F 柔術家・金谷正造と谷幸雄、三宅太郎


 別ページ「柔術の理解者 アラーデイル・グレインジャー親子」「1905-1914 三宅太郎とフランスの柔術」に書いたことを中心に、柔術家・金谷正造(のち山口姓)の活動振りを見てみます。

 1904年12月、ロンドンはオックスフォード街に、日本柔術学校“The Japanese School of Ju-jitsu”が開校します。4人の日本人柔術家と1人の英国人女性が教師として居たようです。
 主任教師が、三宅太郎と谷幸雄(後に平野“J. Hirano”が加わる)。
 平の教師が、飯田(「懐想録」による表記。英文では“ S. K. Eida”)と、金谷正造。
 女性担当教師が、ミス・ロバーツです。
 幹事“Secretary”のマーティン・アラーデイル・グレインジャーは、後に作家として高名になります(「懐想録」には「キャンブリッジ大学で運動競技の選手」という「グランガー」なる人物が登場します)。
 同年12月20日、ロンドンのカクストン・ホールで柔術演武を行ったのは、彼らにワッツ夫人を加えたメンバーだったと思われます。
 翌1905年1月27日のチェルシー兵営における柔術演武の報道には、金谷の名がはっきり出ています。
 8月には、パリのポンチュー通り(シャンゼリゼ通りそば)に出来た柔術学校に、三宅と金谷が出張教授に行っています。その経緯について「懐想録」には、ロンドンで柔術を学んでパリに帰ったフランス人・レニエから、学校を開くに当たって応援に来てくれという招待を受けた、とあります。


鹿屋体育大学附属図書館
http://www.lib.nifs-k.ac.jp/
論文・記事の検索
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学内刊行物
>研究紀要
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第39号 (2009年 9月)
http://www2.lib.nifs-k.ac.jp/HPBU/annals/an39/39c.html
平沢信康, 濱田初幸, 田嶋靖子
 資料論文(翻訳)英国の大学における柔道の発展
 pp.53-61全文(PDF)
http://www2.lib.nifs-k.ac.jp/HPBU/annals/an39/39-53.pdf

 1906年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに設立された柔術クラブに、谷とエイダ(※Eida、飯田)が日常的な指導を依頼された、とあります。
 主に谷と飯田がロンドンに残り、三宅と金谷が遠くに出張する、という担当分けがあったのでしょうか。
 なお、マイケル・カラン博士による論文の原文(英文、全文)は、次の所で読むことができます。

UNIVERSITY OF BATH
Opus: Online Publications Store
http://opus.bath.ac.uk/
ELITE SPORT AND EDUCATION SUPPORT SYSTEMS:
A CASE STUDY OF THE TEAM BATH JUDO PROGRAMME AT THE UNIVERSITY OF BATH
 Michael Jeremy Callan
http://opus.bath.ac.uk/12890/1/Callan_PHD.pdf



ElectricScotland.com
Highland Gatherings  by Sir Iain Colquhoun and Hugh Machell
http://www.electricscotland.com/gatherings/gatheringsndx.htm
・Chapter VII - 1858 to Present Time
http://www.electricscotland.com/gatherings/gatherings_chap7.htm

In 1905 three Japanese wrestlers from London appeared named Myake, Eida, and Kanaya, and threw the local wrestlers easily. Only one young soldier scored a point by bringing one jiu-jitsu man down.

1905年にロンドンから現れた三人の日本人レスラーは名を三宅、飯田、そして金谷と言い、地元レスラー達を易々と投げた。唯一人若い兵士が一人の柔術家を地に倒して一点取った。


 スコットランドでのハイランド・ギャザリング(大運動会)への出場の記録です。飯田もロンドンを空けているのは、既に平野が加わっていたからでしょうか。
 「懐想録」には、「スコットランドの北部高地インバネス」と具体的な地名が出ています。



 フランスのスポーツ・グラフ誌“La Vie au Grand Air”1905年12月8日号(No378)に、三宅が金谷を背負い投げしている写真と、金谷が三宅の腕を取って畳上に押さえ込む写真、それぞれ2葉ずつが掲載されています。背負い投げの写真(両人の顔がはっきり見える)1葉は、「懐想録」の口絵にも載っているものです。腕を取って押さえ込む写真2葉は、別の雑誌“Mon beau Livre”にも掲載されており、下記ウェブ・ページでご覧頂けます。

UNE LECON DE JIU-JITSU  Mon beau Livre, 1906年2月15号
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k57029257/f72.image
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k57029257/f76.image



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