1938 丸山三造「警視庁柔道の発達と嘉納先生」(警察協会雑誌)

 

 

「警察協会雑誌」昭和13(1938)年6月号(警察協会)

 

 この年の2月16日に亡くなった嘉納師範を偲ぶ記事を掲載しています。その一つが「警視廳柔道の發達と嘉納先生」で、著者の丸山三造九段の当時の肩書きは「講道館七段 帝大嘱託」となっています。以下抜書き(要約)します。

 

 明治18年、三島通庸警視総監の時代に、警視庁が柔術を奨励して頻繁に試合が行われるようになった。折も折(※明治18年とは特定していない)、警視庁から講道館に試合の申し込みがあり、山下義韶、西郷四郎、横山作次郎、富田常次郎、宗像逸郎、湯浅竹次郎、竿代文蔵、本田増次郎、小田勝太郎が警視庁に乗り込んだ。特に目覚ましかった試合について嘉納師範は次のように語った。

「警視廳にもなかなか立派な古流の達人が居たので、試合も多少不安な點もあつたが、講道館門人はよく奮闘した。小田勝太郎は引分、岩波静彌は優勢、宗像逸郎は寝勝負で對手を絞めて気絶さした。好地圓太郎對西郷四郎の一戰は實に天晴れであつた。好地は大兵肥滿の上、技倆抜群、西郷は矮小痩躯だが死しても止まぬ會津魂の持主である。好地が體力と氣力にまかして猛烈に迫つた投技を西郷は飛鳥の如く體を捌き、機會巧に西郷一流の山嵐の鋭技で好地を鮮かに倒した。對手が強敵の上、體力に著しい差異があつただけ、西郷の勝は一層美事であつた」と。

 また、明治19年6月11日、警視庁武術大会で中村半助対横山作次郎の試合があり、55分闘って三島総監が両者を引き分けた。こうしたことが繰り返されて講道館が警視庁に認められ、山下、横山が警視庁柔術世話係となり、その後講道館出身者が警視庁柔術師範に採用されるようになった。

 

 

丸山三造「大日本柔道史」(講道館、1939)

 

 翌年に出版された丸山九段の大著です。講道館と古流柔術の戦いについてあちこちに記述があります。以下抜書き(要約)します。

 

第二篇 明治以降柔道の興隆

第一章  講道館柔道の揺籃時代

 

P136〜137)

 ある時道場破り(市川大八、奥田松五郎、大竹森吉等)が来たが、西郷、山下等の技量に散々翻弄された。

 当時の試合について嘉納師範は次のように述べている。

「其の頃警視廳の武術大會で西郷四郎は好地といふ戸塚門下の大剛と組み、彼が強力にまかせて西郷を壓倒しようとしたが、矮少非力の西郷は軽快敏捷、巧にこれを扱つて屈せず、遂にこれを立技にて鮮かに倒した。

 強敵である上體格の差が著しかつただけ西郷の勝は實に美事であつた。同じくこの時の試合に宗像逸郎は對手の驕慢不遜な態度に憤慨して寝技で絞めてこれを氣絶せしめ、小田勝太郎は引分、岩崎法賢、岩波静彌もよく戰つた。講道館員は全く負けることを知らない状態であつた。」

 間もなく山下、横山が前後して警視庁世話係となった。

 

P142〜144、「第三節 講道館柔道の柔術界統一」中の「明治十九年――二十二年」と題する一節より)

 警視庁から講道館を招待して試合をすることになった。山下、西郷、横山、岩崎、富田、宗像、湯浅、竿代、本田(増)、小田の諸氏が警視庁に乗り込んだ。当時の警視庁切っての猛者、確か中村師範は、山下義韶との一戦で、徹頭徹尾寝ようとし、絶えず膝をついたままにじり寄って来て、隙さえあれば引っ張り込んで固めようとする気勢であったが、山下は巧みな誘いの隙をみせてこれを立たせ、散々に投げた。西郷は山嵐、横山は払腰の猛威を示した。講道館の青年達が師範格の人達を見事に制御したので警視庁でも驚き、山下、次いで横山を警視庁の師範に招いた。そして遂に講道館柔道が警視庁に用いられ、やがては警視庁を風靡した。

 明治19年6月10日に警視庁武術大会で行われた、良移心当流・中村半助対講道館・横山作次郎戦は、講道館をして斯界の覇者たらしめた試合で、55分間闘って勝負は三島総監の預りとなったが、横山に七分の強みがあったと言うことである。

 

第六篇  柔道佳話

第一章  古今逸話

第六節  柔道界の巨擘山下十段

  :

警視廳との大試合に殊勲を樹つ P860〜861)

 

 戸塚の大試合と称される明治19年の警視庁の試合において、揚心流の照島と取り組んで互角の奮闘をした。西郷は好地を山嵐でしとめた。明治22年、江田島の海軍兵学校の柔道教授を終えて帰京の後、警視庁の世話係となった。

 

 

 山下十段の古流柔術家との試合については、中村戦と照島戦が書かれていますが、行われたのが同じ大会のようにも読めます。同じく丸山九段の著書「日本柔道史」(大東出版社、1942)では、中村対山下戦については、大日本柔道史と同じ記述をしつつも「山下義韶氏(註・講道館記録によれば横山作次郎氏)」と、括弧書きで異説も示しています。

 

 

 

丸山三造「世界柔道史」(恒友社、1967)

 

3編 講道館柔道の創成

2章 講道館柔道の確立

P225)

明治19年5月、三島通庸警視総監は全国の武術家を集め、芝の弥生館で武術大会を開いた。講道館にも招待が来て、山下義韶、西郷四郎、横山作次郎、富田常次郎、宗像逸郎、岩崎法賢、竿代文蔵、本田増次郎、小田勝太郎が出場。横山は中村半助、宗像は戸塚楊心流の照島太郎、西郷も同流の好地円太郎と対戦した。

無名の青年が天下の古流の大豪を制覇したため反響も大きく、これが講道館柔道の警視庁武術採用の糸口になり、山下、横山が相次いで警視庁武術世話係となった。

 

7編 人と試合」中の「2章 明治、大正の名試合」では、上記のうち横山対中村戦(55分闘って引分け)、西郷対好地戦(山嵐で西郷勝ち)の模様が詳しく記されています(P767〜770)。いずれも、その日の出場者であった宗像逸郎七段の回想に基づくものになっています。中村半助の膝をついて寝技を狙う戦い振りの描写もありますが、試合中ずっとではありません。

 

 戸塚派との対抗戦の時期が「明治19年5月」と明記されたこと、これまで単独で「明治19年6月(10日ないし11日)」とされてきた横山対中村戦も、その同じ大会での試合とされたことが、これまでの著述との違いです。

なお、明治19年なら弥生館(社)はまだ芝公園ではなく本郷向ヶ岡にありました。

 

 「大日本柔道史」(1939)と「世界柔道史」(1967)との間に記述の違いが生じた要因は、その間に「柔道」誌に連載された「柔道の七十年」の中に見て取れます。下記引用をご覧下さい。

 

 

「柔道」1951年2月号(講道館)

         

 柔道の七十年14)  丸山三造

 

 宗像さんは廣島の生れで明治十六年、十八才のとき上京。講道館入門は翌、十七年の二月二十六日だ。(中略)

 私はその晩年、目白驛からほど遠からぬ御自宅をお訪ねして私が七年間かかつて完成した「大日本柔道史」を贈呈したとき、非常に喜ばれて講道館創始時代をお話して下さつた。

 (中略)

 そこで筆者は話題一轉、宗像さんが出場された明治十九年、警視廳彌生寮(武術大会)についてお伺ひすることにした。宗像さんは破顔一笑「あの時はすごかつたネ、猛烈だつたよ」とポツリポツリと語り出される追憶談は「講道館から横山作次郎、西郷四郎、山下義韶、竿代文蔵、岩波静彌、小田勝太郎、それと老生」その他、數名出場したがハツキリした記憶がない。

 

 

以下は横山作次郎と中村半助の試合の話が続きますが、「世界柔道史」とほぼ同じ記述ですのでそちらをお読み下さい。つまり宗像七段の証言を得て、「大日本柔道史」の記述を改めた、ということのようです。ちなみに宗像七段は「大日本柔道史」に序文を寄せている他、「柔道」1939年11月号(講道館)に『「大日本柔道史」讀後感』という一文を書いています。

 

 ただし、大会の期日を5月に改めたのは、ほかのソースによってであるかもしれません。この連載の別の回で、依然として明治19年6月と書いています。下記引用をご覧下さい。

 

 

「柔道」1950年10月号(講道館)

 

 柔道の七十年12)  丸山三造

  :

 越えて明治十九年六月、警視廳では廳内の士氣を鼓舞するため、時の総監、三島通庸氏が芝の彌生館で天下の強豪を集め大試合を挙行し、一面、これが武術教師採用の標準ともなつた。参加した講道館員は横山作次郎、西郷四郎、小田勝太郎、岩波静彌、山下義韶、宗像逸郎、竿代文藏、川合慶次郎、岩崎法賢、大坪克和、本田搦沽Yの十数名でこの試合で特に注目されたのは横山対筑後久留米の良移心頭流の達人、中村半助との試合であつた(この試合の行はれたのは明治十八年と記録にあるが横山の入門が明治十九年であるから明治十九年六月行われたのが正確であろう)試合の状況について師範は

「横山は良移心頭流の大剛、中村半助と組み、五十五分健闘して勝敗決せず総監がたまりかねてこの試合は自分が預るから引分にしてはどうかと、審判に話し遂に「引分となつたが、私(師範)の見た處では横山に七分、中村に三分と言う処だつた」と、更にある人は、「五十五分の長時間、七分と三分の実力の相違では引分は出來ない、横山が立技で七分、中村が寝技で七分と見た方が穏当ではあるまいか、然し講道館柔道は立技を主としているから嘉納師範説も或は適当かも知れない」と、批評している者もある。

 例の映画の姿三四郎、モデルの「西郷四郎もこの試合に出場し戸塚門人で大力無双の好地円太郎という大きな男と組み、これを倒した。なにしろ大兵大力の好地を倭小非力の西郷が巧に扱ひ鮮かに倒したのは実に美事であつた。この試合で宗像は対手驕慢不遜の態度に憤慨してこれを絞めて落し岩波、岩崎の奮闘も目覺ましく其他の館員も堂々と戰い悉く勝利を博した。この試合で師範の理想も漸く第一歩に踏み込んだ訳である。

 

 

 

メニューページ「講道館対古流柔術」へ戻る