1980 石橋和男「良移心頭流 中村半助手帖」(石橋大和)

 

 

 石橋大和を発行者として昭和55年に出版されたものを閲覧しましたが、これは昭和351960年に久留米商業高等学校柔道部後援会(著者は同校の柔道師範)より出されたものの改訂版のようです。「自警」昭和381963)610月号に連載された、川原衛門著「警視庁柔道師範列伝 中村半助」や、「警視庁武道九十年史」(警視庁警務部教養課、1965)では既に参考文献として挙げられています。

著者も1980年版を出した際、「退職したらかねて未完のまま放置していた、郷土出身の先輩柔術家『中村半助手帖』を一日も早く完成させようと思っていたが、…」と語っています。

 

 

   柔術対柔道

    :

P169)

 大正五年、講道館発行の「柔道」という雑誌に、当時柔道を修業していた大学生が、横山作次郎を訪れ、中村半助との試合の模様を尋ねた記事が記載されている。

 種々の誤伝を正するための資料として、最も信頼できる文献だと思うので、参考までに、原文のまま記載してみよう。

 『横山作次郎、稍禿げかかった毬栗頭、赤銅色の丸顔、「ギロツ」と底光りのする凄い眼、「ズングリ」と「ドツシリ」とした体、横から押しても、縦から突いても、「ビク」ともせぬ面魂、笑えば子女も懐かしめ、怒れば虎をも怒れしむとは、実に八段の如きを言うのである。

 八段は、喜んで、書生を座に引いて、高談する。

 晩年における八段は、人格円満、若い書生を可愛がるを、唯一の楽しみにした。

 …

 

 その後は、要旨のみお示しします。なお、没年が大正元(1912)年ですので、横山八段が語ったのはもっと前のことです。残念ながら「柔道」誌(柔道会本部発行)の原文には当たれていませんが、明治42(1909)年の東京朝日新聞の記事にそっくりの内容です。

 

 明治20年、三島通庸警視総監が、全国の武芸者を集めて大会を催した。注目の一番、天下無敵と謳われた中村半助は35、6の男盛り、対する横山は22歳。審判は久富鉄太郎と鈴木弥八郎。55分で勝負は三島総監預かりとなった。二、三日すると節々が痛み、体はちょっと触っても紫色になる有様、後に横山が中村と会って話すと、中村もまた実はそうだと言って大笑いした。

 

 

横山作次郎

P174〜175)

 警視庁主催の武術大会の中でも、圧巻といわれた、西郷と照島の一戦よりも更に凄絶だったのは、講道館の横山作次郎と、良移心頭流中村半助の勝負であった。

 この試合については、古賀残星も富田常雄も、西郷と照島が試合した仝じ年の同じ大会で、試合したように書いているが、これは前述の様に講道館と楊心流戸塚派の対抗試合であって、中村と横山が試合ったのは、明治十九年の武術大会ではない。

 鬼、横山の異名は、大剛中村半助と引分けた後につけられたものである。

 横山は、湯島天神下の、井上敬太郎門から、講道館に入門したのが、明治十九年四月十九日である。

 講道館が、十九年三月、麹町富士見町の、品川弥二郎子爵邸に移ってからの門弟である。

 井上道場では、西郷より三年も先輩であり、柔術をはじめたのは当然早いわけだが、講道館入門は、西郷、山下よりおそい。

 しかし、昇段の早さから言っても実力は、ほぼ同等であったことがわかる。

 だが、中村半助との対戦は、入門そうそうの、十九年五月ではなく、講道館発行の「柔道」と言う、当時発行された雑誌に、横山が中村との試合の模様を、当時、柔道を修業していた大学生に語った、大会の年月日、明治二十年十月の期日を信頼したい。

 

 

 先に触れた大正5(1916)年の「柔道」誌の引用部分には、明治20年とはあっても月については書いていません。引用されていない箇所に10月とあるのでしょう。

 ただし、「柔道」誌にあったなら富田常雄も丸山三造も知っていていいはずで、それでも横山対中村戦を明治20年としていないのは、こと日付に関しては横山八段の記憶が正しいとは限らない、という判断でしょう。明治42(1909)年の東京朝日新聞では、横山八段は「明治二十年の頃」とのみ語っています。なお、同紙には当時の年齢を中村が37歳、横山が24歳とありますが、こちらは数え年でしょう。

 

横山作次郎の巻

 

十三歳で強盗叩たっ斬る!

 警視庁武術大会の中でも、圧巻といわれる西郷と照島の一戦よりもさらに凄絶だったのは、講道館の横山作次郎と、良移心頭流中村半助の勝負である。この試合については、古賀残星も富田常雄も西郷−照島戦と同時に行われたように書いているが、明治十九年の警視庁武術大会ではない。

 “鬼・横山”の異名は、大豪中村半助と引き分けた後につけられたものである。横山は湯島天神下の井上敬太郎門から講道館に入門したのが明治十九年四月十九日。講道館が十九年三月、麹町富士見町の品川弥二郎子爵の邸(九段にもじって苦談楼という)に移ってからの門弟である。井上道場では西郷より三年も先輩であり、柔術をはじめたのも当然早いわけだが、講道館入門は西郷、山下よりおそい。しかし、昇段の早さからいっても実力はほぼ同等であったことがわかる。だが、中村半助との対戦は、入門そうそうの五月ではなく、翌二十年のことであろう。

 …

 工藤雷介「秘録日本柔道」(東京スポーツ新聞社、1972)

 

 ご覧の通り、最後を除けばほとんど同じ文章です。この箇所だけではなく、そっくりな文章が延々と続きます。同じ写真も一つあります。

 

 「引用」の形をとらずに、2つの著作物に同じ文章が見られるときは、次のような原因が考えられます・

  一方が他方の文章を無断で使用(剽窃)

  一方が他方の文章を(有償ないし無償で)許可を得て使用

  一方が他方をゴースト・ライターとして採用(実際の著者は同一人)

  両者が第三者の文章を無断で使用(剽窃)

  両者が第三者の文章を(有償ないし無償で)許可を得て使用

  両者が共通のゴースト・ライターを採用(実際の著者は同一人)

 

1960年版にも、「秘録日本柔道」(1972)と同じ文章があるのかないのかが未確認のため、公表の順(後先)は、わたしにはわかりません。1980年版には、巻末に参考文献として「秘録日本柔道」が挙げられています。一方「秘録日本柔道」でも、文中に『良移心頭流中村半助手帳』と書名が出て来ますが、そこは「警視庁武道九十年史」の文章をほぼそのままに書いている箇所なので、工藤雷介が実際に「中村半助手帖」を読んだかどうかはわからないように思います。

 

丸山三造「大日本柔道史」(講道館、1939)には、嘉納師範の言として「宗像逸郎は對手の驕慢不遜な態度に憤慨して寝技で絞めてこれを氣絶せしめ」とあり、同「世界柔道史」(恒友社、1967)には、「宗像は戸塚楊心流の照島太郎」と対戦した、とあります。「中村半助手帖」1980には次のような文章がありますが、ソースはわかりません。

 

 

新興柔道と楊心流戸塚派の対決

(前略)

P157〜158)

 明治十九年、東京楊心流戸塚派と講道館柔道の対決が行われた。

講道館、宗像逸郎対楊心流戸塚派、照島太郎が、立ち合ったときである。

 宗像は、十九歳で小兵だったから全くの青二才と見た照島は、組むといきなり宗像少年の顔をつるりと逆さになでた。

 怒った宗像が攻め立てたが逆上気味だからきまらない。

 やがて横捨身で倒したが、照島の得意の寝技で攻められた。

 しかし、宗像が下から照島の首を死にものぐるいで逆十字に絞めた。

 「なに、おれの首が絞められるもんか」照島こそ絞めの名人だった。

 宗像を引き上げてはドシーンと何回も胴突きをくわせ、よゆうのある所を見せた。

 痛かったが必死に絞めた。

 照島がついに、気を失ってグニャリとなって絶息。

 嘉納が出て来て、宗像に「相手が参ったかどうかもわからぬでは駄目だ」と注意した。

 これは人前の芝居だった。

(後略)

 

 

富田常次郎が「柔道」1923年7月号(講道館文化会)に書いた「柔道發達の側面觀 警視廳の師範中村氏との奮闘」中に、「三本目は、腰投げをかけて潰されたか、或は兩足にかぢり付かれて、そのまま抑へられたか忘れたが、兎に角、我輩は下から逆十字に絞めて、殆んど落しさうになつた時に、八谷氏の聲でこの勝負は終つた。」とあります。決め技が同じです。

 

 

 

メニューページ「講道館対古流柔術」へ戻る