1929 山下義韶「講道館柔道 最初の他流試合」(キング)

 

 

「キング」昭和4(1929)年10月号(大日本雄弁会講談社)

 

(P166〜177)

※旧字は新字に改めています。

 

名人達人 決死の大試合

講道館柔道 最初の他流試合

講道館師範 山下義韶

挿絵 山口蔣吉郎

 

   ○

 

 講道館柔道の発生に就いては、鳴弦楼氏が、度々、筆を費やされたのであるが、それに就て自分も、講道館柔道に最初から関係した一人として此処にその当時の事情と、講道館柔道が世に認められた、最初の試合を述べて見よう。

 講道館柔道が嘉納治五郎先生によつて、発明された事は、今更云ふまでもないが、明治十七、八年頃、この流儀が案出され、世に知られ、必死の努力に依つて、当時の他流を、滅尽して、一世を、風靡するに至るまでの、苦心は非常なもの、当時、麹町区下二番町にあつた、嘉納塾は夜の夜中でも、白衣の壮士が、凄まじい稽古をしてゐたものだ。

 嘉納先生始め、故横山作次郎八段や、不肖私なぞも、夢にまで、新しい業を発見した程で、中にも嘉納先生は突然夜、夜中我々を起こしては、霜凍る道場に、引つ張り出して今、夢に見た、新しい業を、憑かれたものの如に、試み合つては夜の明けるのも知らずに、工夫に工夫を重ねると云ふやうなことも、しばしばあつた。

 併し、如何に我々が苦心しても、まだまだ講道館流柔道なるものの声価は実に微々たるもので、当時、警視庁、武術世話係として、都下の、柔術界を牛耳つてゐた、中村半助、佐村正明、植原正吾、などと云ふ、所謂明治維新以来の大家連中は、

『講道館柔道? 柔道とは何だ、柔術と云ふものが立派にあるのに、今更事あたらしく柔道などと云ふものを、作り出す必要はどこにもない、書生どもの座敷水練ぢやらう、どうで学習院教頭の嘉納治五郎氏のやることだ』

 と、あたまから相手にしてゐなかつた。

 然るに、明治十九年の始め、時の大警視、三島通庸(警視総監)は、斯道の奨励に就ては、非常な熱心を以つてゐた為に、先づ武道奨励の一手段として他流仕合を決行すると云ふ意見の下に、これも、肝胆相照す、舟越千葉県知事と相談の上、東京警視庁師範の大家強剛連と、千葉にあつて、その武名天下に高き戸塚彦九郎一派との、他流試合を実現することになつた。

 然かも、三島大警視は当時、学習院教頭の嘉納治五郎先生にも、

『今回、警視庁師範対、戸塚派の他流仕合があるから、貴下の門下生も試合させて見ないか』

 と、云つて来た。

 勿論、嘉納先生は言下にそれを引き受けた、そして、我々に云はれるには、

『愈々講道館柔道の実力を発揮する時が来たぞ、またとない機会だ、所謂大家連中に、講道館流の真価を知らしてやれ!』

 当時は嘉納先生も若かつた、その意気込みその熱心――我々は今に尚、その言葉を覚えてゐる。

 さあ、そうなると、稽古は、更に、一段の猛烈さを加へて来た、朝から晩まで、ドタンバタン、まるで、神がかりにでも、なつたかのやうに、夢中である、話と云へば業の話か、警視庁師範の品定めか、乃至は又、戸塚柔術に対する攻防の研究ばかり、寝ても、起きても、ただ試合と云ふ一念に、こりかたまつてゐた、――忘れもせぬ明治十九年二月の事である。

 偖(さ)て愈々、警視庁主催の他流試合の前夜、嘉納先生は我々を集めて曰く、

『明日だぞ、けやぶる覚悟で、ぶつかつて行け、但しことわつて置くが、大敵でなければ、試合をしてはならぬ、末輩と組んでは、仕方がない』

 と、声を励まして言つた。

 明くれば、今日は愈々試合、嘉納先生引率の下に、岩波静也、西郷四郎、それに斯く云ふ私の三人が、選ばれて行くのだ、当時、警視庁は監獄署と並んで鍛冶橋にあつた、我々は警視庁に近づくにつれて、胸がわくわくした。

 愈々警視庁についた、試合はその庭で決行されるのである。

 が、先づ驚いたことは、其処に居並ぶ警視庁、世話係の連中、及び戸塚道場の面々が孰れも皆、体躯が立ちすぐれてゐるのと、所謂大家の風格を備へてゐることであつた。

 彼れ等は、我々を、睥睨してゐる。

 試合場の一隅から、妙なささやきがきこえて来る。

『あれが、嘉納塾の書生共か、馬鹿々々しいにも程がある、戸塚派と云ひ、警視庁の師範と云ひ、皆、戦場万馬往来の古強者だ、あんな書生つぽとは、修行が違ふ、よくも、をこがましく、今日の試合に出て来られたものだ、盲、蛇に怖ぢずとはこのことだ』

 我々は憤激した、中にも西郷四郎はその声のした方を睨みつけて、

『ほざいたな、木偶ども、盲、蛇に怖ぢずか、目明き蛇に怖ぢるか、今に見ろ、目にもの見せて呉れるから』

 と、わざと四辺に聞える様に云つた。

 

   ○

 

 組合せが発表された。

 これより先き我々は、嘉納先生の励言に従つて、ただ、一本槍に大家を目指して試合を申し込んだ、我々の相手は、戸塚道場の強剛連ときまつた、と云ふのは、その頃ほひ、千葉の戸塚彦九郎は、流石に、今警視庁に集まつてゐる全国つぶよりの大家精鋭を向ふにまはして、一道場の身を以つてこれと雌雄を決しようと、云ふだけあつて、その強味に於ては、確かに警視庁の師範達を抜いてゐた、これは三島総監はじめ、斯道に心ある人ならば、ひそかに知つてゐたことである、いや、三島総監が、特に戸塚派と他流試合をさせようとするのは、ややもすれば、大家風を吹かして、研究精進をおこたり勝な、警視庁師範連を刺激し、その惰気を一洗し、その士気を振興しようと云ふのが、或は三島総監の胸の中だつたかと思はれる。

 だから、我々は此の際、その戸塚派と、決戦することが、講道館、柔道の為だと思つたのだ。

而かも我々の相手として選ばれたのは、戸塚の四天王とよばれた、強剛揃ひ、照島太郎、好地円太郎、片山新太郎、と云ふ顔振れ、そして、自分は照島太郎と組み、岩波静也は、片山新太郎と組み、西郷は、好地円太郎と、組んだ。

何がさて、明治維新以来、はじめての、他流試合であり、更にまた、我々若輩――、当時、嘉納塾の、書生つぽと云はれ、雑巾をどりと、軽蔑されてゐた我々が、柄にもなく警視庁に乗込んで、当時、武名赫々たる、戸塚一派に、対抗しようと云ふので、新聞がこれを仰々しく、報道したものだから、都下の武術者は、もとより、警視庁、関係の人々、及び、一般観衆も、ところ狭きまでにつめかけてゐる。

 中にも三島大警視は正面に、巨眼を光らして見てゐる、その傍らには、武道熱心の、舟越千葉県知事が控へてゐる。

 自分は、さすがに気圧されたやうな気持であつたが、これではならぬと、気を取り直し講道館の先頭として、戸塚派の照島太郎に立ち向かつた。

 面白いのはこの時の試合である。

 名にし負ふ、照島太郎は、自分のやうな、かぼそい身体ではなく実に四肢、完備した、均整の発達で、当時、楊心流中の猛者である、戦はざるに早くも、此方をのんでゐた。

 が、この試合は、私事にもわたり、自慢話のやうになるから、余り詳説しないことにする、ただ照島は組んで間もなく、彼れ得意の大内刈り――さうだ、今で云ふ、大内刈りに――出て来たが、自分はこれを、膝車にかけて、首尾よく彼れを仕止めた。

 一本である。

 併し他流試合では、講道館流の試合と異ひ、投げたから勝つたと云ふわけにはいかない、而かも、一度投げられたかれは、いささか驚いたか、それからは、腰をおとして近よらず、あはよくば、得意の寝業にて、此方の首を掻切らうと云ふのだ、此方も、その手には乗つて居られない。

 戦ひ、戦つて、つひに勝敗決せず、引分けに終つた。

 満場は、意外の感に打たれたやうだつた。

 と、云ふのは、若輩たる自分の如き、戸塚楊心流の照島太郎にあつては、鎧袖一触だと思つてゐたのに、意外にも先づ彼れを膝車に投げとばして、引き分けに終り、而かも分は、此方にあつたのだから、驚いたのであらう。

『ホウ、この書生、なかなかやりよるな』

 皆さう云ふやうな面持ちであつた。

 現に自分が場を退いた時にも、

『これが、一番強いのだらう。だから最初に出したのだ。なァにこれからさきは、駄目なんだ。それにきまつてゐる』

 と、云ふ声を耳にした。

 併し、事実は正にこれと反対である。

 我々の策戦はこれからなのだ。

 『見てゐろ』

 とばかり、同志、岩波静也が出た。

 相手は戸塚四天王中のわざ師、片山新太郎。

 しばし、ジリ、ジリ、ジリジリ、と互ひに呼吸をうかがつてゐる。

 年齢は勿論、片山が上だが、両者殆んど互角の体格、

 『ヤツ』

 つひに引組んだ、引組んだと思ふと、岩波の両手は早く、彼れの襟にかかつた。

 何事ぞ、突として、悲鳴に似たる声、

 『ヒイツ! ヒイツ!』

 素早いかな、岩波は、組むや否や、立ちながら、首をしめる、立ちじめの戦法に出たのだ。

 満場は、余りのことに呆然としたが、やがて、戸塚派の面面、いきり立ち、

『片山………』

『どうした………』

『ぶんねぢればいい!』

 とそれでも、まだ、岩波を軽視してゐるのか、

『ぶんねぢれ』とか、『やれやれ』とか、さながら攻撃の時に応援するやうな、声援振りである。

 突如、敵、片山の顔面、サツト暗紫色にかはつたと思ふと、次ぎの瞬間には、早や、口から泡を吹いてゐた。

『参つたな』

 我々はさう思つたが、当の片山はまだ、

『参つた』の合図をしない、手を叩かない。

 その時岩波は、敵の頸に食ひ込んだ手を、ゆるめて、パツト放した。

 バタリ……ボクタウのやうに、倒れたのは片山新太郎、

『ヨシ、それまで』

 審判は、さう宣告しておいて、のびた片山に活を入れた。

 自分もこれまで、それこそ数限りない程、しめの手を見てゐるが、あの位、鮮やかに、水際立つた絞めの手を、見たことがない。

而かもそれが、立絞めなのだから更に妙だ、驚いたのは、戸塚派及び、警視庁の面々、講道館の書生共にこんな妙技があらうとは誰れが、予想したらう。

中にも、今日は、戸塚派の総帥として出場してゐる好地円太郎は驚いた。いや、ただ、驚いたのではない、憤激したのだ。

『ええ、言ひ甲斐なき、味方の面々かな、余りと云へば腑甲斐なし』

我こそ書生ツポ共を、一ひねりに、ひねりつぶしてくれんずと、勢込んで出場に及んだが、彼れは、身長五尺七寸、而かもその骨太き体躯、隆々たる筋肉、有髯赭顔の大男、グツト、講道館席を睨みつけて、わが同志、西郷の出陣を待つてゐる。

私がここで述べようとするのはこの試合なのである。

 

  ○

 

さて、敵の大兵、好地円太郎に対してわが講道館の西郷四郎が出場すると、満場は、一時に哄笑した。

何故の哄笑か?

余りに体格が違ひすぎるからである。

何さま、西郷は、我々よりもはるかに小さい。

而かも横にとて、さして大きいのではなく、普通の標準を以て見ても、たしかに小男の部に属する方である。

しかし、勝負度胸にかけては、講道館創立以来、これに次ぐものはなく、更にまた、そのわざの冴えに至つては、今になほ、定評あるところ、あの小さな身体を以てして、大業、小業、あらゆるものを連発し、その立つや、相手の意表に出て、相手を完膚なきまでにやつつけて了はなければやまない。就中奇手『山嵐』は彼れが、得意中の得意、これにかかつたが最後、目のクリ玉のとび出る程に、投げつけられる。彼れなき後は、彼れの如き山嵐を見ることが出来ない。

さて、二人は黙礼終つて左右に、サツト分かれたが、途端、西郷は弾丸の如くとび込んで行つた。

意外である。

正しく意外である。

さすがに好地も、余りの急にハツトしてゐると、パツトさがる西郷の足、釣り込まれて好地は、ととツと、追込んで来た。矢にはにのびた好地の猿臂、グイと引掴まうとした。

西郷は逃げた。ツツツツツツ、一気に追込む好地の体、そこへ西郷、疾風と寄せ返した。

イヤ、寄せ返さんず気配に見せて、踏込みざまの背負ひ投げ、

『えーいツ!』

 気合諸共ブンまはせば、長身二十三貫の肉塊は芋俵のやうに投げ出された。

『アツ!』

 満場ハツト前にのり出すとき、この投げや余程、骨身にこたへたか、好地円太郎は、しばし、起き上り得なかつた。

 が、白面の小冠者西郷が、口辺に笑ひをうかべつつ、おのが投げ出された醜態を見てゐるのを発見すると、さすがに満面真朱をそそぎ、ガンバとばかりに起上るや否や、猛然として襲ひかかつて来た。

 気分のスキ、身体のスキ――たしかに今、好地には、そのスキがある。彼れは心の平静を失つてゐる。その体勢も周到を欠いている。

 而かも一気に、ブツかつて行つたのだ。

 西郷の匕首、山嵐はスツと飛んで来た。

 実に快刀乱麻、好地の体は宙にドンデン返しを打ち、モロに頭を下にして頭から先きにたたみにめり込んでしまつた。

『ウアツ!』

 さう云ふ声だつた。その時好地の声は。余りと云へばヒドイ投げられやう。今度こそ、起上り得ないかと思はれたが、敵も今は気が立つてゐる。

 またもかつと、とび起きた。途端、フラフラ、として危ふく倒れんとした。

眩暈である、それも道理、頭をしたたかに打つてゐるのだ。

が敵もさるものである、危ふく倒れんとする足を、グツト踏みしめて、腰を、おとし、もう、この手にはのらないぞと、今度は、守りを堅くして、引組んで来た。

この時、西郷は、これも極度に腰をおとし敵の大兵に食ひさがりつつ此処に引き、彼処に引き、グングングングン引ずり、ひん廻す。

かうなつて腰をおとしたとなると、大兵は却つて小兵に苦手、おのれの体が大きすぎるために、いかに腰をおとしても、敵に喰ひ下られて了ふ、而かも中腰で、力を一つぱいに張ることが出来ないに引きかへ、西郷はこの体勢を利用して、両手に敵の、下襟を掴み、その敏捷無類な体を以つて、はつかねずみの様ににかけまはる。

 大兵が小兵に引きまはされるのはこう云ふ場合である。

 而かも、好地は今、したたかに脳天を打ちつけて、フラフラしてゐるのだ、西郷は思ふ存分に引張り廻した。

 突として声あり!

『えツ……!』

 これぞ、西郷の巴投げ、先づ己れより身を倒しつつ、足もて敵の腹部を蹴上げれば、敵体、西郷の体上を宙返つて、はるかの彼方にズンデンドウ。が、好地は動かなかつた。

 ハテナ?と思ふ一瞬間、

『さア来い!』

 強情我慢にも、彼れは『まだ参らんぞ』と云はぬばかりの破れ鐘声。今度こそ、起きられなかつたので、この挑戦の言葉に、寝業の策に出たのである。

 何ぞ知らん、この時西郷は、起きあがりこぼしのやうに、素早くとびおきざま、既に敵の片手を引張つてゐたのだ。

 而かも、西郷の敏捷なる、引くは――引くは。大兵好地の体は、臀部を中心にして、コマのやうに、ブンまはされた。如何にかれでも、かう引きまはされては、起きずにはゐられない。

 彼れは最早、試合の度を越えた憤慨だつた。そして西郷の手に引かれて起き上るや否や、彼れら一派のよくやる、大内刈りの強襲に移つた。

『アツ! 危い!』

 渾身の力に打つた大内刈り、さすがに西郷も、トトトツトツと、うしろ一文字に逃げて来たが、咄嗟にパツト身をひねるより早く、隼の如き横捨身! 無言に打てば凄まじや、好地の体は、棒の一端を引掴んで一気に、ブンまはされたやうに、うなりつつ、西郷の足を超え、その畳に落とさんとするや、俄然、肩から先きに畳に、ブツカツて滑り落ちた。

『どうしたのだ!』

『好地!』『好地!』

 声援も今は、叱りつけてゐるやうに聞える。好地は、まだ起上らない。イヤ起上がらないと、云ふよりは動かなかつたのだ。

 ハテナ? 見よ、好地は顔をしかめてゐる。

 まさしく痛いのを怺へてゐるのだ。

『肩を突いたな!』

 さうだ、横捨身を避けようとして肩を痛めたのだ。

 西郷は静かに、敵の渋面をうちまもつてゐる、漸くにして好地は起きた。そして端然と坐つた。

『参りました!』

 さすがに彼れは、礼儀整然たるものである。

 満場は、呆気にとられて、歓声をあげるものもない。拍手をするものもない。

 その時西郷は、好地のそばによりそつて、抱きかかへるやうに彼れを起した、

 溜飲の下がるやうな試合、と云ふことがあるが、自分はこの感を如実に味はつたのはこの時が最初にして、また恐らく最後であるかも知れない――それほど西郷の勝は鮮やかであつた。

『オイ、西郷、今日はまた、ヒドク投げ飛ばしたな』

 講道館軍の一人が、更衣場に来た西郷にさう云ふと、西郷の曰く、

『イヤ、あれで講道館の立業、投げ業と云ふものが、分つたらう。投げただけでは何にもならぬ、などと云ふから、本当の投げと云ふものは、こんなものだ、投げ業でも敵はヘトヘトになつて参つて了ふものだ、と云ふことを知らしてやつたのだ』

 これが講道館柔道の初めての他流試合である。

 

 かくて柔道は、警視庁をはじめもろもろの他流柔術に非常なショツクを与へ、眠れる当時の武道界に一味清新の気を注入した。柔道が警視庁に採用されるやうになつたのは、この事あつてからである。

 

 

 山下十段の筆にしては大分、活劇風になっています。あるいは「鳴弦楼氏」(鳴弦楼主人、松本鳴弦楼)がゴースト・ライターでしょうか?

 

 

鳴弦楼主人「名人達人決死の大試合」(大日本雄弁会、1926)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018991

 

 

 

追記2016.11.21

 

講道館文化会編「柔道年鑑(大正十四年)」(講道館文化会、1925)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964759

 

講道館の沿革

        講道館指南役 八段 山下義韶

 

P10〜11(コマ番号18)

(前略)

 明治十九年より二十七年までなる第二期時代に於て、麴町區富士見町に新道場が建設せられたが、講道館は、その頃より大に世に注目せらるるに至つた。十九年には、警視廳に於て柔道の大會があり、講道館からも數人のものがその大會に出場した。我は皆若年の書生であるに、對手は皆多年鍛錬したる壮年者である。然るに、試合の結果、この若年の書生が孰れも好成績を得たるが爲に、大に世人の注目を引いた。

 講道館の柔道も漸次各地に普及するに至り、二十年には伊豆韮山に、二十一年には江田島に、何れも分場を設けた。二十二年に、本館を本郷區眞砂町に移し、同時に麴町區上二番町の道場を分場とし、又、京都に分場を置いた。二十四年眞砂町道場を閉ぢ、麴町分場を本館とした。翌二十五年熊本に熊本講道館を設け、二十七年小石川下富坂町に道場を新築し、麴町區上二番町の道場を此處に移した。かくする中修行者は大に増加し、十九年には、一ヵ年の入門者九十八人であつたが、翌々二十一年には、一躍二百九十三人となり、二十三年には、五百二十八人を數ふるに至つた。

 講道館の眞價漸く世に認めらるるに至り、各地方より、講道館に試合を申込むもの續々出づるに至つた。この時代に至つては、講道館の修行者は非常の進歩をなし、熟達の士頻りに出でて、士氣最も盛んであつた。當時は、學校に通學する青年にして、外來の大家と試合しても、殆んど敗を取ることがなかつた。而して、かくの如き老大家の中には、その後入門して講道館に業を受くるに至つたものも少なくない。講道館が、帝國大學、海軍兵學校、警視廳等に教師を出すに至つたのも、この時代である。

(前略)

 

 

 

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