1927 嘉納治五郎「柔道家としての嘉納治五郎」(作興)

 

 

「作興」昭和2(1927)年7月号講道館文化会)

 

柔道家としての嘉納治五郎(七)

嘉納治五郎講述

落合寅平筆録

 

(前略)

 

  富士見町時代

   講道館の最盛活躍時代

 明治十九年に、品川彌二郎子が全権公使として獨逸に赴任することになつた。品川子と自分との關係は、已に話をした村田源三といふ、弟子でもあり友人でもある人が、周防の人で、品川子の恩顧をうけて居る人であつたが、此村田が米國に修業に行くに當つて、自分も其費用の一部分を負擔したが、山縣大将、堀江少将、品川子爵などが皆幾分かづつ負擔せられて、自分がこれをまとめて處理する役割をたのまれた。そんなことから、品川子と自分とが知合になつたのだ。それ故、自分のやつて居る柔道や教育をば、子爵は相當に理解をし、又好意をよせて居られた。さういふ所から、獨逸へ赴任せられるに際し、自分に相談があつた。それは、其當時子爵の住んで居られた家は、富士見町一番地で、今の添田壽一の家も込めて一千坪程の地面に、百坪以上の西洋館と日本館とが建つてゐたのだが、其處には品物が澤山ある。それを其まま貸家にするも好まない、さらばとて、留守居を置くに適當の者を考へ出さないから、此處へ自分に住んでくれぬかといふ話だつた。自分は當時、書生と共に獨身生活で、雇婆に炊事をさせて居たので、漸く七間ほどの家に居たのだから、子爵の邸宅は身分不相當でもあるし、且つ書生が住み荒らす心配があるからといつて断はつたが、それは一向かまはぬ、家賃も要らぬが、それでは却て住みにくからうから、是迄の家の家賃と同額にしてはいる様にと、特にすすめられたので、遂に承諾して、明治十九年の春に書生を連れて移轉し、上二番町の道場はそこの空地に移築することにした。それから、明治二十二年に自分が海外視察に出掛ける迄は、所謂講道館の富士見町時代と称え、講道館の最も盛んなる研究時代且つ活躍時代であつたのだ。

   濟々たる多士

 當時塾生の最も多いときは六十人程で、自宅内に數十人、一番町に他に一軒の家を借りて其處に數十人、此等は毎日必ず柔道をやつた。當時富士見町に居つて専門にやつて居たものの中では西郷四郎、山下義韶、横山作次郎、戸張瀧三郎、佐藤法賢、肝付宗次等の面々、それから専門ではないが、専門家同様に勉強したものには宗像逸郎、本田増次郎、湯淺竹次郎、田村克和、太田勝太郎、嘉納徳三郎、大島英助が居る。其他外からも多數通うて来たが、其中にも熱心なものが少なくない。廣瀬武夫の如き、川合慶次郎の如きそれである。

富士見町時代には、各地方から試合を申込んで来るものが講道館の名の知れ渡るにつれてだんだん多くなつて来た。之に對して講道館は、日本全國を引受けて、何時でも起つて應ずる氣構へを持つて居た。併し、曾つて全力を盡して戰はねばならぬ様な多數のものに申込まれたことがない。大抵一部分のものが出て、十分應戰して勝を制することが出来た。併し、其頃に至つて、警視廳がだんだんと諸國から武術の名人・大家を集めた。撃劍も同様であつたが、柔術家を諸國から、殊に九州から優秀な者を多く招聘した。勿論講道館からも優秀のものが警視廳に採用せられた。西郷や富田は行かなかつたが、山下も横山も行き、佐藤も戸張も、其他多數採用された。他方面から講道館に試合に来たものには大したものはなかつたが、流石に警視廳には全國から大家を集めた丈に、此處には、相當侮るべからざる相手も少なからず居つた。併し、投技に於ては殆んど恐るべきものがなかつた。ただ、ねわざにかけて講道館のものを相當苦しめたものが居つた。後になつては研究をつんで、恐れないまでにはなつた。ここに警視廳に於ける試合に就いて特記すべきことがある。それは楊心流の戸塚門下のものと、講道館のものとの試合である。

  講道館覇を唱ふ―戸塚門下雌伏す

幕末當時の柔術家で、日本第一等強い門下を持つて居たのは戸塚彦助であつた。維新後になつても、なほ當時の名人が残つて居り、戸塚彦助本人もまだ達者であり、其後継者の戸塚英美も居つて、其手に育てたものの中、なかなか技の秀でたものがあり、千葉縣に本拠を据ゑ、斯道に覇をとなへて居たのだ。明治二十・二十一年頃になつて、講道館の名聲が知れ渡るにつれて、警視廳の大勝負となると、自然戸塚門と講道館と對立することとなる。二十一年頃の或試合に、戸塚門下も十四・五名講道館からも十四・五人、各選手を出したとおもふ。其時四・五人は他と組んだが、十人程は戸塚門と組んだ。戸塚の方では、わざしの照島太郎や西村定助といふ豪のものなどが居つたが、照島と山下義韶とが組み、西村と佐藤法賢とが組合つた。河合は片山と組んだ。此勝負に、實に不思議なことには、二・三引分があつたのみで、他は悉く講道館の勝となつた。講道館の者は勿論強くはなつて居たが、か程の成績を得る程までに進んで居たとは自分は考へて居ない。全く意氣で勝つたのだとおもふ。実力は戸塚も流石百錬の士であつて、容易く下風につくものではなかつた。さきにいふ通り、維新前では、世の中で戸塚門を日本第一の強いものと認めて居つたのだ。然るに、此勝負があつてから、いよいよ講道館の實力を天下に明かに示すことになつたのである。

この勝負の後のことであつたと思ふ。當時戸塚は、千葉縣監獄の柔術の教師をして居たさうだが、時の千葉縣知事船越衛の命を受けて、高弟西村定助を同伴して、講道館の教育の方法を視察に来たことがある。色々説明をして後、西郷が誰かを相手に亂取をして居るのを見て、戸塚英美は評して「あれが名人といふのでせうな」といつたことを記憶して居る。その評を聞いて大いに満足した。幕末には、戸塚といへば柔術の最大権威であつた。天~眞楊流の自分の師匠も、起倒流の名家飯久保先生も、戸塚一派とは幕府の講武所に於て屡々戰つて苦しめられ、戸塚には強いものが居つたといふことを聞いて居たのであるから、自分が育てた西郷の稽古を見て、今日の戸塚の代表者から、さういふ評を聞いた愉快といふものは、譬へることの出来ぬ程であつた。そのことは、當時は勿論、その後も餘り多く他人に語らなかつたが、今日まで深く記憶に残つて居る。

(後略)

 

このような話もあります。

 

「柔道」大正12(1923)年11月号(講道館文化会)

 

柔道發達の側面觀 

 六段 富田常次郎

 

   横山八段の禁酒

(前略)

又、此の時分講道館柔道の普及發達について見逃すことの出来ない功労者が一人あるから、ここに、筆の序に紹介する。彼は飲まず喰はず、その上、物をも云はないで、誠に愛らしい美少年であつた。しかも大變な勤勉家で、嘉納師範が柔道の講義を開かれる時には、小さい稽古着を着て必ず出席する、そして、いつも師範の前に置かれた小形の桐の机の上に横たはつて静かに自分の活躍する時の来るのを待つてゐる。さうして一度師範の手が彼にふれるや否や忽ち立つて、手技、腰技、足技等何んでも自由自在に試みる處は、とても有段者も及ばない程である。この身長僅か一尺餘りの京人形は、講道館柔道がまだ今日の様に普及しない時代にあつて、なるべく多數の聴衆に向つて一時に大體なりとも技の理合を呑み込ませるには、實に絶好の思ひ付きであつたと思ふ。果せるかなこれが武術家間の評判となつて、たしかその頃千葉縣の知事であつた船越衛氏がこの人形には特別の仕掛けでもあるものと思つて、わざわざ戸塚英美氏とその高弟の西村氏を見學に寄越した事があつた。が、併し人形には何等の仕掛もなかつたのだ。けれども、この柔道人形の使ひ手が、日本一の特別な人形使ひである事が分つて、大に驚嘆しながら笑つて歸つた事があつた。

この記念すべき功勞ある人形も嘉納先生初度の洋行中、その姿を見失つてしまつたのは、残念な次第である。

 

 

「柔道」大正6(1917)年9月号柔道会本部)

 

講道館昔咄 明治十九年の頃

 講道館幹事 小田勝太郎

(前略)

◎柔道研究熱の旺盛な時代

先生はかくの如く公私の要務に多忙を極めて居られましたが、柔道と来たら、それはそれは熱心で、學習院から歸られると必ず二三時間は道場に出て稽古されたです。従つて塾生は少くとも毎日二時間は稽古すると云ふ規定でした。

日曜になると、先生の柔道の御講話が必ず行はれます。その時分には先生は桐の机の上に一尺餘りの人形を立たせていろいろにそれを扱つて柔道の理論を説明されたものでした。

(後略)

 

 

 

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