1909 横山作次郎「武芸一夕話」(東京朝日新聞)

 

 

東京朝日新聞 明治42(1909)年8月15日朝刊

 

●武藝一夕話(一)

▽一時間の奮戦=無勝負

講道館七段 横山作三郎氏

 

▲天下の書生一度口を開いて談、柔道に及べば直に東京小石川なる講道館を云ふ 實(げ)にや講道館は斯道の総本山、啻(ただ)に其道場が日本一の大廣間たるのみならず、入門帳に金釘流の自筆を振るつたもの全國に約五十萬と號し、腕も全盛の時代なら疾(とう)の昔に講道館が天下を取つて居やう

▲講道館の金看板を斯くまで搖(うご)かぬ礎に据ゑ付けて牢乎たる一大勢力を作つたのは勿論治五郎嘉納師範の畫策(くわくさく)宜しきを得たにも依るが其大半の功労は是非共作三郎横山七段に分たねばなるまい。嘉納師範が劉備玄徳なら横山七段は關羽か張飛と云ふ花形役者、毎時(いつ)も其急先鋒を承はつて、敵の鋭鋒を挫き常に玄徳を扶けて遂に彼をして天下を取らしめた講道館の柔道を称するもの又一人として横山七段の名を云はざる者無きを見ても如何に氏が其の崇界の中心となつて居るかを知るに足らう

▲稍(やや)禿げ懸つた毬栗頭、赤銅色の圓い顔、ギロツと光る眼、ずんぐりとした體格、竪(たて)から突かうが横から押さうがビクとも動かぬ不敵の面魂、喜んで書生を座に曳いて痛飲高談する處、世が世なら何うしても畳の上では死ねぬ代物なり

▲夫(それ)でも少年の時代には非常に虚弱家で遂には肋膜炎まで病つて淺草今戸に出張所を設けて居た松本順先生の治療を受けたが何うしても捗々しく全治しない色々苦心の結果當時湯島天神の下に小さな道場を開いて居た井上桂太郎と云ふ老人の許に運動旁(かたがた)柔道を教はりに行つたのが氏の今日ある初で十九歳の時には既に二三段の力を備へ、體格も一變して梃でも動かぬ程に鍛へ上げられた嘉納治五郎先生と肝胆相照して桃園の盟ひを結んだのは蓋し此間の事である氏曰く

▲吾輩等の修業時代を思ふと今の書生の稽古振は全然氣が入つて居ない最も時勢が違ふが吾輩の若い頃は徹頭徹尾生命の遣取りで、なげ殺すか投げ殺されるかと云ふのだから何うして生温るい事では行かない如何に技が勝れて居やうと氣が弱い奴は直(すぐ)締められて終(しま)つたものだ他流仕合などになると更に烈しいもので今から思へば随分亂暴な話だが其代り又中々面白い事もある

▲丁度明治二十年の頃三島通庸氏が時の警視総監の時である先生非常に武藝の熱心家で廣く天下の豪傑を集めて戦はした扨(さて)當日になるとは遠きは中國九州の果から何れも一流の達人名士雲の如く集つたが中にも筑後有馬の家臣中村半助行年三十七歳六尺豊かの血氣盛り、組打ちに懸けては日本第一の達人と云はれた剛の者、拙者は其時二十四歳、愈(いよいよ)此強敵と取組む事になつた

▲審判は久富彌太郎、紀州神宮の鈴木孫八郎の兩先生だ。相手は名立る剛の者、加ふるに若年の吾輩等の東京の真ん中に金看板を揚げてゐるのが小癪に觸(さ)はつてゐるので一挫ぎに投げ殺して道場を破つて鼻を明かしてやらうと云ふ意氣込である。斯うなれば此方も一生懸命、假令(たとひ)一命を抛(なげう)つても敵を只では歸すまいと云ふ眞劍の立合戦はずして殺氣は廣き道場に漲つた

▲番數も進んで、愈(いよいよ)最後に兩人の立合となる隙もあらば投げ殺さんと機を狙ひつつ息も撞(つ)かずに攻め立てたが敵も左る者少しも怯まず互に秘術の有らん限を盡して逆寄せに寄せて来る。何時迄戦つても勝負が付かぬ、其中に審判官が中止を命じたが兩人共承知しない、息の有らん限り戦つて勝負を決すると云ふ、遂には審判官も手を曳いて最後に三島総監と足立利綱の兩氏が仲に入り此の勝負は自分達で預かると云ふので雙方へ引分れた自分はまだ四五分しか経つて居ないと思つて居ると五十五分の間揉み合ふて居た。餘りに殺氣立つたので横から心配して止めたのだ相だ

▲生命懸けで此位戦つたので二三日すると身體の節々が痛んで一寸觸ると紫色に脹れ上ると云ふ有様、後に中村に會つて此話をしたら實は俺も然うだが俺丈だと思つて隠して居たと云て大笑ひをした事がある随分是迄強敵にも出會つたが今迄此人程の剛の者と組んだ事はない、何うしても稽古は此位の意氣込でなければ眞の武藝の蘊奥に達する事は出来ない

 

 

足立利綱は当時、一等警視で警察本署署長(職員録(甲)明治19年〜22年)。その後、福井県知事に転じています(職員録(乙)明治23年)。

 

職員録. 明治23年(乙)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779760/105

 

 

改進新聞 明治19(1886)年5月9日朝刊

○改称 今度發布されたる官制に基き警視廳の巡査本部ハ昨日警視本署と改称されました

 

 

横山作三郎→作次郎

井上桂太郎→敬太郎

久富彌太郎→鉄太郎

 

 昔の本や新聞は名前の間違いが多いです。よく言えば大らかで、細かいことは気にしなかったのでしょう。「作三郎」は、同門の「戸張瀧三郎」と混同が生じた結果かもしれません。

 

 

 

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