第7章 訣別

 

 

黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。)

 

7章 訣別

(P236〜237)

 9月2日の大阪府立臨海スポーツセンターで行われたスーパー・タイガー対前田日明は異様な試合だった、と現地で目撃した夢枕獏は書いている。

(中略)

 結局、佐山の急所を蹴ったとして前田が反則負けを宣せられた。

 

 柳澤健は専門誌の記事を引用せず、この試合の詳述を避けたいかのようだ。佐山自身は次のように書いている。

 

「フルコンタクトKARATE」(福昌堂、1989年10月号、No.32)

 あの日の前田は、とにかく変だった。最初からケンカをしかけてきた。もちろん、プロレスをやるつもりでリングに上がってた俺は、ワケがわからないよね。その間も前田は「辞めてやる、辞めてやる」なんてつぶやきながら、つっかけてくる。

 1年後には、前田をエースに立てようという路線もあったし、今ここで辞めてどうなるわけでもないから、俺は前田をリングの上で鎮めようと務めた。向こうはケンカのつもりでやってるから、振りも大きいし、じきに息も上がりはじめた。しかし、前田を説得することはできそうもなかった。レフェリーの方に目を向けても「お手上げ」という感じだった。

 そうこうしているうちに、前田の蹴りが急所の近くにとんできた。俺が“急所打ち”をアピールして、試合は終わった。――これが、俺と前田の“ケンカ試合”の顛末だ。

 

竹内宏介「プロレス最強神話は終わった」(日本スポーツ出版社、1999)

(前略)この試合こそ前田にとっては佐山に現実を知らしめるための一種の制裁マッチであった。「戦いは理論じゃない!」と、いう自分の主張を示すために前田は己の格闘本能のおもむくままの妥協無き戦いを仕掛けた。前田vsS・タイガー戦は18分57秒、前田の反則負けという結果で唐突に終わった。この試合に関しても前田、佐山…それぞれに言い分はあるようだが、これを出し抜けに見せられたファンは“強い前田”“守勢に徹したタイガー”と、いう印象を残した。そして、結果的にこの試合がUWFという団体の方向性を佐山色から前田色に大きく変える歴史的な分岐点となった。

 

「UWFは佐山が言ってシュートの団体にしようとしたはずなのに、実際にシュート・マッチになると逃げる。佐山は口だけ。前田は勇気があり、強い」当時のファンはそう感じて、前田の株が上がり、佐山の株は暴落したのではなかったか。少なくともわたしはそう思った。その後すぐ佐山がUWFを去ったことも、逃げたという印象を与えた。

 

「【格闘技&プロレス】迷宮Xファイル」(芸文社、2004)

前田日明VS佐山聡 文=波々伯部哲也

 強ばった表情でリングに上がっても視線を落としたままの前田は、試合が始まるといきなり顔面に平手のパンチ。佐山の攻撃を受けずに頭を押しつけるように前に出る。前田は顔面しか狙っていないようで佐山の顔はみるみる赤くなった。前田の“異変”に佐山はしきりに「落ち着け」と声を掛けたという。見てはならない試合を見ているように館内は静まり返った。グラウンドでも互いに攻め切れず、前田がヒザ蹴りを狙った時に佐山のアピールが認められレフェリーが前田に「金的攻撃による反則負け」を宣告した。

 

 この試合の背景についても次のように書いている。

 

 全体会議では「団体活動を継続するには興行数を増やすしかない」という意見が出、ほとんどの選手は「やむなし」と思った。ところが佐山は断固「NO」を主張した。「選手のコンディション維持するにも、またシューティングをプロレスと差別化するには興行数を増やしてプロレス化するわけにいかない」。

 佐山の主張も正しかった。後楽園ホールで新日プロを上回るほど人気が高かった旧UWFも地方での人気はさっぱり。一世を風靡した元“タイガーマスク”を大々的に宣伝文句にしたかった営業だが、佐山はマスクを被ってかつての戦い方に戻るのを拒否した。それどころか「地方ではプロレスをしていた」と公言し、むやみに興行数が増えるのを牽制。スーパータイガージムを生活基盤とする佐山は「プロでやるのが無理ならアマチュアでもいい」とさえ口にした。

 旧UWFという団体の存在すら否定しかねない発言。社員にとっては死活問題で一気に前田エース待望論に傾いた。「佐山さんの頭の固さは何とかならないですか?」「前田さんがエースになってくださいよ」といった言葉を前田は何度も耳にしたようだ。前田は「他の人の生活を奪ってまでのシューティングにどれだけの価値があるのか?」と自問する。

 

 佐山はこう語っている(「1984年のUWF」から孫引きする)。

 

P239)

《俺と営業サイドの衝突は、ルール問題にとどまらなかった。興行を増やすか減らすかでもめた時もそう。営業サイドが、赤字だから地方興行を増やせと俺に言っても俺が譲らなかった、みたいな報道をされてたと思うが、(中略)事実は違う。元々、地方興行は赤字だから、打てば打つほど赤字が増えるんだ。だから俺は、黒字になる大都市だけを狙って月1回とか2回の興行方式にしようと主張したんだ。こちらの方が合理的だし、現に、今のUWF(注・新生UWFのこと)はそれを実行して成功しているじゃない。経営面を無視して理想論を振りかざした、とか言われると、ちょっと心外だ。》(『フルコンタクトKARATE』(1989年10月号)

 

地方が赤字なのは佐山がマスクを脱いだから、というのが営業の言い分であろう。第2次UWFで試合数を減らしたのは、それでも皆食えるようになったから。理想を現実化する力が佐山のいない第2次UWFにあったからであろう。月1回が後楽園ホールでは無理であろう。

 

追記2017.6.24

佐山提唱の旧UWFの1シリーズ3週間で5試合というスケジュールは6人のリーグ戦とセット。ただしこれはスポンサーがついたという前提で立てた試合数、とは佐山も認めており、スポンサー撤退後は7試合に増やす所までは妥協していた。

 

「週刊ファイト」1985年10月29日号

――改めてお伺いしますが、UWF脱退の原因は、佐山シューティングの路線が維持できなくなりそうだったことですね。

佐山 ボクがT・マスクを辞めた時点からスタートさせたのが、シューティングという新格闘技だったわけです。つまり、一つの信念をずっと固守していた。でも、それがなかなか理解してもらえなかった。そのうち、シューティング路線がUWF内部で非難を浴びるようになったんです。

――すなわち、あの少ない試合数ではとうてい団体を存続させていけない、ということでしょう?

佐山 UWFはプロの興行団体だった。それがネックになりましたね。無論、ボクは興行団体としても、あの試合数は正しいあり方と思っていました。確かにスポンサーがついたという前提で立てた試合数でしたが。

――現実にはスポンサーはつかず、苦境に追い込まれた。当然、試合数を増やそう、となりますね。まず、食っていくことが第一ですから。

佐山 最終的に三週間で七試合という線を提案しました。しかしこれも難しい。それに単に試合数を増やしたからといって、必ずもうかるものでもありません。事実、地方興行ではお客さんが入らなかった。そこでシューティング路線をちょっと変えてプロレスにやや近づけようという案も出ました。

――生き残るためには、やむを得ない選択とも思えますが…。

佐山 ボクの感覚でいくと、ちょっと変えてもそれはやっぱりプロレスになってしまうんです。そうなると、ジムの練習生たちに絶えず言ってきたことも、なあーんだってなってしまいますし…。

 

(追記終わり)

 

「【格闘技&プロレス】迷宮Xファイル」(芸文社、2004)

前田日明VS佐山聡 文=波々伯部哲也

 前田がフロントや選手、そしてファンにも大歓声で迎えられたのは、佐山が旧UWFでの居場所を失ったことを意味していた。旧UWFは10・9&10・20後楽園開催を発表、しかも10・9後楽園では前田vsS・タイガーの再戦。物議を醸した9・2高石での前田の闘いぶりが“容認”されたに等しかった

 しかし、前田vs佐山が2度と行なわれることはなかった。佐山は「シューティングが違う方向に向かっている」と離脱表明。前田は「ビビって逃げた」とホゾをかんだが、佐山と前田や他の選手との確執が試合で表面化した旧UWFは、もはや団体としての体をなしていなかった。

 

(第9章 P308)

《ジムの選手には、言ってるんですよ。UWFの時のボクの真似をしちゃダメだよって。ボクは、UWFを、最終的に本物の真剣勝負にしようとしたんです。それで、ボクと浦田サンが中心になって進めていたんですけど、途中で、みんなから反発を食いまして、結局、最後まで、プロレスをやっていたんです。(後略)》(佐山聡/『格闘技探検隊』1988年12月号))

 

 前田は佐山戦でルールを破っていたわけではない。佐山は前田とルール内の真剣勝負をやればよかったではないか。「ケーフェイ」を出版するよりもよっぽどアピールできたであろう。結局、佐山は自分ではシュートをやらなかった。前田は少なくとも最後の試合をヒクソンとやろうとした。

 

 

 

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