1923 富田常次郎「柔道発達の側面観」(柔道)

 

 

柔道發達の側面觀

六段 富田常次郎

 

「柔道」(講道館文化会)大正12(1923)年1月号、2月号、5月号、6月号、7月号、11月号、12月号

「作興」(講道館文化会)大正13(1924)年1月号、3月号に連載。 

 なお、題名は初回のみ「柔道發展の側面觀」で、2回目以降は「柔道發達の側面觀」となっている。

 

 

「柔道」大正12(1923)年5月号

柔道發達の側面觀 其三

 

   上二番町時代

●前回にもお話しした如く、弘文館は、総て原書を用ひて英文學を教授する高尚な學校であつたが、惜しい事には私立であつたから、明治十八年の徴兵制改正の爲に衰微した。それでも、二十年頃までは、若干の人々を教へて居つたと記憶してゐる。

●是れに反して、柔道の方は益々發達して来た。そこで、明治十八年に、上二番町の嘉納先生の邸内に、三十疊の道場を新設した。而して下谷以来三年目で、始めて講道館と云ふ門札を掲げ、且五ヶ條の誓文簿を作り、同時に我輩と西郷四郎とが初段に進められ、又幹事に擧げられたのである。

●ここに於て都下諸流の柔術家は驚いた。如何に驚いたかと云ふと、少數の人々は、廃れた柔術が學者の手に依つて恢復の曙光を見た事を斯道の爲に驚喜したが、多數の教養のない専門家連は、文學士の柔術何程の事かあらむと云ふ軽侮反抗の念から、嘉納の大膽に驚いたのである。従つて講道館の他流試合なるものは、其の時分から始つたのである。

●併し既に自信あつて金看板を掲げた以上は、武士道の習ひだ、誰れが試合を申込んで来ても、又何處の試合に招かれても、決して否とは言はない、大に歓迎し、又進んで出かけたものである。

●何んと云つても、其當時警視廳には諸流の名人、達人(?)が集つて居た。その中でも、楊心流の戸塚彦九郎の門人が一番強かつたから、そこで自然試合は、戸塚派對嘉納門人の雌雄を決する戰場となつた。(當時は講道館と云ふよりも寧ろ嘉納流で知られてゐた)。此の他流試合は、引続き三四年間盛んに行はれた。そして其の結果は、之を近世史に喩へれば、正に徳川氏の覇業の基礎となつた關ヶ原の役にも等しく、又近くは、日本海々戰の如き有様で、其の都度美事我が黨の大捷に歸したのである。

●古い言葉であるが、事の成るは成るの日に成るに非ず、必ずや遠く其の因がなくてはならぬ。其のここに至るまで、明治十一年以来柔術の修行を始め、十五年以来は常に総大将たる嘉納先生の努力と研究とは、中々容易な者ではなかつたと云ふ事は、豫々述べた通りであるが、然し、馬上花々しく軍門に凱旋するか、然らざれば屍となり楯に乗つて歸ると云ふスパルタ武士の氣概を以て、此の陣頭に奮戰又奮戰した我が黨の勇士諸君の功績も、決して軽々に附すべきでない。

●内容が良くて廣告が巧まければ、如何なる事業も必ず成功する事は、昔しも今も變りはない。徳川家康は、ああした覇業を建てるに最も適した性格の人であつた上に、關ヶ原の一戰に於て大廣告をして、一擧に天下平定の基礎を築き上げたのである。併しながら、如何に宣傳が巧みで、大に其の威力を示しても、若し其の内容が貧弱であつたならば、三百年は愚か、彼れ一代の榮華もむづかしかつたであらう。

●講道館柔道は、今尚進歩改善の餘地は澤山あるけれども、兎に角昔の柔術諸流よりは、其の全體に於て進歩發達したものである事は、如上の試合に依つて實地に證明された。故に其の創立以来十年を出でずして、全國の柔術界を平定したのである。

●さて、此の講道館の關ヶ原とも言ふべき他流試合に於て、最も花々しく闘ひ、常に功名手柄を建てて、敵の心膽を寒むからしめた者は、何んと言つても西郷四郎であつたと我輩は思ふ。彼は、身長僅かに五尺一寸、而も山嵐と云ふ乾坤一抛的の大技を得意として、所謂飛鳥の如く其の體をかわして、敵の掛技を避けつつ巧く敵を誘ひ、あつと言ふ間に此の技を試みれば、殆んど百發百中、常に大敵を敲きつけて、審判者を案山子にするのは彼れであつた。そこで戸塚側の屈指の闘士も、屡々これで敗られた。又館内では、大男の横山でも、戸張でも、是れには閉口したものである。

●時に不幸にして返へされても、彼れ西郷は、決して其の背中を畳につけず、大抵猫の如く中途で廻轉して、四這ひとなり、立ち上りながら、是れ幸ひと、直ちに腰投を試みると云ふ様な、電光石火的の勝負振りであつた。故に、後年敵方でさへも、彼れを許すに名人を以てした位である。

 

 

「柔道」大正12(1923)年6月号

柔道發達の側面觀 其四

 

   ○西郷四郎氏の思ひ出て

 前回に講道館の關ヶ原とも謂ふべき他流試合に於て、西郷四郎が彼れ獨特の山嵐を以て抜群の功を立てた事をお話した。

 然るに今日この技を試みる人が殆んどないばかりでなく、一體山嵐とは如何なる技であるかをも知らない有段者が多い様であるから、ここで序でを以つて故友西郷に代つてその大體を説明して見よう。

 其の前に鳥渡、西郷の性格を紹介しておくのが便利であると思ふ。彼は會津の産で、陸軍大将になる事が可憐な書生時代の唯一の目的であつた。そして、前にも言つた通り、その身體は至つて小兵であるが、その癖、大功は細瑾を顧みずと言つた風になかなか豪放大膽な男であつた。

 一例を擧げて見ると、明治二十二三年の頃、嘉納先生が最初の洋行中、彼はその留守を預つて萬事を取締るべき役目を持ちながら、かへつて鬼の居ない中に洗濯と云つた様に思ひ切つて亂暴なことをしたものだ。若氣の至りとは云ひながらもなかなか豪放な事をする男であつた。

 それはさて置き、山嵐と云ふ技は決して腕力や體力の技ではない。全く乗るか反るかと言ふ氣合と膽力との技である。力學上から言ふと、相手の重心を出来るだけ最短距離に崩して、然も最大速力を以て掛ける柔道諸技の内でも最も進んだ技と見る可きものである。

 其の實際の掛け方を云ふと、互に右に組んだと假定すれば右手で相手の右襟を深く取り、左手で相手の奥袖を握り、同時にかなり極度にまで右半身となつて、相手を引出す手段として先づ自分の體を浮かしたり、沈めたり、又ある時は腕先で、ある時は全身を以つて、巧に押すと見せないで、相手を後方に制するのである。そこで自然に相手が押し出る途端を即ち嶺から嵐の吹き下ろす如く全速力を以て充分に被つて肩にかけると同時に、拂腰と同様、相手の右足首を掬ふ様に拂ひ飛ばすのである。であるから、此の技は拂腰と背負投げのコンビネーシヨンと見ても差しつかへあるまいと思ふ。(この時襟を取る手は拇指を内に入れて握つてもよし、又その反對に外に出して取つてもよい。實際、西郷も兩方を用ひた様に記憶する)

これだけの技ならば、誰にも出来さうであるが實行はなかなか容易ではない。西郷がこの技を得意としたのには、彼の身體上の特徴が二つあつた事にも依る。その一つは彼の身體が矮小であつたから、殊更に腰を下げなくても、押し返す相手を其のまま引込めば、彼の體は丁度理想的の支點となるからである。故に時間を省き、又潰される憂ひがないのである。

もう一つの特徴は、彼の足のゆびが普通の人と違つて、熊手の様に皆んな下を向いて居た。だから拂腰の様に足をのばして相手の足首にかけると、それが豫定の位置をはづれて、上の方に流れると云ふ様な事がない。即ち、相手の踝を目當てとすれば、そこにぴたりと喰ひついてゐるのであつた。その上、彼は前にも言つた様に、大膽に思ひ切つて乾坤一抛的に技をかけるのであるから、殆んど百發百中相手を投げ飛ばしたのである。

要するに此の技は、小さい人が、より大きい人に試みる方が有利であると思ふ。

 古い諺に、千日士養ふは一日の用に立てんが爲であると云ふが、果してさうであるならば、講道館の創業時代に於て、未だ世間が我が新柔道の實力を認めなかつた時にあつて、彼れ西郷は實によくその使命を果した一人であると思ふ。

 然しながら、人間に完全は期し難く、忌憚なく言へば、彼はこの大功あると同時に、大切な創立時代に於いて、無責任の事も亦ないでもなかつたのである。併し、今それを言ふ前に、もう少し彼の功績逸話を譚して見よう。

 時は確か明治十八年の春、所は駒込の曙町に、天~眞楊流の道場を開いてゐた市川大八と云ふ老先生があつた。(市川氏は明治十二年、かのグラント将軍が米國から来朝の際、二代目(※)磯氏と天~眞楊流の形を将軍の前で演ぜられた人である。又この時我が嘉納先生も選手として出場せられたのである)。

 ある時、この市川氏の道場開きに招かれて、小田勝太郎、西郷四郎、それから我輩との三人が嘉納先生に随伴して、此處に出席したのである。この席上に於いて、當時市内で多少その名を知られて居た某先生と未だ全く無名の西郷とが、此日の主賓であつた嘉納先生の指圖で、所謂初對面のお近付き稽古をしたのであつた。(云ふまでもなくお近付き稽古とは表面上の名義で實は勝負である)。

 所が彼はこの時初めから終りまで、その相手の何んの苦もなく甚だ無邪氣に翻弄してしまつたのである。

 昔、辨慶は彼の五條橋で牛若丸との試合に於いて遂に主従の約を結ぶまで牛若丸の軽妙な腕前に感服したと云ふ事であるが、實に當日の観衆は森として彼れ西郷の技倆に魅せられてしまつたのであつた。これが抑も西郷なる者が斯界にその名を知られる初陣であつたと記憶してゐる。

 

「柔道」大正12(1923)年7月号

柔道發達の側面觀 其五

 

   警視廳の師範中村氏との奮闘

 その翌年、即ち明治十九年に故品川子爵が獨逸の公使となつて赴任せらるるに際して、同子爵が嘉納先生に好意を以て留守中その邸宅の使用権を與へられたので、同年の三月に、上二番町から富士見町の子爵邸に移轉した。今の添田博士の邸もその一部であつた。そして、この邸内の一方に講道館を移して、四十畳に増築したのである。今日から考へて見ると、甚だ貧弱の様であるけれども、然し、その當時には、東京市内に四十疊の道場は外になかつたらうと思ふ。

 そこで、此の年の秋頃であつたと思ふが、海運橋向ふに道場を開いて居た八谷氏の道場開き、即ち今言ふ大會に招かれて、戸張瀧三郎、有馬純臣、松田文藏、ならびに我輩の四名が講道館から出席した。八谷氏はやはり天~眞楊流で先年故人となられた講道館三段八谷護氏の實父である。

 所が、この日招待者の中に、當時警視廳の柔術師範の中でも最も剛の者として響いて居た中村半助と云ふ人が来て居たのである。この人は、四十近くで、鍾馗さんの様な顔をして居る上に、然も身長六尺何寸と云ふ大男で、見るからに強さうな人であつた。ところが、幸か不幸か、この中村と我輩とがここで勝負をする事になつた。

 丁度、その時、我輩は八谷氏の息、即ちその頃十三四歳の護君を稽古をしてやつて居たのである。それを見て居た中村は、稽古着を着替へて出て来ると直ぐに、多くの人々の前で、一本願ほうと甚だ傲慢な態度でチャレンヂして来たのであつた。そこで、假令我輩が此の大男に向つて、木ツ端微塵に破られるとしても、この場合否とは言へない、が、然し正直に言ふと、かねて中村の評判を聞いて居た我輩は、心中少なからずギヨツトしたものである。が、ここで弓矢八幡を念ずるなぞと云ふ暇もなく挑まるるままに、お手柔かに願ひますと答へて立合つたのである。幸に案ずるよりは生むが易く、先づ以て我輩の勝利に歸したのであつた。

 この時、中村は多分先年市川大八氏の道場で、西郷に翻弄された同僚の敵打ちとでも言ふ積りか、恐ろしい勢ひで立ち上るや否や、前へ乗り出して我輩をむんづと獲まへて来た。その途端を巴投げで見事に一本投げたのである。ところが彼は烈火の如く憤つて、再び立上がると、今度は蚤でも潰す氣で、我輩を羽目に押し付けて来た。それを逃げ廻りながら重ねて巴投げを試みた所が、幸に再び成功した。三本目は、腰投げをかけて潰されたか、或は兩足にかぢり付かれて、そのまま抑へられたか忘れたが、兎に角、我輩は下から逆十字に絞めて、殆んど落しさうになつた時に、八谷氏の聲でこの勝負は終つた。

 この様な経過であつたから、西郷の様に相手を翻弄したとは言へないが、然し、相手が警視廳の名物男であつた所から都下の柔術界を驚かしたものである。その時分の事であるから、素より電話はなかつたが、それでも其の晩の内に、市内の各道場に、嘉納の門人が中村半助を投げたと云ふ評判が傳はつたと云ふ事を、後に、確か井上敬太郎氏から聞かされた。

 この時、我輩は三段で、然も二十二歳の大いに功名心に燃える時代の事であつたから、實に愉快であつた。と云ふよりも寧ろ誇りであつた。

 敢て勝つたから言ふのではないが、中村は力柔術であつた。そして、世辞もつやもない、恐らくは極めて正直な好人物であつたのであらう。であるから、直ぐ怒り出したのである。所が、夫がかへつて我輩の乗ずる所となつたのだ。

 彼は又中々の大酒豪であつたと云ふ事である。そして、かうした勝負上の關係から、我輩は彼の名を忘れないで居る。その後、如何したかと、先年ある人に中村の事を尋ねて見たら、彼はその晩年甚だ不遇で、遂に養育院に於て没したと云ふ事を聞かされて、その晩年の不幸であつた彼に對して同情の念に堪へなかつた。そして、勿論、養育院で死ぬ程の境遇であつたとすれば、獨立の墓もない事と思ふと、一層暗然とせずには居られないのである。

 少し自慢話しを仕過ぎたかも知れないが、然し以上は事實である。

 事の大小は別問題として、徳川氏が關ヶ原に關西の諸将、小西、石田等を破つたやうに、戸塚側の代表を屠り、つづけて警視廳の驍勇を斬つた爲め、豊臣側とも見る可き柔道諸流は遂に屏息した様であつたが、同時に武士道にあるまじき卑劣な事を其の後の試合に申し出して来た。それは勝負の審判に關する不公平なる規定であつた。

 それはさておき、この當時西郷、山田、山下、横山は、嘉納の四天王と呼ばれたものであるが、この内横山、西郷の二天王は既に他界の人となつてしまつた。而して兩君共に斗酒猶辞せざる酒豪であつた。

 然るに残りの二人が亦揃つて下戸である處から考へると、武術家につき物の様になつてゐる酒は、餘りその度を越える時は、自然壽命を縮めるかも知れない。

 

 前號第四七頁下段十三行目二代目は三代目の誤りに付訂正す。(※)

 

 

 「嘉納の四天王」中の「山田」は、富田常次郎の旧姓です。

 「姿三四郎」の作者、富田常雄は、その著作「講道館 姿三四郎余話」(春歩堂、1955)や、三船久蔵・工藤一三・松本芳三共編「柔道講座 第1巻」(白水社、1955)中の記事「嘉納門下の俊英(一) 」において、父・常次郎の上記の武勇伝を書いていますが、市川大八の道場開きにおける西郷四郎の他流試合については書いていません(「姿三四郎の手帖 柔道創生記」(春歩堂、1958)では常次郎の文章を引用)。その代わりに、市川大八、奥田松五郎、大竹森吉の3名が講道館に「道場破り」に来て、西郷が奥田と闘い山嵐で倒した、というエピソードを書いています。「講道館 姿三四郎余話」では、嘉納師範が不在だったため、師範の許可なく他流との「お近付き稽古」はできない決まりだ、と富田常次郎が断ろうとしたのに、西郷が破門覚悟で受けてしまった、と書いています。

富田常次郎としてはこうした経緯や、道場破りの一人が嘉納師範の同門の先輩であったことから、そのままを書く気になれず、嘉納師範も同席した市川大八道場での出来事に置き換え、相手の名前も伏せて簡単に記すにとどめた。常雄は真相を知っていて、父の死後にそれを書いた…と想像するのですがいかがでしょうか?

なお、市川大八、奥田松五郎、大竹森吉の「道場破り」の件は、丸山三造が「大日本柔道史」(講道館、1939)に既に書いていますが、「西郷、山下等の技倆に散々翻弄されてるといふ始末」とのみ記して具体的な稽古振りについては書いていません。

 

 

「事の大小は別問題として」と前文につづけて富田常次郎は述べている。

「徳川氏が関ヶ原に関西の諸将小西、石田等を破つたように、戸塚側の代表を屠り、つづけて警視庁の驍勇を斬つたため、豊臣側とも見るべき柔術諸流は遂に屏息したようであつたが、同時に武士道にあるまじき卑劣なことをその後の試合に申し出してきた。それは勝負の審判に関する不公平なる規定であつた」と。

 これは講道館柔道発達史中の一挿話として興味あるものであるが惜しいことには、『不公平な規定』の内容がいまでは不明である。

 

――富田常雄「講道館 姿三四郎余話」(春歩堂、1955)

 

 

 

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