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1953 西郷孝之「父西郷四郎を語る」(柔道) |
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「柔道」昭和28(1953)年10月号(講道館) 講道館柔道の眞價が世に認めらるるに至つた端緒は、明治十九年警視廳で行はれた講道館柔道と古流柔術の對抗試合であつた。四郎は、楊心流の大家、好地圓太郎氏と試合して、得意の技で倒してゐる。また横山作次郎八段も警視廳教師中村半助氏と熱戰して引分けとなつたなど、創業數年に滿たぬ講道館柔道は、古流柔術を壓倒したことによつて、世間は漸くその眞價を認識するに至つた。 |
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父・西郷四郎と、嘉納治五郎師範の関係については、次のようなことを書いています。 ・夜更けに「四郎ッ」と呼ばれ、床を出て部屋へ行くと、師範が考え付いた技の稽古台にされた。このようにして浮腰や払腰は出来た。 ・明治22年、師範が外遊。岩波静弥、本田増次郎と共に留守を任されたが、翌年、大陸運動を志して出奔。長崎を中心に活動。 ・明治24年、帰朝した師範が、五高の校長として熊本に赴任する途中、博多駅頭にて四郎が詫びを入れるも、師範は無言、四郎は叩頭したまま涙が止まらず。その後改めて熊本へ赴き、許しを請う。 ・大正8年、孝之が中学を卒業すると、四郎は上京して息子を師範宅に預ける。師範宅でもてなしを受け、師範や山下十段等と懐旧談に時を過ごすも、持病が悪化していて食事は受け付けず。 ・大正11年、療養地の尾道で死去。師範は六段を追贈。 |
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長崎遊泳協会 資料室→新聞記事→ 姿三四郎を追って(PDFです) 2010年(平成22年)1月1日〜 朝日新聞(福島版) http://www.nezumijima.com/archives/newspaper/asahi_fukusima100101.pdf 西郷四郎の伝記です。 西郷孝之については、「四郎の養子で、治五郎、南郷次郎、嘉納履正と3代の講道館長に仕えた」とあります。 1940年代の「柔道」誌(講道館発行)には、「館長秘書」の肩書きで「館長随行記」等の記事を書いています。 メニューページ「講道館対古流柔術」へ戻る |