1941 磯貝一「わが修行時代を語る」(柔道)

 

 

「柔道」昭和16(1941)年2月号(講道館)

 

わが修行時代を語る(二)

指南役 磯貝一

 

   伸びゆく講道館

 

 講道館の草創時代、それから暫くの苦難時代、故嘉納先生の苦心等に就いては、故先生も多くの機會に語られてゐるし、また澤山の先輩諸氏も講演や著述などで、詳にせられてゐるやうであるから、自分は敢てこれに就いて贅言することを避けよう。だが申上げて御参考になりさうな事、またひよつと、かういふことは傳はり損ねてゐるのではないかと考へられることに就いては、或は重複することもあらうし、或は贅言になるかも知れないが、思ひ出すままに触れてみたい。

 自分が講道館に入門した頃は、講道館の苦難時代もやや一段落を告げて、漸く講道館柔道といふものが、世間一般から認められて来て、日々隆盛に向ひつつあつた頃のやうである。

 何故に、こんなに世間から認められるやうになつて来たのか。勿論、故嘉納師範始め、多くの先輩の血の滲むやうな努力と精進の結果であることは申すまでもない事であるが、先づ、一の要因は講道館柔道が、今までの柔術とは本質的に違つたものだといふことを識者に認識させたからだと思ふ。この表面に現れたものが姿勢であり態度であつた。當時の修行者の中には、昨今見るやうな頑張るといふやうなことをやるものは一人もなく、スラスラと歩き相手を崩して、その隙をみては思ひ切つて技を出すといふ妙味ある稽古振りであつた。これは當時の他の如何なる柔術にも、見ることの出来ない稽古振りであつたのである。

 講道館柔道と當時の柔術とが、どう違つたか、どんな風に世間から見られてゐたか、技の上に於てどんなに違つてゐたか、これを最も雄辨に物語つて呉れるのは、例の明治十八年、警視廳に於ける講道館對戸塚派の一戰である。明治十八年といへば、自分は未だ郷里延岡にゐた頃だから、直接これを観た譯ではない。が、當時講道館としては空前絶後、乗るか反るかの瀬戸際の一戰、然もこの受難を極めて素晴らしい成績で乗り切つた直後に、自分が入門したのだから、折に触れ時に触れ、この話が、新入門者の教訓の題材に使はれたことは當然のことだ。自分もこの話は、感激を以て随分詳しく先輩から聞かされ、其度毎に稽古着の袖を噛んだものだ。

 ――話はかうだ。――當時警視廳で、廳員の武術修行のため、柔術の教師を招聘することとなつたが、關係者の間に於て、これを、従来の有名な流派である戸塚派楊心流から求むべきであるか、またはその頃、非常な勢いで擡頭しつつあつた講道館から求むべきであるかについて、意見一致せず、遂に實力によつて決しようといふことになつたのである。今から考へると、随分大人氣ない事をしたものだと思はれようが、恐らく當時は、これが極めて眞面目に論議され甲論乙駁、たうたう事が警視総監にまで持ち出され、総監も、ぢや一つ強い方に頼まうぢやないか、といふやうな事をいはれて兩派の試合となつたのであらう。だが講道館としては、これがはじめての正式な他流試合である。今のやうに柔道といへば日本中、講道館柔道しかない時代と違つて、まだまだ他流他派の方が幅を利かしてゐた頃のことだ。ここで勝たねば、

 ――なんだ、講道館柔道と喧しく言ふが理屈ばかり言つてものの役に立たんではないか。――

 といふことになり、再び立つことは出来ない。いはば興亡をこの一戰に賭けた、所謂非常時中の非常時であつたのである。嘉納師範始め門人一同の緊張が思ひやられる。

 さて結果は如何に?十名づつの對抗試合が、一名の引分け九名の勝といふ講道館の壓倒的な勝利となった。これは世間も驚倒したらうが、何といつても一番驚いたのは、當の戸塚派楊心流と、講道館とであらう。一方はこんなに惨敗しようとは夢にも思はなかつたらうし、講道館としても負けようとは思はないまでも、こんなに大勝するとは、また同様に豫想外であつたに違ひない。この一戰に因り講道館は磐石不動の地歩を、當時の柔術界に築き上げ、凋落して行く他派他流の柔術を尻目に、一歩一歩着實な發展段階を辿ることとなつたのだ。

 さて、この時の試合内容を技術的に検討してみると、用ひられた技は殆んど、足拂・小内刈・膝車・大内刈・返技といふ小技のみでこの軽妙な、洗煉された小技が、戸塚派楊心流の大外刈、及び寝技を壓したといふ譯になる。要は頑張りではない、軽妙な體捌きこそ、何ものにもまして、講道館柔道には缺く可からざるものたることを實證した最もいい例で、當今修行者のよき参考になる話であらう。

 併し當時は、寝技に於ては未だ十分の域にまで達せず、傳統的に強い戸塚派楊心流には兎もすれば押され氣味であつたやうである。

 

(中略)

 

   山嵐と跳腰

 

 さて草創期の講道館と、どうしても切り離せない重要な人物に触れることが遅れた。横山・西郷・山下・佐藤・鈴木等といふ豪傑がそれである。これらの人々の名は、講道館發展史には、どうしても逸することの出来ない重要な存在である。

 横山作次郎の名は餘りにも有名だ。もと天~眞楊流の井上敬太郎先生の弟子で、明治十九年講道館に入門、嘉納先生の下に修行した人で、入門當時既に初段位の實力があり、體重二十貫餘、進退動作は極めて敏活であつた。鬼横山と呼ばれた強剛無双、強引な左右の拂腰は、文字通り天下に敵なく、明治十九年警視廳柔道指南役、良移心頭流の中村半助を壓倒して、講道館の名聲を天下に轟かしたのもこの拂腰である。

 西郷四郎は非常によい稽古振りの人で、技士だつた。あの有名な山嵐といふ技を考案した。この技は背負投の變形で、氏が明治十八年、戸塚派楊心流の第一人者好地といふ大剛をこの技で破つてからは、講道館の麒麟児として、また天下無双の大技士として人に恐れられた。西郷さんはどうしたことか、終りまで柔道家として立たず半ばにして新聞記者となつて、長崎に赴き講道館を離れたが、無類の熱血漢、或ひはこの性格が永く氏を講道館に留らしめなかつたのかも知れない。長崎で柔道に盡しながらこの世を去つたが、誠に惜しい人を惜しい所で死なしたものだ。

 山下義韶・佐藤法賢は、講道館の典型的技士ともいふべき人で、横山作次郎・戸張瀧三郎と共に、講道館を代表して警視廳教師として廳員の指導に當つてゐた。特に山下さんは拂腰・内股・體落に長じ、嘉納師範の先生であつた起倒流の飯久保恒年に師事し、俗に「棒立ち」と云ふ一本の棒のやうになつて、體を捨てる倒れ方は天下一品であつた。

(後略)

 

 

 磯貝十段の講道館入門は、明治24(1891)年です。

 「わが修行時代を語る」は、「柔道」昭和16(1941)年1月号、2月号、4月号に、計三回連載されました。第一回の冒頭には、『本篇は磯貝指南役の古稀を祝ひ、紀元二千六百年を記念するために發刊された「わが七十年を語る」の抜粋である。』とあります。

 

 

 

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