日常生活3







工夫をする
生活を単純化
人目を過剰に気にしない
語学学習の奨め
ながら作業
綺麗な文字を書きたい
達成感
目的を絞る
筆記具中毒症
物作りの効用
小説を書く
通販の利用
テレビを捨てる
出来ないと思わない
ノート、手帳、メモ
英語を学ぶ意味
優先順位を確認する
災害に備える
しゃべくりの練習
しゃべくりの練習2
予定に追われるのは本末転倒
ユーチューバー
自然災害に備えて
金儲けの話
情報の整理整頓
物作りのすすめ2
計画倒れ
通販生活
メモ、ノート
ガス消し忘れ防止タイマー
物作りも善し悪しあり
各種の詐欺
健康で生活するために 自分でやる
手抜きをうまくやる
手抜きの仕方
優先順位
本を買う
電子出版
オレオレ詐欺
CG作成ソフト
筆記具
英語は必要?
スマホ中毒
小旅行
計画倒れ
依存症
断捨離
計画妄想段階
計画実行段階
時間配分
つい熱中
手抜きの重要性
語学学習
記憶力
妄想の勧め
毎日続けていること
ツィッターやフェイスブック
スマホ中毒
テレビの無い生活
パソコン生活



断捨離
手帳
やはり筆記具
庭作り
気持ちの切り替え
捨てる決断
懐古趣味
捨てられない物
山野歩き
ブログ
勝負事
天変地変
気候変動
柔らかい頭
文章を書く
メモの活用
異常気象に対処
読書
スマホ生活
薄着で生活
完全を目指さない
日記を付ける
時間感覚の変化
小説を書く
音楽を聴く>
金銭管理
金銭管理2
年齢と共に注意力低下
例えば自作アンプ
手紙を書く
健康で生活するために 徹底した掃除
思い込み
近所づきあい
DIY
綺麗な文字を書きたい
毎日の散歩
書庫整理
スマホ
本当に文字を書かなくなった
手抜きの大切さ
パソコンの整理
DIY
綺麗な文字を書きたい
毎日の散歩
書庫整理
スマホ
本当に文字を書かなくなった
手抜きの大切さ
パソコンの整理
Do It Yourself
詐欺メール
老化と劣化
ネット犯罪
薄着の効果
音楽プレーヤー
定期健康診断
新しい年を迎える度に



時間管理の難しさ
一日の予定
散歩で風景写真を撮る
今は万年筆を使わない
電子工作
詐欺メール
つい歩きすぎ
一日の計画
山菜採り
時間配分
住みやすい町とは
毎日の時間割
庭の管理
庭の眺め
スマホの交換
オーディオへの拘り
人との距離もまた人それぞれ
旅行を楽しむ
長期旅行をして
名所旧跡を訪ねるのは?
時間感覚の変化
いよいよパソコンを又作る?
メモ手帳
生活に欠かせない歩き
書庫の整理
詐欺メール
小説を書く
手抜き掃除の工夫
手抜きも大切(NEW)

ミニマリスト、断捨離
ブログを続ける理由
手帳を使わなくなった
使わない物を作る(NEW)




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工夫をする

仕事をするにつけても日常生活をしてゆくにしても工夫をしながらするのと、唯マニュアルに沿ってやるのとでは全く結果が違う。それは誰でも同じだろうと思っていたら、そうではない事を見聞きして驚いた事が多々ある。

仕事柄、熟練職人の仕事を何度も見て驚いた事が何度もあるが、例えば本当に古い旋盤を数十年も使い続けている職人が、感覚だけで1/100ミリの精度で鉄材を削るなどはその例ではないのか。むろん、感覚だけといっても当然測定用のノギスやダイヤルゲージなどの測定器は使うのだが、それらを使っても、また最新型の旋盤を使っても、職人が最後に勘で削る仕上げほどの精度が出ないと言うのだ。

実際に、最新型の機械で削った製品を最後に熟練職人が勘で仕上げて本当に正確な製品が出来ると何度も聞いた。通常の日常品ならそれほどの精度は求められないので、自動機械で連続して作るが、精密加工が必要な場合は人間がやるしかない。

カメラのレンズなどは日本の技術が世界トップクラスだが、その技術はやはり熟練職人が支えているのだとか。

この様な話は無数にあり、定盤という完全な平面を持つ板は、人間がキサゲという道具で手作業で削って仕上げる。機械削りは普及品というか、まあそれなりに精度が有れば良いという物にしか使えない。

と、此処まで書いたのは、熟練だけが有れば良いのなら機械の進歩など無かったはずだと言うことだ。熟練職人が作れる製品は極めて数が少なく、当然極めて高くなる。が、誰もが熟練職人と同じ技術を持てるわけではないから、機械で熟練職人に近づく仕事が出来るように機械を改良してきた。だから、今では特に必要がない限り機械で大量に作った製品が極めて安価に手に入る。

いま、精度だけを言うなら100均で買った時計で十分であり、同じ精度の時計を100年前に手に入れるとすれば家一軒の価格だったろうし、そして実際には今の100均時計に及ぶ精度は出ないだろう。

常に誰かが熟練職人に匹敵するやり方を工夫してきたからだ。

私は趣味として物作りをしていて、様々な金属や木材を切ったり貼ったりしている。が、趣味なので当然熟練など欠片もないし、そして使っている機械はアマチュア用の物であって、精度などおこがましくて口に出来ない物ばかりだし、自作の機械も使っている。

当然出来る作品は熟練工の作品は言うに及ばず、一般の機械で作った物にも遠く及ばないが、そこは工夫するしかない。その場その場で解決法を考え何とか工夫してやり遂げるのだが、それなりに結構満足出来る物が出来る。熟練がないから、機械が駄目だから、出来ないだろうと諦めていては工作など出来ない。作り上げても当然満足も出来ない。

結局、私が物作りに没頭するのは、工夫する事が楽しいからだ。出来ないと思っていた事が工夫したら出来たと言う喜びを感じたいからだろう。これは、テレビを観ているなどしていても絶対に得られない喜びだ。

課題が難しければ難しいほど工夫をする。そしてやり遂げる。仕事でも趣味でも日常生活でもそれがなければ味気ない事甚だしいと思うのだが。

by ロクスケ











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生活を単純化
繰り返し書いていることだが、この記事はあくまで私がそうしていることにより、現時点ではそれなりに充実し満足の出来る生活をしていると言うことであって、人によりライフスタイルが異なるのは当たり前のこと。特に今回の記事などは、おそらく殆どに人にとって、自分のライフスタイルとは違うと思うだろうが、そのような生き方でそのように充実している例もあるのだ、との読み方をしていただければよいと思う。私と同じにすればよいという事では決してない。

さて、何度か書いているが、私は生活に於いて簡略化出来る物をかなり簡略化している。まず、食べ物は人間にとって必要な物だが、同時に楽しみでもあるだろう。だから、世の中にはグルメ業界が繁栄し、それを求めることが生き甲斐になっている人がいる。

しかし、私はグルメ探求の趣味がほとんど無い。わざわざ何かを食べるために外に出たり遠方に行くこともしない。毎日、殆ど同じ物をつくって食べているが、全く飽きることなど無い。同じ物と言っても時季の野菜を刻んで軽く炒めた物、あるいは電子レンジで加熱した物を一日分ほど作り、それで野菜スープを作ったりあんかけどんぶりにしたりサラダにしたりなどにしている。そうすることで食材の無駄も出ないし暖めるだけなので調理時間も最小で済む。他に、一年を通して練り物と野菜のオデン(煮物)を大鍋に作り毎朝夕暖めては時に食材を足してそれも毎日食べる。後は納豆や卵、みそ汁などなど。それで、十分に健康を維持しているし、体調も良い。

かつて仕事で日本中、そして海外も歩き回りかなりいろいろなものを食べたが、それが楽しかったとも思っていない。

着る物は夏冬同じ作業ズボンと作業服で、新しい内は外で着て、次に室内で着て、最後に工作室で着ている。防寒具は着ないのでそれこそマイナス10度くらいでも夏の30度でも同じ格好で済ませ、そのためかこの数十年風邪を引いたことがない。

何かで部屋を飾る趣味もなく、食器などに凝る趣味もない。

一方パソコンやネットには懲り、結構高いソフトウェアも買っているし、パソコン自体新旧、ノートやタブレットも含めて6台持っている。語学を未だに学び、脳トレに利用しているし、本も結構読むし、そして文章は毎日かなり大量に書き続けている。音楽も聴くが、高級オーディオセットなど持つ気もなく、今はネットで拾った音楽を自作のコンポで聴いている。テレビなどは持っていない。テレビで時間を潰すなど到底する気にはなれない。

工作室を持って様々な工作をしている。

時に小旅行に行き、温泉やグルメなどどうでも、自分の足で一日数時間は歩き回り、身体で旅の記憶を確実にしている。

興味のないことは徹底して省き、自分の興味があることについてはかなり時間も精力も資金もつぎ込んでいる。

人から見れば何が楽しいのかと言われるかも知れないが、健康に不安が無く、(これについては毎年健康診断を受け、問題がないと言われている)自分の興味の対象に打ち込めるのだから私はそれでよいと思っている。

by ロクスケ











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人目を過剰に気にしない

最初に断っておくが、あくまで人目を過剰に気にしないということで、決して無視して良いと言うことではない。まあ、私が言うのでは説得力はないかも知れないが、私自身余り普段の見てくれは気にせず、夏も冬も同じ服装であり、作業シャツに作業ズボン、あとは下着を一枚上下一枚ずつで外を歩いている。時計なども時間が分かればよいので、結構100円時計をつけている。鞄などはいくらで買ったか覚えていないが、恐らく数百円の軽い簡単な物に、タブレットや手帳、読書端末やその他いろいろなガラクタを入れて持って歩いている。つまり、身なりには全く金をかけない。ただし、通常の身だしなみは整えているつもりで、清潔さには気を遣っているし、作業服でも汚れた物は着ない。あくまで私の基準なので人から見ればどうかは分からないが、少なくとも誰かが眉をひそめるような格好はしていない。

また、歩き方なども自分なりに気をつけていて、うなだれてとぼとぼ歩くようなことはしないし、結構しゃんと立って背を伸ばし、大股でかなりの早足で歩いているからおそらくそれでみすぼらしく見えることもないだろうとは思う。

私が人の歩く姿を見て気になるのは、とにかく背を丸め足を引きずるように歩く姿で、これはどんなに身なりに金をかけてもみすぼらしく、余り年齢には関係がないようで、若い人でもだらしない歩き方をしている人、疲れ切ったような歩き方をしている人の方が、よほど気になる。

さて、会社勤めや商売をしているなど人と接することが重要な場合、自分のポリシーだけで服装を決めるわけには行かないだろうが、自分の生活の中では人目の為にコストをかける気にはならない。昔からその傾向があり、ブランド品などには全く関心が無く、自分が興味を持った物だけに金をかけてきた傾向がある。

おそらくそれで、自分では気がつかない内にチャンスを逃したこともあったのかも知れないが、今別にそれで後悔することもないし、自分がしたいようにして人に迷惑をかけない範囲なら、別にそれで構わないとますます思うようになってきた。その一つが、人目のために金をかけないと言うことだった。真冬に薄いシャツ一枚で歩いていると確かに人目を引くだろうが、それで別に誰かに迷惑をかけているつもりもない。汚い物を着る訳でなく、人目のために気を遣うことがどうしても馬鹿馬鹿しいからだ。

なにより、人目を気にしなければストレスも減る。それが何より気に入っている。

by ロクスケ











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語学学習の奨め

以前にも書いたことがあるが、私は仕事の関係で英語はまずまず話し聴き読み書くレベルは身につけている。とはいえ、どれだけ身につけていれば充分なのかなどは基準が有るわけではなく、要するに仕事上で後々の誤解が生じない程度に使えるレベルであり、日常会話には不自由は感じなく、映画などでも日本語字幕は要らない、まあその位のレベルだ。何しろ、日本語だってどんな日本人でも完全無欠に話せるわけではないのだから、完全マスターなど不可能であり、私としてはまあこれでよいかと思うレベルで、むろん日本人でもそれこそ私が到底及びもつかないレベルの人は無数にいる。むろん、外国育ちなどのバイリンガルはまた別だが。

ただし私自身は、日本人が英語を学ぶ必要があるとも思っていないし、特に貴重な幼少時英語教育で時間を無駄にするべきではないと思っている。言語とは思考の道具であり、しっかりとした日本語を身につけなければしっかりと思考が出来ず、その日本語能力がまだまだの幼少期に他言語でそれを混乱させる事があってはならないと思うからだ。そもそも、日本では日本語で十分に最高レベルの教育を受けられ、仕事が出来、情報を得ることも芸術を楽しむことも十分出来るのであり、一部の国のように英語が出来なければ教育も受けられないのとは違う。つまり、必要性がないから、日本人の英語は上手くならないのだと言われている。

とは言え、外国語、特に英語を身につけておくと非常に便利である事は事実であり、だから興味のある人や仕事などで必要な人は自分で勉強すれば十分に身に付く。私も仕事で本当に必要になってから自分で学び、充分実用レベルになる英語を身につけたと思っている。大人になってから身につける英語が母国語並みになる事はないだろうが、それで全く問題はない。

これは別に英語に限ったことではなく、どんな言語でも同じで興味があるなら自分で学べばよいし、そしてそれが仕事などで必要になれば嫌でも身に付く。

語学を学ぶことが役に立つ理由は、むろん仕事によっては役に立つ事以外に、言語とは物を考える道具だ、とは先に書いたとおりだが、言語を学ぶとは思考能力を磨くことでもあると思う。英語で考えるときと日本語で考えるときは明らかに思考の内容が異なっていることを自覚しているからだ。

日本では日本語だけで教育も仕事も情報も文化も何一つ不自由しないから、義務として外国語を学ぶ必要はないが、ただ身につけておくと極めて便利なのは事実であり、その意味で外国語を学ぶことはおすすめしたい。が、必要性がないなら、身に付くことはほとんど無いと言えるので、学んでも成果が上がらないと思ったら、止めた方がよいとは思う。

by ロクスケ











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ながら作業

作業と言うには大げさだが、一つのことをしながら他のこともするなどは日常でいつでもあることだろう。私でそれが言えるのは、何かしながら耳で情報を得ると言うことだろうか。具体的に説明すると、歩きながら、或いは掃除などの作業をしながら耳で他のことを聴いて単に聴くだけではなくそれを仕事として為す事を言う。散歩をしながら語学学習のために教材を聴くなどがそれに当たるのではないか。

歩くという行為は、別に考えながらすることではなくいわば身体が自動的にしている行為だ。歩きながら常に目は周囲を見、段差がないか、水たまりがないか障害物がないかを確認し、もしそれらが有れば避けて歩くように足を動かす。別に意識しているわけではない。道路を横切るときは車が来ないかを目で確認しているが、それを本当に意識しているかどうかは分からない。つまり殆ど無意識にそれらをやっているわけだ。

そのような時、私がながら作業としてするのは聴くことだ。私はICレコーダーを今まで4台ほど買い替え使っている。音楽プレーヤーも同じくらい買っているが、むろん音楽プレーヤーは様々な音楽を聴くためだ。が、ICレコーダーの良いところは、自分の音声を録音出来ること、外部電池で、内部電池の寿命を気にする必要が無く、いつでも電池を替えさえすれば使えること、そして細かくフォルダーで整理出来、必要な音がいつでも選んで聞けることにある。音質は、恐らく専用の音楽プレーヤーが優れているのかも知れないが、どのみち専用のステレオプレーヤーで再生するのでない限り、音質をとやかく言うような事ではないし、そもそもイヤホンで聴くだけなら音質を問題でもすることではない。つまり音源を順序立てて聴ければそれで良く、私はもっぱら語学学習に使っている。

幸い、今ではネットで外国の報道や映画、音声をいくらでも手に入れられるし、それを音源としてICレコーダーに入れて聞き流していると耳が慣れてくる。最初聴き取れなかったフレーズが部分的にでも聴き取れるようになってくる。それが目的で、歩きながら聴いているわけだ。

これは結構役に立つようで、知らない間に自分の外国語聞き聴き能力が上がっているのを自覚するとやはりうれしい。ながら作業は充分実用になると思う。

by ロクスケ











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綺麗な文字を書きたい

私は文章をかなり大量に書く。毎日書いているが、今はもっぱらパソコンで書いているので、手書きの文字は本当にメモくらいでしか書かない。昔は、文章を頭の中で作ってはそれを直ぐに文字にしていた関係上、極めて汚い走り書きが常だった。仕事できちんとした文書を書くにも本当にまともな字が書けなくてずいぶん苦労した。おかげさまで、速く書くにはかなり自信があり、一時間で400字詰めなら数枚から10枚ほど書ける、が、後で自分でも読めないことがある。

余談だが、アルファベットはかなり綺麗に書ける自信がある。昔米国人に、なんて綺麗な字を書くんだと感心されたが、文字の汚いことで有名な米国人に言われてもさほど嬉しくなかったし、当時も普通はタイプライターで書いていたから手書きは余り書かなかった。

これではならじと一念発起して文字を書く練習をしたのだが、あまり成果が上がったとも思えない内にワープロを使うようになり、そして今はパソコンで殆どの文章を書いている。結局、少しはましになったかと思うような文字も今は昔以上に汚くなっていて、たまに葉書などを書いてみると自分でも嫌になる。

今後、ますます手書きで文字を書くことは少なくなるだろうし、確かにパソコンで書き慣れるとそれを手放す理由がない。が、敢えて、最近文字の練習を始めた。

精々一日に30分程度だが、どれほど効果があるかは分からないし、そもそも手書きをしなくなったのだから意味があるかどうかも分からない。が、今の自分の文字の汚さは、自分でも辟易している、それと、漢字を忘れていることがあまりに甚だしいからだ。常用漢字で常識とも思える文字が書けなくて愕然としたことがある。

今、文字を綺麗にすることがブームになっているそうだが、昔と違い文字を手で書くことは一般でも少なくなっている。それだけ、みんなが文字を上手く書けなくなっていることを気にしているからではないのか。

私が文字を練習し始めたのは、実用性もあるがむしろ頭の体操の一環という意味が大きい。なにより、少しでも練習の成果が上がって綺麗な文字が書けたときなどは嬉しい。それだけでも練習をする価値はある。精々数ヶ月、毎日2,30分の練習で済む。

それと、今までパソコンで作っていた文書を手書きで書いてそれを画像にして保存する、必要に応じて変換ソフトでテキスト文書にするなどが出来るのではないだろうか。

by ロクスケ











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達成感

前回書いたことなのだが、最近文字を綺麗に書く練習をし、このところ特にその成果が上がってきたとの実感がある。むろん、綺麗になったと言っても以前の私に比べてと言うことであって、世間一般の達筆な人と比べているわけではない。改善したとは思うが、本当の達筆な人の文字に比べればいかにも稚拙な感じはぬぐえないし、なにより流麗さがない。本当の達筆とは、さらさらとあたかも走り書きをしているように見えながら、その文字が相互に美しく連携し、バランスが取れ、読んでも全く引っかからない。

私が自称綺麗になったとする文字は、丁寧に書けば一文字一文字が確かに昔に比べ格段に整っているが、全体の釣り合いが上手くとれていず、読んでも文字に引っかかるような感じがする。なにより、さらさらと走り書きなど到底出来るレベルではない。が、これも練習を続けていれば改善するだろう。今のところ、“昔に比べて”格段に進歩したとの達成感はある。言い換えれば昔の文字が如何に酷かったかと言うことなのだが。

同じ様なことが語学でも言える。昔、仕事で英語を毎日使っていた頃は、会話でも不自由を感じたことがなかったが、仕事を離れてからしばらくしてネットを使うようになり、ネット上の英語の情報やなにより動画を観るようになって自分の英語能力が極端に落ちていることに愕然とした。何年も話していなかったのだから当然だろうが、動画などでの英語が聴き取れない。

そこで、せっかく身につけた能力を失いたくないと思い、すこし積極的に英語のブラッシュアップをしたらかなり改善し、今では普通の動画はそのまま聴き取れるし、映画も別に字幕は要らない。それならばと、フランス語の学習を始めた。フランス語は英語ほどの能力もなかったのだが、やはり学習をし始めてから確実に能力が上がり、今では動画も簡単な物は聴き取れるようになった。面白くなって、ドイツ語やスペイン語、中国語など昔身につけた外国語を再学習している。

ただし、これも以前書いたが、今の私が英語もフランス語もその他の言語も仮に使いこなせるようになったところで使い道がない。その意味で無駄と言えば無駄だが、言語とは思考の道具であり、普段日本人は日本語で物を考えているが、英語など他の言語で考えているときは日本語とは別の脳の部位を使うので脳トレになるそうだ。それが事実かどうかは知らないが、確かに英語で話し聴きしているとき、日本語で話しかけられても聴き取れないことは間々ある。脳の別の部位を使うから脳トレになるとは本当なのかも知れないとは思っている。が、なによりの収穫は達成感だとおもっている。文字を綺麗に書く、外国語を身につけるなどなどむろん完全無欠とは言い難いが、それなりに成果が上がる事が分かれば達成感も得られる。実はそれが何よりの目的だと思う。

何でもかんでも無目的で手を出し続かなくなるのは問題だが、やること自体が目的の物なら何時どのようにやっても成果が得られるし、達成感が得られるならそれだけでも極めて大きな収穫だと思っている。

by ロクスケ











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目的を絞る

私は昔から様々なことに興味を持ち、その時その時に興味をそそられたことに取り組み、あっと言う間に飽きて次の事に取り組むことを続けてきた。おかげさまで、広く浅い知識は持っていると思うが、深く掘り下げた知識や技術は無いと思っている。ただし、場合によっては興味の対象に異常な集中心をそそいで成果を得ることもあり得るので、深い専門知識を持つ事もあり得るが、それが仕事に生かせない限り、仕事一般で極めて大きな問題になることが間々あった。

今現役を離れ、自分なりに興味の赴くままに生活をしているが、これは結構楽しい。年齢の割にパソコンやネットについてはかなり詳しく、また新しい技術が日々生まれているが結構それを取り入れることも出来る。自分の要求に合わせて自分のパソコンを設計し作ることもやっているが、ネットもそれなりに使ってかなり生活に役立てている。

語学は、現役を離れてからは使うこともなくなりかなり能力が衰えたと思っていたが、ネットで使うようになってからはそれなりに能力が回復したと思っている。今数カ国語を折に触れてブラッシュアップしているが、やはり進歩したと自覚出来れば楽しいし、何度も書いているが現実の仕事などでは殆ど使うことなど無くとも、語学を学ぶことはその特質上かなり優れた脳トレになっているのではないかと思う。

また電子工作や木工などにも打ち込み、今では工作室を持って様々な物を作りそれをホームページに掲載したり動画を作ってアップロードしたりしている。

結局、実際の仕事に役立つことはなくともそれらが生活を豊かにしているなら十分に打ち込むメリットはある。今はそれに目的を絞ってそれらをやっているわけだ。到底テレビなど観ている時間はないし、だからとうの昔にテレビはお払い箱にしている。

結局、興味のままに色々やるのも、最後には絞って生活を豊かにするために好きなことをやる。これで得られる物は極めて多いと思う。

by ロクスケ











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パソコンを活用

今の私の生活はパソコンがないと成り立たない様になっている。聞くところに拠ると、若い人のパソコン離れが進み、殆どをスマホで行うために就職しても仕事でパソコンを使えない人が増えているそうだ。私もスマホは持っているが、パソコン代わりにはならない。たしかにスマホは便利だが、パソコンほどの能力もないし、文書もまともに書けない、図形もかけないなどなど、到底パソコン無しでは何も出来ないと言っていい。図面を描いたり複雑な文章を書いたり、表計算をしたり動画を観たり情報を集めたりなどなど、使い方はいくらでもあるし、現実にテレビも見なければ新聞も取っていない私にとって、パソコンだけが情報収集源だが、むろん、ネット情報の大半は嘘であり、まともに受け取る訳にはいかない。が、圧倒的な情報量があり、しかも英語など他国語の情報源を合わせると無限と言っていいほどの物を付き合わせて整合性を探れば、自分なりに情報の真偽を判断出来るようになる。

情報源として採り上げても、今までのような限られたマスコミ報道などと比べる意味さえないと言える。ただし、自分で真偽を判断出来る能力がなければ良いように騙されるだけだが。

今では私はブログを開設し、HPを開設し、動画発信もしている。かつては全く考えることも出来ない事がパソコンとネットで出来るようになった。

また様々な書籍を探したり、著作権の切れた古い書籍や音楽ををダウンロードしたり聴いたり古い映画を観たりで、どれほど昔に比べて情報の選択肢が増えたか分からない。今、私は語学を再学習しているが、これもネットにどれだけ助けられているか分からないし、昔意味も分からずに聞いていた歌などが、改めて感動をもたらしてくれるなども、それなりに語学学習が効果を上げているのだろう。

私の同年輩の人達でネットやパソコンが全く駄目という人が多いが、私は仕事柄初期から親しんでいたことで今も自分で必要な使い方は十分出来ている。本当に幸いだったともうが、もし今苦手なら少しでも使い方を身につける努力はした方がよいと思う。

by ロクスケ











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筆記具中毒症

私は昔から物を書くのが好きで自分専用の原稿用紙などを作り、様々な物を書いていた。それが当然書き心地の良い筆記具を探し求めることになり、折に触れて万年筆、ボールペン、鉛筆そしてシャープペンシルを買い替えていたのだが、自分でも無制限に筆記具を買うのは止めなくてはならないと思っていた。

更に、パソコンをかなり早い時期から使っていたがそうなると紙に筆記具で何かを書くことがめっきりへり、今では殆どメモくらいしか紙に書くことはないし、場合によってはそのメモさえスマホに書いたりしている。

むろん、パソコンで書くことにより記録が残り、編集が極めて楽であり、書いた物を整理しやすくなったのだから、今から紙に文章を書くことなどほとんど無い。が、それでも筆記具好きは収まらず、先日あらゆる場所から集めた筆記具を眺めて思わずため息をついた。おそらく鉛筆は数百本、シャープペンシル、ボールペン等々も恐らく数百本、色鉛筆も数百本あった。鉛筆などは、削りながら使うから当然短くなった物が多いが、それでも新しい鉛筆を買い続けている。ボールペンもそうだし、シャープペンシルはノックしなくても自動的に芯を繰り出す物などをみつけると取り敢えず買ってしまったりする。

デスクの上のペンスタンドや引き出しにも既に100本では利かない筆記具があるが、これはもう中毒なのだろう。

ところで、以前も書いたが、パソコンで書くようになって自分の文字が極めて汚くなっているのが気になり文字練習をしているが、少しは効果がある。となると、綺麗にかける筆記具がまた欲しくなる。使いもしないペンや鉛筆がまた増えるのだろうが、まあそれほど高い物でもなしこれくらいはしょうがないかと諦めている。ただ、語学学習の時は、書くことも覚えるためには必然なので、これには書きやすいシャープペンシルや水性ボールペンが役だってはいる。

実際たまに書く葉書などは、決まって万年筆を使っているのだが、今はインク一瓶がもう10年経っても使い切れていない。

実は、筆記具だけではなく、ノートも少々中毒気味なのだが。

by ロクスケ











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物作りの効用

日頃から私が色々な物を造っていることは何度も書いているが、物作りだけではなく家の改修なども出来る限り自分で行っている。当初は到底素人には無理だと思っていたことも、いろいろネットなどで調べてみると結構自分で出来るものであり、考えてみれば自分で家を建ててしまう人もいるのだから、家の改修など別に不思議ではないはずだ。ということで、今まで外壁の塗り直し、床の貼り替え、襖や障子などの自作、電気工事などなど様々なことをしてきた。少しずつこつも分かり、今では大抵のことは自分で何とかなると思っている。

むろん、工事に資格の必要なものもあるし、また生半可な知識でやれば危険を伴うこともある。電気工事などはそうだろう。だから、壁を壊して配線などはしないが、資格の要らない範囲での工事だし、水道工事なども下手にやれば水漏れなど後で大変なことになるから、いつでもチェック出来る範囲しかやらない。さらに、ガス工事などは一切しない。

何時だったか、家の外壁の塗り替えを業者に見積もり依頼したところ、予想したとおりかなりの金額だった。そこで、自分で高圧洗浄装置や塗料などを買いそろえ、自分で外壁塗装をしたのだが、悪戦苦闘した結果、何とかきちんと塗ることが出来、コストは業者見積もりの十分の一以下に収まり、そして壁洗浄に使った高圧洗浄装置が手に入るというおまけも付いた。

今は家具を作るなどはしない。古い家具が邪魔なのでばらして処分したくらいだし、造っても置き場所もないからだが、ただ、使いやすいものが欲しかったので自分用のデスクやそれに合わせたプリンター台などを最近造り、非常に気に入っている。今まで使っていたデスクは、今では二台のデスクトップパソコンや大型モニター二台、プリンター二台などで到底小さくなったからで、部屋にマッチしそれらを置けるデスクなどおいそれと無いし、有ったとしてもびっくりするほど高い。

家の改修やデスクの作成など、むろん今まで何もしたことのない人がいきなり出来るわけではないだろうが、だから最初から出来るはずがないと決めつけることもない。

やはり普段から物作りをしていれば、その辺りの考え方も変わるし、そして楽しみでもあるし、さらに節約になる。物作りは単なる趣味なのではない。

by ロクスケ











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小説を書く

私は幼い頃母に絵本の読み聞かせをして貰い、何度も同じ話を聞きながら興奮していたのを覚えている。なにしろ、絵本の話を全部事実だと信じていたのだから当然だろう。しばらくしてそれらが事実ではないことは理解したが、興奮していたことは変わりなく、自分で文字が書けるようになるとせっせとお話を書いた。おそらく、文字で書かれたことは事実である必要はないとでも思っていたのではないか。

恐らくその頃に始まったと思うが、日記を書き始め、その日記には自分の願望や想像を好きに書いていたのだが、本来それは日記とは言わないはずで、母に得意になって見せ、母は恐らくずいぶん困惑していたのではないか。

むろん、文字で書いたことも事実でなければならないときと、事実と関係が無くても構わないときがあり、それは読む人間が判断すればよいこともじきに学んだ。がそれを学んだ後でも、日記とは本来自分一人の為の物であって、他の人間に見せる物ではないことも学んでいたので、相変わらず私の日記には想像と願望、作り話に満ちていた。

日記は文字が書けるようになってからかなり続いているし、途絶えることもたびたびあったが、今でも書き続けている。当然昔はノートに鉛筆などで書いていたが、今はパソコンで書いている。ただし、今の日記は事実だけであり、作り話は小説で書くようにはなった。

小説だから、好き放題の想像、作り話だが、書いてみると、結構すらすらと書ける。質はともかく、頭の中の会話、文章をそのまま書き写すだけの作業であり、子供の頃から絶え間なく続けているので正に息をするように出来る。嘗ては紙に文字で書いていたのだが、その頃の作品には400字詰め原稿用紙1020枚などとという物もあり、せっかくなのであとでそれをパソコンにテキストファイルで保存している。

一時期、毎日一作の作品を書く事を決め、実際に3年間ほど毎日一作ずつ書いた。結果として1000作以上の作品が貯まったが、それぞれ大半はテキストファイルで数キロバイト程度、400字詰め原稿用紙3,4枚程度だ。長い物はそれでも原稿用紙300枚程度にもなる。

さて、私がこれだけ書くのは、あくまで脳トレのつもりでいるからだ。むろん、娯楽でもあるが、書くことで自分が考えている事をまとめることも出来るし、記憶に残すことも出来る。書くと言うことはやはり脳の活性化を促す極めて有効な手段だと思っている。身体が若くても脳が老いては仕方がない。その意味で、物を書くことは脳を若く保つ有効な手段なのだろうと信じているし、なにより面白い。人から見たらどれほどの効果があるのかは分からないが、自分でそう思っているのだから、まあ良かろう。

但し、書くことになれると、確かに殆ど自動的に書けるが、まとめないで書きっぱなしという弊害もあることは有る。それは気を付けなければなるまい。

by ロクスケ











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通販の利用

最近は色々な物が通販で買えるために店舗を構えている業者が大打撃を受けているという。客の中には店舗に来て品物をチェックし、その上で通販で買う。その方がかなり安いからだが、私自身最近はかなり通販で買う物が多くなった。主として工作の材料などが、それらを専門に売っている店が近くにあるわけではないし、まとめて買うなら買いに行く交通費や時間を考えると通販の方がよほど便利だし特だからだ。

通販には産業構造を全く変えてしまう面があり、これはこれで問題なのだが、確かに通販によって私などは大きな利益を受けている。ただ、あまりに便利になり、要りもしない物をついワンクリックで買ってしまうようなことはやはり多々あり、心してコントロールしなければならないとは思っている。

実は、以前、私自身通販ではないがネットを利用して商売をしていた。今はその仕事はしていないが、最近やはり同じ様なことをして利益を上げることを真剣に考えている。物作りをしていて、他にはない物を造ってそれを自分のサイトや動画サイトなどで宣伝しそれが売れれば利益が上がるのではないかと目論んでいるわけだ。それが実現するかどうかは別として、是非やってみたいと今それに取り組んでいる。それも、他の業者と価格競争をするようでは絶対に利益など上がるわけがないので、他では真似の出来ないもの、そして興味を惹く物、付加価値の高い物でなければならず、色々考えていくつかに絞り込んだところだ。

実現するかどうかは分からない。が、それなりに実現性はあると思えるようになってきている。そんなことを考えながら色々進めてゆくのはそれなりにかなり楽しいし充実もする。

by ロクスケ











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テレビを捨てる

全くテレビを観なくなってから数年は経つと思うが、未だにテレビアンテナが屋根の上にあり、そのためか集金の人が来る。そのたびにテレビはない、と主張しているのだが、テレビ自体はとうの昔に処分してしまって存在していない。

普段はBGM代わりにラジオをかけているがそれも殆ど聴いてはいない。以前、テレビを観ていた頃は、何を観たのか殆ど記憶に残らないし、気が付いたら2,3時間もテレビを観ていて、終わった後は時間を無駄にしたといつも後悔していた。

そこで、ある時思い立ってテレビを物置に放り込みその後完全にばらして工作用の部品取りをした後、小分けにして細かく砕き、燃えないゴミで出してしまった。非常にさばさばしたのを覚えている。

未だにテレビを観たいなどと思ったことはないし、今まで無駄にしていた時間、物を造ったり本を読んだり掃除をしたり散歩をしたりと有意義に過ごしている。なぜテレビがあるのか不思議にさえ思う。何かの役に立っているとは到底思えないのだが、むろんそう思うのが当たり前ではないことは理解している。

私の周囲にも、日長テレビを観て過ごしている人がいる。むろん、本人がそうしたいのだから脇から余計なことを言う必要はないが、テレビを一日観ないで過ごせばどれだけ時間が有意義に過ごせるか、どうして試してみないのだろうとは思っている。

by ロクスケ











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出来ないと思わない

今住んでいる家は筑後何十年も経つ古い家で、方々にガタが来ている。そこで、様々な場所を修理しなくてはならないが、例えば先年一部屋の床が落ちてしまい、どうやら土台辺りが腐っているらしい。専門業者に頼むと数十万円かかるので、駄目元で自分でやってみることにした。幸い、大工道具などは一通り持っているし、そして工事の知識はネットでいくらでも得られる。

と言うことで床をめくり腐った根田を取り替え、土台の一部をコンクリートで作り直し、床板を交換し完全に直した。コストは専門業者に頼む二十分の一くらいで出来た。これに気をよくし、例えば外壁の塗り直しをして、これも専門業者の十数分のコストで出来た。

その乗りで、壁の塗り替え、障子の作り替えなどなど様々を行っている。今年は、是非とも屋根の塗り替えをしたいと思っているが、そのための様々な準備を今からしている。

壁の塗り替えなどについては以前も書いているが、最初から素人には到底無理と諦めるべきではないとつくづく思い知った。むろん、手際は専門業者に及ぶべくもないが、自分で満足出来るなら構わないし、浮いた金で旅行などが出来るのだからよほど良い。

ただし、これも書いたかと思うが、資格のいる工事、例えば本格的な電気工事ガス工事などは自分ではやらないが、それ以外なら駄目と思う前に出来るかも知れないと確認すべきだろう。

こんなリフォームだけではない。料理などでもとにかくやってみれば案外出来るものだし、自分で着る服などもそうだろうし、物作りなどは全てそういえるのではないか。私は自分で様々な物を造るが、そのための工作機械や測定装置などは買えば非常に高いが、私は専門職ではないし、使用頻度なども極めて低いからそんな高い機械や装置を買っても仕方がない。ということで、自分で様々な機械や装置を作った。駄目と思い込まず、とにかく自分でやってみる事が何事でも大切なのではないか。

準備をし、調べ計画を立ててやってみると、思いがけないほど難しいと思っていた物が出来る。それに成功したときの達成感は何物にも代え難い。

by ロクスケ











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ノート、手帳、メモ


以前にも書いていることだが、私はメモを常につけている。以前会社勤めをしていた頃などは、メモは必須であり、仕事用のノート、常に持ち歩く手帳、そして家にいる時でも手放さず夜は枕元に置いていたのがメモだった。

会社でもパソコンを使うようになってノートの出番はかなり減ったが、何かのテーマをまとめて整理したり情報を集めたりするのにはずっと使っていたし、今でも使っている。手帳は余り使わなくなったが、それでも持っている。そしてメモは未だに以前と変わらずに使っている。

生活上でも何かを計画立ててやるときや、旅行に行くとき。何かを作るときなども、その内容をノートに書くなどは自分の考えていることをまとめるには欠かせない作業であり、例えば今年も十日間ほど旅行をするつもりでいるが、限られた日程でどこに行くか、何をするか、誰に会うかなどをまとめ、目的地の情報を調べ、旅程を調べ、航空券やホテルの予約などを決め、タイムテーブルを造る。そのためにはノートが一番使いやすいし、当然旅行でもそのノートは持って行く。

手帳は、todoや時刻表、アイデア、などなど短期間保存しておく記録、そして、メモはその場で何でも書き込むその場限りの記録用に使う。メモの中から、記録として残しておくべき物は手帳に書き移し、またノートにまとめて置いた案件の補足としてノートで整理することもある。

ネットなどを見ると、様々なノートや手帳、メモなどが紹介されているし自分で作り方を紹介している動画なども多くあるが、嘗ては私も自分で様々工夫して造ったりしていた。が、今ではそれこそ、一番簡単な罫線を引いただけのノートと手帳であり、そしてメモはむろん、白紙をつづった物だ。それが一番使いやすいし、そして最終的にはパソコンの中で整理しまとめている。

パソコンは、紙のノートには書ききれない様々な情報をまとめておけるし、ネットと連動すれば、単なるノートとは比較にならないほど便利だが、結局その基はメモであり、手帳であり、手書きのノートだと再認識している。メモやノートを使えないなら、パソコンもろくに使えないと最近は思うようになっている。

まして、スマホをメモや手帳代わりに使う気には全くならない。

by ロクスケ











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英語を学ぶ意味

英語に限らないが、外国語については何度か書いている。もう一度整理してみたい。

私としては、日本人が英語を学ぶ必要は基本的には無いと考えている。なにしろ、日本語だけで世界でも特殊と言える独自の文化を築き上げ、歴史を支え、そして近代化を成し遂げ、さらに現代でも先進国として高い技術、経済力を築き上げている。そもそも、日本は開国後急速に発展し、4半世紀の内に世界の強国に列せられている。

それらは全て日本語だけで行われ、そして行われ維持され更に発展している。自国語だけで最高レベルの教育を行える国はざらにはないし、今も日本語だけで世界最高水準の教育を受けられ情報を受けられる。日本人が英語下手なのは世界でも有名だが、必要がないのだから上手になる理由がない。

途上国などでは英語が話せなければ教育も受けられず就職も出来ないから、英語はより良い生活のためには必須なのだ。だから嫌でも英語は短期間に上達する。英語ではないが、日本に働きに来ている途上国の人々は非常に短期間に日本語が話せるようになり、三ヶ月も有れば日常会話には不自由しなくなる。

さて、今日本では英語教育が必須であるかのように喧伝され、小学校から英語教育をすべきだ等との意見があるが、言語とは思考の道具であり、日本語をしっかりと構築しなければならない幼少期に外国語でそれを乱すなど、百害有って一利もない。

私としては、学校教育に英語を取り入れる必要など一切無いとさえ思っている。その分きちんと日本語教育を行うべきなのだ。それでなくとも現代の若い世代の日本語は信じられないほど衰えているし、ライトノベルなどで褒めそやされている日本語の幼稚さは到底読む気にもなれないレベルだ。

とは言いながら、私自身英語はある程度使えるし、実際にネットでYoutubeなどは英語の物をごく自然に観、理解しているつもりだ。が、これは私が仕事上必要になって、社会に出てから自分で学んだのであり、無論学校でも英語は習ったが殆ど役に立つレベルではなかった。必要になってから自分で学び始めても充分英語は身に付く。文法も要らない。発音も不完全だろうが、完全にする必要など無い。とにかく聴き、真似をしそれを繰り返すだけであり、まして外国に一人で行った場合などは嫌でも身に付く。三ヶ月も有れば生活は出来るし、専門的なディベートなどでも一年でおつりが来る。大体が、アメリカ英語もイギリス英語も身につける必要はなく、国際語である英語が身に付けばそれが一番良い。しょせん、アメリカ語もイギリス語も国際英語の方言でしかないのだから。

言い換えれば、そのような必要性がないなら、英語など100年学んでも身には付かない。無駄だからやるべきではない。趣味ならそれでも止めろとは言わないが。

むろん、一度身につければ英語が便利であるのは間違いなくお陰で日本語では得られない情報が得られるなど、その利益は計り知れないが幼少期から日本語能力を犠牲にして身につけるべき物ではない。そんなことをすれば、日本語情報理解が出来なくなるだけのことだ。

さて、外国語の学習にはもう一つメリットがある。言語は思考の基本的ツールであり、外国語を身につければ思考方法に幅が出来る。日本語で、どうやっても他国には訳せない表現があるが、たとえば侘寂(わびさび)等まず外国語に訳すのは不可能だろう。逆に外国語で日本語に訳せない言葉も数々あるだろうが、そもそも日本人にそれを理解する必要性がないからだ。

外国語の本を読んでみて、むろん外国語理解力の不足があるからだろうが日本語で考えることが出来ない場合があり、そのようなときは外国語で考えるしか仕方がない。もともと、外国語を話すとき、日本語で考えてから外国語に訳して口に出すなど実際の会話では不可能であり、外国語で考えているのだ。極めて未熟なレベルだが、それでもフランス語、ドイツ語、スペイン語などはそれぞれの言語で考えている。だから会話が成り立つ。

これは脳の言語中枢を中心にかなり刺激しているのだろうと思っている。その点で、語学の勉強は終生役立つと思っているから、私は未だに学んでいる。が、そうでないなら、日本人が英語も他の言語も学ぶ必要など無いし、まして貴重な若年の学習期にそんなことで時間と知力を無駄にすべきではないと信じている。

仕事などで使うのでなければあとは趣味としてやる分には問題もないだろうが、趣味としての語学など絶対に実用にはならない。

by ロクスケ











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優先順位を確認する

私のノートにはtodoリストが増え続け、今は多分100件を超えている。むろん、そんなtodoを全てこなしていたらまともな生活が出来ないので、その中で優先順位を常に決め、単なる思いつきで、それが出来なくても生活の質が変わらないならそのtodoには末梢線を引く。

それがいつも上手く出来ているなら問題はないのだが、大概その優先順位を間違うのだ。思えば私の人生で、この優先順位を間違ったために失敗したことがどれほど多くあったかはいつも痛感しているのだが、それでも同じ失敗を繰り返しているような気がしてならない。

むろん、自分でやらなくとも金を出せば出来ることは無数にあるが、その金が無ければ自分でやらなければならなくなる。

基本的に今私が最優先しているのは生きてゆく目標を如何に達成するか、そのための手段は何かなのだが、当然そのためには健康でなければならないというのは常日頃ここにも書いているとおりだ。また、生き甲斐を持てるためにはそれを意識する知力が必要であり、つまりは脳の活性化も絶対に必要になる。

ただし、健康と脳の活性化はあくまで手段であり、それが目的になってしまっては行き詰まる。健康になり頭が働くようになって何をするか、何のために何をするのかは常に意識の中にある。

私が何歳まで生きるかは知らないが、人生100歳時代と言われ、確かに昔よりも健康な年輩者が増えたが、ただ健康で長生きしているのに、例えばただテレビを観て一日を過ごしているような人達も増えているような気がする。絶対にそうなるものか、とかなり以前にテレビをたたき壊して捨てたが、それで私の生き甲斐が新しく生まれたわけではない。

かなり話がずれたが、優先順位を決めるとは、実は何のためにやるのか、それで自分が充実するのかを理解しながらやるべきなのだ。が楽しみも無論生き甲斐であり、そのためにやってもやらなくても良いような小さな事を為し遂げることもまた有意義であり、全てが効率最優先というわけでもない。つまり、私の優先順位決定基準はいつもふらふらとしているようだ。

by ロクスケ











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災害に備える

日本は自然災害大国であり、地震や台風、津波、火山などなど、よくもまあこれほどの災害が集中して起きる国だと思わざるを得ない。無論、環太平洋火山帯の真上にあり、四つの大陸棚がぶつかり合っている場所の真上にあり、そして台風の進路にある。実際世界で起きる大災害の多くが日本に集中していると言って過言ではない。このような状況が理解されたのはたかだかこの100年かそこらのことなのだろうが、だからといって国ごと引っ越すわけにはいかず、いつ前触れなしに大災害が襲ってくるかはわからないが、確実にその日は来ることを前提として生活をしてゆくしかない。

自然災害を科学で押さえ込むことは少なくとも見通せる将来、不可能なのであり、それなら災害が起きたとき被害を最小限に抑える努力をするしかない。むろん、それは国家としての義務だろうが、また一人一人がそれに備えておかなくてはならないのも当然だろう。

日本の地理的条件から地震や火山活動、台風などは避けられないことがわかってから、建物の耐火性、耐震性が高められ、現実に例えば過去には台風で数千人から万単位の人が犠牲になっていたのが、最近では数名単位にまで減ってきた。今後も、それなりの対策が国としてなされてゆくのだろうが、個人としても非常食などの蓄え、災害時の家族の連絡方法、持ち出し品の用意、消化器の備えや失火への警戒、家具の固定など思いつくだけでのかなりの準備ができる。当然そうすべきではないか。むろん、それでも直下型地震などだったら大きな被害どころか命さえ失いかねないが、それでも何もしないのと自分でできる最大限の準備をしておくのでは結果として大きな違いが出てくるはずだ。

最近の大阪を襲った大地震に際し、つくづくそう思った。

by ロクスケ











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しゃべくりの練習

身近なのでまた引き合いに出すが、どんな言語でも使わないとその能力は急速に落ちる。私の場合、英語は現役時代は正に毎日使っていて、場合によっては日本語よりも使っていた時期があり、おそらくその頃は意志の疎通に殆ど不便は感じていなかったに違いない。退職して英語を使う機会が無くなり自分でも極端に英会話の能力が落ちて残念だと思っていたし、その後ラジオで英語放送をかけっぱなしになどしていたが、話す機会は相変わらず無いままだった。それでも可能な限り読んだり書いたり聴いたりはしていたがいかんせん話す機会がないために全体の英語能力は相当落ちたままだ。それは今ネットの動画などで英語に接していても同じ事なのだが、実際には仕事と違い英語が必須なのではないから不便を感じていたわけではない。いずれにせよ、読み書き聴きの能力はそれなりに、あくまでそれなりに維持出来ているつもりでいる。嘗てほどではないにしてもたまに英語を母国語とする人間と話してもまあまあ意志の疎通は出来る。

しかし、ふと考えてみて日本語能力、それも会話能力が相当落ちていることに気が付き愕然とした。まさか、母国語である日本語の能力が落ちるなどと想像したことがなかったのだ。本を読んだり、文章を書いたりラジオを聴いて理解することは出来る。が、以前と違い話す機会がめっきり減っているのだ。近所の人と立ち話をしたり買い物で話したり、家族と話しても別に以前のように蕩々とまくし立てたり相手を説得する必要などもないから、当たり障りのない話しかしていない。

そもそも言語とは思考の道具であり、人間は殆ど言葉で考えている。イメージも使うが、理論的な思考はあくまで言葉によるものであり、言葉が貧弱な人間は例外なく思考能力が低いと断定して構わない。それは、私たちが英語やフランス語で考える場合を想像してみれば分かる。嘗てはともかく、今英語で考えても(英語を話しているときは英語で考えている)もどかしいほど思考出来ないことは当たり前にある。母国語ではないのだから仕方がないとは思うが、しかし母国語である日本語でまともに思考出来ない様になっていたとしたらそれは仕方がないでは済まない。

それを補うために本を読んだり文章を書いたりしているわけだが、自ら話すことも積極的にしなければならないのではないかと思い始めている。とは言え、相手が居るわけではないし、例え居てもいきなり小難しい話で論争を仕掛けても相手にとっては迷惑だろう。

と言うことで、時々だが独り言でやってみることがある。到底人には見せられないが、たまに録音して後で聴いてみてどれだけ理路整然と話しているかをチェックするわけだが、まあ、今のところ落第点だ。

by ロクスケ











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しゃべくりの練習2

前回書いた記事の続きのようなものだが、やはり語学つながりで書いてみる。世の中には数カ国語どころか重数カ国語を話せるという人がいる。かなり前だが、日本人で三十カ国語を話せる人の本が出たことがあった。

が、現実のところ、母国語並みに外国語を話せるようになるのは至難の業だし、それをずうっと維持するのはもっと至難の業であり、そもそも外国語を話せるというそのレベルがどの程度のものなのかを明らかにしない限り、何カ国語を話すという人の話を聞いても余り恐れ入ることはない。

ただし、バイリンガル、すなわち幼少期から複数の言語を母国語として話していた人は、おそらくどちらも同様のレベルで話せるのだろうとは思う。

私の例で恐縮だが、英語は現役時代十分に仕事で使えるレベルだったと思うし、今でも映画は吹き替え無しで観て別に問題はない。本も普通に読めるとおもうが、だから日本語と同じレベルかと言えばどうもそうとは言えない。それが曖昧なのは、そもそも日本語でそれほど込み入った会話を殆ど日常ではしないからだ。

誰でもそうだろうが、普段家族と話しているとき、知人と話しているときに相手を説得しなければならないとか、相手の言葉を完全に理解するように努めなければならないほどの会話などしていない。と言うことは、外国語で話すときも仕事などで使わない限り、日常の日本語の会話程度の内容でしか話さないことが多く、それだけなら別に何年も艱難辛苦で学ぶ必要がないのだ。

そのレベルで私はフランス語もドイツ語もスペイン語も中国語も話すが、これは私が日常会話で話している日本語のレベルであり、私自身これを以て私は数カ国語を話しますなどとは到底言えない。

今まで全く接したことのない外国語でも、「今日は」、「私は○○です」、「今日は天気がよいですね」、「ありがとうございます」、「さようなら」くらいの言葉なら多分一,二時間で覚えられるのではないか。このレベルで話せると言えるなら、恐らく私は十カ国語くらいは話せると威張れるのだろうが。

簡単な買い物ができ、レストランで注文出来るくらいのレベルなら誰でも一,二日の練習で出来るだろうし、普段私たちが近所の人と立ち話をするくらいのレベルなら、一週間も有れば覚えられるだろうと思う。そのレベルで話せるというなら、十数カ国語を身につけるなど、別に難しくはないのではないか。ただし、これでは到底仕事には使えない。

さて、長々とこんな事を書いたのは、母国語である日本語でも、普段の会話ではそんなレベルであり、それが思考の基になっているならつまりは思考のレベルもそんな物だと言いたいのだ。

何も普段から小難しい話ばかりする必要は全くないが、言語が思考の道具であるなら、それに使えるだけの言語能力を身につけ常にそれを維持出来磨く努力を積極的にしなくてはなるまい。外国語は使い続けなければあっと言う間にその能力が落ちる。しかし、日本語も同じであり、まともに使い続けなければまともに思考することも出来なくなると言うわけだ。やはりそのためにも本を積極的に読み、自分が何を考えているかを文章にしてみるなどの努力は積極的にすべきだろう。日本語が母国語だから衰えないと考えるの大間違いだ。

by ロクスケ











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予定に追われるのは本末転倒

何か予定を立て実行するのはあくまで自分の生活をより良くするためだが、場合によっては予定を消化するためだけで生活が全て費やされることはないだろうか。私は、時々そうなっているのではないかと思い至ることがある。

何度も書いているが、私はかなりこまめにメモを書いているし、そのメモを常にチェックし、優先順位を決め、実行予定をまとめたりしている。それでも気が付くとやらなければならないことが非常に多くなり、収拾がつかなくて結局どれもまともに出来ていないことが間々ある。

そもそも、それらの行動予定をまとめてそれに従い実行するのは、あくまで生活をより豊かにするためだ。が、そのための手段である予定に生活が埋まってしまうのでは、生活は豊かになるよりもそれだけで終わってしまう、もっとも豊かさから遠い生活になっているのではないかと時々思う。

視点を変えて健康についても考えてみると、私は私なりに健康に留意し、運動や食事などに気を付け酒も飲まずむろん煙草も吸わないがおかげさまで病気もせず身体は思うように動くし、その点非常に良かったと思っている。

ただ、生活の楽しみとして美食があり、遊びがあるということも理解しているつもりだが、時々健康が目的となっていて豊かな生活の手段として本来あるべき事ではないのではないかと考えることもある。ただし、私は嗜好として美食を追い求める要求もないし美酒に酔う誘惑を我慢しているわけでもない。別に美食も美酒も求める気持ちが無いのだから構わないのだが、人生を楽しむために健康を求めるのが、健康のために生きているような事になってはそれこそ本末転倒だろうとは思っている。

何かをするのは生活を楽しくするため、健康を保つのも生活を楽しくするためだが、何かをすることが目的となり、健康を得るために生活を費やしているならそれは違うと思う。

ということで、最近は何かの予定を立てたとき、それをすることで得られるメリットを常に考えることにしている。時間やコストを犠牲にしてそれに見あうメリットがあるかどうかということだ。もっとも、達成感もまた大きなメリットであるから、斬り捨てればよいと言うことではない。

by ロクスケ











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過ぎたるは

私はメインとして普段は2台のパソコンを使っており、さらに最も主として使っているのはOSがW7のものだ。結構使い勝手が良く、もう一台のW10のものはそこそこ使っているだけだし、そもそも本来W7のPCにW10を入れたので、充分機能が発揮出来ない。

そして、主として使っているW7機も、最近とみに速度が落ちてきて使いにくくなってきている。これは扱うデータが急速に大きくなってきたからであって、画像にしても動画にしても、そしてコピーをするにしてもとにかく苛々するほど時間がかかる。

またW7はいずれサポートが終わるので、W10に切り替えなければならないから、そこそこPCにW10を載せ替えたのだが、これがまた苛々するほど遅い。むろん、ハードウェアの機能が古いためもあるが、なによりW10には使いもしない機能が詰め込まれており、アップデート一つにしても本当に時間がかかる。全く使いにくいOSであり、ネット上でも評判は散々だ。

ゲームなどをするために余計な機能が付いているのがその一因とされているが、設計自体が良いとは思えない。が、不満ばかりを言っていてもしょうがないので、取り敢えず慣れのために置いていた今のW10機をお払い箱にして、かのうな限り新機能をカバーしているマザーボードやCPUなどなどを購入し、組み立てた。結構な値段がしたが、自分が必要としている機能を活かせるように組み合わせたのだが、思ったよりもスピードが上がらない。

基本的にOSに不必要な機能が入りすぎているのだ。速度も、感覚的には今メインとして使っているW7機と余り変わらないような気がする。むろん、実際はかなり速くなっているのだが、使い勝手がそうだと言うことだ。

これは例えば洗濯機や電子レンジ、トースターや掃除機など様々な機械に言えるし、PCで使っている様々なソフトウエア自体が、本当に使いもしない機能が詰め込まれている。どうせ今までも、これらの家電製品やPCのソフトウエアなど、説明書などろくに読まないし、色々いじくっていて使う機能だけ使うようにしているのだが、新しいOSでしか使えないソフトウエアを買うと、恐らく80%の機能は使っていないだろう。

なぜ、こんな無駄な機能を付け加え使いにくくしているのか理解出来ない。とは言え、実際には売る方として、消費者がどのような使い方をするか分からないので機能てんこ盛りにしたくなるのは分かるが、それも使いやすさを犠牲にしているなら本末転倒と言いたいのだ。現実に、単機能の製品がよく売れている事実もあるのだし。

ため息をつきながら新しい機械を使うしかないのが本当に苛々する。

by ロクスケ











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ユーチューバー

何を隠そう、私はユーチューバーである。ユーチューバーとは、説明するまでもないだろうが、動画サイトyoutubeに動画を上げる人のことを言う。日本にも、その動画が多くの人々に観られ、そこから上がる広告収入によって得られる報酬が年間数千万円などになる有名なユーチューバーが居て、世界ではそれが年収数億円などになる人々もいる。私も輝かしい記録を持っているが、それは2年以上前に上げた動画の閲覧者数が184名であり、その内の20位は私だ。

それはさておき、ユーチューバーに憧れてやたら動画をあげる人々が出てくると、動画の質は必然的に下がる。余り人のことは言えないが、中には他者の動画をそのまま完全コピーしたり、多少編集したり或いは複数の動画を組み合わせてあたかも自分の動画のように上げるものが出てくるし、あるいはただ文字で書けばほんの一,二分で読める文章を数分の動画仕立てにして流すものもいる。

また有名なユーチューバーの中にも、悪質ないたずらや、中には自分の子供に下剤を飲ませ泣いて苦しむ姿を上げる等といった鬼畜のような輩や犯罪を犯しその現場を動画に上げるなど信じられないメンタリティの馬鹿共もいる。

むろん、自分で苦労して作ったアニメやショートムービーなど、あるいは自分の主張を根拠を挙げて編集した動画などもある。ただ、そのような動画は一本作るにも大変な時間と苦労があるだろうに、いわゆるユーチューバーとしての動員数は上げられず、結局良くも悪くも話題になればよいとする質の悪い閲覧者を集めるのが元々の動機になっているとしか思えない連中が確かにいるようだ。

ネットは確かに情報源としては優れているが、閲覧する側にそれだけの見識と理解力があって初めて情報源として役立つ。嘘でも思いこみでも釣りでもそれにたかるような人間には、到底情報源としてネットを役立てる能力はないのだろう。

たまたまユーチューブのことを上げたが、ネット情報の大半は思いこみや煽り、嘘だと思っていた方がよい。ただ、ネットの最大の利点は、情報量が膨大であり、裏を取ることが出来るという点だ。一つの情報源だけではなく、複数の情報を付き合わせ矛盾点を探し出す、或いは確認するなどの作業がどうしても必要なのではないか。それはテレビや新聞では到底得られないメリットであり、それを理解した上で、ネットを情報源として利用すべきだとつくづく思う。無論そのためには、自分が基本的な知識を常日頃得ておかなくてはならないことは言うまでもない。

by ロクスケ











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自然災害に備えて

9月6日 朝の3時に北海道の胆振地方を震源とする大きな地震があった。震源地では震度7を記録し、これは北海道では初めての大きさだという。死傷者や建物崩壊などの被害は、こう言っては被害を受けた方々に申し訳ないが、それまでの阪神淡路の大規模火災や東日本震災の津波に比べ地震そのものの規模も小さかったし人口密集地では無かったためにむしろ少ない方だったと言える。が、特徴的なのは、それをきっかけに北海道の全域が停電になり、全戸295万戸が停電になった。つまり、送電が完全に停まり、そのために物流、交通、通信、などなどがすべて停まって北海道全域が機能麻痺に陥った。折からその前日に、北海道には滅多に来ない台風による被害もあった。

何しろスーパーにしてもコンビニにしても品物が無くなりそして補給も利かない状態になって、市民生活が破綻したと言えるだろう。他の国なら大混乱に陥り、略奪や犯罪が多発しても普通だが、日本国民の落ち着きぶりや冷静さがまたも国際的に話題になっている。

元々今年は少し異常で、記録破りの大豪雨、大地震、未曾有の強力台風の連続発生直撃更に火山まで、過去に無いほど自然災害が続いたし、この傾向が年々強まっている。おそらくこれが異常ではなく当たり前になって行くのでは無いか。

それはさておき、このような自体はいつ誰に降りかかってくるか分からず、そのための準備は絶対に必要だろう。最終的には自分を助けるのは自分だという意識を持たなくてはならないと言うことだ。

まず情報の収集が欠かせないが、なんと言ってもラジオが役にたつ。ポケットラジオなら電池で長く聴ける、そして予備の電池を持っていれば自分の置かれている状況がよく分かる。

携帯電話やスマホなども連絡手段には欠かせないが、災害時には不通になる事が多いので、ラジオには及ばない。また今の固定電話は停電になると使えないし、パソコンも同じであって、仮に電池でノートパソコンを動かしてもルーターやモデムなどが死んでいればネットにはつながらない。Wifiも同じ事で、やはりラジオに勝るものは無い。家族や知人との連絡に携帯やスマホも必要だろうが、つながらなくなっていたり電池が切れていればどうしようも無い。

それでも、スマホや携帯充電用のモバイルバッテリーは大きいのを持っていた方が良い。

また、灯りがあるのと無いのでは精神的に大きく違うので、懐中電灯やポケットライトをいくつか用意しておき、電池もそのために備蓄しておけばよく、出来れば充電電池にして常に充電状態にしておくと良い。LEDといえば、今はぶら下げるタイプの室内灯があり、これも電池だし、そのための充電電池も持つべきだと思う。

ガスが止まったときのためにカセットコンロ、最低限の飲み水確保で一人あたり3,4リットルの水容器、しかし中の水は最大3日で入れ替える必要はあるし、出来れば保存の出来るペットボトル2リットル入りなどを一人あたり2,3本確保しておいて、半年くらいで買い換えるなどしておくと良いのでは無いか。あとは、保存の出来る乾パンや缶詰、飴などがあれば後は水だけで数日は生きていられる。実際は、最低限の支援でも2,3日で受けられるのが日本だ。

あと、災害時にはコンビニや銀行のATMが使えず、カードも使えなくなる可能性がある。だから、当座の現金は常に持ち歩く方が良い。 なにより、そのような準備をしておくことで実際に災害に遭ったときの心強さが違う。心強さのためだけでも、最低限のそれらの準備をしておくべきだと思う。現実には外で被災したときなどは家にあるそれらの備えも当人にとっては無駄になるのであり、それでも準備をしておくことで得られる安心感はまた別物だろう。

by ロクスケ










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金儲けの話

私自身は現時点では何かの仕事で収入を得ている訳ではない。まあ、それでも多少の備えもありなんとか暮らしてはいるし、特に自分でも不足は無いと思っている。が、体が動き、それなりに頭も働いているなら何かを積極的にして金儲けをしても良いのではないかと以前から考えていた。

とはいえ、むろん今から起業するために資金を作ったり借りたりするなどは問題外であり、失敗した場合はその後の人生が破綻する。人と同じことなら、経験が無く資金も無く人脈も無い私が新規参入で成り立つわけが無い。人がやらないことで私が得意な分野だと良いが、やる人が少ないとは需要が無いことを意味し、そして私が特に秀でて人よりもできることなら無い。電気関係の仕事をやっていたので一般人よりは知識もあるだろうが、到底進化の激しい現代、現役の人々に太刀打ちできる訳がないし、それは語学なども同じだろう。第一、他の分野では素人の私が逆立ちしても追いつかない技術を持った人は同世代に普通に居るが、それらの人たちでさえ、引退後は自分で仕事をすることはしていない。つまり、私の乏しい特技を活かして金を作ることは考えても仕方が無いし、今から技術や知識を得るなどは問題外だ。

そこまでは考えるまでもなく分かることなので、それでも出来る方法は無いかと考えたわけだ。で、有った。従来手間や技術をかけて作っていた製品を、全く新しいやり方で同じ性能、見かけ作る技術であり、その技術は、無論従来からあったがこの分野には使われていなかったということだ。しかもその技術なら今の私にも十分出来るし、設備もほぼ持っている。ただ、本来の目的のために使っていたのを、新しい分野で使うだけのことだ

例えば、日用品でも職人が作るしかなかったものが今では100円ショップで買える。

私が考えたのは、高額な設備でしか作っていなかった品物を全く別の目的で使われている安い設備と方法で作ること、素人には絶対に従来ものと区別がつかない。むろん、デザインなどの違いがあるが、その気になれば本物を型にして寸分違わないものが出来る。とはいえ、原理的にそうだと言うだけだし、実際にそれが私に出来るかどうかはまだ分からない。が、もし出来たらネットで販売できるのではないかと考えたわけだ。言うまでも無いが、機能的には従来製品と同等であり、自由度が高い分だけより高度の物が出来る。けっして偽物作りをするわけではない。

いずれにせよ、今はまだ妄想段階だが、技術的には十分にめどが立った。妄想というのはすべてがうまく行く前提で考えているからだが、仮に失敗しても借金や投資を受けていないので人に迷惑をかけないし(皆無とは行かないが)、自分の生活を十分に確保した上での自己資金だから失敗しても頭をかけば済む。

この金儲けが出来るかどうかはともかく、こういうことを考えるのは結構楽しい。実現できたらもっと楽しいのだろうが。

by ロクスケ











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情報の整理整頓

今までも身の回りを整理し、できるだけ無駄なものを捨てすっきりする方がよいと書いた。実際それを心がけているつもりだが、気がついてみると普通のゴミの日に出せない大型のガラクタが物置の中にあふれている。業者に頼んで捨てなければならないが、とんでもなく費用がかかるので二の足を踏んでいる。

しかし、今回は情報の整理整頓も必要だと痛感した。形のあるものとしては、本など代表的なものだろうが、昔の写真、手紙、ノートや書類などなどであり、これらは見返すことなどないはずなのに思い出だからとの言い訳をして山になるほど貯まっている。心理的に、これらをすっきりと捨てる気になれないのは自分でも不思議なほどで、何度も捨てようと思いながらまた元に戻している。

そして、本題。最近メインのPCを新しいものにした機会に、PCの中にある情報も整理しなければならないと思った次第だ。幸い、物理的な負担にはなっていない。なにしろ、最近ではテラバイト単位の記憶メディアが普通だし、USBメモリやSDカードなども数十Gb単位のものが安く買えるし、現実に私もたくさん持っている。つまりデータを保存する分には物理的問題は全くないのだが、よほど整理をうまくやらないと必要なデータがどこかに紛れてしまいイライラするし、時に間違った処理をして必要なデータを壊したりする。

そこで、今のPCでは古くて使わないデータはすべてPCから取り除き、USBやSDカードに保存して、PC内のデータは最小限にした。これで、PC内のデータ検索一つにしても極めて楽になったし、なにより自分の頭の中も整理されたと思っている。何しろ私にとって、頭の中にあるデータの整理整頓が極めて苦手なので、これだけでもありがたい。

by ロクスケ











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物作りのすすめ2

以前、田中久重が作った万年自鳴鐘、通称万年時計を見た。本物は上野の国立科学博物館で展示されている。レプリカは川崎の東芝科学館にある。これは凡そ170年前に作られたのだが、無論当時は工作機械も材料も無いのに、たった一年で作られたという。おそらく当時としては世界最先端の工作物では無いかと思っているが、いわゆる天才だから作ることが可能だったのだろう。レプリカが作られるまで、内部構造が不明とされているほど独創的な機構であり、これに匹敵するものは今も存在しないと思っている。とにかく私自身子供の頃からからくり儀右衛門つまり田中久重のファンだった。私の物作り好きは案外彼の影響もあるかもしれない。

さて、私も物作りが好きでほぼ毎日何か作っていると言ってよい。が、久重のように究極の工作物を作る程の意欲は無かったし、正直今でも無い。ただ、好きだから作っているのであって、現実には作っても使わないものが大半と言える。つまり、作ることが好きなのであって、必要だから作ることはほとんど無い。

久重は希有な天才だが、またものを作ることによって天才になったとも言える。ものを作るには様々な工夫が要るが、その究極が田中久重だと言えないだろうか。

むろん、専門家の精緻な物作りもそうだが、一般の人でも、段ボールや菓子の空き箱、すなわち塵や廃材で一年もかけて精密な戦艦大和や蒸気機関車の模型を作っているなどの様子がYoutubeなどに上げられている。私が作るのも大半が廃材や木切れなど全く費用のかからない材料で作るのが主であり、そのためには可能な限り知恵を絞らなくてはならない。それがまた脳トレになっていると自分では思っているし、以前は段ボールだけで整理棚を作りきちんと実用していた。段ボールは使い方によってはベッドや本棚など、十分に実用になり、色を塗ったりすれば見栄えも良いし、そして何十年でも使える。

とにかく、脳トレと実用はまさに一挙両得だと思っている。

by ロクスケ











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計画倒れ

私は色々な物を作ったり、読んだり書いたりとにかく色々なことをしているし、そしてそれ以外にもやりたいことが次々に頭に浮かんできて、とりあえずはノートにそれを書き散らしている。

毎日毎日それを書き散らしているので、整理しないと大変なやりたいことリストができあがってしまう。当然ながらやりたいことの数十分の一も出来ないが、それは当然として、近頃は結局何も出来ないのでは無いかと思うようになってきた。

あまりにやりたいことが多すぎるのだ。私の性格がそうなのだが、何事にも集中力が続かず、ある程度やるといきなり関心が無くなり見向きもしなくなるのだ。これは昔から私自身が問題にしているのだが、その意味である程度やってから放り出した趣味などが無数にある。極めた趣味といえるものが無い。極める前にほかに興味が移ってしまうためであり、これが先の書き出したやりたいことリストにも言えるのだ。思いついたときはやろうと考えているのは当然だが、整理する段になって別にやる必要も無いし、何なら関心も無くなっていると言うわけだ。

それが極まると、結局何もしなくても良いような気になる。

今、それでも長年継続しているのは語学学習(実用性はほとんど無いが、以前も書いたように脳トレの一環、および英語はネットをやるようになって実際に非常に役立っている)、文章書き、料理くらいか。しかし、世間一般の料理では無くあくまで自分の生活の合理化と嗜好と健康のための物であって、毎日毎日同じ物を作って食べている。そして飽きることなど全くない、つまり体力と健康維持のため以外の食事ではないし、そもそも食べることには関心は無い。空気を吸わなければ死ぬから呼吸をしているのであって、誰も呼吸を楽しんでいるわけではないだろう。

結局あれもこれもとやりたいことを考えていても、最終的には必要なこと以外はやらなくても良いのではないかと思うようになる。これはちょっとまずいと思い始めている。

by ロクスケ











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通販生活

私は趣味などで結構特殊な物を必要とするが、例えば電子部品などは昔は、(いや今でも行くことはあるが)秋葉原などに行っていた。多いときは毎週行っていたと言っても良い。あと、特殊な工具、または金属などの特殊な材料なども、それぞれ専門店を探して買いに行くしか無かった。

しかし、今では大抵の物は通販で買っている。なにしろ、ネットで探して見つからなければ後は世界中探しても無いと考えた方が良いくらいだし、また専門店に行っても必要な物欲しいものが必ずあるわけでは無いが、ネットだと1,2時間探せばほとんど見つかる。電子部品など、一般の人がその存在を知りもしない特殊な物が無数にあり、それぞれ専門の店に行けば大体あるが、無いとなればそれを探すだけでも一日歩き回ったり、あるいは業界紙などで日本中の専門店に電話をして問い合わせるなどをしなればなかった。が、今はネットで探せば、もしこの世にあるなら半日もかからずに見つけることが出来る。

と言うことで、気がつけばずいぶん通販で物を買い、それを探しに出歩くことなどほとんど無くなった。確かに手数料や送料がかかる場合があるが、売る方も店舗を構えたり販売員を雇う経費もかからないし、土地の安い田舎に倉庫を持てば出来るのだから全体的にコストもかからず、毛かとして店舗販売よりも安くうれる。どうせ、店に行くにしてもそれだけの時間と交通費がかかるのだから、通販で送料や手数料を払ってもその方が良いということになる。

それで、多くの店が売値で通販と競争できなくなり深刻な状況になっているという。だが、私などのばあい、専門的な特殊な商品は今では通販でしか買えないと割り切っている。商店で買うのは日用品や食品などに限られるようになっている。昔はテレタイプやファクスが会社には必需品だったが、もうそんな物は無いし、そろばんはもとより、タイプライター、歯車計算機、などなど消えて久しい物は数限りない。

個人商店などにしてみれば大変な時代だろうが、考えてみれば昔どの町にもあったタイプ屋がなくなり、印刷屋が無くなり、新聞が部数の激減に経営が難しくなり、そしてテレビ局なども存在価値が薄れる時代だ。

通販を例に挙げたが、やはりこのように時代が急速に変わっていく以上、それを利用しなければ自分の生活の質が落ちて行くのだろうと思うしか無い。

by ロクスケ











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メモ、ノート

私は大昔からメモやノートをつける習慣があった。会社勤めでの現役時代は、それこそメモやノートは仕事に欠かせない物だったし、そのためにもいかに管理しやすくするかに常に気を遣っていた。今は自分でそれなりに仕事らしいことも含めてやはりメモやノートを使っているが、最近それらを並べてみて、やたらにノートが増えていることに気がついた。ざっと並べてみても、その場限りのメモからそれなりに整理している手帳が4冊、そしてやっている事の内容毎に使っているB5版やA4版のノートが5,6冊などなどだ。しかし、その中で本当に使っているのは、その場のメモと語学学習や物作りの内容を書きためているノートだけで、それも今は多くがパソコンに保存している。

あとは、書き損じやコピーの裏などを使って記録として残すことは無いので、おそらくメモ帳と、目的ノートだけで足りるはずだ。

メモ帳は、予定や買い物などをその場で書き込んでいるが、それを見ることはあまりなく、書くことで記憶している事が多い。さらに、予定などは今ではスマホに書き込み、アラームなどを設定している事が多い。

結局、メモを後から読み返すなどは今はほとんどしない。書くことで記憶にとどめるのが目的だし、それとは別に、例えば電子工作などの回路図や部品表などは、要らなくなった印刷済みの紙の裏に書き散らし整理し、正式図面としてパソコンに入れるのがほとんどなので、保管しておくノートも要らなくなった。

それでもキーボードで入力するより、ペンで紙に書く方が記憶に残る。自分では記憶力はそれほど悪くない、むしろ良い方ではないかと密かに思っているが、とにかく何でも書き留めるという行為がそれを助けているのではないかとも思っている。

書くことはむしろ好きだし、それが今も生活を助けているのだと、自分では信じている。

by ロクスケ











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ガス消し忘れ防止タイマー

幸い大事故になった事は無いが、大昔からガスの消し忘れを何度も繰り返し、調理しているものを黒焦げにするならまだしも、空だきでいくつもの鍋などを駄目にしてきた。鍋で済む内は良いとしても、今に火事になるのではないかといつも心配していた。むろん、タイマーを使ってはいるが、ひどいときは火を点けたままほかの部屋に行ったり甚だしいときは外出してしまったりしていた。

タイマーの設定忘れも無論数知れない。本当になんとかしなければとは思っていたし、その一つの解決策が電子レンジの多用で、電子レンジなら取り出し忘れでも事故にはならない。が、電子レンジでは使える調理は限られている。あとは、保温調理で、一度沸騰した鍋を何重にも保温材に包み保温箱に入れるやりかたで、長時間じっくり煮込む調理だと一晩ほどでその余熱だけで調理でき、燃料節約になるし何より安全だが、これも利用できるレシピは限られる。やはり基本ガスコンロをきちんと管理できなければならないのであり、そこで最近やっとこれなら安全という方法を見つけて実施した。

ガス配管に電磁バルブを取り付け、電気を流さない限りガスが停まる様にしておいて、そのバルブをタイマーで通電するようにした。通販でバルブや配管材料を買い、オーブントースターから外したタイマーで60分タイマーを作り、タイマーを設定しない限りガスが出ないようにしたのだが、これが実にうまく働く。実際には加熱時間は長くても15分程度で良かったのだが、いずれにせよ、これで仮にコンロの消し忘れがあってもあらかじめセットした時間が経てば自動的にガスが停まる。実際はこれをつけて凡そ2ヶ月くらい経つが、ガスの消し忘れは無い。今までも消し忘れと言っても年に一回あったか無かったくらいだから2ヶ月では無いだろうが、仮にあっても大事には至らない。

この安心感は極めて価値がある。




ただし、本当はガス配管に触るのは工事の資格が要る。無資格者がこのような工事をしては違反なのだが、まあ自分の家の中だけなので十分に検査をした結果ガス漏れが無いことを確認してあるのでよしとした。本当は資格が必要な工事を私はずいぶん家の中に限ってだがやっている。電気の配線や水道管工事などだが、何年経っても異常も無いし、まあ良かろうと思っているのだが、当然誰でも気軽にやって良い工事では無い。

少なくとも知識は十分に得て、安全確認の方法などを調べた上でやるべきであり、特に人に頼まれて人の家とか外の工事などは絶対にしてはならないが、いずれにせよ、上記の工事で私の生活上の不安が一つ減ったことは事実だ。

自分の責任でやれない人は専門家に相談してみれば良いだろうし、調べてみれば案外このような機能のついたガスコンロなどがあるかもしれない。あとは、電磁調理器などを使えば最初からこのような心配はしなくても済むとは思うが、電磁調理器だと調理の種類がかなり限られることはやむを得ない。

by ロクスケ










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物作りも善し悪しあり

わたしの趣味は基本的に物作りであり、広義で言えば調理も物作りの一環として楽しんでいるし、家のリフォームなどもそれに入る。ただ、これらは十分に役立つのであり趣味で無くともやることなのだが、他の物作りは概ね実用性があるとは言いがたい。それでも作るのだから本当に趣味と言える。

一時期ライト作りに懲り、デスクライトだけでも10個以上作った。が、当然それらを使う事は無く、大半はゴミになった。また一時期はアンプに懲り、アンプばかりを十数台作って、これも使っているのはほんの一台くらい。

木工に凝って今までいくつもの家具や道具などを作ったが、実際に使っているのはごく一部で、多くは邪魔なだけであり、結構材料費も高いので最近はあまり作らない。それなのに、木工のための機械なども買ったり作ったりで、それらは使わないので結局場所と金の無駄になっている。

今、凝り出したのが各種の測定器で、元々が電気屋なので自分で細かい電子部品を集め、設計し、組み立てている。この方面の知識が無い限り名前を聞いてもそれが何かは分からないだろうが、あえて並べてみれば、周波数カウンター、プリセットカウンター、スィープ発振器、タイマー、可変電圧電源、基準発振器、温度調整器、温度測定器等など。しかし、今は別に仕事で電子機器を扱っているわけではないので、これらの測定器などを作っても実際は年に一度あるかないかだし、そもそも電子製品や上記のアンプなどでも完成品を買った方がよほど安い。上を見れば切りが無いがアマチュア用のものなら通販で信じられないほど安い物が買える。最近は中国製なども中国から直接送ってくる。アンプなど、おそらく自分で作るものの数十分の一のコストで入手できる。むろん、性能は国産の一流メーカーのものとは比べるべくもなく、単に遊びで使えるだけ、時には最初から壊れているなどもあるが、わたしが趣味で作るものならまあ似たようなものだ。

つまり、趣味で作るとは、作ることを楽しむのであって、作ったものを使うためではないと割り切らなければ到底やってはいられない。

一方、Youtubeなどには、段ボールで全く既製品と比べて遜色の無い家具などを作っているものがあるが、段ボール家具はかつてわたしも作ったことがあり、実際に数十年使っていても壊れない。材料費はほぼ只で自分の家の隙間に合わせて作ることが出来るし、実際に災害の避難所などには一部だが段ボール製のベッドや収納棚などが使われているという。

作ることを楽しむのと実際に使うために作るのをはっきりとたて分けて趣味に出来るなら良いと思うのだが、わたしの場合はどうもそれが旨く行っていないようだ。

by ロクスケ











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各種の詐欺

最近、わたしのメールボックスに詐欺メールが頻繁に入る。メインで使っているアドレスではないし、第一内容を一目見れば詐欺と分かるので、そのまま無視、消去している。曰く、わたしのPCにウィルスを送り込んだから、四十八時間経てばPC内のデータを全て壊し、わたしの個人データーをネットにばらまく、それが嫌なら四十八時間以内に、○○ドル払え、そのためにこのサイトにアクセスしろ・・・等など。よく読まなくても怪しげな日本語で、大体メールチェックをしないまま四十八時間経ったらどうなるのかなどなど馬鹿らしいが、慣れない人などは心配になってその指定サイトにアクセスし、本当にウィルスを呼び込む事になりかねない。

全て無視し、消去すれば問題は無いし、このことは最近詐欺メールなどでチェックすればいくらでも出てくる。

しかし、メールばかりではない。六十代の女性が、訴訟に巻き込まれているから資産を全て隠さなければならない、指定の場所に送れと書いたはがきを受け取り、何回にも分けて生命保険なども解約して現金を小包で指定の場所に送ったとのこと。総額一億円あまりをだまし取られたというのだが、どうしてこんな詐欺に引っかかったのは理解に苦しむ。この人ばかりでは無く、数百万から数億円からオレオレ詐欺にだまされ被害に遭う人が後を絶たない。

新聞でもテレビラジオでも繰り返し注意を呼びかけられているのにどうしてだまされるのかわたしには理解できないが、自分はだまされないと日頃言っている人がだまされるのだそうだ。

本人に思考力判断力が無いからだまされるのだ、と言って済む問題ではない。詐欺師はまさかと思う手段でだます。まさに虚を突かれてだまされるのだろうが、それはわたしも例外では無いのかも知れない。幸いだまされるような資産も持ってはいないが例え百円でもだまされ盗られるのでは精神的に良くない。

家族や友人を名乗ってくるとつい情にほだされるのかも知れないが、必ず本人に確認を取る必要はある。電話が変わった等と言われても、元の電話番号にかけてみて、いつも話し中だったらそれが怪しい。また、普段から暗号を決めておく、個人しか知らないはずのことを訊いてみるなどあるのだろうが、いざとなるとそれを忘れるようだ。

銀行や弁護士、警察を名乗る電話は絶対に詐欺と決めつけてかまわない。返事を保留してすぐに警察に通報するべきだろう。仮に本物の銀行警察弁護士などでも、それは失礼でも何でもない。

by ロクスケ











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健康で生活するために 自分でやる

世の中便利になって、費用さえ負担すればほとんどのことをやって貰える。むろん、自分自身が忙しくてそんな時間をとれないなら金で誰かにやって貰うのは当然だ。が、自分で時間がとれるなら、自分でやるべきだと思っている。むろん、専門家しか出来ない事もあるだろうし、技術が必要なこともあるだろうが、やってみると自分でやってもかなり出来るものだし、自分でやったというひいき目から満足も出来る。

一つの例だが、わたし自身居間の庭に面したガラス戸には従来圧遮光カーテンを掛けていた。が、本来カーテンはあまり好きではないのと、従来洋風だった居間を和風に変えたことから、このカーテンも障子に変えた。ただし、ここにきちんとはまる障子など既製では無いしさらに障子は半分しか開かないから従来のカーテンのように全面開放というわけには行かない。

そこで、障子を作ってしまった。それもアコーディオン式にしたので全面開放が出来る。おそらく専門家に頼めば数十万かかるらしいが、手持ちの材料を使ったので二,三千円で出来た。とうぜん、材料としても本来の障子用の柾目杉板では無く、建築用の2x4だが、わたしには全く不満は無い。

これは勿論費用の節約になるが、なにより自分の満足感は極めて大きく、それが最大の収穫だと思っている。床の張り替え、壁の塗り替え、屋内水道工事などなど、色々調べやり方を工夫し材料を買って自分でやってみる。この、調べて工夫する時が楽しい。むろん、思惑通りには行かないことも多々あるが、何度でもやり直せばよい。

出来ないと思うことでも自分で調べ工夫してみると結構できるものだし、今ではネットでいくらでもやり方を調べることは出来るし、材料なども通販で買える。

こうやって自分でやることで、わたしにとっては考える能力が必要でありやり遂げる体力なども要る。これが結構脳トレ、老化防止、そして健康に役立っていると思っている。

by ロクスケ










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手抜きをうまくやる

もともと、私は掃除などが不得意なのだが、それでも汚いままで生活をしたいわけでは無いから気になれば部屋の掃除はやる。が、ただどこもかしこも塵一つ無いほどの掃除はしない。出来ないのでは無くしないのだ。まずそれほどの掃除を毎日やっていたら他に何も出来ない。だから、自分が納得するだけの掃除で妥協している。

洗濯もこまめにやるが、もともと着る物が簡単なので洗濯機に放り込んで自動的にやるしかしない。素材毎に分けて、選択コースを選んで等はしない。調理も毎日同じ物、ただし材料の種類は沢山使っているので偏食にはなっていない、を食べているし、食器も最小限の物しか使わないから後始末も簡単に済む。食事に時間をかける気には到底ならない。

よく、持ち物を整理して、いわゆる断捨離をする人が居るが、私の場合は時間の断捨離をしているのであって、かけなくても済む手間をかけないことに決めているのだ。それで、私なりに生活の質は下がっていないと思っているのでこれ以上家のための雑用に時間をかけるつもりは全くない。

出来た時間で体を動かし、本を読みネットに没頭し、小説を書いたり記事を書いたりしてブログを更新し、物作りに時間をかける。それだけ時間を作り出しているくらいだからテレビなど全く観る気にはなれず、BGM代わりにラジオをつけっぱなしだが、聞いているわけではない。

それでも時間の無駄にため息をついているが、おそらくこれ以上切り詰める時間は無いだろう。一時期睡眠時間が極端に短かったが、今ではそれはやめている。昔に比べ短期間の熟睡が出来なくなったからだが、これは年のせいだろうと思う。

家事の時間を切り詰め、単に短くするのではなく、自分が納得できる範囲で簡略化して切り詰める工夫は常に要ると思っている。

by ロクスケ











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手抜きの仕方

昔と比べ今は家電が安く簡単に買えるし、そして便利な機能がついてきているので、家事が本当に楽になった。が、そんな家電製品を使えば本当に簡単になったのかと言えば、一概にはそうも言えない。

掃除機をいちいち引っ張り出さなくても箒とちりとりでさっと済ませる方が掃除は簡単だし、日頃の掃除はそれで済むことの方が多い。洗濯機に放り込んでおけば勝手に洗濯をして脱水してくれるが、シャツの襟やズボンのポケットのあたりの黒ずみがとれず結局洗い直したりすることがある。私は風呂に入った序でに襟やポケットに洗剤をつけブラシでこすって後は備え付けの洗濯桶でジャブジャブ洗い、風呂場にぶら下げておくことをよくする。私が普段着ているのは作業用のズボンやシャツなのでそれで別にかまわないし、一日ぶら下げておけばあとは室内にぶら下げても水が落ちることは無い。もともと、私は肌着上下、シャツとズボン、靴下しか身につけないし、それは一年中同じなので、一日分の下着を洗濯機で洗うなどは普通はしないで風呂場の容器で洗剤入りの水につけておけば風呂の序でに洗ってゆすいでぶら下げておくだけで済む。むろん、忙しくて貯まった時などは洗濯機を使うが。私が普段着る物はアイロンをかけない。

電気釜をいちいちセットしなくても、小鍋に洗った米を仕込んでおけば食事の支度の間に炊けてしまう。

まして、食器洗い機を使うなど最初から考えていない。ミキサー、ジューサーの類いは持っているが使わない。家電で便利だと思うのは冷蔵庫と電子レンジくらいか。あ、トースターもあった。あと、電気ポットは使っている。

便利な家電も、考えてみると使わない方が便利で簡単と言うことが非常に多い。むろん例えば掃除機でも、念入りに部屋の隅々まで塵の一つも残らないほど毎日ピカピカに磨き上げるなら掃除機が必要だろうが、そんな掃除は毎日はやらない。

となると、自分で納得できるレベルの家事なら十分に手抜きが出来ると言うことになる。どのレベルで満足するかは人によるが、私はこれで全く不自由もしていない。

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優先順位

私は何かをやっている時に何の脈絡も無く思いつきをすることがある。そのためにいつもメモ帳を持っているし、机の脇には専用のノートがある。そうやって、思いつきを書き留め、その時の作業を続けるわけだ。思いつきをどうこうするとはその時には考えないし、考えないようにしている。さもないとその時にしていることが完成しない。

面白い物で、その時の思いつきをその場限りで忘れていても後からメモやノートを見れば完全に思い出し、そしてその続きを考えることが出来る。しかし、考えをまとめた後、ノートに整理したらまたそのノートを閉じる。

そうやってまとめたアイデアが常に百以上貯まっているが、本当はここからの作業が一番難しい。それらのアイデアのうち実際に出来るのは十パーセントもあるかないかであり、全部やろうとしたら何も出来なくなるし生活が成り立たないからどうしても優先順位を決め、何をやるのか何は捨てるのかを決めるしかない。この作業が一番難しい。

結局は残した十パーセントのそのまたいくつかがなんとか出来るだけなのだが、それを人と比べても仕方が無い。本来、私が脈絡も無く思いつくことが多すぎるのだ。従って、優先順位を決めるのは当然だし、やらないと決めたことはやらないことにしているはずが、同じ事をまた思いついたりする。一度切り捨てたことなので、初めは新しい思いつきだと信じていることも多いが、ただ状況は変わっているのでその時は優先順位の高い方に入れたりするなどはある。

いずれにせよ、思いついたことを全ては出来ないし、多くの場合切り捨てるべきなのだが、問題はその優先順位の付け方を間違っていて本当にしなければならないことを切り捨てることがかなりある点が、本当は問題だと思っている。

by ロクスケ











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本を買う

子供の頃から私は結構本を読んでいたと思うし、今までもかなりの量の本を買った。そのために、場所に困って処分もしたりを繰り返していた。むろん、図書館で借りるなどもしていたが、考えてみれば最近ほとんど本屋に行かず本屋で買う事をしなくなった。

今ではネットで検索し発注したりダウンロード版を買ったり、あるいは著作権の切れた本は国会図書館の公開書庫からダウンロード、あるいは青空文庫でダウンロードしている。それらを読書端末に入れておけば、なにしろ数百冊でも持ち歩けるし、近頃めっきり小さな文字が苦手になった物を拡大表示で難なく読めたりしている。

また、本ではなくとも各種のサイトを覗いたりしていれば結局かなりの量を毎日読んでいることになるが、本当に本屋に行かなくなった。

東京には巨大な書店が沢山あり、神田の神保町あたりは本屋街だし、東京駅の八重洲口には八重洲ブックセンターがあり、ここも本当に頻繁に行っていた。が、最近はネットで済ませている事が多い。本屋は本を買うためだけに行くのではなく、その雰囲気を楽しみ立ち読みをするために行くことが多いのだが、その楽しみも気がついたらあまりやらなくなっていた。

読書量はそれほど落ちているとも思わないが、実感が無いのは紙の本を読むことが少なくなったためだろうと思っている。だからそれでいいだろうと思う一方、なんだか違うなと思うこともある。なにしろ、書店がこの十年ほどで半数くらいに減り、特に町の小さな本屋が全く成り立たなくなっていると聞く。

ネットがあることで、おそらく私などが探せる本は非常に範囲が広くなっている。それは間違いない。町の小さな本屋では、少し専門的な本、昔の本、外国の本などはまず見つからないし、昔は一日かけて本屋街を回って見つけたり、最終的には本屋に取って貰うなどをした。外国語の本などは一ドル四百円換算くらいで買わなければならなかった。多分その頃の一ドルは百円くらいだったと思う。それを考えると、ネットで簡単に検索しダウンロード版を買えることがいかに便利かと言うことで、おそらく普通の本屋は成り立たなくなるのでは無いか。

たとえばそれは私が良く買う電子部品などでも言えるが、専門的な電子部品は専門店に行かなくては買えなかった。だから秋葉原に頻繁に通っていたのだが、今ではネットで買った方がよほど便利だ。なにしろ、店周りをしなくとも検索してアイコンをクリックすればそれで済むのだから簡単極まりない。それで無駄な買い物も増えたが、実際に秋葉原でも電子部品の専門店が店頭販売をしなくなっている。店にしても何も秋葉に出店しなくともどこかに倉庫のような場所があれば売れるのだから当然そうするだろう。そうすることで安くもなる。本も同じ事だ。

更に将来は、多分紙に印刷する本は減るのではないか。全てダウンロード版にすれば大きな経費節減になり、その分安くなるし、一部の本はすでにそうなっている。

私にとっては、本屋巡りをしなくなったのが寂しいとも思えるが、それよりもネットで買える利便性が増えた事がうれしい。

by ロクスケ











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オレオレ詐欺

息子や友人を名乗り金をなくしたから貸してくれ等と電話をし、その後実際に金を振り込ませたり、息子の知人を名乗る人間に現金を渡したり、現金を宅配便で指定の場所に送ったりして数百万から一千万単位の金をだまし取られるケースが後を絶たない。

むろん、警察もテレビや新聞などを通じて様々な警告を発しているのにだまされる人が後を絶たないのは何故なのかと不思議に思う。むろん手口も次第に手が込んできて、警察や弁護士、役所の職員などがその”息子”の電話に出て、今金を払えば警察沙汰にならないからなどと言葉巧みに誘導する。

最近は、受け子が捕まるようになったので金の所在をあらかじめ電話で確認してから強盗に押し入るケースも頻発している。

むろんそんな電話にだまされない人が大半だそうだが、相手もとにかく無数に電話をかけ、中には引っかかる人が多いし、それも大半が高齢者なのは子供の窮地を助けたいとの親心が判断力を吹き飛ばしてしまうらしい。後から本当の息子と連絡が取れて初めてだまされたことに気がついたというケースが多いが、中には最後までだまされたことに気がついていない人も居るのではないだろうか。

私自身こんな電話を受けたことは無いが、ただメールで、すでにウィルスを送り込んでいるので何百ドルを支払わないと、何時間か後にパソコンをウィルスで破壊するみたいな物が来る。すぐに消去しているが、メールだと無数に出せるから、中にはだまされる人も居るらしい。

そんなわかり切った詐欺に自分はだまされるわけが無いと思い込んでいると引っかかる可能性がある。常に自分もだまされるかも知れないとの用心はしておかなくてはならないと改めて思う。

by ロクスケ











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電子出版

私は日常的に文章を書いており、今はブログや小説などが主となっている。ブログはもう十年以上続けていて、このところ毎日数百から一千文字くらいの文章を書いているし、また小説はもう数十年書き続けていて、短編も長編もある。合わせて一千作になる。一番長いのは四百字詰め原稿用紙一千三百枚というから、我ながらよくまあ書いたと思うが、今読んでみると若い頃の文章はそれなりにみずみずしいとしても稚拙で青臭いのは当然だろう。

更に子供の頃から日記を書いていて今ではPCで書いているが、この日記は忙しかった時などは途切れていたが、この十年ほどはほぼ毎日書いている。

毎日書いている文章はいわば書きっぱなしであり校正も編集もしていないし、後から読み返すこともない。書く目的は自分の考えをまとめるのが目的であり、普段考えをまとめることが苦手な私が必然的に身につけた習慣だと言って良い。おかげさまでほぼ考える速度で書けるので、書いた文章をその場で読んでみると考えが整理できる。これは極めて有効な考えをまとめる手段だと思っている。

最近のいわばラノベなどは、とにかく短文の羅列であり、いわば絵のない漫画のようなもので思考などとは無関係というか、全く読む気にならない。しかし、今の出版社は喰って行くためには売れる文章、つまり考えなくても読める文章しか興味が無いかのようだ。

さて、最近自分で書いたブログや小説を電子出版してみようかと思うようになった。電子出版とは、従来紙の本を出していたのに換わりパソコンで書いた文章をそのまま出版物とする手段であり、なにより手順さえ理解していれば出版自体は数分で可能だし、方法によっては無料で出来るし、そしてあわよくば金になる。ブログやHPでかつて小説を出していたがある時盗作されているのに気がつき、公表をやめた。電子出版なら一般のネット文書と違い、コピーは出来ない。それでお金になるなら、いや多くの人に読んで貰えるなら一石二鳥だと、具体的に考えることにした。

by ロクスケ











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CG作成ソフト

最近、新しくCGソフトを買った。CGソフトとは、家、家具や機械、人間などを立体的に作り上げるソフトで、出来上がった図は三次元になっているから、どのような向きに設定してもその方向で観た画像が出来るし、好きな方向にそれを変えたり動かしたりが出来る。かなり以前に買ったのだが、その後使う回数が少なくなりまたPCが新しいバージョンに使えるほどの性能ではなくなっていたので長らく使わなかった。最近作り替えたパソコンはそれなりの能力があるので、思いついて買ったのだが、とにかく理屈で分かっていても使いこなすには相当な技術が要る。

昔の技術、それもほとんど忘れている、では到底使えず駄目かと思ったが、ダメ元で何日かやってみたらなんとか物になりそうになった。むろん、パソコンがまだ求められる機能ギリギリだし、なにしろもともと技術が無かったから当たり前なのだが、思ったよりは出来るようになりちょっと嬉しくなった。

昔と違い、今のソフトは格段に機能が向上している分使い方もかなり難しい。長年やっているプロは勿論、アマチュアでも趣味でやっている人の作品の足元にも及ばないが、とりあえず私が必要としているレベルには届くのではないかとの希望が持てた。

とにかく諦めずにやってみるものだとつくづく思った次第だ。

家のリフォームなども専門家に頼むと目の玉が百メートルほども飛び出しそうな金がかかるが、自分で材料を買いネットなどでやり方を色々研究してからやってみたら結構できた。専門家として金を取れるレベルでは勿論無いが、自分で納得出来るレベルなら、おそらく誰にでも出来るだろう。

かつてそれなりに話せていた英語が使わなくなってから自分でもがっかりするほど話せなくなっていたのが、ダメ元で主として英語の動画などを見ながら口まねしているうちに自分でも驚くほど能力が回復し、最近たまたま行くようになった外国人との会話の集会などでそれなりに楽しめるようになった。昔の能力にも及ばないし、むろん完全とはほど遠いが特に今必要としているレベルの会話なら不自由はない。

つまり、能力は使わなければ衰えるが、やり直せば思った以上に回復する物であり、駄目と諦める必要は全くないと改めて思った。どれだけ回復すれば、どれだけ出来るようになれば良いかはあくまで自分で決めるのであり、人と比べる必要など無い。むろん、職業としてやるならそんなわけには行かないが、自分のためにやるならそれで良いと思っている。

by ロクスケ











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筆記具

もともと習慣的に文章を書くので、関連して筆記具にうるさくなったのは当然だろう。確かに昔は大量の鉛筆を使っていたしボールペンも使っていた。万年筆も何本も買った。が、今手書きで文章を書くことはほとんど無い。書くとすればメモや何かの伝票くらいで、ほとんどはパソコンで書いている。つまり筆記具を使うことはほとんど無いし、メモや伝票くらいならボールペンが一本あれば足りる。

しかし、昔散々筆記具が目に付くたびに買っていた癖が未だに直らず、また悪いことに筆記具が本当に安くそして使いやすくなったために意識もしないうちに買ってしまうようだ。特にボールペンの進化はめざましく、昔はかすれたりインクが漏れたのが、今のゲルインクのボールペンは安物でも持ちやすくそして書きやすい。インクの詰め替えなどせず、ボールペン毎買っても安いし、そして昔の愛想のないものと違って今のボールペンは最後まで同じように使えるしそして書き心地も良いし手にしっかり来るし、なにしろノック式が当たり前でこれ一本あればメモ伝票、そして手書きの文章や手紙などでも十分だ。それにもかかわらず、以前整理したら鉛筆で数百本、ボールペンがおそらく百本以上、万年筆が二十本くらいあった。書き加えるなら、サインペン、フェルトペン、そして色鉛筆は数百本ある。

今も絵や文章はかなり書くが、本当に筆記具を使わなくなった。それなら買わなければ良いのに、反射的に買ってしまうらしい。さすがに最近は色鉛筆などは買わないが、実際にあれば使いたいとは思っている。が、使う機会もないし、ほとんどお絵かきソフト、CGソフトなどでしか描かなくなっている。

結局筆記具とは私にとって使う物ではなく持つための物になっているらしい。万年筆などそうだろう。万年筆は頻繁に使わないと中でインクが固まりかなり時間をかけて掃除をしないと使えなくなる。したがって、今ではほとんどの万年筆にはインクを入れず洗ったままにしてある。色鉛筆も専用のケースを作って眺めるしかしていない。

使わないのに捨てられない。不思議な物が筆記具だ。

by ロクスケ











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英語は必要?

近年外国人観光客が毎年幾何級数的に増えている。それこそ倍々ゲームだが、それはリピーターが多いのと、日本から帰った人たちが周囲に日本の安全さ、秩序、清潔さ、親切さ、歴史、風景、食事等などどれをとっても素晴らしいと話すので、それなら自分もと来てみる人が多いからだそうだ。それはツィッターやフェイスブックなどの投稿でも頻繁だし動画で日本の素晴らしさを紹介する物がかなり増えてきているのを観た人も影響を受けているのだろう。他国の物価が急速に上がっているのに日本の物価は上がらず、結果として日本に来ても費用が掛からないというのも理由に加えて良いかと思う。

これはこれで喜ばしいことであり、今までアジア大陸のその先の海の列島としてあまり知られていなかった日本がこのような形で知られるのは良いことだとは思うけれど、それにしても彼らの一致した日本に対する例外的な不満として、日本人は英語が話せない、というのがある。

たしかに、日本では英語教育の必要性が叫ばれ、各種の英語学校は大繁盛だし、小学生から語学教育をすべきだなどとの主張もかなり声が大きくなっている。が、それでも日本人の英語は他国の人に比べ下手だし、ほとんど使えないレベルだ。しかし、私は今の英語教育熱には大反対であり、まして小学校からの英語教育など言語道断だと思っている。

まず、他国人が英語が上手いというのは、一つは英語がヨーロッパの主要言語であるインドヨーロッパ語族に属しており、極めてそれぞれが近いために学びやすいという理由がある。もう一つ途上国では英語でなければまともな教育を受けられずまともな仕事に就けないため、死活問題として必死に英語を学ぶからどうしても上手くなる。

一方日本語は世界でも独立言語として存在し、他のいかなる言語との関係も無い。しかし、その特殊な言語で数百年前から独自の文明を築き、数百年前から世界レベルではかなり高度な科学産業技術を発展させてきたし、今では押しも押されもせぬ先進国として認められ、それを一般人は日本語だけで成し遂げている。すなわち、日本では英語は必須ではない。必要も無いものを学んでも上達するはずが無い。また人間は言語で物を考えるので、言語をきちんと身につけなければまともに思考出来ない。成長期の小学生に他言語を押し込めば覚えるかも知れないが、日本語で物を考えることに支障が出る。従って、外国語教育は成長期にはしてはならない。

ただし、仕事で必要なら、あるいは趣味で話したいなら、大人になってから学べば良い。むろん、母国語同様の会話力は身につかないだろうが、意思の疎通や理解には全く支障の無いレベルにはなれる。私は仕事で必要だから英語を学んだが、大人になってからであり、仕事や意思の疎通には全く問題が無いレベルだと、自分では思っている。むろん、相手がそれに合わせてくれているからも理由だ。

英語ほどではないがフランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語の基本的な日常会話なら出来る。あくまで基本的なというレベルだが、それで困ったことは無い。将来これらの国で生活をする予定でもない限り、それをどうしようなどとも思わない。それくらいなら日本語に更に磨きをかけたいと今も毎日努力をしている。

どんな言語でも一年で日常生活レベルに支障が無くなるレベルには学べるし、付け焼き刃で旅行ででも使うなら一週間で基本文型の100くらい覚えられる。ご愛敬レベルなら一日で十分だ。さらに近年ではスマホにどんな言語とも意思疎通の出来る翻訳機能がある。

趣味や仕事以外では日本人が英語を学ぶ必要など全くない。必要に応じて必要なレベルまでの習得は大人になってからやれば良いというのが私の結論だ。成長期の語学学習など百害あって一利無しだ。

by ロクスケ











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スマホ中毒

今は電車の中でも歩きながらでも食事をしながらでもとにかくスマホを覗き込んでいる人が多い。中には車を運転しながらスマホを見ているとんでもないのも居るし、自転車の片手運転でスマホを見ていて事故を起こした等もある。

むろん、スマホが出来てそれこそ生活が一変した感がある。なにしろ、電話をするのは勿論、カメラ、ビデオ、録音機、ゲーム機、万歩計、地図、ナビゲーション、電卓、メモ帳、そしてウェブ閲覧などなど以前なら到底一人で持って歩くことなど出来ない道具や機械の機能がポケットサイズに収まっているのだ。そのほか、様々な支払い、予約、翻訳機などなど、挙げきれないほどの機能があるのだから、スマホによる便宜性はとうてい捨てがたいし、もうスマホ無しの生活には戻れないと思えるほどだ。

しかし、スマホによる障害も指摘され始めている。人間関係の破壊などは、友人同士がレストランなどで一緒に居てもそれぞれがスマホに夢中になっているなどを見るとさもありなんと思うし、ましてスマホを見ながら自転車や車を運転するなど事故を起こしても不注意だったでは済まされないだろう。下手をすれば無作為の殺人にさえなりかねない。

私自身、スマホは持っているし、上記の機能は使っている。が、使える時間と場所と状況で使っているだけであり、普段スマホを覗き込みながら他のことをするなど無い。道を知るためのナビを使う時も立ち止まって他の歩行者の邪魔にならない場所で使う。

スマホで買い物もしないしネット検索もしない。それらはパソコンでやるし文章の読み書きもスマホではやらない。

スマホは確かに生活を根本から変えるほど便利な道具であり、それを捨てる必要など無いが、ただそれに依存するようになってしまっては本末転倒だろう。よく、ネットが出来てから人間関係が希薄になったとか、文章力や会話力が若い世代では問題になるほど衰えているとか様々な弊害が言われている。視力低下も大きな問題だろう。

どんな道具でも使い方を間違えれば大きな害をもたらす。スマホはあまりに急速に出てきて発展したために正しい使い方を学ぶにはその進化が速すぎるのだ。

スマホを否定するものではない。が、正しい使い方を自分なりに考え、状況に応じてその自分のルールも変えていきながら使えば良いだろう。スマホは便利だが、使いこなせないばかりかそれによって大きな弊害を被るなら、いっそのことスマホを捨てた方が良いとさえ思う。そうなりたくないから、私はスマホを使いたい時に使う道具として扱っているのだが。

by ロクスケ











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小旅行


昔は仕事柄出張で日本中、そして外国にも頻繁に行っていたが、個人でも結構小さな旅行をしていた。今は昔ほどではないが、年に1,2回出かけることにしている。今年も6月半ばにおよそ十日間の旅行に来ていて、このメルマガも旅先から投稿している。

旅行と言っても食べ歩きには一切興味が無いし、名所巡りも別にしようとは思っていない。安ホテルに泊まり、とにかく毎日毎日ほっつき歩く。大雑把な予定は立てているが、天気や気分次第で好きなように予定を変える。こんな旅行が好きで、誰かについて行ってお付き合いで見たくもないものを見る旅行などする気になれない。

ということで、旅行中は毎日10−15キロを早足で歩く。必要であれば電車やバスを使うがほとんど使うことも無い。昼間は食事もしないのでとにかくやたらに歩き回るだけなのだが、そうやって歩き回ってみると、自分が見聞きしたものが自分の体に記憶として残る気がするからだ。

写真も撮るが、実際は後でその写真を見ることも無い。

by ロクスケ











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計画倒れ

私の手帳には番号だけを付けた空白欄があり、そこには思いついたやるべき事をその場で書き込んでいる。何をする、何を買う、何を作る、何を読む、何を書くなどなど。そして、折に触れてそれを眺め、優先順位を付ける。その過程で別にやらなくても良いことは消す。

そうやって優先順位を付けた行動計画も更に時間をかけてから見ると別にやらなくても良いことが沢山あり、結局100の計画が最初にあったとして実際にやるのはおそらく10程度だろう。

このような計画のチェックを始めたのは、私が会社勤めをしてとんでもなく忙しくよほど時間を上手に使わなければ何も出来ない状態になった時だ。同僚達を見ていると、ほとんどがその場限りの計画に振り回され他のことが出来ずに、更に本来やるべき事を思いつけずにただただ仕事に追われている状態を見たからだ。むろん、私もそうだったが、それはやらなくても良いことに力を振り向けてしまうからなので、それを整理することに工夫を凝らした。

本来同僚以上に私は思いつきにとらわれ振り回される傾向が極めて強く、それが何もかも中途半端にしていることを自覚していたこともある。何にでも手を出し、結局何も出来ない。つくづく嫌になっていたところに就職して同僚達の多くが同じであり、とにかく忙しい忙しいと言っているのが少し違うのではないかと思ったことも、自分の計画を整理することになった理由だ。

むろん、自分一人の生活なら何をどのようにしても自分が決めれば良いが、仕事でやっているなら相手のあること、自分一人では決められない。したがって、あくまで自分の裁量で出来る事に限られるが、それでも効果は大だったと思う。今、自分の計画は自分のためだけに立て、実行するので、冒頭に書いた行動計画表は極めて有効だと思っている。

by ロクスケ











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依存症

世の中には深刻な依存症があり、覚醒剤依存症などはもう人生を半ば以上放棄した状況と言える。が、それほどではなくともアルコール依存症等も深刻な破綻を人生や家庭にもたらす。同じような物に賭け事、パチンコ、セックス依存症など、数え上げれば切りが無いほど多くの依存症があるが、さらに本人が自覚していない依存症がかなりあると言うことだ。

交友依存症や宗教依存症などがあるが、むろん、人と幅広く交友することは大切だろう。が、他の人との交流のために家族をないがしろにするとすれば本末転倒だが、本人はそれを自覚しない場合が多い。アルコール依存や煙草依存なども自覚していないケースはかなりある。

翻って、私自身を眺めてみると、文章依存症、パソコン依存症、健康オタク依存症などが疑われる。まあ、誰でもそうだが、何かに熱中しその達成感に喜びを覚えるなどは大切なのだが、それと依存症が混同している場合などもあるのかもしれない。私の場合はそれが疑われる。

結局、自分で自覚し、自分でコントロール出来ればまあ問題は無いかと思う。それはまた優先順位の決定にも関係がある。結局、依存症とは、自分の意志でコントロールしたりやめたりすることが出来ない状況まで何かに熱中してしまうことなのでは無いだろうか。むろん、アルコールや煙草、偏食、賭博などは割合自分でもコントロールしなければならないと気づくのだろうが、それがどうしてもコントロール出来ないのが問題なのだ。

私の友人で一日煙草四箱を喫う人物がいる。彼の場合、すでに呼吸器をやられて病院で定期的に治療している段階なのだが煙草をやめる気は無いそうだ。やめることでストレスがたまるなら今の方が良いというのだからしょうが無い。

かつて私は仕事上かなり酒を飲んでいた。毎日おそらく一升酒に近かったと思うし、ウィスキーを一本空けてもそれほどよわなかった。自分でもまずいとは思っていたが、どうしても仕事の付き合いで飲まざるを得ない状況だった(と思っていた)。病院でほどほどにしないと肝臓に回復不能な問題が起きると言われ、なんとかやめようと努力はしていた。

自分ではアルコール依存症なのではないかと思っていたが、或時いきなり酒をやめた。仕事上ずいぶん誘われたが、医者にきつく止められたとの口実で、頑として飲まなかった。そんな事が自分に出来るとは思わなかったが、本当にある日を境に完全にやめることが出来た。

今では肝臓に全く何の問題も無いと健康診断の結果が出ている。

もし自分でやめられないと思っている依存症を自覚したら、諦めずにやめてみることだ。病院やコンサルタントの助言は助けになるだろうが、結局は自分でやめなければならないと言うことだ。

by ロクスケ











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断捨離

近頃ちまたでは断捨離という言葉がはやっている。つまりは、身の回りから無駄な物を一切合切捨ててすっきりしようということだ。確かに年に一度も使わな物や衝動買いした物、昔着ていた自分の服や子供の玩具、服、果ては子供が成人しても赤ん坊時代の物が残っていたりする。私も最近とにかく要らないものを捨てるべく整理を何度かしているが、到底追いつかないほどガラクタがあり、いい加減にしたくなっているのも本当だ。

とにかくガラクタを捨てると言っても無料で捨てられる物などほとんど無く、自治体によるだろうが細かく分類し、出せる物は決まった日に決まった袋に入れるなりラベルを買って貼り付けるなどして出すし、それでも出せない物は業者に引き取りに来て貰う。

以前かなりの大量だと思ったが業者に頼み2,30万掛かって懲りたことがある。その為か、今ではそれ以前とほとんど変わらない程のガラクタがまた物置を占領している。いずれまた出さなければならないのだろうが、それでも日常に分類して出せる物は出す様にしている。

が、そうしながら結局使いもしないのに残している物がかなりあるのだ。例えば本だろうが、おそらく今までも千冊以上は捨てた。昔は売ったこともあるが、今は売値がつかない程安い。どうせ読み切れないが、とりあえず書庫は余裕もあるのでそのままにしているし、最近は電子書籍が多くて場所の問題は無くなった。

考えてみれば独立して一人で生活を始めた頃は全くなにも持っていなかった。その頃に戻ればすっきりすると思うが、一方使わないことを知っていながら置いておきたい物も沢山有る。結局本当のガラクタ、例えば空き缶空き箱発泡スチロール、古い衣料などなどは時間をかけて少しずつ捨てるが、それでも残る物は仕方が無いし、そもそも使わないつもりで処分をした途端に使う必要が出てきたなどもある。

幸い、この記事を書き上げた時、計画通りのゴミ処理、つまり物置二カ所分の大小のゴミを処分でき、今は物置はすっきりしているが、家の中にはまだまだ沢山有る。無理をして捨てなくても良いかと思う物が多く、時間をかけて処理することになるだろう。

断捨離を本当にして後悔したという話も聞く。なにに愛着を持つかは人それぞれなので、別に他の人の基準で断捨離をする必要は無いと結論づけた。

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計画妄想段階

何度も書いているが、私は色々な計画を立て、思いつく度に専用のノートに書き込んでいる。その結果、常時百以上の計画がノートにあるが、現実に実行される計画はおそらく10%もない。とりあえずノートに書き込む時は出来るか出来ないか、必要か不要などは考えず、とにかく思い付いたものを書くわけだ。

そのような計画では別に緊急性があるわけでは無いので、しばらく放っておいて後からそのノートを見る。するとその時点で半分くらいは単なる思いつきで必要の無いことだと判断できるのでノートから抹消する。それを二、三回繰り返した後、本当にやった方が良い、やるべきだと判断した計画は現実にどのような手段で行うかを考え始める。場合によってはその為の専用ノートなどを用意する。

一つの例として、水道配管の交換を考えてみた。極めて古い家であり、水道管もかなり痛んでいて紅い錆色の水が出る。最近建てられる家では、水道管が後から手入れできる様に設置され、更に鉄管ではなく塩ビ管などが使用されるが、私の家の水道管は地下かなり深く埋められ、その上にコンクリートなどで覆われているので到底交換など出来ないが、しかし現実に痛みがかなり進んでいる。

一度業者にどのくらいの費用で出来るか訊いたらおそらく百万以上掛かると言われ、即座に業者に頼むのはやめた。そしてここから妄想計画が始まるのだが、水道の元栓以降の配管は私に所有権があり、だからこそ業者に頼んでも費用負担が生ずるのだが、そこから新しい配管を敷けば万事収まるという話だ。

思いつきで出来るほど簡単ではないが、とりあえず床下に潜って配管がどこから入り込んでいるかを確認した。元栓自体が地下一メートルくらいに埋設されているのは仕方が無いのでそこまでは掘らなくてはならないが幸い外でありコンクリートでも覆われていない。そこで、従来の配管を完全に捨てて、新しい配管を地表近くに設置しそれを元栓につなぐ方法を考えた。一度地表近くに出せば、後は冬の凍結防止と破損を防ぐ手立てをしなくてはならないが、最近の機材だと比較的簡単にできる。と言うことで費用の計算(と言っても配管材料くらいだが)と可能性を考えた。昔と違いネットで色々な方法や機材のことを知らべられるし、実際家の中だが一部交換してみて旨くいった。

今年中に完全に配管を作り直すつもりだ。元栓以降の工事はどうせ私の責任でやらなければならないし、人様の家の工事ではないから別に資格も要らない。さらに、元栓の開け閉めは本来は水道局に依頼しなければならないとのことだが、元栓の開け閉めをする道具は自分で作って使える様になっている。

最初思いついた時はまさに妄想だと思っていたが、色々調べて試してみて可能だと今では思っている。

つまり様々な計画を立て、必要性を検討したら業者でなければ出来ないはずの工事も自分で出来る事を確認し、そして実行すれば良い。実はそうやってガス管工事もした。なにしろガスレンジの点けっぱなしを何度も繰り返していたので、自分でタイマーを付け、タイマーでガス栓を開け閉めできる様にしたのだ。タイマー付きのガス台もあるが、このやり方で極めて安価に出来た。

最初の計画を立てる時は妄想でも、現実に人間がやっているのだから自分も出来るはずと検討してみれば結構できる物だ。

by ロクスケ











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計画実行段階

私が思いつきで様々な計画をその都度メモし、時間をおいて何度か見直してから、最終的に実行する計画を選ぶ、とは以前も書いている。多くが実行することはないとも書いているが、理由は様々で、一番多いのは別にそんな事をしなくてもよいからが一番多い。思いついていたことをいちいちやっていたら寝る暇も無い。

時間は限られており、やらなくてもよいことに時間は費やせないし、さらに自分がやらなくても金を使えばなんとかなる事も結構多い。

そしてその選択の結果やると決めたことも、実は中途半端に終わることも少なくない。やってみたら無駄だった、思ったより時間が掛かりすぎて、あるいはコストが掛かり過ぎて出来ないことが分かった、と言う理由が多い。即ち、見通しが甘かったのだ。

私の特徴として子供の頃から一つに熱中すればそれしかやらないのに、ある時点でいきなりそれに興味を失い放り出してしまうことが非常に多かった。おかげさまで色々なことに手を出し、様々な事にそれなりに知識や熟練を得た。その結果器用にはなったが器用貧乏になった。やはり最終的に一つのことに集中し習熟することが生活を豊かにすると理解したのだが、理解と実行とは別物で、大人になっても子供の頃と変わらず、興味を引かれたことに熱中し、ある日突然それに興味を失う状況が続いている。

したがって、思いつきをメモに取り、何度もそれを眺めて不要な物を捨てて行くという作業をする様になったと言える。

趣味なら話は別だが、生活のための作業なら大半は専門家に金を払えばそれで済む。ただし、そのコストは自分でやる場合の十倍二十倍かかるが、時間はその為の準備や全過程を含めれば極めて負担が大きく、更に結果の出来は比べるべくもない。それなら金を得るための手段に時間とエネルギーを注ぎ、それで得た金で専門家に頼むほうがよほど効率が良いと言うことだ。

そうやって取捨選択をして行けば、結局思いつきのほとんどはやる必要が無くなる。

それでも今私が実行に移している大きな計画は五,六件有る。多すぎると思っているのだが、実際に着手してしまっているので、計画がどうなるかは正直言って不安だが、まあ飽きることのない生活を続けてもいられる。

by ロクスケ











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時間配分

人間誰でも24時間なのだが、時間感覚は年齢により人により大きく変わる。思い出してみれば子供時代、時間は極めて長く、後からの感覚では2,3年の幼児期が10年以上も続いていた様な気がする。しかし、今では一年、一月、一日の何と短いことか。

最近それを痛感したのだが、スーパーで開いているレジにならんだ。私の前には高齢の女性が支払いをしていたがその遅いこと遅いこと。まず、金額を提示されてから鞄をあちこちごそごそ手探りして財布を取り出し、札と、それから小銭を一枚一枚数えながらトレイに並べている。それも何度も訊きながら小銭入れをかき回して一枚ずつ引っ張りだし、結局足りないので札をまた一枚引っ張り出してこれで、と言った。

さらに、おつりを貰ってから一旦しまった財布をまた取り出し、小銭を分けて小銭入れにいれ、財布をしまい、買い物篭をやっとレジ台から持ち上げて悠々と離れた。その間、自分の次に人が待っていることなど全く念頭にはなかった様だが、おそらく彼女の感覚では時間がそれなりの速さで流れていて、自分が時間をかけている感覚など全くないのだろうと想像した。

私がイライラしても仕方が無いのだが、私の場合はそのスーパーのプリペイドカードを使っているし、レジにならぶ時点で財布からそのカードを取り出している。カードの残金が足りるかどうかも買い物をしてから暗算で大体計算し確認しているし、足りなければ事前にチャージする。

いや、私のやっていることなら普通の人もやっているのだが、時間感覚が全く違う人にはそれが通用しないらしい。極論だろうが、人を待たせることはその人に無駄な時間を使わせていることになる。

さて、自分で考えてみて、自分の時間感覚は以前と同じだろうかと常にチェックする様にしている。大体だが一日に起きてから寝るまで何をどのくらいしたかをチェックする様にしているのだが、やはりやろうと思っていたことがかなり出来ないケースの方が大半だ。時間配分が悪いのか、時間感覚がずれているのかは今のところ不明だが、例えばなれた作業、文章作成などは自分でやっているブログの為に毎日400字詰めで3,4枚程度を書いているがおそらく30分程度など、時間の遅れは昔に比べてもない。そのほか、洗顔や風呂、食事などは何も考えないでやっているためだろうが、別に時間は変わらない。

時間管理は、本来自分でしなければならないが、時間経過の感覚はどうしようもないらしい。つまり、時間管理もどうしても自分では出来ない面があると言うことだ。

by ロクスケ











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つい熱中

前回も書いたが、私は可能な限り時間管理をする様にしている。が、実際はそれがきちんと機能することは少ない。確かに、誰でも、何をやっても全てが時間通り予定通りには行かない事が多いが、私の場合は以前から移り気が過ぎるのだ。

熱中する時はかなり熱中するが、その為に次の予定に食い込んでしまう。つい本に夢中になって、気がついたら次の事が出来なくなったなどがあるが、実際は本を読んで区切りの良いところでやめることがほぼ不可能だと言うことだ。これは読むだけではなく何かを書いている時も、つい時間が過ぎてしまうなどはざらにある。確かに読むにしても書くにしても熱中しているから意識の中で時間をきちんと把握することは難しい。

これが会社や取引先など誰か対象が居るならそこで為された予定を守るべくそれなりに時間管理をするし、また一緒に仕事をする人間が管理することもあるだろうが、それでも失敗したことは多々ある。自分では少ない方だと思うし、私があきれるほど時間管理の出来ない人間も大勢いる。私が彼らを反面教師として時間管理をする様になったのは当然だったろう。

今、一人で色々なことをやっていると、それがおろそかになる。結果、その日にやるはずのことが出来なくなるなどはままある。それを見越して、別にやらなくても良い日にやってしまっておくことが多いが、本来なら予定に従ってやりたいとは思う。それが前回の時間管理につながるわけだが、おそらくそれなりに、あくまでそれなりに旨く行っているとは思う。

繰り返すが、私は熱中するとそれにとことん付き合ってしまうが、ある日突然する気が無くなる。それこそ自分でも驚くくらいいきなり飽きてしまうと言うか、やる気が起きなくなるのだ。考えてみると、熱中してやったことにそれが多い。熱中すればするほど、ある時いきなりやる気がなくなるのだ。そんな時は無理をしてやろうとは思わないことにしている。あくまで自分個人の行動の話であって、人と関わる時はそうはいかないが、飽きてやる気のなくなったことを単に予定だからという理由だけでやってもろくな結果にならないことをよく知っているからだ。

つまり、これも前に書いたが、思いつきを色々リストアップして、それを検討してみると実際にやる必要があるのは本当に一部だけだということだが、それがある程度やり出してからそれに気づく悲劇もそれなりに私は経験していると言うことになる。

by ロクスケ











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手抜きの重要性

一日の時間は限られており、特に年齢を重ねるに従って時間の経過は驚くほど速くなる。それはおそらくその年にならなければ実感が出来ないだろうが、一つは何をしても若い頃ほどテキパキと出来ないことが理由の一つなのだろう。自分ではそれを自覚していない人の例を以前書いたことがある。

と言うことは私もそうなのかも知れないとは思っている。

ところで、毎日やらなければならない雑用は沢山有るが、私は計画的に手抜きをすることにしている。本当は掃除など隅々まで毎日やれば気持ちが良いし、洗濯もそうだろう。炊事もじっくりと手をかければ旨い物が食べられるのだろうが、私は毎日ほとんど同じ物を食べるし、作り置きもする。むろん、私の食べるものが一般的ではないからと言う面もあるが、手抜きを最優先している面もある。

結局、掃除洗濯炊事などは自分なりにかなり手抜きをすることで時間を作り出すことにしている。作り出した時間は、例えば散歩、文章書き、物作り、読書などに充てているのだが、掃除洗濯炊事などを理想に従ってやっていれば自分のやりたいことが出来なくなる。

それくらいなら生活に支障がない程度に一般の家事の手抜きをする方が良い。昔と違い、人付き合いも極めて限られており、お付き合いなどは最小限にしているが、その方が私にとって都合が良い。

むろん、人付き合い、近所づきあいを重視する人は居るし、年を重ねればそれがますます大切になると思っている人が多いようだ。それはそうなのだろうが、私は違う。少なくとも今のところは違う。

と言うことで気がついたら私が一番手抜きをしているのは人間関係だった。

by ロクスケ











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語学学習

私はほぼ毎日ネットで英語の動画などを観ている。またたまに行く映画で英語の物は字幕にしている。実際にはそれらを完全に理解できているわけではないが、大方意味をつかむ程度には理解できているだろう。また時々だが、英語が母国語の人たちと色々な話をすることもある。

かつて、仕事で毎日英語を使っていた頃からすれば相当衰えているとは思っていたが、ただ近年ネットで簡単に英語に接することが出来るようになりそれなりに回復してきているらしい。

ただ、現在の生活で英語が実際に必要になることはない。したがって、別に英語が理解できなくなっても実際の生活には困らないのだが、ただネット時代確かに世界で最も多く使われている言葉が理解できることで得られる利点は大きい。実際に日本では報じられていないニュースにも接することが出来るし一番得だと思っているのは私の好きな物作り関連の動画で、ありとあらゆる物作りの過程が紹介されていることだ。日本語でもあるが、その範囲は到底全世界から来る情報とは比較にならないほど小さいし、そもそも日本人には他国人のような自作派が少ないようだ。

私は物作りのヒントを英語の動画から得ていることが多いが、今の私の英語力保持の目的の大半はそれだと言って良い。が、もう一つ理由があるが、脳の活性化だ。

人間は言葉で物を考えている。当然私たちは日本語で物を考えているが、昔から気がついているのは英語で考えている時と日本語で考えている時は同じことを考えているはずなのに内容が違うのだ。つまり、違う思考方法で同じことを考えている、と言って良いだろう。つまり日本語+英語の思考で、それだけ思考の幅が広がるのではないかと思うわけだ。

英語のレベルとは全く比較にならないが、やはり脳トレで、かつて少し話せるようになっていたフランス語、ドイツ語、スペイン語なども折に触れてやってみている。ただし、こちらはまともな思考が出来るにはほど遠いが、脳を刺激するには良い方法だ。実際これらは今後も実用レベルになるなどないし、そうなるつもりもないのでかなりいい加減にやっているが、ただ英語だけで飽きた時などは気分転換になる、それだけのことだ。動画などでたまに聞き取れれば嬉しい。

本当に必要なら、人間誰でも3ヶ月で外国語で一応の日常会話が出来るくらいにはなれる。ただし、そんな必要に迫られることなど現代ではないし、まして日本ではない。さらにネット上の言葉も文章もパソコンで日本語に訳せる時代、私のようにかつてやっていた者が維持するためならともかく、そうでもない限り、そして仕事や移住などで必要でもない限り、時間の無駄だとは思う。しかし、趣味なら、上達は望めないが楽しいなら何語でも良いだろう。実際フランス語を二,三〇年やっていてボンジュールしか言えない人を知っているが、本人がそれで楽しければ結構なことだ。

by ロクスケ











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記憶力

前回の編集後記に書いたことなのだが、幼い頃はそれこそ見る物聞く物全てが初体験であり、驚きに満ちていた。だから、現在も少し前のことは忘れていても、幼い頃の記憶がまるでついさっきのことのように思い出せることがある。また、幼い頃は誰でも人生で最高の記憶力を持っており、この時期、例えば言葉、読み書き、社会ルールなどを身につけなければならないから当然なのだ。

人間はそのように出来ているから、現在記憶力がまるで無くなったかのような気がするのはなおさらなのかも知れない。ただ、年齢によって記憶力が衰えてくるのは当然なのであり、それまでに記憶した事柄を理解し応用するためには、不要な記憶を切り捨て必要な記憶を相互に纏めて関連付けるという能力を持たなくてはならない。だからそれ以前の記憶力はいわば雑音まで受け入れていたので邪魔なのだ。

記憶だけなら渡り鳥の記憶力は人間が遠く及ばないという。がそれを応用するとなると人間に及ぶ動物は存在しないし、だからこそ人間は今の地位を築いた。

ただし、いくつになっても必要な記憶はしなければならず、衰えに任せるだけでは本当に駄目になる。と言うことで、私は強いて記憶力を保ち強化する事は大切だと思っている。そうすれば、本来何の感動も無く見過ごしていたことに感動も出来ると思っているからだ。つまり、幼い頃の強烈な記憶が感動をも伴っていたことを忘れられないからだ。

実際はどれほどその強化策が役立っているのかは分からないし、そもそも記憶力自体個人差がある。が、私自身は強化策が役立っていると思うことにしている。

実際は記憶しても今の実生活には全くと言って良いほど役立たないことを敢えて記憶しているのだが、それが脳を刺激し実生活の記憶を助けている、と私は思っている。私が思っているだけでそれが本当だとの保証は一切無いが、まあゲームと考えれば良いのではないか。たとえば読んだ本の一節が気に入って、何度か読み返し全文記憶してみる。おおよそ原稿用紙2,3枚分くらいだが、やってみると結構できる物だ。考えてみれば、役者などは渡された台本を何度も読み返し自分の台詞だけでは無く全部を記憶するのが普通だ。仕事でやっているからだろうが、それこそベテランの超高齢の役者がそれをやって当たり前だと思っている。

よく行く大きなスーパーマーケットなどで、店内に居るスタッフに○○はどこにありますかと訊くと、すぐに連れて行ってくれる。それこそ膨大な数の商品がそれなりに頭に入っているのを客は当たり前と思っているが、自分では必要が無いから覚えていないし覚えられない。

フランス語を2,30年勉強していてボンジュールしか言えない日本人を知っているが、全く日本語を話せないまま日本に働きに来て3ヶ月で日常会話が出来るようになる外国人は普通にいる。年齢の違いはあるにしても、基本人間はそのように出来ていると思うから、私は記憶力を高める努力は常に続けている。

一つ挙げるなら私は常にメモ帳と筆記具を持ち歩いているが、何かの打ち合わせを人とする場合などはそれを書き留める。しかし、相手はそれをしない場合が圧倒的に多い。そういう相手はあまり結果を期待できないとも思っている。

by ロクスケ











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妄想の勧め

妄想とは現実にはあり得ないことを考える、想像することを言う。通常は、まともな人間はそのようなことをしないとされるし、仮にしてもそれを人に事実として言うことは無い。だが、私は時々だが妄想を妄想として行うことがある。当然ながら、それを他者に言ったり、事実として公開することはあり得ない。

が、考えてみれば普通の人間は寝ている間に夢を見るだろうし、その夢の中であり得ない経験もするだろうが、目が覚めてみればあれは夢だった、で済んでしまう。つまり、人間には無意識にあり得ないことを考える能力があるわけだ。

それを私は意図的にやるのだが、当然ながらそれは現実にはあり得ない妄想であることを常に自覚しながらやる。そうなれば、自分が例えばなりたかった職業で成功したとか、とんでもない才能を開花させたとか、行きたかったけれどいけなかった外国に行ってみるとかそれこそ出来ないことは何も無い。

これは脳味噌の柔軟体操だと思っている。考えても無駄だから考えない、といつも制限していると、脳は考えることをやめてしまう。つまり柔軟性が失われるわけだ。

例えば私は物作りを趣味としているが、当然専門家では無いから技術はないし、専門の知識も無いしそれに加工する機械や道具も無いし本来かけるべき材料費もかけず安い材料を見よう見まねで手持ちの工具や機械で工作するわけだ。とうぜん、専門家が作った製品と比べることなど無駄な物しか出来ないが、そのできばえを妄想で補うと結構満足したりする。これを妄想と言うかどうかはともかく、現実にはとんでもない物が出来ても良い物が出来たと満足できるわけだ。

物作りを趣味とする以上、満足できる物を作りたいのは当たり前であり、別に人に認めて貰う必要など無く、自分で妄想を交えて満足できればよいと言うことだ。

当然ながらそれが自分の本来の仕事なら、そんな事は許されるはずは無いが、趣味で自分だけが満足できれば良いのであれば全く問題は無い筈だ。

ただし、繰り返すが、妄想であることを常に自覚しておくことは大切だ。さもないと、生活自体が破綻する可能性はある。競馬で大儲けを狙って人生を破綻させる、宝くじやパチンコで家庭を破壊するなどもその結果では無いかと私は思っているのだが。

by ロクスケ











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毎日続けていること

誰にも毎日習慣にしていて、別に意識しなくても自動的にくりかえしていることはたくさんあるだろう。食事や睡眠は体が要求するから意識する必要も無いだろうが、洗顔、風呂などは本来は意識しなければ出来ないことだった。しかし、幼い頃からそれを続けていると特に意識もしないで繰り返している。

しかし、人によっては他の人がやらないことが習慣になっていることもある筈だ。

私の場合はよほどの悪天候でない限り、かなりの早足で一時間ほど歩く。階段の上り下りや坂道なども有るが、結果として極めて体調に良い影響を与えているようだ。気が向けば五,六時間でも歩いて特につかれることもない。

毎日日記を付けている。かつてはノートに書いていたが、途切れたことは有ったにしろ、おそらく字が書けるようになってから書き続けている。今はPCで書いている。書いたものを読み返すことはほとんど無いし、かつてノートに書いていたものはほとんど処分している。

日記を書くことで自分が何をしたか何を考えたか、今後はどうするかなどを纏める事が出来るが、それが最も大きな効果だと思っているし、他に頻繁に各文章と合わせて自分の思考を纏める大きな訓練にもなっていると思う。

ここ十年ほどだが、毎日朝晩血圧を測り、歩いた歩数を記録し、体重やそのほか体調を記録している。こうすることで少し悪化してきた場合などは早めに生活改善が出来るので、これは非常に効果があると思っている。

この数年食事を写真に撮って保存している。これは写真が気楽に撮れて保存できて整理できるようになってからだが、今年は毎日欠かさず続けている。これも自分の食生活を管理する良い習慣ではないかと思っている。なにしろ外食嫌いだし、一日朝夕二食なので、結構役に立っていると思う。

他に特に主観とも思っていないが、ブログの記事を今年は毎日更新している。文字にして一千文字程度であり、ほとんど書きっぱなしだが、日記と同様の効果はあると思うし、反応があると嬉しい。

他に小説などの文章をほぼ毎日書いているのは一寸別の面から上記の様な効果があるようだし、なにしろ自分では頭が自由に好き勝手に働くのが楽しい。但し、本を読むことも未だにかなりの時間を占めているが、同様の効果があるからだろう。

またこれもほぼ毎日、語学学習をやっている。近年はyoutubeなどで簡単に外国語に接することが出来るので、一時はもう失われていたと思っていた語学力がある程度復活してきたことが実感できるのは嬉しい。が、以前書いたが、人間は言葉で物を考えている。と言うことは外国語で物を考えてみると日本語で普段考えていることと違う面を自分の中に発見することがあるようだ。なにしろ、物を考える道具を身につけるのだから思考能力の新しい獲得と大げさに思うことにしている。まあ、実生活では使わないから気楽に出来るのだが。ただ、ごくたまに外国人とその言葉で話してみて通じると、これがまた楽しいが。

同年配の人たちにやることが無い、暇だ、一日一日が知らない内に過ぎる、テレビを十時間も観ているなどと聞くと自分がそうではない事をつくづくありがたいと思う。

by ロクスケ











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ツィッターやフェイスブック

私は一応ツイッターとフェイスブックのアカウントを持っている。が現在は全く使っていないし見てもいない。要するに私の性に合わないのだ。まあ、理由はいろいろあるが、要するに単なる相槌かイエスかノーを言うだけだし、何故そう考えるのか、自分なら違うことを考えているなどの、いわば自分の意見を言う場所ではないからだ。

単に誰かの言うことに賛成することで自分も同じことを考えている、あるいは反対することで自分はそれを否定すると言っているだけのことだ。あくまで、ツィッターやフェイスブックはその為の機能しかない。だから炎上する場合もあれば無視される場合もあるが、炎上する場合などはそれなりの理由がある筈なのに何故ということが分からないまま、人が反対するから自分もその尻馬に乗っかった、と言うだけのことだ。

むろん、上記は極めて短絡的に書いているのだが、これはまた動画などでも言えることであって、結局説明が要らなくなっていることに帰因しているのだろう。だから、説明をして同意を得るよりも印象で同意を得ることが主になる。

なぜみんながそう言うのか分からないけれど、みんながそう言うから自分もそういうことにしておく、それが短文投稿のツィッターやフェイスブックと言うことになる。

昔私たちが読んでいたような文学が今では全く売れなくなったそうだ。売れるのは漫画、ラノベ。昔の名作文学作品でもダイジェスト版がせいぜい売れるだけになっている。

誰もが複雑な思考が出来なくなっているのだとしたら恐ろしいことだ。

by ロクスケ











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スマホ中毒

電車に乗ったりすると、おそらく十人中七,八人はスマホを弄っている。昔は、そのくらいの人たちが本を読んでいるのが普通だったのに、何か異常に感じる。また友人同士などが乗っていてもそれぞれがスマホを見ていて会話も無い。どう見ても異常なのだが当人達はそれが当たり前なのだろう。

私もスマホは持っているが、確かに便利だとは思う。が、私がスマホを見ているのは、電話の時、地図を見る、メールのやりとり、たまには写真や動画を撮ったり、調べ物をしたり等の時だろう。ネットはほとんど見ない。たまに音楽を聴くなどはある。いずれにせよ、スマホを見ている時間は一日十分位ではないかと思う。

昔は、といってそれほどの昔とも思わないが、ガラケイが出来た時でさえその便利さに驚き、直ぐにそれになれたのだが、スマホになって便利とは思うが、ガラケイの時ほどの驚きも無かった。

大昔は携帯電話も無かったのだし、ポケベルが出来てずいぶん便利になったと思った物だ。因みにポケベルを見たことがないと言う若い人の言葉を聞くと、そうではあろうがずいぶん時間の経つのは早いと思う。

いずれにせよ、電話から始まったポケベルへの進化、どこまで行くかは知らないが、ただ、これらはあくまで人間の生活を便利にするためのものだろう。が上記に書いたように電車に乗れば友人同士話もせずに本も読まずにスマホを弄るようでは、でスマホに人間が使われているような気さえする。

最近のことだが、日本の高校生の読解力が急速に落ちていて国際的にも順位が落ちている。短文の読み書きしかしなくなったからだと言われているが、スマホでメールのやりとりやツィッター、フェイスブックなどをやっていれば当然そうなるだろうと思う。

単に社会現象と言うよりも、スマホ中毒はもっと深刻な問題を引き起こすような気がする。

by ロクスケ











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テレビの無い生活

私がテレビを持っていないし勿論余所でも観ることもないとは何度か書いている が、昔は無論観ていた。現役時代仕事に忙殺されて疲れ切って家に帰ったり宿に 帰ったときなどはおそらく何をする気にもならないでテレビを観ていたと思う。

しかし、観ていたとしても内容が残るような番組を観ていた記憶は無く、観てい たことは覚えているが何を観ていたかは見終わったと同時に忘れていた。何しろ 体も頭も疲れ切っているときは、テレビを観る以外する気にならなかったのだ。

今思えばずいぶんもったいないことをしていたと思う。今はテレビを捨ててその 分すっきりとした生活をしている。視聴料を払わなくても良いのもメリットだろ うが、そんな事はどうでも、今は歩くなどの運動をしたり物作りをしたり本を読 んだりブログを書いたりなどなどで時間が足りない位だ。とうていテレビなどで 時間を潰す気にはならない。

ある日テレビを観ている時間の無駄もさることながら、自分で物を考えずに知ら ない内にテレビで言うことを信じ込んでしまっているような危険を感じたのだ。 それに気がついたとき即座にやめて本当に良かったと思う。テレビから得られて いる情報とはすなわち一方的に与えられた情報であり、自分が本を読んだり考え たりして得た情報とは全く違う。

つまり、テレビを観なくなって、自分で考えることが非常に多くなったと自分で は納得している。

テレビを観ることのメリットデメリットは人によって違うのだろうが、周りの人 たちにも本当に一日中テレビを観ていて他のことはしないという人が居る。そう はなりたくない。

by ロクスケ











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パソコン生活

私は元々が電機屋だったために、個人用のパソコンがまだ売られる前から自分でパソコンを作っていた。もちろん当時はパソコンの中央演算装置、すなわちCPUなどもごくごく原始的な物が売られていたに過ぎないし、あとはトランジスタやICなどを半田ごて片手に自分で組み立てた。モニターなど当然無く、十数個のLED、後には数字の表示LEDを並べて、その点滅で結果を見ていた。キーボードは無く、テンキーであり、記憶装置はメモリーICと言われる物及びカセットテープレコーダ、そしてウィンドウズ等と言うOS(パソコンを動かすソフトウェア)も影も形も無いから自分でニーモニック、後にはMS-DOSという基本ソフトを使って自分でソフトウェアを作っていた。

そして1+1=2等と言う計算をして、答えが出るのを楽しんでいたわけだ。まさか、現在のようなパソコンが出来るとは思ってもいなかった。

それからおそらく三十年以上経った今、気がつけばパソコンを七台持っている。三台はノートパソコンだが二台は自分で改造して使いやすくした物、デスクトップ四台は全て自分で部品を買ってきて組み立てた。とはいえ、基本的な部品を希望する仕様に合わせて選んで組み合わせるだけだが、三十年前会社で使っていた一部屋を占領するコンピュータよりもよほど優れた性能を持っている。むろん、ソフトウェアを自分で作るなども今はほとんどしていない。第一、今の最新テクノロジーに到底追いつけないし、追いつく気も無い。

時代は変わる物だとつくづく思うが、今の若年層はパソコンを持っていない、使えない人が増えているとのこと。全てスマホで済ませているというのだが、図面を書いたり書類を書いたりするのはスマホでは出来ない。

やはり今後もパソコンを使い続けるだろうし、出始めの頃私が買った一式は車を買えるだけの金額が、パソコン、モニター、プリンターなど、さらにソフトウェアの為にかかった。無論性能は今の玩具のゲーム機にも及ばない。

昔は自分でパソコンを設計して部品を集めて作ったのだ、OSも自分でプログラムを組んだ、モニターはなく、記憶装置はカセットテープレコーダだなどと若い人に言っても想像がつかないらしい。

その現在でもパソコンは日進月歩で安くなっている。もう壊れても直して使うより買い換えた方がよほど安くなっている。

やはり気がついたらハードディスクが十個以上たまっていて、中にはもう二度と観ないであろう動画やデータが有る。今は、SSDと言う新しい記憶装置が本当に安くなっているし、USBメモリーでも昔のハードディスク以上の記憶容量が有る。つまりハードディスクはもう使うことが無い。そもそも新しいパソコンでは観られないデータが有るので、古いパソコンも残しているわけだ。が、実際は観ることがない。

今後はパソコンもどんどん安くなり高性能になるだろう。結局また次のパソコンに飛びつくのだろうが、思えば大昔自分で部品を集め設計して作っていた頃の興奮が懐かしい。

by ロクスケ











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断捨離

今結構断捨離が流行しているようで、普段使わない物を纏めて捨てるのがはやっている。確かに身の回りを見回しても、思いつきで買いはしたけれど結局使わない物が沢山有って嫌になることがある。それでもかなり捨てているつもりだけれど、いつの間にかまたたまっていたりする。

ただし、思い切って断捨離をした結果要る物まで捨ててしまって結局また買ったという話もあるので、単に捨てればよいというものではない。よくよく考えて捨てなければならないが、よくよく考えてみれば、まあ捨てるまでもないか、とまたしまい込むことが多い。私は特に多いと思う。

それでも洋服類はずいぶん捨てた。まず年齢のために昔は普通に来ていたシャツやジャンパーなどはいくら何でも着ない。それから、昔は楽に着られたものが、今はサイズ的に無理になって捨てた物も多い。さらに、昔は仕事で背広は必要不可欠だったし、当然ネクタイなどもかなり持っていたが、今背広を着ることは全くと言って良いほどない。体系的にも合わなくなっているので背広はほとんど捨てた。

同様、靴も捨てた。本類などは昔は売ったが、今はよほどの希少本でもない限り、古本など売れる物ではなく、これも残念ながらずいぶん捨てた。今は本自体ネットでダウンロードできるので、読書用の端末におそらく百冊以上入れた物がいつでも持ち出せるようになっている。百冊以上を持って歩くなど昔は想像もつかなかった。普段はPCで読むことが多いが、細かい文字が読みにくくなってきているのでこの方が都合が良く、おそらくPCには書庫の本よりも多くの本が入っているはずだ。到底読みきれるものではないが。

それら以外では、食器や昔の写真、家具などなど、折に触れて捨てているつもりだが、今は何かを捨てるにもコストがかかるので普段の分別ゴミで出せないゴミは結構残っている。全部断捨離できればすっきりするだろうが、それでも私の場合は後で後悔する可能性が高いので、結局断捨離は無理だということだ。

by ロクスケ











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手帳

会社勤めをしていたときは常に手帳を持っていたし、それにはスケジュール、電話帳、地図、思いつきなどなどを書き留めるのは必要不可欠だった。しかし、同僚に手帳を持たない人物が居て驚いたものだ。案の定、彼は仕事のスケジュールを忘れる、様々な細かいことを周囲の人間に訊く、約束を忘れるなどなどではっきり言って仕事も出来なかったし信頼もされていなかった。

仕事が出来ないのが手帳を持たないからとは考えなかったが、結局仕事が出来ないから手帳も持てなかったのだろうと思っている。

つまり私にとって手帳は仕事に必要不可欠であり、手帳に書いてあることが上司の指示や同僚、取引先との取り決めの証拠になるのが当たり前だった。そして当然ながら、私生活でも手帳は必要不可欠であり、仕事用と私用の別々の手帳を持っていた。

その後、システム手帳が流行し、いくつか買ってみたがどうも自分の使いたい様な物が無く、結局自分でつくって使うようになった。バインダーはどこででも売っていたし、皮で表紙を作り、中の用紙は自分でデザイン、印刷していた。おそらく三十年位前ではないか。しかし、その後システム手帳を使わなくなり、今はもっぱらメモ帳を使っている。机の上にはそれこそ印刷した用済みの紙の裏を使うA6番のメモが載っているし、普段は外出時に使うポシェットにもA6用紙を綴じた自作のメモ帳を、これも自作の表紙に入れて使っている。

住所録、電話帳はスマホに入れているので、このメモ帳はまさにその場で必要な事を書き殴っているだけであり、後に残す必要のあることはパソコンに書き写している。また、今では持ち歩くことのない自作のシステム手帳に移すこともある。

そうすることで後から無論忘れたことをメモを見て思い出す、確認することも出来るが最も大きなメリットは書くことで記憶が出来る点であって、今メモを使うのはその為と言って良い。

仕事でなくとも誰かと会っているときなどメモを持っていない人はあまり信頼できないと思うことがある。人間性ではなくメモをする必要性を感じていない人の言葉はその場限りのことが多いと思えるからだ。

この習慣はいつ頃ついたか覚えていないが、少なくとも会社勤めをしていたとき、会議や取引先との打ち合わせ、上司から指示を受けるときなどなどそれなりの目立つ革表紙のノートを使っていた。まあ、印象づけの効果も狙っていたが、実際相手の言葉をそれに書き留めると、相手はうかつなことを言えなくなる。その効果はかなり大きかったし、実際上司に、ノートをきちんととることを褒められたこともある。

今の人はスマホで全て間に合わせるようだが、私はスマホとメモ帳、そして記録用のシステム手帳、パソコンを使い分けている。

by ロクスケ











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やはり筆記具

筆記具については過去に何度か書いているが、また書いてみる。私は筆記具が好きで、使いもしない筆記具を衝動買いで買うことが多い。大体が安物だが、万年筆やボールペン、鉛筆と様々で、おそらく千本や二千本ではきかないだろう。大半はもう捨てているがそれでも引き出しや机の上に数十本がある。

なぜなら、筆記具、特にボールペンやシャープペンが非常に進化していて、使いもしないのについ手が出てしまうのだ。本来、私は物書きが好きで、昔からかなり大量に物を書いていたし、自分専用の原稿用紙などを作り、それこそ百枚、多い物で千枚単位の文章をいくつも書いていた。私が文章を書くのはあくまで頭の中を整理する為が目的だが、時には小説を書いたり、日記を毎日書いたり様々な文章を書いていた。かつては万年筆やボールペンで紙に書いていたが、自分でもあきれるほど字が汚く、何度か文字の練習はした。しかし、考える速度で書くとゆっくりなど書いていられなく結局殴り書きになるので、文字の汚さは本質的には直っていない。

最近はもっぱらパソコンで書いているので、文字を書くことはほとんどメモ以外無くなった。パソコンで文字を書き始めたのがいつかははっきりしないが、パソコンの前はワープロを使っていたので、もうワープロやパソコンで文字を書いている期間は手書きの期間よりも長いはずだ。

そんなわけで手書きはもうメモしか無いのだから文字の練習はしてもあまり意味も無いし、今はしていない。

それでも筆記具好きは同じで、使いもしない万年筆やボールペンなどを衝動買いしている。もう病気なのではないだろうか。

by ロクスケ











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庭作り

小さな庭があり、あまり日当たりも良くないので以前は花などを植えてもあまり育たず、去年などはほったらかしにした。草ぼうぼうでむしろその野生の趣を楽しんでいると屁理屈を言っていたが、やはり気になるので、今年は心を入れ替え少し手入れをすることにした。

庭には何本かの木が植えられていて季節になるとそれぞれ花を咲かせるが、本来なら施肥をしたり雑草を取ったり剪定をして手入れをすべきなのだ。が、それもついおっくうになり放っておいたら、去年は烏が巣を作り、近づくとつつかれる有様。それも庭に手を入れる気になった理由だ。

花を作ってもその手入れは大変だし、そして日当たりの悪さからまともに咲かない。それで野菜作りにしたのだが、むろん畑作りに膨大な時間をかける気は無い。ご近所さんでは朝からバンまで畑の手入れをして見事な野菜を作っている家などがあるが、そのような趣味も無いし時間をかける気にもならないので、放っておいても育つ物を選んで植えることにした。

以前も小松菜の種を蒔きっぱなしにしておいて結構採れたので、今年はほとんどの面積を小松菜だけにすることにした。これだと、冬になるまで次々に種を蒔けばほぼその期間食べられる。

他に、ほんの少しだけ日当たりの良い場所があるので、今年はカボチャなどを植えてみることにした。本来ならこれもかなり手入れをしなくてはならないのだが、いい加減にやってみるつもりだ。カボチャを選んだのはカボチャが好きなのと、カボチャは葉も蔓も食べられるのだ。

それこそ本当に猫の額ほどの庭だが、居間から障子を開けっぱなしにすれば庭全面が見える。それもまた精神的に癒やしになるかも知れない。

by ロクスケ











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気持ちの切り替え

私は元々、一つのことにのめり込むと他のことが全く念頭に無くなる。たとえば、趣味で何かに熱中するととことんやるが、ある日突如としてその趣味に興味を失う。それはもう自分でもどうしてと思うほど、突然興味を持てなくなるのだ。

これは子供の頃は気にもならなかったし、結果として様々な事をそれなりに出来るようにはなった。しかし、所詮趣味の範囲だし、それに完全に自分の物にする前に興味を失ってしまうから全て中途半端なのだ。だから、大人になってからは仕事の上でかなり困った。

その面で極めて苦労はしたが、幸い子供の頃とは違い、興味を持てなくとも責任でそれを成し遂げる心境を会得し、それなりに仕事は続けることが出来た。

ただ、趣味の面では相変わらずで、今でもふとしたときに興味を持ったことに熱中しそれまでやっていたことに興味を失う等は同じだが、ただ趣味でやったことでも生活に役立つとなれば、自分の生活のために続けることが出来るようになった。あくまで自分なりにではあるが。

たとえば語学学習がある。仕事で嫌でも外国語を使う必要があったときはそれなりに自分でも勉強をし、少なくとも仕事上では特に不便の無い位には身につけることが出来た。その後、その仕事から離れて外国語を使うことも無くなり、自分でもとくに能力を維持するつもりも無かったのだが、ネットを使うようになり外国語を理解できると得られる情報が桁違いに増えるので、また勉強を始めた。一度身につけた能力なので思ったより早く回復できたと思う。回復できてみると、積極的に外国人と話をするようになったり、外国語の映画をそのまま楽しめるようになった。これはかなり生活を豊かにしてくれる。

昔は好きで料理をやった時期があるが、今ではその時の技術が本当に役立っていると思う。私は極端な薄味好みで野菜が主で簡単な料理が好きなので、外食は嫌いだし外から出来合の食べ物を買うことも無い。結局、昔気まぐれでやった料理が今では無くてはならない技術になっている。

つまり、タイトル通り、単なる気まぐれの趣味でも気持ちの切り替えで生活を向上させる必須条件になるのだと今では理解している。惜しむらくは、子供の頃にそれを理解していたらということだ。

by ロクスケ











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捨てる決断

以前断捨離は反対だと書いたことがある。むろん、私の考えなので断捨離をするしないは人それぞれだが、ただ世の中には家がゴミに埋もれて、室内でもゴミが溢れベッドの上などごく一部の空間で生活をしている人が現実に居る。私自身も要らない物が多すぎるといつも気になっているが、さすがにゴミに埋もれて生活する気にはなれないし、そんな事をしたら精神的に参ってしまうだろう。

ただ、とにかく整理整頓が下手で、いくら掃除をしても直ぐに駄目になるのは、結局は物が多すぎるのだとの結論に達した。整理のこつとして一年使わない物はおそらく二度と使わないし、仮に使うことになっても新しく買った方が結果として安くつくという説もある。

が、今は捨てるにしてもコストがかかる。今までもたまりすぎたガラクタを整理しゴミ収集の日に出せる物は出しているが、家具とか電化製品、PC関連など纏めて業者に依頼するしか無いものが今でも物置にたまり続けている。物置も限度があるので、去年纏めてかなりの金を使って業者に依頼して引き取って貰った。それでもまだまだ沢山ガラクタがある。

考えてみると、買っているのだ。その場で衝動買いした物が多かったり、買ってみたら使うこともない、等の物が結構有る。例えば、最近捨てているのが本で、昔読みたくて買ったのだが、何度も繰り返して読むわけでも無し、ほとんどが二度と読まないのに置いてある。それが結構場所塞ぎになっているし、最近はダウンロード版を読むことが多く、場所をとることもないので、以前買った本を整理して結果としてほとんど捨てることになった。気がついたら同じ本が二冊有ったりする。自分で読むつもりで買ったのにそれを忘れてまた買った本というわけだ。

嘗て古本屋に大きな書棚一つ分を売ったら本当に紙くずの値段かと思うほど安かった。こういうことを繰り返して売らなくなったのだと思うが実際に今から読むつもりもないしもし読むとすればダウンロード版か仮に買い直しても良いと思った。図書館で借りることも出来る。そこでせっせと本を纏めているが、ついついこれは残しておこうなどと迷いがでる。

今では古書店にも本は買わないと断られてしまったし、といって読むことはないだろう本を置いておくのもどうなのか、とイライラしている。

本だけではなく、全ての物にこの様な感情があるので物が捨てられないのだろうとは思うが。

by ロクスケ











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懐古趣味

世の中には古き良き物に拘りを持つ人が居る。趣味のことだからむろんそれに対して異論を唱えるつもりなど毛頭無いが、私はその傾向があまりになさ過ぎるとも自覚している。

日本は世界でも古い文化を未だに日常生活に持っている希有な国と言って良いそうだ。むろん、世界各国独自の文化を持っているが、百年二百年前の文化を現代生活に持っている国はほとんど無い。一例を挙げれば、日本人は普通に着物を着る。普通にとは、例えば成人式の時に女性は着物を着、正月などではやはり着物を晴れ着とする人は多い。着物が普通に売れているし、夏などは浴衣の人も普通に見る。

一般の人がお茶やお花を習うことが普通に有るし、例えば落語や講談、浪曲などが根強い人気を持っているし、若い人が途切れることなくその道に入り、大相撲が国技とまで言われている。

これと直接関係があるかどうかはともかく、私の知人にSPレコードを蓄音機で聴くのが何より楽しいという。竹針を自分で作ってしみじみと聞くその心地よさは到底本人でなければ分からないそうだ。それに対し趣味なのだから異議を唱える理由など無いが、ただ私は今は音楽をネットでダウンロードし、散歩の時などは小さな音楽プレーヤーで聴いているし、家でもいつもではないが自作のアンプに音楽プレーヤを、時にはスマホをつないで聴いている。

家にはLPレコードがあるし、その為のプレーヤー、アンプ、スピーカーがある。が、レコードを聴く事はまず無いしその後は一時期カセットテープとプレーヤー、またCDと同じくCDプレーヤーと変換してきた。今はマイクロSDカードに数百曲入れた物を流しっぱなしにしている。

音楽鑑賞は元々好きだったが、同時に面倒くさがり屋なので、とにかく簡単に聴ける物を選んできたのであって、音質やその雰囲気に浸る趣味には至らなかった。かつては自分で真空管やトランジスタ、ICでアンプを作り、音に凝ったつもりだが、それでもレコードを聴く気にはならないしましてSPレコードはなおさらだ。

全てでないがレコードをSDカードに写し、同様カセットテープやCDからも写してそれを聴いている。ダウンロードと違いこれらをSDカードに写すのは聴くのと同じ時間がかかるので、同じ曲がネットにある場合はそちらを使う。つまり音質はあまり気にしていないのだ。

音楽鑑賞が好きでも音質にはこだわらないのを訳が分からんとよく言われるが、音質にこだわるのと音楽にこだわるのは違うと思っているので聞き流している。

かつては旅行に行ったときなどはポケットカメラでよく写真を撮った。良いカメラを買う気にはならず、ポケットカメラで沢山撮るのが好きだったし、今ではデジタルカメラでますます採るようになった。片端からPCに写すだけなので簡単なのが一番良い。画質は写真マニアに言わせれば問題外だろうが、別に私はそれを楽しんでいるのだから問題は無い。

つまり楽しめれば良いと言うことで、話を戻せば今は実用性のない古い日本文化を日本人が日常生活に持っているからこそ、生活に潤いがあるのだと思っている。つまり、私の音楽鑑賞や写真は潤いとは関係が無いのかと時々思っているが、まあそれでも別に構わない。

by ロクスケ











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捨てられない物

いつも鳴らしっぱなしにしているラジオで、たまたま捨てられない物というのをリスナーからメッセージとして集めて紹介している番組があった。多くの年代の人たちが、子供の頃に大切にしていた玩具を未だに50も過ぎているのに捨てられない、とか趣味で集めた○○を捨てられない、旅行のお土産で買った物が捨てられない、昔着ていた服が今は到底柄もサイズも着られないが捨てられないなどなど様々な声が紹介されていた。

私の母は、とにかく何でもかんでも取っておくのが癖だった。買い物で貰った袋、包み紙、紐、穴の空いた片方の靴下、すっかりちびたげた、着られなくなった服などなどとにかく母が亡くなってから整理してみたら家の隙間という隙間に様々な物が詰め込んであり、故人を偲ぶ物は別だが、袋や包み紙紐などは相当量処分した。

母が特別なのだと思っていたが、聞いてみるとどこにでもそのような人が居るらしい。私は本当は捨てようと思うのだがそれを忘れて使いもしない物を大量に保存する癖があり、どうも母の影響ではないかと思っている。

しかし、今は昔の思いでの物も含めて可能な限り捨てるようにしたら、捨てられない物など無いと思うようになった。それで、前回も書いたように大量の本や衣類家具や食器ありとあらゆる物を使う分だけ残して捨てつつある。仮にまた使うことがあっても新しく買った方が良いと考えるようになったし、さらに買わないようになった。それでも気がつけば要りもしない物を買うことはあるが、それでもかつてよりは減った。

思い出の品も結構だが、観なければ思い出さない。旅行で買ったお土産など、私はほとんど買うことがないが、買ってもお土産以外はほとんど無い。昔は現地でしか手に入らない,あるいは食べられない物なども有ったが、本当に欲しければ今では最終的にはネットで買える。

つまり、物を保存しておく意味があまりなくなった時代なのだと思うし、なにより私の意識が変わったのだろう。

by ロクスケ











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山野歩き

現代人はとかく運動不足でその為に血圧や糖尿、そのほか様々な疾患を抱え込むことになると言われている。かつての私がそうで、とにかく運動を全くせず、忙しさにかまけて全て車で移動し、食事も外食がほとんど、そして付き合いでほぼ毎日酒をそれもかなりの量飲んでいた。おかげで健康診断などではいつも真っ赤っかであり、医師にはなんとかしないと取り返しがつかなくなると何度も言われていた。

今は見違えるように生活を改善し、とにかく車には乗らない、歩ける距離なら歩くだけの時間が出来たし、そしてそれもかなりの速度で歩き続ける様にしている。最低でも一日7千歩を目指しているが、スマホの歩数計を使うとかなり少なめに出ることが実際の距離と歩数で計算して分かっているので、おそらく毎日1万歩は歩いているし、多いときは2万歩を越える。少し前だが、25キロを歩いてみて体力的には問題が無いことを確認した。

むろん、これだけが理由ではないが、食事の改善とほとんど断酒をすることで今では毎年受けている健康診断で全く問題が無いと言われるようになった。

私としてはおそらく歩くことが一番貢献していると思う。本当は体全てを鍛える運動をすれば良いのだろうが、どうも飽きっぽい性格でそれが何をやっても長続きしない。長続きしているのが歩くことだけだ。

子供の頃はほとんど毎日近くの山に出かけ駆け回っていた。今から考えれば一日子供の脚で十キロ位は普通に歩き回っていたようだし、それも山の坂道を駆け上がるなども普通にしていた。

社会に出てから全て車移動になって上記の様に体力が大幅に落ち、一念発起して歩くようにしたのだが、最初は一キロ歩いてへばっていたのが、今では最大25キロを歩いてなんともないほどになった。

私にとって歩くことは万能薬だと思っている。脚の筋肉は人間の体で一番大きく従って一番血流が多く、更に歩くことで全身の血流が良くなるし何より肥満防止になるし、血圧は上がらないし肺活量は衰えないし、おかげさまでかなり筋力も強いままだと思う。

むろん今の高齢者は一昔前と違って見違えるほど元気だし、おそらく同じ年齢でも昔の人より10歳は若いだろう。誰でも年を取るし、誰でもそれに伴い体力は落ちる。が、そこに個人差が非常にあり、心がけ次第では生活に不自由しないだけの体力を長らく持ち続けることが出来る。

また、運動をすることで確かに様々な病気を退けることが出来るし、現在日本人の50%が癌になると言われているがその癌が運動などで防止できる確率が高いとも言われている。

ただ、確かに健康であることは大切だが、その為に一日の貴重な時間を全て使うわけには行かない。中には週に何度も健康ジムに通って運動をしている人が居るが、運動のために貴重な時間を潰す気にはならない。あくまで私が心がけているのは時間を有効に使うために健康で居たいからだ。

その意味で、歩くというのは一番優れていると私は思う。

by ロクスケ











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ブログ

私は此処に記事を書いているほかに、ブログを開設しており、毎日欠かさず多ければ一千文字程度の記事を書いている。かなり政治的なものなので此処で紹介するつもりは無いが、もしかしたら私と知らずにそのブログを読んでいる人が居るかも知れない。

そのブログは、2009年に開設したので、もう11年も書き続けていることになるが、毎日書くのは去年の正月にそのように決心してからだ。それ以前は月に十数本程度か。

ただ、私は他にもやることが沢山有り、健康維持のために外歩きもしているし物作りを趣味としており、更に語学学習、読書などなど、気がつけば一日が過ぎているような毎日を過ごしているので、ブログ記事を書き続けることはかなり負担になるはずだ。が、私の場合は意図的に負担にならないようにしている。即ちほとんど推敲をしないのだ。

文章書きは、書くだけなら単にしゃべるのと同じ、考えている通りを書けば良いので千文字程度と書いてももたいしたことは無い。幸い仕事柄数十年キーボードには慣れている(無論昔は英文タイプライターだが)からおそらく考えている速さとあまり変わりなく入力できる。が、それを推敲するとなると書く時間の数倍かかる。以前のブログはその推敲をしていてあまりに時間がかかりすぎ滞るようになったのだが、推敲を止めることでブログ記事を書くことに時間をかけなくても済むようになった。それと、そのようにすることで、書いているときにある程度脳内で推敲をしているようになったのも大きい。

書くということは自分の考えを纏めるのに極めて有効であり、考えていることを文字にしてみることであらためて自分の考えを纏めたり訂正できる。したがって、私は文字を覚えた子供の頃から書くのが好きで、日記なども途切れ途切れながら書き続け、今はほぼ毎日20年ほど書き続けている。

まあ、それで本当に私が整理して考えるようになっているかどうかは分からないが、少なくとも書くことで思考を纏められているとは自分で思っている。

by ロクスケ











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勝負事

考えてみれば昔から私は勝負事に全く興味がなかった。とりあえずは碁や将棋、麻雀などもかつてはやったが、勝ち負けにこだわらなかったから当然強くなるはずもなく、そもそも自分でそれを研鑽しようなどと言う気になったことがない。

大人になってからも人に誘われて一度か二度パチンコをやったが全く面白いとも興奮するとも思わず、それ以外パチンコをやったことが無いし、そもそもどんなに時間が有るときでもパチンコ屋に入るなどはしない。同様、競輪競馬は全く興味なし、宝くじも買ったことが無い。

勝負事は本来人間の本能だとされている。人と競うことで自分を高めることが出来るからだというのだが、それなら私は自分を高めることが出来ないはずだった。まあ、高めたとはともかく、誰がそれを評価するのかと考えてみれば、結局は自分がどう評価するかなのだろうと思う。別に人と比べるために努力をするのではないだろう。

社会に出て仕事を始めて、そこで必要な知識は自分で学び技術も自分で身につけ、その為にはどの様にすれば効率的に自分の技術を向上させられるかは考えた。しかし、誰かよりも上になろうという意識は全くなかったと思う。自分で自分が向上すればそれで目的は達する事が出来るわけだし、第三者が誰々と比べて上か下かを判断していたかどうかは関心がなかった。

本当は、人との競争を意識しない人間は成功しないのだそうだ。今の私の生活が成功しているかどうかはともかく、自分では特に不満もないと思っている。自分なりにしたいことが出来る位には体が動くし、まあ自分が必要とする知識は持っていると思うし、更に必要なら学習することも出来る。若い頃と同じように記憶できたり体が動けば万々歳だが、今の生活で特に問題が無いレベルならそれで良しとは思っている。

人それぞれの意識の違いだろうが、人と比べても無駄な努力だと思うのが常だった。それが今考えてみれば、勝負事で勝ち負けにこだわる意識がなく、全く興味を持たなかった理由だと思う。先に書いたように、勝ち負けは人間の本能だそうだが、私にはその本能がかけていると言うことだろうか。

by ロクスケ
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天変地変

日本は世界でも特別自然災害の多い国で、地震、火山噴火、台風等の災害が毎年繰り返されている。歴史を見てもこれらの災害で本当に多くの人が亡くなっており、近年でも阪神・淡路大震災、東日本大震災、新潟中越地震、北海道胆振東部地震があり、室戸台風、洞爺丸台風、枕崎台風などなど、あるいは御嶽山、雲仙岳の火山災害、更に一昨年の九州大豪雨の被害が残っている所に先の大豪雨が襲来し、それはいま関東東北地方にまで被害が広がりつつある。特に台風や豪雨などは、地球温暖化に伴い、今後はますます巨大化し繰り返されると予想されている。

これほど災害の多い国は世界にはないと言って良い。しかし、それでも日本はそのたびにそれを克服し、これらの災害にもかかわらず世界ではトップクラスの経済大国であり続けていることに近年世界が驚嘆している様がネット上では伝えられている。

たしかにこの様な災害に襲われた多くの国が疲弊し、多くの国民が国外脱出をしている例が世界中にあるし、また略奪や暴動などの原因になっているのに、日本人は国を逃げ出すどころか、一致団結して再建に取り組み、そして実際に再建してしまうのだ。

日本人にしてみればそれは当たり前だ、と言うところだろうが、世界では当たり前ではないのだ。この日本人の特性が今回世界で進行中の新型コロナウィルス肺炎感染者の拡大の中で、日本がそれこそ例外的に少ない感染者そして死者で済んでいることが証明されているだろう。

無論、日本でも日々感染者が増え続けている。しかし、感染検査数が増えたのだから感染者が増えるのは当たり前だし、大半が無症状の人とされ、重傷者死亡者も増加はしているがその数は欧米とは桁違いに少ない。世界では嘗てペストやコレラ、SARSやMERS、エボラなどの大流行で多くが亡くなっているが、日本では近年はほとんど影響を受けていない。

それが世界でも注目されているが、結局は日本人の国民性にあるのだろうという結論になっているようだ。すなわち他国が真似をしようとしても出来ないということだ。日本人は、そう指摘されて却って驚くようだが、私自身、嘗て度々海外に行き、著名な大都市なども訪れその道路のあまりの汚れ具合、人々が食べ歩きしゴミを散らかしている様を見て驚いた経験がある。日本ではまず見られない。

結局日本人が自覚しようとしなかろうと、日頃のこの様な在り方が、結局は頻発する自然災害を克服し、伝染病を克服してきたのだろうと思っている。むろん、私たち一人一人の資質であり、今後も失ってはならないのではないか。

by ロクスケ











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気候変動

近年、日本では気象災害が続いている。九州の豪雨、度重なる台風、そして記録破りの猛暑等などで多くの人命が失われ、家を無くした人たちなどが激増している。それで無くとも日本は自然災害の多い国で世界でも特別だとされている。繰り返し大地震に襲われ、火山が噴火して昔から多くの居住地域が火山灰に埋もれている。それに加えて、近年の異常気象は、本当に深刻だ。

しかし、近年の異常気象は地球自体の温暖化が進んだ結果であり、日本以外でも死者が無数に出ている猛暑や、逆に厳寒が他国では大きな被害を発生させている。日本のように以前から災害が多くそれに対して備えがある国と違い、それらの国は日本とは比較にならない程の大きな被害を生み出している。例えば、日本は昔から耐震設計の建物が多く、奈良時代の建物が度重なる地震でも倒れないで残っているなどがあるが、石積みの建物が主の国で大地震が起きれば悲惨なことになるし、雨が降らないために泥で家を作っているような地域に大雨が降るとそれだけで多数の死者が出る。

気象変動は人間にはどうしようもない。結局被害をいかに少なくするかが問題であって、日本はその点他国に比べればまだまだましなのだ。

ただ、今後更に重大な自然災害が頻発することを考えると、むろん、国がそれに対する対策を立てるのは当然だろうが、最も大切なのは日本人が一人一人災害に立ち向かい克服する決心をしその為の生活様式を採ることでは無いだろうか。

今は世界規模で新型コロナウィルス肺炎感染者が爆発的に増えており、既に感染者は二千万人、死者が七十万人を超えている。その中で、確かに日本でも感染者が増え死者が出ているが、世界のレベルで言えば極端に少ないのは事実だ。むしろ、最近では熱中症で亡くなる人の方がよほど多いし、そもそも毎年亡くなるインフルエンザの死者が今年は激減している。確かにそうだろう。新型コロナ肺炎でもインフルエンザでも対策は基本的に同じなのだから。

結局日本人一人一人が政府に強制されることもないのに世界でも最高の感染抑止をしていることになる。自然災害に見舞われ続けている日本人だからだろう。

結局、一人一人があらゆる自然災害に対しそれなりの心構えをする事が最も大切なのだと思う。

by ロクスケ











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柔らかい頭

人間誰しも年齢を重ねるとともに頭が固くなる。つまり柔軟な思考が出来なくなるとされているが、無論それは本当だし、また人間が成熟するためには自分が属している社会のルールを無意識レベルまで身につけるために必要なのだ。対照的に子供は極めて柔軟な思考力を持っているが、それは自分が属する社会のルールを身につけるためだ。だから、日本人の子供でも幼い頃から例えばイスラム諸国でアラビア人に育てられれば、大人になってから日本に住んでも国籍はともかく精神的には日本人になれない。

しかし、年齢を重ねて自らの知識を深めるのは結構だが、それ以外を拒否する、受け付けないようにまでなると社会の進歩についてゆけない。特に近年はIT技術の進歩がそれこそめまぐるしいほど早く、子供なら抵抗なくそれを受け入れることが出来るが、年配者がそれを受け入れることは極めて難しいのが現実で、それは新しい概念を受け入れる能力が年配者にはないからだ。

当然ながらそれは個人差があり、自分の価値観は価値観として新しい物も全くブランク状態で受け入れることが出来る年配者も当然居る。私ももうそれなりに年齢を重ねていて、自分でもかなり頭が硬くなっているのは自覚しているが、可能な限り頭を柔軟に保つ努力はしているつもりだ。

例えば、昔から私はそれなりに読書をする方だが、気がついて見ると近年は特に読む本がかなりか頼っている気がする。そこで、本来なら自分が関心を持たない分野の本を手に取ってみるが、気持ちが入り込めずに結局読むのを止めてしまう事がかなりある。一方自分が好きな分野の本は何の抵抗もなく読めるし、それなりに没頭できる。確かに私も頭が固くなっているのだ。

しかし年齢のための頭の変化はいかんともしがたい面もあるのである程度は受け入れてはいるが、自分が興味のない分野は最初から無視もしている。そうしないと、興味も無い物に無理をして打ち込もうとしても時間と精神の無駄だし、子供の頃はその取捨選択が出来なかっただけのことだと思っているからだ。

本当の取捨選択が出来るなら、必要な知識を深く取り入れるためにも頭が固くなるならそれもよいかと今では思うようになっている。

by ロクスケ











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文章を書く

私は子供の頃から文章を書くのが好きで、文字を覚えた頃からとにかく何かを書いていた。最初は日記、そして後からは作文などが好きでそれは今に至るまで同じと言って良い。特に文章がパソコンで書けるようになってからは、その各文章の量はかなり多いと思う。毎日の日記はもう数十年ほとんど途切れること無く続いているし、時に小説を書き、最も長いものは400字詰めで千数百枚に及ぶ。小作品を加えれば、おそらく一千作以上の小説を書き、今も時々書いている。更に頻繁にかなり長文の手紙を人に送りもする。他に、ブログで原稿用紙数枚の文章を毎日書いている。つまり私の書く文章の量は一般人としてはかなり多い。

例えばこの記事だが、十分ほどで書いた。と言うことはほとんど編集をせず、頭に浮かぶ文章をそのままキーボーとを叩く指に伝えているような物だ。本来なら書いた文章はそれなりに編集をしなければならないのだが、私は必要を感じない限り、例えば日記やブログなどでもほとんど編集はしない。

編集は、本来なら書く時間の何倍もの時間がかかり、それだけのことを毎日やってはいられないのだ。

つまり文章を書くと言ってもほとんど頭を使っていないかのようだが、そうではない。文章を書くとは頭の中で文章を纏めそれを形にしているのであって、つまりは脳内で考えを纏めなければ出来ないことになる。書きながら文章を検証し矛盾が無いかを確認している。

書き慣れない人は本当に文書が書けないと言うが、私の場合は自分では意識もしないで書く習慣が出来ている、ということは頭の中で文章を纏める習慣がついていると言うことだ。それは頭の訓練としてはかなり有効だと思っている。

脳のトレーニングとして本来使いもしない語学を何カ国語かやっているが、それも人間が言語で物を考えることから、脳の活性化には極めて有効な手段だと思うからだ。

実際どれほどの効果が私に現れているかは知らないが、しかし思考と同じ速度で文字が書けるならそれなりの効果があるのだろうと私は思っている。

by ロクスケ











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メモの活用

メモについては今までも何度も書いているが、やはり何度でも書きたいテーマだ。私は半ば趣味のように様々な手帳を自作し、特にバインダー形式の手帳が一般化してきてからは自分でそのような手帳を作った。一例をこのサイトにも載せているが、皮で表紙を作り、中の用紙も自分で印刷して作り、とにかく一番自分が使いやすい物を作ってきた。今でももう40年ほど同じ自作手帳を持っている。

が、その手帳を今使っているかというと、殆ど使ってはいない。まず、かつては手帳に書き留めていた予定や思いつき等などは今ではPCやスマホに入れることが多くなり、大きくかさばる手帳を持ち歩くことが無くなった。

そもそも、今は一寸した外出にはウェストバッグを使うので、かさばるシステム手帳を持ち歩くことが出来なくなっている。それくらいなら、尻ポケットに入れたスマホで十分だが、もっと便利なのは簡単に閉じたメモ帳で、もう数十年使っている。システム手帳の時から併用していたが、当時はメモ帳に書いたことを後で整理して手帳に書き写すのが主だった。昔は電車の時刻など手帳に書き留めていた時期があったが、今はネットでダウンロードできるし、駅で時刻表をスマホで撮れば済んでしまう。一例だが、手帳の出番が無い。

但し、スマホやPCは壊れた場合記録が失われるので、メモ帳、手帳の方が確実なのは確かだが、PCなどのデーターは複数の媒体に定期的にバックアップをしているので別に問題は無い。

その場その場の思いつきでも、今ではメモ帳に書いて後で残す必要な事項はPCに移している。となると、手帳の出番が無くなっているわけで、もっぱらその場の記録はメモ帳にしている。A4紙を四等分し、一端を緩く綴じて180度に開けるようにした物をこれは自作した皮表紙に入れ替えて使っている。これも全て保存しているが、既に数十冊たまっている、が実際に見返すことは無い。外にも家中に使用済みのA4紙を四つ切りにして重ねた物を置いていて、その場その場でメモし、それを本来のメモ帳に挟んだりしている。

メモを取る最も大きな理由は、記憶の整理であり、何かを記憶する場合、メモを取ることで記憶がより整理され確実に記憶できると言うメリットがある。これがまた一番大きな目的と言って良い。したがって、大半の事はメモ帳で確認する必要も無い。きちんと記憶できているからだ。

普通には、その場で思いついたことは次の瞬間に忘れることもあるが、無意識のうちにメモ帳に書き留めることでそれは無くなるし、仮に忘れても常にメモを見返す習慣があれば忘れたことさえ意識にとまっていないことでも思い出すことが出来る。

メモを纏めることで、自分の思考を纏めることが出来る。このメリットも極めて大きい。

本当に些細なことでも時に応じて書くが文章だけではなくスケッチなども描く。

周囲にはメモを一切採らない人が多いが、私から見れば良くそれで不自由しない物だと感心している。

by ロクスケ











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異常気象に対処

近年地球温暖化が大きな問題になっており、現実に以前ならたまにしか起きなかった異常気象が今は毎年何かしらの異常気象に見舞われるようになっている。世界中でそのような状況で、例えばヨーロッパでは異常熱波で大勢が死んだり、オーストラリアやアメリカでは山火事が頻発し、広大な森林が燃えている。

この様な異常気象は基本的には人間にはどうしようもなく、あとはそれに対処するしかないと言うことだ。例えば、私は北海道育ちで子供の頃の家の中は薪ストーブ、後には石炭ストーブが普通でそれも家の構造自体が今とは違い隙間風が吹き込む構造だった。密閉性が今とはまるで違い、冬は寒いのが当たり前と考えていたし、小学校でも教室のストーブは気温が確かマイナス何度かにならないと焚くことは無かった。

その頃成長期だった私は幸いというか寒さにはかなり強い方で、真冬でも肌シャツの上にシャツを一枚で外を歩くし、厚手のコートや防寒着を着ることは無い。それでも特に寒いとも思わない。

話を戻せば、異常気象自体は人間にはどうしようもないので家の暖房をしっかりとするとか、家の構造を耐寒仕様にするなどはしなければならないだろうが、夏は異常に暑い年が続くのだからそれに対応する構造にもしなければならない。しかし、本来家の冷暖房だけで対処できるわけもあるまい。

それらの対処は必要だが、私としては自分の体質を多少の気温の変動にも耐えられるようにするのが最も効果的だと思っている。すなわち、冬でも寒さに耐える体質を作り、夏も暑さに耐える体質を作るなどで、唯、厚着や薄着、冷暖房などで対処するには限度があるし自分自身がますます弱くなると思う。人によっては体質上出来ない人は居るだろうが、出来るなら自分自身の体質を暑さ寒さにある程度耐えるようにするのは必要なのではないか。

by ロクスケ











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読書

最近読書端末を買った。価格も手ごろで、これは二台目なのだが気に入っている。まず、読書機能に特化していて余計な機能がなく、また一度充電すると相当期間保つのだが、なによりとにかく薄くて軽いのでどこにでも持って行けるのが良いし、またPCからテキスト形式、html形式、pdf形式などなど様々な形式の文書を移すことが出来る。

今のところ私のPCには数千冊の本が入っているが、読書のためだけにPCを担いで歩くわけには行かないので、通常は読みたい本を持って行くしかない。それでも重いし、なにより最近は活字が小さくて読みにくくなっていたのだが、この読書端末は文字サイズが好きなように出来る事もあって、外出先での読書は今ではもっぱらこれにしている。

家でも今では読書の為にPCを使うことが多い。紙の本は中身がそこにしかないときに読むだけだ。幸いというか著作権の切れた作品や古典などはネット上にいくらでもあるし、日本では入手が難しい原語の小説などろくに読めもしないのにそれこそ何十冊もダウンロードしてはいるのだが、これをもし紙の本でそろえたらとんでもない出費だしそもそも場所がない。

かつては本を何度も泣き泣き売るしか新しい本を置ける場所がなかったが、今はそんな事は気にする必要が無いし、もう読まないと決めた本は既に大量に処分して、今はPCと読書端末に入れているわけだ。

つくづく便利な世の中になったと思う。数千冊の本を普段持ち歩くなど、以前なら想像もつかないことだったが、今ではそれが全く当たり前になっている。あとは読書をしたという実感があるかないかくらいの違いだと思うが、慣れてしまえば電子書籍でも結構読んだ気になる物だ。それが知識として残るか残らないかは別だが。

大半の本は無償でダウンロードした物だが、たまにはダウンロード版を買うこともある。それも紙の本よりも安いし、殆ど買うことは無い。

また国会図書館のサイトには、本の内容がそのままjpgで公開されている物が無数に有り、これもダウンロードして読んでいる。

昔と違い、読んだ本がそのまま頭に入ることもないが、ただ読めるなら出来るだけ読みたいとはいつも思う。

by ロクスケ











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スマホ生活

前号の編集後記でも書いたが、最近は電車に乗っても喫茶店でもとにかく大半の人がスマホを弄っている。以前は大半の人が本を読んでいたのにずいぶん様変わりしたと思うし、生まれたときからスマホがあるような世代の人たちはもう本など読まないのではないかと思えるほどだ。なにしろ、文章もスマホで書くメールやメモくらいで、それもフェイスブック、ツィッターくらいの短文であり、本当にまとまった文章を書く能力がなくなっているのではないかと気になる。

だから最近の小説などでもラノベのような短文の羅列が多く、深みが全く無い。文章とは自分の考えを纏める非常に有効な手段であって、きちんとした文章を書けるとは(偉そうに自分で言うことではないとは知っているが)それだけまとまった思考が出来ると言うことだ。

つまりスマホ世代はまとまった思考が出来ないのではないかと心配になる。だから、フェイスブック、ツィッターで自分では何も考えずに誰かを攻撃し、最悪の場合当人が自殺をするなどの事件が頻発している。全てがスマホのせいだとは言わないが、書いた瞬間に発信してしまうやり方は、実際には自分で他者に対する影響を全く考えていないのではないか、そもそもそんな必要があるなどと考えることさえ無いのではないかとさえ思えてくる。

スマホは確かに便利だし、無論私も使っているが、フェイスブック、ツィッターなどは一切やらない。むろん、これらはスマホだけではなくPCでも出来るが同じことだ。

スマホは確かに便利だし、いちど使い出せば手放せなくなるだろう。だが、四六時中スマホに触っていなければ気が済まなくなるなど、スマホ中毒は深刻な問題だし、なにより自分で物を考えなくなるのではないかと気になる。

キーボードならともかく、スマホの入力システムではまともな文章も書けない。それが入力仮定で出てくる候補ワードの羅列になり、それが的確な単語の組み合わせで組み立てる文章からほど遠くなる。

便利なのは良いが、それに頼ると物を考えなくなる。この弊害を本当に理解しておかないと何か大変なことになるような気がしてならない。

by ロクスケ











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薄着で生活

以前他の記事で薄着のことを書いたことがあるが、基本的に私は薄着で過ごしている。夏も冬も着る物は余り変わらない。零度くらいなら夏と同じ、肌シャツにワイシャツだけで外を歩いている。風などが弱ければ、マイナスの温度でも同じだが、ただ、耳当てや襟巻き、手袋などを使う。また靴も防寒具にする。

それは真冬でも室内温度を10度以上には上げない生活に慣れているし、そもそも子供の頃は北海道で家は隙間風が吹き込み、暖房は居間にある薪ストーブ、後に石炭ストーブだけだった。寝るときは母があんかなどを入れてくれたが、それでも襟元が息で凍り付くのが当たり前だったし、なにより戸の隙間から畳の上に粉雪が吹き込んで積もっているような状態だった。

慣れとは恐ろしい物で、小学校でも確か数℃以下にならないと教室ではストーブを焚かなかったし、なにより田舎で1、2キロ歩く学校でも長靴で深い雪をかき分け、襟巻きと手袋、あとはセーターみたいな物で過ごしていた。とくに寒いとも思わず、それが当たり前だと思っていたし、昼休みなどは校庭の雪の上を友達と転げ回って遊んでいた。確かに子供だから体温も高かったのだろうが今と違い当時の暖房設備など今から考えれば酷い物だった。今では北海道の家はどこでも壁に厚い保温材が組み込まれ窓は二重ガラスでアルミサッシなどで隙間風は入らないようになっているし、暖房は大型の灯油ストーブなどが普通だ。元々田舎の人では普通だが外を歩くことなど滅多に無く、移動は全て車による。したがって、今の北海道の人たちは外がマイナス20度になってもその中を歩くなどせず、車を使うし、家の中も暖房で室内温度が30度等と言うのも珍しくない。なにしろ冬の方がアイスクリームやビールが売れるし、外が氷点下何度であろうと室内では肌着だけで過ごしている人も居る。つまり私のような格好で外を歩けば命に関わりかねない。

私は子供時代に寒い環境で育ったためか、室内が20度等と言うと到底我慢が出来ず、暖房機はあるが可能な限り10度以上には上げないようにしている。とはいえ、夏は30度になってもそれほど応えることもない。それなりに体が対応しているようだ。とは言え、熱中症で亡くなる人も多いので、単に鈍くなっているかも知れないとの警戒はしているが。

暖冷房の発達で、また車が普及してそれが当たり前の時に生まれ育った人たちはどうも自分で温度変化に体を対応させられないようだ。

年齢による育ちの違いではあろうが、今のところ私はそれで十分健康だし、記憶に有る限り2、30年風邪をひいたことが無い。真冬にシャツ一枚で外を歩くと奇妙な目で見られるが今では気にしないことにしている。何しろ風邪一つ引かないのはその温度対応能力のためだと思っているし。

by ロクスケ











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完全を目指さない

当然ながら、生活の質を良くしたいというのは誰でも持つ考えだろうし、だからこそ努力をしそして能力が向上するわけだ。それについては私も全く同じだが、ただ生活の為にしなければならないことは無数にある。

体力維持とその向上、その為の食事、運動、また知力維持向上のために様々な事を学び、読書をし、物を作り文章を書き語学を学ぶなどなど本当に数限りなくあり、それらを完璧なレベルにまで目指していたら寝る間どころかそれこそ何も出来ない。したがって、むろんそれらの項目には優先順位はあるが完全無欠を目指して努力をしている物など何一つ無い。

例えば物作りだが、動画などには多くの人が、それこそ名人上手が使うような道具、本業の工場などが持っているような工作機械、そして厳選した材料などを使って見事な家具などを作っている。むろん、それで満足しているなら結構なことだが、私は工具などもホームセンターで買える物、工作機械の多くは自分で設計し作った物、材料は廃材やホームセンターなどで買う安い建築材などを使っている。

当然ながら出来上がった作品は売り物になるような物ではないが、そもそも作る事を楽しむためでありまた自分で十分だというレベルの物が出来れば良しとしている。それで、腕が上がりよりよい作品が出来るなら結構なことだが、その為に時間を費やすなどはしない。つまり、自分で出来る範囲でよりよい物が出来るなら楽しめるし、結構工夫などがいるから達成感もそれなりにある。

語学の勉強をしていることは何度か書いているが、嘗て仕事で使っていたときは勿論可能な限り母国語に近づけるくらいのレベルになるよう必死になって努力をした。それで、自分の仕事や人付き合いではおそらく不自由しないレベルにはなれたつもりだ。あくまでつもりだが。

現役を離れ外国語を話す機会が無くなって自分でも驚くほどレベルが落ちたが、別になんとも思っていなかったのをネットが普及してきて外国語の記事を読んだり動画を観たりするようになり、またそれなりに勉強をし始めてみた。生活がかかっているわけではないから楽しいと思えるレベルでしかやっていないが、かつてほどではないにしろ普通の会話やネット上の読んだり見たり聞いたりにはそこそこ使えるレベルにはなったと思う。

一番大きな目的は脳を使うことで語学学習の目的は脳のトレーニングになることだが、実際どれほどの効果があるのかはともかく、それなりに成果があることで生活に充実感があるならそれで良しとしている。今私がやっている殆ど全てがそれだと言って良い。

by ロクスケ











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日記を付ける

私はおそらく文字が書けるようになってから日記を書き始めたように記憶している。すなわちもう数十年も日記を付けているのだが、むろん、書かない日もかなりあるし書き続けているとは言いがたいだろう。

いずれにせよ、子供の頃に書いた日記などとうの昔になくなっているし、その後も色々な物に書いていて、かなりの期間大学ノートに書き続けていた。仕事で全国及び世界のあちこちに出かけたがその間も途切れ途切れではあったと思うが書き続けていたろう。

最近はPCを使えるようになってもっぱらPCで書いているが、これもおそらく二十年くらい続いているだろうか。普段メモ帳を持って歩いているので、出先でも何かをしている最中でもメモ帳に書き込み後でそれを日記に改めて書くなどもしている。

実はそのように書き続けている日記を後から読み返すなどはほぼ無い。書くことだけが目的で読むことは目的ではないのだ。今はその日その日に起きたこと考えたことを書いているが、一時期は別にそのような記録を書く理由も無いだろうということで、結構でまかせ、作り話を面白がって書いていた時期もある。書くことが目的なら別にそれで構わないのだから、それなら面白い方が良いというわけだ。

日記を書く目的は記録と言うより自分が考えたことを纏める意味がある。そうすることで思考を纏め、効率よく考えることが出来るだろうとのいわば訓練として書いている。つまり文章を書くことで脳の訓練になるのだから別に日記でなくとも良いようなものだが、日記はいわば毎日書くのが原則なので、習慣づけるには都合が良いと思っている。

今は日記だけではなく、毎日のブログ記事や、小説書きなどがいわば日記とは違う分野での脳の整理になっていると思っている。

by ロクスケ











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時間感覚の変化

誰もが言うのだが、年齢と共に時間の経つのが速くなり、例えば去年一年も正月 を迎えたと思ったら直ぐに晦日になり、改めて一年の短さを痛感したと言う話を よく聞く。考えてみれば私のそのような年齢に属しているのだが、今年も又去年 以上に短く感じる一年ではないのかと今からそのような気がする。

時間という物は絶対的な物であり、赤ん坊の一年も百才の一年も同じ十二ヶ月三 百六十五日の筈だが、その感じ方の違いは自分自身の感覚でよく分かる。それこ そ五,六才の頃一日中遊び回りそして今よりも長く寝ていたのに当時の記憶はま るで数十年も続いていたような感覚だ。一方去年一昨年はほんの一瞬で過ぎたよ うな気がするが、例えば日記をめくってみても毎日書いているブログや小説など を見てもそれこそ膨大な量の物を書いている。日記とブログと小説でどのくらい 書いているかをざっと計算してみたら、一日最低四百字詰め換算十枚は書いてい るのだから、一年で三千六百枚以上書いていることになる。私の平均は一時間で 大体五枚程度として七百二十時間、つまり三十日間。同様に、散歩がおそらく二 十日間、睡眠は九十日間、食事は・・・・と計算して行くと、確かに三百六十五 日を過ごしているのだ。問題はそれを認識していないからと言うことだ。

言い換えればそれらを一つ一つ認識しながらやっていれば充実した時間を自覚し、 昔通り一年を三百六十五日として感じられるはずだが、そうは行かない。結局は 子供の時と時間の感覚そのものが違うのだと考えるしか無い。

猫は長生きしても十五年くらいか、人間は今では百年生きるのも珍しくは無い。 猫と人間はそれでも同じ一生なのだが、猫は猫として人間の一生と同じ時間感覚 で生きていると言うことになる。人間は年齢と共に時間感覚が変わって来る。そ れを受け入れないわけには行かない。

視点を変えれば、短いと感じる一年に大きな感動を持っていれば、時間X感動で、 結局は長い時間を過ごしたのと同じ生活が出来るわけだ。私は無理矢理この様な 結論を出して、それに沿って生活をしようと最近決めた。

by ロクスケ











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小説を書く

前回私が日頃文章をかなり書いていることを述べたが、その中に小説があることも書いた。ただ、私の場合、一時期の日記も別に事実を書く理由は無いと思ってかなり好き勝手なでたらめを書いていたが、それとは別に全くの創作である小説もかなり書いている。

改めて数えてみると、数百点ほどの小説を書いているが、大半は本当のショートショートだ。が、中には四百字詰め換算で一千枚、あるいは数百枚程度の作品もいくつかある。

我ながら駄作揃いだが、ただ、全く何の責任も無しに書き散らしているだけとは言え、とにかく全く新しい筋書きを考えながら書いているのはある意味それ自身が娯楽になっている。また日頃考えないことを考えることでそれなりに思考が柔軟になっているあるいは保てていると考えることにしている。

今日もこの文章を書く少し前に書きかけの作品を二、三十枚分書いているが、キーボードに向かう前はストーリーなどは考えていないのに、キーを打ち始めると、それが途切れること無くストーリーが出てくる。

場合によっては書き始めと書き終わりで全く関係も無い小説になることはあったが、今ではそのようなことは無い。つまり書いた筋書きが頭の中に有ってそれが勝手に指を動かしているかのような状態になっているわけだ。

通常は書き始める前にどのくらいの長さになるか、プロットはどうかなどを纏めるが、書きながらそれを変えることはある。

いずれにせよ、そのような全くの創作文を書くことでそれ自身が私にとっては娯楽だし、さらに繰り返すが思考力自体がかなり柔軟になっていると思う。

文学者でそれこそ百才に手の届きそうな人も居るが、それでも極めてみずみずしい文章を書く人は多い。つまりは文章を創作して書くとはそういうことなのだろうと思う訳だ。これは才能とは全くの別物であり、娯楽と考えると本当に気楽に出来る。何しろ何の責任も無いのだし。

私はやらないが、俳句や短歌を続ける人なども同じことだと想像する。

by ロクスケ










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音楽を聴く

普段私が時間をとって音楽を聴くようなことは無い。ただ、BGMとして流していることはあるが、そのような場合は数百曲を纏めて録音してある物を小型簡易ステレオでそのまま流しているだけなので、とくに何かの曲を聴きたくて再生しているわけでは無い。この場合は、それこそジャンルは全く決めていないから、クラシックの次に演歌が流れていることもある。

これは散歩の時にイヤホンで聴いている音楽プレーヤーでも同じことだが、むろん時間をとって聴きたい曲を聴くときは専用のステレオでじっくりと聴くしその時は録音した物ではなく、レコード、テープ、CDなど様々な媒体を使うが、最近は滅多にそのような時間をとることが無い。

本当はそのような時間もとればよいのだろうが、とにかくやりたいことが多くあって落ち着かないのだろう。そのやりたいことの中に色々な物の自作があってその中にはスピーカーボックスや真空管アンプなどがあるのは矛盾だと思うのだが。

ただ、これは避けようがないが、年齢と共に可聴域が狭まり、昔のように臨場感のある音を聞き分けられなくなっているという事実がある。ただ、人間とはよく出来た物で、昔から音楽に親しんでいる人は頭の中で聞こえないはずの音を再現しているのだ。

たとえばSPレコードを竹針で手回し蓄音機で聴くことを無上の喜びとしている人がそれなりに多く居る。しかし、物理的に言えばこの状態で聴ける音楽の音質は到底現代のスマホとイヤホンで聴く音にも遠く及ばないのが事実だが、それでも竹針SPの方が落ち着く安らぐいい音だという人が間違っているなどあり得ない。その人達にそのように聞こえているならもちろんそれは本当なのだ。

私はそうではないが、言い換えれば私が今できる範囲で真空管アンプ、自作スピーカーで聴くLPレコード、CD、テープも私がそれで良いと思っている限り構わないと割り切っている。

ということで、ポケットに音楽プレーヤーを入れてイヤホンで聴くことで音楽を毎日楽しんでいるわけだ。

by ロクスケ











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金銭管理

負け惜しみもあるのだろうが、わたし自身あまり金儲けに関心がないと思う。全く興味がない筈はないが、今まで考えてみて金儲けを優先した過ごし方をしたことがないと思っている。まあ、金が余ったことなど無いがいずれにせよ、その時欲しいものは手に入れることが出来たと思うからそれで良しとしていたし、今でもいるのだろう。

考えて見ると、金銭管理については我ながら上手くやってきているのではないか。むろん、人生なにがあるか分からないが今までそのようなこともなかったと思う。これからどうかは分からないが、考え始めればどれほどの金があってもたりないときはたりないだろうし、ある程度は保険をかけているし、さらに世界でも日本はその面では国家としての保証制度もしっかりしている。

ということで、わたし自身今特に金が必要になることもないが、ただ金銭管理の習慣は身に付いていると思うし、だから無駄遣いもそれほどしていないと思いたい。むろん、必要だと思って買ってみた物が実際は要らなかったなどはあるし、旅行など行ってみたら期待外れだったなど沢山有るが、だから買い物旅行を止めるわけにも行かない。

実際ほんの近くをじっくりと見ながら歩き回ってみたら今まで知らなかった物を観たなどはあるから旅行に金をかければ良いという物ではない。少し本題から外れるが、外国に行くにもツアーでガイドの案内で決まったコースをまわれば安心だろうし何も自分で苦労をすることも無いが、記憶にも印象にも残らない。わたしの場合は、自分でプランを立て、ホテル、見物、食事、移動手段など全て自分でやって実行する。苦労は苦労だがそれが旅行の楽しみの一つだと思えば、価値が違うし、むろん大幅な節約になるから広い場所を見て歩ける。ただし、トラブルもあるがそれを自力で解決できればそれも楽しみになる。つまり同じ金をかけるなら業者に任せるのではなく自分で全部やる方がよほど充実したものになる。これは一例だが、同じ金をかけてその結果が大きく変わるという意味だ。当然人によって事情が異なるから全員そうすべき等と言うことではなく私はそうだという話だが。

これも金銭管理だと思う。

無駄遣いをしないのは基本だが、同じ金で大きな結果を出すこともある意味金銭管理だと思うわけだ。

by ロクスケ












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金銭管理2

幸い私は金持ちではないので無駄遣いをしたくても出来ない。したがって、金銭管理も必要が無い・・・・と言うわけにはいかず、また元々が思いついたことに直ぐ飛びつく性格もあって、時折無駄な物を捨てる度に、なんでこんな物を買ったんだろうと不思議に思うほど無駄な物を衝動買いで買っていたようだ。

さすがに最近は以前よりはましになったが、まだまだ改良する点は無数にある。おそらく一生そうなのだろうとは思うが。最近ネットなどではミニマリストなる人たちが話題になっていて、一部屋に何もおかずに最低限の服と下着くらいで生活をしている人たちがいるが、全くそのまねをしたいとは思わない。人それぞれ、それが好きな人はやれば良いだろうけれど、私はある程度無駄な物を持っている方が精神的に安定するようだ。とはいえ、無駄な物が多すぎればうんざりするので、その兼ね合いが難しいと言うことか。

最近では衣服には本当に金をかけない。殆ど作業服で過ごしているし、その作業服も洗濯で取れない汚れが染みついたら作業用、綺麗なうちは外出にも普通に使っているし、その為には作業服は沢山持っている。それは私は無駄だとは思っていない。

食べ物も基本外食が嫌いなので自分で作ったものしか食べないし、今は酒も飲まない。別に倹約のためにそうしているのではなく、生活をそのようにしたら金がかからなくなったと言うことだ。その結果か、毎年受けている健康診断では問題なしと言うことになっているし、実際自分では身体的な衰えを感じていない。

睡眠や家事など必要な時間以外は外歩き、物作りかパソコン作業が殆どで勿論テレビなど無い。パソコンでは今はブログとホームページ、更に電子出版にかかりきりになっていて幸いこれらは金がかからない。読書も今ではダウンロードした物が多い。数百冊入れた読書端末をそばに置けばいつでも好きな本が読める。

つまり、自分でそのつもりではなくとも金を使わない生活で十分に楽しんでいると思う。結局、金を使えば生活を楽しめると言うことではないと今になって痛感している。

by ロクスケ











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年齢と共に注意力低下

最近、あるスーパーで高齢夫婦がレジにいるのを見た。気になったのは、混雑時レジに並ぶのに夫婦が列を作っているが、支払いは一人だ。会計をしない夫は列に並ぶ必要は無いはずだし、買い物篭を運ぶだけならその時に行けばよいだけだろう。混んでいるとき並ぶ必要の無い人間が並ぶなど、他の客に迷惑をかけることだと思いつかないのだろうか。特に今コロナ感染が問題になっているときなどはなおさらのはずだ。無論全ての高齢者がそうであるわけはないし、若い人間でも請求金額を見てから財布を取り出して小銭を勘定する客がいたりする。大体の金額を計算して用意しておけば良いだろうと思うし、常連ならその店のカードを使えばそれもない筈だが、大体に於いて人間高齢になると注意が及ぶ範囲が狭くなる。また時間感覚がずれてくるとも言われている。

それが理由で道路を横断して車にはねられる、あるいは自分が運転していてはねるなどの事故起こしやすいとされる。車の運転とは、むろん常に前方だけではなく左右、ミラーで後、さらに離れた場所に割り込んでくる車などがないか等常に注意していなければならないし、子供などはいつ道路に飛び出してくるか分からない。つまり周辺に常にまんべんなく注意出来なければ車の運転は危ないのだが、それが出来ない人が事故を起こす率が高い。

被害に遭う方も、例えば道路を横断するとき、横断歩道があるか、信号はどうなっているかを確認し、例え信号が青でも突っ込んできそうな車がいないか、横断歩道がなくとも遠くにいる車が自分の渡りきる間に近くまで来る速度ではないか距離はあるかなどを判断して横断を始めるべきだし、なにより自分の脚でその安全を確保できる横断が出来るかなどが判断の範囲に入る。

狭いT字路で車が出て来ないか確認してから渡る、進入してくる車がないかを確認し、もし車がいたら停止したことを確認し、運転者の目を見て確認し手を挙げて渡るなどが安全のために何より必要なはずだ。いくら自分が注意しても相手が同じ注意をしているはずだなど思い込むのはとんでもないし、なにより自分が注意できているかどうかの確認も必要だろう。年齢を重ねるとどうしてもその面が衰えてくる。

私も人のことは言えないが、それを自覚しているからこそなお周辺に注意を広げるようにはしている。

by ロクスケ











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例えば自作アンプ

わたしは元々電気関係の仕事をしていたし、色々な物を自作するのが今も趣味なので、いくつかアンプを作ったことがあったし、これからも作る事はあるかと思う。ところで、昔は真空管アンプしかなかったし、そのアンプも極めて高価でそれこそ一大決心をしなければ買えなかった。しかし、わたしとしては色々なアンプを聴き比べてみたいので、生涯に一度しか買えない様なアンプは買わない。ということで、自分でアンプを作ることがいつの間にか趣味になった。

最初は自分で真空管や様々な部品を買ったり、あるいは壊れたラジオやテレビから部品を採ったり、同好者と部品を交換したりしながら色々作ったし、その中で出来るだけ音の良い物を作る工夫をしていた。

その後、真空管はトランジスタに換わり、そして今はICに換わってきている。それに従い、今ではアンプ用の部品は劇的に値段が下がったが、一方昔ながらの真空管アンプもそれなりに人気があり、マニアでは相変わらず真空管アンプを作っている人が多い。

音質と言えば、今ではほんの小遣いで買えるICアンプがそれなりの良い音を出しているし、第一真空管アンプにしてもそれほど素晴らしい音だとも思わないが、そもそも音質などあくまでその人がどう感じるかであって、たとえば未だにSPレコードを竹針でならすことを無情の楽しみにしているマニアもいる。むろん、趣味なのだから何に凝っていても本人が良いならそれで良いのだが、わたしも今は買った方がよほど良い音のICアンプを組み立てて使っている。

まず、わたし自身が音質をそれほど聴き分けるだけの聴力が無くなっているのと、わたし自身が慣れ親しんだ音質であればそれで良しとしているからだ。が、最近といってもかなり前なのだろうが、集めていた部品のガラクタ箱をかき回して古い真空管や部品をかき集め自分で設計した真空管アンプを組み立てた。余り期待はしていなかったがそれなりに良い音で、やはり趣味にして良かったと思った。

趣味とはこんな物だ。値段や手間を考えていたら趣味など全く出来ない。大体は既製品の方が安くて品質が良い。アンプに限らず自分で家具の様な物から最近では靴まで作るつもりで材料集めをしている。なにしろわたしの足は幅広で平たく市販の靴がなかなかしっくりこないから、型から自分で作って皮を縫い合わせて作るつもりだ。その為ネットでそれなりに勉強した。それで市販を越える靴が出来るなどとは思っていないが、履ければ十分だし、それこそ作る事を楽しめれば良い。

大体、自作品よりも市販品の方が質が良く安いが、そんな事を言っていたら趣味など意味がなくなる。

by ロクスケ











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手紙を書く

以前ほどではないが、わたしは頻繁に葉書や手紙を書く。今ではメールも増えているが、メールの場合は何かその時に連絡が必要で書いたものが大半で、いわゆる時候の挨拶やご機嫌伺いなどをメールで行うことはない。

一方、ネット環境を持っていない高齢者などは葉書や手紙が必要だし、さらにメール環境があっても紙に書くことが多い。

ただ、昔は万年筆などで手書きにすることもあったが、今は通常最も簡単なtxtエディターを使い、必要なら装飾のために文章エディターを使う。文章エディターは余計にドライブのスペースを使うし反応も遅いので普段は使わないが、例えば写真などを貼り付ける時など使うだけだ。

さて、用件を伝えるにしても唯の挨拶にしても今では電話で済むのだから実際には近年この様な葉書手紙は激減しているし、配達の手間などを考えると、郵政省などもこの分野は赤字部門だと言うが、一方的にやめるわけにはいかないのだそうだ。

現実に近年年賀葉書などは本当に激減しているという。わたしとしてはどうも残念でならない。

文章を書くことで自分の考えを纏めることが出来る事は以前も書いているが、それが誰かを対象としている場合は、その人のことを目の前に居る様に思い浮かべて書くので、日頃逢っていなくとも身近に感じる事が出来る。わたしが手紙を書く理由だが、今の人たちはおそらく電話でも同じように誰かとの親しさを感じることが出来るのだろう。わたしはどうも電話が嫌いなのだが。

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健康で生活するために 徹底した掃除

最近何かの発作でも起きたか、とにかく家の隅から隅まで徹底した掃除を始めた。むろん、いつも掃除はしているが、大体は見えるところだけをなんとか綺麗にしガラクタなどを見えない場所に突っ込んでいることが多かった。

が、ある日気がついてみると本当にいつ買ったか分からないような物、全く使わない物が余りに多く、嫌気がさして片付け始めた。一度それを始めて見るとそれなら他の場所もということでもう一週間ほどになるが未だに続けている。一番多いのは衣類だろう。昔は背広が必需品で何着も持っていたが今は着ることなどほとんど無い。いや、全く無い。型も古くなっているし、年齢にも合わないので、思い切って全部ゴミ袋に押し込んで捨ててしまった。

使わない食器、書類、様々な道具とにかく全く使わない邪魔なだけの物があきれるほど出てくる。断捨離をするつもりは無い。つまり必要最低限の物以外を全て捨てる断捨離はわたしの方針ではないので、必要な物は持っているし更に買うこともあるが、絶対に使わなくなった物、それに壊れて使えない物などがあきれるほど多くあるのには我ながら驚いた。

驚いているばかりではいられないのでとにかくそれらをせっせとゴミ出しをし、使わない家具もばらして捨て、そしてかなりの場所が余裕が出たので、徹底して掃除をし、雑巾をかけ大体日常使う場所はそれで片付いたと思う。

古い家で部屋が大小十室ある。トイレや玄関ホール、浴室などは又別で、おそらくそれらを全部仕上げるにはあと十日やそれ以上かかるだろうし、それらが済めば最初に掃除をしたところが又汚れているだろう。

掃除は徹底的にやれば切りが無く、到底時間がとれないのでこの一連の掃除が済んだら、あとはまた日常の簡単な掃除だけにするつもりだ。

が、掃除をしながら精神的には非常に良い影響があることを確かめた。結局、家の掃除は精神の掃除としても役立つのではないかと思うようになった。

by ロクスケ











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思い込み

思い込みというのは誰にでも有ることだろうが、つまり様々な理由や考え方があるはずなのにどういうわけか一つのことを信じ込んで他の可能性を全く考えることが出来なくなる状態を言う。

わたしにもこのような事はあるが、可能な限りそれの無い様にしてきたし、何かをする時可能な限りの他の方法を用意するようにしている。考えた方法が上手く行かないなど普通に有ることであり、上手く行かなかったら他の方法というのは当たり前に考えるだろう。多くは上手く行かなくなってから考えるのだが、思い込みをしてしまうと、他の方法を考える、他の理由を考える、何故上手く行かないのかを考えることが全く無くなる。

後から考えてみてなんであんな思い込みをしていたのだろうと我ながらあきれるのだが、その時は一切そんな他の可能性など思いつきもしない。

先日だが、家の中の電気配線を変える工事をした。本当なら本職の電気工事士に依頼するところだろうが、家の中の電気配線は別に資格が要らないので、いつも自分でやることにしている。

わたし自身は電気関係の仕事をしていたがいわゆる電気工事が専門なのではなく、電気関係の機械についての仕事をしていた。その必要上、電気工事についてはそれなりの知識はあったが、資格は持っていないしそもそもその機械のための電気工事は必ず専門の人に発注していた。

が、今回は家の中の配線であり、それなりに工事の仕方は理解していたし、また別に家の中の電気工事は初めてではない。ということでやってみたら失敗した。スィッチを入れた途端にブレーカーが落ちる状況で、念を入れて検査をしたが漏電をするような状況ではなかった。また漏電は電気工事の際一番注意しなければならないことなので、わたしもむろん細心の注意をしていたはずだ。

ところが何度やり直しても駄目で、結局一週間ほどかかってしまった。本来なら数時間で出来る工事だし、自分で気がつかないところで漏電を起こしているのかと何度も検査し(検査のための道具は持っている)そして見つからない。配線も予め図に書いてチェックしているのにその図面には間違いが無い。

何が何だか分からないで途方に暮れていて、最後に気がついた。大元の電源をとる場所が間違っていた。が、本来なら最初にそこをチェックすべきだったのに全くそれを考えなかったのは正に思い込みのためだろう。

なまじ知識を持っているとこう言うことがある。車の運転に慣れた人が事故を起こしたり、工場や工事現場などで専門家が事故を起こす原因にも案外多いのではないか。

結局、自分が基本で思い込みをしている事をとにかく疑えば別の視点で考えられるのに、と今回あらためて思った。

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近所づきあい

自分でも知っているが、昔から人付き合いが苦手だった。昔はそれをかなり気にしていて自分なりに人付き合いが上手く出来るように努力をしたものだが、それなりに成果はあったと思う。会社勤めをしていた時は人付き合いが苦手ですでは済まないし、それなりに同僚上司、そして顧客や下請けの人たちなどとも良い関係を持たなければならないし、なによりそうしなければまともな仕事が出来ない。そして、その意味ではかなり普通の人付き合いが出来ていたと思う。

しかし自分で仕事をするようになり、そして今ネット時代直接人と触れなくとも良い時代になってどうやら本来の人付き合いが苦手という特性が出てきてしまっているようだ。が、自分でも驚いているが昔のようにそれが気になることがあまり、というより殆ど無い。

とはいえ無人島に居るわけでもなし、最小限他の人との接触は要る。近所の人に外で出会えば挨拶はするし、ついでに立ち話などもする。買い物に行けばレジの人にお願いしますありがとう、こんにちは位は言うしそれは赤の他人でも必要に応じて必要だから、それはほぼ無意識に出来る。

が、考えて見てそれ以上の人との関係はあまりないと思うし、自分でもそれが全く気にならない。ただ、知人はいるし、時々だが逢ったりもして、逢えば話が弾むなどは普通に有る。

人付き合いが無ければ寂しい、毎日誰かと接していなければ落ち着かないその為に色々な行事に参加するなどなどは知人の多くがそうだし、むしろ普通だろうが、その意味ではわたしは普通ではないのかも知れない。が、それでわたしが別に不安でもないしイライラもしないならそれはそれで構わない。むしろ人付き合いで神経を使う方がよほどわたしにとっては大変だから、嘗てのように人付き合いに神経や時間を使わなくても済む今の方がのびのびと生きていると思う。

それこそ人それぞれであり、年齢を重ねてきて今生き方を変えなければならない理由は無いと思っている。

by ロクスケ











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DIY

DIYとはDo It Yourselfのことで、自分でやれ、という意味だ。掃除洗濯料理など普通は家庭でやるだろうが、それもDIYになる。しかし、日本でDIYと言えば殆ど工作関係で、その関連の動画などをわたしはよく観る。そしてわたし自身、DIYが好きで、それこそありとあらゆる物に手を出し、様々な工作機械自作から陶芸、木製の品々、電子部品を組み立ててアンプや計測器、パソコンなど、自分で部品を買い集めて組み立てたりした。今でもパソコンは殆ど自作だが、昔と違い、中身は既製品を買って組み合わせるだけだから、昔のように部品を買い集めて作ったのとは違う。

家の改築、家具作り、それこそありとあらゆるものに手を出して作っているが、使える事は使えても人様に見せられるような物は作れない。世の中には、全くのアマチュアながらプロ顔負けの様々な物を作る人が居て、たとえば模型機関車を何年もかけて作る人などが居る。わたしは様々な分野の物に手を出し当然ながら金属加工、木工、電子工作など専門技術はまるで無いが作る事が楽しい。一つの技術を身につけてより完成した物を作るより、ない技術を工夫で補って、様々な物を作る方に興味があるからだ。

最近も、部屋を一つ作った、というと大げさだが、今まで物置にしていたスペースから、詰め込まれていた様々なガラクタを時間をかけて捨て、そのスペースにあらためて壁を作りドアを作り、床を敷き、ペンキ塗りをしてから机や棚、照明装置、電源コンセントなどを付けて、二畳間ほどの書斎らしき物を作った。何か秘密基地が出来たようで、非常にワクワクしているが、その出来は当然ながら本職の大工さんがする仕事とは次元が違う。一目で素人が工夫をして廃材を利用して作ったことが分かるが、ガラクタを大量に捨てて空いたスペースに、こんな秘密基地のような部屋を作ったこと自体が面白かったわけだ。

実際にそこでは今は余っているパソコンを持ち込み、家にはWi-Fiがあるのでそれを利用してネットなどにつなぎ、あるいは様々なドキュメントなどを作ることにしている。ついでだが、自分で作ったステレオ、と言うよりラジカセを持ち込み音楽も聴けるようにしている。それから、そのスペースに合わせて椅子も作った。これもむろん廃材利用だが、頑丈でそれなりに使い勝手も良いようだ。見かけは、まあそこそこと言ったところか。

専門家に頼めばそれなりにきちんとした部屋が出来るだろうが、自分で作ったから楽しい。使うことより作る事が楽しい、だからDIYをするのがわたしの理由だ。

by ロクスケ











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綺麗な文字を書きたい

わたしの書く文字はとにかく汚い。後からでは自分でも読めないような文字を書いていた。かつて仕事で文章を手書きしなければならない時は我ながらなんとかならないものかと、とにかく非常に苦労して、形はともかくとにかく読めるような文字を書くように努めていた。

友人や家族、得に母親は嘗て教師だった事もあってか非常に綺麗な文字を書き、文字は遺伝しないのかと恨めしく思っていたし、姉も非常に綺麗な文字を書く。が、兄とわたしはとにかく汚い文字を書いていた。散々練習をして、ある程度はそれなりの文字を書けるようにはなったと思うが、あくまでわたしとしてはであり、文字は人なりというように余りに恥ずかしい文字を書いていると、相手に与える印象が悪くなりすぎるからだ。

文字が汚い。それはわたしの場合、どうしても思考速度に合わせて書くと走り書きになることによる。昔から文章を書くのは好きで、子供の頃から日記や作文、読書感想などなど毎日色々な物を書いていたが、その為には考えたことがそのまま文字になる速さが必要になる。どうしてもじっくりと時間をかけて書くなどは出来ず、走り書きが普通になっていた。それではきちんとした文字は書けないし、現在も毎日多分四百字詰めで四,五枚以上の文章を書いている。一旦書き出せば、四百字詰め換算四,五枚程度なら一時間もかからない。

が、現在は全てパソコンで書いているので、メモなど以外は筆記具では書かない。つまり綺麗な文字を書いてもそれを使うケースは極めて少ないし、たまに葉書を手書きで書く位だろうか。

それでも昔に比べてならそれなりにきちんとした文字を書くようになったと思うが、そして多分お世辞だろうが、綺麗な字を書きますねぇ、等と言われることもあってびっくりしたりもする。ただし、あくまで昔に比べてましになったと言うだけで、人様と比べての話ではない。

ただ、不思議なもので綺麗な文字を書きたいと思う気持ちがそうさせるのか、筆記具には愛着があって、未だに万年筆の気に入ったものを何本か持っているし使っている。他の筆記具も気に入った物は直ぐに買う癖がある。自分で筆記具を作ったりもしている。

文字は記録だけではなく精神を落ち着けるためにも必要だし、日本の書道がこれほど発展しているのもその為だろう。その為にも、折に触れて自分の手書きの文字をもう少し増しにして行きたいとは未だに思い続けている。

by ロクスケ











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毎日の散歩

よほど土砂降りでもない限り、わたしは毎日午後散歩をする。天候やその日の予定などによるが、最低五キロほど、多い時は十キロほどを大体一時間五キロほどで歩くようにしている。毎日同じコースではないが、年に一度位は二十五キロ位も歩く。

歩くことが基本的に好きなのと、やはり体力維持に最適だと思うからだ。嘗ては仕事での移動には全て車か公共交通機関を使っていたが、むろん歩いている時間がなかったからだ。その意味で今は時間的に毎日歩けるのは本当に良いことだと思う。

歩くことが理由の全てではないだろうが、前述したように歩くことを習慣にし始めてからは極めて健康状態は良いと思うし、それこそ風邪などもひいたことは無い。毎年簡単な健康診断を受けているが、まず問題は無いとされている。

歩くことでほぼ全身の筋肉を使うし、姿勢に気をつけ時々深呼吸をするなどがそれなりに健康改善に効果を上げているのだろう。が、単に健康維持のためだけに歩いているわけではなく、歩きながら色々なことを考え、思いついたことは立ち止まってメモ帳に書き込むなどをすることでそれなりに頭も使っている。体を動かしながら頭を使うことが確かに脳の活性化にも好影響があるだろうと思うが、これはわたしがそう思っているだけかも知れない。

それと、歩きながら音楽を聴いたり外国語を聴いたりしている。今はその為の本当に小さなプレイヤーがあるし、それこそ何時間でもそのまま聴けるのでほぼ歩きながらのBGMだ。

子供の頃は田舎暮らしでそれこそ学校から帰ると一日中本当に歩き回っていたし、近所の山々を今から考えればよく無事に家に帰れた物だと思うほど歩いていた。歩くことが好きだったし山から海まで何処にでも歩いて行った。おそらく最もも遠くというと、近郊の他の町で、今から考えてみれば家から往復二十七キロを小学生の足で歩いていたことになる。つまり歩くことが子供の頃から好きだったと言うことだし、車での移動をしない時期と車移動の時の健康状態は天地ほどの差があった。

by ロクスケ











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書庫整理

先日から書庫の整理をしている。とにかく読まない本がうんざりするほど有るのだ。嘗て、古本屋に売ろうと電話をかけてみたら、今は古本が全く売れず、したがって買い手も見つからない、だから持ち込みで買う価値があれば買うが、買うためには行かないと言うのだ。

確かにわたし自身昔読んだ古い小説などを何度も読むことはしないし、図鑑のような物や辞書も今は使わない。使うとすれば全てスマホがあれば出来てしまうし、パソコンで調べることも見る事も出来る。すなわち、図鑑や辞書のような物はもう全く出番が無い。

その意味では書庫にある本は全て処分しても良いとは思うが、あとは気分的な物でどうせ読むことはほとんど無いはずだが残しておく本も結構有る。歴史書、専門書、各種の図鑑、各国語辞書などなど。

また現実問題として、昔のように小さな活字を長時間読むのは苦手になっている。目が若い頃とは違う。で、今本を読むとすればたいていは読書端末を使っている。これなら数百冊の本を入れておけるし好きな倍率で読める。著作権切れの本などはネットで多数ダウンロード出来るし、先に書いた図鑑、辞書等の類いはネットで調べた方がよほど早いし何処ででも出来る。

また国会図書館などでも一部の本だがそのようにして画像として取り込むことが出来る。

つまり嘗て読んだ記念として保存する以外の本を持つ理由があまりないということだ。また一部の本はスキャナーで取り込んで、OCR(画像文字をTXTに変えるプログラム)で読めば本の実物を持っている必要も無い。ただし、結構手間がかかるのでそれは殆どしないが。

ということで、それでも残す必要の無い膨大な、本当に自分で驚くほど膨大な量の本を、何度にも分けてゴミ収集日に出している。売れないことが確実な本ばかりだが。

ある意味残念とも思うが、書庫の棚をある程度空けて、置きたい物も有るし、書庫をオーディオルームにするつもりでもある。色々アンプなどを自作してきたが、普通の部屋だとスピーカーを置いても音はいまいちなので、その意味でも書庫の整理に精を出している。あと一週間ほどで、捨てる本の全ては処分出来るし、もう紙の本を買うことはほとんど無いと思う。

by ロクスケ











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スマホ

わたしもスマホは持っている、しかし通常使っているような使い方はしていない。電車の中などではそれこそ大半の人がスマホを覗いているが、まずわたしはそういうことはしないし、また、音楽を聴いたり動画を観たりもしないし、メールのやりとりもしない。

わたしがスマホを使うのは無論電話が主だが、他には地図、歩数計、交通機関の時刻表、写真撮影、時々ネット記事くらいか。後はごく時たま一部電子決済とかそんな物だろう。あとは室内に付けている防犯カメラを外出中に見る位しか思いつかない。強いて言えば、時たま辞書として使う位だろうか。スマホが売りにしている新しい機能の殆どは使っていないが、別に不便だとも思っていない。

ネットの本来の機能はデスクトップパソコンでそれなりの機能の物を使っているし、スマホは上記の機能さえ有れば十分なので別に機能を満載した最新型など使う理由が無いし、安い物を使っている。

歩きながら音楽を聴くなら、それ専用のプレーヤーの方がよほど便利で使いやすいし、何も小さな画面で動画を観る理由がない。そして通常他の人がスマホを触っている時、わたしは小型の読書端末で本を読んでいる。おそらく数百種の本を入力しているし、文字なども見やすい大きさで設定出来るから今は紙の本を滅多に読まない。家で読む時はデスクトップで読んでいる。

年代的な違いもあると思うがなぜ今の人たちがまともに本も読まずスマホばかりを観ているのか不思議に思っている。無論それなりの理由や趣味なのだろうからやめるべきとは言わないがわたしはそういうスマホの使い方を考えたことも無い。

確かにスマホは便利だ。が、スマホに振り回されるとなればそれこそ本末転倒ではないだろうか。

by ロクスケ











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本当に文字を書かなくなった

元々文字が汚いことは気にしていて、一時それなりにペン習字に熱中して、わたしなりに、以前とは違うかなり綺麗な文字が書けるようになったと思っていた。ただし、わたしの場合は時間をかけて物を書く事が無く、とにかく思考速度に合わせて書くのが主なので、結局は以前とは変わらない汚い文字だったが、時間をかければそれなりに書けると自分を納得させていた。

しかし、最近は特に文字を書くことがほとんど無くなり、単にメモ帳に走り書きすることしか無い。もちろん、文章は毎日それなりにかなりの量を書いている。このメルマガもそうだが、日記、ブログ、そして小説書きと、多分最近は原稿用紙10枚以上は毎日書いているはずだ。が、全部パソコンであって、だからこそ以前以上に自分の思考速度に合わせて書けるようになっている。速い時なら、一時間で400字詰め7,8枚は書いていると思う。無論後から推敲するが書く時は思考速度に合わせて書くことがわたしにとっては都合が良い。

ということで、落ち着いて書道のように文字を書くことが無くなった。

元々文具、特に筆記具が好きで、それなりに凝った物を集めていた時期もあったが、今はそれこそ百均のボールペンで全部済んでしまう。メモ帳も持ち歩いているが、当然百均ボールペンしか持ってでない。嘗ては当時万単位の金額で買ったボールペンも持っていたが、殆ど使ったことは無いし、当時は水性ボールペンが無く、また専用替え芯しか無いので、使う理由が無い。今は進化した百均水性ボールペンの方がよほど書き心地が良いとしか思えない。

万年筆も何本も持っているが、殆ど使わない。時たまインクを入れ替えたり中を洗ったりしなければインクが固まるのでそうしているが、今はインクを入れないままにしている。万年筆が好きなことは変わりないのだが、今のわたしには実用価値が全く無い。

あくまで趣味の問題なので、使わない筆記具を集める人も居るし、ペン習字や毛筆習字に熱中する人はむろん感心するし自分もそうしたいとは思うが、おそらく自分にはそのような素質が無いのだろうとも思っている。

by ロクスケ











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手抜きの大切さ

普通はやりたいことが非常に沢山有り、勿論全部をやり遂げることなど出来ない。またわたしの場合、体力維持のためにも毎日1,2時間のウォーキングなどが欠かせないし、ブログで時に一、二時間の文章書き、語学学習、読書、エトセトラと兎に角日常に欠かせない事も沢山有る。とうぜん、テレビなど観ないし、とうの昔にテレビなどお払い箱にしている。

それでも時間は足りないので、効率よく手抜きをするしか無い。現役時代仕事に手抜きなどは一切しなかったつもりだが、今は上記の日常のことでもたとえばブログの文章書きなどは毎日頭の機能活性化もあって原稿用紙数枚程度の文章を書いている。しかし、誤字脱字訂正以外は基本編集などしない。本当に編集作業をするとなると文章書きの2,3倍では済まない時間がかかる。即ち、最低4,5時間をかけなければならないが、当然そんな時間はない。つまり手抜きで編集無しにブログに毎日記事を書いているが、この目的はあくまで脳トレなので構わないと思っている。むろん、今は実用性の無い外国語学習も脳トレ以外の目的はほとんど無い。

しかし、一番手抜きと言えば掃除と食事か。手をかけて食事の用意などする気にはならないし外食は更にその気にならない。と言うことで毎日同じ物を食べ、それにいくつか付け加えるだけで済むし、なにより朝夕二食だけなのでかなり時間は節約出来る。おかげさまで毎年受ける健康診断でも問題は無い様だ。

それと更に手抜きはなんと言っても掃除だろう。この説明は要らないと思うが、時に徹底した掃除はする物の毎日ではない。毎日なら目についたところだけをちょこちょこっとごまかして済ませている。

着る物も基本季節を問わず薄着だし、同じ物を着ている。ただし、洗濯だけはしているが、アイロンがけなどする気も無いので、結局作業服を着ている。綺麗なうちは外出着、ちょっとヨレヨレになったかなと思ったら普段着、そしてもうこれは駄目だなと思うのは工作室で作業服という具合で嘗てはかなり持っていた背広などはもう着ない。着ないから全て処分してしまった。気を使っての外出着などもほとんど無い。それでクリーニング、洗濯などをかなり手抜きが出来ると言うことになる。

今の生活だから出来るだろうとは思うが、生活に余裕を持たせるにはそれに応じた手抜きもきちんと計画を立ててするべきだと思う次第だ。

by ロクスケ











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パソコンの整理

現在は自作のデスクパソコンを主として使っている。記憶媒体はSSDだが、これは極めて作動が早く、便利だが、問題はこのSSDは半導体の塊でHDDに比べて容量が小さく、そして高価であって、金に飽かせて巨大容量の物を使うわけにも行かない。また何かの拍子に全く作動しなくなることもHDDなみにあるようだ。

と言うことで、わたしは二十年以上貯めてきた様々なデータ、即ち文章などはまだしも動画、音源、画像などが膨大な量になり、無論要らない物は捨てているとしても、それでも膨大な量を、HDDに移している。

気がついたら今のSATA形式のHDDは十数個有るし、その前のIDEはもう何個有るか知らないが使うことは無い。パソコンの専門用語が分からない場合は、とにかく無視していただきたい。で、SSDの内容は定期的にUSBメモリーや、HDDに移して、SSDはなるべく空けるようにしている。

ということで、HDDには二十年ほど為続けたデータが入っていて、万が一SSDのCドライブや等が壊れても、ドライブ自体はクローン(Cドライブが破損した時に交換する予備のドライブ)を作ってあるので、直ぐに起動させ、必要なデータを戻すことが出来るし、また別に使っている古いノートパソコンも同じようにHDDからSSDに交換して、その為のデータとしてこのHHDのデータを取り込むことも出来る。

なにより、何が起きてもデータを確保出来るのは非常に心強く、例えば何かの非常事態の場合持ち出す非常袋に入れておけば、パソコンが無くなっても新しいパソコンにその保存したデータを移せば良い。これも極めて安心だ。実際には今のところそのような事態にはなっていないが、嘗てHDDも非常に高価で、記憶媒体としてFD(フロッピーディスク)しか無かった頃はほぼ絶望的だし、その頃貴重なデータを無くしてほぼ絶望した記憶がある。

今は文書で記録を残すことがほとんど無く、全てパソコン作業であり、データの保管には十分気をつけ、保管場所を分散するなどもしている事で、精神的には極めてよろしい。

by ロクスケ











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DIY

わたしの生活の一部としてDIY Do It Yourself, つまり自作がある。その為の工作室もあるし、様々な工作機械もあるから、それなりに色々作れる。が、問題は所詮素人なのだから、例えば大工作業でも本職の大工さんが使うような良い道具など持っていないし、更にそれを使う技術がない。そこで、安い材料、時には廃材や拾ってきた木片や金属片などを加工してそれなりにごまかして作り、見かけは二の次とする。そして大方の物は、大体一定期間が過ぎると壊すか捨てる。そのまま作り続ければ家の中がガラクタであふれかえるし、作る事が目的で使うことが目的では無い場合が多いからだ。

また電子工作はわたしの本業だったこともあって例えばアンプや様々な電子工作をするし、昔から居続けていた今では珍しい真空管などの部品も沢山有る。捨てるのはもったいないのでそれを使った物を作るがやはり使うことはほどんど無い。つまり作る事が目的というのは大工仕事場会では無いわけだ。

ただし、確かに役立つことはある。台所の改造、床下の改造、部屋の改造などは本職に頼めば数十万以上かかるが、自分でやれば殆どコストはかからないし、自分が納得すればそれで良いと言うことで問題は無い。それに見かけもそれほど酷くはないし、なにしろ家中の窓のカーテンを止めて全て障子にしたが、その障子もむろん一番安い材料を買ってきて自分で必要な寸法に作った物だ。本来の障子のサイズとは違うから本職に特注すれば飛び出す目の玉がいくつあっても足りないほど高いが、自分で作る分にはホームセンターで売っている一番安い材料を使えば済む。見かけもそれほど悪くはない。室内の灯りもそうやって自分で作り、極めて満足している。

ということで、本職に頼むこと無く、自分で必要な家の改造などが出来るのは何よりありがたいし、その為には結構頭も使うので、頭の体操にもなっている。

今では様々な材料や道具がネットで簡単に安く買えるし、作り方も様々な記事や動画で紹介されているので、誰でも出来る。なにより出来が多少まずくても自分で作れば愛着も湧く。

テレビなどで時間を潰す位ならDIYを大いにやった方が良いと思う。

by ロクスケ











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綺麗な文字を書きたい

わたしの書く文字はとにかく汚い。後からでは自分でも読めないような文字を書いていた。かつて仕事で文章を手書きしなければならない時は我ながらなんとかならないものかと、とにかく非常に苦労して、形はともかくとにかく読めるような文字を書くように努めていた。

友人や家族、得に母親は嘗て教師だった事もあってか非常に綺麗な文字を書き、文字は遺伝しないのかと恨めしく思っていたし、姉も非常に綺麗な文字を書く。が、兄とわたしはとにかく汚い文字を書いていた。散々練習をして、ある程度はそれなりの文字を書けるようにはなったと思うが、あくまでわたしとしてはであり、文字は人なりというように余りに恥ずかしい文字を書いていると、相手に与える印象が悪くなりすぎるからだ。

文字が汚い。それはわたしの場合、どうしても思考速度に合わせて書くと走り書きになることによる。昔から文章を書くのは好きで、子供の頃から日記や作文、読書感想などなど毎日色々な物を書いていたが、その為には考えたことがそのまま文字になる速さが必要になる。どうしてもじっくりと時間をかけて書くなどは出来ず、走り書きが普通になっていた。それではきちんとした文字は書けないし、現在も毎日多分四百字詰めで四,五枚以上の文章を書いている。一旦書き出せば、四百字詰め換算四,五枚程度なら一時間もかからない。

が、現在は全てパソコンで書いているので、メモなど以外は筆記具では書かない。つまり綺麗な文字を書いてもそれを使うケースは極めて少ないし、たまに葉書を手書きで書く位だろうか。

それでも昔に比べてならそれなりにきちんとした文字を書くようになったと思うが、そして多分お世辞だろうが、綺麗な字を書きますねぇ、等と言われることもあってびっくりしたりもする。ただし、あくまで昔に比べてましになったと言うだけで、人様と比べての話ではない。

ただ、不思議なもので綺麗な文字を書きたいと思う気持ちがそうさせるのか、筆記具には愛着があって、未だに万年筆の気に入ったものを何本か持っているし使っている。他の筆記具も気に入った物は直ぐに買う癖がある。自分で筆記具を作ったりもしている。

文字は記録だけではなく精神を落ち着けるためにも必要だし、日本の書道がこれほど発展しているのもその為だろう。その為にも、折に触れて自分の手書きの文字をもう少し増しにして行きたいとは未だに思い続けている。

by ロクスケ











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毎日の散歩

よほど土砂降りでもない限り、わたしは毎日午後散歩をする。天候やその日の予定などによるが、最低五キロほど、多い時は十キロほどを大体一時間五キロほどで歩くようにしている。毎日同じコースではないが、年に一度位は二十五キロ位も歩く。

歩くことが基本的に好きなのと、やはり体力維持に最適だと思うからだ。嘗ては仕事での移動には全て車か公共交通機関を使っていたが、むろん歩いている時間がなかったからだ。その意味で今は時間的に毎日歩けるのは本当に良いことだと思う。

歩くことが理由の全てではないだろうが、前述したように歩くことを習慣にし始めてからは極めて健康状態は良いと思うし、それこそ風邪などもひいたことは無い。毎年簡単な健康診断を受けているが、まず問題は無いとされている。

歩くことでほぼ全身の筋肉を使うし、姿勢に気をつけ時々深呼吸をするなどがそれなりに健康改善に効果を上げているのだろう。が、単に健康維持のためだけに歩いているわけではなく、歩きながら色々なことを考え、思いついたことは立ち止まってメモ帳に書き込むなどをすることでそれなりに頭も使っている。体を動かしながら頭を使うことが確かに脳の活性化にも好影響があるだろうと思うが、これはわたしがそう思っているだけかも知れない。

それと、歩きながら音楽を聴いたり外国語を聴いたりしている。今はその為の本当に小さなプレイヤーがあるし、それこそ何時間でもそのまま聴けるのでほぼ歩きながらのBGMだ。

子供の頃は田舎暮らしでそれこそ学校から帰ると一日中本当に歩き回っていたし、近所の山々を今から考えればよく無事に家に帰れた物だと思うほど歩いていた。歩くことが好きだったし山から海まで何処にでも歩いて行った。おそらく最もも遠くというと、近郊の他の町で、今から考えてみれば家から往復二十七キロを小学生の足で歩いていたことになる。つまり歩くことが子供の頃から好きだったと言うことだし、車での移動をしない時期と車移動の時の健康状態は天地ほどの差があった。

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書庫整理

先日から書庫の整理をしている。とにかく読まない本がうんざりするほど有るのだ。嘗て、古本屋に売ろうと電話をかけてみたら、今は古本が全く売れず、したがって買い手も見つからない、だから持ち込みで買う価値があれば買うが、買うためには行かないと言うのだ。

確かにわたし自身昔読んだ古い小説などを何度も読むことはしないし、図鑑のような物や辞書も今は使わない。使うとすれば全てスマホがあれば出来てしまうし、パソコンで調べることも見る事も出来る。すなわち、図鑑や辞書のような物はもう全く出番が無い。

その意味では書庫にある本は全て処分しても良いとは思うが、あとは気分的な物でどうせ読むことはほとんど無いはずだが残しておく本も結構有る。歴史書、専門書、各種の図鑑、各国語辞書などなど。

また現実問題として、昔のように小さな活字を長時間読むのは苦手になっている。目が若い頃とは違う。で、今本を読むとすればたいていは読書端末を使っている。これなら数百冊の本を入れておけるし好きな倍率で読める。著作権切れの本などはネットで多数ダウンロード出来るし、先に書いた図鑑、辞書等の類いはネットで調べた方がよほど早いし何処ででも出来る。

また国会図書館などでも一部の本だがそのようにして画像として取り込むことが出来る。

つまり嘗て読んだ記念として保存する以外の本を持つ理由があまりないということだ。また一部の本はスキャナーで取り込んで、OCR(画像文字をTXTに変えるプログラム)で読めば本の実物を持っている必要も無い。ただし、結構手間がかかるのでそれは殆どしないが。

ということで、それでも残す必要の無い膨大な、本当に自分で驚くほど膨大な量の本を、何度にも分けてゴミ収集日に出している。売れないことが確実な本ばかりだが。

ある意味残念とも思うが、書庫の棚をある程度空けて、置きたい物も有るし、書庫をオーディオルームにするつもりでもある。色々アンプなどを自作してきたが、普通の部屋だとスピーカーを置いても音はいまいちなので、その意味でも書庫の整理に精を出している。あと一週間ほどで、捨てる本の全ては処分出来るし、もう紙の本を買うことはほとんど無いと思う。

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スマホ

わたしもスマホは持っている、しかし通常使っているような使い方はしていない。電車の中などではそれこそ大半の人がスマホを覗いているが、まずわたしはそういうことはしないし、また、音楽を聴いたり動画を観たりもしないし、メールのやりとりもしない。

わたしがスマホを使うのは無論電話が主だが、他には地図、歩数計、交通機関の時刻表、写真撮影、時々ネット記事くらいか。後はごく時たま一部電子決済とかそんな物だろう。あとは室内に付けている防犯カメラを外出中に見る位しか思いつかない。強いて言えば、時たま辞書として使う位だろうか。スマホが売りにしている新しい機能の殆どは使っていないが、別に不便だとも思っていない。

ネットの本来の機能はデスクトップパソコンでそれなりの機能の物を使っているし、スマホは上記の機能さえ有れば十分なので別に機能を満載した最新型など使う理由が無いし、安い物を使っている。

歩きながら音楽を聴くなら、それ専用のプレーヤーの方がよほど便利で使いやすいし、何も小さな画面で動画を観る理由がない。そして通常他の人がスマホを触っている時、わたしは小型の読書端末で本を読んでいる。おそらく数百種の本を入力しているし、文字なども見やすい大きさで設定出来るから今は紙の本を滅多に読まない。家で読む時はデスクトップで読んでいる。

年代的な違いもあると思うがなぜ今の人たちがまともに本も読まずスマホばかりを観ているのか不思議に思っている。無論それなりの理由や趣味なのだろうからやめるべきとは言わないがわたしはそういうスマホの使い方を考えたことも無い。

確かにスマホは便利だ。が、スマホに振り回されるとなればそれこそ本末転倒ではないだろうか。

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本当に文字を書かなくなった 元々文字が汚いことは気にしていて、一時それなりにペン習字に熱中して、わたしなりに、以前とは違うかなり綺麗な文字が書けるようになったと思っていた。ただし、わたしの場合は時間をかけて物を書く事が無く、とにかく思考速度に合わせて書くのが主なので、結局は以前とは変わらない汚い文字だったが、時間をかければそれなりに書けると自分を納得させていた。

しかし、最近は特に文字を書くことがほとんど無くなり、単にメモ帳に走り書きすることしか無い。もちろん、文章は毎日それなりにかなりの量を書いている。このメルマガもそうだが、日記、ブログ、そして小説書きと、多分最近は原稿用紙10枚以上は毎日書いているはずだ。が、全部パソコンであって、だからこそ以前以上に自分の思考速度に合わせて書けるようになっている。速い時なら、一時間で400字詰め7,8枚は書いていると思う。無論後から推敲するが書く時は思考速度に合わせて書くことがわたしにとっては都合が良い。

ということで、落ち着いて書道のように文字を書くことが無くなった。

元々文具、特に筆記具が好きで、それなりに凝った物を集めていた時期もあったが、今はそれこそ百均のボールペンで全部済んでしまう。メモ帳も持ち歩いているが、当然百均ボールペンしか持ってでない。嘗ては当時万単位の金額で買ったボールペンも持っていたが、殆ど使ったことは無いし、当時は水性ボールペンが無く、また専用替え芯しか無いので、使う理由が無い。今は進化した百均水性ボールペンの方がよほど書き心地が良いとしか思えない。

万年筆も何本も持っているが、殆ど使わない。時たまインクを入れ替えたり中を洗ったりしなければインクが固まるのでそうしているが、今はインクを入れないままにしている。万年筆が好きなことは変わりないのだが、今のわたしには実用価値が全く無い。

あくまで趣味の問題なので、使わない筆記具を集める人も居るし、ペン習字や毛筆習字に熱中する人はむろん感心するし自分もそうしたいとは思うが、おそらく自分にはそのような素質が無いのだろうとも思っている。

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手抜きの大切さ

普通はやりたいことが非常に沢山有り、勿論全部をやり遂げることなど出来ない。またわたしの場合、体力維持のためにも毎日1,2時間のウォーキングなどが欠かせないし、ブログで時に一二時間の文章書き、語学学習、読書、エトセトラと兎に角日常に欠かせない事も沢山有る。とうぜん、テレビなど観ないし、疾うの昔にテレビなどお払い箱にしている。

それでも時間は足りないので、効率よく手抜きをするしか無い。現役時代仕事に手抜きなどは一切しなかったつもりだが、今は上記の日常のことでもたとえばブログの文章書きなどは毎日頭の機能活性化もあって原稿用紙数枚程度の文章を書いている。しかし、誤字脱字訂正以外は基本編集などしない。本当に編集作業をするとなると文章書きの2,3倍では済まない時間がかかる。即ち、最低4,5時間をかけなければならないが、当然そんな時間はない。つまり手抜きで編集無しにブログに毎日記事を書いているが、この目的はあくまで脳トレなので構わないと思っている。むろん、今は実用性の無い外国語学習も脳トレ以外の目的はほとんど無い。

しかし、一番手抜きと言えば掃除と食事か。手をかけて食事の用意などする気にはならないし外食は更にその気にならない。と言うことで毎日同じ物を食べ、それにいくつか付け加えるだけで済むし、なにより朝夕二食だけなのでかなり時間は節約出来る。おかげさまで毎年受ける健康診断でも問題は無い様だ。

それと更に手抜きはなんと言っても掃除だろう。この説明は要らないと思うが、時に徹底した掃除はする物の毎日ではない。毎日なら目についたところだけをちょこちょこっとごまかして済ませている。

着る物も基本季節を問わず薄着だし、同じ物を着ている。ただし、洗濯だけはしているが、アイロンがけなどする気も無いので、結局作業服を着ている。綺麗なうちは外出着、ちょっとヨレヨレになったかなと思ったら普段着、そしてもうこれは駄目だなと思うのは工作室で作業服という具合で嘗てはかなり持っていた背広などはもう着ない。着ないから全て処分してしまった。気を使っての外出着などもほとんど無い。それでクリーニング、洗濯などをかなり手抜きが出来ると言うことになる。

今の生活だから出来るだろうとは思うが、生活に余裕を持たせるにはそれに応じた手抜きもきちんと計画を立ててするべきだと思う次第だ。

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パソコンの整理

現在は自作のデスクパソコンを主として使っている。記憶媒体はSSDだが、これは極めて作動が早く、便利だが、問題はこのSSDは半導体の塊でHDDに比べて容量が小さく、そして高価であって、金に飽かせて巨大容量の物を使うわけにも行かない。また何かの拍子に全く作動しなくなることもHDDなみにあるようだ。

と言うことで、わたしは二十年以上貯めてきた様々なデータ、即ち文章などはまだしも動画、音源、画像などが膨大な量になり、無論要らない物は捨てているとしても、それでも膨大な量を、HDDに移している。

気がついたら今のSATA形式のHDDは十数個有るし、その前のIDEはもう何個有るか知らないが使うことは無い。パソコンの専門用語が分からない場合は、とにかく無視していただきたい。で、SSDの内容は定期的にUSBメモリーや、HDDに移して、SSDはなるべく空けるようにしている。

ということで、HDDには二十年ほど為続けたデータが入っていて、万が一SSDのCドライブや等が壊れても、ドライブ自体はクローン(Cドライブが破損した時に交換する予備のドライブ)を作ってあるので、直ぐに起動させ、必要なデータを戻すことが出来るし、また別に使っている古いノートパソコンも同じようにHDDからSSDに交換して、その為のデータとしてこのHHDのデータを取り込むことも出来る。

なにより、何が起きてもデータを確保出来るのは非常に心強く、例えば何かの非常事態の場合持ち出す非常袋に入れておけば、パソコンが無くなっても新しいパソコンにその保存したデータを移せば良い。これも極めて安心だ。実際には今のところそのような事態にはなっていないが、嘗てHDDも非常に高価で、記憶媒体としてFD(フロッピーディスク)しか無かった頃はほぼ絶望的だし、その頃貴重なデータを無くしてほぼ絶望した記憶がある。

今は文書で記録を残すことがほとんど無く、全てパソコン作業であり、データの保管には十分気をつけ、保管場所を分散するなどもしている事で、精神的には極めてよろしい。

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Do It Yourself

わたしの生活の一部としてDIY Do It Yourself, つまり自作がある。その為の工作室もあるし、様々な工作機械もあるから、それなりに色々作れる。が、問題は所詮素人なのだから、例えば大工作業でも本職の大工さんが使うような良い道具など持っていないし、更にそれを使う技術がない。そこで、安い材料、時には廃材や拾ってきた木片や金属片などを加工してそれなりにごまかして作り、見かけは二の次とする。そして大方の物は、大体一定期間が過ぎると壊すか捨てる。そのまま作り続ければ家の中がガラクタであふれかえるし、作る事が目的で使うことが目的では無い場合が多いからだ。

また電子工作はわたしの本業だったこともあって例えばアンプや様々な電子工作をするし、昔から居続けていた今では珍しい真空管などの部品も沢山有る。捨てるのはもったいないのでそれを使った物を作るがやはり使うことはほどんど無い。つまり作る事が目的というのは大工仕事場会では無いわけだ。

ただし、確かに役立つことはある。台所の改造、床下の改造、部屋の改造などは本職に頼めば数十万以上かかるが、自分でやれば殆どコストはかからないし、自分が納得すればそれで良いと言うことで問題は無い。それに見かけもそれほど酷くはないし、なにしろ家中の窓のカーテンを止めて全て障子にしたが、その障子もむろん一番安い材料を買ってきて自分で必要な寸法に作った物だ。本来の障子のサイズとは違うから本職に特注すれば飛び出す目の玉がいくつあっても足りないほど高いが、自分で作る分にはホームセンターで売っている一番安い材料を使えば済む。見かけもそれほど悪くはない。室内の灯りもそうやって自分で作り、極めて満足している。

ということで、本職に頼むこと無く、自分で必要な家の改造などが出来るのは何よりありがたいし、その為には結構頭も使うので、頭の体操にもなっている。

今では様々な材料や道具がネットで簡単に安く買えるし、作り方も様々な記事や動画で紹介されているので、誰でも出来る。なにより出来が多少まずくても自分で作れば愛着も湧く。

テレビなどで時間を潰す位ならDIYを大いにやった方が良いと思う。

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詐欺メール

以前からだが、アマゾンやグーグルなどを騙った詐欺メールが頻繁に来る。わたしは自動的にゴミ箱に入れているが、中にはそれで欺されて個人情報を盗まれてしまったり、クレジットカード情報、銀行口座などを盗まれたり、あるいは現金を受け取りに来た人間に渡したり小包で札束を送っているなどの被害が本当に後を絶たない。

高齢者に多いなどと言うが、時に若い人にも被害者が出る。どうしてこんなわかり切った詐欺メールに欺されるのかと不思議に思うし、大半の人が自分が欺されるなど無いと思い込んでいるそうだ。

ただ、欺す方はそれを承知の上で欺すのだからそれなりの技術を持っているし、さらに下手な鉄砲数撃ちゃなんとかで、千件の詐欺メールなどで一件引っかけられれば元が取れると言うことだ。

幸い、わたしはそのような被害に遭ったことは無い(と思う)が、自分は大丈夫だと確信しているわけでは無い。まず詐欺メールが来る場合、何かのHTMLメールに書き込んだ場合が多い。したがって、メインのメールアドレスではなく、サブメールアドレスをそのような場合では書き込んでいる。

また、たまに来るメインのメアドに来る例えばアマゾン、グーグルなどのメールには直接返事をせずに、アマゾン、グーグルのサイトを開いてチェックするようにする。

さらに、ネットショッピングの支払いは、常に現金引き換え、コンビニ払いなどにしていて、カード払いはしないし、銀行口座を書き込むようなことはしない。それにより手数料がかかる場合はあるが、それでも安全を最優先している。

ネットが普及してくればそれに追随出来ない人も増えてくる。自分もそうかも知れないといつも用心をしておく必要があると思っている。

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老化と劣化

人間誰しも年をとる。最近わたしもそれを感ずるようになったが、ただ同年配の人たちと比べれば幸いなことにかなり体力的には良い方だと思う。まず、この二、三十年風邪をひいた記憶が無いし、何かの病気で生活に支障が出たという記憶が無い。むろん、それでも日によっては体調が優れない、よく眠れない、疲れを感じるなどはある。

それでも同年配の人たちが頻繁に病院通いをしているとか、到底十五分は歩けない、いや五百メートルも歩けない、力仕事が出来ない、毎日テレビを観て過ごしている等と言うのを聞くと、自分はかなり大丈夫だと安心するのは事実だ。わたし自身は毎日よほどの悪天候でもない限り五キロ程度は早足で歩くし、場合によっては十キロ十五キロ位は気が向けば歩く。二、三時間歩いても別に疲れることは無いし、景色を楽しみ写真を撮り季節の移り変わりなどを楽しんでいる。今年も近郊だが二十五キロを歩く計画を立て、ホテルも予約した。今年の三月末は、桜見物などで都内を二週間ほど毎日十数キロ歩いた。

去年も二十五キロを歩いて別に疲労も無かったし快適な旅行が出来たと思うのだから、おそらく健康状態は良いのだろう。むろん全ての同年配の人よりも優れているというのではなく、歩いている時にも同じように歩く人と出会ったり時には話をしながら歩くこともある。

毎日習慣として歩くと、誰もが日常生活で困ることは無いと言っている。他の人は知らないが、わたしは今では完全に断酒しているし、無論タバコもすわない。外食をせず、相当な薄味でそれも菜食を主としているなどを心がけているのも今の状態の理由なのだろう。

誰もが年をとる。わたしも例外では無いし、それなりに年をとったことを自覚することもある。それに最近まで外で会った近所の人が外に出てこなくなった、入院したなどと聞くと寂しく感じるのは事実だ。ただ、若い頃と比べても仕方が無いし、わたしの場合は若い頃仕事がらみで毎日大酒を飲み外食をし、煙草を吸うなど今から考えればよくまあ、と思うような生活を続け、当然ながら常に何らかの病気を抱えていた。むろん、近所のコンビニに行くのも車で行ったような生活でほとんど歩くなどもしていなかったのだから、頻繁に行っていた医師になんとかしなければ取り返しがつかなくなる、現に脂肪肝になっていると言われた。

それを考えると、当時より当たり前に年をとり老化しているはずだが健康状態は比べものにならないほどよくなっている。年齢を考えればということだが、わたしは幸い金も無いが、健康があるなら何よりの財産だと思っている。

by ロクスケ











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ネット犯罪

最近はほぼ毎日のように詐欺メールが来る。多くは良く知られた通販会社、たとえばAmazonからのメールを装っているが、Amazonに一切登録していないアドレスに来るので、自動的にゴミ箱に入れている。

わたし自身、メインのメールアドレスはもう二十数年使っているのでこれはよほど信頼出来る相手にしか使っていない。上記の例えばAmazonなどの通販会社やソフトウェアを買った会社などなどや友人、知人などにはこのメインのメールアドレスを使っている。

それ以外の普段余り関わりの無い相手との連絡は、いくつか持っているサブのアドレスを使う。たとえば、サイトメール等と言うのがあって、画面に名前や住所、メールアドレス、個人情報などを記入してクリックするとそのまま内容が相手に送られるメールだが、これはよく詐欺メールをする者達の間でアドレスが売買されると言われている。

実際、そのようなサイトメールで相手に送ると、直後から上記の様なAmazonなどを装ったメールが頻繁に来る。したがって、サイトメールに記入するにしてもメインのメールアドレスなどは使わない。

また偽メールでクレジットカード番号などを記入させたりする場合もある。

わたしも通販をよく利用するが支払いには絶体にカードなどは使わないし、銀行口座、通帳番号などは使わない。そもそもネットでは絶対にこれらの情報は載せず、多少手数料が高くなっても通販は着払いや、コンビニ払いを使っている。カード払いや預金口座引き落としなど絶対にしない。例え相手が真面な企業でも、ハッキングでこの情報が漏れないなどの確証はないし、現実にこれを悪用されているケースがいつも報道されている。

ネットでなくとも電話などで特に高齢者に電話をし、息子などを装って金の請求をし、クレジットカードや銀行カードを盗んだり、金を受け取る受け子が来て金を渡してしまったり、金を宅配で送ったり、あるいは銀行のATMから相手の言うままに操作して金を欺されるなど、どうして欺されるのか、あれほど欺されるなと報道でも繰り返されているのに欺される人間が後を絶たない。

結局欺す方は相手の正常な思考を止めるような技術を磨いていると言うことだ。自分は欺されないなど思い込まずにいつも欺されるかも知れないとの心構えは必要なのかも知れない。

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薄着の効果

わたしは人に比べて極めて薄着だ。思うだけではなく実際によほどの冬の厳冬期でもない限り、普段は外を歩くのでも肌着の上にシャツ一枚で過ごしている。すれ違う人は秋から春まではそれなりに重ね着をし、その上にコートなどを着ているが、他の人がそうしている時わたしがシャツ一枚で歩いているとかなり奇妙に見えるのだろう。

薄着のためだけでは無いだろうが、兎に角風邪をひかないし、インフルエンザなどもかかった記憶が無い。

それに歩く速さがそれなりに速いし時に小走りなどをするので結構からだが暖まっているなどもある。

これは室内でも同じで、他の家で暖房を点けている時でもわたしは暖房を使わない時が多いし、厳冬期などはむろん、暖房機を使うが、それほど頻繁でもない。また外に出て買い物などのために店に入ったりするととにかく冬の暖房が時に気になるほど暑く感じることがある。

暑さ寒さをどう感じるかは人それぞれだろうが、自分では我慢をしているつもりは全く無い。結局は体がそれに慣れていると言うことだろうか。子供時代は北海道で育ち、当時は家も隙間風が当たり前、暖房も今ほどは進んでいなかったから兎に角寒かった。が当時はそれが当たり前なのだと思っていたし、結構雪の上を転げ回って遊んでいた。学校へも零下十度位でもオーバ-等着ないで歩いて通っていた。教室も零度にならなけれが石炭ストーブを焚かなかった。

子供時代それで育ってしまったので、体が基本的にそのように出来ているのだと思う。

今北海道では家の断熱がかなり向上し、暖房機が極めて大きくなり、そして移動は殆ど車等なので、寒さに晒される生活があまりない。それで真冬外が零下二十度を下っても家の中では肌着一枚で過ごし、アイスクリームやビールを楽しむのが当たり前になっている。案外北海道の人たちは東京の人たちよりもかなり寒さに弱くなっていると言われている。

結局わたしは体が寒さに慣れて育ち、それが今も人からすれば寒い環境で普通に暮らしているのだと思う。

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音楽プレーヤー

レコードやCD、テープなどが再流行している。今はMP3でネットからダウンロードし、音楽プレーヤーで聴く人も非常に多いが、わたしもその一人だ。ただ、音楽を鑑賞するというより、生活のバックグラウンドに使っているような物で、散歩の途中でも耳にイヤホンをはめている。語学などもそれで聞き流しているが、音楽についてもランダムで再生して聴いているだけのことが普通だ。

が、最近少し心変わりし、たまに音楽鑑賞を目的に時間を過ごしてみたいとも思うようになった。その為に、アンプを自作することから始めた。家には、大量のレコード、テープ、CDがある。それらの再生装置もある。スピーカーもある。無いのはアンプだったが、これも本格的に自作する気になった。

わたしは元々物作りが好きで、専門は電子関係だったから多くの電子パーツや真空管などを持っていたし、自分でアンプの設計も出来る。ということで張り切って作ったが、思ったような性能にならない。理由は様々考えられるが、それを徹底して解明して作り直すよりも結局いい音を聴きたいならと通販で最新のICによる組み立てキットを買ってみた。

これで大丈夫かと思うほど安く、組み立ても簡単で作ってみたら真空管アンプよりも聴きやすい音がする。

一つはわたしの耳が普段聞いている音になれているのと年齢のためと思われる。確かに音の善し悪しはその人の拘りによるものが大半で、未だにSPレコードに竹の針を使って、アンプ無しに唯ラッパから出る音に痺れる人も居る。ステレオではなくモノラルだが、本人がそれで最高に楽しいならそれがその人にとって至上の音なのだろう。

また最近ではレコードに対する人気が復活してきたし、さらにテープによる物も人気が出てきて、それらを知らない若い世代もレコードやテープ、そして再生機を買っている。メーカーもその為のレコードやテーププレーヤーの生産を再開してよく売れているそうだ。

結局、人間が音を楽しむのは自分が良いと思うやり方で楽しむのが本当の楽しみであり、おそらくわたし自身はネットからダウンロードした物をUSBメモリーにでも入れて、専用アンプで聴くのが一番良いらしい。自分でも知らなかったが、拘りがなさ過ぎるのも不思議だとは思う。

by ロクスケ











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定期健康診断

幸いなことにわたしは年齢の割には健康で、たしかに2,30年の間風邪をひいた記憶も無いし、入院経験も無い。細かな不具合は度々出ていたが、短期間に回復したしその意味でまあ健康だろうと思う。必要なだけ身体も動くし、睡眠も食事も排泄もそれなりに正常だ。

その為の努力をしているつもりだし、嘗て大病をしたこともあるしまた30年以上前は年がら年中身体の具合が悪くて風邪はひいている方が治っている時期よりも長かったと思う。

そこから兎に角健康になろうと決心し、生活スタイルを完全に変えて食事内容を変え、体重管理をし、そして毎日積極的に身体を動かす努力をしてきた結果がほんの数年で今の状態になったと思う。

健康だとは言っても人間いやでも年をとれば加齢による体力低下は避けられないが、セルフチェックに因れば万全とは思わないとしてもまあ合格点だろうとは思っている。

その為に、わたしは毎日血圧を朝夕計り、体重を記録し、排便の記録をし、歩数を記録していた。嘗てはノートに書いていたが、今は表計算ソフトを使っている。

そして今は毎年簡単な健康診断を受けているが、尿検査、血液検査などなどで今のところ特に問題は無いとのことでそれも大きな安心に繋がっている。

ただ、わたしの知り合いで、わたしより若かったのに健康状態には問題が無いと医師に言われた正にその直後心不全で急死したとか、癌検診で問題が無いとされたその直後癌が深刻な状態で見つかったというケースもあるので、健康診断を受ければ絶体安心と言うことでは無論ない。健康だと言われていても、常に自分の体調を自覚して気になるなら検査を受けることにしている。実際はその必要性は今のところ感じたことは無い。

健康だけのことではないが、いくら用心しても対策を執っても完全だなどということはない。それを踏まえて、兎に角今の状況でずうっといたいと思う。健康が失われてしまえば、何をする気にもならなくなるとはよく聞くからだ。

by ロクスケ











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新しい年を迎える度に

毎年正月を迎える度に思うのは、あっという間の一年だったということ。それも年々一年が短くなっているように感ずる。むろん、時間の流れは変わるわけではなくあくまでそれの感じ方が変わると言うことであり、人間年齢と共に経験を積んでいるから、日常の出来事を殆ど経験済みであり、それをいちいち新しい記憶に組み込むなどをしていたらそれこそ日常生活自体が成り立たなくなる。

簡単な例だが、朝起きて着替える、その時に袖をどの様に通すか、ズボンの前後をどの様に合わせるかなど誰も意識などしていない。その時はそれに応じた判断を自動的に行っているが、大体は他のことを考えながらやっていたりして服を着替えた後は自分はその為にしたことなど全く記憶に残らない。洗顔するのも歯を磨くのもそれこそ人により細かいやり方は違うだろうし順序も違うだろうが、それを毎回記憶することなどあり得ない。誰もが無意識にやっていると言って良い。

しかし幼い子供はそのやり方を一つずつ覚えて行かなければならないから一つ一つが意識に登るし、それを終えた後もくっきりと記憶にのこる。それが何度も行われて習慣になれば、記憶に残らなくなる。すると以前はそのようなことをしていた時間も記憶に有るが、無意識にやるようになると時間の記憶もなくなると言うことだ。

大人になれば日常のそのようなことは殆ど記憶に残らない。したがって、記憶に残らない時間は結局意識されなくなるから時間がそれだけ速く経ったと感じるようになるのは当然なのだ。

だが、それも人によって違う。何も新しいことに挑戦せず毎日同じ日常を単に繰り替えていると、知らない間に一日が過ぎ、それが年々短くなるわけだ。テレビを観て時間を過ごしていながら、場合によっては自分が何の番組を観ていたかなど直ぐに忘れてしまう。

時間の経過が速くなることをなんとも思わない人はそれで良いのだろうが、わたしの場合は同じ時間を過ごすならそれなりに充実して過ごしたいと思うから、たとえばテレビは一切観ない、外をと散歩する時でも出来るだけ違うルートを通り、同じ場所でも写真を撮る。幸い今はスマホなどで簡単に採れるから、例えば今年一年で、数えてみたら12,300枚ほど写真を撮っていた。散歩から帰ってくると、スマホから写真をパソコンに移している。

ほんの一例だが、そうすることで毎日通っているはずの場所が新鮮に映るしその時間を確かに意識している。

この様にすることで毎日過ごす時間をそれなりに意識出来、結局それなりに充実するのだろうと思っている。

by ロクスケ











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時間管理の難しさ

つい色々なことに手を出してしまうので、何をするかの予定は毎日確認している。

しかしそれでも他のことに気を取られて予定していない事に手を出してしまうこともあるし、そもそも客が来たり、急用で出かけなくてはならなかったりなどなどで予定していたことが予定通りに出来る事は滅多に無い。いや、全く無いとも思う。それに私自身の精神状態というか、気分、そして体調の善し悪しなどで予定になっていることをやる気になれないなども普通に有る。

ようするに予定は予定、まずその通りに生活出来ることは無いということだ。だからといって時間管理が必要ない等と言うことではない。予定通りに行かないことを前提として予定を立てると言うことだろうか。

つまり時間管理とはあくまで自分の予定を可能な限り実行したいと思う為の目標だろうか。上記の様に自分ではいかんともしがたい理由で予定通りにならない等の他に、自分が気乗りしないから予定に有ってもやらないでしまうなどは普通に有る。

まあ、時間管理とは私にとってはつくづく難しいと思っているが、だからこそ時間管理の仕方をもっと改良しなければならないだろうと思っている。なにしろ会社勤めをしていた時は、組織の中で自分の役割を果たしていたのだから、個人がどう決めようと自然に組織の中の時間管理で仕事をしていた。今は全て自分で自分を管理しなければならないのだから、その為にも予定をきちんと立てる必要があると思っている。もしそうしていなかったら、私の生活自体が全く成り立たないと思っているからだ。試してみるつもりは毛頭無いが。

by ロクスケ











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一日の予定

誰にでも必ず毎日することはある筈で、一日二十四時間といっても、現役で働いている人なら実際に自分が使える時間はせいぜい長くて数時間ではないだろうか。定年退職した人でも十時間が精一杯だと思う。睡眠時間の他に、洗顔入浴食事トイレなどなどは必要だから、残った時間はどれだけ有意義に使えるかで、どれだけ有意義に生活出来るかと言うことになる。

わたしの場合は、身体を動かすことも必然と考えていて、最小限でも一時間、天気が良かったりすれば時に三時間も歩き回ったりする。よほどの悪天候でもない限り、私にとっては必ず必要な時間であり、その間音楽を聴いたり外国語などを聴いたりしている。

ということでテレビを観るなどで時間を潰すなど到底する気にならないし、実際にそんな事はしていない。後はどうしても本を読んだりも最低限しているので、気がつくとそれで二、三時間は費やしているし、更に頭の体操というか考えを具体化することで頭を使うために毎日ブログや日記、時に小説などを書いたりしている。それにも二、三時間は使っている。他に掃除や洗濯などなどでも知らない内にかなり時間を使っているので、時に一日何もしないで過ごしてしまったような気がする。

そうならないためにも、残った時間は細かく分けないでその時にやっておきたいことを集中してやることにしている。たとえば、今やっているのは過去に書いた小説などが貯まりに貯まって七、八百作品になっており、このままにしておくのはもったいないので、一念発起して電子出版をすることにした。その為の方法を今は学んでおり、なんとか理解したと思うのでいよいよネット上に電子出版を実行することにした。うまく行けば良いのだが。

私の悪い癖であれもこれもと手を出し、結局どれも物にならない事が多いので、それなら或ことに集中し、それが完成するまでは他のことには手を出さないと最近決めた。それでもつい他のことに手を出してしまうが、少しずつそのように出来るようになったとは思っている。実際の成果が出るのはもう少し先だろうが。

by ロクスケ











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散歩で風景写真を撮る

私はよほど天候が悪くない限り、散歩で1時間は普通に歩く。それもかなりの速足大股歩きを心がけているので、時間の割に結構な距離のようだ。いつもではないが、時にはグーグルマップなどで自分の歩いた道順を測って、大凡の距離を割り出しているし、大体が同じ範囲で違う道順で歩くなどをしているので、大体歩いた距離はわかる。そしてステップ数はスマホが教えてくれるので、大体は一日の最低歩数7000歩はほぼ歩くし、大体は10000歩、時には30000歩等と言う時もある。ただ、歩くだけではなく、ひっきりなしにスマホで景色や気に入った建物、木などの写真を撮りまくり、多い時は一度の散歩で100枚以上を撮って、それを帰ってきてからパソコンに取り込んで日付毎に整理し、それを眺めては悦に入っているわけだ。

毎日殆ど同じ場所の写真を撮っているのだが、なぜ同じ場所の写真かと言うと、同じ場所を撮っても全く同じと言うことは絶体に無い。季節や天候、日差し、あるいは私の気分的な物、ありとあらゆる要素があるので、つまりは何度同じ場所の写真を撮っても同じなどと言うことは無いわけだ。

それと、歩きながら見るとは単に目で見るだけでは無く体が覚えているということにもつながる。たとえば、私は時には他の地方や都市に行くことがほぼ毎年有るが、時には気に入って同じ場所に数年ぶりに行くことがある。そして見ても分からない場所が、歩いてみてありありと前回の記憶が甦る。つまり体がその場所を覚えているのだ。

自分の車や観光バス、タクシーで名所巡りをするのが普通のようだが、むろん限られた時間に多くの名所旧跡を見ようとすればそうなるだろう。私も人のお付き合いなどではそうすることがあるが、名所旧跡だから観る価値があるとは私自身は思っていない。自分の体で、その土地の裏通りなどを歩いて体がその土地を覚えることで、私は旅行の楽しみを得ている。名所旧跡にも行かない。寺社でも地方の名も無い小さな寺社を訪れてその雰囲気を楽しむなども体がそうしていると思う。その意味で、家の近く精々半径10キロの範囲でも毎日歩いていても身体は常に新しい感覚でその場所を覚えてくれる。それが楽しいのだ。写真はそのついでというか、身体が覚えた風景を裏付けるために撮っていると最近思うようになった。

by ロクスケ











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今は万年筆を使わない

私は文房具、その中でも万年筆が好きで、嘗ては色々買っては喜んでいたが、その中でも気に入ったものは、もう数十年も使っている。一本は国産のまあ普通のもの、もう一本は嘗て海外に行った時買った有名ブランド品だった。

結局、その有名ブランド品は今でも取り敢えず使っているが、インク漏れが激しく、また書きだしが駄目で、必ず一滴ほどインクを押し出してからでなけれは書けない。一方国産品は、特に高級品でもなく、今では生産中止になり、最近リバイバルで再発売されたようだが、私は数十年使い続け、全く支障が無い。外国産は太字であり、国産品は細字でこちらの方を多く使っている。

とはいえ、万年筆を普段使うことは今ではほとんど無くなった。今では文書はPCで書いているし、手書きと言えばメモくらいしか無い。其のメモも、昔は油性で使いにくかったボールペンが今では水性インクで非常に書きやすくなったし、いくらでも百均で買えるものが昔買い集めた外国産国産のボールペンよりも比較にならないほど使いやすい。

嘗てPCもワープロも無かった頃は、とにかく手書きしか無かったのだから日記でも作文でも雑文でも兎に角万年筆を使っていた。今は、時々ペン立てから万年筆を出して何か書いてみるだけだ。

つまり万年筆は私にとっては実際にはもう要らない。むろん、人によっては万年筆にこだわっている人も沢山居るが、万年筆マニアとされる人たちだろうし現実に万年筆は今でも売れている。

あくまで、わたしは使わないと言うだけのことだし、万年筆だけではなく筆記具は好きだが、持っていることが好きなのであって使う事が好きなわけでは無い。人それぞれ、筆記具や文字を書くことを楽しんでいる人とちがい、私は文章を書くこと自体が目的なのだから、手書きの文字もそれなりだし、万年筆が好きなだけだというのが結論だ。

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電子工作

私はいくつかの趣味を持っていることを何度か書いているが、ただ文章書き、読書、ウォーキングなどはもう趣味とは言えまい。洗顔や食事同様、日常の当たり前のことだからであり、更に言うならネットなども同様と言える。

従って今私が主としてやっている趣味と言えば電子工作が挙げられるだろうか。嘗ては仕事上技術を身につけたが元々は子供の頃からの趣味が仕事に繋がった様なものだ。今は離職しているが、相変わらず電子工作は続けている。

今は電子製品なども嘗てと違い本当に安くなったから下手に作るよりは買った方がよほど安いし品質も良いだろうが、作る事が目的だからいわば子供の頃から続いている趣味だと言って良い。

今まで作った物と言えば、数え切れないほど有るが、真空管ラジオ、真空管アンプ、トランジスタアンプなどがある。そして今作っているのが大電力電源と言われているもので、大凡最大50vの直流を0Vから最大24Aまで出力で可変で出せる装置などを自分で設計し、作っている最中だ。

この様な装置が一般で使われることは無いので、ネットでも売っていない。必要なら専業メーカーに発注するしか無いが天文学的な価格がする。しかし、私はそのような電源が欲しかったから作っているわけで、しかし手持ちの部品材料だけで作るので、設計は自分ですることになる。

その為には新しい技術も学ばなくてはならないし、なにより安全性を確保しなければならないし、何度も実験をしなければならない。それが私の趣味の目的であってその為には集中して頭を使うし工夫も要る。今其の完成も目に見えていて、費用は手持ちの部品だけだから買う物は無い。で、今まで作った多くの作品がそうだが、買えば数十万以上もする物を実質ゼロ円で作るわけだ。これが目的だから、出来上がってもつかう予定は無い。

買えば数十万円する真空管アンプを昔から集めていた部品だけで殆ど只で作ったが実際はつかっていない。

私にとって趣味とはこの様な物で、使う為に作るより作る事が目的で作っているのが趣味の理由だ。

他にも趣味はあるが、全て同じだと言って良いだろう。

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詐欺メール

前々からだが、毎日個人情報を書き込む様に促すメールがくる。これらは基本は全て詐欺メールとして読まずにゴミ箱に入れている。

たとえば、えきねっとから来るメールなどがあるが、これも自動的に消しているし、もし必要ならJRえきねっとのサイトから問い合わせれば良いだろう。同じようにアマゾンなどの詐欺メールなども毎日の様に来る。アマゾンのサイトでは詐欺メールに注意する様に書いてあるし、独特のURLがある筈なので、それ以外は詐欺だと断定して良い。

他にも色々来るが、自分からの問い合わせに対する返事か、自分の知っている相手からのメール以外は一切開かず、最初から削除することにしている。

それと不必要に自分のメールアドレスなどは公開しないことも自分のルールとしている。

例えばwingbrainのメールアドレスは、私個人では絶体につかっていない。したがって、このアドレスで来るメールは全てURL運営会社の物でしかないし、それなら確認する場合は運営会社に問い合わせる。

私は、メールとは基本この様なリスクを持っていることを理解の上使うことにしている。大体が、二十年以上同じメールアドレスをつかっているが、最近は特に詐欺メールが増えてきているので、さらに用心をしなければならないだろう。

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つい歩きすぎ

何度か書いているが、私は健康維持のためによほど悪天候でもない限りウォーキングをしている。大体一時間5キロ位のペースで、大凡毎日10キロ位は歩いているだろうか。しかし気が向けば2、30キロ位も普通に歩くし、むしろそれくらい歩くと心地よい疲労で夜もぐっすり眠れる。

それは本当にありがたいのだが、つい歩きすぎてしまうことが多々ある。つい先日だが、ほんの買い物ついでの散歩のつもりで、気がついたら数時間以上歩き回ってしまっていた。あとからスマホの歩数計などをチェックして、正味歩いた時間は4時間半位。毎時5キロのペースは変わらないので、結局22、3キロ歩いてしまった。買い物や途中の一休み、写真撮影などで結局6時間ほど散歩に使ってしまったことになる。

そうなると、他のことが本当に出来なくなる。それで歩きすぎた日は後悔して、じゃあ明日は最小限にしようと決めるのだが、外に出て天気が良かったりするとついまた歩く距離を伸ばしてしまうのは、もしかしたらウォーキング中毒なのかも知れない。

ただ、食事なども関係はあるだろうが極めて健康状態は良いと言えるし、健康状態が良いと精神的にも極めて積極的になれる。あれもこれもとやりたいことが山積して結局は出来ない事が多すぎがっかりすることも多々ある。特に最近は家庭菜園作りにも時間を割いている。これは時期が決まっているので、時間が出来たらと言うわけにはいかない。

歩きながら外国語を聞いていたり、音楽プレーヤーを鳴らしていたりなど、単に歩いているだけでは無いのだが、毎日殆ど同じ場所を歩いても、毎日新しい発見があるのはおそらく脳の刺激に役立っていると思う。木々の緑や花なども一日で変わる季節なら当然そうだろう。

歩くことは非常に健康に良い。幸い走ることも出来るし、2、30キロ歩いても心地よい疲労はあっても疲労が蓄積することも無い。よく寝られるし、また自分なりに脳も活性化していると信じたい。

一日を歩くだけで過ごすわけにはいかないが、ただ一定時間歩き続ける習慣は何としても持ち続けたいと思っている。

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一日の計画

わたしはいつも計画を立てて行動する様にしている。むろん、その計画通りに行動出来ることは少ないが、とにかく何もすることが無いまま生きているのはまっぴらごめんだと思っているからだ。一番長期の計画はなんと言っても人生の計画だろうが、その為にも十年単位、一年単位、月単位の行動計画が必要だと思っている。

繰り返すが、全てが計画通りに行くなら世話は無い。現実には予想もしない変化を受け入れたり、自分自身の考えが変わって計画を変更したり等は普通に有るし、むしろ最初の計画に余りにこだわると却って自分を縛り付けることになるのだから、計画は計画、決定とは違う。

人生の計画は当初私が計画していた物とは全く違っているが、仮に同じだったらおそらく私自身真面には生きてこられなかったはずだ。いや、真面というのはあくまで私の自覚に過ぎないが。

それはともかく、人生の計画も結局は一日の計画の積み重ねなのだから、其の計画を立ててそれに沿って生活をするのは大切だろうが、一日単位でも計画に縛られることがあってはならないと思う。計画は計画、行動はあくまでその時に何が必要かを判断して行動することが優先されるべきだろうが、ただそれだけだとつまりは自分のその時々の思いつきで動くことになるだけだから真面な生活など出来ない。思いつきで買い物をしたり、思いつきでやりたいことをやっていては生活がどうなるか分かろうという物。したがって、その時々にどの様に行動するかはあくまで計画に沿って、考えることになる。

色々書いたが、自分の意図しなかった事態が起きるなどは普通に有るのだし自分の考えることが一瞬にして変わるなどもあるのだから、それと計画をうまく組み合わせて行動し、必要なら週単位、月単位、年単位の計画で調整して行くことになる。

計画は計画、生活はあくまで計画を参考にしながら行動して行くと言うことになるのではないだろうか。

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山菜採り

基本的に、そこいら辺に生えている植物は殆どが食べられるが、むろんだからといって手当たり次第に食べるわけには行かない。普通に見られる例えば水仙、すみれ、アジサイ、キョウチクトウなどはかなりの毒性があるし命に関わる場合もある。従って、自分で確実に食べられる植物だけを採るようにするのが大切だ。最初は山菜を良く知っている人と一緒に採りに行くことも良い。ネットや図鑑で確認するのも良い。

分かりやすいタンポポは何処にでも生えているし、そして殆ど年中採れる。このタンポポの葉は食べ方にも依るが、かなり美味と言える。ミツバも多分何処にでもあるだろうし、ヒロやフキは蕗の薹もフキその物も食べられる。イタドリなども若いうちは結構食べられる。

ただ野生の植物にはかなりのあくがあり、其のあく抜きなどの下処理が必要な物も沢山有るし、手間暇をかけても別に食べるだけの味でも無いものも多い。たとえば、シダ類には毒が無いので全て食べられるが、食べる価値のある味の物は地方にもよるとして、精々2,3種類であり、それもかなり手間をかけてあく抜きなどをしなくてはならない。アカザなども食べられるとされるが、私自身は嫌いなので採らないし、ノカンゾウなども食べようとは思わない。確かに人によっての好き嫌いはあるだろうが。ヨモギやセリなども豊富に有るだろうが、だから食べようとも思わない。要するに安全で自分で好きな物しかとらないと言うことだ。其の意味ではタンポポの葉はかなり気に入っている。ネットなどで調べてみると、タンポポ料理などがかなりあるようだ。

または全くまずい物も有るので、食べられるから採って食べるべしという物でもない。

以前はキノコなどもよく食べていたが、これは本当に食べられると確信出来る物以外は口に出来ないし、最近はキノコも豊富に売っていて趣味でもない限り野生のキノコを採ることはもう無い。

私は毎日散歩をするが、町中でも思いがけない山菜が採れる場所がある。ちょっと河川敷や丘などに行けば、季節にも依るが食べきれないほど採れる。

いずれにせよ、今八百屋で売っている野菜は全て元々は野生植物だった物を人間が品種改良している。つまり、改良する前の野菜だと思えば、山菜もそれなりに楽しめると言うことだ。

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時間配分

一日24時間は誰でも同じだが、其の時間の感じ方は人によって様々だ。年齢のせいもあるだろうけれど、今の私などは朝起きて気がついたら夜になっていたなど思うことがある。そのような日は実はそれなりに沢山のことをした日が多い。まあ、一般でも、楽しいことが多いと時間の経過を速く感じ、辛いことが重なれば時間の経つのが遅く感じるなどは普通によく言われている。結局、時間は物理的には誰にとっても同じだろうが其その長さは人によって状況によって全く違うと言うことだ。

結局物理的には同じ時間でも感じ方が異なるなら、単に事前計画だけで物事が行えるわけでは無い。誰でも一日の内かなりの時間を睡眠、食事などで消費するしむろんそれを省くことは出来ない。が、例えば睡眠だが本当に熟睡出来れば3,4時間で足りる。が睡眠が浅ければ10時間寝ても足りないし、寝る時の身体の状態でも違う。何かをしてヘトヘトに疲れている時と何もしないでぼうっと過ごした後の睡眠は計画通りにはならない。

つまり実際の一日の行動はその日の朝、あるいはその場その場で臨機応変に自分で計画しなければ何も出来ない内に時間がなくなってしまう。

私も大体は一日の計画を立てはするが、そのまま計画通りに出来るとは最初から思っていないので、出来ない時は何をする、時間が余った時は何をするなどの計画変更をいつでも出来る様にしているつもりだ。

其の結果、わたしの場合、家の掃除はかなり手を抜いている。綺麗な家に住みたいが、その為に費やす時間がとれないからだ。よく掃除の達人などと言う人がネットで紹介されていて、家の隅から隅まで塵一つ無いほど綺麗に掃除され全ての物がきちんと整理されているなどが動画などに有る。結構なことだが、わたしの場合はその為には毎日朝から版まで掃除をしていなくてはならず、到底実行は出来ない。だからある程度自分でまあいいやと思うレベル以上の掃除はしない。

食事もそうだし、他にも例えば家庭菜園などで一日の大半を使っている人も近所に居る。むろん、それは人それぞれ、私は家の周りも庭も草ぼうぼうだが其の草ぼうぼうが好きな面もあり、庭や家の周りの手入れに時間を割かない。読書や語学(頭のトレーニングのためであって生活のためではない)散歩、ネット、文章書き、工作等などに割り振り時間を使っている。

人と比べても仕方が無い。私はこの時間配分で結構うまく行っていると自分では思うことにしている。

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住みやすい町とは

先日二週間ほど地方都市に行って来た。子供時代育った町で、数年前に一寸寄ったことはあったが、実家自体がそこから引っ越してしまったこともあり、数十年帰ったことが無かった。

で、今回はじっくりと眺めようとそれなりの時間をとって行ってきたのだが、昔と違いそれなりの観光地になっていた。その為もあるだろうが、地方都市で昔は本当に田舎の風景であり、ただ駅前の一角が多少賑わっていただけだが、本当のこれが自分の知っているあの町かと疑いたくなるような変わり様だ。むろん、数十年経てばどんな町でも当然変化するだろうし、それは当然なのだが、例えば自分の居る場所も数十年では大きく変わっている。が毎日見ていると其の変化に気がつかないのだろう。

だから、初めて其の変化を見ると余りの変わりように驚くのだ。昔はたんに土の道路だったのが今は完全に舗装され、いかにもわざとらしい観光用の建物が建ち並び、それだけならともかく食べ物が其の地方の名物一色でしかも馬鹿高い。

観光用名物というが、其の地方では当たり前に昔から食べられており、それに当たり前に売っていてむしろ他の食品より安かったようだ。それが今では信じられないほどの高値で売られ、観光客はそれが当たり前だと思って食べるのだろうが、私などは一度食べると余りに味が変わっているので、仮に安くても食べる気には二度とならない。

確かに町の財政にとって観光地として売り出すことは一つの案なのだろうが、その為に物価が上がっているとすればどうかなとは思う。観光客が落とす金で、町の施設などはそれなりに良くなっているのは分かるが、地元の人間にとっては住みにくくなっているようだ。実際そのような事も聞いた。

人のことは言えないが、今の若い人間はかなりが大都市に出て行くので地方都市は寂れて行く傾向が強いという。その点、私のふるさとはうまくやっているのだと思う。観光客にとってはよいだろうが、地元民にとっては・・・とつい考えてしまう。

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毎日の時間割



毎日細かいことでもやらなければならないことが無数にある。それなら思い切ってこれはやる、これはやらないと割り切って時間を作らなければならない。

私にとって健康維持が生活の質のためには最重要なので、ウォーキング、食事などで体力作り維持、物作りや語学、文章書きなどの頭の使用を優先している。どれほどの効果があるかは分からないが、現状同年代の人達よりは体力もあると思うし、ネットなども必要な技術だけは未だ身に付いているようだ。ただし、パソコン、ネット、ソフトなどが急速に進化し続けており、一寸油断をすると新しい機能に戸惑うことはあるが、幸い短期間で使える。其の意味で、頭の方も今のところそれなりに維持出来ているのだろうと信じたい。たしかに記憶力は衰えたと思うし、瞬間的な物忘れなどは自覚しているが。

いずれにせよ、同じ生きているなら生きている実感を瞬間瞬間意識して生きていたいと思っているからテレビなどは全く観ないし、庭造りなども最大限に手を抜いている。着る物も可能な限り簡単な物にしている。つまり、私にとってはこれらは瞬間瞬間を生きているためには無用だと言うことだ。あくまで私にとってはであり、人によって食道楽、ドライブ、庭作り、テレビ鑑賞などが瞬間瞬間の意識した生き方なのかも知れないが。

それでも気がついて見たらもう寝る時間になっていて、さて今日は何をしたろうかと考えることがままある。思いかえして見るとそれなりに色々やっているのだが、それが後になって意識されていないとは、結局何をやっても意識出来るのはその時だけかとは思うが。

別に人と比べて自分はどうだと言うつもりなど無い。あくまで自分は有意義に時間を使っているかをいつも考えていると言うことだ。

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庭の管理

私の家には狭いが庭がある。嘗てはそれなりに手入れをして花や野菜などを植えていたが、基本的に私には庭いじりの趣味が無く、他にやりたいことがたくさんあって、大体が庭の手入れを余りしていない。

そうこうしているうちに庭に植えていた何本かの木が異常に育ってしまった。花が満開に咲く時はそれなりに綺麗だが、もともと枝切りが得意なわけではないし、今年は殆ど枝切りなどしていなかった。とにかく時間がもったいないと言うのが私自身への言い訳だったが。

其の結果元々日当たりの良くない庭がうっそうとした木の葉に覆われ、更に薄暗くなり、下には嘗て植えたはずの花などが殆ど咲かなくなっている。しかし、これはこれで良いと気がついた。

私は歩くことが好きで毎日かなり歩いている。5キロ10キロは普通だし、先日小旅行をしたときは最大一日30キロ歩いたようだ。と言うことは足を伸ばして山の中を歩くなども時々するし、木立の中を歩き回るなども好きで、生い茂った野草をかき分けながら歩くなども楽しんでいる。

その山歩きで楽しんでいる景色が我が家の庭に出来ている。更に庭に面したガラス戸を開けるとかなり涼しい風が吹き込んでくるときもある。こうなると、庭だから花を植えなければならない、野菜を育てなければならないという気にはならない。

近所のお宅ではそれなりに見事な花を育てている処も沢山有るが、その為にかなりの時間を費やし、かなりの金をかけ、そして年配者は疲れたと言っている。

野菜育ての名人ならそれなりの質の高い野菜を作っているようだが、私はその為の時間を使う気になれず、それに夏は冬と違って野菜もそれなりに安く買えるのだから自分で野菜を作るという事は既に止めているし、花なども野原や河原の花を楽しんでいるし、余所のお宅の花なども眺めている。

それなら私の好みとして山の中の景色を庭に創ってそこから涼しい風を呼び入れるのも楽しみだ。

葉の生い茂った何本かの木や伸び放題の草を部屋の中から楽しんでいるのが、暑い夏の私の過ごし方になっている。

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庭の眺め

私の家には狭いながら庭が有る。もともと庭いじりが好きなわけでは無く、到底よその家の庭のように手入れをして綺麗な花を咲かせるとか野菜を作るために時間や体力を使う気にはならず、精々雑草をたまに抜いたり作りやすい野菜を植えてみたり種を蒔いたり、沢山有る木々の枝を切ったりする位しかしていない。

本来花や野菜を育てたり枝の剪定をするにはそれなりの、素人なりの知識が必要だろうが、興味の無いことのために学ぶなどという気にならず、精々ネットでちょこちょこ見たり余所のお宅の方に訊いたりする位だ。

が駄目なものは駄目で、もともとそんな事に時間を使う位なら山歩きをした方がよほど良いし、他にもやりたいことが無数にある。ということで、今年は何もしないで放っておいた。そしてあることに気がついた。

庭には様々な木が植えてあるのだが、大きい物は既に二階の屋根よりも高い物も有るし多分鳥が持ち込んだ種から出てきた木が、2年ほどでやはり二階に窓よりも高いほど大きくなった。他にも様々な低木があるし、道路に面したところは様々な木で仕切りが出来ている。

それらが互いに競うように茂り、それに負けじと様々な雑草が極端に伸びて密生し、それこそ庭自体が私の良く行く山の中のようになっている。実はこのほうが野菜作りや花作りよりもよほど私にとってなじんだ眺めであり、今は意図的に全く手入れをしない庭を楽しんでいる。

そのような庭を通ってくる風もそれなりに涼しいし、庭に面した戸をすっかり開けても外からは見えにくい。

私が山歩き(と言うほどではなく、散歩で少し木の茂っている場所に行くだけだし、それもたまにだ)で楽しんでいる雰囲気を我が家に居ながら楽しめるわけだ。

おそらくご近所の方は内心あきれているだろうが、楽しみは人それぞれ。それにその人達が日長手入れをして綺麗な花などを眺めるのも別に嫌いなわけではないし、花を眺めたければ余所のお宅の庭を外から眺めれば良い。

何が気に入るかは人それぞれ。私は私が楽しむために気に入った庭を造っているわけだ。

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スマホの交換

今まで使っていたスマホのバッテリーが保たなくなり、それに新しい機種の方が使い勝手が良いとの宣伝に乗って、最近新しいスマホを購入した。今までのスマホのデータを自分なりに新しいスマホに移してみたが、結論として極めて使いにくく今までのスマホの方が完全に使いやすいとあらためて確信した。

むろん今までの機種はそれなりに使い慣れているから使いやすいという当然の理由は有るだろうが、それを差し引いても新しい機種は私には使いにくい。何故私にとってはとことわるかというと、私自身スマホをかなり限られた事にしか使っていないからであり、ネット関連は全て家に置いてあるパソコンで行うし、一寸長期で外に出る場合はノートPCを持って行く。つまりスマホをパソコンのように使うことは本質的には無い。メール、動画鑑賞、音楽を聴く、ゲームをする、チャットをするなどなどは全くスマホではしない。しかし、新しいスマホはそれらの分野に益々技術的な重点を置いていて、本来わたしが使う分野ではそれらがむしろ邪魔になっているようだ。

たとえば、私は歩数計をスマホに入れているが古いスマホの方が使いやすかった。また方位計は一度入れたが方角がいつも不正確なので削除したのは新旧同じで、私は実際の方位計をいつも持っている。マップはまあ双方同じだろう。カメラ機能は新しい方が優れていると思うが、それを使うと電池の消耗が極めて大きいようだ。

つまりスマホの本来の目的は電話であり、実際に新しいスマホでは電話としてしか使っていないような現状だ。電話番号リストは今までのスマホに携帯電話が出来た頃、多分20年以上前からの物を引き継いでいるが膨大なリストになっているので、新しいスマホにはその中で今必要な物しか移していない。それは自分でやった。これを業者に頼むと馬鹿馬鹿しいほど請求されるので嫌になる。

古いスマホはバックアップ電池をいつも持っているので、必要に応じて充電しながらカメラとして使っている。私としてはスマホの買い換えはまだしなくても良かったのではないかと思っている。バックアップ電池があればまあスマホの電池が全く駄目になっても使える事は使えるのだし。

色々考えてみて、携帯電話にしても良かったのではないかとさえ思っている。折から今携帯電話が再ブームだとのことだし。

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オーディオへの拘り

以前にも書いたが、私は自分で色々な物を作る工作が趣味で、その中には様々な電気関係、電子関係の物がある。そして、特にアンプを作るのが好きで、大昔から色々なオーディオアンプを作ってきた。とはいえ、私の趣味では高級部品を集めて高級品を作るというのではなく、とにかく自分が出来るだけ工夫を重ね、自分なりに満足の行く物を作るのが趣味なので、アンプも当然そうなる。

最初の頃は当然真空管アンプを作っていた。当時は真空管しか無かったし、そして真空管は本当に安かったしまた同じ趣味の仲間内で交換したり貰ったりして、一時は大きな箱にぎっしりと詰まるほど真空管が貯まり、引っ越しの時に殆ど棄てたりしたが今の価格だと数十万円分を棄てたと後悔している。それはさておき、真空管アンプのから次にはトランジスタアンプになり、今ではICアンプになっているし、また真空管アンプが再ブームになっているように、真空管アンプを作ったりしている。

アンプを作る以上むろん音質にこだわるのは当然だが、それにこだわりはじめると、アンプの部品のみならず、スピーカーから入力音源にこだわるようになるし、最終的には専用のオーディオルームを作ったりするマニアなどがネットには無数に作品を公表している。

私は、それにはこだわっていない。なぜなら耳は年齢と共に衰えるという当然の理由が有るのと、音質にこだわると言っても、良い音にこだわるわけとは限らないからだ。未だにSPレコードにこだわっている人など良い例だろう。自分で良い音だと思えばそれで良いのであって私自身は自らの耳の衰えなどから結局気軽に聴ければ良いと割り切っている。

ということで、今は様々なアンプは作っても実際には使わない。もっぱらポケットに入る音楽プレーヤーにネットからダウンロードした様々な音楽を入れてイヤホンや、自作の小型アンプとスピーカーで聴いて十分に楽しんでいる。

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人との距離もまた人それぞれ

自分ではそうは思っていなかったが、ある人に指摘された。どうも私は人付き合いが余り上手くないのだそうだ。どうしてそう思うのか訊いてみると、人の集まる場所になかなか出て来ないし、歩いているときに他の人と気軽に挨拶や時には立ち話をするけれど、それ以上の関係を築こうとはしていないという。確かにそれはその通りだと自分でも思う。

しかし私自身は、引きこもりはともかく、何でもかんでも人と親しくしなければならない訳ではないだろうと思っている。人との付き合いにはそれこそ適切な距離が必要だと、昔から思っていたからだ。

仕事などでは個人的な好悪とは全く関係なく親しくしなければならないだろうが、人と親しくするために自分を抑えることをあまりしすぎれば、自分のストレスがたまる。今ほど刷れていなかった昔、友達の言うことに反対をするのは其の友達を傷つけてしまうのではないかと思って、内心それは違うだろうと思ってもそれを口に出すことは余りしなかった。しかし、其の結果、余り衝突もしたくないために距離を置くようになっていたが、自分では気がついていなかった。

今は、やはり相手の言うことに同意出来なくとも必要が無ければ反論などしない。反論はしないが、聞いているだけでその内容を考え判断することもない。ただ、相手によってはそれではますます自分の意見を押しつけてくる人が居るから避ける為にも意図的に距離を取るようにしている。

おそらくわたしの場合は其の度合いが人よりも強いのだろう。

当然のことだが、完全無欠な人間など居るわけがなく、自分にも十分人から見れば欠点があることを知った上で、それに応じた距離を採れば良いと私は思っているだけだ。自分にとってどうすれば安らぐかを考えて見たとき、けっきょく自分にとっての人との距離を一番適切に取ることが一番良いと思っている。結局其の距離感が、私は人よりも大きいとのだろう。

仕事、ご近所、友人はもとより、家族でも同じ事が言えると思う。まあ、自分でそれが気楽ならそれが一番良いのだろう。

by ロクスケ











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旅行を楽しむ

地方都市に旅行をしたことは以前の記事に書いているが、今回この記事が出ている今、ほぼ一ヶ月の旅行の最中で、今度は別の都市に来ている。それだけの時間をかけるなら方々をまわれば良いという考えもあるだろうが、私の旅行目的は名所旧跡を観る事ではないから、移動時間に経費と時間をかける気にはならないということだ。

一箇所に留まり、兎に角広い範囲を動き回る。身体で観るのが目的であり、移動手段はもっぱら脚。天候などにもよるが、大体一日15キロ位は歩く。ただし、間に休憩してホテルの周辺をぶらつく位の日もある。

無論、これは私のいつもの旅行であって、他の人と同行する時は全く違うし、歩き回るなどもしない。したがって、私の旅行の仕方はあくまで私はそうするのが好きだからそうしているまでのことだ。まあ、本音を言えば経費が余りかからないということもある。

其の意味では例えば現在の居住地から一駅二駅電車などで移動してからほぼ一日かけて休みながら歩き回るなども、飛行機で遠くに行って歩き回るのも変わらない。隣の町なら頻繁に出来るだろうが、今回は飛行機の距離なので、一ヶ月間歩き回る旅行にしたということだ。

コロナ問題もあり、当然細心の準備をし、混み合った交通機関等は利用しないし時間も避ける。レストランなども使わないのは当然とだから、コロナリスクも小さいだろうと思うし、第一私自身外食嫌いなので、前回の旅行もそうだがこの様な場合に作れる簡単レシピを地元で買える材料で、電子レンジだけで作れる、それも刻んでチンするだけというレシピに限られる。つまり其の宿泊施設で電子レンジと冷蔵庫が使えればそれでOKだし、無論時間をかけるなどしない。洗って刻んでチン、それが全てだ。

何度もこの様な経験をしているので、自分なりにそのようなレシピを独自に考えているし、もともとグルメという感覚は無いのでその土地の名物を食べる理由も無い。

あくまで私の旅行はそうだというだけだが、歩き回り身体で感じる旅行はいつも心を新鮮にしてくれる。

by ロクスケ











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長期旅行をして

先日今までにない長期旅行から帰ってきた。当然、宿泊費などは負担になるが、今までの旅行では行っている間天候がどうであろうと体調がどうであろうと兎に角毎日歩き通していた。幸いそれにも耐えられる体力があるからだったし、その意味では現在でも体力が衰えている自覚は無い。

が、今度は少しやり方を変えて、天候の悪い日などは宿泊先にいてそれまでの記録を整理したり新しい行く先の予定を立てたりを十分にしたつもりだった。当然、それだけ長期滞在となると、普通のホテルではかなりの費用がかかるので、事前にそれなりの時間をかけて、低コストで十分に安息出来る場所を方々探し、最終的に決めてそこにおよそ一ヶ月宿泊した。

また私は元々外食嫌いで、自分で作って食べるのが普通だから、それが出来る場所にしたのも一つの理由だ。大体従来も備え付けの小型冷蔵庫と電子レンジがあれば作れる物だけにしていたが、今回はガスレンジなどもあるので、もう少し使い慣れた調理器具を使って、もう少し本格的に、とは言ってもわたしが食べる物は簡単薄味野菜が主のレシピなので、今回の宿泊先は十分にその条件を満たしており、当然、それに必要な物などは事前に送ってあった。

今のコロナ問題でホテルなどもかなり経営が苦しく、それなりに得用プランなどを作っているので、それを利用して長期滞在にしたのも今回の長期旅行計画の理由だ。

また私は観光地などには行かないし、上記の様に外食はしないし、そして徹底的に歩き回るので交通費も最低限で済む。そして思惑通り、かなりの低コストで済んだ。ただひとつ、かなり天候は悪かったが、外に出られないほどでも無かったので、結局一月の間毎日歩き回り、おそらく平均一日十七、八キロは歩いたはずだ。

いくら今は体力があると言って、将来もずうっとあるわけではない。となると、出来る間に旅行はしておこうというのが今回の長期旅行になった。

来年も同じ事が出来ればよいと思うし、今は多分出来るだろうと思ってもいるのだが。

by ロクスケ











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名所旧跡を訪ねるのは?

人が言うから名所だと考えるのはどうかと思う。私も家族や友人などと一緒に旅行することはあるが、そのような場合はそれこそ名所旧跡を観光バスなどで見物し、拝観料などを払い、名物料理などを食べ、写真を撮り、忙しく次の場所へ移動するなどもしたことがあるが、帰ってきて暫くするとその時の感動などが消えてしまう。

そもそも観光地は観光客を沢山迎え入れることで経済的に得をするから、出来るだけ多くの観光客を迎え入れるべく宿泊設備を整え、交通手段を整え、そして宣伝に努める。むろん、それで昔は秘境と言われた処でも非常に手軽に行けるようになったし、行けば土産物などを沢山買い込み、土地の名物料理などを楽しむことが出来るからそれはそれで良いだろうが、誰がその土地を観る価値のある場所にしたのか。本当に観る価値があるからではなく、客を呼び込めば利益になるから観光地を作っている。

考え方を変えれば、自分がその光景を観て感動出来るなら、別に人が作った場所に行く必要も無い。それが私の旅行の本来の目的であり、その為にも人の行かない場所を歩きまわる。地元の人は見慣れていて、得に感動もしないだろうが、古くて小さな神社、寺など思いがけない場所で見つけたり、古い路地の奥に思いがけない珍しい光景があったりすれば十分に楽しめるし、なにより単なる記憶だけではなくて身体に染みついたような感覚がある。

小さな路地の奥などそこに住んでいる人は意識もせず、観光バスでもタクシーでも無論行くことは出来ない。が、歩いて行けば誰かの私有地でもない限り好きなだけ歩ける。これが自分にとって思いがけない物を観たとの感動になるならそれで自分にとっては非常に貴重な経験を伴った観光旅行になると言うことだ。

by ロクスケ











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時間感覚の変化

人間年齢を重ねるにしたがって時間感覚が変わるとは何度も何度も書いているが、つい又書きたくなった。なにしろ、このサイトを開いてからほぼ22年経つ。その間、よくまあ色々記事を書き続けてきたものだと思うが、同時にどれほど自分の周囲が変わっているかを最近つくづく感じるようになった。

しかし、これは私自身が変わったから周囲が変わったように感じるのだとも言える。たとえば、自分ではあまり感じていなかったが、明らかに体力は衰えている。20年前は階段を二段飛びで駆け上がっていたとおもうが、今はそのようなことを考えもしない。普通に一段ずつ上るが昔は普通に二段飛びで上がっていた。それに気がついて嘆いたことも無い。それが当たり前なのが今だから。

例えとして身体能力を挙げたが視力も確実に衰えているし、身体の柔軟性も機敏性も考えるまでも無く衰えている。大体人間の体力のピークは20代から30代であり、例えばスポーツ選手の引退時期などもそれを示している。また病気になりやすさ、治療の難しさなども年齢による体力低下が大きく関わっている。

が、変化は無論身体能力だけではなく学習能力、記憶力は体力同様衰えていることを痛感している。多くの人はこれらが衰えるのはやむを得ないと思っているようだが、たしかにそれを全く止めることは出来ない。が心身共の劣化を遅らせることは出来る。だから私なりに気をつけていて、それなりの成果を上げていると思うが、最近気がついたのは時間感覚を昔に戻すことだ。

幼児の頃は1年が大人の10年に匹敵するほどの感覚だが、聞けば超高齢者の時間感覚は30、40代の何倍も早くなって、つまり同じ1年でも感覚的には嘗ての2、3ヶ月で過ぎてしまい、1歳年をとるわけだ。

自分でこの感覚の変化をどうにか出来るのかどうかは分からない。がやってみるだけはやってみようと思う今日この頃だ。

by ロクスケ











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いよいよパソコンを又作る?

私は自分でパソコンを作るのが普通であって、出来合の物を買うことは全く無い。尤も、これはデスクトップ型で、ノートPCも持っているがこれは例えば旅行の時などに使う物で、普段使わないからそれこそ10年位前の型ではないだろうか。ただ、ハードディスクをSSDに代えたり、OSを入れ替えたりしてはいるが。

とにかく、普段使うデスクトップはこれも買うと結構高いし、第一自分が使う目的に適した機能を持っているわけではない。得に最近のパソコンはゲームなどに特化しているような感じがする。

そこで、わたしの場合は自分で使う仕様のパソコンを作るわけだが、むろん様々な部品は古い物を再使用している。結局買い直すとすれば、CPU、マザーボード、メモリーボードなどで、ケース、電源、SSD、等は買い換える必要が無い。それでかなり安く上がると思っている。

実際いつ出来るか分からないし、今すぐとも思っていないが、ネットでどの様な部品がどこで安く買えるかなどはチェックしている。

しかし、昔のパソコンはそれこそ今から考えればそれこそかなり簡単なようで、今は例えばOSを載せるにも昔ほど簡単でないようだし、そもそも私自身が数年はパソコン組み立てなどしていないので作り方を忘れているようだ。本当に大丈夫かと心配になるが、心配しても仕方が無いだろう。むろん最悪の場合に備えて、今のメイン-パーツはそのまま保存し、いよいよ駄目ならそれを組み立てて使うしかないとは思っているが。

自分が知らない内に様々な技術は急速に変化している。ソフトウェア一つにしても、昔は好きなだけ搭載出来たけれど、今は組み合わせなど注意しないと駄目なようだ。現実には、私自身の技術が今のパソコンに追いついていないのだろうと思う。なにしろ、昔はソフトウェアなど場合によっては自分で組んだが、もう長い間そんな事はしていないし出来ない。

大昔だが、パソコン自体がまだ流通していない時代、自分でCPUを買ってきて回路を設計し、それを組み立てる基板も自分で作った。当然当時のパソコンは到底パソコンとは言えない物だったが、かなり楽しんだ。今は自分で作る部分がほとんど無いので、楽しみもおそらく減っているのだろうと思うことがある。

by ロクスケ











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メモ手帳

昔はいつも大型のシステム手帳を持ち歩いていた。ただ、最初使っていた市販の手帳はそのリフィル形式も大きさもしっくりせず、その後自分でシステム手帳の本体及びリフィルも自分の使用目的に合わせて作った。幸い、当時は既にカラープリンターが気楽に使えたし、本体のバインダなどもいくらでも買えたし、本体用の革なども気楽に買えたと言うことで、もともと自作が好きだったから、いくつか作って、結局気に入った自分用のシステム手帳を数十年も使っている。

当時はシステム手帳がシンボルのようなもので、外でも大型のシステム手帳だけを素手で持ち歩いている人をよく見かけた。が、今ではおそらくスマホが嘗てのシステム手帳の役目を果たしているのか、あるいは手帳を持ち歩くという習慣自体が無くなっているのかも知れないが手帳を持っている人を余り見かけない。

私自身、大型のシステム手帳は到底ポケットなどに入らないし手に持って歩き回ることもしないし、そもそもシステム手帳を使う事が無くなった。電話帳始め多くのメモは確かにスマホで足りるし、昔と違い毎日メモしなければならない予定なども少なくなったとも言える。

今ではズボンのポケットに入るメモ帳を自分で作って、外で思いついたことはその場でそれにメモしているし、手書きのカレンダーなどもそのメモ帳に作っているし、必要ならスマホで写真を撮っている。

残すべき記録はパソコンに分野別にきちんと分けて残しているしそれにメモ帳から書き写せばそれで済む。写真なども必要ならスマホからパソコンに移している。となると、嘗ての様な大型のシステム手帳を持ち歩く理由が無いし、万が一それを紛失すれば自分の記録が全て失われるし人目にさらされる。確かにシステム手帳を持ち歩く理由が無くなったのも分かる。

今も自宅のデスクの横の棚には、自分が作って毎日持ち歩いていた大型のシステム手帳が置いてあるが、まず使う事は無い。無いが棄てる気にはならない。

とにかく、気付いたことをメモする基本中の基本を身につけることが出来たのだから、システム手帳様々と言うところか。

by ロクスケ











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生活に欠かせない歩き

何度も書いているが、私は毎日最低数キロは歩いている。この様に歩き始めたのはいつ頃だったかははっきり覚えていないが、昔は仕事関係で車を使っていたし、それが当たり前になって目と鼻の先のコンビニなどにも車で行ったりしていた。その為のあるだろうが、体力はかなりひどい物だったと思う。

しかし今は毎日歩いていることが今の体力健康を保っている。健康診断でも問題は無いと近年はずっと言われている。たしかにウォーキングが健康を保つためには非常に良いとは今では常識のようで、その為に歩いている人も最近はかなり居るようだ。

が、わたしの場合は健康のために歩くと言う目的も無論あるが、それ以上に好きだから歩くのだと思う。だから普段は精々一時間くらい、距離にして精々五キロ位だろうが、天気が良く、時間が有れば時には十数キロ歩くことも珍しくないし、去年の秋にはほぼ一月毎日十数キロ以上歩いた。

その間、音楽プレーヤーで好きな音楽を聴いたり、あるいは外国語を聞き流しながら歩いたりしている。それが脳を刺激しているかどうかは私には分からないが、しかし気分的にすっきりしないとき、何をするにも面倒くさくなっているとき、歩くことで気持ちが切り替わる。それが私の歩く大きな理由になっている。そしてもちろん、歩くことで健康度が向上し、例えば記憶に有る限り、多分十数年インフルエンザはもとより、風邪をひいた記憶も無い。健康診断でも問題なし(あくまで年齢としてはだが)となるなら、今や私にとって歩くことは単に健康度は無論、生活の質自体を向上させていると信じている。

by ロクスケ











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書庫の整理

我が家には書庫とされる部屋がある。結構広いし、3面の壁が全て書棚になっており、嘗てはかなりの本があった。今ではおそらく一番多かった時期の四分の一位ではないかと思うが、嘗ては棄てるよりも誰かに読んで貰えれば良いと古本屋に持ち込んだり、ネットで売ってみたりもした。

が、今残っている本はどれもこれも復刻版も手に入らない貴重な本ばかりだと思うが、いずれにせよかなり前から本を買わなくなった。まずどうしても読みたい古い本は図書館で探してみるとかなりの頻度で見つかるし、また他の図書館から回してくれることもあるし、さらに場合によっては図書館で買ってくれる事もある。今でも同じかどうかはよく分からないが。

読むためではなく、貴重で手放すのは惜しい本は残っているが、最近発行された本は今ではネットでテキスト文章を買う。本という物は来ないが、文章や挿絵はネット経由で買えるし、これはパソコンや、いつも持ち歩いている読書端末で読める。更に良いことは、本と違って自分に読みやすい大きさに文字を拡大出来ることだ。年齢と共にどうしても視力が弱くなり普通の本を長時間読むとかなり目に負担がかかる。その負担が無くなった。

また電子書籍は持ち歩く読書端末にその文庫本位のサイズにも百冊二百冊は入れられるだろう。私の読書端末には今は精々数十冊だと思うが、実際の本なら文庫本でも二,三冊持って歩くこともない。

また、著作権切れの物は専用のサイトにいくらでもその本があるし、国会図書館サイトなどに有る。また、嬉しいことに英語版やフランス語版なども手に入る。きちんと読めるわけではないだろうが。

無論本を持つことが好きだという人は居るだろうし、おそらく読書家はそうだと思う。が、私は読めれば良いし読みやすければもっと良い。私の場合は先に書いた一部の本以外は殆ど処分している。またネット上の古書店などに売れないかとチェックしたこともあるが、まず売れない。つまり現代ではそれを読む人が居ないのだろうが。嘗ては好きな作家の作品を集めて大量に買ったりしたが、今そのようなことをする人は居ないようだ。最近の世代では読書離れが激しいとも聞いている。

by ロクスケ











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詐欺メール

最近ネットでは詐欺メールが話題になり、また警察などは詐欺メールにはくれぐれも注意するように繰り返し呼びかけている。メールだけではない、電話にもいわゆるオレオレ詐欺などが近年巧妙化し、特に高齢者などが被害を受けているようだ。

それに対し私は対策を執っている。まずメールだが、会費が滞っているので連絡しろ、等と言うメールはタイトルだけで直ぐに消却しているし、如何しても疑問ならメールに応えるのではなく、そのメールを寄越したという会社などのHPをチェックしたりしている。またSNSやブログなどに私自身の個人情報は一切載せていない。ましてカード番号や銀行口座番号など載せるわけがない。

またネット上に私の個人情報を載せるなどは絶対にしないことにしている。SNSで個人情報を掲げるなどもってのほかだ。

それでも詐欺の手口は年々巧妙になっているので、私個人がいくら頑張っても完全な対策がとれるわけがない。なにしろ、専門スタッフが居るはずの大手企業がランサムウェアなどの被害に遭うことが最近話題になっているからだ。

ということは仮にわたしがネットを完全に止めたとしても私の乏しい銀行預金が盗まれたり、カードが使われることはあるのかもしれない。それならむしろ積極的にメールを自分でしっかり管理した方がましだとは思う。例えばカードを使うと、いつ何処でいくら使ったという確認がメールで知らされてくるが、それは毎回しっかり確認している。今のところ、幸いにも覚えのないカード使用被害は無いが、絶対無いと断言出来るわけではない。

インターネット自体、近年急速に進化しているが、そのネットを使う人間一人一人がその進化に対応するように知識を増やす技術を向上させるなどあり得ないのだから、結局はインターネットは現在は必要不可欠になっていても、しかし絶対安全という根拠は無いとの意識も常に持っている必要があると思っている。

by ロクスケ











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小説を書く

以前書いたが、文章を書くとは、脳内で思考を組み立てるのに役立つ、つまり脳の機能を高めるために役立つ。例えば読書なども思考能力を高める役に立っているだろう。文章を書く、についてはその為に、私はブログや日記などを書いているが、これらはむろん書く内容を確認した上で、自分はこう思うと書くことが多い。それで自分の思考内容を確認し整理し記憶しているわけだ。

ところで、私はもう数十年にわたって小説を書いている。短編ではおそらく7,800編を書いているだろうし、中長編でも数十編書いている。最長の小説は、400字詰めで1300枚程度の物もあるし、現在も数編を書きかけている最中だ。

別に私はプロの小説家になろうと思ったことは無いし、その為に書いているのでは無い。文章を書くという点では日記やブログなどを書くのと同じだが、これらが事実に基づいてそれを確認整理するために書いているとして、小説の場合は事実など全く関係が無く、自分が好きなだけ空想したこと、場合によってはどんなに不合理でもでたらめでも書きたい文章を書く、これが小説だ。

それは小説という物がそうなのだから合理的に考えるという束縛無しに好きなことを、つまりは妄想をそのまま文章にすれば良いのだから、ある意味脳の体操としては事実を書くのとは別の意味で効果があると思う。

それは私たちが普通に読む小説全てに言えることで、子供の頃はおとぎ話を読んでは喜んでいた。が、実際に桃太郎が桃から生まれた、つまり人間が果物から生まれるなどあり得ないがおとぎ話なら全く問題は無い。一寸法師でも、浦島太郎でも同じだろうし、その内容が事実に反する、嘘だからやめろなど誰も言わないはずだ。

その意味で、私は売るためではなく楽しむために小説を書いているわけだ。その効き目があるかどうかは定かではないが、自分がそれで楽しめるならそれで良いだろうと思うし、最近はその短編長編をネットに挙げたりしている。その意味で、良い頭の体操だと思っている。

by ロクスケ











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手抜き掃除の工夫

掃除ばかりではないが、掃除を一例としてあげた。ネットなどでは掃除の仕方を動画などで説明している物が結構有るし、また家の中を隅から隅までピカピカに磨き上げて、掃除はこうすれば良いなどと言っている物もある。むろん、掃除は必要だろうし、掃除をしなければあっという間に家の中はゴミだらけになるし、必要な物が何処に有るか分からなくなるし、兎に角見た目にも汚い。あちこちに埃や汚れがついているのも見ているだけで嫌になる。

ということで、毎日隅から隅まで家の中を磨き上げるのは確かに気持ちの良い生活をするためには良いだろう。が、本当に毎日毎日そんな事をしていたら他のことが何も出来なくなる。掃除とはそれこそ徹底的にやるとなれば家具の移動もしなくてはならないだろうし、そうまでしなくても普段目につかない場所まで磨き上げるにはそれなりの時間がかかる。つまり他のことが何も出来なくなるというわけだ。

そこで、私は兎に角目につく場所だけをそれなりに綺麗にすれば良いと割り切っている。よく観れば家具の隅などに埃がついているが、よく観なければ別に気にならない。

まあ、基本は要らない物を捨てることでそれなりに整理もつくはずだが、そうはいかない。要らないと思って棄てた途端にそれが必要になって又買うなどと言う馬鹿なことを何度か繰り返している。

そこで、掃除とはどういうことかを改めて考えて見た。綺麗に散らかっているならそれは散らかっているのではないし、気にしなければそれで別に構わないだろうと言うことだ。

今これを書きながらひょいとキーボードを見たらキーの間にかなり埃がたまっている。むろん、ある程度はそれをブラシのような物で書き出して掃除機で吸う位のことはやるが、本当に綺麗にするなら、キーボードをばらして、キーも全部抜いて徹底して洗えば新品同様に綺麗になる。嘗てそれをやって、見かけは綺麗になったが特定の文字が打てなくなった。開けたときに壊したのだろう。それ以後、ばらして掃除などはしていない。

家具も毎日念入りにこすったりしていると塗料がはげる。だから、精々軽くはたく位にして、ごくたまに拭くようにしている。そうすることで、他にやりたいことが出来る時間も確保出来るわけで、つまり掃除は自分が納得するならその程度にしておくようにしている。

by ロクスケ











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手抜きも大切

わたしは色々なことを趣味でやっているが、大きく言えば様々な工作、つまり自分で色々な物を自作すること、あとは趣味と言うより頭の活性化の為に文章を書くことで具体的には小説を書いたり、日記を書くことだろうか。それと、語学学習なども趣味に入ると思う。

工作については、今ではネット動画でもそれこそ到底アマチュアとは言えないほどの技術を駆使して専門家が作ったのと同じ様な家具や様々な電気製品、洋服や料理を作ってはそれを動画などに載せている人が大勢居る。しかし、わたしの場合はこれらの物を作っても彼等のような事はしない。あくまで自分でこれくらいで良いと思う位の作り方しかしないし、第一例えば木工でのノコギリ、鑿、鉋がけなど本格的な技術を身につけるには十年以上それらをやらなくてはならないしまた使う道具もそこら辺のホームセンターなどで売っている道具とは桁が違う値段の物をこれも又専門家にしか出来ない技術で手入れをしながら使いこなさなければならない。わたしにはそんな高級工具を買うつもりは一切無いし、そんな時間を費やす気も更々無い。となれば、そこら辺でいくらでも買えて駄目になったら買い換えるような工具を使い、その時その時で出来るだけ注意をして工作をし、出来た物は商品はおろか人にあげるような品質でもない。当然材料もそこら辺の廃材を使ったりこれもホームセンターで普通に買える物を使うのだから、専門家が熟練技術で作る物とはコンセプトが違う。わたしは売るためではなく楽しむために作るのであり、わたしが楽しければむしろいかにごまかして上手く出来たかのように見せるのもそれなりの楽しみになる。あくまで自分で使う為に作る作品のことを言っている。

文章を書くのは頭の体操になるとされている。人間は頭の中で言葉を組み立てることで考えているのだが、それなら書くことで言葉を整理し纏める事を習慣としてやっていることでつまりは自分の頭の中で考えることを頭の中で整理し纏める為の訓練になる。ということで色々な文章を毎日かなり書いている。原稿用紙で10枚位かそれ以上。昔は自分専用の原稿用紙などを作っていたが、今はこの様な文章は全てパソコンでやっているから、かなりやりやすくなったとも言えるだろう。

その意味では語学も役にたつ。日本語とは違う言語は、日本語とは脳の別の分野を使うとされているので、その意味では上記の文章書きとは又別な脳の活性化に繋がる。嘗ては仕事で外国語を使っていたのだが、今は単に趣味と言うことでやっている。仕事で毎日使っていたのとは違うし年齢のために嘗ての様には使えないだろうが、まあ今はネットでどの国の言葉も気軽に聞けるし、それなりに理解出来ればそれも励みになる。その為にも工作、文章書き、言語を学ぶにしても完璧を目指していたらそれは負担になる。つまり自分でまあ良いかと思えるレベルだから、頭の体操をいつでも出来るし毎日続けられると言うことだ。本当に成果が上がっているかどうかはまた別の問題だが。

by ロクスケ











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ミニマリスト、断捨離

前々から書いているが、私はどうも掃除や整理というのが苦手で、色々な物を殆ど考えずにどこかにしまい込み、あとから散々探し回るなどを良くやっている。兎に角物が多すぎると自分でも思っているし、以前に比べればかなりの物を捨てたつもりだ。が、それでも尚普段使わない物が多すぎるとは思う。

整理の仕方などをネットなどで参考になる記事を探してみたりしてはいるが、どうも参考になる物は無い。そもそも持っている物を減らせば整理は楽になる、最小限の物だけを持てば非常に簡単に整理整頓ができるというありがたいお話しは結構なのだが、何が最小限か自体は人によって違うだろう。

どうも育った時代のためか育った家のためか、物を捨てるのがどうも苦手で、例えば私は筆記具がそれこそ数え切れないほどある。鉛筆などはおそらく数百本あるだろうし万年筆も十本ではきかずボールペンも次から次へと買っている。ところが、その筆記具だが、最近はもっぱらPCで文章書きをするし手紙などもメールで済ませてしまう。となると筆記具は結局メモ程度にしか使っていないのだから、例えばボールペンが二、三本もあれば十分なはずだ。しかし、現実には数え切れない筆記具がある。気持ちとして筆記具が棄てられないからだろう。棄てようと思う気持ちが起きないのだ。

これは衣類や、食器、茶器などありとあらゆる物がそうで、着る物は季節によって場所によって当然変わるし、第一いつも同じ物を着ているわけには行かないのだから最低限と言ってもそれなりの数は必要だし、そうなるとあれもこれもと持つようになり結局洋服箪笥などは満杯になっている。

結局断捨離とかミニマリスト等と言う概念は真似して出来る物ではないのだと思う。心に染みついた兎に角採っておこうという真理が変わるわけは無いと、最近は開き直って使いもしないものをせっせと片付けている。

by ロクスケ











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ブログを続ける理由

このウィングブレインの記事は二週間に一回の発行としていて、それなりに早い物で22年間続いている。ところで、私個人としては、ブログを別に続けていて、かれこれ18年目に入っている。この2年ほどは毎日800〜1000文字位の記事を書き続けている。これは文章を書くことが考えを整理する機能があり、その意味で頭を使い続けることが脳の老化を防ぐからとの理由も有る。

またWBの記事とは違い、私のブログはそれなりに政治的な話題を採り上げているが、その為には自分の意見を書くための根拠をそれなりに確認することは欠かせない。つまり単なる思い込みではなくあくまで根拠に基づき自分なりにその理由や予想などを纏めて書いている。そこは他に続けている小説などとは違う。小説はあくまで事実など関係なく自分が作り上げたストーリーを纏めるのだから、その意味では極めて自由に想像しそれなりに纏めて書くのだから、その意味ではブログとは違う頭の使い方になる。

結局ブログを続けたり日記を書いたり小説を書いたりなどはそれぞれ違う頭の使い方を毎日しているわけで、その意味で脳トレになるというわけだ。他にも文章書きとは違うが、例えば私は外国語をそれなりに勉強したりしているが、これも日本語とは違う脳の部位を使うと言うことで、それなりに脳トレになる訳だ。どれほどの効果があるかは分からないが、自分なりにそれが続けられているのだから効果があるのだろうと思い込んでいる。

何度も書いていることだが、今のところ年齢の割に健康には問題が無いとされている。それなりに毎年受ける検診の結果ではそうだが、だから絶対に安心、病気にはならないなどと言うことでは無い。が、それでも身体が健康だとされているなら心理的にもかなり楽になるし、たしかに時々旅行に行って2、3週間から2月ほども方々を歩き回り、時に一日25キロ以上歩くなどを毎日続けていてへばらないのだからそれなりに、年齢の割に体力があるだろう。短距離なら走りもする。

人間誰しも長生きしたい。しかし、長生きするなら元気で居たいし生活を楽しみたい、その為には身体の健康、脳の健康、志向の健康を保つことが何より大切だと思う。

by ロクスケ











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手帳を使わなくなった

一番古い手帳は自作したシステム手帳で、もう40年以上前に自分で作った物だ。中のリフィルも当然市販品は使いにくかったので、自分で様々な形式を作り、印刷したもので、当時は通勤でも私用で出るときも欠かさず持っていた。かなり大きな物で、しかも丈夫な革製の表紙だったので到底ポケットに入るような物ではなく、何しろサイズは大体、200x151x50程もあったのだから手帳のイメージとしては大きすぎるかも知れない。

当時、システム手帳は大流行していて市販品の最高級な物なら当時の価格で10万円位もする輸入品などがあったが無論中身は日本人としては使いにくいし第一私は興味も無かった。が、それをエリートのシンボルであるかのように持ち歩く、中にはわざわざシステム手帳だけを持っている人なども居た。まあ、それは人それぞれ、私は自分で使いやすい物を作ったまでのことだが。

因みに現在の高級システム手帳はどのくらいの値段かチェックしてみたら某通販会社の999,999円等というのがあった。機能などよりあくまでブランドなのだろう。腕時計などと同じだ。

それはともかく、私が作った多分1000円もしない手帳の、分類していた内容としては住所録、予定表、思いつき、自作小説ネタ、メモ、グラフ、地図など様々で、当時としては便利だったのだが、考えて見ればこのところこの手帳は全く使っていない。上記の機能は全てスマホで間に合うし、本当に記録するなら内容をPCに移せば良く、手帳などよりも検索が簡単だし、いくらでもコピー出来る、送受信出来る、内容変更も出来る。

したがって、今は上記のシステム手帳など全く使わないし、持ち歩いたり机の上にあるのは単なるメモ用紙だ。思いついたことをとっさに書き留め、後でパソコンに移すし、書き留めたメモは書き写したら直ぐにゴミ箱へポイ。

前にも書いたが、手書きで文字を書くこと自体が無くなり、今はボールペンでメモに走り書きする位しか無い。手紙などもネットのメールの方がよほど早く着くし返事も直ぐ来る、時には会話も出来る。だから、曾ては毎日使っていた万年筆も今は殆ど使わないし、文字は忘れるし汚くなるしで、たしかに手帳を使わなくなったのも無理は無い。それでも未だにシステム手帳は売れているようだし、高級万年筆なども売れている。やはりそれらにこだわる人は未だに多く居るのだろう。私は新しい方法が便利だと思えば容赦なく切り替える。しかし、手帳や万年筆自体は好きなのだが。

by ロクスケ











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使わない物を作る

私は趣味を沢山持っているが、子供の頃から今も続けている物に物作りがある。これは以前も書いたことがあるが、例えば家具などを作ってそれは実際に使っているし、デスクパソコンなどもまず既製品を買ったことが無く、それこそパソコンが出来はじめた頃から作り続けている。あとは様々な模型とか音響製品などなど本当にいくつ作ったか分からないほど大量に作っている。が、まず殆どは作る事自体が趣味なのであって、出来たものをそのまま使い続けるなどはまず無い。

例えば、いくつもの模型モーターなどを作ったりしているとして、実際にはそのようなモーターは今ではいくらでも買えるし、本当に安い。自分でトタン板を切り出してそれに自分で買った電線を巻いてモーターを作っても効率は悪いし時間はかかるしそしてかかるコストは、市販のモーターよりよほど高い。というより、そのようなモーターなど、壊れた扇風機や掃除機みたいなものから只で取り出せ、実際に100個ではきかないそのようなモーターを持っている。にもかかわらず設計から材料集め、加工などをしてモーターを作るのは、あくまで作る事を楽しむためだ。

色々な趣味を持っている目的は大体共通して、苦労はするが苦労をして楽しむためであり、それは誰でも同じだろうし、また工夫をしなければそんな事は出来ないから、結局は頭を使うことで、頭の老化を防げると思っている。実際に最近では趣味で頭を使うのは老化を防げるという研究結果もあるようだ。

同じ意味で、私は使いもしないフランス語やドイツ語、スペイン語などを未だに学んでいるが、これも脳を使わなくては出来ないし、少しでも成果が出れば嬉しい。曾ては外国語を仕事でも使っていたが、今ではまず使わない。が、頭の体操という意味で学んでいる。

つまり、使いもしない物を工作で作るのは、その為に工夫が欠かせず、出来れば本当に嬉しいしそしてそれも脳の体操になる訳だ。

年をとれば誰もが体力は衰えるが、脳は鍛えることで衰えないとされている。その意味で、物を作るとは最適な脳の運動ではないだろうか。

by ロクスケ











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