様な方法を奨めてくるということは、やはりある程度は有効な方法なのだろうと思い、期待している。

一つ思ったのは、締切りまでにこなす仕事を細かく書き込むことで予定が視覚化され、ある意味ではイメージトレーニングにもなるのではないかということ。その時点で締切りを伴う仕事(論文の執筆、10月末締切)を一つ抱えていたので、早速書き込んで使ってみようと思った。

…のだが、その日の夜は別のやることがあり、そのままズルズルと10日以上今の今まで先延ばしにしている(出た!悪い癖!)。

せっかく通い始めたのにこれではまずいと思い、何とか行動のモチベーションを上げようと考えた。その対策の一つが、この連載記事そのものである。丁度催眠関係のシリーズを終えたので、何か新しい企画を書こうと思っていたところ、そういえばネタとしても丁度良いのでは、と思い、これを書いてゆくことにした。

書き続けるには、ネタがなければならない。ネタを作るには、自分が実践して成果を出してゆかねばならない、という自分への圧力が良い作用をもたらすであろうと期待してのことである。

今回はここまで。次回以降は、上記のスケジュール管理、あるいは新たな改善方法を教えてもらえば、その実践の経過、結果をできるだけ克明に書き綴ってゆくことにしたい。

by なさ



















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「自己改善カウンセリング日記(2)」

 前回に引き続き、9月から通っているカウンセリングルームでの取組み、特に そこで指導されている日々の仕事や私生活面での改善について、その経過、結果 を報告したいと思う。

 この記事を書いている今現在(11月16日(月)早朝)の翌日、17日(火) の夕方が、カウンセリングルームの面談予約日である。その直前ではあるが、今 現在の自分自身の進捗としてこの記事を書くことにする。

 前回指導時に頂戴した、A4用紙いっぱいに一か月分の予定が書き込めるカレン ダーのコピーを今も持ち歩いてはいる。しかし、前回10月13日(火)から丸 一ヶ月経つにもかかわらず、白紙のままである。書き込むのを先延ばしにして いるのである(本当に悪い癖!)。

 このことを17日の面談時にも正直に申告したいと思う。自分への強い戒めの ためである。ある程度はっきりと「それではダメですね」と言ってもらいたい。 カウンセリングは客商売的な面もあるだろうから、それほどクライアントに対し て心理士は強く言うことは無いかもしれない。でも、悪い面はある程度はっきり と言ってもらいたいし、最近特に思うことだが、(自分の精神状態が悪くなけれ ばだが、)ある程度厳しく指導されることの有難さということもある。

 おそらく、自分の今までの傾向からして、17日の前夜、つまり16日(月)の 夜に慌てて白紙のカレンダーに記入することだろうと思う。直前ギリギリ癖の 行動として。まぁ、それでも、いわゆる「締切り効果」で、先延ばししていた ことに手がつけられるだけまだマシかもしれないが。

 与えられた用紙は白紙のままではあるが、一応自分なりには(悪い意味で勝手に アレンジして)独自のやり方でスケジューリングを実践しようと試してはいる。 Googleの機能の一つに「Googleカレンダー」というものがある。 それを試しに使っている。

 心理士の「やるべきことは1時間刻みで書き込むように」という助言は守り、1 時間単位で予定を書き込んではいる。例えば、「11月12日(木)22:30 〜23:00 メールチェック、23:00〜0:00 論文執筆(1)、…」 など。

 書き込むことをせめて癖にしようと実践している。しかし、予定を書いた割には その通りになかなか実行できていない(概ね出来ていた日もあることはある)、 深夜の予定を書いたのに、その日の夜は爆睡してしまった、等々。とりあえず 予定を立てる、予定を書き込む癖をつける訓練としてはまぁ良いのかもしれない。 あとは、とにかく予定通り、計画通りに行動するよう実践してゆくことである。

 あと、ただ漠然と1時間単位で予定を書き込む(例:「論文執筆(1)」など) のではなく、より細かく、初めの1時間で「1章の序章、文末のまとめ、参考 文献の部分を書く」などと書くようにしようかとも思っている。

 予定・計画通りに実践してゆくための対策の一つとして、最近日々の日記の一つ として始めた、「一日一改善」チェックというものがある。半ば無謀かもしれ ないが、原則として、一日一個、新しいことを始める、というものである。 当初は勢い余って、毎日何か新しいことに手をつけるようにしていた。例えば、 カレンダーに予定・計画を書き込む、カロリーチェックをする、家計簿をつける、 など。

 が、一個一個の達成度が低いこと、新しくやることのネタが切れてきたことも あり、最近は新たに追加されるものは少ない。 ただ、それでも、カレンダー記入はできているか、毎日1回意識的にチェック する癖がついてきている。きちんと出来ていなければ、そのことが強く意識付け になる。良い意味で自分への脅迫観念になり、重い腰が少しでも上がればと思う。

 17日の面談では、それらのこと、およびそれらの一連のことをメルマガ原稿に 書くこと自体までも言いたいと思う。また新たな助言なりツールが得られれば、 そのことも続きのシリーズ記事として書いてゆくことにする。

 今回は以上です。


by なさ




















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金銭管理のあり方について考える

今回は、ADHD当事者のための無料講座ということで、金銭管理のあり方について 考えてみたいと思う。小生のサイトの内容充実の一環として企画したものである。

小生個人的には、金銭管理で今現在困ってはいない。過去に衝動買いや浪費癖の 傾向は若干あったが、今のところ収まっている。ただ、今でも計画的、効率的な 金銭のやりくり、消費は下手な方ではある。

そこで、無駄な金を使わず、効率的、合理的に金銭管理をADHD当事者がしてゆく ためにはどうすれば良いかという観点から、小生個人の経験等に基づいて今回は 書いてみることにする。
なお、WingBrainの実用集にも色々と有益なテクニックやコツは紹介されている。 本記事の内容はそれに付け足すものという位置づけで捉えていただければと思う。


まず1点目として、予めスケジュールをできるだけ入念に立てておき、予め金を 使う対象を決めておくことである。それ以外の予定外消費は原則認めないと自分 でルールを決めておくことである。これは、金銭管理だけでなく、場当たり的、 衝動的、思い付き的な行動を全般的に慎み、自己改善を図るためにも必要なこと と思う。

そうは言っても、なかなか入念に予定を組んで行動できないものでもあろう。 小生もそう偉そうに書きつつ、普段は場当たり的、衝動的、思い付き的な行動が 少なからずある。

そこで、多少場当たり的な買い物などをしてしまっても、少しでも迷ったら買わ ないと自分の中でルールを決めておくことである。これは小生の家族が実践して いることの受け売りでもある。

何もそういったルールを決めておかないと、買い物途中で「どうしようかな〜、 買おうか、買うまいか」と迷ってしまう。それを、迷ったときは買わないと多少 たりとも自分の心の中で意識付けしておくことで、迷った末結局買ってしまうと いう行動は多少は減ると思う。


次に2点目として、家計簿を出来る範囲でこまめにつけることが挙げられる。 家計簿をつける癖が身に付けば(と言いつつ、小生の体験からすると、そこまで 持っていくのがある程度大変なのだが)、少しは楽になる。金の消費を視覚的に 表せば、自分への良い意識付けになる。ダイエットと同様、数字化、視覚化は 少なからぬ効果がある。

Excel等のパソコン上の表計算ソフトを使えば、より効率的な金銭管理ができる。 とはいえ、Excelをある程度以上使いこなせないと効率的な管理は難しいかも しれない。小生は普段の研究業務の上で、自分でExcel上でちょっとしたマクロ (プログラム)を組むことが多々ある。これを応用して、何か当事者が誰でも 使いやすいマクロを作成できないかと最近本気でちょっとずつだが考えている。 何とか将来的に実現させたい。


3点目として、(月並みだが、)クレジットカードやデビットカード、電子 決済のICカードは浪費癖があるならなるべく持たない、使わないことである。 財布は最低限度の金だけいつも入れておき、普段から清廉質素な生活を心掛ける (以上、さくらいクリニックの先生の本からの受け売り)。

小生自身は特に今現在は困っていないので普通に上記のカードを便利に使ってい るが、ついつい価格を意識せず使ってしまう面があることは否定できないと思う。


4点目として、催眠(特に自己暗示)を応用して、衝動買いをしない、上手に 金銭管理をできるよう、意識付けを行ってゆくことをお勧めする。自分が金を 殆ど使わず、清廉質素に過ごしているというイメージを自分の心の中に育てる。

以前の催眠体験記の記事の繰返しになるが、イメージを育てるコツとしては、 ついついその場では金を使ってしまって構わないので、そのときに忘れずに 「金銭管理が上手にできている自分」をイメージする、「できるといいんだよ なぁ〜」と暗示をかけることである。身体感覚を意識するなどしてトランスに 入るよう工夫し、かつ声に出すと効きやすい。「節約、楽しい〜」「こまめな 家計簿付け、金銭管理、楽しい〜」と自己暗示してみる。

これは現在進行形で小生自身も実践している(以前のプチ成功体験を基に、再度、 缶コーヒーや油そばをついつい買って飲み食べするのを断ち切ろうとしている)。


とりあえず今思い付く対策案としては以上であろうか。 最後に、一つ気になる点を述べたい。決して専門医師やカウンセラーの助言では なく、あくまで一当事者たる小生の経験則的な判断であるが。

衝動買いはストレス解消になる面もある。だから、もし他にストレス解消の手段 が無ければ、無理に唯一のストレス解消手段である衝動買いを無くすのは実は 精神的に良くないのかもしれない。とはいえ、衝動買いを今後も継続していく とすると、やはり金銭面など生活に支障は出るであろうから、なるべくストレス 解消を図れる他の方法を探すなり、そもそもストレスを溜めないような工夫を してゆくなりしてゆく必要があろう。


ところで、実際のところ、世の中の(特にADHD当事者の)何割程度が金銭管理で 困っているのだろうか?(特にそれを綿密に調査したデータはあるのだろうか?) 実はそういった人は非常に多いのかもしれないし、逆に少ないかもしれない。 個人的には間をとって、多からず少なからずそこそこいると勝手に予想している。 そういった人達に、特にADHD当事者に今回の内容が少しでも役立てば幸いである。

今回は以上です。

by なさ















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生活支援・極力お金を使わない方策集

今日は、小生のサイト充実の一環として、こんな内容を企画しました。日々の 生活面でのテクニック集はWBの実用集に充実していますが、それに付け足すも のとして参考にしていただければ幸いです。


以下は、小生がこれまで生きてきた中で、日々の生活面について経験的に学ん だ、気付いたこと、あるいはまだ実践できていないがこれから実践してゆきた いことを中心に述べることにする。

1.食事、料理
当たり前かもしれないが、食事については、極力自炊することが一番である。 外食も楽しいが、金がとにかくかかる。同じメニューでも自炊と外食とでは一 般的には2倍〜10倍の開きがある。自炊なら、原則材料費で済む。(こだわ り出して、凝った調理器具を買ったりすれば別だが)

小生の場合、妻に殆ど料理は任せてはいるが、たまに自分で料理すれば、作る 楽しみを味わうことができる。食べるのが、料理するのが本当に好きなら、材 料にこだわるという意味でも、自炊に専念するのが良いと思う。

今小生はダイエットを実践しているが、カロリー管理という意味でも、自炊の 方が計算しやすいし、意識化しやすい。材料も少しお金をかけて探せば、化学 調味料など入っていない、天然の安心材料を手に入れることもできる。安易に 外食ばかりするよりは、そういった材料にお金をかける方が堅実である。

調合のさじ加減が苦手ならば、軽量カップなどをこまめに使う癖を身に付けれ ばよい。小生は面倒くさがりなので、ついついいい加減に調合してしまうので、 味がいつもイマイチなのだが。

以前テレビでやっていたが、中世ヨーロッパのある高名な音楽家は、あるとき 突然音楽の仕事を辞め、故郷に帰ってしまった。大好きな料理の研究に専念す るためだったという。せっかくなら、それくらいのこだわりがあっても良い。


2.物を買わない、持たない
片付けの話とも関連するが、小生自身を含め、ADHD当事者は極力物を持たない 生活を心がけるべきではないか。最近、小生は物を持たない、買わないスリム 生活を理想とし、またそれに大変魅力を感じて実践し始めている。

物が無ければ、買う必要がなく金もかからない。苦手な片付けも軽減されるし、 手間も時間もその分節約される。全てが加速度的に減るのである。

ただし、例えば食器洗い機などは、節水が本当にできるなら水道代節約にもな り、洗う手間も省け、特に冬場は手も荒れないので、そういった便利なものは 積極的に買うべきだろう。そして、ひとたび買ったら、徹底的に使い倒すべき だろう。


特に本は最近全く買っていない。書店にもあまり行かなくなった。唯一Wing Brainの本を図書館で借りてきた程度である。本は所有すると、埃をかぶりや すく掃除の手間がかかるし、引越しのときなどにも重いので負担になる。意外 と場所もとる。最近はネットで大抵の情報がしかも無料で手に入るし、勉強も できる。本に相当する内容を必要なときだけダウンロードして紙に印刷すれば 良いのである。

仕事の面でもそうだが、紙で情報を管理するのは非効率だと思う。電子ファイ ルでの管理が望ましかろう(もちろん、紙面ならば目もあまり疲れず一読で きるという利点はあるにはあるが)。もっと言えば、ファイルもいちいちダウ ンロードして自分のPCのディスクに保管しておくのでなく、必要なときにネッ ト、あるいは職場の共有フォルダを見れば良いのである。

自営業など自分で重要データを管理する場合は、データを焼いたCD-ROMや外付 けハードディスクなどに全て収めれば、そんなに容積は食わないし、片付け、 管理も楽である。

新聞も今朝日新聞を購読してはいるが、小生は殆ど読んでいないので、家族の 同意が得られれば、購読を止めようとも思っている。古新聞回収の日に新聞を 包んでごみとして出さねばならず、その分も手間である。部屋の中に回収の日 まで古新聞を積んでおかねばならないし、片付けなければならない。


衣類は小生自身はそれほどファッションにこだわりがあるわけではないので、 必要最低限の量を保有すれば良いと思う。余程こだわりのある人を除けば、大 量の衣類を上手に着回せる人は実は極めて少ないのではないか。

小生の家庭は幼い子供が二人いるが、彼らのおもちゃや本で最近どんどん埋め つくされてきている。無常に捨てるわけにもなかなかいかないが、ある程度大 きくなれば、小さい頃に買ったおもちゃや本は読まなくなる。それを見計らっ て、捨てるのが忍びなければ、近所のフリーマーケットにでも出せばよい。あ るいは、許されるならば、容積に余裕のある、郷里の祖父母宅の物置にでもし まってもらうのも手かもしれない。


3.その他

基本的に料理と同様で、必要が生じたら、知識・技能さえあれば、自分で作る のが良いと思うが、PCの自作は最近は標準的な性能だけを求めるならば、かえ って金がかかるようである。

テレビのリフォーム番組で感化されたわけではないが、将来的には、一戸建て の自宅すら自分で設計して建築してみたいとすら思っている(といっても、建 築の資格も今現在は無いし、単なる願望だが)。

また、例えば本をどうしても読みたいときは、図書館など公共施設か大型書店 での立ち読みで済ますのが良い。夏場、冬場はそういった場で過ごせば、自宅 の冷暖房費の節約にもなる。とにかくそういった公共施設を使い倒すのがおト クである。

ADHD当事者なら、場合により障害者手帳を持てる、あるいは持たざるを得ない 場合もあろう。手帳があれば、交通費は原則タダ、映画館など公共的施設も割 引になる場合が多い。保険の面などで不利な点があろうが、利用できるものは 徹底的に利用した方が良いだろう。

あと、趣味について。小生の場合はPCでのプログラミングやネットサーフィン などが最近の趣味であり、あまり金のかからないことなのでその面では救いで あるが(強いて言えば、最近頻度は減ったが、旅行くらい)、一般的になるべ く金のかからない趣味を持つことが重要ではないか。

もっとも、生きて行く上で趣味に制限をかけるのもどうかという人生観もあろ う。ギャンブルとかファッションとか買い物とか、金のかかる趣味をたまたま 持っている場合、それをすっぱり止めろとは言わないにせよ、金の浪費をどこ まで適切にコントロールできるかがポイントであろう。そういった自己管理の あり方については、機会を改めて考察したいと思う。


最後に。余計なことかもしれないが、もし日本人全員が極めて堅実、質素な生 活を送るようになったら、経済面では不況になってしまうのだろうか。そう考 えると、社会経済の潤滑化のためにも、ある程度消費は必要なのかもしれない。


以上、乱筆ながら、思い付く範囲で書きました。また気付いた点があれば、随 時追加してゆきたいと思います。ご意見、ご感想、ご要望などをお待ちしてお ります。

by なさ
















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この一年を振り返って 〜今年の取組みの自己評価と来年の抱負

早いもので、もう年末です。そこで、年末(または新年)特別企画の一つとし て、今回はこんな内容にしてみました。


2009年も間もなく終わろうとしている。最近年を重ねるにつれ、時間が経 つのがますます早くなっている気がする。

この一年を振り返ってみると、特にADHD関係の取組みについては、自画自賛す るのも何だが、まずまずの成果だったのではないかと考えている。その点は素 直に自己評価し、どこかのマラソン選手ではないが、自分で自分を褒めてあげ たいと思う。

もちろん、至らない点も多々あり、人様にご迷惑をかけた点もあるので、そう いった点を中心に、新年から改めるように心がけたい。


以下では、この一年の取組みをまず振り返ってみる。


今年年始早々、「夜明け」掲示板に書き込みデビューした。最初のネタは、AD HDの専門医師を見つけることの困難さに関するものであった。専門医師と思わ れる方も含めて、掲示板常駐の方々とやりとりして有益な情報も得ることがで き、その点は有意義であった。

その後、かなりのペースで投稿を続け、他の方々のお悩み相談や自分からの各 種提言、ワーキングメモリ訓練の実行など様々な投稿を続けてきた。主要な投 稿については、閲覧数が数百件を超えた(最多でワーキングメモリ訓練の60 0件!強)。相当数の方々にメッセージを伝えられたと思う。

ただ、途中から他の方々の投稿がめっきり減り、さらに夏頃からスパム書き込 みの被害が深刻となり、年末の今現在あまり機能しなくなっている。それらの 点が心配ではある。

事態を憂慮し、夏頃に夜明け運営委員になろうと申し込みのメールを送ってみ たが、返事は一応返ってきたものの、その後音沙汰が無く、事態は進展してい ない。


その一方で、2月下旬、思い立って自分のサイトを立ち上げた。当初(今もそ のつもりだが)毎日ペースでサイト更新を続け、それなりのボリュームを持つ サイトに至ったと自負してはいる。

途中から、ポツポツと小生のサイトをご覧になった方々から反響のメールをい ただくようにもなり、秋頃からは自己改善等の目的での「メンバー」を募集、 やはりポツポツと参加していただく方も現れ、現在に至っている。

サイトアクセス件数もまだ累積で2000件弱のオーダーではあるが、この世 界の少なからぬ方々にご覧になっていただけ、インパクトは多少は与えられた と思う。大風呂敷を広げすぎかもしれないが、事態は袋小路と言う人もいる日 本の成人ADHDの世界にブレイクスルーを何とか与えたく、そのための第一歩は 踏み出せたのではないかと思っている。


3点目として、何より最も重要な点として、このWingBrainメルマガ上にて、 恐らく今年発行の全号に少なくとも1件の記事を投稿してきたことがある。ほ ぼ2週間おきに定期発行し、今年の累積発行件数、ならびに自分の先延ばし癖 を踏まえれば、継続的な取組みとしては最も大きな成果であったと思う。

時に、先延ばし癖が災いし、発行にご迷惑をおかけした点は反省しなければな らないが、その反省も兼ねて秋頃から編集も担当させていただけたことも自分 としては得るものが大きかったと感じている。


これら3点(特に最後)の取組みを通じ、これまで中途半端に取組んでは途中 から放置してきたこと(催眠など)を再び掘り起こすことができ、自己分析を 加えることとも合わせ、自己改善に少なからぬ効果があったと思っている。

特に、メルマガの発行など、締切を守りつつ継続的な努力を続けるという、今 まで苦手としてきたことの克服訓練として得るものが大きかった。また、自己 分析したことなどを文章化することで、自分を客観的に見つめられたことも大 きな成果であった。

(もちろん、個別に取組んだワーキングメモリ訓練や、自己暗示、カウンセリ ング、投薬治療もそれ相応の効果があった。)

2009年はADHD関連に相当な時間と手間をかけてきたが、その他仕事面でも まだまだ十分に認められているとは言えないが、途中苦境的な場面もあったが、 何とか成果と言えるものが出始め、様々な面で得るものが大きかった。


ADHDに関して上の3点の取組みのいずれも、人から見られているという意識か ら良い緊張感を得られたことが継続できた最も大きな要因であると思う。

いや何より、これらは、WBメンバーの方々、サイトや掲示板の読者、ならびに 主治医、カウンセラー、小生の家族など関係皆様に精神面で支えられたことの 賜物とも思っている。その点は素直に感謝の意を申し上げたい。


ここまで書いて文章量がだいぶ多くなってしまったので、新年からの抱負に ついては、稿を改めることにしたいが、新年からの取組みとして一点最も重視 したいことだけ述べさせていただければと思う。

今年は文章を通じて自分から情報発信してきた。が、画像や音声といった媒体 は一切用いてこなかった。文章で綴ることも大事だが、長々文章ゆえに素通り してしまう人も少なくないのではないかと思っている。

そこで、より多くの方々に受け止めてもらえるよう、より直感的に、五感に訴 えたメッセージとするため、新年からは、画像(特に動画)や音声を用いた情 報発信をしてゆきたいと思っている。


より具体的には、自前のパソコンとデジタルビデオカメラ、デジカメを用いて、 動画を作成し、それを「番組」としてYouTubeにでも投稿したいと思っている。 すなわち、大げさだが、日本の成人ADHD向けの放送局を徐々に立ち上げて ゆきたいと思っている(現状そういった趣旨の専門チャンネルなど無かろう)。

まずは試験放送的に1〜数本の動画を作ってみたい。伝える内容はとりあえず は既に文章化していることの予定であるが、動画オリジナルの内容も今後は考 えてゆきたい。そして、将来的には、放送局よろしく、WBメルマガと同様、定 期的な発信、すなわち「放送」をしてゆきたいと思っている。

もとより、小生は動画編集を趣味の一つとしている。それを活かした手段とも 言える。是非、ご期待いただければと思います。今回は以上です。


by なさ


















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新年の目標 〜自己サイトの内容拡充を中心に(1)

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

前号で昨年1年間の取組みを総括しました。本記事では、今年1年のADHD関連の 小生の目標を新たに掲げたいと思います。ここでは、話の範囲を小生個人サイト の内容の拡充という側面から述べたいと思います。というのも、ADHD関連の取組 みは全て、自分のサイト上にその内容を記載するようにしているためです。


昨年秋、小生のサイトは構成をリニューアルした。それは、以下に述べるADHD関 連の取組みに関する4つの「柱」、すなわち主体的項目を主体とするものであり、 ある程度自分なりに熟慮の上で決めた構成である。

他にも付帯的、形式的な項目もあるが、ここでは特に本記事上で書くべき、ある いは書いて差し支えない項目、すなわち4つの柱について、ある程度掘り下げて、 問題の深刻な順(言い換えれば、小生含め多くの人がADHDの世界に入ってきた後 に直面するであろう順)に書いてゆくことにする。

今年は、これら4つの柱を「ADHDアクションプラン2010」と名付け、着実に実行 に移してゆきたいと思う。ちなみに、このようにまだやっていないこと、これか らやるべきことを宣言することで、暗示効果、締切効果が有効に働くものと期待 している。


(1)「ADHD的悩みを抱える人を支援する」
まず柱の1本目は、自分はADHDではないかと疑い、初めてこの世界に入ってくる 際の入口のハードルが高いという問題に関することである。これは、さらに以下 の4つの小項目に分割される。


小項目の1つ目を述べる。ご承知のように、ADHDに関するDSV-4という診断基準 に沿って専門医師が診断することで初めてADHDの確定診断を受けることになる。 しかし、この診断基準の項目を部分的に満たしているが、確定診断のレベルまで は行かないという、いわばグレーゾーンと言える人々も実はかなり多いのではな かろうか。

(小生自身はグレーゾーンの人達の数は相当に多いと思っているが、現状では残 念ながら、そもそもグレーゾーンがどの程度いるのかという医学的データが存在 しないと思われるため、小生自身の勝手な推測でしかない。その点はご了承いた だきたい。)

確定診断を受けた人ですらも、十分に満足な支援環境が得られているとは言えな い面がある。ましてやグレーゾーンな人達は行き場が無く、満足な支援、専門的 なケアは殆ど受けられていないのが現状ではないか。

小生は丁度1年前、他サイト掲示板上にて、「何%ADHD的」という考え方を提唱 した。一部で当方の主張が誤解されたことにより否定的意見も返ってはきたが、 賛同的意見も少なからず頂戴でき、手前味噌ながら、今もって個々人のADHD的特 性を適切に捉えるのに適した指標ではないかと自負している。また、この考え方 の導入が、グレーゾーンの人々の積極的な認知と支援につながるものとも思う。

昨年の段階では、当事者の自己分析のための指標という位置付けで提唱したが、 可能ならば、専門医師も巻き込んで、ADHDに関する診断基準、考え方を根本的に 変えることも真剣に議論したいと思っている。すなわち、自閉症スペクトラムと 全く同様な捉え方(健常者と自閉症患者とはグレーゾーンを挟んで連続的に分布 しているという捉え方)ができるよう、医学の視点を見直してほしい。

いずれにせよ、「何%ADHD的」という考え方自体はもっともっと広めてゆきたい。


小項目2点目。発達障害(特にADHD)を専門とする医師への受診に関するもので ある。現状では、以前より改善されてきたとは言え、まだまだ潜在的な当事者の 数(国民の数%という説が正しければ、日本では数百万人レベル)に比して専門 医師の数が少なく、なかなか専門医師の受診に辿り着けない。

数年前までの現状より厳しい状況の名残?からか、ネット上では専門医師に関す る情報を公開することを当事者間で遠慮する風土がある一方、製薬会社主体の公 式的な専門医師のナビサイトができるなど、情報公開に関して、この世界全体で ややちぐはぐなところがあるように見える。

ナビサイトもそれなりに情報が揃ってはいるが、小生の現在の通院先が記載され ていないなど、掲載からこぼれている医院、医師も少なくないと思われる。一方、 あらゆる当事者間で遠慮なく情報交換が十分にできるならば、貴重な情報を少な からず共有化できよう。

そこで、これらの点を踏まえ、専門医師に関する当事者向けの情報センターを設 置することを構想したい。ここさえ見れば、専門医師に関する概略的な情報から かなり詳細な情報まで、何でも分かるようにしたいと考えている。


小項目3点目。当事者のお悩み相談に関することである。他サイト掲示板などを 見ると、初めてこの世界に入ってきた人の初歩的な悩み相談の書き込みが少なか らずある。本人たちにすれば、自分の悩みへの答えを見つけるために必死なので あろう。一方で、それらの悩みは結果的に似通っているものが多く、この世界の 古参の人から見ると、毎度毎度同じに見え、うんざりする面もあるとのこと。

相談内容やそれへの回答が毎回ほぼ同じでは、掲示板リソースの面でも何とかし たいところではある。とはいえ、こういった悩み相談の場合、これまでの他の人 の悩みと似ていることは百も承知でも、ストレス解消のため、とにかく話を聞い てほしいという本音もあろう。

そこで、この世界の初心者?向けの、自由に書き込める悩み専門の掲示板を古参 の人達の目に邪魔にならないような形で構築する一方、それらの悩み相談&回答 の類似例をすぐ検索できるようなシステムを導入できればと思う。まずは、樹形 図的フローチャートのようなものを作り、トラブルシューティング的なステップ で有用な答えを、たとえ断片的でも良いから得られる仕組みを構築したい。その 上で、最新のデータベース検索技術を採り入れた検索エンジンを構築してゆく。


小項目4つ目。実生活の上で何とか自分のハンディキャップを乗り越えて生きて ゆくためには、それなりのテクニックを身に付ける必要がある。そういったテク ニックは、当事者個人、もしくは自助グループのサイトで比較的充実しているが、 その充実ぶりゆえに、初心者には逆になかなか目移りしてしまってスムーズに身 に付けにくくなっているようにも思われる。また、テクニックの中には、十分に 練られ、試されたものもあれば、単なる思いつきの提言レベルで終わっているも のもあろう。言い換えれば、有効性の高いものもあれば、低いものも実際にはあ るであろう。もちろん、個人差もあろう。

そこで、これらのテクニック集も体系化し、目的にマッチした手法の検索を容易 にする。同様に、データベース検索技術を採り入れて実現したい。また、それら を他の当事者が試した後の効果の検証結果などについても情報として付加し、テ クニックの言いっ放しに終わらせないようにしたいと思う。


(2)「様々な治療法を試す →その効果」
柱の2本目は、精神医学・臨床心理学の公式的治療法に関するものである。現状、 ADHDに関する治療法としては、専門家により考案、使用されている科学的根拠の 強い治療法から、いわゆる民間療法的なものまで色々とある。これらの全体像、 特にそれらの有効性やリスクはどうなのかということが初心者には特に見えにく い、見えてこないという問題はあろう。

そこで、まずはこれらの治療法に関する情報の収集と整理から行ってゆく必要が ある。基本的に全ての治療法をなるべく等価に見て、何の科学的根拠もなく、個 々の治療法を執着・嫌悪したり、否定・肯定したりせず、色々と試してゆきたい と思う。そして、試すからには徹底的にその効果や自身の経過について分析し、 情報公開してゆきたいと思う。

これも情報センター化し、透明化を徹底的に図りたい。特に、小生がこれまでに 取組んできたワーキングメモリ訓練、認知行動療法的カウンセリングの2点につ いて重点的に透明化したいと思う。いずれも、昨年のメルマガ記事として書いて きたことだが、より緻密、詳細に自己観察、分析をしたい。後者のカウンセリン グについては特に、いわば「公開カウンセリング」化し、当事者間でのできるだ けリアルタイムな情報交換につなげたい。


以下、長くなるので、前半部分として、今回はここまでとしたい。次号で後半を 述べることにする。


by なさ















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ADHDのメリット

僕の仕事に照らして、言えば、絵柄を変えることが出来る。これはイラスト レーターとしての武器となります。絵柄を変えるとは、ものの考え方、感じ方を 変えることであります。

昔は、一つのスタイルをかたくなに守り、熟練の技を磨く「職人芸」が業界に おいて高く評価されてきました。でも、変化とスピードが合い言葉となっている 現代にそれはなかなか厳しいものがあります。すでに評価の確立した、巨匠であ れば許されますが、中間クラスの僕のようなイラストレーターは臨機応変にクラ イアントに合わせる必要があります。

そういった意味で、ADHD的な「首尾一貫性のなさ」は、便利な道具なのです。 若い頃から「あなたの描きたいものはいったい何なのか?」とかよく言われまし た。さすがに最近はその言葉を聞くことはなくなりました。要するに作品がどれ も中途半端だったためだと思います。

絵画を成り立たせている本質的な要素は何か?時代と関係なく普遍的に価値の ある美学的構成は何か?そういったことを考えながら、一方ではマンネリを、 嫌って新しいことをやりたいと思う。

この矛盾した特質がADHD的であると言えばそうかもしれない。以上は僕の個性 ですが、それはADHDが原因しているのかもしれない。

推論、仮説の域を出ませんが、アスペルガーが職人タイプADHDがクリエイター タイプとジャンル分けしてみるとしっくりくる。

今年は3Dにはまって、3Dイラストを全面的に使ったスポーツの本を三冊、仕 事で作りました。なにも3Dがすばらしいと思ったわけではなく、新しいことを やってみたくなった。それだけなんです。

by mogurin













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ゴミ屋敷問題

たまたまテレビのニュースで、ゴミ屋敷問題が各地で問題になっており、しかもそれが増え続けているという。どうも人ごとではないような気がした。

ADHDが世の中に知られるようになった発端は「片づけられない女たち」という本だったと言っていいが、そのタイトルのインパクトが強すぎて、ADHDとは片づけられない病気だとさえ思われていた。しかし、実情はあたらずとも遠からずで、実際に掃除で問題を抱えているADHD当事者は多い。

もちろん、ADHDが掃除の出来ない原因の全てではないし、ADHDでも過集中状態で家中をぴかぴかに磨き上げる人もいる。また、最近メルマガでも取り上げられているやる気スィッチの問題もあるだろう。

しかし、掃除にはコツがあり、また普段の集中力が必要なので、注意力を集中出来ないADHDの場合、やる気スィッチが入ったとしても掃除は出来ない事が多い。

家中にゴミや不要物が集積するのは要するに使わない物を買い込むからだと言って良い。今の世で私たちが家に持ち込む物のほとんど全ては金を出して買った物だと言えるだろう。ごくたまに人からもらったり、畑で作った物もあるだろうが、都会暮らしではたとえ今ゴミになっていても金を出して買った物だと考えるべきだ。

考えてみれば、物を買うからゴミが出る。じゃあ、買うのを止めればゴミは出ないと言うわけだが、現実には衣食住全て必要なのだから買わないわけには行かない。となると、

1)最初からゴミになる物は買わない。つまり、衝動買いをして、買ってみたけれど2,3買い使ってみてそのまま使わなくなるような物を買わない。

2)包装紙や残飯など、ゴミになった時点ですぐに処分する。包装紙、新聞紙などを、いつか使うと保存しない。

3)使い古した物は処分する。着られなくなった衣類や壊れた家電製品などはその時点で処分する。

4)リユース、リサイクルをする物も、最小限にして使いきれない物は処分する。

5)一年使わない物は生涯使わないと割り切り処分する

6)フリマやネットでいつか売れるなどと期待して保存しない

7)いつか使うと保存しておけば貴重なスペースを浪費する。一度使い終わったら捨てて、次に使うときに買い直した方がよい物がたくさんある。

8)思い出があるからと古いものを保存しない。

9)収納しない。収納して見えないところに入れてしまうと、そのままになる。

これらを実行すると、確かにゴミは激減する。しかし、私には到底出来ない。これは親から受け継いだDNAともいえるもので、とにかく私は物持ちがよい。Tシャツやズボンでも10年20年選手がいくらでもあるし、そして現役である。外に来ては行けないとしても、家の中や作業用には別に構わないからだ。

タオルなども数年以上使っているし、最後は雑巾にする。もっとも複数のタオルを常時使い回しているから一枚のタオルは精々1,2年なのだろうが、それでも結構すり切れるまで使っている。ある程度使い込んだタオルの方が私は使いやすいと思っている。衣類なども同じで、ある程度は繕いながら着るし、最後は雑巾や作業場のウェスになる。

その他、家電製品、商売用の機械、測定器、工具なども何十年物がたくさんあり、それらが堆積して結構がらくたの様相を呈している。

つまり、私は物を捨てられない人間なのだ。それを言い訳に片づけられない部屋で暮らしているが、もうそろそろ必要な物自体を最小限にする時期に来ていると思っている。

ライフスタイルや価値観を大きく変えない限り、私の場合は部屋は片づかないとおもう。幸い、ご近所に迷惑をかけるゴミ屋敷にはなっていないが、自分では部屋の中を眺めるたびにゴミ部屋だな、とつぶやいている。


by ロクスケ













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競争する社会から棲み分ける社会へ

ちょっと露骨なタイトルですが、要は、昨年秋頃に「今日のワンフレーズ」とい う企画の中で挙げた「ナンバーワンよりオンリーワン」というフレーズの話を少 し肉付けしたものです。

小生も一介のサラリーマンですが、会社という中で働いていれば、あるいは学校 で勉強していれば、もっと言えば、日本、あるいは大抵の国の社会で暮らしてい る限り、どうしても競争というものに晒される機会が少なからずあります。

学校で言えば学力、会社で言えば人事評価や勤務成績など。あるいは、個人を超 えて、法人レベルで言えば、会社としての売り上げ、業績など。

日本を始め、資本主義社会だから尚更、ということもありますが、実は共産主義 みたいな社会でも、商業面などでの競争が無いだけで、競争というものは歴然と あります(例えば出世競争とか)。


そういった競争というのは、ある一つの、あるいはごく指折り数える程度の限ら れた評価尺度の面での勝ち負け、順位付けによって大抵の場合は行われます。

それで世の中の仕組みの大抵の部分が成り立っている点は否定できないと思いま すが、特にADHD当事者の場合、ADHD当事者の特性(長所的、短所的特性の両面) を踏まえると、そういった非常に限定された尺度の中での競争に健常者とともに 晒されるのは辛いものがあります。

なぜなら、上述の競争という場合、与えられた仕事をきちんとこなす、あるいは 決められた範囲の勉強をムラ無くこなす、時間を守るなどの能力が必須であり、 またそれで差をつけることが多いからです。

今更この場で言うことでもないですが、そういった能力は、どちらかと言えば、 ADHD当事者は平均的に健常者よりも苦手なものであり、そのような面で健常者と 並んで露骨に勝ち負けをつけられるのは不公平、不条理な面が大きいと思います。


とはいえ、ここからは小生の主観的な、勝手な未来展望なのですが、この先やや 長い目で見れば、少なくとも一時的には、社会の仕組みの進化の行方は、ADHD当 事者に追い風になる方向に進むのではないかと思っています。

というのは、上述のようなADHD当事者の苦手な能力というのは、会社内の業務の オートメーション化やシステム化によって、またあるいは教育方針の変化、社会 の風土の変化などによって、徐々に埋められ、むしろADHD当事者の得意とする、 突拍子も無い発想力や特定の興味ある物事への過集中、拘りなどの面が必要とさ れるようになると予想されるからです。

具体的に言えば、例えば、ある決められた事務手続きをする仕事があったとして、 それは業務のオートメーション化によって合理化され消えてしまうかもしれない。

あるいは、システム化され、不注意的ミスが起こりにくいPC環境で業務ができる ようになるかもしれない。失敗学のような失敗のパターンが体系的にノウハウ化 されれば、決められた手順を守る業務の不注意的ミスは撲滅できるかもしれない。

AO入試のような、一芸に秀でた能力をもって合否を決める入試が増えれば、まん べんなく勉強ができなくても、得意な、好きなことを突き詰めれば認められるよ うになるかもしれない。

会社の業務が徹底的に合理化、オートメーション化されても、一番最後に残るの は、最もオートメーション化されにくい、創造的な仕事であろうし、したがって、 突拍子も無い発想力と拘りを持った人はより一層重視されるかもしれない。

以上のように、段々と、健常者の得意とする面では差がつきにくく、あるいはそ もそもオートメーション化により競争の必要が無くなって、ADHD当事者の得意と する創造的な面が重視され、際立ってくるのではないかと、かなり真面目にそう 思っています。


ただ、さらに一歩進めて考えれば、そうなった時点で、競争することの意義は相 対的に薄れてくるのではないかとも思っています。

というのは、健常者の得意とする面で段々差がつかなくなってくる、そもそも競 争する場面が無くなってくるとすると、健常者間での競争に差をつけることが難 しくなります。

オリンピックの記録ではないですが、コンマ以下の僅かな数値の違いを争うよう な過剰な競争にすらなりうると思います。そうなった場合に、過剰に競争するこ とにどれだけ意味があるのかどうか。

一方、ADHD当事者はと言うと、創造的な面が重視されるのは良いとしても、そも そも競争が激化するほど創造的な面がより一層発揮されるというものでもないよ うに思います。

ADHD当事者の創造性は、どちらかといえば、競争とか儲けとかそういった考え抜 きに、単に自分の拘りとか興味、あちこちに飛ぶ思考から自然に生まれるもので あると思います。

したがって、創造的な面が重視されるようになったとしても、これまた過剰にそ の分野での競争が行われるのはむしろADHD当事者には好ましくないのではないか とも思います。(ただ、もちろん適度に競争することは必要だとは思いますが。)

以上から、社会が前述のように進化したとすれば、健常者、ADHD当事者いずれに も(あくまで過剰な)競争を抑えた社会の仕組みが必要になっていくと思います。

これは言い換えれば、競争する社会から、棲み分ける社会への脱皮ということに なります。ここでの「棲み分ける」とは、健常者、ADHD当事者それぞれが互いの 得意分野を棲み分ける、あるいは健常者同士、ADHD当事者同士が役割分担をして 棲み分けるといった意味を指します。

単純に資本主義を共産主義にするとか、そういう単純な意味ではないのですが、 (具体的な形はまだ浮かんできませんが、)何らかの形で社会の仕組みをより進 化させる必要はあるのではないか、と思います。


またも長くなりましたが、今回は以上です。

by なさ












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ご近所散歩の勧め

 昔は仕事柄、国内外を問わず方々に出かけたが、仕事がらみであれば物見遊山というわけには行かず、結局あまり旅行をしたという感覚がない。したがって、時間がとれるようになってから自分で旅行をしたり温泉に行くなどを何度かしたが、最近はご近所を歩き回ることに喜びを感じるようになった。

 考えてみれば東京に住み始めてから人生の大半を過ごしているが、この東京でさえ行ったことのない場所は数え切れないほどあるし、何十年か前に行ったことがあってもまた行ってみると大きく様変わりをしている。たとえば、昔丸の内の会社にいた頃は、新旧丸ビルの地下街で良く食事をしたり、あの辺りの路地裏や八重洲側の路地裏(当時は丸の内や八重洲に路地裏があった!)の小店で食事をしたり歩き回っていたけれど、最近再開発された東京駅界隈は、私がなじんでいた地域とはまるで別世界になっている。同じ事は浅草界隈でも言え、あのあたりはあまり変化のない地域だがそれでも国際通りの仁丹塔が消え、国際劇場が消え、六区が様変わりしているのを見ると、昔と同じなのは仲店や伝法院通りくらいとしか思えない。

 何年ぶり、何十年ぶりに訪れてみると昔の記憶とずいぶん違う。それだけ東京は日々変化しているのだろうが、そんな新しい東京もまだ見ていない場所はいくらでもある。六本木ヒルズや汐留、恵比寿、大崎、表参道、アメ横と到底把握しきれないが、ついでの時にでも行ってみたいとは思う。

 しかし、地方ではこのような変化はないかも知れないが、それはそれで良いともいえる。私が育ったのは函館市だが、以前数十年ぶりに子供の頃遊び回った場所を、レンタカーで回ってみたことがある。昔半日がかりで歩いて行ったところが車だと2,30分でいける距離だったのはともかく、広大な野原がすっかり宅地開発され、町並みが記憶と全く違い、近郊のダムや果樹園が無くなっていて宅地が押し寄せているのを見ると、いくら地方でしかも不景気だと言われながらずいぶん開発されているのだと実感した次第だ。とにかく、自分が育った町だとの実感がない。

 そんなことから、最近は住んでいる場所から精々自転車で1時間で行ける範囲くらいを散歩することに楽しみを見つけている。自転車で1時間の行動範囲というと半径10キロ位なのだろうが、その範囲でも今まで行ったことのない公園とか遊歩道とか、とんでもない大金持ちのお宅とか、猫とか、きれいに手入れされた庭とか、川沿いの道だとか、商店街、工場などなど、見たことがない景色がたくさんある。見たことがないと言う点では、地球の裏側も隣町も同じだと思うが、遠くの場所だから価値があるわけではあるまい。

 自転車で行ける寺や神社の境内、川原の土手など、楽しみはいくらでもあるし、商店街の古い店や骨董品店などを覗くのも楽しい。心地よさそうな銭湯を見つけて、そこで入浴セットを借りてゆっくりと湯船に浸かるのも楽しい。

 最近はネットであらかじめ調べて目標を決めてもいいだろうし、テレビでも散歩番組がある。

 旅行は何も手間暇金をかけて遠くに行くだけが能ではないと思うようになった。自転車でも電車でも、近くに行って最近流行の総合入浴施設などでくつろげば温泉に行った気分だ。広大な公園に行けば自然を満喫出来る。

 東京に住んで何十年も経つが、身近でも行ったことのない場所はいくらでもあって、徒歩で小さな路地のきれいに手入れをされた盆栽や花壇を見たり、猫と仲良くするのはかなり楽しい。

 1時間以内の範囲を楽しみながら見て回る散歩をお勧めする。

by ロクスケ













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何を学ぶか

私はすでにかなりの年齢に達してはいるが、どうも自分がその年齢にふさわし い中身を持っているかと考えると、自信が無い。ただし、体力的には同年輩のお つきあいをしている人たちのなかでもかなり若い方であろうとは思うが、世の中 には私などお呼びもつかないほどの体力を誇る高齢者もいますので、誰よりも私 の体力が優れているわけではない。

それより、知的能力というか、精神的な内容が年齢を重ねてきただけの物があ るかどうかと、最近自問自答する。ある面、私の好奇心や知識は同年輩の人たち よりは旺盛であろうと思うし、同年輩の大半が苦手とするパソコンやネットもま あ使えるけれど、中には70代でブログを運営している方やBBSに参加している 方々も大勢いるので、私が特別というわけではない。

まだ人生の終わり方を考える年だとは思っていないが、それでも常に何かを学 んでいなければならないと言ういわば強迫観念がある。そのくせ、のめり込んで も飽きるとすぐに辞めてしまうので、今までいろいろな物に手を出した割に完成 して身に付いた物がない。先日も考えてみて、これではいかんなぁ、とつくづく 思った。

世の中には仕事からリタイアしてしまって、毎日暇を持て余している年輩者が いるが、その人達は生きている意味があるのか、何をしても楽しいことなど無い のではないかと想像することがある。暇を持て余すなど、到底考えられないの だ。私もそう言いながら暇な時間を結構無駄にしているが、暇でよいと思ってい るわけではない。

さて、昔やりかけて多少身につけたけれど完成していない物を改めてやり遂げ ても良いのではないかと思った。

たとえば、私は料理が割合得意であり、本気でやればかなり本格的な物も作れ る。大体が和食中心だが、最近見聞きする若い奥さん達などの料理の話を聞く と、信じられないほど未熟だとおもえるほど、私は料理がうまい。とはいえ、も ちろん、本職と比べるレベルではなく、たまに人のために作ると、味がないとは 言われるが、それでも美味しいとは付け加えてもらえる。

しかし、料理は私の場合日常で必要な技術なので、特に学ぶと言うことはして いないが、身に付いている。パソコン関連も仕事上必要なので特に学ぶとの意識 はない。

そこで考えたのが字と語学だった。私はきれいな文字を書けたことがなかっ た。とにかく文字が汚く、良く親に叱られたが、それは両親ともそれぞれ非常に も字がきれいであり、姉も国語教師をしていた為もあるだろうが非常にも字がき れいで、また姉の夫、すなわち義兄も非常に字が上手だった。ただし、私の兄は 私があきれるほど字が下手だ。しかし、そんなことで安心はしていられない。

私の場合、文字が汚い原因で思い当たるのは、とにかく速書きであったこと だ。子供の頃から文章を書くのが好きで、夢中で書いていると400字詰め原稿 用紙を一枚数分から10分くらいのペースで、一日数時間書くことも出来る。と なると、文字を丁寧に書いている余裕はない。頭に浮かぶ文章をそのまま紙に書 き写すには時間をかけていることが出来ないのだ。

そして、最近はもっぱらパソコンで書いているので手書き文字を書く機会がな い。つまり文字をきれいに書く必要がないのだ、と自分に言い聞かせているがな んとなく納得出来ないので時々思い出したように文字を練習している。そんな練 習でも、昔に比べれば、あくまで自分の昔の文字に比べれば格段にきれいになっ たが、文章にするとバランスがとれていないので、全体が汚く見える。だから、 あと少しやれば見た目にきれいな文字が書けるのではないかと考えている。これ も別に実用上の問題より自己満足の問題だ。

あと、語学については英語は仕事上必要だったのでこれは実用レベルと思って いるし、今でも聞き取りや読み書きに不自由はない。むろん、ネイティブではな いレベルとしてという意味だが。

そこで、最近、フランス語やドイツ語、スペイン語を見返してみた。それぞ れ、英語のレベルなどとは到底比べられないが、日常会話くらいなら出来る程度 だった。しかし、最近、ネットで聞き取りも出来ないしまともに読めないことに 気がつき、このまま失ってしまうのは本当に惜しいと思ったわけだ。もちろん、 これらの語学をブラシュアップしても私の人生で今後役立つとは思えないが、な にしろせっかく身につけた物がなくなるのが惜しいと言うだけの理由で、少し やってみようと思った次第だ。昔やっただけあって、少しやり直すと結構頭に入 る。一から始めるなら到底その気にはならないが、ある程度能力を取り戻すなら 可能ではないかと思っている。

頭の体操として、暗算や漢字を覚える人が居る。それぞれ非常に有効であり、 頭をいつまでも若々しく鍛えることで人生も余裕が出来るという物だ。

私の場合で言えば小説書きではないのか。暫く前だが、一日一作の短編小説を 書き続け、なんとか目標の一〇〇〇作を書き上げた。今は校正している段階であ り、同時に他の作品も書いている。これが私にとって脳の体操になっていると思 うし、先年末に始めたブログでは毎日、数百文字から二千字くらいまでの記事を UPしている。長年の文章書きの成果が上がっているようで、別に苦にならない。 これも私の脳を鍛える結果になっているのだろう。

あと、やはり本を読むことであり、月に雑誌や漫画ではなく、最低十冊は読む ようにしている。目が弱って小さな活字が読めなくなっているが、考えてみれば ネットで毎日ちょっとした本に匹敵する文章を読んでいるので、読書量は昔と比 べても増えこそすれ、減りはしていないようだ。

とにかく、後何年生きるか知らないが、体力的にも知力でもあまり衰えてしま いたくはない。

by ロクスケ











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天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(3)

ケンです。前回は、私の小中学校時代の成績表所見欄の振り返りをしました。今 回は大人になるまでの、いくつかのエピソードを書いて見ます。

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小学校から大学までの間のADD的なエピソードと、それが大人になってどうなっ たかをつづってみる。

怪我が多かった。幼稚園の時に、擁壁の縁を歩いていて足を踏み外し、頭部出血 事故を起こしたことがあった。小学校で危険物置場の上から飛び降りて、下の割 れたガラスで手を切ったこともあった(数針縫う)。自転車にのっていて自動車 やバイクと事故を起こしたのが覚えているだけで4 回程ある(そのうち一回は、 直前に食事をしていたら死んでいたであろうといわれた)。歩行中に自分でも気 付かず転んで頭を打ったことも何度かある。しかし、20歳以降、ぱったりと怪我 をしなくなった。大学の先輩に連れて行かれたウインドサーフィンに熱中し、平 衡感覚が鍛えられたからだと思われる。足元が不安定なボードに立ち、波に耐 え、さらに風をセールに入れながらも体のバランスを取ることが要求されるた め、日常生活でもめったに転ばなくなった。

上に書いたことと関連しているのかもしれないが、小学校から高校まで体育の成 績は悪かった。しかし、自転車で走り回ったり、遠泳したり、といった体を使う ことはそれほど嫌いではなかった。大人になっても、せかせかと動き続けるのは 結構好きで、この年になっても体力や筋力は向上し続けているようだ。体育の分 野でも、学生時代の能力と大人になってからの能力は相関しないのかもしれない。

小学校の頃、足算や掛算の計算が非常に遅かった。最初に直感で答えを出し、次 にそれがあっているかを確かめ、間違っていれば直し、最後にもう一度確かめる といったことをやっていたためだった。直感の答えは間違いが多かったが、やめ ようとは思わなかった。さすがに現在は計算に苦労しないが、「直感優先、そし て確認」、といった行動パターンは、今でも多くの場面で見られる。

10 歳ぐらいの頃、同世代の人の活躍を見ると、いてもたってもいられなかっ た。例えば、なにがしかの分野で子供が活躍しているとのテレビニュースを見る と、私も絶賛を浴びるような何かをしなければならないとあせるのだ。どうして そう感じるのか、とても不可解に感じたのを覚えている。その後も、そのムズム ズとした感覚は多くの場面で私を駆り立てたが、そのために他人と摩擦を起こす ことも少なからずあった。社会的に大成功する見込みがなくなった昨今、よう やっとそのムズムズから開放されつつある。もしかすると、早く人生をあきらめ ていれば、もっとよい人生を歩めたかもしれない。

同じ事を何度も繰り返し考えることが多かった。特にお気に入りの題材は過去の 失敗や、いやな思い出。思い出しては改めて恥を掻き、悔やみ、別のやり方がな かったのかと考える。長ずるにつれて工学に興味を持ったのも必然かもしれな い。何かをつくろうとして、うまく行かなければ何度も思い出しては、違うやり 方がないかを検討する。何度も考えていれば、ひょんなことから答えが見つかる こともあるだろう。次第に、様々な物作りに熱中するようになった。

人の名前や、地名、英単語などの名詞が記憶できなかった。中一の時に watchのつづりを覚えるのに一時間かかるほどだった。未就学児のころ、多 くのものに限界があることにとらわれている時期があった。その時、一生の間に 記憶できる量が決まっていると思い込み、余計なことは記憶しないように決めた のかもしれない。その後の人生でも英語が出来ずに涙を呑むことが多かったが、 逆に数学は得意科目だった。定理や公式などを覚えるのではなく、いちいち導き 出しながら問題を解いていたこともよかったのだろう(経験の記憶には困らない のが面白い)。40歳前後に思い込み(記憶に関する呪縛)に対抗するために、何 度か「記憶してもよい」と宣言し、それが効を奏したのか、昨今は段々と記憶が 良くなる傾向にある。しかし、いまだに、「全てのことを記憶してよいか」と自 分に聞くと、パンドラの箱をあけるような(おしっこをちびりそうな)恐怖が僅 かながらある。

予め順序や計画を立てるよりも、行動しながら考えることが多かった。電子工作 に夢中になった時期がある。何かアイディアが浮かぶと、回路図を描かずに、と にかく半田ごてを握ってトランジスタや抵抗を取り付ける。出来上がって電源を 入れても、当然の如く動かず、何でだ?これがおかしい?と思うと、じっくり確 かめもせずに別のものを付け直す。そしてまた動かず。やり直して・・・という ようなことを繰り返すのが好きだった。現在でも、例えばコンピュータのプログ ラミングの場合、とにかく作って、動かして、バグを取ってといった作業形態が 多い。

ある概念を習得するには、小さなステップを実際に体験しながら学習する必要が あった。例えば、英語につまずいたのは、次々と生まれる疑問を先生にぶつけて も、「言語というものはそういうものだ」と明確な答えを得られなかったことも 関係すると思われる。プログラムもある意味で言語だと言えるが、実際に走らせ ることで、その結果を容易に体験できる点が異なる。今までいくつかのプログラ ム言語を学習してきたが、実際に走らせることが出来たものは、いずれも習得に 困難さは感じなかった(一方で、本で読んだだけのプログラム言語は習得できな かった)。

高校の部活は化学部だった。毎日放課後に実験室に通って何かと実験をしたのだ が、必ずといっていいほど一日一つ以上の事故を起こした。ガラス器具をおとし て割ったり、硫酸で水ぶくれをつくったり、ガラス細工でやけどをしたり、一回 は火薬調合中に爆発させたこともあった。大学も化学系に進んだが、多くの失敗 の経験から、危険を察知し、致命的なミスを未然に防ぐ能力を身につけたように 思われる。いつも温かく見守ってくれた化学部顧問には頭が下がる思いである。

by ケン














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不便な物

世の中、気がつかないうちにずいぶん便利になり、この10年を振り返ってみて もあまりの激変に改めて驚く。ネットの充実で、従来本や新聞、テレビなどに 頼っていた情報が殆ど居ながらにして手にはいるようになった。

以前に比べて読書量が減ったとは思っていたが、ネットで読む量が飛躍的に増 え、結局読む行為自体は以前よりかなり増えている。百科事典も、辞書もこの数 年殆ど開かない。書く方も筆記具を使うのはメモを取るくらいで、まとまった物 は殆どpcで書いている。

だが、こんなに便利になっても私が一切やらないことがある。携帯電話による ネット接続、携帯メール、様々な機能例えばお財布、ナビ、写メなど。ゲームも やらない。便利かも知れないが、のめり込めば時間がいくらあっても足りないし むろん金もかかるし、そしてそれだけつぎ込んだだけの価値がない。

パソコンは便利だが、メモはメモパッドを使うし筆記具も最近は鉛筆に回帰して きた。鉛筆は元々好きだが、改めて以前使っていた鉛筆ケースを引っ張り出して きて今は手元に置いている。健筆ケースと言ってもチョコレートが入っていたブ リキ缶だが、中には十数本の鉛筆が入っていて、常にきれいに削ってあり、サッ クがかぶせられている。

最近は、フランス語やドイツ語のブラッシュアップをやっているので鉛筆が結構 活躍している。鉛筆はすぐ芯が減るので常に削らなくてはならないが、遠藤鉛筆 削りなどは使わず、私は自分で気に入った長さ、気に入った角度に削る。その削 る時間が何とも言えず楽しい。

思えば、これは毛筆で書くときの墨をする行為に通じるかも知れない。あれは、 不便なのではなく、心を込めて文字を書くための準備なのだと思えば欠かすこと の出来ないものであり、単に時間の無駄だと墨汁を使ったり筆ペンを使えばよい という物ではないだろう。

色々便利になり、昔自分でやっていたことをやらなくても良くなったが、考えて みればやれなくなったとも言える。

小さな事だが、自分で手書き文字を書き、そのために万年筆の手入れをし、鉛筆 を削り、車を使わずに自転車や自分の足を使い、外で食べずに自分で作って食べる。

不便なのではなく、便利をかみ締めるための余裕だと考えることが出来ればそれ だけで大きな得ではないのだろうか。2、30年後、もしかしたらロボットが掃 除洗濯、仕事の何でもやってくれて人間は何もしなくても良くなるかも知れな い。だが、何と味気ない世界かとも思う。むろん、極論だが、やらなくても良い とは、出来なくなることでもあると思うし、ロボットが何でもかんでもやるよう になって人間がベッドから出る必要が無くなったらそれは悪夢だろう。もちろ ん、そんなことは人間の特性としてあり得ないのだが、一部であれ、現在でさえ その兆候が見えていることが気になる。

by ロクスケ















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天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(4)

ケンです。前回は、私の小学校から大学までの間のADD的なエピソードを書いて みました。今回はその続きです。
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自分でもおかしく思う癖がいくつかあった。


小学生の時の変な癖は、カサブタを取ってしまうことだった。怪我が多かったこ とは前に書いたが、カサブタが固まってくると、いけないとは思いつつ、掻き 取ってしまうのだ。カサブタを取ってしまえば、当然血が出てきて、以前より小 さいカサブタができる。それをまた掻き取る・・・ということを年中繰り返して いた。


中学生の時は、名前を呼ばれると、「ハイ、ハイ」と二回返事することが止めら れなかった。その度に先生に「返事は一回」と叱られた(というよりもからかわ れた)。

高校三年生の時に始まって、今に至るまで続く癖として、耳掻きがある。受験勉 強の時に、耳栓を試したことがある。音が遮断されて集中できたのは良かった が、耳が痒くて仕方がない。そして耳を掻きはじめると余計に痒くなって最後に は血が出てきてしまうほど掻き続けた。それは連日続き、ついには毎日の習慣に なってしまった。しかし、それほど痒いのに、一回掻くとしばらく(数時間〜一 日)痒みが止まるのが不思議だった。

これらの癖は、いわゆる自家療法の一種ではないかと考えている。一日に一回以 上、刺激を与えてることで脳内血流を増加させる必要があったのだろうと推察する。




そして、もっとも特徴的な事は、常にストレスを感じていたことだろう。

幼少期は、毎年春になると花粉アレルギーに悩まされた(昨今の花粉症とは異な るものらしい)。花粉によって全身いたるところに発疹ができて痒かった。特に 目玉にも粒々とした発疹ができて、痒くて痛くてやるせなかった。

体質改善の為 に周期的に保健所に通い、非常に痛い筋肉注射を受けなければならなかった。そ れとは別に、鼻のアレルギーの治療も受けた。いつも薬液の蒸気を鼻に入れなけ ればならない治療がいやだった。肺のレントゲンで影がみつかり、結核を疑われ て保健所にいったこともある。何かとひ弱で病弱だったイメージがある。だが、 小学校二年の時、扁桃腺を取る手術をしてから、うそのようにアレルギー症状が なくなり、それ以降は比較的健康にすごせるようになった(現在は、鯖アレル ギーだけが残っている)。




小学校にはいる前後だったと思うが、母親に「これからはびしびしと叱るから」 と言われた。恐らく精神障害を疑って医者に相談したのだろう。医者に問題ない と言われたと私に言った。それから、毎日のように叱られ、はたきやものさしで 尻をたたかれた。家を追い出されて、外で寝ようしたのも一度や二度ではない。 冬の寒い日に草に包まってじっとしていたところを父親に見つけてもらったこと もあった。中学になると、さすがに折檻されなくなったが、大人になっても子供 の泣き叫ぶ声がいやだった。



対人ストレスは、劣等感と相互に関係があった。小学校のいつ頃からか、常に、 人の目を意識していた。だがそういうことをすると、面白いもので逆に人に疎ま れる。すると、なおさら人の注目を渇望し、そして更にきらわれた。小二の学期 末、担任の女性の先生に引っ越すんだと伝えると、「さっさと引っ越してしま え」と言われた。引っ越した先の小学校では、二年間ほど集団でいじめられた (集団下校が恐怖の時間だった)。中学一年で顔一面にニキビができ、顔のコン プレックスが強くなり、人目を恐れた。

中学校を通して、教師から叱責を受ける ことが多かった。中三の時には、教師に毎日顔をたたかれ、ニキビがつぶれて、 更にひどいデコボコの顔になった。高校の時に、なぜだか彼女が出来た。手紙を 交換するだけの幼い恋だったが、「自分を愛することが出来ない人間に他人を愛 せるわけがない」ことに直面して苦しんだ。一年も経たずに逃げるようにして別 れると、今度はその成り行きの情けなさに苦しんだ。大学では最初の2 年間ほど 友人がまったく出来ずに孤独な生活を送った。

複数の塾でバイトをしたが、片っ 端から首になった。なんでいつもひどいことになってしまうのか、皆目わからな かった。ただ、いつもストレス(劣等感)を感じていた。大人になっても状況が 変わらず、これらが交流分析で言うところの「ゲーム」だと分かった時は、すで に30歳になっていた。そしてその時は、恐らく人生最大のゲームの真っ最中で あった(これについては触れられるようなら後で触れたい)。



最後に、もしかするとADDとは関係ないかもしれないが、思い込みに関すること を書いておきたい。

ひとつは、大人になるまで人に対して腹を立てた記憶がほとんどないこと。小学 校二年の時に、親に折檻されて手に火傷を負った事がある。その夜に、自分の机 の蛍光灯の下で、自分の白くなった手のやけどを見ながら、非常に怒りを感じた のを覚えている。今の言葉で翻訳すれば、「こんなことをする権利が親にあるの か」といった感じだったと思う。

7歳の子供がその親に対して怒りを感じたまま 生きることは不可能だろう。その時、「人に対して腹を立ててはいけない」ある いは「全て自分が悪い」と刷り込みをしたのではないかと思われる。大人になっ てから刷り込みを解消したが、それからが大変だった。あちこちで怒りまくり、 それによって人間関係を破壊し、生き方を変更せざるを得なくなった事も一度な らずあった。昨今、怒りを比較的十分にマネジメントできるようになったが、刷 り込み解除から十数年かかったことになる。

失敗経験を積むのであれば、出来る だけ子供のうちに済ませて置く方が良いと思う。(ちなみに、当時の親に関して は、感謝こそすれ、恨みはない。自分も親になってみてわかったことだが、親は たいてい未熟であり、一生懸命であり、やりすぎてしまうものである。)

by ケン















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睡眠障害とその改善

今日は、昨秋頃から書きたいと思っていた睡眠障害の話がテーマです。


今から4ヶ月ほど前になるが、昨年2009年の秋頃、WingBrain委員長ロクスケさん のご配慮で、ある一冊の本を頂戴した。「睡眠障害は万病の元」という、その道 の医学の専門家が書いた本である。

当時は、頂戴して、本を一読したものの、正直なところ、何となくまだ睡眠障害 というのは他人事のような気がしていた。一読の後、いったんその頂いた本は自 宅の本棚で数ヶ月眠ることとなった。


折りしも丁度その頃、ストラテラというADHD治療薬の治験が始まるところで、 小生の場合、治験担当医師=現在の主治医であったので、隔週ペースで通院して いた。結果的に、アスペ併発型の可能性が濃厚とされ、主治医の判断で治験は強 制的に中止となってしまったが、その他の様々な疾患も調べておく必要があると のことで、脳波検査その他、色々な検査を受けることとなった。

その中で疑われた疾患の一つが、皮肉にも睡眠障害であった。本を頂戴した直後 であったため、そのタイミングの良さに正直驚いた。検査の結果、だいぶ眠気を 感じる波形が強く出ている、との分析であった。小生、やはり睡眠障害であった ようだ。

結果、睡眠障害の治療のため、新たな薬(モディオナール)が処方されることと なった。今現在も服用している。


話は少し外れるが、小生は、かなり以前から、睡眠時間が平均的に短い。1日あ たり平均で4時間半寝ていれば、何とかペースを維持できる。睡眠時間が3時間、 1時間半であっても、あるいは徹夜しても、1〜2日以内に爆睡すればリセット できる。自分の経験則として身についている。

結婚して子供が出来てから、ここ6年くらい、一日の睡眠のペースはほぼ固定さ れている。家族とともに夜10時頃寝て、一人深夜2時半〜3時頃に起きる、あ るいは深夜2時〜3時半頃まで起きていて、寝て6時半に起きるのが日課である。

その反面、特に休日は、朝起きてから、半日〜一日、何となく目が完全に覚めな い感覚がずっと続いていた。休日は、よく昼にファミレスで家族と食事すること が多いが、そこのドリンクバーでアイスコーヒーを数杯ガブガブ飲んである程度 目が覚めることが多かった。

また、平日も、仕事中はもちろん起きてはいるが、昼休みにウォーキングをしな いときは、30分ほど椅子にもたれて昼寝したり、午後の時間帯に時々舟をこい でしまうこともあった。

そんな自分の特性が、思えば不思議な気もしてはいたが、何となくそれが当たり 前と思って過ごしていた。


話は戻るが、薬を飲み始めて、それが少し変化してきた。朝1錠その薬を飲むの だが、平日も休日も関係なく(当たり前か)、朝から目がすっきり覚めるのであ る。おかげで、以前よりも一日が快活に過ごせている気がする。

その反面、夜は眠くなりやすい。睡眠時間4時間半では少し足りないかも、とい う気がしてきた。ここ最近は平均的に6時間以上寝る日が多くなった。(小生、 毎日日記をつけていて、ここ数ヶ月以上は毎日、就寝時刻、起床時刻ともほぼ正 確に付けているので、その推移を見れば一目瞭然である。)


その変化から今さらながら気付いたことがある。何故睡眠時間が今まで短くて済 んだのか、である。専門家の正確な分析ではなく、あくまで小生個人の推測に過 ぎないが、要するに今までは、昼間に完全に目が覚めていなかった、裏返せば、 頭、体が少し眠った状態のままになっていて、そのおかげで夜の睡眠時間が短か くて済んでいたのではないだろうか。

薬を飲んで、昼間完全に覚醒するようになってしまったため、逆に夜は今まで以 上に寝なければならなくなった、ということではないか。非常に単純なことだが、 そう考えれば、話の辻褄が合う。


とはいえ、今まで、夜の睡眠時間を短くして生まれた時間で、メルマガ原稿を書 いたり、仕事の残りをやったりとそれなりに時間を有効活用してきたので、夜多 めに寝るようになるなら、その分時間配分を考えなければならなくもなった。そ れが目下の課題の一つである。

あまりよろしいことではないだろうが、やむなく、忙しい日などは、故意に薬を 朝飲まず、あるいはこれこそ本当に良くないのだが、薬を夕方〜夜に服用して、 夜起きていられるようにすることもここ最近で何日かあった。もちろん、良くな いことだと思うので、なるべく止めるようにはしたいが。


昼間完全に覚醒するようになったことで、確かに快活に過ごせている気がする。 その点は嬉しいことではある。何より、頂いた本のタイトルにもあるように、睡 眠障害は万病の元であろうから、早期に治療、改善するに越したことは無いと思 う。それが、本を頂戴した直後から、自力でなく、医師の判断、指示で行われる ようになったのは、何とも皮肉な、不思議な話である。

おかげさまで、睡眠障害も克服できてきたので、改めて頂戴した本を精読してみ たいと今さらながらに思った次第である。


以上です。引き続きお読みいただき、ありがとうございました。

by なさ













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天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(2)

ケンです。連載物を書くつもりが、なんだかんだで間が開いてしまいました。 続きを書いてみたいと思います。

(前回あらすじ:一昨年、自分がADDではないかと疑い、本を何冊か読んでみま した。そして・・・)

本を読み進めるにつれて、自分自身でも感じる奇妙な特質は、ADDといった名前 の付いた障害の現れであることを納得せざるを得なくなった。一方で、そういっ た人々が大勢いるのだという妙な安堵感を得た。また、好きではない一部の特質 (性格)を修正できるのではないかという期待も持った。さらに、私の奇妙な特 質は、デメリットだけではなくメリットも生むことを前から感じていた。それが どこからきているのかが理解できれば、なにか発展があるかもしれないと興奮した。

その後約一年間、自分の人生を振り返りながらADDについて色々と考えてきた。 考えるだけではなく、自分を対象にADDへの対処法を実験検討してきた。そのこ とを、今後記載していきたいと思う。順序だてて説明できない部分も多々あると 思うが、お付き合いいただき、ご意見・ご批判などいただければ望外の幸せである。

【ADD のタイプ】

エイメン著の「わかっているのにできない脳」は、ADDを6種類に分類している。 ADDは一般に二種類に分類されているが、エイメン氏によればADDへの対処法が微 妙に異なるとのこと。ADDへの対処を考える上で、タイプが細かく分類できるの であればそれに越したことがないと考え、彼の分類に従って自分のタイプを見極 めることにした。

最初に紹介されているタイプ1、及びタイプ2は、一般に知られた多動性・衝動 性優位型と不注意優位型に相当するものと思われる。供に集中時の前前頭皮質の 活動低下の障害で、リタリン等の中枢神経刺激剤が効く。

タイプ3は、安静時・集中時供に前帯状回が活動過多のタイプ。セロトニンを高 める薬物が効果がある一方で、リタリンが逆効果とのこと。

タイプ4は、側頭葉の活動不足のタイプ。側頭葉を安定化させないでリタリンを 使うと逆効果とのこと。

タイプ5は、安静時の深部辺縁系が活動過多のタイプ。「ADD」+「うつ」の場合 と治療法が共通しているとしている。

タイプ6は、安静時に大脳皮質全体が活動過多のタイプ。リタリン単独や抗うつ 剤が逆効果とのこと。「ADD」+「双極性障害」かもしれないとしている。

同書には「エイメン・クリニック式ADD分類チェックリスト」が記載されてお り、どのタイプのADDかを判断できるようになっている。人間観察力にたけた我 が妻に評価してもらうと、タイプ3の条件を満たし、さらにタイプ1、2の疑い があることが分かった。

しかし、面白いのは、私が評価すると、どのタイプにもほぼ該当しなくなるとい うことだ。思い込みが激しく自分が自分で分かっていないという、ADDの特徴の 一つが図らずも現れたことになる。

【私の約半世紀にわたるADD的記録】

では、何をもってして、自分がADDだと感じるのか、を説明したい。

まずは、小中学生の時の通知表の所見欄からキーワードを拾ってみて、ADD的な 特質の一貫性があるかどうかを見てみたい。

小一;注意がそれる。自分勝手。元気がある。わがまま。小二;学習中におしゃ べり。自分で納得しないと次へ進もうとしない。粘りつよい。飽きっぽく欲がな い。最後までやれるように。明朗。特定の友人としか遊ばず、友人とのトラブル が多い。小三;理解力がある。何事も手早くできる。余った時間によそごとをす る。話を聞いていない。口数が多い。よく席を立つ。授業中でもごそごそしたり 言い争いをする。小四;発表力、まとめる力、考える力は優れる。集中力に欠 け、学習が長続きしない。ひらめきは鋭いが、伸ばす努力が足りない。最後まで 出来ない。人を気にしすぎ。落ち着きがたらない。小五;授業中おしゃべりをす る。粘り強さが出てきた。こつこつ努力している跡がある。相手の発言を聞くゆ とりを持つように。マスクを良く忘れる。他人のせいにしないこと。上靴なしの 生活は危険(しもやけがいたそう)。物を大切に。落ち着きが欲しい。小六;活 発に発表。学習中の態度が悪い。自己中心的な行動・発言が多い。自由奔放すぎ て集団に溶け込めず。中一;授業中の発言が少ない。学習取り組みの意欲にやや 欠ける。質問されると発言をしてその内容は大変良い。だらしがない。相手の立 場を考えた行動をするように。中二;学習に対する好き嫌いがはっきり。努力・ 向上心に欠ける(特に英語)。努力の跡は伺えるが、持続できない。やればでき る。中三;落ち着きがない。時と場所を考えた行動ができない。社会性に欠ける。

以上から、「落ち着きがなく不注意。忘れ物が多く、だらしない。おしゃべりが 多く自由奔放。得意/不得意の差が大きい。粘り強い反面飽きっぽい。交友がス ムーズではない。」といった特質が一貫していることがわかる。

by ケン







天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(5)

 ケンです。前回は、怒りに関する思い込みについて書いてみました。今回、別の思い込みに関する続きを書こうと思ったのですが、その前に書き忘れたADD的な変な癖について追記します。

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長風呂であること。中学の頃から風呂好きで、湯に浸かりながらでボーとするのが好きだった。高校の頃に、足を浴槽から出して寝てしまうことが多くなり、よく親に怒られた。現在でも風呂には毎日入り、そして必ずといっていいほど寝る。

その結果、普段は1時間程度、長いと3〜5時間入っていることも珍しくない。睡眠時間がたっぷりの時は寝ないこともあるが、それでもやっぱりボーとしていて、結局は1時間ほど入っている。風呂にただ入っているだけで、結構なカロリーを消費するらしい。1時間歩く消費カロリーよりも、1時間入浴する方が大きいそうだ(それぞれ、140kcal、190kcal程度)。恐らく脳内血流を増加させる手軽な自己治療法になっているのだと推測される。

尚、念のため警告しておくが、風呂で寝ることは、全くお勧めしない。基本的に風呂でうっかり寝てしまうのは、急激な血圧低下による気絶に近いものらしく、そのために溺死する人が少なくないとの事である。私は現在までなぜか死ぬことはなかったが、それは恐らく幸運な出来事だと思っている。(最近は少々時間がもったいないように思えてきた。長風呂をやめるならばそれに代わる方法、例えば毎日ジョギングするなどが必要かもしれない)。

やせの大食いだったこと。25歳前後まで、よく食べる割にやせていた。下痢気味だったことも影響していると思うが、せわしなく動き、更にくだらないことをくどくど考えている(悩んでいる)ことが多かったので、その分だけカロリーを消費していたのだと思われる。その傾向が逆転し始めたのが、30歳過ぎぐらいから。下痢をしなくなって、そして体重が増加し始めた。現在は、やせていたときから15kgほど体重が増えた。食べる量を減らして定期的に運動しているにもかかわらず、特に下腹部の出っ張りがなかなか落ちなくなった。体型だけは、普通のおじさんになったといえる。

もったいないことが大嫌いであること(要するに、ケチ)。無論、ケチとADDとは関係ないと思うが、そのこだわりの強さがADDの特質からきているのではないかと思っている。金銭的なケチ行動は親譲りだと思われるが、それを特に意識し始めたのは、中1前後だった。

電子部品の一つである抵抗器は、地元で購入すると一本10円したのだが、東京の秋葉原で購入すると、なんと100本100円で買えたのだ。一円単位で節約するごとに「これで一本抵抗が買える」とほくそ笑んだものだ。そして、ただ単にお金がかかるからという理由で、タバコ、酒、自動車には全く関心がなかった。

大学で下宿することが決まった時に、自動車の購入を検討したことが一度だけある。下宿の代わりに車で寝泊りできないかと考えたのだ。しかし、免許を取るだけでもお金が膨大にかかることを知り、それ以降現在に至るまで免許すら取得していない。

妻も免許を持っていないので自宅には自動車がないが、それほど不自由はしない。というか、そのおかげで、どこへでも歩くか自転車を使うので、お金の節約以外にも、健康にいいような気がしている。

下宿生活に入って、ケチ生活は更に進展をみた。最初の月は、食費を3000円/月に抑えることに成功した。パン屋から安く仕入れた耳パンと、安売りの時に大量に仕入れたバター&牛乳をメインにして耐え忍んだのだ。次の月からはさすがにそこまでは行かなかったが、道端を歩きながら、その辺りに生えている草が食べられないかと真剣に考える日々が続いた。

夏になると、下宿の屋根に水槽を置き、太陽で暖められたお湯を使って水浴びをした。風呂代が確か 380円ぐらいだったと思うが、それを10月ぐらいまでゼロに抑えることができた。そのほか、本をコピーせずに丸々書き写したこともよくあった。例えば、大学のバイト先で化学実験の教科書を見つけたのだが、残念ながら絶版になっていた。コピーすることなど毛頭考えず、数日かかってひたすら書き写した。書き写すには、後で読むことを考えて詳細に書く必要があるが、一方で出来るだけ簡便かつ自分にわかる省略方法などを工夫した。理解しながら要約する作業を伴うので、書き写してしまうと頭に入ってしまうという副次効果があった。ちなみに、今でも、気に入った本や記事があると、パソコンに要旨をまとめている。、何が面白いと思ったのかが明確化でき、後で検索できるメリットも大きい。大学以降で最も効果的だった勉強法の一つが、この要約法だったと思われる。

 by ケン

 この、本を丸写しにする方法は非効率のようでいて、実は非常に効率の高い勉強法と私も思います。実際、丸写しはしませんが、要点を書き出すことは良くやります。それにより、確かにただ読むよりは頭に入ります。

 同時に、声に出して音読することも効果があります。要するに、単に黙読だけだと、読んだときは分かったような気がするものの、実は頭に入っていないことが良くあるからです。

 昔日本人は音読が普通であり、また、識字率が世界でも非常に高く、当事世界では欧米でも識字率が25%くらいだったのが、日本では男女ともに75%くらいで、日本を訪れた外国人が驚嘆しています。だから、世界でも類例のない出版文化が日本ではいち早く花開き、ベストセラーが貸本屋から庶民に渡り、みんなで回し読みをしていた様です。

 当事の学問と言えばひたすら暗唱することだったのですが、そのためには音読が普通であり、明治の頃日本に来た外国人が、どこに行っても日本人が本を読む声が聞こえると言っています。つまり音読することで理解していたのでしょう。また当然本は高かったから、自分のものにするためには写すしかなかったわけで、それがまた理解を助けたようです。

 今、簡単にコピー出来ますが、コピーしたものを後で読むことは余り無いような気がするし、まして覚えていないようです。

 from ロクスケ

 

 













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天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(6)

ケンです。前回は、書き忘れたADD的な変な癖について追記しました。今回もそ の続きです。

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ケチ行動は、少しづつルーズになっているものの、現在も続いている。例えば、 週一回の買出しを一手に引き受け、安い店を転々と回って賞味期限ぎりぎりの食 材を買い漁る(自動車がないので、必然的に体力のある私が自転車で運ぶことに なる)。地元で購入した安い牛乳を会社まで運び、その結果として昼食を一回当 たり100円に押さえる。家中の電気を消してまわる。家計簿や金銭管理を一手に 引き受け、一ヶ月の消費の推移をグラフ化して、家族の消費行動に目を光らせる (家族からいやみを言われてもめげない)。庭には食べられる物を植え、水遣り には雨水を使う。将来的には風力発電、太陽熱利用、メタンガス発生装置といっ た自給自足技術を導入したいうのが、私の一つの夢である。

不要になったビンや容器などは、妻が嫌がらない程度にコッソリ保存している。 不用品でも、別の役に立つことが良くある。例えば、雨水をくみ出すポンプに逆 止弁をつけたいことがあった。そういうときには、不用品が並べられている地下 倉庫に行って、使えるものがないかを探す。あれを・・・こうして・・・どうし て、と考えながら物色するのが結構楽しい。そしてついに役に立ちそうなもの、 プリンタの詰め替えインクキットに付いて来た「注射器のゴム」を発見した。そ れを塩ビ異径ソケットに取り付けてみると、加工しなくてもそのまま役に立つが わかった。しかも漏れが全くない。解決にかかった時間も、20分足らずだった。 こんなことがあるから、やっぱり不用品(ゴミ?)集めは楽しいのだ。

ケチ行動は、金銭的なものに限らない。例えば、幼稚園の頃、必要以上のことを 記憶しないと決めたのも、要するに能力の浪費がもったいないと感じたのだと思 う。余計な事を覚えたくないので、テレビのCMも嫌いだ。一人で見る番組は、ほ とんど一旦録画してからCMをカットしながら見ている。家族と一緒にTVを見ると きには、CM中は消音する。子供の小学校の先生から、CMを見せてやっても良いの ではないかと言われたこともあった(教育上の配慮だと思ったらしい)。

時間の無駄遣いも嫌いである。40 歳前後まであくびをあまりしなかった。とい うか、あくびをしなければならないような、閑はなかった。常に、いくつもの懸 案事項を抱え、それをどうしたらいいかを考えるのに忙しかったのである。20歳 前後の頃は、電車等であくびをしている人を見ると、なんて人生を無駄にしてい るんだろうとよく思っていた。だからといって私の人生が成功の果実で潤ってい たかというと、全くそんなことはない。何かを「すること」が重要なのであって、 その課題が重要かどうか、あるいはそれをやったことで重要な果実が得られるか どうかは、二の次になってしまうからだ。「器用貧乏になる」秘訣が、ここにあ ると言える。



関連したADD 的なエピソードを一つ。子供の頃から落ちているお金を見つけるこ とが良くあった。硬貨をもっとも良く拾ったが、お札もしばしば拾った。雨の日 に交差点で信号待ちをしている時、向かいの道路わきに泥だらけになっている千 円札を見つけたこともあるし、自転車に乗っていてふっと道路わきをみると一万 円札がおちていたこともあった。最も高額の拾いものは、一万円札が七枚束にな って落ちていたことだ。高額の拾い物は律儀に交番に届けていたが、7万円の拾 い物以外は、受け取りにきた人はいなかった。7万円の時は、落とした人が絶対 無いと思いながら届出をしたそうである。菓子折りと謝礼2万円を差し出され、 「今後、私がお金を拾ったら必ず交番に届けます」と語っていたのが忘れられな い(ちなみに謝礼は10%だそうだが、どうしても差し上げたいというのでそのま まもらった)。

拾い物といえば、小学校の時には、コカコーラのビンを良く見つけた。店に持っ ていくと1 本10円もらえたので良い小遣い稼ぎになった。中学校の頃によく拾っ たのはバッテリー。物陰にこっそり不法投棄されているのを見つけるのがうまか った(充放電して遊ぶ以外に、硫酸を取り出す原料としても使った)。大人にな ってもテレホンカードやバスカードなどをよくひろった。

40歳ぐらいの時に、ふと、少なくとも1円だまを拾うのをやめようと決めた。す ると、一円どころか、金目のもの一切を拾わなくなった。ADDの人が持つ特殊な 能力の一つに視覚的なサーチ能力があるそうだが、恐らくそれを封印したのだと 思われる。



もう一つ、似たような特殊な能力がある。最初に気付いたのは小学校の時だった。 勉強などをしている時に、机から紙などが落ちそうになると、全く意識していな いにもかかわらず勝手に手が動いて、机から滑り落ちる直前の紙を押さえ込むの だ。視野には入っていたのだろうが、何を判別し、どうすべきかといったことは 全く意識に昇ってない。更に、運動神経がよくないのに体が勝手に動くというの がとても不思議だった。トム・ハートマンの、「なぜADHDのある人が成功するの か 自分らしいビジネスライフを送るために」 (明石書店)に、「ADDとは、 ハンターとしての遺伝的な能力を受け継ぐ人々の事ではないか」との仮説が述べ られている。上記二つの例は、ハンターとしての能力の一つの現れかもしれない。

by ケン












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公開診療、カウンセリングの提案

以前から、やや大げさだが、日本の成人ADHDの世界にブレイクスルーを与えるた めのアイデア、方策というものについて、ポツポツと考え続けてきた。

最近になり、自分のサイト上でそれらをまとめて整理しているが、足掛け2年も の間アイデアを書き溜めていたら、その数は50個を超えてしまった。しかも、 この50という数は日に日に増え続けている。

それらのアイデアの一部は、これまでのメルマガ原稿の中でも採り上げてきたが、 今日は改めて、今まで未公開であったものの中から、特に議論の題材としたいテ ーマについて書かせていただければと思う。


今まで、自分が専門医師やカウンセラーの診療、カウンセリングを受けたり、ネ ット上で人様の診療の話などを見聞きしてきた上で、一つ思いついたことがある。 それが今日提案する「公開診療、カウンセリング」という形である。

具体的には、当事者有志が、各々の専門医師やカウンセラーによる診療、カウン セリングの途中過程を、個人情報が守られ、かつ医師・カウンセラー側のつるし 上げにならない範囲で、克明に綴り、積極的にネット上で情報公開してゆくこと である。

投薬治療(治験も含む)や認知行動療法などの他、SST(ソーシャルスキルト レーニング)などの過程、さらには医師・カウンセラーとのちょっとしたやりと りなども情報公開の対象とすることを想定している。

このようにして、当事者、および医師・カウンセラー間でも必要な情報を互いに 共有化し、生じた課題について共に考え、議論できるような体制としたいと思う。

例えば、小生自身の経験で言えば、最初に受診した医師からは、当初、「辛けれ ばより強い薬も出します」と言われたにも関わらず、その後しばらく調子が良い まま推移し、数ヵ月後に再び悪くなった際、なぜか今度は当初言っていた強い薬 を出し渋るようになってしまった。これは未だに釈然としない点であり、その真 相、原因を考えてゆきたいと思っている。

既に、ネット上で診療、カウンセリング時の様子に関する情報を書いておられる 方々も少なくはないが、できれば、一定の、共通のルール、雛形に沿って、より 多くの当事者に情報を寄せていただけるような体制が実現できればと思っている。

この情報公開の意義としては、以下のように大別して3点ほど挙げられる。

1点目は、実際に診療、カウンセリングを受けてみなければ分からない情報、例 えばどのようなを治療を行うのか、どのような効果、課題があるのかなどを事前 に当事者が知ることで、診療、カウンセリングへのリスク、抵抗感を下げること ができることである。また、本来診療、カウンセリングの時間内に直接質問すべ き、あるいは教示されるべき内容を予め知ることで、限られた診療、カウンセリ ングの時間をより有効に活用できるといった利点もあると思われる。

2点目は、決して医師、カウンセラーを吊るし上げにしないという大前提の上で、 医師、カウンセラー間での良い意味での適度な範囲での競争を促し、かつ一部で 実施されている効果的な診療、カウンセリング手法があるとすれば、それの普及 を促すことも挙げられる。さらに、特に分野を跨いでの専門家同士の連携は、様 々なしがらみがあり、一定のハードルがあると思いますので、その壁を少しでも 壊すことにも間接的につながるのではないかと考えている。

3点目として、結果的に、現行の診察、カウンセリング手法の平均的な効果や限 界などについて知る、考えることができるという点もあろう。

なお、もちろん公開とすることでもデメリットも考えられることから、それにつ いても十分に予め考察、議論しておきたいと思う。これについては、追って記事 にしたいと思う。

by なさ













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パソコンダウン

5月28日の朝、いつものようにパソコンの電源を入れたら、全くうんともすん とも言わずあわてた。パソコンがないと仕事にならないので、何とかならないか といろいろ試したが目覚めてくれない。

私が使っているパソコンは、自分で自分の仕事に合わせて組み立てている物で、 仕様としてはそれほど高くはないが、自分の使いたいように作っている。もう何 台作ったか覚えていないが、現在のパソコンは記録を見ると一昨年の夏に作って いるので、2年弱でだめになったことになる。ずいぶん酷使はしているが、それ にしても保たないものだと思った。

とにかくパソコンがないと仕事にならないので、急遽普段は使わないノートブッ クを引っ張り出してモニターやキーボード、マウス、SPなどをつけて、あたかも デスクトップのように使っている。しかし、このノートブックは出張に行ったと きくらいしか使わないのでかなり仕様が古くなっていて、必要なソフトがインス トールできないし、最新ブラウザなどが使えない。さらに、ウィルス対策ソフト が入っていない。それで、一日も早く、PCを何とかしなくてはならないのだが、 新しいPCでは、今まで使っていたXPとはかなりコアが変わっているので、今まで 使っていたソフトが使えず、結局データも使えないことになる。

何をおいてもXPパソコンにしなければならないので、自分でまた部品を集めて作 るなり、XPパソコンの中古を買わなくてはならない。その前に、なんとか沈黙し ているパソコンを生き返らせなければならないが、おそらくCPUか、マザーボー ド、感じではCPUだと思われる。

何とかしなくてはと思いながら未だに手つかずにいる。まとまった時間がとれな いのだ。パソコンを組み立てチェックし、OSをインストールし、ソフトを組み込 むのは一日仕事になりかねないが、まとまった時間がない。まあ、少しずつやる しかないのだが。

データは、毎日予備のハードディスクにとっているが、実はこれがもう一台のデ スクトップにはつかないタイプであり、データが読めない。あとは、USBにとっ ているが、これは月末に一度とるだけなので、今利用できるデータファイルは、 先月一月分がまるまる抜けている。実に困っているが、どうしようもなく、今後 は予備のパソコンに毎日データのバックアップをとるべく、2台のパソコンを用 意しなくてはならないだろう。そして、一台はW7として、将来に備える必要があ る。

OSもハードウェアも半年でがらりと変わり、油断をすると古いデータが利用でき ないし、ソフトも買い換える必要がある。調べてみると、XPとW7ではほとんど互 換性がないようだ。

今臨時に使っているノートパソコンはやはりXPなので、USBに入っているデータ は利用できるが、ソフトの一部はインストールできない。PCの能力が足りないか らだ。

結局、定期的にパソコン会社に金を搾り取られるように出来ているのだと忌々し く思いながら、今これを書いている。

幸いといえば、私は動画も画像もやらないので、データファイルといってもそれ ほど巨大にはならず、すべてかき集めても40G位なので、現在一般的になってい るテラバイトクラスのハードディスクは要らないし、扱うにも時間がかかるし、 壊れる危険性も増している。しかし、昔のメガバイトクラスのHDを扱えるマザー ボートはもうないし、接続も今はSATAが標準で、やはり、ハードディスクなども 定期的に買い換えなければならないし、ラムもCPUも定期的に買い換えることに なる。実に腹立たしい。大切に使って一台のパソコンを10年使うなどが出来な いのだ。車ならその気になれば2,30年使えるだろうに。

とにかく、どんな状態になってもデータだけは確保しなければならないと、改め て痛感した。

by ロクスケ















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天才じゃなかった私は如何に生きるべきか(7)

ケンです。前回は、書き忘れたADD的な変な癖について追記しました。今回は、 元に戻って、社会人になるまでの思い込みについて書いてみます。

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二つ目の思い込みは死に対する恐怖がないこと。小学校二年生の時に祖父祖母が 相次いでなくなった時に、「死ぬこと」=「存在しなくなること」に恐怖したの を覚えている。しかし、それ以降、現在に至るまで、死に対して恐怖を感じるこ とがなくなってしまった。そんなはずはないだろうと、ビルの屋上に行って下を 覗き込んだこともあったし、死に関する瞑想トレーニングも受けたこともあった が、いずれも死ぬこと(すなわち生きること)にこだわりが感じられない。

三つ目の思い込みは、人に頼らずに生きること。幼稚園の頃、両親が共働きの為 にいつも一人で幼稚園で居残りをしていた。ある時、園庭で焚き火の燃えカスで 遊んでいたのを親に叱られ、自宅への帰り途中に自動車から降ろされてしまった。 自動車が走り去るのを追いかけながら、自分ひとりで生きていこう。生きていけ ると思った。その時は、「自分一人で生きていくこと」=「自分の家に一人で帰 ること」を意味していたのだが、自動車で数十分かかる距離を、何日かかろうと も歩いて帰ることができると確信に近い思いがあったのを覚えている。時が過ぎ て小学校の高学年の頃だったと思うが、神様にお願いしたことがある。「私一人 の力で生きて行きたい。だから、手を貸さないで欲しい」と。その思いは、変形 しながらも大人の一時期までずっと継続しいたように思う。そして、一人ぼっち の猟師が、山小屋にこもって日々自然と向き合って様々なことを探求する、よう なイメージで生きたのだった(もちろん、実際は多くの人に囲まれて生きていた)。 結果として、大抵のことは私一人で何とかできるようになり、それなりの知恵や 技術や創造性を育てることに役立った。一方で、当然のことながら、他人とのコ ミュニケーション能力は育たなかった。

四つ目の思い込みは、私は天才ではないかということ。私は幼少より偉人伝が好 きだったが、彼らのおっちょこちょいでお茶目な言動が私にも多分にあることを 知っていた。しかし、自分が天才だと信じるに足る材料が無く、劣等感にさいな まれる日常の中の、かすかな希望のようなものだった。ただ、長ずるにつれて証 拠は集まるもので、自分だけの狭い世界の中で、劣等感は優越感に変質して行っ た。その観点から社会人になるまでを点描してみる。

・二の頃、壊れた(と思っていた)テレビの下パネルを開けて、抵抗やコンデン  サをニッパで切り出し、集めた部品を眺めては悦に入っていた。
・パチンコ球を発射する機関銃のモデルを小三で作った。モータとベニア板を組  み合わせたものだったが全く飛ばなかった(遠心力の向きが違っていた)。
・小4〜小6のとき、気象観測部に入って気温、湿度、大気圧、雨量、風向風速  などの記録をつけた。なぜか止められずに、日曜・祝日も毎日10時に学校に  行った。
・小5の時に花粉の飛来距離に関する研究をまとめて市から賞状をもらった(扇  風機と顕微鏡を使った研究)。
・小学校高学年で高校の化学の参考書を読み込み、乾燥剤に水を入れて水酸化カ  ルシウムを作る実験などに夢中になった。
・中学から高校にかけてピアノを熱心に弾いた。頭の中で音楽を奏でることがで  きるため、何度か曲を聴くと、楽譜を見なくてもピアノが弾けた。しかし、そ  れが災いして、楽譜を読む能力が十分に育たなかった。
・中学校に入った頃、薬局に日参して様々な化学薬品やガラス器具を買い込み、  自宅に実験室を作った。バッテリーから硫酸を取り出し、そこから濃硝酸を作  った。更にニトリグリセリンを作ろうとしたが、攪拌がうまくいかず、分離し  た界面から煙がもうもうと出て恐ろしい思いをした。また、マッチ箱に塗って  ある赤燐を削り取って爆薬を作った。スプーンでたたいても爆発するほど敏感  なものだったが、それを胸のポケットに仕込んで喜んでいた(衝撃で爆発して  いれば、ばか者として有史に残ったかもしれない)。その他、事故が何件かあ  ったが、いずれも幸運なことに大事に至らなかった。
・高校の時に、海外の学生が巨大素数の計算に成功したとのニュースがあった。  そんなものは俺でも出来ると、学校のコンピュータでプログラムを作った。そ  のコンピュータは図体はでかいものの、今の関数電卓よりも性能が低く、素数  3桁目の計算で1時間程度かかった。計算機の性能が悪いだけだと思っていて、  プログラムに雲泥の差があるとは思いもよらなかった。
・同じ頃、自分で設計した16回路のON/OFFタイマーを作った。珍しく、修正する  ことなく動いて感動した。
・大学でパソコン倶楽部の会長になり、ミニコミ誌を発行した。あまりにわがま  まな会員に腹を立てて、一年で脱退した。
・大学二年の頃、パソコンのマシン語(Z80)を使ってオセロゲームの思考プロ  グラムを作った。ミニマックス法を自力で導き出したが、プログラムそのもの  はたいして強くならなかった。
・研究室予算が潤沢にある大学院研究室に進級した(大学で所属していた研究室  の10倍以上あった)。
・博士課程に進んだ頃、光コンピュータ及び光メモリに関する全く新しい概念を  考案した。教授に談判し、従来テーマを止めて、これに変更することにした。  教授は、レター一報だけで博士号が取れると言ったが、研究そのものに関心が  つよく、博士号そのものには関心を持たなかった。
・創造性に関する民間のコンクールで優勝した。回答の中で、環境対応のための  「CO2排出権取引」のアイディアを(おそらく世界初で)披露した(実施元が  公表しなかったので闇に消えた)。

by ケン














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今日のワンフレーズ:「じぶん、新発見」

小生がまだ子供の頃に聞いた、広告のキャッチコピーです。コピーライターの糸 井重里氏が考えたものだそうです。先日なぜかふと思い出したので、書きました。

以前のメルマガ原稿とややかぶりますが、自分を見つめて今まで気付かなかった 特性に気付くというのは、自己改善の意味で非常に大事だと思います。単に長所 を見つける、というだけでなく、精神的に辛くならない範囲で、短所も探して直 視することも必要ではないでしょうか。

最近思ったのは、自分の長所をさらに伸ばす、あるいは短所を克服しようと頑張 ると、空回りして精神的に辛くならなければ、ですが、意外と変われるものだな、 とか意外と変なところでつまずくんだなということ。自己改善の過程で色々と気 付きました。つまり、変わってゆく自分に気付くことも「じぶん、新発見」のう ちの重要な要素、ということです。意識的に自分を見て行きたいと思います。

by なさ














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公開診療、カウンセリングの提案(2)

前回の号で、公開診療、カウンセリングの提案について述べた。今回はその続き の考察について述べたいと思う。

まず、情報公開については、少なくとも小生自身の体験について、カウンセリン グや治験の過程を克明に綴る日記を記事として公開してきた。引き続き、カウン セリング、専門診療、さらにはSSTについてもシリーズの記事として情報公開し てゆきたいと思う。

合わせて、他の当事者の皆様のサイトや掲示板などを色々と拝見し、診療、カウ ンセリングの過程について既に積極的に情報公開されているこの世界の先人の方 々がいらっしゃるか否かを勉強するとともに、ご協力をいただけそうな方には診 療やカウンセリング等についてのサイト上での情報公開、またはメールでの情報 交換をお願いしたいと思う。

その一環もあり、今後は様々な当事者、支援団体のサイトをご訪問し、相互リン クや情報交換についてのご相談をしてゆきたいと思う。さしあたり、当面は毎日 1件ずつ新規のご訪問先、リンクを増やすという方向で進めてゆきたいと思う。

また、前回話に出した、小生が以前受診した医師が途中から新規の薬を出し渋る ようになった件については、一つの推定として、一度治りかけたのにそこからま たより強い薬を出すことになると、その医師のケア、治療にまずいところがあっ たと病院側に評価されてしまう可能性があり、それを避けるためにのらりくらり かわしてなるべく薬を新規に出さないといった意図があるとは考えられないだろ うか。

もちろん、今の話はあくまで一つの勝手な仮説、推測に過ぎない。もしそういっ た裏事情?的があるならば尚更、匿名掲示板等で片鱗となる情報は仕入れつつ、 きちんとした裏付けになるエビデンス、論述を充実させることにより考慮してゆ きたいと思う。

さらに、診療やカウンセリングを公開してしまうことのデメリットについて考え てみる。

前回述べた意義、利点を裏返して言えば、当事者側が情報を知りすぎてしまうこ とにより、医師、カウンセラー側がやりづらくなってしまう(特定の治療法、臨 床心理学的技法が使えなくなってしまう)可能性も考えられる。場合によっては、 患者側が予め予備知識の無い状態で不意打ち的に行うことにより効果のある治療 法、技法もあるかもしれない。

また、一部特定の患者、当事者に融通を利かせて行っていた処置が全て明るみに 出てしまうことにより、全ての当事者にそれを行わなければならなくなるか、あ るいは全面的にそれが出来なくなってしまう可能性も考えられる。ましてや、ネ ット上で誤った情報が(場合によっては故意に)流されることにより、その情報 に流された当事者が押し寄せ、正常な診療に支障を来たす(まず誤った情報の訂 正とそれへの理解を得るまでの時間を浪費する等)可能性も十分に考えられる。

医師、カウンセラー側から見れば、従来は限られた診療、面接の時間内でとくと くと話していた内容を、予め当事者側が全て知っているとすると、その分診療、 面接の時間が短縮されてしまい、他のことでその時間を埋めるか、診療・面接時 間を短くせねばならなくなる。この医院、カウンセリングルームではこのような ことしかしてくれない、これしか効果が無いという情報が多く流れれば、地道に 診療、面接を行っていても、過小評価されてしまう可能性もある。

さらに、自分のところでのオリジナルな診療、カウンセリングを行っている場合、 その情報をネットで細かく公開されてしまうと、他所に簡単に真似されてしまう という可能性もあります。特許のように法的にアイデアを守るという手段も無い であろう。

これらの影響から、結果的に客離れ(という言い方は適切でないかもしれないが) につながり、営業面で見れば減収になる可能性もある。

吊るし上げに決してしないことを条件に専門家間の競争を促せることを前回意義、 利点の2点目として挙げたが、例えば人格障害系の自称当事者が勘違いして、ま たは故意的に騒ぎ、誤った情報を流すことにより、下手なことをすると結局専門 家の吊るし上げになってしまうという可能性も十分に考えられる。

以上のような事態に陥る可能性を踏まえると、情報公開をするにしても慎重に、 様々な事態を想定してルールを細かく決めてゆく必要性があると言える。次回以 降、このルールのあり方等について、より具体的に考えてゆきたい。

by なさ













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今日のワンフレーズ:「3年先の自分が見えますか?」

本記事のタイトル、これは今から10数年前、1997年頃だったと思いますが、ニ ュース23というテレビ番組が改変期にリニューアルする際に宣伝に使われたキ ャッチコピーです。

当時、3年先といえば、丁度ミレニアムの2000年、翌年からは21世紀というとき で、その新しい時代を見通す意味での「3年先」だったのだろうと思います。そ れとは意味も時世も違いますが、敢えて思い出したので、書きました。

皆さん、今から3年先にご自分が何をしているか、どんな状態にあるか、想像で きますか? 言い換えれば、この先の3年間でどんなことが起こるでしょうか? 何ができるでしょうか?

どうしても悪い方に考えが行ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。無理 矢理プラスに考える必要は無いと思いますが、もし差し支えなければ、頭に浮か んだことを教えてください。

小生の場合、今休職中ですし、この先どうしていくべきか、不安な要素は色々と あります。でも、この先の3年間という時間は、小生にとっては、いくつかの意 味があります。3年間のうちに成し遂げたいことがいくつかあるからです。

詳細はここでは言えませんが、家計は多少苦しくても、プラスに考え、家庭を支 えつつ、精力的にその成し遂げたいことに邁進したいと思います。

by なさ










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自己改善カウンセリング日記(3)

前回の昨秋の記事から半年以上経過してしまいました。ここでは、ここ半年間で の進捗などについて述べたいと思います。


昨秋から今年4月まで、概ね月1回のペースでカウンセリングに通っていた。そ の都度、カウンセラーの方には親身にご指導いただいたが、結果的にはこの半年 間はカウンセラーへの単なる進捗報告、及び、それらに対する同情やお褒めの言 葉を頂戴することで終わることが殆どであった。

そういった報告やお言葉を頂戴することの小生自身にとっての意義もあることは あろうが、月1回わざわざ平日の昼間に時間を作り、カウンセリング料金を支払 ってまでの費用対効果としては今思えばあまり意義のあるものではなかったと思 っている。


小生の通っていたカウンセラーは、大学生向けなどに、レポートなどの締切が近 付くとメールや携帯で催促したり進捗を聞くなどの時間管理に関する行き届いた? 指導をしているそうだが、小生の場合は「あなたの場合はそういった面は自分で できるでしょうから、必要ないですよね」とのカウンセラーの判断から、特にそ ういった指導は頂戴していなかった。

しかし、年度末に近づき、締切ギリギリになり、きちんと論文を仕上げずに提出 してしまうなど、結果的にはいくつか問題のある行為をしてしまった。今思えば、 最大の悪い癖である先延ばし癖が祟って起こしたことであり、カウンセラーなど 自分以外の方々の力をお借りしていれば、多少は防げたのではないかと思われる。 せっかくそういったカウンセリングを受けていながら、活用しきれなかったのは 今思えば非常に悔やまれる。

月1回のカウンセリングの際には、年度末に向けての締切のある課題は一つ一つ 順調に解決してきているとの認識をカウンセラーに持たれていた。小生の伝え方 が下手だったためでもあろうが、小生自身もまたそのカウンセラーの助言に安心 してしまい、上述の論文を不完全なまま提出してしまうという問題行為をしでか してしまっていたことをそれほど問題視をしていなかった。

また、何より、年度末ギリギリになり、異動に伴う業務の引き継ぎ資料をきちん と残さず、今に至るまで残務としてズルズル引きずっているという重大な問題点 についてカウンセラーに報告、指導してもらう機会を逸していた。月1回の面談 のタイミングや新年度に入り、特に休職してからそのカウンセラーに会う機会を 作っていないために結果的にそうなってしまっている。この点については、近日 改めてそのカウンセラーを訪ね、きっちり指導をお願いすることにしたい。


時間管理以外の面では、対人能力の向上などに関するSST(ソーシャルスキル トレーニング)の指導をお願いしたいと思っているが、上述のカウンセラーから は、成人の発達障害当事者(特にアスペルガーの人)を交えてSSTをやるのは、 これまでの指導経験から、正直なところ重荷であるとの本音を教えていただいた。

どうも、複数人数でグループを作ってケースステディ的にやっていくらしいが、 一部の参加者間で人間関係的なトラブルになりかけたこともあるそうで、このと きは毎度このグループでのSSTの場がカウンセラーにとっても非常に辛いもの であったそうだ。

また、別の機会に、別のカウンセラーの方にも指導をしていただく機会があり、 その方にもSST、特に場の空気を読むといった対人能力の向上策について相談 したが、SSTの場を作るといったご指導ではなく、まず相手の目を見て話すこ と、家族などの周囲の親しい人に今の空気はどうなっているかを直接的に聞くよ うにすると良いといった、ごく初歩的な、当たり障りの無いご指導を頂戴して終 わっている。

ネット上での紹介記事などを拝読すると、その方もSSTを主宰しておられるよ うであるが、残念ながら、ごく数回お会いした範囲内では、そういった場に来て はどうですかといったお誘いは一切無かった。その方も恐らく、成人の発達障害 当事者向けのSSTの場で過去に色々とご苦労なされたのであろうか。ただでさ え、特に成人の発達障害当事者向けに、SSTの指導をされているカウンセラー は希少な存在のはずだが、そういった方々が門を閉ざしてしまう状況は、憂うべ きものではないか。

といっても、別にお世話になったカウンセラーの方々を責めている訳では全く無 く、色々とトラブルが起きる、カウンセラーに重荷になる状況を上手に回避して、 かつクライアントである当事者にも有益になる場を作ってゆくことの必要性を強 く痛感した次第である。引き続き、それについては、専門家たるカウンセラーの ご指導を適切に受けつつ、精力的に考えてゆきたいと思う。


小生は今休職中であり、金銭的にはやや苦しいが、時間的な余裕はあるので、近 いうちに、上述の反省点などを踏まえ、再度より有益なご指導を頂戴すべく、再 びカウンセラーの門を叩きたいと思う。

by なさ














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読書

私は自分で言うのは何だが、割合本を読む方だと思っている。おそらく月に10 冊以上は読むし、今月は多分20冊くらいになるだろう。多いときは30冊くら い読んでいたから、いつも何か読みかけていた。今も2冊の本を読みかけてい る。集中すれば一気に読むが、最近は根気が衰えたか、そして何より視力が衰え たのと、また記憶力の衰え(時間をかけて読むと、最初の方を忘れてしまう)が 原因ではないかと思う。

しかしやはり、本を読まないとなにか頭が空っぽになったような気がしていけな い。そう言う意味では活字中毒にはいるかも知れない。以前より本を読む量が 減ったとは思うが、しかし、ネットで様々な物を読んでいるし、自分自身のブロ グを毎日更新していて、2000−20000文字くらいは毎日書いている。

書くためには資料を読まなくてはならない。今はネットが多いが、本も読む。そ して、もちろんブログとは無関係にも読む。

おかげさまで読む速度も人に比べてかなり速いし、書く速度もかなり速い。だか ら、読書量、筆記量に比べてそれにかける時間は思ったほど多くはない。

人間の、他の動物と比べて際だった特徴は知能であり、せっかく人間として生ま れて勝れた知能を授かった以上、それに磨きをかけるのは、人間の本能だと私は 思う。腹が減れば誰でも何か食べたいと思うだろう。頭が空っぽになりそうだっ たら何か頭に入れたいと思うのが人間の本能だと思うのだけれど、それも人それ ぞれなのだろうか。

世の中には暇をもてあまし、どうして時間をつぶして良いか分からないと嘆く人 がいる。本が一冊あれば、そんな問題などすぐに解決するのに、と私は思う。た だし、本は結構高いし、買うのは大変なので、私はもっぱら図書館を利用してい る。同じ地域の図書館にあれば借りられるし、購入申し込みをすれば、買ってく れる場合も多い。

読書をして無駄になることは無いと思っているが、基本は読書習慣をつけて、本 を読むことが面倒でなくなるようにすることだろうし、また読解力を身につけ て、とにかく読んだ内容が理解できるようにすることだろうし、要点をつかむ訓 練を積むことであり、それらが出来ると、読書速度も上がる。

一日10分ずつ一週間読み続けるよりも、一週間に一日一時間読む方が良いと 思える。

実は、この読書についてのことは何度も書いているが、何度でも書きたいほど 重要だと、私は思っている。

by ロクスケ














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今日のワンフレーズ:「今しかできないこと、今だからできること」

今日のタイトルは、小生が最近思っていることです。

皆さんにとって、今だから出来ること、今しか出来ないことってありますか? 例えば、今学生さんであれば「卒業して就職したらできないだろうなぁ」とか、 あるいは、「今はまだ若いからできそうだけど、あと10年、20年したらもう気力、 体力的にできないだろうなぁ」といったことです。なかなかそうは言ってもパッ と浮かばないかもしれませんが、良く考えてみると、色々浮かぶと思います。

バリバリ仕事をしていると、あるいは受験勉強や資格試験、就職活動などを控え ていると、できることは意外と限られると思います。特に、小生のように時間管 理が下手だと、全てを上手く並行にこなすことは難しいです。でも、今何ができ るかを考えるだけならば、少しはできないでしょうか。時間的、精神的な余力の 範囲で、是非考えてみてください。差し支えなければ、遠慮なくご返事を頂戴で きると有難いです。

ちなみに、小生にとっては、今休職中の身ですので、仕事のことを少しばかり忘 れて家族とゆっくり過ごす、サイトの更新も含めて自己改善の取組みを大幅に増 やすといったことです。家計は正直苦しく、ギリギリのラインですが、妻子、両 親と過ごす時間が非常に多く、家のことも手伝えるので、その点では家族も喜ん でくれます。小生個人的にも、精神状態が落ち着いていること、自分のやりたい ことをマイペースでできることから、今はすごく充実しています。

by なさ











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熱中症

私は、一般的に言う高齢者であり、中年とは違って体温調節機能が衰えてお り、高齢者は暑くても寒くてもあまり認識できないために凍死したり熱中症で死 んでしまうリスクが高いとのこと。

現実に、今年の猛暑による熱中症で亡くなる人の大半が高齢者だと報道されて いる。それも自宅で無くなるケースが多いと言うので、私も気をつけなければな らない。

私はエアコン嫌いだが、さすがに最近の暑さではそうも言っていられず、実際 にエアコンを切ると室温が50℃近くまであがるので、今は部屋を閉め切り、エ アコンを入れている。テレビなどでは、室温を28℃以下にするなと言っている が、目の前の温度計、および部屋の反対側にある温度計は34℃を示している。 おそらく、この温度は正しいはずで、目の前のは工業用の正確なバイメタル温度 計、部屋の反対側は自分で作った電子式温度計できちんと校正しているから、正 確だと信じている。

エアコンの設定温度は30℃にしている。28℃にすると、ちょっと体調がおか しくなるので、これで私の体は暑いけれど、エアコンで具合が悪くなるよりはま しという温度だ。まあ、エアコンにも温度センサーが着いており、このセンサー 位置が悪ければ、室温とは違う温度を検出してしまうので、温度認識能力が低い とされているにもかかわらず多分私の体の方が正しいと思っている。

今は夜も温度が下がらないので、寝ているときもエアコンは切らないが、北国 育ちなのでとにかくうんざりする。

それと、水分補給は絶対にしなければならないので、手元にペットボトル入り の水(これは水道水だ。ミネラルウォーターの飲み過ぎは体に良くないので)だ が、今年は雨が多く水量が十分にあるので、水道の水質もまったく問題はない。

諸外国ならともかく、日本の水道水で体に悪影響などは、事故でもない限り起 きない。ミネラルウォーターの危険性の方がよほど高いので、飲み過ぎや料理に 使うなどはよした方が良いです。

それと、ただの水ではなくほんとうはスポーツ飲料が良いと言うが、大汗をか いたとき以外は、それほど神経質にならなくても接種よりは良いので、精々一日 一本程度でよいかと思っている。普通の水なら、おそらく3リットルくらい。あ とお茶などで2リットルくらい飲んでいると思う。食事量が少ないので、食物か ら摂る水分量はあまり多くない。

私の場合は日頃薄味なので、多少味付けを濃いめにしてはいるつもりだ。

それと、エアコンを入れていないところは日陰で40℃くらいなので、おそら くヨーグルトが自然に出来るはず。

夏にヨーグルトはやったことがないので、今日は牛乳を買ってきてヨーグルト を作るつもりだ。前にも書いたが、牛乳1リットルに市販のプレーンヨーグルト を大さじ2,3杯よく混ぜて、放置しておけば出来るはず。すこし、温度が高す ぎるかも知れないので、様子を見て冷蔵庫に入れるなどはしなければならないと 思うが。

by ロクスケ












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今日のワンフレーズ:「自分だからできる、自分にしかできない(と思える)こと」

今日のタイトルは、最近小生が頭の中で常に思っていることです。今後の進路を 考えるにあたり、おこがましいですが、このタイトルのようなことをしながら食 べて行ければいいなぁと思っています。「(と思える)」とつけたのは、実際に は他の人でもできる、あるいは他の人の方が上手いのかもしれないけど、自分な りにそう思えて誇りと自尊心を保てるのならば良いのかなぁと思ったからです。

十数年前の就職活動の頃、自己分析なんてのをやりましたが、最近休職してから 改めて、自分の特性と経験、長所短所などを挙げて、何が一番良いのか考えてき ました(今振り返ると、あの頃はまだまだ青かったなぁと思います)。もっとも、 白紙から考えたのではなく、既に今後やってゆきたいことは以前からいくつかに 絞っており、それをやっていく上で問題ないか、何を解決すればよいかという観 点から考えてきたのですが。

数年前の一時期、会社の業務の一環として、学生さんの青田買いのようなことを していました。そのときにお会いした学生さん皆に、人それぞれ生い立ちや経験、 環境も個性、能力も異なるのだから、自分にしかできないこと、自分だからでき ることが探せば必ずあると思います、とお話していました。これは別に会社の命 令でもなく、自分で率直にそう思っていたので、自主的にそのように伝えていた ものです。

恐らく皆さんにも、自分だからできること、自分にしかできないことが、探せば きっとあると思います。もし、人生の転機となる場面にさしかかりそうならば、 是非考えてみてください。

ちなみに、蛇足ながら、熟慮の末、小生は休職期間が切れたら、そのまま現在の 勤務先を退職する方向でほぼ固めました。家計は苦しいですが、家族の同意も得 ており、自分の体調、特に精神面の動向に気をつけながら、次の新しいことを仕 事として取り組んでゆきます。具体的には、追って原稿などにしたいと思います。

by なさ















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今日のワンフレーズ:「上の空で差をつける」

今日のタイトルも、ADHD当事者の特性を逆手にとってうまく活かすための話です。 ADHDはじめ発達障害の当事者の特徴の一つとして、人の話を聞くのが苦手である ことが挙げられます。小生もまさにそうで、すぐ上の空になる上、聞いていたと しても一度聞いてもなかなか覚えられません。そういった面で苦労する方が非常 に多いと思います。(人の話を適切に頭に入れるための克服方法は別途考えるこ ととします。)

しかし最近は、そういった上の空になる特性を、むしろ逆手にとって長所にして しまおうと本気で考えています。変な話ですが、歩いているときなど、意識的に 上の空になろうと実践しています。とはいえ、単になりゆきまかせの上の空では なく、意図的に、目的に沿った上の空ということです。例えば仕事の研究のこと など、何か目的とする考え事があって、それに自然に意識が行くようにします。

これによって、日常の起きているときあらゆる場面でその考え事ができるように なります。例えば外を歩いているとき、食事をしているとき、入浴中、休憩中、 休日、家族団らん中、などなど。(もちろん、脳の疲れをとるという意味で、歯 を食い縛ってずっと考え続ける必要は無いと思います。あくまで、自然にできる 範囲で、です。)

本来その考え事に集中できる時間(勤務時間内など)だけの場合と比べ、圧倒的 にその考え事にふけることができます。その結果、特に得意とする分野、好きな 分野で、普通の人と比べて飛びぬけたアウトプットを出すことができるわけです。 だって、四六時中、その考えにふけっているのですから。

実際、ADHD当事者の中には、図らずも自然にそのような行動になっている方は多 いと思います。あるいは、小生ごときが言いだす前から意識的に実践している方 もいらっしゃるかもしれません。すぐ上の空になる特性をお持ちでしたら、無理 に直そうとするのではなく、むしろそれを上手く活かすことをお勧めします。と はいえ、上手く活かすと言っても、どうやったらいいものか、と疑問を持たれる 方が大半かもしれません。その具体的な方法は追って掘り下げてゆきたいと思い ます。

by なさ













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リユースの勧め

日本はリサイクルがかなり進んでおり、紙やペットボトルなどのリサイクル率 は世界でもかなり高い方で、且つその技術が世界でも最も高いそうだ。しかし、 近年は日本でリサイクルをするとコストがかかりすぎ、多くの回収資源は、今は 中国などへ売り渡され、その安い人件費でリサイクルされ、原料となって戻って くる物が多いと聞く。

しかし、たとえば日本で回収した紙をリサイクルすると、出来た製品は非常に 質が高く、リサイクルペーパーで出来たトイレットペーパーなどは、他国の新し いパルプで作られた製品よりも高品質だと言うので、結局中国に回収資源を売っ ても、出来た製品の質が悪いので、日本ではあまり使われないことがあるという。

もう一つの例はペットボトルで、今日本でペットボトルをリサイクルすると、 完全に新しい材料と同じ品質にまでもどるので、また元と同じ品質のペットボト ルを作ることが出来るのに、中国でリサイクルすると飲料用のペットボトルなど は出来ないというのだ。

他にもペットボトルを繊維にして敷物やユニフォームなどを作るが、その繊維 自体の品質が日本製と中国製とでは雲泥の差があり、いくら中国製が安くてもや はり使えない物があるので、日本製のリサイクル原料の需要があるとのこと。

日本のリサイクルと言えばアルミ缶のリサイクルはほぼ限度に近い90%以上 (2009年)、他の金属のリサイクル率も非常に高い。

ただ、最近思いがけないことを聞いた。ペットボトルなどは一キロリサイクル するコストが200円くらいかかり、原料なら数十円もしないと言う。つまり、 ペットボトルはリサイクルすることで余計にエネルギーを使い、環境を汚すの で、むしろすべて燃やしてしまうのが一番よく、リサイクルなどしないで新しい 材料を原油から作った方がよほど社会の負担にならないとか。実は紙のリサイク ルなども同じ事が製紙業界から出ていて、ただ、社会的イメージのために仕方な く紙のリサイクルをやっているのだとか。

新聞紙をトイレットペーパーにするための回収コスト、パルプに戻してトイ レットペーパーにするためには何度も薬品で漂白したり洗浄したりして大量の水 を使い環境を汚し、それらのためのコストも考えると、木材パルプを使った方が よほど環境に優しくコストもかからないという。

そこで、私はリサイクルはともかく、リユースは大いにした方がよいと考えて いる。ペットボトルは捨てないで水やお茶などを入れて何度も使い、衣服なども 家の中で着るなら別に少しくらいくたびれてもほころびてもかまわないと思って いる。そう考えながらいろいろ使うと、たとえば気が付いてみるとタオルを20 年以上使っていて、かなりぼろぼろになっているのを、何も考えずに使ってい た。毎日使った後よく濯いでいるから、別に汚くはないが、今ではきつく絞ると ちぎれそうになるほどぼろぼろになっている。流石に最後に雑巾にしたが、もっ たいない精神をたたき込まれている世代なので、それが当たり前になっている。 鉛筆なども2センチくらいになってホルダーにつけて使っているし、改めて見回 してみると、ずいぶん一つの物を長く使っている。これは、自分ではかなり良い ことだと思っている。とりとめがないので、これで止める。

by ロクスケ














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今日のワンフレーズ:「失敗は成功の素、にしないと」

失敗は成功の素というのは、言わずと知れた、どなたでもご存じの諺です。それ に敢えて余計な語尾をつけてみました。

自分の狭い経験からすれば、確かに失敗は成功の素だというのは正しいとは思い ますが、条件付きで正しい、というのが適切ではないかと思っています。ここで、 条件とは、
 ・失敗したことで精神的に落ち込まないようにする
 ・原因分析と対策の実行をきちんとする
の2点のことです。

特に当事者の場合は、(既に言われていることでもあるかとは思いますが、)一 時期の小生自身もそうですが、二次障害であるうつ的症状を患っておられる方々 も多いことから、前者が意外と高いハードルになると思います。

これまで既に、自分の狭い経験と実績に基づいての方法を何点か提言してきまし たが、一般的な認知行動療法なり投薬治療なりで、また必要により職場環境など も出来る範囲で変え、医師やカウンセラー監修の下、きちんとした治療で精神状 態の安定化をまず優先的にするべきと思います。

その上で後者です。これは当事者のみならず、日本人全般に言えるのではないか とも思っています。「嫌なことは忘れなさい」、「小さいことにクヨクヨするな」 など、これまで色々な助言を見聞きしてきましたが、失敗そのものを忘れること を勧めるものが意外と多いように思います。

前者の精神状態の安定化のためには良いでしょうが、長い目で見れば、偶発的な 失敗ならばともかく、何度も繰り返している同じ失敗ならば、やはり分析と対策 が無いと、結局また精神状態の悪化にもつながると思います。

思うに、当事者のみならず、日本人全体で、前者と後者とが混同されているよう にも思います。やはり、両者をきちんと段階を分け、それぞれきちんと行うべき ではと改めて思います。

最近は失敗学が流行りですが、以前これに関する講演を聞いたとき、「日本人は 失敗を分析しない」という発言がありました。失敗の分析は、特に日本人には?、 今まで足りなかったところなんでしょうか。だからこそ、今になって失敗学なる ものがヒットするのかもしれませんね。

「対策といっても、何をやっても上手く行かないんだけど」、「ADHD当事者は努 力できないんだから」といった反論は当然予想しております。逆に、だからこそ、 発達障害当事者向けに特化した失敗学、あるいは当事者の意識の飛び具合や努力 できないメカニズムの分析といった、できれば専門家を交えての科学的アプロー チが不可欠と思っています。

引き続き、これについて精力的に考えてゆきたいと思います。

by なさ














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夏の健康

何度も書いていることだが、私は北国育ちであり、寒さには耐性があるが暑さに はからきし弱い。それでも、今の地に居を構えてから数十年たち、かなりこの蒸 し暑い夏にも絶えられる様になってきた。

しかし、今年の夏は少し異常だと誰もが言う。春先いつまでも暖かくならないと 思っていたらいきなり夏に入り、それも当初から記録破りの猛暑続きで誰もが気 温の変化に身体が慣れていないところに、いつまでも暑さが退かず各地で熱中症 に倒れる人が続出している。

私もこの2,3日かなり体調を崩した。普段はエアコンを効かせた部屋の中で仕 事をしているが、いつもそうできるわけではなく、ある場所に作った製品を収 め、組み立て調整しながら据え付ける仕事をしていた。炎天下ではないのだが、 まだ工事中で熱気がこもりエアコンなど着いていない。精々扇風機を回しながら 仕事をしたのだが、2日間やってすっかりばてた。

本当は今日もゆかなければならないのだが、昨日、注文主に「明日は休む」と宣 言して休んだわけだ。まあ、私一人の作業だし、どうせ土日にかかっているの で、作業全体が遅れるわけではない。その代わり、土日にゆかなければならなく なったが、鍵を預かっているので、夜にゆこうかと思っている。しかし、今年の 夏は夜も温度が下がらないので夜に行っても不便なだけかも知れない。なにし ろ、都会の真ん中で、ヒートアイランド現象のたまり場だ。

熱中症対策としては頻繁に水分を補給することだが、水分の取り過ぎも体力を損 なう。その点私はがぶ飲みをしてしまうので注意はしているのだが、何しろシャ ツを絞ればしたたるほど汗をかいているのでどうしてもがぶ飲みをしてしまう。

そう言えば、熱中症の症状の一つに汗をかかなくなることがある。体の体温調節 機能が失われる結果であり、高齢者に熱中症が多いのは、加齢によって体温調節 機能自体が衰えているからだとのことだ。暑くても体がそれに反応できない。

そう考えると、私はしたたる様な汗をかくので、その意味では大丈夫な様だがそ れでもばてるのはこまる。日頃塩分摂取が足りないと思っているので、最近は飲 む水にごくわずか0.2%程度の塩を入れて飲んでいる。

寝られないのが困る。そのくせ、昼間に眠気に耐えられなくなってほんの10分 のつもりで横になり、2時間くらい寝てしまうことがある。夜中はエアコンを入 れっぱなしで寝ているがどうしても寝られない。少し前までは暑くても寝ていた のだが、この数日はまったく寝られなくなった。

そう言えば、北海道からでてきた当座は、こんな暑い夏ではなかったのだろう が、最初の都市の暑さはとても人間の生きてゆける土地ではないと思うほどひど かった。それに、エアコンなどあるはずもなく、扇風機と冷水タオルで凌いだの を覚えているが、それでも若かったからあれに耐えられたのだろう。

今、エアコンはあるが、あまり効かない。今、エアコンの設定温度は26度だ が、室温は34度であり手元の温度計では37度を指している。

この暑さは、あと2週間続くそうだ。このような夏が普通になると言われてい る。それなのに、私は確実に高齢化してゆく。精々汗をかける体を維持しておか なければならないと考えている。

by ロクスケ














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当事者にとっての”素振り”とは

小生はスポーツをするのはからきし苦手ですが、野球などを観戦するのは以前は 特に好きでした。最近改めて、野球やサッカーなどの采配やスポーツ科学という 面に興味が湧いています。

どの種目においても、与えられた場面で優れた結果を出すため、選手は日頃から 様々な形でのトレーニングを積んだり、練習試合などを行って、本番で良い結果 を出すための鍛錬を行っています。野球ならば素振り、相撲ならばシコを踏むな ど、どの種目にも、基本となるトレーニングがあります。天才的な才能を持ち、 優れた結果を出しているイチローや往年の王、長嶋と言った名選手であっても、 日頃からそういった基礎トレーニングを欠かさず行っているものと思われます。

最近思うのは、ADHDはじめ発達障害当事者、いやあるいは普通の健常者にとって も、仕事において一定の成果を出す、あるいは私生活など日常生活においても致 命的なミスをしないといったことは、求められる、または本人が望むものではな いでしょうか。特定の場面において良い結果を出す(裏返せば、ミスを犯すなど、 望ましくない結果を出さない)ことが望ましいという意味では、あくまで広義の 意味で、上述のスポーツ選手とある意味では同じではないかと思うのです。

その意味で、スポーツ選手に見習うところは多いと思われ、特に素振りに相当す るような、日頃からの基礎トレーニングのようなものを欠かさず行うことで、日 頃行っていることの改善につながらないものかなぁと最近特に思っています。

では、特に当事者にとって、その素振りに相当するトレーニングとは、具体的に はどういうものなのでしょうか。一つには、ソーシャルスキルトレーニング(S ST)など、ケアの専門家が考案した既存の自己改善メニューが挙げられます。

ただ、これらはあくまで全体の一部分に過ぎないと小生個人は考えています。で は、残りは具体的に何か、ということになりますが、そこは小生としては、今現 在はまだ考え中です。ある程度煮詰まってきてはいますが、今後具体的に色々と 考案し、自ら実践してゆきたいと思います。

まずは宣言ということで。今回は以上です。

by なさ














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外国人と空気読み

日本の社会においては、場の空気を読むということが非常に重要とされています。小生のように場の空気が読めない人、または読めないことをKYなどと言いますね。またそれと合わせて、それとなく相手に伝えるという暗示、暗黙知という伝達手 段が非常に多用、重用されます。

一方、外国においては、そのような空気を読む、暗に伝えるといった習慣は殆ど 無い、もしくはあっても日本ほどではない、とも聞きます。外国語の学習などの 際にも、外国においては、日本人のように明示的に強く自分の考えを主張しない、あるいは遠慮するといった、日本国内ではプラスな性質が、むしろマイナス、ネ ガティブに見られることが多いと言われます。

小生は、最近でこそ徐々にできるようになってはきましたが、この場の空気を読 む、それとなく伝える、あるいはそれとなく示されていることに気づくという行 為がまだまだ苦手です。日本人として生きていく以上、海外移住も今のところ考 えていませんし、何とか、今後様々な自己改善を図って、この空気読み、および 暗示の能力を普通の人並みに上げたいと思っています。


その自己改善に関係して、一つ素朴に疑問に思うことがあります。

小生含め、アスペルガーの当事者は、場の空気が読めない、暗に言われているこ とに気付かないとよく言われます。これは、障害に起因した能力的ハンディとい う捉え方ができます。では場の空気を読んだり、暗黙知といった文化的習慣の無 い外国人の場合は、健常者であっても、そもそも場の空気を読む能力を持ってい ないのでしょうか。

潜在的な能力として空気を読む能力はあるが、文化的習慣および日常生活におけ る行為として、敢えて空気を読まない(簡単に言えば、「読めない」のではなく、「読まない」)のか、それとも、そもそも能力的に持っていないのか(完全に 「読めない」)、どちらでしょうか。

後者の場合、もっと細かく言えば、
@潜在的、先天的な能力としては持っているが、文化的習慣が無いため、発育の 課程で必要の無い能力として身に付かなかった(成長とともに退化した?←絶対 音階などの能力と同じようなもの)。
Aそもそも潜在的、先天的にも(遺伝子レベルで?)そういった能力を持ってい ない。
の2つが可能性として考えられます。

このような可能性に関して考えるとすると、例えば思考実験として、
・外国人だが日本で生まれ育った人
・大人になってから来日し、そのまま日本に帰化した人
といったケース(実際にそういう方はある程度多いと思いますが)を考えたとす ると、これらの人たちが大人になってから、どれだけ日本の社会で空気を読めて いるかといった能力的な検証をすることで、上述の可能性のいずれであるかを判 別できるのかなと思います。

そういえば、どこかの本かサイトで、外国人が日本人とコミュニケーションをと ろうとすると、場の空気を読む、暗に気付かねばならず、疲れるということが書 いてありました。上述のいずれの可能性においても、能力的にできる、できない にかかわらず、疲れはするでしょうが、敢えて言えば、やはり「読めないのでは なく、読まない」ということでしょうか。


話は戻りますが、今後、自己改善の手段の一つとして、場の空気を読む、暗に気 付く能力を養うための訓練メニュー、補助手段を考えています。具体的には、日 常の様々な場面を挙げつらい、「こういう状況で、こう言われたときは、相手は 実は内心こう思っている」といったような場の空気、暗黙知に関するパターン事 例集を構築し、そのパターンを必要により暗記、あるいはその場で効率的に即興 で検索、確認することにより、たとえアスペ当事者であっても、限りなく普通の 人並みな、より円滑なコミュニケーションを実現したいと思っています。

もしこういうものを構築できたならば、当事者の補助ツールとするだけでなく、 例えば日本人の普通の健常者にも、発育期、社会人新人くらいの年齢の人たち、 あるいは日本にやってきた外国人などにも活用してもらえるのではないかとも期 待しています。

今後、自己改善活動の一環として、そういったものの実現に精力的に取り組んで ゆきたいと思います。

by なさ















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猫ちぐら

ちぐらとはもともと赤ん坊などを入れておくために藁を編んで作られたかごの様 な物で、農作業をする傍らに赤ん坊を寝かせておくために作った物だそうだ。し かし、これを応用した人がいて、猫が入るためのかごの様な物を藁で作ったとこ ろ、猫が喜んではいるのでそれが一般に広まったのが猫ちぐらだとのこと。

最近は自然ブームであり、猫も自然物である藁であんだちぐらが好きなのだろう し、愛猫家はそれをこぞって買うのだそうだ。全国の農村地帯には猫ちぐらを編 む人たちがいて、それでも一つ一つが手作業であり、一つ編むのにベテランでも 数日かかるとか。それで、値段も結構高く、ネットで調べると少し大きい物なら 3万円くらいする様だ。そして、編み手がいないので一年待ちも普通だとのこと。

悪い虫が騒いで、もし自分で猫ちぐらを作るとしたら出来るだろうかと昨日調べ てみた。まず藁の入手だが、便利な物で今では藁もネットで買える。一つ編むの に5キロはいるが、買ってきた藁を梳いて余分な葉先を落とし、たたいてしなや かにすると、量が半分になるらしい。となると、買う量は10キロになる。それ でも5千円もあれば買えるから、あとは藁を梳いて丈夫な茎だけにし、たたいて しなやかにし、それから編む。多分毎日やってでやって、私なら一週間はかかる だろう。そして、名人上手の製品ではないから、精々売れても1万円になればよ い。藁の代金が仮に5千円としても、一週間働いて利益は5千円となる。到底割 に合う仕事ではない。だから、止めることにした・・・というより、最初からや るつもりはないのだが。

確かに農村で地元に藁がふんだんにあり(とはいえ、最近はコンバインで細切れ にしてしまうので、長いままの藁はなかなか無いそうだ)広い場所がありそして 長年の経験で短時間で編める場合なら、商売として成り立つかも知れないが、そ れでも3万円として、業者のマージンや宣伝費、輸送費等々を引くと、純益は数 千円。それなら逆に、3万円も高くはないと思った。

まあ、藁でしっかり編んだ猫ちぐらは観ていても楽しく、中にはinnteriaとして 買う人もいるとのこと。実際に猫を飼っている人の大半は、段ボールハウスを 使っているのではないのだろうか。猫に使わせるのはもったいない・・・

ところで、私は猫を飼っていないので、猫ちぐらを買っても、作ってもしょうが ないのだが、猫ちぐら製造者は儲かっているのだろうかが気になって調べてみた 次第だ。

by ロクスケ
















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ID野球に学ぶ(1)

今日は、小生も以前から一目置く、元プロ野球選手・監督の野村克也氏の野球戦 略に関する話です。


ID野球という言葉は、最近でこそ聞かないものの、特に今の30代以上の方々なら ば、ご存じの方も多いのではないかと思う。

昨年までプロ野球・楽天イーグルスの監督を務めた野村克也氏が、20年程前にヤ クルトスワローズの監督に着任した頃、自らのデータ、プロセス重視の野球戦略 を「ID野球」と名付けたものである。IDとは、「Important Data(データ重視)」 の意味であるという。野村氏の著書では、「自分の野球はIDというよりは、IP(Important Process、プロセス重視)である」とも記されている。

当時、ヤクルトは、潜在的には実力ある選手を抱えながらも、万年Bクラスの成 績に低迷していた。それを野村氏は着任後僅か2〜3年でAクラス、リーグ優勝、 果ては日本一の実績を生み、常勝チームに育て上げた。当時、スポーツ紙の見出 しに「ツバメ軍団の奇跡」とうたわれたのを鮮明に記憶しているが、丁度その頃 に「ID野球」という言葉が世間で広く知られるようになったようだ。

野球に興味の無い方にはピンとこない面もあるかもしれないが、野村氏の野球戦 略は、その長年に渡る勝利実績とともに、徹底したデータ・プロセス重視などの 戦略面において、日本プロ野球界の中にあって未だ非常にユニークなものであり、 企業経営など他分野でも色々と参考にされているようだ。

詳細は、Wikipediaや様々なサイト、著書をご参考いただくことにし、ここでは、 同氏の戦略のうち、特に今の小生にとって勉強になると率直に思った点をトピッ ク的に何点か紹介したい。まず今回は以下の2点を採り上げたい。残りは次の続 きの記事(2)として書くことにする。


野村氏の優れた能力の一つに、配球読みというものがある。

投手の多くは癖を持っており、例えばカーブを投げる直前には唇を舐めるといっ た細かな無意識的な動作がある。あるいは、この投手、捕手の組合せの場合、カ ーブが2球続けて来たら、次はシュートが来ることが多い」といった傾向もある と言う。そういった傾向、癖をスコアラーのデータや対戦時の観察を通じて研究 し、次に対戦相手の投手がどんな球を投げてくるかをリアルタイムに高い確率で 予測するというものである。

この配球読みでチームの打率を上げることに大きく貢献している。同氏が野球選 手の現役であった頃(昭和40年代前後)に既に確立していたようで、現役時代 にホームラン王の座に居続けられたのも、一つにはこの配球読みのおかげであろ うと思う。

データを活用した野球それ自体は、野村氏以前から定着していたようだが、こと 配球読みに関しては、その分析力、観察力とも、プロ野球界にあって未だ同氏は 群を抜いていると言えるのではないか。


またもう一つの特徴として、あらゆる手段を使って、徹底的にやるということが 挙げられる。

例えば、上の配球読みも、データ分析や癖の見抜きを徹底的に行っていたそうで、 観察していて癖を見抜きにくい投手は、8ミリ(今で言えばビデオカメラ)で撮 影し、何度も何度も見て研究したという。

あるいは、スター選手が出入りするような大阪や東京の繁華街の高級クラブに頻 繁に出向き、選手の私生活などの情報を仕入れ、それらの話を対戦時に捕手(現 役時代は野村氏自身)の口からバッターボックスに立つ選手に対してふいに語り かけさせ、動揺させるといった“ささやき戦術”を採っていたという。

この戦術は賛否が分かれるところであろうが、とにかくルールに反しない範囲で 手段を選ばず、やるなら徹底的にやるという姿勢自体は見習うべきものがあると 思う。


野村氏のこれらの野球戦略を成人発達障害の世界に重ねてみると、色々と参考に なる点が多いのではないだろうか。ただし、ID野球で言うところの相手チームの 選手たち、そして監督たる野村氏自身に相当するのは、いずれも当事者本人であ る(あるいは後者は医師や臨床心理士などの専門家も含む)、という違いはある が。

以前記事にも書いたが、小生自身を観察、分析してみると、激しい不注意ミスを 散々繰り返し、「俺って何やってもダメ」と感情的に思いがちであるが、よくよ く突き詰めてみれば、様々なミス、失態の類は、何パターンかの特定の原因や傾 向に分類できることに気付く。例えば、「〜といったミスは日常茶飯事だが、〜 というミスは生まれてこの方一度もしたことがない」といったことである。

上述の、観察やデータ分析を通じてよく分析研究し癖や傾向を見抜く、あらゆる 手段で徹底的にやるといった戦略を、当事者自身に適用して対策を施してゆけば、 必ず100%上手く行くとまでは言わないにせよ、今よりも失敗・失態の発生率 といった観点で、今よりもだいぶマシになるのではなかろうか。

小生自身、自らの自己改善、自助活動は、この観点に則って行っている。やはり 分析すると、傾向は見えてくるものだと実感している。引き続き、精力的にID野 球的な戦略を実践してゆきたいと思う。

by なさ
















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ロコモーションシンドローム

しばらく前までどちらを向いてもメタボリックシンドロームと言う言葉が目に付 き、自分の腹を見下ろしながら何とかしなければならないなぁ、とつぶやいてい たのが、最近はやたらにロコモーションシンドロームと言う言葉に置き換わった 様で、やはり自分の体を気にしている毎日だ。メタボリックシンドロームは肥満 に関する健康状態を言うが、ロコモーションシンドロームは運動機能に関する健 康状態を言う。

メタに関しては多少その傾向はあると思うが、きわめて差し迫った状態というの ではない。むしろ、運動機能が衰えることにおそれを持っていたので、ロコモが 気になるのだろう。

もちろん誰でも年をとるのは避けられないが、年をとるのに比例して衰えるとの 考えは私は否定している。総合的な健康面では、30代の頃に比べて比較になら ないほど健康状態は良くなっていると自覚しているからだ。以前は年に2,3回 風邪をひき、一回ひけば2,3ヶ月以上ひきっぱなしだったので、つまりは年中 風邪ひき状態だったが、今はまったく風邪をひかない。前回風邪をひいたのは何 時だったか思い出せないほど長らくひいていない。体も十分動くと思うし、毎度 繰り返して申し訳ないが、駅の階段を2段飛びで駆け上がっても、自転車で陸橋 の急坂を駆け上っても息が上がることもない。だから、おそらく肉体年齢は相当 若いと思っていた。

だが、ロコモシンドロームを知ってから、あまり安心はしていられないかと思う 様になった。

自己診断の方法としては

1)片脚立ちで靴下がはけない    (鼻歌交じりで大丈夫)
2)家の中でつまずいたり滑ったりする(やや問題あり)
3)階段を上るのに手すりが必要である(駆け上がっても平気)
4)横断歩道を青信号で渡りきれない (考えたこともない)
5)15分くらい続けて歩けない   (5時間くらい早足で歩き続けられる)
6)2kg程度の買い物(1リットルの牛乳パック2個程度)をして持ち帰るのが 困難である
 (20キロなら別に何とも思わない)
7)家の中のやや重い仕事(掃除機の使用、布団の上げ下ろしなど)が困難である
 (2,30キロくらいなら仕事で日常的に持ち運んでいる。50キロなら普通に持ち運びできる)

があるが、私の場合、2)以外は余裕でクリアしている。2)については、時々躓き、小指をあちこちにぶつけているが、部屋の中が乱雑だからと、せかせかと動き回 るからだと考えている。

したがって、上記のレベルではないが、私なりのレベルから言うと、もしかした ら下がっているのかも知れないとは時々思う。特に今年の夏の猛暑の最中は、ど うしても外に出て歩き回るなどをしなかったのと、食欲が落ちて激やせするなど のことから、私がキープしておきたいと思う運動能力よりもかなり落ちている様 な気がする。

昨日、つくづくそれを考え、ほこりを被っていたダンベルを引っ張り出したりし た。

今年の秋はおそらく非常に短いだろうが、その短い貴重な時間に、精々体力、運 動能力を高めることに使いたいと思っている。同時に、どうも衰えているのでは ないかと思える知力も磨き直さなくては。

by ロクスケ

















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欠点・悩みを逆手にとって生きてやる!

以前、仕事で散々ミスや失態を繰返し、精神的にも激しく滅入っていた頃、なけ なしの冷静な、前向きな気持ちを振り絞って考えたフレーズです。「逆転の発想」とか「逆手にとって」という言い回しが個人的に好きで、そこから思いついたフ レーズでもあります。最近会社を休職〜退職してから、特に今後の人生の上での 座右の銘?として掲げていこうと思っています。

失敗だらけ、欠点だらけ、と見てしまうと、どうしても精神的にも滅入りますが、その失敗経験や弱点の特性をよくよく冷静な目で見つめてみると、見方によって は、それが新たな商売や学術研究、今後の生き方などのヒント、アイデアになる ことも少なくないと思います。あるいは、今までは見ても見向きも関心もしなか ったことでも、改めて自分が色々な(辛い)経験を経てから見返すと、印象や感 心も変わるものです。

例えば、仕事などで苦労して散々な目に遭ったとき、たまたまテレビや新聞、ネ ットなどで、ユニークな暮らし方や商売をしている人を紹介しているのを見ると、「おっ!」とツボにくることってないでしょうか。最近の例で言えば、土曜日の 夜にやっている「世界一受けたい授業」という番組で、あるとき、ダイエットを 研究している大学教授が出てきました。その人曰く、自分はかつて太り気味であ り、ダイエットが上手くできず悩み、それならばダイエットを学術的に徹底的に 研究してやろうと、仕事としてのダイエットに関する研究を始めたのだそうです。 他にも、ある化粧品メーカーの創業者の方で、元は自分の肌の悩みをきっかけに、効果的なクリームを開発し、成功を収めたという話も聞きます。

小生自身も、今後、自分のADHD・発達障害的な悩みを逆手にとって、自分の研究 の専門分野(といえる程でもないですが)を活かし、自助活動を兼ねて、当事者 支援のための学術研究を精力的に行ってゆきたいと考えています。今は傷病手当 金を支給していただき、療養生活の身ですが、今は助走期間と捉え、時期が来た ら、その道に邁進しようと考えています。

皆さんも、是非、ご自分の弱点、悩みや辛い経験を、克服・カバーしようとする だけでなく、それを逆手にとって、逆転の発想で、それを長所に、商売に活かす ことを考えてみてはいかがでしょうか。


by なさ


















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ID野球に学ぶ(2)

前回に引き続き、野村克也氏のID野球に学び、特に小生個人的に勉強になると思 った点をトピック的に2点ほど紹介し、それらをADHDはじめ発達障害当事者の自 助活動に当てはめて考えてみたいと思います。


野村氏の長けている能力の一つに、前回述べた配球読みの他、特に監督になって からの選手、コーチなどチーム全体の人心掌握術がある。

現役の捕手である頃はもとより、特に監督ともなれば、投手はじめチームの選手 の長所短所を正確に見抜き、適材適所の配置をしてチーム全体を統率し、試合に 勝たねばならない。野村氏は、現役選手(捕手)時代はもとより、監督となって からもあれだけの偉業を成し遂げており、その能力の高さが伺える。特に、昭和 40年代後半は、選手兼監督(プレーイングマネージャー)として、4番打者・捕 手・監督という三重責を担っていた。

(ちなみに、当時の年俸(年収)は破格の5億円だったそうで、その金額は今の 現役の一流選手の年俸額に相当するものだが、今から40年も前の金額であり、現 在に換算すれば、さらに破格の金額になろう。)

中にはどうしても良い関係が保てず、結果的にトレードに出されるなどした選手、 コーチもいるようだが、一方で、場合により個々の選手の私生活の面までをも配 慮する(金に困っていた無名選手の飲み屋のツケを自身のポケットマネーで気前 よく払ってあげた)など、選手への情の厚さも持ち合わせており、概ね大多数の 選手の心を掴むことができていた。それらの能力が、捕手、監督としてのあれだ けの偉業につながったと考えられる。

一般社会のサラリーマンなどに置き換えて考えれば、部下を抱える指導職、管理 職としてのマネージメント能力に通じるものでもある。特に、小生のような30代 も半ば以上になってくれば、一般には指導・管理職のウェイトが高くなるもので あり、そういったマネージメント能力、ひいては人心掌握術を求められることに もなる。対人関係は小生も大いに苦手な分野ではあるが、相手(部下)の気持ち を思いやり、察し、統率することの上手さは、大いに励みにもなり、勉強になる。


第二に、長所短所、才能を見抜くという能力では、群を抜いており、(以前メル マガの記事にも書いたが)「再生工場」との異名も持ち、他球団を戦力外通告さ れ解雇された選手を集め、まだまだ潜在的な能力を持つ人を採用、抜擢するとい ったことを長く行っていた。ご本人曰く「金のある球団は選手をポンポン捨てる、しかしワシは(あくまで一つの例えとして)ゴミ箱をあさり、まだまだ使えるも の(選手)は拾ってきて、どんどん使う」とのことでもあった。

これは、ハンディあるADHDはじめ発達障害の当事者を社会でどのように活躍して もらうかということにも通じる。現状、成人当事者は、仕事や学業の面で当事者 の特有の弱点が原因で力を発揮できず、苦労している、あるいは離職・解雇を余 儀なくされることも少なくない。しかし、野村氏のような再生工場的な能力を持 った管理者・経営者、組織が機能していれば、従来ならば不本意な結果しか残せ ず、あっさりと冷たく戦力外とされてしまう当事者を、適所で活躍してもらうこ とは十分に可能なのではなかろうか。

障害者枠での採用のいかんにかかわらず、当事者特有の弱点(時間管理ができな い、不注意ミスが激しい、空気が読めない、等々)を踏まえつつも、それを上手 くカバーし、優れた長所、あるいはそこまで行かないにせよ普通の人と同程度の 能力を活かし、適所で活躍してもらうことは、障害者福祉、社会倫理的な観点か らも必要不可欠なことではあるまいか。


以上、この他にも、まだまだ採り上げたい点は多くありますが、紙面の都合もあ り、今回はここまでとさせていただきます。引き続き、お読みいただければ幸い です。

by なさ

















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今日のワンフレーズ:男性の視点

改めて言うまでもないことですが、最近は多くの女性が社会の様々な職業、要職 で活躍するようになっています。また、それに伴って、「女性の視点」という言 葉をよく耳にします。

今まで男一色だった職場や企業、職業に女性が入り、女性ならではの視点で新た なものを生み出したり、既存の物事の見直しが図られたりします。それ自体良い ことと率直に思いますし、今後もそれが益々拡大してゆくものと思います。


で、ここで一つ思いついたのは、逆に「男性の視点」というものもあるのではな いか、ということです。今まで女性ばかりであった職業、職場、企業に男性が入 り、増えることで、男性ならではの視点というものもあって良いのではないかな ぁ、と。

例えば、病院の看護師。今までは「看護婦」という名称でしたが、男性看護師が 増えたことにより、言い方も「看護師」に変わりました。

言い方が変わったという意味では、飛行機のキャビンアテンダント(CA)もそ うでしょうか。以前は「スチュワーデス」と呼ばれ、「スッチー」との略語も流 行りました。男性のアテンダントが今現在居るのかは不勉強で知りませんが、女 性のパイロットも最近は増え、やがては女性機長も誕生するでしょうから、逆に 男性のアテンダントやチーフパーサーが誕生し、増えても良いようにも思います。

あるいは、実は発達障害の自助・支援活動や専門家(医師はともかく、特にカウ ンセラー)の世界もそうではないでしょうか。小生の狭い知識と経験の上では、 カウンセラーや支援団体のスタッフは、割合として女性がかなり多いように思い ます。それがごく自然なことかもしれませんが、今後は男性の視点も積極的に織 り込み、この世界をより良いものになってゆけばと思っています。

皆さんの職場や職業は、男性中心ですか?それとも女性中心?半々?ヒマがあっ たら、ちょっと考えてみてください。


by なさ


まあ、女性の視点という言葉は最近よく聞きますね。それというのも、従来男性
が社会を作り、女性は家庭を作る役割分担があったのが、今は女性が社会進出を
してきて、それも大きな成功を収める人が増えてきたことから、その秘密は何
か、というところから、女性特有の視点が取り上げられるようになったのではな
いかと思っています。

確かにそれはあるでしょうね。たとえば、男性が企画し作り売る商品の半分は女
性が消費するわけですから、女性がどのような商品を好むかは女性の方がよく
知っていると言うことでしょう。

考えてみれば、私が子供の頃女性が社会進出をするとすれば教育の場が先駆け
だったような気がします。なにしろ、学校では女性の先生が半分以上いたのでは
ないかと思います。私の母も、補助教員でしたし。

むろん、他の会社にも女性はいたようですが、あくまで男性の補助みたいな感じ
でした。これは子供にも分かるほどはっきりした傾向ですが、学校に限って言え
ば私たちは女性の感性で教育を受けていたわけで、まあ、それが今の私の人格形
成に関わっているわのですが、それが良かったか悪かったか。

さらに、私が子供の頃は、父親は会社で働き夜遅くまで帰ってこないし、必然的
に母親と一緒にいる時間がほとんどでしたから、いやと言うほど母親の影響を受
けているわけで、おそらく今の年輩者はほとんど同じでしょう。

現代でもあまり事情は変わっていないようで、結果として子供は女性の影響を受
けて育つのですから、男性が社会に出て働く故に男性社会だというのは違うと
思っています。

私自身のことを考えてみても、母親の癖や、習慣、価値観、嗜好などを非常に色
濃く受け継いでいると思いますね。その意味で、わたしも、そしてほとんどの人
も、女性の視点が基準なのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。

from ロクスケ

























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ID野球に学ぶ(3)

前回に引き続き、野村克也氏のID野球に迫ってみたい。


野村氏のユニークな点としては、他にも、奇抜な、逆転の発想的なアイデアを思 いつくことに長けている事が挙げられる。その例を挙げてみたい。

かつて、現役の捕手だった頃、ノーコンで有名だったある投手に対し、公式戦の 試合の際、ど真ん中にミットを構え、ここに投げろと指示したという。プロ野球 において、投球練習でもないのに公式試合でど真ん中に投げるなど、自滅行為そ のものであり、既成概念、従来の常識感の上では考えられないことではある。投 手本人も自分が馬鹿にされているのかと、そのときは腹が立ったという。それで も、実際にど真ん中に向けて投げてみると、ノーコンゆえに?球は殆どど真ん中 に行かず周囲に逸れる。そのおかげで、打者を三振や凡打に仕留められたという。

あるいは、最近で言えば、阪神の監督時代、投手心理を理解させるためと、当時 エース打者であった新庄選手をオープン戦で投手に起用するなど、意外な采配を したこともある。(最も、これはオープン戦でのことであり、ファンサービスと いう目的もあるのだろうが。)

このような奇抜なアイデアを駆使して、困難を乗り切るという意味では、ADHD当 事者にも参考になるのではないか。アイデアは思いつきやすいと言われるから、 それを上手く工夫して実行につなげられさえすれば、家庭や仕事での対処や、弱 点克服といった点でも、大いに可能性は開けると思う。


さらに別のこととして、野球に対する理論的、本質的な考察も深いことが挙げら れる。以前、あるテレビ番組で、「野球とは、本質的に失敗の多いスポーツであ る」と言っておられた。つまり、たとえ王・長嶋やイチロー、何よりかつての野 村氏自身のような一流選手であっても、打率は3割台、どう頑張っても4割届く かどうかである。言い換えれば、どんな凄い人でも、10回に6回以上は失敗す るものだ、ということである。

ただ、失敗はするとしても、その失敗の確率をいかに下げるか、言い換えれば、 成功の確率を少しでも上げるか(あるいは、もっと数学的に厳密に言えば、試合 における得点の期待値を最大にするか)が課題であり、そのためには、氏の得意 とする緻密なID戦略が不可欠、ということにもある。

これは、また話を戻して、当事者にも励み、参考になることではないか。どうせ 失敗するからと諦める、匙を投げるのではなく、たとえ結果的に失敗はある程度 するとしても、その失敗確率をいかに減らすか、またそのために、緻密に自分の 特性や過去の失敗を良く分析して、対処をしてゆくかに注力すべき、ということ である。

小生自身が今現在行っている自己改善、自助活動も、まさにこの考え方に忠実に 沿うように努めているものである。まだまだ氏のような実績には程遠いが、良い 改善の成果、実績を生めるよう、鋭意取り組んでゆきたいと思う。


今回は以上です。これまで3回に渡りID野球を採り上げてきましたが、次回4回 目で最終回になります。

by なさ


















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今日のワンフレーズ:呆れ、嘆きを一歩進める
今回のフレーズは、元々は新聞などメディアの無責任さに憤る意味から、「呆れ、 嘆きは何も生まない」、あるいは「呆れや嘆きは意味が無い」というやや刺激的 なフレーズとして考えていたものです。ですが、自分の過去の発言録を振り返っ てみると、人様のことはあまり言えないなぁと改めて思ったこと、および(特に 自分に対して言い聞かせるべきこととして、)呆れや嘆きは決して無意味な行為 ではなく、それらを土台にして前向きに次の一歩を踏めば良いと思ったことから、 フレーズを改め、本記事を執筆することとしました。


新聞の社説やテレビのニュースなどを購読、視聴していると、新聞記者や解説委 員、評論家といった方々によって、時事的な諸々の問題があれこれと解説され、 論じられている。それらに対して、過去のあるときからやや違和感、不快感を抱 くようになっていた。というのは、それらの社説や解説というのは、非常に他人 事のように無責任に論じられているように思えてならないからである。

新聞社やテレビ局などにより、元々の政治的な面での思想信条的なもの(例えば、 左翼/右翼的であるなど)はそれぞれに一貫したものがあるのであろうが、何ら かの政治的問題について論じるとしても、その結論たる提言の内容を実行する責 任までは、彼らには無い。それどころか、結論として何らかの前向き、かつ現実 的な解決策を提言することもせず、ただ現状を嘆いたり、一国の政治家の総理大 臣や政治家のセンセイ方のやることを批判するだけで終わっていることも少なく ないように思えてならない。

無論、彼らメディアには、必ず有意義な提言をしなければならない、その提言を 自ら実行しなければならないといった義務は何ら無い。それらの役割が無くとも、 例えば政治家の不正、スキャンダルを暴くといった、いわば権力の監視的な役割 を担っている面は大きいとは思う。しかし、それはそれとしても、やはり、単に あれこれ提言するだけ、あるいは提言すらもせず批判するだけという姿勢は、小 生は好きにはなれない。

小生が前職の会社に勤務していた頃、ある幹部が「会社に評論家は要らない」と の発言をしていた。会社というのは、担当する業務を責任を持って遂行すること で成り立っており、何の遂行責任も無く人のやることをあれこれ評論だけの人は 会社に必要無いということであった。当時はまだ若かったので、何となく聞き流 していたが、入社して10年以上も経ち(もっとも退職してしまったが)、今のこ の年にしてその幹部の発言を思い出すと、会社員として、あるいはもっと言えば、 社会人としても半ば当たり前のようにも思われる。

仕事の担当にしても、あるいは私生活、個人の問題にしても、ご本人方が何らか の悩みや問題を抱え、苦労しつつも、必死に解決策を考え、頑張っている姿に対 して、外野からあれこれ評論する、ましてや面白おかしく中傷することは、言語 道断であると思う。せめて、百歩譲って、実行の責任を背負うことはできなくと も、本人の立場、気持ちに立って、有意義な、あるいは実行に際して問題の少な い解決策を提言する、それも出来ないならせめて理解を示すくらいの行為はでき ないものだろうか。


これは、上述のメディアに対してだけではない。最近の、特に小生が自らの性格 的、能力的特性(いいかえれば、発達障害的特性?)に悩み、発達障害の世界に 入ってきてからの出来事で考えれば、小生だけでなく、発達障害の当事者の方々 に対して、呆れや嘆きに留まった(無責任な)言論、さらには非人間的な誹謗中 傷を堂々とする人たちが、この世の中には存在することが挙げられる。

ご承知のように、最近でこそ発達障害の世間での認知度や理解が少しずつ進んで 来てはいるが、実態はまだまだである。例えば、典型的なものだが、ADHDという 精神疾患に対して、そんなのは甘えだ、怠けだという一方的な誤解、偏見は根強 い。普通の人と同じように努力をしたくとも、仕事を処理したくとも、思うよう に出来ないというジレンマ、ストレスを、本人の気持ちになって理解しようとは 思わないものであろうか。

以前、ある親しい人に、なかなか自分の特性を理解してもらえず、その特性に起 因して失敗をして迷惑をかけ、なおかつその失敗で小生自ら激しく精神的に落ち 込んでしまい、その人を猛烈に怒らせたことがあった。そのとき、正直な気持ち として、「自分はこうしたくない気持ちは強いが、気が付くとふと意識があらぬ 方向に飛んでしまったり、強制的に辛い気持になり、良くない考えが半ば自動的 に湧きおこってしまう。どうしたら良いのか。あなたが私だったらどうするか。」 と、その怒る相手に訴えたことがある。そうすると、その人は「そんなこと言わ れても…、愚問だよ、そんなの…」と(怒りを忘れて?)困り果て、返答に窮し てしまった。

確かに失敗をして怒らせた小生は悪い。でも、その失敗を犯した本人の立場に立 って、何故なのか、どんな気持ちなのか、時々は考えていただけないであろうか。 幸い、その人には、その後は小生のそういった面について、理解をいただけるよ うになった。思えば、そこまで到達するのに数年を要した。是非、広く世間一般 の方々、会社内での出世競争に忙しいサラリーマンの方々にも、「何でそんなこ とできないの。」「能力無いな、コイツ」と呆れ、嘆く、あるいは馬鹿にする前 に、少しでも本人の気持ちになって、理解をしていただければと思う。小生自身、 そのために、今後益々、この世界の自助・支援活動に尽力してゆきたいと真剣に 思っている。


最後に一つ、良識あるこのメルマガの読者方々に是非強く訴え、知っていただき たいことがある。それは、発達障害者を面白おかしく誹謗中傷する輩どものこと。

ここ最近、小生は匿名インターネット掲示板「2ちゃんねる」の発達障害関係の とあるスレ(個々の電子掲示板の意味)に頻繁に書き込みをしている。そこは、 発達障害者に被害に遭ったと名乗る輩が集い、日々発達障害者の悪口や誹謗中傷、 信憑性も科学的根拠も?な(もしかすれば全く虚構の)被害報告なる書き込みが 横行しているところである。

あまりの酷さに初めは閉口したが、最近はそのスレに常駐して、頻繁にそういっ た輩に猛烈に反論している。奴らに少しでも不快感を味わわせてやろうと、本心 にも無い嫌味や見下す表現を小生も多用しているが(その点については賛否は分 かれるであろうが)、何よりこんなスレは無くなれ、お前らは間違っていると再 三主張し、かつ相手の論じる矛盾点を緻密に突き続けている。それに対し奴らは、 都合の悪い指摘は全て無視し、こちらの書き込みを面白おかしく受け取り、から かう返事、更なる誹謗中傷を遠慮なく返してくる。自分たちのことが面白おかし く誹謗中傷されたとして、奴らは何とも思わないのであろうか。

本気を出して立ち上がれば、このようなスレを消すなどの処置に持って行くこと はそれほど難しいことではないとは思っているが、何よりその前に、そういった 酷い輩が存在することを発達障害の世界の方々、および世間一般の良識ある方々 に直視して、どれだけ不快感を感じるか、是非体験していただければと思う。


今回は長くなりましたが、以上です。最後までお読みいただき、ありがとうござ いました。

by なさ











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要らない物

最近ふとした機会に、がらくたの整理を思いついた。なにしろ、日頃から使いも しないがらくたがありとあらゆる隙間を占領していることに気がついていて、何 とかしないと生活空間が無くなると感じていたのだ。

私の母親世代は、とにかく物がない時代に生活をしているので、何でもかんでも 保存するのが常だったから、子供時代家の何度や押入、天袋、タンスの上などに はとにかくいろいろな物が詰め込まれていた。曰くお菓子の空き箱、包装紙、ひ も、紙袋、着られなくなった服などなど。しかし、子供の頃は破れた靴下などは 母親が丁寧に繕って、つぎの当たった靴下を当たり前に履いていたし、服なども 多少破れたくらいでは捨てずに直して着せられていた。もっとも私は末っ子なの で、兄や姉のお下がりが多く、私が着る頃にはすでにつぎが当たっていた事が多 かったし、そして私が大きくなってそれらの服が着られなくなっても、母親はミ シンを踏んでいろいろな物に作り替え私に着せた。当時はそれが当たり前と思っ ていたが、周りにはそれほど使い込んだ物を来ている子供は居なかったような気 もする。

さて、私はその母のDNAを受け継いでいて、とにかく物を捨てられない。たまに 同居人が出来るといろいろな物を強制的に捨てさせられたが、今は元の木阿弥 になっている。しかし、知らない内にどうしてもがらくたが増えてくるのでは、 貴重な空間が無駄になっているので、とにかく捨てなければならないと痛感した。

まず捨てなければならないのは、着なくなった古い衣類で、型くずれしたりくた びれた背広やシャツ、セーターなどなど。おそらく80%くらいは捨てても生活 に影響はないはずだ。

例のレコードプレーヤーやカセットデッキに代表される古い電化製品。しかし、 このプレーヤーやカセットデッキ(カセットデッキは大きいのがあと2台有る)、 パソコン、そして、膨大な量の電気部品など。これらの電気部品は、今では信頼 性が無く、性能も悪く、そして新しい物を買っても安いなど、保存しておく必要 など無いのだが、どうも捨てられない。たいしたサイズではないが、初期の頃買 ったトランジスタなどは、今で言えば一個数千円はしたろうに、今はそれ以上の 性能の品が一袋10個入りで2,30円で買える。したがって古い部品を使って 信頼性を疑っているよりも新しい部品を買った方がよほど良いのに、古い電子部 品などが山のようにある。今の新しい技術では到底使わない物ばかりだ。

でも、心情的な理由で捨てられない。作業場には鉄の切れ端、金属片の切れ端、 ボルトやナットなどが箱の中に詰まっていてさびている。キロなんぼで売ればよ いのだろうが、小さな部品などを作るときに便利なので捨てられない。

本はだいぶ前から新しく買うことをほとんどしなくなった。図書館で借りること が多いし、図書館にない本は購入希望を出せば買ってくれる確率がかなり高い。

食器は大きな段ボールに二つ積み重ねられ、さらに食器棚にあふれるほど有り、 洗い駕籠には20個くらいいつも入っている。普段の食事で使うのは精々5,6 個なので、全部捨てたいが、使える物を捨てられないという精神的な呪縛がそれ を妨げている。調理器具も普段使うのは2,3個の鍋くらいだろうが、それが1 0個はあるし、何年前に使ったか記憶すら定かではないフードプロセッサー、餅 つき機、製麺機、ジューサー等々。戸棚のしたには、いろいろ試して買った各種 の洗剤がいくつも中途半端に使ったまま残っている。

最近は考え方が変わってきて、新しい物を極力買わない様にしている。以前、ノ ートパソコンを買った方がいいかなと思ったことがある。なにしろ、私が持って いるノートパソコンは数年以上経った古い機種で、重いし、バッテリーがもうだ めになっている。昨日確認したらCDドライブがだめになっていた。新しいソフト をインストールしようとしたのだが、メインのPCからUSBに落として、それでイ ンストールできたので、多分OSがだめにならない限り(だめになっても外付け HDDを使えばよいが)使えるだろうし、本当にそうなってから新しいノートパソ コンを買っても良いかと思い直した。第一、私は喫茶店や電車の中でパソコンを やることはないから、たまに出張するときは今のノートパソコンとUSBメモリが 有れば事足りる。

携帯電話も、今以上の使い方はしていない。ネットにはつなげていないし、メー ルもやっていない。だから、スマートホンなどを買うつもりにはならない。電子 書籍用の端末も買う理由がない。

本来新しもの好きでいろいろ買っていたが、今は買わなくて済む方法を最初に考 えるようになった。商売柄工作機械や測定器など必要だが、どうせ暇なので自分 で作っている。私の仕事レベルでは十分に使えるし、どうしても精密加工や精密 測定、大型加工などが必要になれば外注に出している。その頻度は低いので、自 分でそれらの設備を買う理由がない。

もともと物作りが好きなので、自分でチノパンを縫ったり、古い衣類を縫い直し て別の物に加工するなどもやっている。古いワイシャツを自分で染めたり、古い セーターをまとめてクッションにしたり等、結構やってみると楽しい。これで物 を買わなくなるなら一石二鳥ではないだろうか。

物を買わない生活、最小限の物で生活する知恵をこれからは学んでゆかなくては ならないが、今は物を捨てるのも一苦労であり、以前まとめてがらくたを車に積 んで産廃業者に持ち込んだら、処理量が目玉の4つくらい飛び出すほど高かった。 やはり、自分でこつこつ細切れにして不燃ゴミで出すしかないようだ。今そうし なければならないのはパソコンのCRTモニタ一台、ビデオデッキ2台、衣類、食 器、がらくた部品などなどだろう。

でも、おそらく手に着かないような悪い予感がする。

by ロクスケ











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二者択一ミス

今日は自分のミスの傾向に関する話です。

以前から何となく気付いていたのですが、あることをやらなければならないとき、 あるいは逆にやってはならないとき、誤ってついうっかり逆のことをしてしまい、 ミスをしてしまう、ということが時々あります。

例えば、我が家では、当たり前ですが、目覚まし時計のアラームを平日は朝鳴る ようにONにし、土日はOFFにしています。前夜にそれをセットするわけです が、単純にセットし忘れではなく(そういうことも時々ありますが)、気付いて セットしたつもりなのに、逆に設定してしまい、平日の朝に鳴らなかった、ある いは土日の朝にけたたましく鳴ってしまったということが時折ありました。

このように、2つのうち片方を選ぶべき場面で、意識してやっているつもりなの に、誤って正解でない方を勘違いして選んでしまうというタイプのミスが、自分 の中では意外と多いなぁと最近改めて気付きました。自分の不注意ミスの傾向、 パターンの一つであると自覚しています。

自分の経験を思い出して考えれば、よくよく時間をじっくりかけて、十分確認を 繰り返せば、この手のミスはほぼ防げるとは思うのですが、半ば無意識的に、あ るいは他のことに意識が行っている中で、とっさに判断しようとすると、どうも 起きやすいようです。

世間一般の考え方からすれば、その手のミスを防ぐためには、「上の空になった りせず、じっくり確認して、慎重に行動しなさい」といった月並みかつ精神論的 な説教で終わってしまうのが関の山かと思うのですが、そこを一歩進めて、半ば 無意識的にでも、そういった勘違い的なミスを効果的に防ぐためにはどうすれば よいか、方法論を工夫する余地が大いにあるなぁと思っています。

そのためには、この手のミスを頭の中で犯すまでの思考プロセスをもう少しじっ くり研究してみる必要があると感じています。追ってその考察をしてゆきたいと 思います。

by なさ











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今年の一年を振り返って

とうとうこんなタイトルを書く時期になってしまいました。このメルマガが出る 頃には、2010年も残すところあと10日少々ですね。時が経つのは非常に早いもの ですが、この一年を自分なりに振り返り、一年の締めくくりをしたいと思います。


自分の中で、今年最も大きな変化を遂げたのは、やはり何と言っても、10年以上 も勤めた仕事を突然休職し、数ヵ月後に退職したことです。

それまで、当たり前ですが、一丁前に会社勤めを普通にしていましたから、特に 平日は仕事中心の生活であり、夜自宅に帰っても、あるいは土日も、自分の仕事 の研究のことばかり考えて過ごしておりました。その環境ががらっと変わり、療 養生活を兼ねて自宅でずっと過ごすことになったわけです。思えば、休職したの が春先でしたので、今現在に至るまで、一年の半分以上はそのように過ごしてい ることになります。

おかげで、自身の療養になるのみならず、家族と過ごす時間がたっぷりできたこ とは、何より有難いことです。また、後述のように、自己改善の取組みにより一 層時間を割くことができ、色々な取組みを進歩させることができました。あのま ま会社勤めをしていたら、これらのことは殆ど満足にできなかったと思われるこ とから、そのように自分の時間、プライベートな時間が存分にとれたことが今年 の自分にとっての何よりの大きな収穫です。


休職〜退職の直接的なの理由は、以前から時折起きていた、うつ的な状態が突発 的に再発して耐えられなくなったことであり、それは名実ともに第一の理由では あります(特に休職の場合)。

ただ、あくまで付帯的な理由としてですが、実家の家業をどうするか、またそれ に関連して自分たちの住まいを今後どうしてゆくか、加えて自分が今後やりたい ことをどう実現させてゆくかといった点も併せて考えれば、人生の転機としては、 今のこのタイミングが遅すぎず早すぎず、ベストであったように感じています。 その意味で、今年のこのタイミングで会社を辞めたこと自体は、全く後悔してお らず、むしろ後から考えても、それで良かったとの確信がより募っているほどです。

仕事の上で単に辛いからポンポン辞めるというのはいかがなものか、といった苦 言を前職の上司などお世話になった方々に呈されていそうな気もしてはいます。 その点はやや耳の痛いところも多少はあります。

しかし、休職の際はともかく、退職については、単に精神的に辛いから安易に辞 めたのではなく、上述のように、諸々の事情を勘案し、かつ妻や両親に相談し、 同意を得た上で、辞めることが得策と考えての結論でした。もしも、前職の会社 内でそのように言われて、思われていたとすれば、そこは自らそのように補足説 明して誤解を払しょくしたいとすら思っているほどです(もちろん、実際にそん なことをする必要は無いでしょうが)。


さらに言えば、前職でずっと取組んでいた研究テーマも、変な話ですが、前職を 勤め続けていては、諸々の社内事情等から、研究の継続と実用化までの成果を出 すことが逆に難しい(途中で行き詰まるか、潰される?かも)ということに、休 職の少し前の時期に気付いたこともあります。

じゃあ、そもそもその会社に入らず、初めから外部でそういった研究をすべきだ ったのでは?との指摘もあるかもしれません。ただ逆にそれでは、前職の会社の 実務部門の内部事情を知らずに研究を進めてしまうことにもなり、特に実用性と いう面で、誤った方向や結論に達する可能性が高かったのではないかと思います。

前職の会社に一定期間の長きに渡って勤め、特に実務部門の内部事情を熟知し (露骨に社内機密を漏らすという意味ではなく、あくまで研究の上での視点に活 かすという意味です)、その上で外に飛び出て、しがらみの無いフリーな立場で 研究を続ける。それがあのテーマを続ける上で、一番良い形であろうとの自分な りの結論にもなりました。その点でも、辞めたことで、むしろプラス材料を得た ことになります。


さらにさらに、10年以上の長きに渡り、一応はサラリーマンなるものをやってき て、仕事の仕方なるもの、会社・組織というところの性質が、遅ればせながら良 く分かったということもあります。自分自身の仕事上の数々の失敗、失態ととも に、そういった10年以上の会社勤めで得たノウハウが、今後特に、発達障害や自 己改善の面での自助・支援活動に大いに役立つとの確信があります。

もっと早い時期に辞めてしまえば、それらに気付かなかったでしょうし、このま ま勤め続けていれば、その組織の中に埋もれてしまい、情報発信の時期を逸して しまっていたでしょうから、その点でもやはりベストな辞め時であったとの思い です(なお、そういったノウハウの類については、今後積極的に、克明かつ赤裸 々に情報発信をしてゆきたいと思っています)。


…とここまで書き綴りましたが、結論はとにかく、辞めて良かったということで す。金銭面の問題が最も大きい問題であり、それがすっぽり抜けているのでは? とのご心配もあるかと思います。確かにそれはありますが、その点は家業を継ぐ、 あるいは別に考えている選択肢により、カバーすることを考えています(これ以 上は、我が家のプライバシーに関わる話ゆえ、一切お教えできません。ご了承く ださい)。

結局、会社を辞めた話で終わってしまいましたね。他の話題はまた機会を見て (といっても、年も明けてしまいますが)、記事にしたいと思います。以上、ま た長くなりましたが、お読みいただき、ありがとうございました。それでは。

by なさ











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悪いことは続く

 実はこの数日、パソコンが壊れて、それが何とかなったと思ったとたん、今度は部屋の照明器具がだめになって真っ暗になった。とりあえず、白色灯を2,3個点けて、明るさを確保してから、PCの復旧を進めた。

 パソコンは今年の春作ったばかりなのに完全にだめになり、マザーボード交換とHDのフォーマット、OSの再インストール、そして各種設定をいろいろやるのに時間を食った。年々複雑になるし、各種のIDやP/Wの設定、FTPの設定、ネットワーク上のパソコンの設定、PC保護用のファイヤウォールソフトの再取得エトセトラエトセトラがいやになるほど時間がかかった。

 この次PCがだめになったら自力ではできないのではないかと手順をメモしておくのだが、次回にはその手順が変わっている。ショップに訊きながらやらなければならない作業がずいぶんあった。BASICやMS-DOSのころは、もっと簡単だったとおもうが、作業性はもちろん今の方がよほど簡単で、だから、いざ直すとなると手こずる。むかしは、自分でパソコン内のシステムプログラムを自分で書いていたので、手順は面倒くさいがおかしくなっても自分でちゃんと理解しながら復旧できた。

 ついでだが、今でもDOSコマンドというのがアクセサリーにあり、ファイルの整理やフォルダーの管理には非常に便利なので今でもよく使う。まあ、普段はマイコンピューターやコントロールパネルでやるが。

 閑話休題。

 つまり、PCでも家電製品でもいえるだろうけれど、作業性はずいぶんよくなったが、構造や昔はなかった内部コンピューターなどのせいで、一度おかしくなると素人には全く手も足も出ない。むかしは、自分で直せたものが今は修理に出すか、だいたいは買い換えることになる。便利にはなったが、何か自分の道具という気持ちがしなくなった。

 そこで、壊れた照明器具を直す代わりに、自分で作ることにした。材料は私の作業場にいくらでも転がっているがらくたを加工すれば十分であり、とにかくベニヤ板を適当に切って光を反射するためにアルミシートを貼り付け、蛍光灯を3本針金でつるし、ソケットを使わずにシリコンチューブを使って、電線を直接蛍光管の端子に取り付け、古い蛍光灯器具から取り出して保存しておいた安定器やスターター(グローランプ)のソケットを取り付けて、配線し、それで一丁完成。

 いま天井からぶら下げて使っているが、非常に明るく便利だ。何しろ、蛍光管3本を使用し、一本、二本、三本と切り替えて使うことができる。見かけは、何しろ十分時間をかける余裕など無かったので、汚い。まるでがらくたの固まりが天井からぶら下がっているような感じだが、しかし、明るさや切り替えの便利さは今まで使っていたのよりはよほど優れている。

 LEDランプに切り替える気にはとうていならなかった。LEDはまだ実用期にあるとは思えず、コストパフォーマンスから言えば蛍光灯が一番優れている。なにしろ、少し前だがLEDランプを買ってみた。点灯し放しだったが、一月ちょっとでだめになった。まあ、某国性の安物だったためもあるだろう。

 蛍光灯照明器なら、少し器用な人なら自分で作ることが十分可能だ。いまPCデスクで使っているライトも自分で作ったものであり、それまで使っていた既製品よりもよほど使い勝手が良い。

 まあ、確かに電気器具の製作はそれなりの知識もいるし、安全性の問題もあるので誰でもとはいえないだろうが、周りを見回してみると別に買わなくても、あるものを利用してもっと使い勝手の良いものも作ることができる。パソコンでさえ、ほとんど知識が無くてもショップに訊きながらでも組み立てられる。私は自作パソコン一辺倒だが、それは自分の使う目的にあわせて作ることができるのと、部品の使い回しができるのと、なにより、データの保全が簡単にできるからだ。

 そこら辺のショップで売っているオリジナルと称する激安パソコンには、本当にひどいものがあり、ほとんど使い物にならない場合があるので、使ったことはない。そんな意味でも、少し、ほんの少し学べば小学生でもパソコンは組み立てられるので、是非おすすめしたい。

by ロクスケ









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今日のワンフレーズ:実践、実践、伝達、理屈

今日のは、新年の抱負を兼ねたものです。

今これを書いているのは2010年の年末ですが、思えば、2010年はnasA個人にとっ ては、WingBrainはじめ自サイト上における発達障害の自助・支援活動としては、 理屈をこねる段階で終わってしまった感があります。それが2010年の大きな反省 点の一つであると考えております。

2011年以降は、「実践、実践、伝達、理屈」という順番、割合での活動方針を掲 げ、極力その通りに行動してゆこうと思います。ここで、「伝達」=人様に分か りやすく伝えるという意味であり、このメルマガや自サイトの文章を読みやすく、 分かりやすく書くという意味でもあります。すなわち、@とにかく実践する、A 人様に伝える、B理屈をこねるという割合をそれぞれ2:1:1にするということで す。これに基づいて、日々の行動計画などを決めてゆきたいと思います。

行動計画も、最大の悪い癖である先延ばし癖、時間管理能力の無さをとにかく徹 底的に克服すべく、日々の行動計画を1日単位、1週間単位、1ヶ月単位、半年・ 1年単位とレベルを区切った上で、それぞれに計画を立てて、その通りに出来た かを自己評価し、自己申告の形でこのメルマガ上や自サイトに公開することで、 克服を図ってゆきたいと考えています。

まずは年始の宣言ということで。

by なさ











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不可思議、不気味な出来事

今回、別の内容を予定していましたが、諸事情で急遽内容を差し替えさせていた だきました。元の予定内容は次号に掲載させていただきます。新年号にこのよう な内容を掲載させていただくのは我ながらはばかられましたが、何卒ご理解いた だければ幸いです。

実は、今日今現在まで、以下の全容的な内容を誰にも語ることはなく(部分的、 断片的には、小生の家族など近しい人にはお話した)、敢えて小生の心の中に留 めていたことがある。しかし、後述の諸事情から、自分としては気味が悪く、関 係皆様に半信半疑な、もしくは否定的な反応をされることを覚悟の上で、敢えて 声高にお伝えする必要があると自分なりに判断したため、ここに記すものである。

文中、かなりショッキングな、不可思議な部分があるが、あくまで小生自身の記 憶に照らしての、あるいは小生の家族も目の当たりにしている事実として書くこ とを、予めご理解いただければと思う。

この原稿を書いている2010年12月末よりも1年以上前、2009年のある時期から、 実は小生の身の回りでは、不可解な出来事が連発して、あるいは断続的に起こっ てきた。それらの出来事を、関係する方々の名誉とプライバシーを侵害しないこ と、何より(大げさかもしれないが)その方々の身の安全を条件に綴りたいと思 う。できるだけ克明に、客観的に書いたつもりだが、話を意図的にぼかすため、 抽象的、漠然としていて分かりづらい、実感の湧かない箇所もあるかもしれない。 その点は何卒、お許しいただければと思う。

まずは、昨年、いや一昨年2009年のある時期(記憶の範囲では約1ヶ月以内)に 連続的に起こった、小生にとってのやや不気味な、あるいは不思議、不可解な出 来事である(実は、これらの他にも、その前後の時期に起こったことがもう2つ ありますが、小生の中で非常に機密度の高い内容ゆえ、諸事情で割愛させていた だきます)。

@2009年のある日、仕事で移動中、小生の携帯に着信があった。実家の親からで あった。親の声は震えていた。そのただならぬ様子に小生も驚いた。何があった のかと聞くと、振り込め詐欺の電話があったというのである。何でも、小生(の ふりをした何者か)が大けがをして治療費がいるので、金を振り込んでほしい、 というのである。冷静に考えれば、典型的な振り込め詐欺、オレオレ詐欺の手口 ではある。しかも、小生の名前までも具体的に語るほどの手の込みようであった そうだ。

親は、当初相当に動揺したらしいが、幸いはたと気付き、今どこの職場に居るの かといった、より詳細な個人情報を電話の相手に聞いたそうだ。すると、急に電 話を切ったそうだ。電話が切れ、時間が経つとともに、親は冷静に「これは振り 込め詐欺だ」と直感するようになり、すぐ警察に電話したとのこと。警察は親身 に対応してくれ、一連の経過を話し終えると、親はホッとしてだいぶぐったりし たそうだ。

幸い、その後は同様な出来事は親の身には起こっていないようだ。しかし、親に とって、前にも後にもそのような事件への遭遇は、長い人生の上でもそのとき一 度きりであったそうで、だいぶショックをその後も隠しきれない様子ではあった。

A当時、所用でとある方と時折定期的にお会いしていた。あるとき、いつものよ うに、アポをとり、その日時に約束の場所であるその方のオフィスに出向いた。 そのときまで、アポの時間帯はいつも同じ曜日の同じ早い時間であり、そのアポ 時刻の少し前の、ほぼ同じ時間に伺うようにしていた。その前にお会いしたとき までは、いつもすぐ自室に招いていただいていた。

が、そのときは何故か先客がいらっしゃった。しかも、小生がそのオフィスに入 っていくと、偶然過ぎる程にタイミング良く、その先客さんがその方の自室に呼 ばれ、入って行った。結果、小生は30分近く待たされることとなった。

その後は、小生が不覚にもアポ時刻に間に合わず遅刻してしまったことや、先方 の方のご都合上、アポの時間がそれまでよりも遅い時間、あるいは異なる曜日に なったことなどもあり、待たされることが多くなったが、その時までの同じ曜日、 同じ時刻のアポで、それほどに待たされたのは、後にも先にもその1回限りであ った。

B当時、類似の所用で、また別の方にも時折定期的にお会いしていた。同様に、 事前にアポをとり、その方のオフィスの自室にお伺いしていた。@、Aにかなり 近い時期、アポよりも少しだけ早い時間にお伺いすると、先客の方がいらっしゃ り、かなり込み入ったお話をされていたようであった。「すいませんが、外で15 分くらい待っていてください。」とその方に言われ、仕方なく、そのオフィスの 外の近所に一度出かけ、時間を潰して待った。

言われた通りに再度オフィスに伺うと、その先客さんと思われる人が、何故かそ のオフィスの入口に仁王立ち状に立っていた。オフィスの前の道路を通る人を見 つめては、携帯で電話をどこかにしているようであった。面識も無く、何となく 用件の上からも、先客さんとお会いするのははばかられたため、そのオフィスに 隣接する場所で、素知らぬふりをしてその人が居なくなるのを数分待っていた。

しかし、その人はなぜか一向に動かない。それどころか、小生の存在に気付き、 小生の顔をじっと覗き込む、凝視するように見つめながら、何やらずっと携帯で 話をしていたようであった。一度目が合ってしまったことと、何となく気味が悪 かったので、目を合わせないようにしてその人をよけ、オフィスに入って行った。

幸い、その先客さんの後、お相手の方はすぐ小生を自室に招いてくれ、用件は無 事に済んだ。帰路、半ば恐る恐るそのオフィスを出たが、幸い、さきほどの先客 さんと思われる人は居なかった。その日はそれで済んだ。

その前後、何度か、いや何度も、やはりほぼ同じ曜日、同じ時間でアポをとり、 その方とお会いしているが、先客さんとぶつかってしまったのはそのとき1回限 りであった。

次に、今年、もとい昨年2010年に起こった出来事を挙げてみたい。いずれも、小 生が休職、退職し、自宅に常時いるようになってからの出来事である。両親や妻 に聞いても、これまでにそんな経験をしたことが無いとのこと。

今年の夏以降、小生の自宅では、以下のような、やや不気味なことが断続的に起 こっている。

  C自宅の脇に停めてあった自転車が一台行方不明になった。
  D庭に洗濯物として干してあった家族の下着が一着、行方不明になった。
  E夜遅く、就寝する直前に、いわゆる“ピンポンダッシュ”をされた。

※ピンポンダッシュ:自宅の門扉の横にあるピンポンブザーを何者かがいたずら 目的で押し、直後に逃亡すること

この他にも、細かくは何点かありますが、紙面の都合上、ここでは割愛する。

CやDは、当初は小生や家族の勘違い等ではないかと半信半疑に考えていたが、 Eが起こってから、家族ともども、不審に思うようになった。特にEの前後、不 自然なタイミングで、小生宛にやや不審、不可思議なメールが数通届いている (その具体的な内容は敢えてここでは割愛する)。また、Eは、実はつい最近起 きた出来事である。少なくともEそれ自体は、家族皆がその場に居合わせており、 疑いようの無い事件である。そのため、現在、この件を(併せてCやDの件も) 警察に相談するとともに、自宅の防犯対策を強化しているところである。

これらの一連の不可解な出来事は、それぞれが全くの偶然の出来事なのだろうか。 もちろん、全く偶然の可能性もゼロではないだろうが、家族の証言も含め、それ らの出来事の以前、以降における体験を照らし合わせての不自然さという観点か ら考えれば、個人的には非常にひっかかるものがある。特にEは、極めて不気味 なものであった。

また、小生の個人情報がどこからどのように漏れたのかという点も疑問点の一つ ではある。その点は、いくつか思い当たる節はあるが、敢えてここでは割愛させ ていただきたい。

これらが偶然で無ければ、いったい何なのであろうか。何者か、あるいはどこか の勢力が直接、または間接的に小生に嫌がらせをしているのであろうか。こう書 くと、我ながら、精神病的、誇大妄想的で非常に嫌なのではある。しかし、小生 の記憶の範囲内では、これら@〜Eの出来事は紛れも無い事実である。特に、後 半のC〜Eは、家族も確認していることである。また、A〜Bは、前職の会社内 でも、類似な嫌がらせ的体験に遭い、当時精神的に酷く滅入ったことがある(こ の話は後日機会を見て書きたいと思う)。

小生自身のこれまでの経験、言動を振り返ると、一つ思い当たるところが無いわ けではない(敢えてその詳細はここでは割愛したい)。何らかの勢力が手を回し 、小生に無言の圧力をかけている、もしくは報復措置を採っているのではないか、 ということである。確かに、とある分野では、そういった闇の行動を採りうる勢 力が存在するようだ、という噂は色々と耳にしてはいる。

ここで一つ気になるのは、もし本当にそうであるならば、小生以外にも、同様に 不気味な、不可思議な体験をしている方々が少なからずいるのではないか、とい うことである。

それならば尚更、小生が一人で、これらの一連の出来事について心の中に留めて いるのは不適切ではないかと強く思った次第である。仮に、あくまで仮に、そう いった勢力が存在するとして、簡単に自分一人で泣き寝入りをするのではなく、 家族や警察はもちろん、あるいはその世界の健全な方々にもきちんと相談をし、 その上で毅然とした態度、適切な処置を採るべきではないか、というのが、今現 在の小生自身の確固たる結論である。今回の記事は、その自分なりの結論に基づ いての、敢えての行動の一環である旨、何卒ご理解いただければと思う。

今後、もしも更に不可思議、不気味な出来事が起こったならば、直ちに関係箇所、 関係各位に速報的にお伝えしたいと考えている。中には、(あくまで結果的に) 小生自身の思い込み、勘違いに過ぎないものも起こりうるであろうが、なるべく 事実として自分の身の回りで起こったことを、できるだけ客観的に情報発信し、 皆様のご助言、ご意見をお伺いできればと思う。

また長くなりすみません。今回は以上です。

by なさ











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今日のワンフレーズ:素人は勉強すれば玄人

今日のは、新年の抱負を兼ねたものです。

小生が勝手に考えたフレーズです。最近の自分の座右の銘の一つにしていること です。


最近、会社を辞めて新たな道を進みつつある中で、これまでと違う新しい領域に 首を突っ込むことが多い。細かくは色々とあるが、一つには、ADHDなどの発達障 害、およびその当事者の方々(自分含む)の自助・支援活動に関することが挙げ られる。

自分の悩み解決、欠点の克服も兼ねて、自助・支援活動の真似事のようなことに 力を注いでいるが、少なくとも今現在、小生は医師でもなければ、臨床心理士で も無い。(僭越ながら、やや大げさに言えば、)前職でずっと取り組んできた研 究テーマなど、自分の専門と言える分野もあるが、直接的には畑違いなことであ り、今現在の知識量、知見からすれば、一応当事者のはしくれではあるが、言い 換えればズブの素人である。

匿名掲示板・2ちゃんねるでは、小生の最近の活動、言論に関して、専門家でも ないのに、半可通な知識で何を偉そうに…といった誹謗中傷を最近は日常的に浴 びている。

それでも、その都度そういった輩には切り返し、かつそんな揶揄にもめげず、少 しずつではあるが、自分が新たに飛び込んだこの世界のことを色々と勉強してき ている。専門家はもとより、当事者の先人の方々と比べれば、まだまだ初心者マ ークを貼られた青二才であろうが、少しは進歩しているという自負は多少たりと もある。

たとえ今はまだまだ素人でも、地道に勉強してゆけば、いつかは達人、玄人にな れる、と最近自分に意識的に言い聞かせている。前職で取り組んできた分野でも、 決して玄人ではなく、まだまだ半人前であり、ましてやこの世界では素人レベル。 それでも、変に尻込みせず、諦めず掘り下げてゆけば、いつかはマスターできる はずである。

ここ最近は、家事や異種の仕事、特に対人関係など、これまでは自分が苦手意識 を持って避けてきたこと、無関心、無頓着であったことに、何故か興味を持ち始 め、それらのスキルアップへの意欲が高まっている。思うに、その意欲は、上述 の座右の銘から来ているように思う。(いや、あるいは、スキルアップの意欲が 高まったからこそ、上の座右の銘を掲げるようになったのかもしれないが。その あたりは鶏と卵の関係ではあるが。)

この不思議に湧いてくる、あらゆることをマスターしてやろうという意欲を大切 にして、精神的に辛くならず、楽しみながら、色々なことに取り組んでみたいと 思う。今年一年が終わる頃、何がどう進歩しているか、我ながら楽しみでもある。 今年(こそ)は、一年間、このような明るく、楽しい気持ちで過ごしたい。

by なさ











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ネットの怖さ

みなさんもご存じと思うが、先頃各種報道である女子大生の行為が大きく報道さ れた。

これは、某ホテルのレストランでアルバイトをしていた女子大生が、有名人カッ プルの来訪を実名でツィッターに書き込んだことに対して、すぐさま大変な反発 がわき起こったというもの。

この有名人カップルの件だけではなく、実業界や政界の様々な人たちのプライバ シーをツィッターで暴露したのだから、たしかに大変なことだ。彼女がどのよう な意識でやったかは明らかではないが、全く大人としての責任感のない行為だっ たと責められるのは仕方がないと思う。しかし、その結果は彼女がおそらく一生 背負いきれないほどのものだったのではないか。

一つは、実名を暴露された本人達のプライバシーが侵害されたことにより、その 人達が被った損害。

もう一つはホテルが失った信用。なにしろ、ホテルは人々がプライベートな生活 をする場所でもありそのプライバシーが守られないとすれば、そのホテルの利用 を差し控える人も出てくるはずで、この信用失墜に関するホテルの損害が数億円 から数十億円などといわれている。とにかく、ホテル名での謝罪があったが、そ れでも被った損失は大きいだろうし、もしかしたらホテルがこの女子大生を告訴 するかもしれず、とうてい負いきれない財産的負担を彼女は負わなくてはならな いかもしれない。

さらに、彼女はすでにツィッターのアカウントを削除しているとのことだが、彼 女が上記の暴露をした4時間で、彼女の友人達から彼女個人に関する情報がすっ かり2チャンネルやツィッターでさらされているというのだ。それこそ、氏名住 所年齢学校所属部そして顔写真まで出ているとのこと。ここまで彼女をさらし者 にすることが正しいとはとうてい思わないし、これは集団リンチではないのかと おもう。むしろ、この方に憤りを感じるが、しかし返す返すも彼女は浅はかなこ とをしたものだと思う。

このようなことはたとえば中国では人肉捜査などといわれ、動画サイトなどで犯 罪行為があったりすると、移っている人間があっという間に特定され、すべての プライバシーがさらされるという。むろん、それが良いとは思わないが、中には 全くの別人が特定されさらされるケースがある。

日本でも先日ある男が全く犯罪には関係のない人を犯罪者の実家でないかと自分 のブログに書いて逮捕されている。ブログのアクセス数を高めるためにやったそ うだ。たとえ書かれた本人が犯罪者の身内でも、決してやってはならないことだ ろう。

ネットは匿名性が特徴だが、今は探すつもりになればほとんどの発信者は突き止 められる。つまりはあまりに目に余ることをすると、自分に返ってくることを覚 悟した方がよい。ネットに爆破予告や殺人予告などを書き込んで捕まるものが後 を絶たないし、子供の場合などはだまされて自分の実名や住所、写真などを公開 したり犯罪者に贈ったりして被害を受けている。軽い気持ちで、知人のプライバ シーをネットに載せるなどは絶対にしてはならないし、その知人が危険性を認識 していない場合もあるので、本人が承知しているから良いだろうというわけには 行かない。

ネットは一度載った記事は、すぐに拡散するし、載せたことを後悔して削除して も取り返しがつかないのだと、完全に理解して置かなくてはならないだろう。

ネットは便利だが、場合によっては自分自身も滅ぼすことになる凶器となりうる ことを、自分はもちろん、子供達にも教えて置かなくてはならない。ただ、高齢 者の中にそれを認識していない人がいるのが困るが。

by ロクスケ











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今日のワンフレーズ:苦労の平等


今日のフレーズは、普段小生が(恐らく皆さまも)日々の生活、仕事等で苦労し ながら、一種の願望として感じたことを、率直に言葉にしてみたものです。

これまで、特に政治経済のニュース、新聞記事等で、「結果の平等」、「機会の 平等」という言葉を時折耳にされたかと思います。

前者は、皆がほぼ一律な成果や恩恵を授かれるような社会の仕組みを作ろうとい う発想(単純に共産主義、社会主義的な思想、仕組みの意味ではないかと思いま すが)のことであり、後者は、そうではなくて、あくまで就労や起業、事業参入 等の面で皆がチャンスを一律に与えられるべきである(得られる結果は、運的な 要素も含めて人それぞれ)という発想である、と理解しています。これらの発想 を小生なりに、もう一歩進めてみたものです。

結果の平等と機会の平等。このいずれの思想、仕組みにおいても、苦労の程度の 大小という概念は必ずしも考慮されていないように思います。強いて言えば、努 力量という評価尺度が後者に含まれるかとは思います(即ち、機会を得て、努力 した人ほど良い結果を得られるということ)。

しかし、その努力量というのは、精神的な苦労の度合とは必ずしもイコールな関 係には無いように思います。特に、少し話が唐突、飛躍しすぎかもしれませんが、 (あくまで普通の意味での)努力という行為が苦手なADHD当事者の場合はそれが 顕著であるように思います。

ADHD当事者に限らず、人間誰でも、好きなことをやっているときは、たとえそれ が肉体的負担の大きい、多大な労力を伴うものであっても、精神的にはむしろ満 たされている、快楽的な状態にあります。しかし、嫌なことをやっているときは、 肉体的負担は軽くとも、精神的には苦痛極まりなく、特にADHD当事者にとっては、 下手をすると激しいストレスや鬱的な状態をも引き起こしかねません。

同じ機会を得て、肉体的負担として同程度の努力という行為をしたとしても、 (便宜上運的な要素をここでは除いて考えれば、)その努力を苦痛と感じない、 むしろ楽しく感じる人、あるいは能力が非常に高く軽々とこなせてしまう人にと っては、精神的な負担という意味での苦労は軽いものです。しかし、その逆であ れば、精神的な苦労は非常に重たいものです。

そのような意味で、「機会の平等」という思想、仕組みは、(運的な要素を便宜 上除いたとしても、)大いに不公平、不条理的な要素があるように思います。

実際的、具体的な仕組みとして構築することは難しいかもしれませんが、人それ ぞれ(特に発達障害当事者のようなハンディある人)の特性を十分に踏まえた上 で、精神的苦労の程度が誰でもほぼ同等になるような社会の仕組みが実現できれ ばなぁ、と最近特に感じる次第です。

by なさ











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先延ばし、時間管理について考える(3)

本記事は、一昨年2009年の春先頃にシリーズとして書き始め、(2)まで来てい たものの、その後尻切れトンボとなっていたものの続編です。遅ればせながら、 その後今に至るまでの2年弱の経過と実践例、特に成功、失敗両面の経験を交え、 追加的な内容として記したいと思います。

なお、(1)、(2)のバックナンバー記事は、それぞれ以下をご参照ください。:
 ・ メルマガ198号: 先延ばしについて考える(1)
 ・ メルマガ199号: 先延ばしについて考える(2)
また、これらの記事の実質的な続編として、マイ締切を設けるという成功体験に ついて書いた記事があります。:
 ・ メルマガ210号: プチ成功体験9・締切を守る


以下では、後半の2つの記事の中で挙げた先延ばしの対策について、個別に追加 的な論述を行いたいと思う。

まず、(2)の記事で採り上げた、強制的な環境を作るということ、および3つ 目の成功体験の記事で採り上げたマイ締切の設定についてである。

強制的な環境作りの具体的な手段として、人様に期限内にやるべきことを宣言す ることが挙げられる。(2)の記事では記載しそびれたが、これまで、先人の方 々が、あるいは巷のノウハウ本の類でも、有効な対策の一つとして紹介されてい ることであり、また自分自身も経験則的に以前から行っていたことでもある。

確かに人様に宣言すること自体は有効ではある。しかし、下手をすると、かえっ て自分の首を絞めることにもなりかねないことは、この場で強調的に述べておき たい。

例えば、小生は前職において、先延ばし癖を克服しようと、職場の先輩や上司の 複数の方々に、いつまでに何をやります、とメールもしくは口頭で宣言したこと がある。しかし、上手くいかず、結局期限を大幅に過ぎる、もしくはいい加減な 成果物を期限ぎりぎりで提出してしまう、あるいは情けなくも、結局うやむやに して何も出来上がらない、ということがあった。

直接咎められたわけではないが、恐らく、特に上司からは露骨に人事考課でマイ ナス点を付けられてしまったと思われる。何故なら、以前、別の上司から、人事 考課の基本を、酒の席でそっと(いや、故意に露骨に?)教えてもらったことが あるからである。基本的には、内容のいかんに関わらず、やると宣言したことを その通りにやらなければ、大きなマイナス点を付けざるを得ない、のだそうであ る。

あるいは、上司のような方でなくとも、職場の同僚、先輩、後輩だとしても、宣 言通りにできなければ、結局自分の風評を悪くしてしまい、それが間接的に上司 に伝われば、同じことである。

そもそも、目標とは、政治家の公約などもそうだが、ある程度厳しい、やや無茶 なレベルのものを掲げるのが一番良いとされる。事前からほぼ確実に達成できる ような目標では、飛躍、成長にならないし(会社内では、このような目標設定は 人事考課上、甘すぎるとされるらしい)、逆に厳しすぎては何の説得力も無い。 ギリギリクリアできるかどうか、あるいはちょっとだけ無理そう、というレベル が一番良いのである。

とはいえ、上述のように、会社内では、個人的な目標や宣言をブチ上げても、そ れが達成されたところでプラス評価には必ずしもならないし、逆に達成されなけ れば、露骨にマイナスになる。

したがって、締切宣言をするならば、余程こなす自信がある場合を除いては、そ ういった理解関係の無い友人か、家族、あるいは素性を明かさない条件でネット 上での宣言などに限るべきではないか。


ところで、理屈っぽい話だが、人様に宣言することと、マイ締切を設けることは、 ある意味では同じことである。即ち、マイ締切とは、自分自身への宣言であると 思えば、結局同じことである。言うまでもなく、人様への宣言の方が、マイ締切 よりも強制力は上ではあろう。

上の成功体験記事にも書いたように、このメルマガ原稿の締切について、マイ締 切を設けることで上手くこなせてきた。また、昨年5月から突然マイルール宣言 して始めた、自分の過去の失敗事例を一日一件思いだし、分析的にまとめるとい う作業も、半年間ほぼ毎日欠かさず続けられた。

とはいえ、いずれも、最近は中弛みからか、やや破り気味になってきた。特に後 者は昨年11月から尻切れトンボになってしまっている(ネタ切れという面もやや あるが)。また、それ以外のタスク、例えば自サイトの更新や、以前より仰せつ かっている、WingBrainサイトのTOPページその他のリニューアル作業、前職の残 務処理なども、先延ばし癖をかなり発揮してしまっている。また、つい先日、人 様からご依頼いただいたある大事な原稿を、締切日を一日過ぎて提出した。さす がにこれは、妻にも咎められた。

さすがにこれではいけない、という危機感を最近急に自分の中で持ち始めた。そ こで、仕切り直しで、新たにより厳しいマイルールを設定し(マイ期限日を前倒 しするなど)、かつ家族(妻子)にもその旨を宣言し、厳しく細かく指摘、チェ ックしてもらうようにすることで、良い意味での強制力を働かせたいと思う。

変にやろうやろうと思ってばかりいると、それ自体をズルズル先延ばししてしま うので、失敗事例の取組みのときのように、突然明日からでも始めたいと思う。 次号以降の原稿で、その進捗を報告したいと思う。


他にも以前の記事の対策で、続編を個別に書きたいことが色々とありますが、今 回はここまでとさせていただきます。追って、上で述べた新たな宣言の進捗とと もに、個別続編の続きも記事にしてゆきたいと思います。

by なさ











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「気にしない、気にしない」と言われても

今日のフレーズは、かなり以前から感じていたことであり、先延ばしなどととも に、自分の悩みの種、言い換えれば改善課題の一つでもあることです。

何か仕事等で大きなミスをしてしまったとき、特に周囲から叱られる、嫌味を言 われるなどの出来事があったとき、ついつい落ち込んでしまいがちです。その際、 励ましの言葉、助言の一つとして、「嫌なことがあったら忘れなさい」、「気に しない、気にしない」、「叱られても右から左に流せばいいのに」と言われるこ とがしばしばあります。

しかし、その頂戴したお言葉の通りに、忘れよう、気にしないようにしようと思 っても、なかなか忘れることができず、かえって気になる、頭の中でそのことが グルグルと堂々巡りになってしまうことが多いと実感しています。結果、嫌なこ とが頭にいつまでも残り、精神的にも落ち込んだ気持ちになってしまい、なかな か気分が晴れません。

時には、「自分で犯した失敗なのに、自分で勝手に落ち込んで」と、失敗したこ と自体に加え、その失敗、あるいは叱られたことで落ち込んでいることも咎めら れることもありました。勿論、失敗をしたこと、さらに落ち込んでいることは、 自分に非があることは理性的には理解しているつもりですが、ついつい不可抗力 的、自然発生的にそうなってしまいます。

そもそも失敗を犯さないことが一番の理想であることは言うまでもありませんが、 次善の策として、せめて自分で犯した失敗、あるいはそれで叱られたことで落ち 込むのを止めたいと、相当に以前から節に願い続けています。これが悩みの種の 具体的な中身です。


自分なりに考える有効な解決策の一つとしては、以前にも述べた催眠、特に自己 暗示の理論、方法論を応用して、気にしないでいられる自分を上手に頭の中でイ メージして、自分にプラスの暗示をかけることかなと考え、実践するようにして います。

しかし、なかなかそのプラスの暗示を効かせることができずにいる不器用な自分 がいます。自己分析するに、どうも、半ば無意識的に、「頑張ってやらなきゃ」 と頭の中で思ってしまうことが上手くいかない原因であるように思っています。 これは、自己暗示のセオリーからすれば、いわば負の、マイナスの暗示として逆 効果的に効いてしまっているようです。

以前、感情モニタリング法を習った河野良和氏に直接レクチャーを受けたとき、 および氏の著書を読んだ時、「舞台での発表のときなど、アガラないように気を つけようと意識すると、かえってアガってしまう」といった趣旨のことを習いま した。加えて、「『いーっ、頑張ろう!』と思うと、かえって上手くいかないん です。」とも言われました。

「気にしない、気にしない」と思うようにしつつ、まさにこの、『いーっ、頑張 ろう!』的なことをやってしまっているんだろうなと思います。もっと言えば、 後の記事のテーマでもある先延ばし癖の発生原因の一つにも、これがあるのだろ うなと思っています。

マイナスの暗示になってしまっている点も以前から何となく自覚はしており、河 野氏に直接指導されたこともありますが、まだまだコツを掴み切れていません。 しかし、まずはこのように文章化することで、自分の傾向や悪い癖、行き詰まり 箇所を客観的に見つめようと思い、本稿に記した次第です。

次の記事も含め、今後は、プラスの暗示を上手く自分に効かせる、逆に言えばマ イナスの暗示をかけてしまわないようにするための具体的な工夫について、実践 を交えて考察してゆきたいと思います。

by なさ











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先延ばし、時間管理について考える(4)

今回は、前回の続編として、先延ばしの原因、メカニズムについて考察し、自分 のその後の取組みについても近況報告として馬鹿正直に綴りたいと思う。

まず先延ばしに関する考察について。

自分の先延ばしについて考察してみると、一度先延ばしモードに入ると、何らか のある程度強い刺激になる出来事などが無いと、ズルズル行ってしまう傾向にあ る。自分でいくらやろうやろうと繰返し思っても、なかなかスイッチは入になら ない。自分の内面の感覚としては、頭の中のやる気スイッチがまるで「切」状態 のまま何者かにロックされてしまっている、といった感じである。

@このやる気ロックをそもそもどうやって避けるか、およびA図らずもロックさ れてしまったとき、どうやってそれを上手く解除するかという2点が、この先延 ばしに関するより具体的な課題と言える。これら2点のうち、今回は@について 論じたい(Aは次号で論じる)。

自分の普段の行動を振り返ってみると、労力としては結構大変なことでも、毎日 定例的に繰返し行い、半ば無意識的にでもやる癖がついている、何ら心理的抵抗 感無くやれていることは色々とある。例えば、洗濯や掃除、食器洗いなどの家事、 子供の持ち物チェックなどが挙げられる。

これらは不思議と、一回も先延ばしにしたことは無い。むしろ、風邪をひいたと きなど、妻子が気を遣って「代わりにやるよ」と言ってくれても、「いいよ、自 分でやるから」とつい言ってしまいます。何故か、大変なのに、自分でやらない と気が済まない、むしろ気持ち悪くすらある。

一方、前回述べた依頼原稿の執筆など、家事等と比べれば、自分の好きなことの はずなのに、何故か先延ばしにしてしまう。この差は一体何なのか。

一つには、後者の場合、「頑張ってやらなきゃ」と事前に一度でも頭の中で思っ てしまうことがあるのではないかと思う。以前、感情モニタリング法を習った河 野良和氏に直接レクチャーを受けたとき、および氏の著書を読んだ時、「舞台で の発表のときなど、アガラないように気をつけようと意識すると、かえってアガ ってしまう」といった趣旨のことを助言された。加えて、「『いーっ、頑張ろ う!』と思うと、かえって上手くいかないんです。」とも言われた。

催眠の視点からすると、頭の中で、やるべきこと(のイメージ)と、「頑張って やらなきゃ」という、どちらかと言えばマイナスの、不快な感情とが結び付いて しまうことで、負の暗示効果をもたらしてしまう(願うことと逆のことをやって しまう)、とのことであった。まさに、今回の先延ばしも、これなのかもしれな いと考える。習って10年も経って、改めて思い出したかのように、そう感じた 次第である。

10年前、河野氏の口から、あるいは著書の中でも、発達障害という言葉、概念こ そ出てこなかったものの、同氏のエピソードを伺う限り、これまでに同氏がカウ ンセリングをしてきたクライアントの中には、発達障害当事者が少なからずいる のではないだろうか。加えて、私見として、欲望的、衝動的行動を抑えにくい (ついやってしまう)発達障害当事者の場合は、特にその傾向が強く出てしまう のではないか、と思う。

上述の家事等の場合、確かに労力の面では大変だが、嫌だと思ったり、「やらな きゃ」と一念発起したことは、思えば殆ど無い。何も考えず(いや、考え事をし ながら上の空で)作業を始め、終わっている感がある。その点では、上述の河野 氏の理論とも辻褄は合う。同氏の理論を信じるなら、あるいは鵜呑みにしないに せよ、一つの心理学的仮説として、筋の通った説明ではあるように考える。

だから、後者のやるべきことの場合も、何も考えず(あるいは上の空で?)行動 できるように自分を仕向ければ良いのではないかと思う。意識的に「頑張ろう」 「やらなきゃ」と思わないようにする(といっても、案外やってみると難しいで はあるが)ということである。

とはいえ、習って10年経っても、未だいま一つ腑に落ちていないところがあるよ うで、何より自分の不器用さから、上手く出来ていない。しかし、10年前と比べ れば、このWBメルマガや、自ブログ、サイト上で、自分の取組み、考察を文章化 するという強い武器、成功体験を手に入れているので、これが突破口になると確 信している。匙を投げることなく、工夫と試行錯誤を積み重ねてマスター、克服 してゆきたい。


今回の考察はここまでとしたい。最後に、今の自分の取組みの近況を馬鹿正直に 申告して本稿を終えることにする。

ここ1〜2週間ほど、前職の研究テーマの考察にのめり込み、自サイトの更新を 含め、自己改善の取組みに殆ど手がついていない。唯一、このメルマガの原稿を (マイ締切をオーバーして)執筆、提出したこと、メールの返事をした程度であ る。これではいけないと、強い危機感は意識的に持つようにしている。

先日も、とある用事を一つ仰せつかったが、締切の前週に依頼のメールを頂戴し たのに、そのまま放置し、翌週月曜日の朝に何の気なしにやっとメールを開いた。 すると、翌日火曜日朝が締切(!)。さすがに慌てて手をつけようと思ったが、 それでも昼までは結局手に就かず、別のこと(前職の研究)にのめり込んで時間 を浪費してしまった。

その夜に頑張ろうと思いつつ、意志が弱く途中で寝てしまい、当日の早朝ガバッ と起き、半ば自己嫌悪感で落ち込み気味になりながら、家族が朝食を摂る横で一 人必死にPCに向かい、締切である朝9時の約50分前、時間ギリギリで提出した。 妻は非常に理解あるが、小生が毎度同じ失敗を繰り返していることから、イライ ラ感もあってか、「同じ失敗を繰り返すのは、本当に馬鹿だよっ!」とさすがに 叱られた。

しかし、懲りずにまた、このメルマガ原稿もまた、マイ締切を1〜2日過ぎて提 出してしまった。

我ながら、叱られて当然だなと思う。かつ、最近弛んでいるなとも思う。これで は本当にいけない。少し自分に思いっきり喝を入れたい。持論として、根性論、 精神論一辺倒は大反対ではあるが、やはり精神論的手法にも一定の効果はある。 時々は要所要所で然るべき喝が必要であると思う。月並みかつ当たり前のことだ が、人に叱られる、叱咤激励されるのも、非常に大事なこと。とにかく自分に刺 激を与え、奮起させたいと思う。

先日、このメルマガ記事や、自ブログ上で「先延ばし、時間ギリギリが最大の悪 い癖」と何度も書いたり、頭の中で何度もグルグル思ったりすることそれ自体が、 負の暗示になってしまっているのではないか、ということに改めて気付いた。前 からぼんやり気付いてはいたのですが、つい毎度そう繰返し負の暗示をしていた ように思う。それに加え、上述の通り、「いーっ、頑張ろう!」とつい思ってし まっていたことも、事を悪化させる原因であったとも思う。これらの点を、今後 は意識的に気をつけたいと思う。

by なさ











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好奇心が衰えた?

最近スマートフォンの普及がめざましく、また多くの人が次にはスマートフォンを買いたいと思っているとか。だが、私は全く興味がない。ゲームはやらないし、スマートフォンでネットをやったりGPSを使ったり、お財布携帯を使う理由がないからだし、そもそも現在持っている携帯でも、通話以外の用途にはほとんど使っていない。たまにアラームを使うくらいだが、写メも撮らないし、第一メールもやらない。

ネット自体は毎日利用しているが、携帯でやる気にはならない。また、PCでも昔は自分でソフトを組んだりできた。というより、昔は自分でソフトを組むしか無かったし、そのころはPCも自分で部品一つ一つから組み立てなければならなかったので、嫌でもそれに伴う知識も有った。しかし、今のPCはとうてい私の理解を超えた進歩をしており、ソフトを組むなど全くできないし、PCを作ってはいるが、それもできあいの部品をいくつか組み合わせているにすぎず、昔のようにトランジスタやICを一個一個組み合わせ、プリント基板を自分でつくって組み立てていたのとは全く違う。今ではマザーボード一つ修理できないし、3ヶ月ほど前に実際にPCがダメになったときは、結局マザーボードとCPUを買ってきて作り直した。大昔なら、自分でマザーボードを修理できたろう。

今でもPCの政策や新しいコンポーネントなどを買うときはショップに行って店員さんにいろいろ尋ねる。むろん、事前に自分で可能な限り調べるが、限度があるので結局店員さん頼みになるのだが、実によく知っている。むろん、それが仕事だし、もともと好きだからそのような仕事に就いたのだろうが、私も嫌いではないし、今も学んでいるつもりだが、とうてい追いつかないほど技術は進んでいる。やはり時代の進化の早さについてゆけない、というより、ついてゆこうという気持ちがないのだろう。

これも好奇心が衰えたためなのではないか、とある日自問してみた。本来私は何にでも興味を持っていろいろなことに手を出してきたが、考えてみるに今はかなり興味の対象が限られている。PCには未だ興味を持っているはずだが、何とか今の知識のレベルを維持できる程度の学習しかしていない。

PCだけではなく、ソフト、またネット関連の技術についても我ながらきわめて限られているとは思っている。

ネットでは、かなり個性的なブログを開設している。また仕事関連で、ホームページを運営している。

語学には関心があり、幸い若い頃英語を身につけることができたので、その能力を失うのが惜しいからそれは気をつけている。つまり、ネットでも英語の記事は日常的に読むし、ラジオのAFN American Forces Network をかけっぱなしにして聞いているし、テレビでも英語放送はそのまま聞き取れるのはありがたいが、話す機会がほとんど無くなっているので、おそらくこれはかなり衰えているものと思う。あとは、フランス語をやっているが、これは実用レベルにはほど遠い。それに、私の生活でフランス語は全く使う機会がないので純粋に興味本位だが、それでも以前は読めなかったフランス語の文章が読めたり聞き取れたらそれはうれしい。今ではネットでフランス語に自由にアクセスできるので、たとえばwikiなどは、日本語で調べたものを同じく英語で読み、そしてフランス語で読んでみて英語と比較し(もちろん同じ文章ではないので内容のみだが)フランス語の読解力に役立てている。最近はドイツ語でもやっているが、単に興味本位でしかない。

そう考えると、昔と興味の対象が変わったのであって、生活に直接関係のないことに結構興味を持ち続けているとある意味安心している。

その意味では、計算力や文字をきれいに書く練習もしているが、これもなかなか進展しない。完璧は極められないが、以前よりは進歩しているというところでよしとしなければならないのだろう。いくら興味があるといって、他にやらなければならないことは無数にあるのだから、直接生活に関係のない興味の対象は、程々にしなければならないということになる。

by ロクスケ











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今日のワンフレーズ:「苦手なら専門家を目指せ」

今回は、自分も含めた、当事者の方々への激励と本気の助言を兼ねてのフレーズです。言葉自体は、小生の勝手な思い付きのものですが。

今の小生にとっての先延ばしや時間管理などもそうですが、今現在苦手なことでも、何としても克服してやろうと徹底的に研究に研究を重ねれば、一般の平均的な能力の人たちを軽く超えうると思います。

例えば、以前ロクスケさんがご紹介されておられましたが、比較的良くテレビ等に登場する片付けの専門家の方(お名前は失念しました。すみません)は、ご自分がもともと片付けが大の苦手で、それを克服する上で片付けについて研究し、遂には専門家になってしまった、ということのようです。

あるいは、以前テレビに出ていた、ダイエットについて研究しているとある学者さんも、元々はご自分が肥満でそれを何とか克服したいとの思いから、ダイエットを研究する専門家になったとのことでした。

たとえ今現在苦手なことでも、苦手だからこそ、(あくまで今現在)人並みに出来ないからこそ、見えてくるものがある、というのは小生の狭い経験からしても、言えることだと思っています。

小生の場合は、一つには不注意ミスの克服です。例えば、激しい不注意ミスに悩まされていれば、普通の人はまず滅多にミスしないため、ミスの傾向なんて気付きもしませんが、頻繁にミスしていれば、自分のミスの傾向、パターンが見えてきます。

毎日仕事等で失敗していれば精神的にも滅入るばかりだとは思いますが、視点、発想を変えて、「自分の弱点を逆手に取って、それで飯を食って行こう!」と考えてみてはいかがでしょうか。

by なさ











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先延ばし、時間管理について考える(5)

今回も、前回までの続編として、先延ばしの原因、メカニズムについて考察し、自分のその後の取組みについても近況報告として馬鹿正直に綴りたいと思う。

まず先延ばしに関する考察について。

前回、@やる気ロックをそもそもどうやって避けるかについて考察した。今回はA図らずもロックされてしまったとき、どうやってそれを上手く解除するかについて論じる。

これも、「感情モニタリング法」の考案者である河野良和氏の理論によれば、やるべきこととプラスな、快適な感情とを頭の中で同時に結び付けて、プラスの暗示をかけることが解決策の一つとなるようである。もっとも、@については、「頑張ろう」と思わないようにするだけでなく、このプラスの暗示をすることでより一層の効果があるので、本質的には@とAは同じ方法論と言えるのかもしれない。

これを具現化した小生の取り組みとしては、頭の中で何度も何度も繰り返しイメージトレーニングをするという行為に相当する。先延ばしになったときは、何度も何度もやるべきことをやれた後の姿をイメトレするようにしている。

ただ、プラスの感情と上手く同時に意識して結び付けるところが、まだ上手くできていないと自覚している。具体的に言えば、嬉しい、快感という感情になったときの身体感覚は比較的スムーズに想起することはできるものの、やるべきことが上手く出来ている成功後の状態がなかなかスムーズに想起できていない。

加えて、「頑張ろう」、「あー、また先延ばししてしまった」といった思い(河野氏の言葉を借りるならば「負の暗示」、「マズイ暗示」)を半ば無意識的にしてしまうこともある。これらを如何にして防ぐかが、やる気ロック解除、言い換えれば先延ばし克服のための課題ということになる。

河野氏の話や著書の内容を踏まえると、一度頭の中で出来てしまった負の暗示、即ちやる気ロックを完全に外すのは、プラス暗示が上手くできたとしても、どうも数ヶ月程度?はかかるようである。河野氏によれば、「(負の暗示、即ちやる気ロックは、図らずも一度かけてしまうと、)一発で効いちゃう」だそうである。その点は、何とも頭の痛いところではある。したがって、@の段階で防ぐのが一番ダメージが少ないと言える。

因みに、Aの別の方法としては、半ば当たり前の経験則として、周囲の人(家族、上司、同僚等)に強制をしてもらう、ライバルを作り競争心からやる気を出す、といった方法が挙げられよう。プラスイメージの方法で数ヶ月も待ってられないことの方が現実的には多いと思うので、この周囲からの強制等の方法を併用、むしろそちらの方を重視せざるを得ないと思われる。

個人的経験からしても、一度ロックが上手いこと行って外れると、その後はある程度長い期間、比較的コンスタントにサイト更新等のやるべきことが続けられるようである(ただし、今現在は、まだまだ完全な解除には至っていないが→後述)。再度ロックがかからないよう、今後は上手く乗り切りたいと思う。


考察はここまでとしたい。最後に、また今の自分の取組みの近況を馬鹿正直に申告して本稿を終えることにする。

この2週間を振り返ってみると、やる気ロックを02月14日頃の段階である程度外すことに成功はした。ただ、その後スムーズに先延ばしせずにやるべきことの作業が進んでいるかと言うと、まだまだそうではなく、一度外れたロックが再びかかりかかっている状態でもある。

ただ、以前よりも我ながら進歩したことは、「頑張ろう!」「あー、またやってしまった」といった負の暗示をそれほど思わなくなったことである(意識的にそう心掛けているからでもあるが)。まだ半ば自分の頭の中、心の中の感覚に過ぎないが、「無理に今手をつけなくても良いんだよなぁ」と思うことで、逆にやるべきことに少しは手をつけやすくなっている、言い換えれば先延ばしロックの程度が少しは下がっているように思う。

まだ完全なやる気ロックの解除、言い換えれば先延ばしの克服にはなっていないが、今後しばらくこの負の暗示を意識的に起こさない心掛けを続けてゆきたい。少なくとも、このメルマガ記事は、マイ締切の1〜2日前に書き上げているので、大げさだが、これも成功体験ではある。それを励みに、この調子で続けてゆきたい。

by なさ











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私たちに出来ること
 
 今回の大災害が始まったのはメルマガの前号が出る2日前だった。この記事は
3月19日の未明に書いているが、地震発生からちょうど一週間が経ち、最初の被
害が明らかになったとき、本当にどうなるのだろうかと思っていたけれど、大勢
の人たちが場合によっては命がけで働いてくれているおかげで、確実に事態は良
い方向に向かっている。感謝である。
 
 さて、この記事がメルマガに載る頃は、地震から2週間ちょっと経っているわ
けで、おそらく日常生活が普通に戻ってきているのではないかと想像している。
もちろん、様々な傷跡は残るし、復興作業もたくさんある。電力不足も完全には
解消しないだろうが、地震で運転休止していた火力発電所や他の原発の安全検査
が済めば運転が始まる。ほぼ、需要を満たす電力は確保されるし、まあ、夏場の
ピークに多少の不便はあるだろうが、一年もすればほぼ解消されることと思う。
 
 なにより、私も驚いたのだが、震災が伝えられたとたんに日本円の価値が急激
に上がった。一時、戦後最高値の\76/$を記録したが、緊急G7会議の合意によ
り、主要国の協調介入で今は落ち着いているとのこと。
 
 なぜ驚くかというと、通常ある国が大災害に見舞われたとき、その国の経済
力、信用力が失われるので、通貨が安くなるのが普通であって、かつての日本円
もそうだった。また世界で戦争の危険が高まったりしても、日本が一番其の悪影
響を受けるはずだとの思惑で円が暴落し、そしてドルが値上がりした。有事の際
のドルと言われていたのだが、最近では世界で戦争の危険が高まったり経済危機
が起きると、ドルが売られて日本円が買われる、すなわち有事の際の円買いが普
通になった。だから、リーマンショックの折もドルは暴落したが、円は上がり続
けていた。そして、実際日本経済はふるわないものの、リーマンショックでEUや
アメリカが青息吐息の時、日本経済は黒字を続けていたし、外から見ればほとん
ど損傷を受けていないように見えた。中国経済が活発だとか、韓国経済が元気だ
と言われているが、両国は日本から資材を買って生産し、それを再輸出して黒字
を出していたので、実際はアジアでは日本だけが一人勝ち状態だった。中国韓国
が貿易黒字を積み上げるに従い、対日貿易の赤字は増え続けていた。
 
 日本経済は、実際には全く盤石であり、今回の経済損失がいくらになるかは分
からないが、阪神淡路大震災の5割り増しと見積もられている。それでも15兆
円であり、90兆円の国家予算を組んでいる日本にとって、数年で償却するには
全く問題のない金額だ。じっさい、多くの企業が操業できず職場を失った大勢の
人たちが出たが、復興事業が新しく立ち上がり、そのための職が生まれる。
 
 日本はかつて、今の数十分の一も経済力がなかったころ、関東大震災に見舞わ
れ、一〇万名が犠牲になり、それでも歴史的尺度ではあっという間に再建し、以
前にもまして国力を蓄えた。
 
 また、経済力が戦前の30%にまで落ち込んだ敗戦の痛手から、240万人もの犠牲
を乗り越え、半世紀足らずで世界第二位の経済大国を作り上げた力は、世界を心
底驚かせた。そして、阪神淡路大震災に見舞われたときはすでに日本が完全に復
興することを疑うものはなく、実際十年もしないで完全に復興した。経済力も当
時からかなり上がっている。
 
 だから、今回も日本がこの困難を乗り越えさらに強固な国になることを世界の
誰もが疑っていない。だから、円が高くなり、一時暴落した株も急速に回復して
いる。それを私もまったくみじんの疑いも持っていない。
 
 それと、私が認識を新たにしたのは、日本の真の富とは何かということだっ
た。土地や家は地震や津波で失われる。多くの人が犠牲になるだろう。だが、そ
れでも全く失われない日本の財産がある。それは一つは産業技術力だ。日本は資
源もなく土地も狭い。それでも世界第二位の経済大国を築き上げたのはひとえに
この産業技術力で富を生み出してきたからだ。石油も金属も使ってしまえば無く
なるが、技術はいくら使っても無くならない。これが日本の無限の富。
 
 もう一つ世界が驚嘆した日本人の精神力だ。このような災害、混乱時、ほとん
どの国では大規模な暴動、略奪、暴力などの犯罪が頻発し、それも普段は普通の
市民達がそうなるのが普通なのだ。だから、ほとんどの国は、災害が起きると治
安維持に大変な力を注ぐ。
 
 しかし日本ではそんなことが一見もなくショックだと海外メディアに言わしめ
た。苦しい中、人々は譲り合い助け合い、乏しいものを買うにもきちんと列を
作って並び、我々が見ている買いだめ行動でさえ、争い奪い合いがない。これ
は、日本人なら当たり前と思っているが、きわめてあり得ないことなのであり、
ファイナンシャルタイムズなどは、日本における市民意識は、人間の進化の目標
だとまで言っている。アメリカも先進国だが、それでもカトリーヌ台風災害の折
やロス地震、ニューヨーク大停電の時は治安維持が一番の問題だったのだ。
 
 むろん、今度も方々で盗みや諍いがあるとは聞いているが、どんなときでも泥
棒は居るのだ。災害時に問題になる略奪や暴動とは違う。むろん、良いとは言わ
ないが。
 
 だから、この日本人の精神性の高さは、日本人が当たり前だと思っていても世
界最強の富だと言っていい。私は、自分のブログなどで、日本は江戸時代から圧
倒的な先進国であり、あまりにかけ離れているので世界はその意味を知らないの
だ、と書いている。
 
 普段、日本はもう駄目だ、日本人はもう駄目だと言う人がいる。しかし、こう
言うとき真の姿が見える。日本は絶対に駄目ではないし、希望のない国ではな
い。あまりに普通だと思っている日本人の姿が、世界では驚嘆されるほどのすば
らしいものなのだと言うことを、奢ることなくかみしめる必要があると思う。そ
れが復興の力になるといえるのだろうから。


by ロクスケ











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オールジャパンで行きましょう!

まず冒頭、今回の未曾有の大震災で被災、犠牲となった方々に対し、心からお見舞い、お悔やみを申し上げます(礼)。

今日のフレーズは、先日のあの大震災に関連して、とあるテレビの震災関連の報道番組でキャスターが述べていたコメントを拝借したものです(悪く言えば、いわゆるパクリというものですが。。)。

震災以後、改めて日本人の冷静さ、我慢強さ、協調性などの特性が海外メディアなどでも高く評価されています。その点は、未熟な一日本人である小生自身、世間の皆様から見習わねばならないことでもあり、また日本人の一人として誇りに思うことでもあります。

同時に、これはつい最近のことですが、福島の原発事故に関連して、放射能を恐れて福島への支援物資輸送に皆消極的になっているといった報道もありました。あるいは、福島周辺の農作物などを介しての放射能汚染も懸念されています。放射能汚染に関しては、科学的に明らかに危険性がある場合はやむを得ないことですが、必要以上に、科学的根拠無く敬遠、差別的な見方をすべきではありません。

やや大げさですが、ごく最近のそういった報道から、上で述べた我慢強さ、協調性などと別に日本人が持つ差別、偏見を抱きやすいという特性が浮き彫りになったようにも思います。それらを鑑みると、率直に言って、日本人の特性も一長一短、善し悪しであるように思います。

視点を変えて、発達障害、およびその当事者に対する視線という点で見ると、後者の差別、偏見の抱きやすさという面が強く出てしまっているように以前から感じています。今回の震災を見て改めて思うことですが、発達障害の世界に対しても、上述の日本人の良い特性が発揮されないものかと思います。

別に震災の被災者を羨むといった意味では毛頭ありませんが、日本の社会において、発達障害に対する正しい、深い理解を広く得られたならば、発達障害当事者に対する支援も抜本的に充実するように思います。

即ち、皆が今回の震災後、被災地の方々への募金や節電への協力などを進んで行うように、世間の皆様方が(発達)障害への募金、献金や就労支援などの面でご協力いただければ、悩める(特に成人)当事者の方々にとっては、この上ない福音となるのではないでしょうか。

発達障害の問題を今回の震災と同列に、明示的に論じるべきではない、贅沢が過ぎるといったお叱りも受けそうですが、率直に一当事者として感じることです。勿論、今回の震災の被災者の方々と同様、発達障害の当事者の方々も、困難な状況と自ら苦闘してゆかねばならないことには変わりありません。決して労せずして世間の支援、理解を得ようという意味では無いことは繰返し申し上げておきます。

今回の震災をオールジャパンで支援してゆくのと同様、大変僭越ながら、是非オールジャパンで発達障害の支援、理解も頂戴いただけるよう、まずは我々当事者が地道かつ確実な自助努力と正しい、戦略的な情報発信を絶えず行ってゆくべきであろうと改めて思うところです。今後引き続き、精力的にそれらの活動を行ってゆこうと思います。

by なさ











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能力の可視化、相対化

本稿、お読みになる方によっては、一部にご自身の思想信条に抵触するように感じられる面があるかもしれませんが、決してそういうつもりはありませんので、何卒ご理解ください。

今日のフレーズは、最近特に感じていることであり、また今後精力的に取り組んでゆきたいことの一つです。


人それぞれ、性格的、能力的な差異、個人差というものがあります。発達障害的な特性を加味すれば尚更かもしれません。一般には、人間誰しも、性格的、能力的いずれの面でも、長所、短所はあると言えます。しかし、その中で、何か特定の分野でずば抜けた才能、長所を持っていれば、人生の上で成功を収めることもできることでしょう。

とはいえ、全ての人がそういったずば抜けた才能、長所を持っているわけではないでしょうし、また仮に優れた才能、長所があっても、条件が合わない、環境に恵まれない、あるいはそれ以上に足を引っ張る短所があったならば、成功にはなかなか至らないように思います。

そこで恐らく誰しも一度は考えるのは、「私もあんな才能があったらなぁ」、「この悪い癖、欠点が無ければなぁ」ということではないかと考えます。でも、そう思ったとしても、99%の人は、その思いがそこで終わってしまうのではないでしょうか。その思いを一歩、二歩進めて、「どうやったらあのような才能、能力を身につけられるのか」と真剣に考え、本当に実現させることはできないものでしょうか。


大変おこがましくも、実は人の才能、能力というのは、関係者が皆が本気になれば、意外と高いレベルのものまで、メカニズムとして解明できると最近特に確信的に考えています。加えて、非常に大胆ながら、世間で良く言われる「天才的な才能」というものは、実は一つ一つメカニズムを紐解き、然るべきトレーニングのカリキュラムを開発すれば、ごく普通の人にも、あるいはコンピュータや機械にも、その才能を無理なく真似できるようになるのではないかと考えます。

こう言われても、なかなか半信半疑かもしれません。しかし、曲がりなりにも、以前から人工知能などに興味を持ち、前職でも人工知能系の研究に片足を突っ込んできた小生の狭い経験からすれば、人間のプロの優れた能力を機械に(あるいは普通の人に)真似させるということは、「純粋に技術的な面から見れば、」実は世間一般で思われている程には難しくない(決して簡単とは言いませんが)ように思えてならないのです。

裏返せば、人工知能系の研究全般にも言えることですが、そういった人間の高度な能力の解明、模倣を阻んでいる最大の理由は、実は純粋な技術的なことではなく、いわばオトナの事情によるものであろうということです。具体的にどういうことかと言うと、高度な能力を持つ人間のプロが、自分たちの仕事や地位、収入を失うのを恐れて協力しないために、能力の解明が進まず、ひいては人工知能の技術もなかなか進歩しない、ということです。

詳細はここでは割愛しますが(機会を見て、また記事にします)、小生の前職の狭い経験でも、それを裏付ける状況証拠はゴロゴロあります。だからこそ、確信しているわけです。


ここで、話を戻して、他人の優れた能力を真似しようと真剣に考えるならば、その優れた能力をあらゆる角度から寄ってたかって徹底的に分析、研究してみると良いと思います。分析の仕方が適切ならば、また上述のオトナの事情を熟知し、そのハードルを上手くすり抜けられるならば、必ずや優れた能力の根幹が見抜けることでしょう。

これは決して他人事として言っているのではなく、小生自身が今後の次の仕事(の一つ)としてやっていくつもりの、発達障害に関する自助・支援活動の一環としても、精力的に取組もうとしている課題です。仕事ができる人はなぜ出来るのか。逆に出来ない人は何故出来ないのか。出来ない人が出来るようになるには、日々具体的にどのような訓練、努力をすれば良いのか。このメカニズム、道筋を明らかにすることで、世の中の悩める人々、とりわけ社会で苦労する成人の発達障害当事者の方々に福音になるであろうと我ながらかなり期待しています。

まだその取り組みは始まったばかりですが、今後精力的に行ってゆきます。その経過、結果は追って記事にしていきたいと思います。僭越ながら、ご期待いただければ幸いです。

by なさ











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要らない物2

 以前から私は使いもしない物をたくさん取っておく癖があり、これは母親からの遺伝であろうと思っていたが、なにしろ家は狭いし空間も高価なので、可能な限り少ない物で暮らそうとは考えていた。
 
 今回震災にさいして、被災者の人々は一切合切を失い、最小限の物で避難生活を送った後、全くゼロから生活を構築しなければならない事を考えると、人間にとって最小限の必要な物とは何かを考えてみた。
 
 すると、ほとんど何もない事に気がついた。ただし、無いと不便であることに変わりはなく、試しに最低限これだけは無ければならない物をざっとリストアップしてみたところ、おそらく今の三分の一、あるいは四分の一の物で、それほど生活の質を落とさずに済むのではないかと思うようになった。
 
 たとえばかつては本が始末に困るほどあったが、しかし頻繁に手に取る本はほとんど無く、一度大量に整理したことがある。その後、本は文庫本や古本、図書館利用などで新刊はあまり買わなくなった。仕事上の参考書などはそう言うわけにも行かないが、大半の本は持たなくても良いときがついた。
 
 衣類も、多数ある中着る物はかなり限られているので、思い切って処分し、それで別に不自由はしていない。
 
 その気で見回すと、まだまだ処分してもかまわない物がたくさんある。身辺整理も兼ね、持ち物は可能な限り減らすことにしている。もちろん、新しい物も買わない。全く買わないわけには行かないだろうが、買う必要があるかどうかを何日か考えて見ることにしている。すると、大体買わなくても済むという結論に達する。
 
 なるべく身軽になることもライフスタイルの選択肢の一つだし、ライフスタイルをどうするかは人それぞれだが、私は不自由ではないくらいに物を減らして生活する方を選ぶことにした。ただし、母親からの遺伝子は、私の意志に関係なく働いているようなので、それは気がついたときに対処するしかない。
 
by ロクスケ











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勉楽

勝手な造語です。というか、これは10年以上前、ある親しい友人が言っていたことです。それの半ば受け売りとして書きます。

「勉強」という言葉を、言い換える意味で書いたものです。友人曰く、「勉強」という言葉には、「強いる」という、忍耐的な、ややネガティブな要素が入っているとのことです。確かにその通りです。日本人の大好きな勤勉、努力、忍耐といった重要な要素(?)のうちの一つではあるのですが、そもそも論として、何かを学ぶのに、何も苦しみながら学ぶ必要はありません。本来は、できることならば、自分の知的興味に任せて、楽しく学ぶのが理想ですよね。生涯学習などは、まさにその典型ではないかと思います。

学習において「強いる」、「忍耐」と聞くと、灰色な受験勉強のイメージくらいしか出て来ないのではないでしょうか。これまたそもそも論として、学校教育の仕組みとして、若いうちに知識の詰め込み教育というのは、どうなのかなぁ、と改めて思います。

決して、いわゆる「ゆとり教育」を支持しているわけではありませんが、せめて学校のカリキュラムをもう少し見直して、本人の興味対象やセンス、感覚、ペースに沿って、ある程度成人になった後の時点までも、自由に学べるようにできないかと思います。授業時間を削らず、その代わりに、自分の身の回りの事例や社会問題から各科目の学習に入って行けるようにし、かつ科目横断的な、総合学習的な割合を増やすなどすれば、決してゆとり教育の再来にはならないと考えます。

若いうちに、忍耐力を養う一つの手段として、勉強をする。あるいは、成人になるにあたっての一般常識を身付けるために勉強する。それらも確かに大事ですが、下手に若いうちに詰め込み教育を受けて、例えば数学が無用に嫌いになってしまい、数式を見るだけでアレルギー反応が起こるようでは、その人の生涯という長い目で見て、マイナスではないかと思います。

若いうちは全く興味など持たなくとも(或いは、どちらかと言えば嫌いであっても)、大人になってから興味を持ったり、必要に迫られて学習するようになる可能性は大いにありえます。また、小生自身含め、皆さんのご経験則からしても、興味のある、好きなことは頭に入りやすく、逆に好きでもない、興味も無いことは頭に入りにくいという脳の性質にお気付きかと思います(特に、ADHDはじめ発達障害の当事者の方々は!)。詰め込み教育が、そういった可能性を無用に潰してはいないでしょうか。

カリキュラムの具体的なあり方など、各論レベルの議論は課題としても、大局的に見れば、学校教育など様々な場面において、「勉強」とは常に「勉楽」であるべきではないかなぁと思います。

by なさ











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働くを楽しもう

今回のフレーズは、以前どこかの人材派遣会社がCMで使っていたフレーズを拝借 しました。今後の発達障害の成人当事者を取り巻く環境の好転を期待する思いで、 今回はこのフレーズを採り上げることとしました。

本稿をお読みの皆さんの多くが成人の方々であろうと思いますが、今現在のご自 分のお仕事を楽しんでおられますか? 小生は今現在は療養中、言い換えれば無 職の身ではありますが、次のやりたい仕事に向けて、徐々だが着々と準備は進め ています。

といっても、ADHDをはじめ、発達障害の当事者の方々は、発達障害的な特性に起 因して、仕事が上手く行かず、対人関係などでも悩み、精神的に酷く苦しい状態 におられる方が少なくないと思います。かくいう自分自身も、数年前まで、前職 の仕事上の失態、ミス等に起因して、酷いうつ状態に陥っていました。好きを仕 事にすべく就職し、自分なりに頑張っていたはずなのに、こんなはずでは…。そ ういう挫折感を味わい、自尊心も極端に低下し、どんどん精神状態は悪い方に向 かっていました。

結果的に前職の仕事は辞めましたが(以前述べたように、辞めたこと自体は何ら 後悔していません)、今改めて思えば、自分がADHDなどの発達障害当事者である と早期に自覚し、診断・治療、指導を受け、適切な支援を得られていれば、もう 少し上手く振る舞え、仕事上のミス、失態をかなり防げ、業績ももう少し多く挙 げられたたように思っています。

日本中の成人当事者の方々の殆どが、特に今現在苦しい状況にある方ほど、その ように感じておられるのではないでしょうか。家族や職場の同僚上司、世間一般 の方々からの深い理解と手厚い支援。これはほぼ全ての成人当事者の切なる願い でもあると思います。

先日もNHKで成人発達障害の番組を1週間に渡り放映されたように、最近でこそ、 特に成人の発達障害を取り巻く環境は徐々にですが好転してきているとは思いま す。しかし、まだまだ発展途上、始まったばかりだと思います。一刻も早く、十 分な理想的環境を実現してゆきたいものです。

これは持論ですが、単純に発達障害者は障害者枠で、という就労支援だけでなく、 そもそも仕事の仕方を世の中全般的に見直して、発達障害者にも十分優しく、か つ世の中の大部分の健常者にもより仕事のしやすい、理想的な環境というものが 作れるのではないかと、最近特に確信しています。発達障害者の特性など、心理 学、精神医学、人間工学といった横断的な知見を踏まえ、IT技術を活用すること で、今現在の最先端の技術、知見を以ってしても、かなりのことができると思い ます。

今後引き続き、その理想的環境の実現に向けて、鋭意活動してゆきたいと思いま す。

by なさ