1918 高橋数良「警視庁の柔道」(柔道)

 

 

「柔道」大正7(1918)年7月号(柔道会本部)

 

警視廳の柔道  五段 高橋數良

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◆警視廳に於ける講道館柔道

 馬場先門と日比谷公園の間お濠に面して美麗な飾の多い、白煉瓦の建物は、東京案内めいた説明するのも野暮だが、帝國劇場である。此の建物と隣合に、赤煉瓦の無飾魏然たる容姿恰も辨天様に對する毘沙門様の様な建物が、即ち帝都幾百萬の市民を保護する警視廳である。私の知つて居るのは、此の建物に成つてからの警視廳柔道であるが、元は芝の御成門外の薄汚き日本建の家であつた相だ。然し、此の時代が實に凄しき昔の柔術各流の争覇時代より、講道館により統一時代に至るまでの歴史を藏する建物である相だが、不幸にして私は其の建物も知らねば、其の争覇戰も知らぬが、幸ひ此の戰場を往来されて、終に講道館に月桂冠を納められた現講道館指南役、警視廳武道師範總取締山下七段のお話に依り、本誌に講道館發展史と云ふ題目で、黒頭巾と云ふ方が細かく書れた筈ですから、私は只々其の時代の組織なり、練習法の變遷發達を聞きしまま御傳へしてみよう。

 明治初年頃、講道館創立前後の警視廳柔術の模様は、維新前後、實地生死の間を往來して來た、各流の名人達人を、諸國から警視廳に集めて、全國影も止めなかつた武藝は、警視廳獨占の有様であつた。時の人は、汲心流の上原とか、力士上りの豪の者とかで有名な中村半助氏、澁川流の久富、揚心流に戸塚派で金谷、鈴木照島、片山の諸氏、三統流に、六尺豊の大兵で、九州より遙々上られた鶴田氏、後に佐村と云つて今京都武徳専門學校に教鞭を執らるる佐村六段の嚴父君、之れ等の方々より少し後れて、岡山より起倒流の金谷氏、武徳會本部にて名聲を搏された、田邊、今井等の先輩で、固業では、當時の日下開山など云ふ何れ劣らぬ、一騎當千の士が、東京十五區の一區宛に一道場を受け持ち、世話係と云ふ名称の下に教職にあつたのである。

れ只其れ丈けの事なれば、天下泰平、お話もないが、毎月一回宛、十五區の内何れかの區に巡回勝負が執行される、さあ之れが大變だ。到底私共が今日の勝負を標準に想像する様な生優しいものでない。維新前後の血生臭き干戈の餘熱もあり、元来上下禮節こそ正しいが人間が頑固だ、大警視中警視小警視と云ふのが今の総監、警警視部と云つた官名で、大警視等と來たらば、就任された方は、頑固で有名な御歴々方が多い。下の人々も、昔固氣の律儀一片、命令する方が頑固で命余を受ける方が眞正直一點張の御連中の試合だから凄い、其上出演者と云ふ名称も、搏士方と云ひ、審判者と云ふ所が立合役だから恐入れ、實際其のお立合役と來たら、名の如く、業の種類も時間の制限もあつたものでない。何れかが参つたと云ふ迄見て居るお役目で、火が付かうが山が崩れようが、御同役退屈では御座らぬかと云ふ調子だから、此の勝負も平素の稽古も大抵像想される。まだまだ其の位では納らない。年に一回彌生祭と云つて、本廳に於て殉難廳員に對し、陸海軍の招魂祭に相當した荘嚴な祭がある。無論諸官省から參列して叮寧に執行される。其時に當り、十五區の總員總出の演武大會が開かれる。かう成ると、大中小警視は、お客様に對し、各警察署長は自署の優秀を痛くなる程力瘤を固めて部下を激勵する。搏士連は、部門の譽今日が晴の日と云ふ氣組、上下相俟つて活氣滿堂の有様、其上賞品等は、本廳からは無論、他の諸官省からドンドン寄贈され、殊に宮内省からは特別賞品を下げられた相だ。

   ◆警視廳の彌生祭に山下二段の大奮闘

 兎に角、斯様なる状態で、明治十八年が來た。此の年が抑も講道館柔道が警視廳で爆發した記念の年だ。其は山下指南役がまだ二段の頃、嘉納師範の御膝元で、朝に夕に切磋勉勵今日の指南役たらん素養を發揮せれつつある頃の事とて、警視廳の柔術に對しては、日頃から脾肉の嘆に堪えなかつた時、恰も十八年の彌生祭だ。我慢にも何にも耐らない。終に、講道館の銘旗を飜して此の大試合に飛び込んだ。而して、警視廳に吾ありと云はん者を片ツ端から打ち破られた。所がまだ其の時は、指南役御年若、其上御承知通り、左程頑丈作の御體格でないから、牛若丸に辨慶と云つた形に、萬目の焦點となつて、大に嘱目された。茲に於て、警視廳に講道館が初めて入り込んだ。斯く成ると、山下指南の紹介で、故横山八段が入廳され、続て時の岩崎、今の佐藤法賢氏、戸張瀧三郎氏が入廳された。所が、今迄天下各流の争覇戰は、急に變して、講道館對各流の争覇戰となつた。横山八段が御一生中の歴史を飾る、勝負の~の如く、鬼横山の異彩を斯界に放たれたのも、此の時代の産物である。兎に角、講道館が武名を天下になすには實に好機であつた。が同時に、此の瀬戸際の師範の御苦勞は實に想像以上であつたに違ない。到底私共の筆紙に盡し得る事でない。今日の講道館柔道を師範が御工夫中で、吹く風にも道邊の草にも、心を潜められた頃の事であるから、各流の寄り集りの警視廳勝負は、御心勞で有つたらう。又多大の御參考資料にも成つた事と思はれる。

 ◆警視廳に於ける柔道の現況

 斯の如くにして、奮戰終に諸流は其の代表者が講道館柔道に兜を脱ぎ、明治卅四年、山下指南は本廳に引き擧げられ、總取締役となられ、安定なる講道館柔道の基礎を警視廳に築かれた。斯くして、明治卅六年より四十年迄滿、五年間、山下指南は渡米され、帰朝後色々内部の改革に盡され、終に今の組織に成つた。即ち柔道は、警視廳警務課の仕事に属し、以前の世話係を廃し警視廳師範となし、指南は師範總取締として、以下師範が十二名各方面を擔當して居る。其の各師範の下には、一警察に一名宛の助手を置き、日頃は助手が主となつて稽古なし、師範は方面に依り四五の警察を月に各四回以上六回巡回し、其上、山下、河野師範が巡視される。年に二回、本廳に於て實力査定會、即ち進級勝負が執行される 之れは、講道館の級で云ふと、三級以下は各署にて定め、三級以上の實力ありと思ふ者を此の査定會に出して、進級編入する。又、年に二回、春秋演武大會が執行される。無論昔の彌生祭だ。以前は各署の部員出演したが、殷々演武者の數を増し、次に三級以上出演する事に成つたが、其れも不可能に成り、今では二級以上を三日に亙りて尚ほ時間不足を告げて居る。一方師範助手は、月に一回宛本廳に集り、各署の稽古の方針や、種々なる形・業の説明、研究、實地練習が山下指南を中心に、助手會師範會が行はれて居る。兎に角、今昔の警視廳武道は、東京の膨張と同時に、昔は十五區十五警察で、道場も其の割であつたが、今は五十九警察で、道場も同様で到底同日の論でない。昨年十二月査定會演武者の總計は、六百八十二人、内有段者が百二十三名、一級が百三十四名、二級が百五十六名、三級が二百六十九名である。各署に於ける助手は、初段より三段迄の人で、師範では山下七段の外は三段より五段迄の人、其他、廳員で正力方面監察官(三段)、小石富坂署長薗田三段以下、随分澤山の人が重要な職務を執られて居る。以上の勢であるから、警視廳と云へば講道館柔道に對しては大なる一團體で、斯様に澤山結束して働て居る所は、他には餘りあるまいと思ふ。以下師範の顔觸と、去る本年五月廿二日警視廳奨武會春季大會の結果を報告して警視廳柔道紹介の終としよう。」

 山下師範取締、河野市次氏は四段河野芳太郎の嚴父君で、九州久留米柳川藩の方、昔彌生祭戰場の古武者、八十近き高齢者であるが、元氣盛々益である。第一方面谷貝三段、第二方面高橋五段、第三方面河野四段、第四方面田中三段、第五方面森山三段、第六方面中野五段、第七方面佐藤三段、第八方面馬場三段、第九方面山崎四段、第十方面貝塚三段、第十一方面矢部四段、第十二方面舟崎三段と云ふ連中が、師範として各方面に活動されて居る。(奨武會春季大會記事は彙録の部にあり)

 

 

 明治18年の弥生祭武術大会は、10月13日と14日に行われました。三島通庸関係文書にあった試合の組合わせ表に、山下義韶の名前はありません。もっともそれはあくまでも事前の予定であり、実際は変更された、ということも、純可能性としてはなくはないかもしれません。しかし、講道館のホームページによれば、その時は既に三段になっているようです。

 

講道館の殿堂 山下義韶

http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/yoshitsugu-yamashita/

二段 1885.6

三段 1885.9

 

 弥生祭は殉職警察官の慰霊祭であり、武術試合が奉納されますが、それとは関係なく、弥生社(警視庁官員のクラブでありその建物、神社をその構内に併設)において武術大会が行われることがありました。高橋数良八段が混同していた可能性もあります。

 

 

読売新聞 明治18(1885)年6月27日朝刊

○撃劍見物 昨日向ヶ岡彌生舎に於て催ほされたる撃劍會を見物として渡邊東京府知事を始め愛知、茨城、愛媛、群馬、兵庫、大分、宮崎、佐賀、福島、福井、福岡、高知、徳島、埼玉、根室、廣島、三重、宮城、千葉、石川、青森、長野、和歌山、山梨、鳥取、の諸縣令及び福羽議官等何れも同所へ赴かれたり

 

東京絵入新聞 明治18(1885)年6月27日朝刊

○大撃劍會 渡邊府知事はじめ在京の各府縣長官ハ昨日午前九時過より警視廳へ出頭各局を一覧あり夫より向ヶ岡なる彌生舎へ赴かれ福田海江田の両元老院議官警視正副総監も臨席ありて午後二時まで同所に於て何か會議を開かれ終つて大撃劍會を催されしと

 

元老院議官の名前を「福田」とありますが、読み仮名は「ふくば」と振ってあり、読売新聞の「福羽」が正しいものと思われます。

この時なら山下義韶は二段であると思われます。千葉を本拠とする揚心流戸塚派の後ろ盾とも言うべき船越衛・千葉県令も出席していますが、警視総監は当時まだ大迫貞清で、三島通庸ではありません。

 

東京日日新聞 明治18(1885)年6月26日朝刊

○撃劍 警視廳にて本日向ヶ岡の彌生社に於て大撃劍の催あり大迫総監にも臨場せらるると云ふ 

 

日本立憲政黨新聞(後の大阪毎日新聞) 明治18(1885)年6月28日朝刊

○地方官歸任 地方官諮問會の爲め上京されし各地方長官にハ來る三十日までに悉皆御用濟となるに付來月初旬へかけ陸続歸任さるる筈なりと云ふ 

 

なお、「撃剣会」と銘打っていますが、柔術等も行われた可能性はあります。例えば、下記のような例もあります。

 

 

読売新聞 明治16(1883)年3月15日朝刊

○來る二十三日警視廳にて春季大撃劍會を執行せらるるに付き樺山警視総監も臨席せられ各屯所巡査部長及び巡査數百名また憲兵も數十名出場し柔術鎖鎌長刀鎗棒等の試合もあるといふ 

 

 

 

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