1955 富田常雄「講道館 姿三四郎余話」(春歩堂)

 

 

 富田常雄は富田常次郎七段の息子で、小説「姿三四郎」等の作者。昭和301955)年に出版されたノンフィクション「講道館 姿三四郎余話」(春歩堂、1955)では、講道館初期の古流柔術との闘いについて書いています。また、三船久蔵・工藤一三・松本芳三共編「柔道講座」(白水社、1955)中にも、第1巻に「嘉納門下の俊英(一) 」(一 富田常次郎、二 西郷四郎、三 山下義韶)、第2巻に「嘉納門下の俊英(二) 」(四 横山作次郎、五 永岡秀一、六 広瀬武夫)という記事を書き、同じ類のエピソードを紹介しています。以下にまとめます。

 

・時期不明

西郷四郎−奥田松五郎  腰投げ、足払いで西郷勝ち

講道館道場における稽古試合

(市川大八、大竹森吉、奥田による道場破り)

 

・明治19年明け早々(「柔道講座」では明治19年秋)

富田常次郎−中村半助  巴投げ、逆十字絞めで富田勝ち

八谷孫六(「柔道講座」では八谷真)道場における稽古試合

 

・時期不明(「柔道講座」では明治21年)

芝山内の弥生館における警視庁武術大会

西郷四郎−好地円太郎  山嵐で西郷勝ち

他に宗像逸郎は絞めで勝ち、小田勝太郎は引分け、岩崎(佐藤)法賢・岩波静也も健闘

三島通庸警視総監、舟越衛(船越)千葉県知事立会

 

・明治21114日16日?

弥生社武術大会(天皇、皇后行幸啓)

横山作次郎−中村半助  55分闘って引分け(三島警視総監預かり)

 

・明治21527日28日?

弥生祭武術大会

山下義韶−照島太郎  一本背負で山下勝ち

 

 

父親を始めとする先達の書きものや話だけでなく、当時の新聞までよく調べ上げて書いている印象です。三島通庸の動向までチェックしています。ただし、明治21114日16日に横山作次郎−中村半助の試合が行われたというのは、わたしの調べでは否定されます。

講道館と古流柔術の闘いの時期、あるいはその伝わり方について書いた部分を以下に引用します。ただし必ずしも賛同できない部分もあります。

 

警視庁武術大会における柔道対柔術の試合も、いまでは伝説のなかに半ば没している。

(中略) 場所も鍛冶橋の警視庁道場としてあるのもあれば芝の弥生館としたものもある。明治十八年説、十九年説もあり、十八年と十九年にあつたという説もある。しかしその時の警視総監を三島通庸としているのは共通である。

(武術の復活 P121124

 

警視庁に於ける柔術対柔道の試合が伝説の中に没していて、その頃実地に見た講道館の諸先輩の記憶がまちまちであるのには十分の理由がある。ただそれが明治十八年に行われたという説は時間的にいつて無理であるばかりでなく、その時の警視総監は大迫貞清であつたが、この人の名は講道館関係の歴史には見当らない。

また芝山内の弥生館で武術大会が行われたというのも、弥生館が芝公園内に新築落成したのが明治廿年十一月であるから、時間的なずれがある。

柔術諸流の師範が警視庁の武術教師に採用されたのが明治十九年であるから、警視庁での柔術対柔道の試合はそれよりもつと後のことであろう。 

こうした記憶のまちまちなのは講道館にとつて数年後もしくは数十年後になつては記念すべき大試合も、当時ではそれだけの重い意味を持たなかつた。

(中略) 試合の経過をいちいち記録する者もなかつたし、試合した相手の人達の閲歴を調査して後世に残そうとした者もなかつた。そんなことにまで気が回らなかつた。

柔術諸流の中村半助、照島太郎、好地円太郎等は申し合せたように一様に大兵肥満の強豪ぞろいである。これに対して講道館は四天王を例にとつても、横山作次郎を除けば小兵揃いである。

在来の柔術家タイプというものがあるとすれば、講道館側はこのタイプとは凡そ異なつて貧弱にさえ見える。

その上柔術諸流が固技を主としたのに対して、講道館側は投げ技を研究し、投げ技によつて快勝していた。柔道対柔術の試合で――特に初期において――同じような試合が繰り返されたのはこのためであろう。相手側の同じような体格、同じような技、これに対して味方の同じような体格、同じような技。記憶のまちまちな一理由であつた。

(柔道の登場 P135139

 

 この一月十四日の午前の試合か一月十六日の試合かそのどつちかが、有名な横山作次郎対中村半助の試合であつたと推測されるのである。

 同じ明治二十一年の五月二十七日、二十八日の両日にも弥生社で柔術の試合は行われているが、このときには警視総監三島通庸が臨席していない。三島はリューマチス治療のため、五月二十五日、大磯へ赴き、六月四日まで滞在していたからである。三島が臨席していないとすれば三島が『勝負を預かつた』という人口にかいしやした話の拠りどころがなくなる。

(横山対中村 P190

 

 警視庁の招魂社である弥生神社の祭典は年に両度、五月二十七、八日の両日と十一月二十七、八日の両日に行われ、献納試合である武術大会が催おされる。

 明治二十二年五月二十七、八日の弥生神社の祭典当時は山下義韶はすでに警視庁の世話係であつた。明治二十一年十一月二十七、八日の弥生神社の武術大会の当時は山下は江田島の講道館分場にいた。

 してみると山下が警視庁の柔術世話係に任命される動機となつた揚心流の照島太郎との大試合は何時行われたか。

 証拠はないが、想像を許るされる機会は二回ほどある。

 明治二十一年五月五日の靖国神社の臨時大祭と、同年五月二十七、八日の弥生神社の祭典である。

(中略) しかし、この靖国神社の臨時大祭では柔術の奉納試合は行われなかつたようである。すくなくとも、そのような記録が見当らない。

(一本背負 P214〜216

 

 

昭和331958年には「姿三四郎の手帖 柔道創生記」(春歩堂)が出版されています。こちらから古流との闘いをまとめると以下になります。

 

・時期不明

西郷四郎−奥田松五郎  腰投げ、足払いで西郷勝ち

講道館道場における稽古試合

(市川大八、大竹森吉、奥田による道場破り)

 

・年不明(秋)

富田常次郎−中村半助  巴投げ、逆十字絞めで富田勝ち

八谷孫六道場における稽古試合

 

・明治19610

警視庁武術大会

横山作次郎−中村半助  55分闘って引分け(三島警視総監預かり)

西郷四郎−照島太郎  山嵐で西郷勝ち

 

・明治20年秋

 警視庁における全国武術奨励大会

山下義韶−好地円太郎  一本背負で山下勝ち

三島通庸警視総監、舟越衛(船越)千葉県知事立会

 

 

 「講道館 姿三四郎余話」と比べると、試合の時期が違うほか、西郷と山下の対戦相手が入れ違っています。これは勘違い等ではなく、検討の結果、意図して変えたものと思われます。ただし、出版年次とは逆に、「姿三四郎余話」の方が富田常雄の結論ではないかと思います。「姿三四郎の手帖」は、雑誌「柔道」(講道館)に1947〜1948年に連載された記事をまとめたものです。

 

    序

(前略) 私は、この人々の武傳を出來る限り忠實に描かうと思う。併し、作家としての私には、そこに自然に取捨が働き、潤色が施される。それは事實を歪曲する意味ではなく、傳記の窮屈さから、讀者ともども救はれたいからであり、又、専門の柔道家でもなく、史家でもない私としては、この方法が適切であると信じたからである。幸ひにして、講道館最古の門人であり、青少年時代から嘉納師範と起居を共にして薫育された亡父が遺した記録に「柔道發達側面観」なるものがあり、私に語つた亡父の話の幾つかも私の脳裡にある。これに據つて、他の資料をも合はせ加へて、私も柔道歴史を書いて見ようと思ふ。從つて、ある場合には資料を生のまま掲出もする。ある處では小説的手法も用ひたい。 (後略)

   昭和二十五年初春

著  者    

 

この序文に示された姿勢は「姿三四郎の手帖」のみならず「姿三四郎余話」にも当てはまるものと思いますが、小説仕立ての部分は前者により多く、後者の方がより実証的であるように感じます。

 

 

追記2016.10.31

わたしの閲覧した「姿三四郎の手帖 柔道創生記」は、昭和33(1958)年7月30日に発行された版でしたが、その前の昭和25(1950)年(上記「序」が書かれた年)には既に出版されていたようです。「講道館 姿三四郎余話」(1955)よりも先になります。

 

 

追記2016.11.6

 書籍と「柔道」誌の連載記事とを比較してみました。

 

「姿三四郎の手帖 柔道創生記」(春歩堂、1958)

・目次

・序/1

・永昌寺/7

・柔道諸流/40

・戰ひの道途/75 (目次では「道途」ですが実際の頁では「首途」。西郷−奥田)

・若き師範/96   (富田−中村)

・山雨到る/114  (横山−中村、西郷−照島)

・雄飛/133

・鬼の傳/153

・あとがき/170

・柔道大試合物語

・悲願一本背負/193 (山下−好地)

・案山子勝負/201

・鬼横山対名人永岡/213

・破門/227

・悲壮闇試合/247

 

「柔道」(講道館)連載「柔道創生記」全15回

1948年1月号(19巻1号)その3 柔道諸流(一) ※その1、2記載号は未確認

1948年2月号(19巻2号)その4 柔道諸流 二、三、四

1948年3月号(19巻3号)その5 柔術諸流(五) 戰ひの首途 一 (西郷−奥田)

1948年4月号(19巻4号)その6 戰ひの道 二 (西郷−奥田)

1948年5月号(19巻5号)その7 戰ひの首途 三、四 (西郷−奥田)

1948年6月号(19巻6号)その8 若き師範 一、二 (富田−中村)

1948年7月号(19巻7号)その9 若き師範(三) (富田−中村)

1948年8月号(19巻8号)その10 山雨到る 一、二 (横山−中村)

1948年9月号(19巻9号)その11 山雨到る 三、四 (西郷−照島)

1948年10月号(19巻10号)その12 雄飛 一、二

1948年11月号(19巻11号)その13 雄飛 三

1948年12月号(19巻12号)その14 鬼の傳 一、二

1949年1月号(20巻1号)終回 鬼の傳 三、四  柔道への郷愁(むすび)

 

書籍化に当たって、題名に「姿三四郎の手帖」と付いた他、「序」「あとがき」及び「柔道大試合物語」が内容に加えられています。章名の共通する他の箇所は書籍と雑誌でほぼ同じです。書籍の1950年版でも同様であろうと推測します。

山下義韶−好地円太郎戦については、詳述は「柔道大試合物語」中にあり、雑誌掲載時にはありませんでしたが、「雄飛」の章中に次のように短くは触れられています(「柔道」誌では19巻10号)

 

 その翌年の試合には、四天王の一人山下義が戸塚流の好地圓太郎と戰ふてゐる。この戰ひの記録は山下の一本背負に依つて、脆くも好地が後頭部を打ち、そのまま悶絶して後、端座して「参りました」と腹から絶叫して軍門に降つたことに終つてゐる。

 

 「その翌年」は明治20年に当たります。小説仕立ての「柔道大試合物語」だけなら創作とも読めるところですが、何らかのソースがあって書いているものと思われます。

 

「柔道創生記」は、後にも「柔道」誌に再掲されています。

 

1986年6月号(57巻6号)「姿三四郎」の手帖 (書籍の「あとがき」前半)

1986年7月号(57巻7号)「姿三四郎」の手帖 (書籍の「あとがき」後半)

1986年8月号(57巻8号)柔道創生記その1 まへがき、永生寺 一、二、三

1986年9月号(57巻9号)柔道創生記その2 永生寺 三(承前)、四、五

 

以下、1987年9月号(58巻9号)意終回 まで連載が続きます。「その6」と「その7」は1987年1月号(58巻1号)に合わせて掲載されています。

 

 

 

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