1955 老松信一「柔道五十年」(時事通信社)

 

 

老松信一九段はその著書「柔道五十年」(時事通信社、1955)において、「第一編 柔道勃興時 2 講道館の基礎時代 講道館の基礎確立」中に「警視庁武術大会へ出場」と題して次のように書いています。

 

 警視庁は、武術大会を催して庁員の演武はもちろん著名の士を招待して演技をさせ、もって撃剣および柔術の奨励と士気の鼓舞を計ったが、この大会に、文学士の始めた柔道として世間から注目されだした講道館にも出場方の招待があり、ここに初めて他流の人々とその技術を較べる機会が到来した。これは、今から約七十年以前のことであるが、その年月や試合の状況について正確に伝えるもののないのは残念であるが、今後の資料に俟つこととし、伝えられる二、三についてそのまま紹介するにとどめたい。

 

 

 そして明治18年5月、西郷四郎が照島太郎に左山嵐で勝ったことが、講道館を世に認めさせる第一歩になったと、富田常次郎の文章を引用して語っています。引用元は、『柔道』第二巻第六号所載「山嵐と西郷」、となっています。

 「柔道」という雑誌は何度か発行元を変えて(柔道会本部、講道館文化会、講道館)再刊されており、その度に巻号が改まるので、「第二巻第六号」だけでは発行時期を特定できないのですが、講道館のホームページには昭和6(1931)年、とあります。この時期ですと発行元は講道館です。

 

山嵐(やまあらし)<手技>

http://kodokanjudoinstitute.org/waza/digest/07/

 

警視庁武術大会の講道館柔道と柔術諸派との対決で、西郷六段の「山嵐」による活躍は、柔道の躍進に大きな役割を果したといえましょう。試合の模様は、「山嵐と西郷」(富田常次郎・『柔道』昭和六年)に伝えられています。

 

(前略)茲に西郷の一生中、最も花々しかった山嵐を活用しての他流試合に於ける火の出る様な激戦の一場面を、私の記憶のままに書いて見よう。其れが即ち活きた山嵐の説明にもなるから・・・

 

時は明治十八年の五月、場所は丸の内の警視庁であった。

 

 老松九段は次いで、磯貝一の「わが修行時代を語る」を引用し、「警視庁に於ける講道館対戸塚派の一戦」の明治18年説を補強しています(ただし、磯貝十段は月には触れていません。また、老松九段は触れていませんが、磯貝十段は西郷の相手を好地円太郎と言っています)。

 

 それから、老松九段は下記の新聞記事を引用した後、次のように書いています。

 

読売新聞 明治18(1885)年5月8日朝刊

○劍客死去 麹町巡査屯所詰の杉村八郎氏ハ西南の役に抜刀隊に編入されて軍功もあり劍術ハ餘ほどの達人なれバ山岡銕太郎氏とも懇意にされしが一昨々日警視本廳にて催されし大撃劍會へ出席し一二本立合しが歸宅後急病に罹りて終に一昨夜死去されたりとぞ

 

…富田、磯貝両氏の記憶に間違いがなく、この試合が十八年五月であったとすれば、この五月六日鍛冶橋の警視庁本庁で催された大撃剣会は、撃剣だけでなく柔術をも併せた武術大会ではなかったかと考えられる。

 

 

 老松九段は引用の際、「一昨々日」を「一昨日」と書いており、一日ずれています。撃剣会の期日は正しくは5月5日です。他紙に直接の記事もありましたが、やはり柔術については触れられていませんでした。

 

 

郵便報知新聞 明治18(1885)年5月5日朝刊

○演武會 警視廳に於ては本日演武會と称し大撃劍會を執行さるるに付各警察署長及び其他の警察官が集會さるるよし 

 

郵便報知新聞 明治18(1885)年5月6日朝刊

○演武會 前號に記せし警視廳の演武大撃劍會ハ頗る盛會にして臨時組合三本勝負ありて綿貫警視副総監を始め巡査総長其他各課長等及び籠手田元老院議官も臨場さる

 

 

 最後に、老松九段は「柔道家としての嘉納治五郎」(『作興』第六巻第七号所載)から引用の後、次のように続けています。

 

 この文中「明治二十、二十一年頃になって、講道館の名聲が知れ渡るにつれて、警視廳の大勝負となると、自然戸塚門と講道館との對立することとなる。二十一年頃の或試合に、云々」とあるのから推すと、警視庁の武術大会に招待されたのは一回でなく、明治二十、二十一年ごろまで何回も招かれていたもので、その一つに文中の戸塚派との試合もあったと解される。

 

 

「柔道五十年」(1955)の上記にご紹介した箇所については、続編である「柔道百年」(1966)、「改定新版 柔道百年」(1976)でも、ほぼ(九割九分)同文です。

 

 

 

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