1917 横山健堂「講道館発展史」(柔道)

 

 

「柔道」大正6(1917)年10月号(柔道会本部)

 

講道館發展史(十三)

 附、柔道界の人物

        黒頭巾

富士見町時代

第二期研究時代の一

  其五

●此の時代のロマンスとして發展史を飾る可きものには警視廳の大勝負及び飛鳥山の大喧嘩の二あり。其の事實の痛快にして精彩に富めるは、壮者の血を湧かすに足る。此の時代、蓋し、師範と館員と、師弟を擧げて、意氣旺盛に、身心ともに油乗り來つて、研究の新氣運、講道館に磅礴(ほうはく)したりしなり。

●當時、講道館の館風、書生界を風靡するの慨無くんばあらざりし。塾生と外來生と極めて親密にして、二者打して一丸となり、一見して、講道館員たるを知るべし。其の特色として自ら磨礪(まれい)せるは、勇健、勤勉、質朴、巌格なりし。

●館風の禮儀に篤きも亦た特筆す可し。當時、剛壮、血氣の青年の集團にてありながら、磊落、奔放の逸話に乏しきは、又た以て、館風の巌格なりしを徴するに足るべし、園中に杏樹あり、其の實を採つて食ひたるが爲に、一週間の庭掃除を課せられたる者あり。

●師範の元氣旺盛なりしは、牛ヶ淵落馬の逸事、之を徴證するに餘あり。當時、月棒百圓以上の奏任官は乗馬す可きの令あり、彼、未だ馬に馴れず、爲に數回、街頭に落馬したる事あり。其の中、牛ヶ淵の落馬、青年間に喧傳せらる。

●時の學習院は~田、一橋に在り。彼は學習院幹事たり、日々、馬を驅つて登校す。富士見町を出で、九段坂を下り、牛ヶ淵を過ぐれば、時の大隈卿の邸見ゆ。一日、此處を過るに、馬、躓きて、前脚を折つて跪づき、膝を傷く。此の刹那、彼は、咄嗟に、馬首を踰(こ)えて、飛んで、従容として地上に立てり。

●一呼吸の際、能く危を避けて安に居るは、必ずしも技術の精といはず、意氣、内に充實して油の乗るに非れば能はず。

其六

●「生々溌剌の氣、此の道場に溢れたり。研究の盛にして、稽古の猛烈なりし事も特筆すべし。當時の警視廳の柔道は、所謂名家先輩を網羅したるものなるに、吾が講道館の青年が一擧して「大勝負」に全勝せるに至れるは、一に、其の新進氣鋭、以て斯道を練磨したるの効果ならずんばあらず。

●師範の一身、公私多忙なりしに關せず、學習院より歸り來れば、必らず道場に上り、二三時間に渉つて、稽古するを常とす。其の稽古は、勇壮にして疲るる事を忘れたるの慨あり。

●師範、場に上る。錚々たる門人、列を正して坐す。西郷、富田、山下、横山、大坪、宗像、小田其の他、羅列す。一人づつ代る代る稽古す。疲れて退くまでは已めず。是等の高弟精力を盡して稽古す。時に、一本を得ることありと雖、其は頗る稀なり。時の師範は腰業を得意とし、大腰、腰投殊に左腰を好み、腰を入れば敵を投げざれば已まず。

●彼は、常に高弟の五六人を稽古す。一人、二三十分を要す。二三人を終れば、概ね對手を焦せらし、サア、サアと掛聲す。これを以て、對手は、ますます氣焦り、息切れ、疲れて退き、新對手、乃ち代り進む。

●當時、師範既に、柔道の權威なりといふと雖、僅に廿七八歳より三十に到るの間に在り。技、研究と共に、日々に新に、其の強味に於ても、恐らくは彼の全盛時なりしなる可し。

其七

●柔道の研究法といふは、此の道場の時に始まる。今の柔の形の成立したるは、此の時代に在り。柔の形の外に剛の形あり。五の形といふも此の時に編制されたるものなり。

●研究法にも種々ありし。門人羅列す。師範其の一人に向つて話す時、衆人、質問、討究する事あり。或は、門人、討究する時、疑義決せず、師範最後の審判を與ふる事あり。

●隔週日曜の午後、研究會を開くを例とす。師範、桐の几の前に坐し、几上に、一尺餘の人形を立たしめ、之に依つて、柔道の技術と理論とを説明す。

●柔道研究熱の旺盛なるに随ひ、自ら體力よりも、技術の發達に重を置くの傾向あり。是を以て、之を今日と對照すれば、稽古の上に差異無くんばあらず。

●當時、技術の精妙を以て称せられしは西郷四郎なり。眇然たる五尺の小躯。其の體力、固より言ふに足るもの無し。然れども其の稽古の鮮やかなる、勝負の鋭どきとは人目を爽快ならしむるものあり。

●彼の特色は、軽快敏捷なるに在り。彼の勝負を見る者、「彼の満身、渾べて是れ手足」なるかの嘆を發せずんばあらず。實に、彼は『技術の權化』なり。彼の全盛時には、横山の強、山下の練を以てすと雖、尚ほ一歩を譲らざるを得ざりし。西郷の妙技は、富士見町道場を飾るに足るものありしなり。

 

(其八 以下は略)

 

「柔道」誌の前号(1917年9月号)、小田勝太郎(当時「講道館幹事」)の「講道館昔咄 明治十九年の頃」にも、次のような一節があります。

 

 此時代の出来事として、警視廳での大勝負の事や飛鳥山大喧嘩なんど一種のロマンスもありますが、それは他日の御話と致す事にして、(以下略)

 

 残念ながら小田の「他日の御話」は見つかりません。飛鳥山の大喧嘩は、石黒敬七が「蚤の市」(岡倉書房、1935)に書いています。

 横山、山下、西郷、宗像等が飛鳥山に花見に行くと、村祭りで神輿を担いだり酔っ払って浮かれていた若者達に絡まれて喧嘩となり、棍棒を持った5、60人を素手の10人程でやっつけた、ということのようです。

 

同号にも「講道館発展史」は掲載されています。その中の一部のみご紹介します。

 

講道館發展史(十二)

 附、柔道界の人物

        黒頭巾

富士見町時代

第一期      創始時代の四

  其四

●吾が講道館の『黒帯』が、斯界を風靡するに至りしは、此の時代に在り。當時、斯界の人、『黒帯』を見れば、必らず其の強者たるを信じ、『黒帯』は、強者を象徴するの語となれり。

●講道館以前に『黒帯』無し。有りと雖、有段者を表章するに『黒帯』を以てして、『黒帯』即ち強者なるの意義を明確ならしめたるは、講道館に始まる。蓋し斯道を開發し、先進者を表章し、後進者を奨勵するの上に於て、一定の名誉ある徽章を創製するの必要ありしなり。

●昔の道場にては、黒帯は必ずしも強者の意味にては非ざりしなるべし。畢竟、帯には何等の意味を寓せしこと無かりしなるべし。古流の諸先輩或は當時、警視廳の名手を以て称せらるる者、吾が講道館の有段者と對場するに、一人の『黒帯』を佩びたる者あらざりき。

●講道館、一たび『黒帯』を以て、天下を風靡せしより、他流も亦た其の顰に倣ふ者少からず。起倒流を始め、諸流、漸次、『黒帯』を用ふ。

●今日、『黒帯』の數、天下に充満すといふも可なり。譬へば陸海軍の大将、中将と雖、世人、容易に、其の名を列記するを得ざるが如し。然れども西南戦争の頃の佐官は、今日の中将よりも少く、日清戦争の頃の将官は、概ね世人に記憶せられたり。吾が講道館の創始時代に於ける『黒帯』の數、寂々、寥々、眞に暁星よりも少かりし時、光榮ある『黒帯』者が、斯界を震駭せしめたる武者振、蓋し想像するに餘あり。

 

 

「柔道」大正12(1923)年1月号(講道館文化会)、「柔道發展の側面觀」第一回において、富田常次郎は次のように記しています。「黒頭巾」は横山健堂のペンネームでした。

 

横山健堂氏によつて椽大(てんだい)の筆を振はれて居た講道館發展史はその後氏が御一身の御事情より、材料蒐集の時を得られなかつた爲、讀者諸君の熱心なる御希望に背いて、久しく之れを休載するの已むなきに至つたことは、吾人の常に深く遺憾とする所であつた。

 

横山健堂

 ウィペディア フリー百科事典

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%81%A5%E5%A0%82

 

 

追記2016.11.7

 

横山健堂「嘉納先生伝」(講道館、1941)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043572

 

第六篇 講道館柔道創始大成の偉業

      :

躍進また躍進に輝やく講道館

(一)

 明治維新以来、各方面に於て、素晴らしい躍進、擴大をなした代表的のものの中、講道館は、其の尤も顕著なるものの一つでなければならぬ。書斎、寝室、應接室に兼用せられた僅か十二疊の永昌寺道場から、約六百疊の大道場を含む講道館の大建築に到るまで、其間約五十年、躍進また躍進を續けて此に至つた講道館である。

 講道館創立以來、現在に至るまでを大別するとこれを左の五期に分つを適當とする。

 ○第一期 明治十五年………十九年五月

道 場――永昌寺…~田南~保町……麹町區上二番町…小石川區下富坂町

 ○第二期 明治十九年五月……二十七年五月

道 場――下富坂町…富士見町…本郷眞砂町……上二番町…下富坂町

○第三期 明治二十七年五月……四十二年四月

道 場――下富坂町

 ○第四期 明治四十二年四月……昭和八年十二月

道 場――下富坂町

 ○第五期 昭和八年十二月三十一日

道 場――小石川區春日町

(中略)

 第二期は、先生の研究大に進み、着々これを實際に施した時代で、講道館の振興に與かつて功ある高弟は、此時代に養成された者が多い。まさに門人養成時代とも称すべきである。館風大に振ひ、業も亦たそれに伴れて發達した。東京及び各地方に於ける各流派の柔術者、續々講道館に襲來し、此方よりも西郷四郎、馬場七五郎等の名手、新進気鋭の若輩を引率して、東京の諸道場を歴訪、轉戰し、かくして自他各流の間に活發なる競争起り、柔道勃興の氣運、沛然として一世に漲るに至つた。此氣運を作つたものは、言ふまでもなく講道館である。内外の仕合に於て、講道館は連戰連勝し、特に警視廳主催の數回の對他流の大仕合に、講道館は大勝を博し、完全に斯界の覇権を掌握するに至つた。蓋し此時代の講道館は、譬へば花の將に破蕾せんとするが如く、精彩尤も絢爛たるものがあつた。此時代の詳細なる記事を作らば、極めて感興的であると思ふ。

(後略)

P308〜310 コマ番号183〜184)

 

 

横山健堂「日本武道史」(三省堂、1943)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125984

 

第七篇 柔道篇(二)

  :

第二章 躍進に輝く講道館

(一)

(前略)

 第二期は、先生の研究大に進み、着々これを實際に施した時代で、講道館の振興に與かつて力ある高弟たちは、此時代に養成された者が多く、門人養成時代といつても可い。館風大に振ひ、業も亦それにつれて發達した。東京及び各地方、各流派の柔術家、續々、講道館に襲來するとともに、館の方よりも西郷四郎、馬場七五郎等の名手が諸方の道場を歴訪し、道場破りを試み、講道館を目標として、各流ともに活發なる競争が起り、柔道勃興の氣運、一世に漲ぎるに至つた。此の氣運を作つたものは、講道館である。内外の試合に於て講道館は連戰連勝し、警視廳主催の數回の大試合に於て大勝を博した講道館は、斯界の覇権を掌握するに至つた。

(後略)

P465〜467 コマ番号257〜258)

 

 

 講道館の方から道場破りに行った、とは他に見ない記述です。あるいは嘉納師範の外遊時(西郷四郎の師範代時代)のことでしょうか?

 

 

 

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