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第10章 分裂 |
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(黒字が、柳澤健「1984年のUWF」(文藝春秋、2017)からの引用。文章中、敬称は略します。) 第10章 分裂 追記2017.7.20 (P333) 最初のきっかけは、1989年8月13日の横浜アリーナ大会だった。 メインイベントとして行われた前田日明対藤原喜明の勝者には、カーセンサージャパンから日産シーマが贈られることになっていた。メーカー希望小売価格約500万円という高級車である。勝利者賞の目録をリング上で受け取ったのは藤原喜明を破った前田日明だったが、実際には社用車として主に鈴木専務が送迎用に使った。 当然だろう。プロレスの勝利はあらかじめ決められているのだし、しかも前田自身はポルシェに乗っていたのだから。しかし、前田は「選手がもらったクルマに、どうして鈴木が乗っとるんや?」とイチャモンをつけた。 この試合の勝敗があらかじめ決められていたことを柳澤は証明できまいし、そもそもこのエピソード自体、由来不明である。UWFの専務だった鈴木浩充の名は、インタビュー対象者や協力者のリストにはない。悪意ある噂話程度のものを、裏も取らずに書いているのではないのか。前田自身が当時、インタビューで次のように語っているにもかかわらず。 「週刊ファイト」1989年9月7日号 ――8・13横浜の勝利者賞、ニッサン・シーマは、もう手に入りました? 前田 いや、まだ。でも凄いよ、あの車。特別仕様で、今乗っているポルシェ928より速い(笑い)。 ――2台とも乗りこなすんですか? 前田 2台持っていても何だから、普段は事務所の方で使ってもらおうかと思っている。選手の用事があるでしょう? 例えばどこかのホテルで対談だとか……。今、選手の送り迎えに使っている事務所の車はちょっとみすぼらしいから(笑い)。それでオレが必要な時にはオレが使って…。 (追記終わり) (P335) ぬるい試合ばかりを続けてきた前田は、思い切りぶつかってきた田村に激怒。自分より遥かに小さい新人の顔面に強烈な膝蹴りを何発も叩き込み、眼窩底骨折の重傷を負わせて、1年1ヵ月にも及ぶ長期欠場に追い込んだ。エースのやることではまったくない。 その上、日本武道館や大阪球場のような正真正銘のビッグマッチ以外の試合では、露骨に手を抜いた。 シュート・マッチがそれほど好きなら、前田-田村戦は絶賛すべきではないのか。 「露骨に手を抜いた」とは一体何を根拠に言っているのか。わたしは仙台で試合を見たが、前田が手を抜いたとは全く思わなかった。 追記2017.7.12 (P337~339) 1988年4月にヨーロッパ遠征に出かける以前から、すでに船木は将来有望な若手として、旗揚げ直前の新生UWFから移籍の誘いを受けてきた。 ドイツでもオーストリアでもイギリスでも、船木は神新二が毎週送ってくる『週刊プロレス』を楽しみに読んだ。UWF関連の記事を読み、写真を見た船木は、UWFがリアルファイトであると信じた。UWFならば実力だけで上に行ける。そう考えた船木はUWF移籍を決意する。 ところが、実際に移籍してみると、UWFは船木が考えていたようなリアルファイトの格闘技団体ではなかった。“格闘技の技を使ったプロレス”(『船木誠勝の真実』)に過ぎなかったのだ。 (中略) 堀辺はこの時期の船木について、次のように語っている。 ≪(前略) こちらが「前田を倒せ」というと、船木の表情がくもり、精神的な負担をおっていった。それは前田を倒すことが、むずかしかったり怖いからではなく、プロレスだからやれない。そうこうしているうちに私と船木との関係は、どんどん気まずいものになっていった。 私としては、骨法を単にレスラーのステイタスをあげるための衣装や道具として使うのならやめて欲しい。ウチのワザは飾りじゃないんだ。骨法は実戦第一主義。最後に船木には言いましたよ。「ウチにきている意味はないね」と。そうしたら彼はやっぱり前田をとった。(中略)「Uイズム」は前田にもなかったし、船木にもそれはなかった。みんな幻だった。≫(『週刊プロレス』1991年2月12日号) 上記引用文の後半(≪≫の間)は、週刊プロレスの孫引きになっている。最後の「(中略)」は、わたしではなく柳澤が自著に週刊プロレスから引用する際に略した部分である。あらためて原典より引用する(なお、週刊プロレスの原記事は、骨法の堀辺正史師範と山本隆司編集長の対談形式となっている。柳澤本では、間に入った山本の言葉を特に何の断りもなく削って、堀辺の言のみをつなげて引用している所がある)。 山本 それはUにとって、非常に象徴的な話ですね。 堀辺 私が考えていた「Uイズム」といわれるものは、実際にはどこにも存在しなかった。皮肉なことに「Uイズムの申し子」といわれていた船木によって、それが証明された。面白いことには、ウチの道場にきていた時は、船木は負けることが多く、こなくなった途端に勝ち続けていった。「Uイズム」は前田にもなかったし、船木にもそれはなかった。みんな幻だった。 UWFでの船木の試合の勝敗は、骨法への当てつけか嫌がらせ、とでも言いたいのだろうか。もしそうだとすれば、いささか被害妄想気味ではなかろうか。 対談の前段では、藤原がSWS入りし、船木と鈴木も付いて行くかもしれない、と当時の状況について語り合っており、UWFに肩入れしてSWSを叩いていた山本編集長としても裏切られたような気持ちになっていたかもしれない。対談はそのようなムードの中で行われた。 骨法を辞めた理由や入団前のUWF観について、船木自身は次のように語っているのだが、柳澤は知らなかったのだろうか。 『Dropkick』チャンネル 【総合格闘技が生まれた時代】船木誠勝「俺は真剣勝負がやりたかったわけじゃないんです」 2014-08-11 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar597913 ――その頃の骨法には廣戸(聡一)さんと最上(晴朗)さんという指導員がいらしたんですよね? 船木 あ、そうです。あのふたりが本当に強かったんですよ。 ――初期骨法はそのふたりが本当に凄かったという話を皆さんおっしゃるんですね。 (中略) ――船木さんが海外修行に行ってるあいだにそのふたりは骨法をやめられて。 船木 それで俺も通うのをやめたんですよ(笑)。 ――あ、そうなんですか(笑)。 船木 あのふたりがいなくなるとレベルがぜんぜん違ったんですよね。 (中略) 船木 残っても新日本に居づらくなるので、UWFに移ったほうがいいなと思いました。でも、UWFに行ってみてわかったんですが、あそこまで格闘技寄りになってるとは思いませんでした。自分はちょうど海外に行っていたのでUWFの映像が見れてなかったんですよ。『週プロ』や『ゴング』に載った試合写真しか見れてなかったですけど。蹴って投げて極めるだけのスタイルになってるとは思いもしませんでした。 ――船木さんが格闘技の世界に飛び込みたかったんじゃなくて、行ってみたら格闘技スタイルになっていたという。 船木 そうなんです。自分はたしかに強さは強さで求めてましたけど、スタイルを格闘技にするという発想はなかったです。 ――新生UWFの頃って船木さんがイライラしたり、苦悩しているイメージあったんですけど……。 船木 はい。してましたね(苦笑)。 ――それはもっと格闘技に振り切りたくてイライラされていたじゃなかったんですか? 船木 そうじゃないんです。UWFが格闘技スタイルに寄りすぎちゃってて最初から「?」マークがあったからなんです。それでUWFのときに骨折して半年くらい休んだことがあったんですけど。そのときにボクシングのビデオをいっぱい見たり、骨法を飛び出して小林千明さんという東洋太平洋のチャンピオンにボクシングを習ってました。そうしてるうちに、UWFをやるのであればもっと格闘技に近づけないとダメだと考えたんですね。 【検証「1984年のUWF」】船木誠勝「えっ、そんなことが書かれてるんですか? それは全然違いますよ」 2017-05-03 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1258245 船木 自分は15歳のとき新日本プロレスに入門したんですが、当時の前座はギリギリの試合というか、なんの筋書きもなくやってたところはあるんですね。 ――内容的にはフリースタイルだったわけですね。 船木 そこから外人レスラーと戦うようになって、海外修行に行けば完全に向こうのスタイルに合わせなきゃいけないんです。 ――船木さんはヨーロッパ武者修行でプロレスを勉強されたわけですよね。 船木 それで帰国してから新生UWFに参加したんですけど、その頃のUWFはスポーツ的な方向に行こうとしてたんですね。だから凄く戸惑ったんです。自分はプロレスをやろうとしたんですけど、UWFはスポーツや格闘技の方向に向かってる。せっかく新しいプロレスをやろうとしてたんですけど、凄く先に飛んじゃってるなって。 ――『1984年のUWF』では船木さんが「UWFがリアルファイトであると信じた」「ところが、実際に移籍してみると、UWFは船木が考えていたようなリアルファイトの格闘技ではなかった」「船木はプロレスに過ぎないUWFに失望した」と書かれてるんですね。 船木 えっ、そんなことが書かれてるんですか? それは全然違いますよ(苦笑)。UWFは格闘技やスポーツとして打ち出していましたよね? ――はい。 船木 自分はその流れについていけなかったんですよ。 ――船木さんはUWFがあまりにも格闘技的であることに驚いたということですか。 船木 はい。だからボブ・バックランド戦でコーナーポストからドロップキックを出したりしてその流れに抵抗したんですよ。 ――「プロレスをやりたい」というメッセージ的なアクションだったわけですね。 追記2017.9.3 UWF入り前後に船木がどのようなことを考えていたのか、何を悩んだのか。当時の専門誌紙より引用する。 「週刊ゴング」1989年4月6日号 No.250 イギリスの船木優治に緊急インタビュー「俺がUWFを選んだ理由」 <聞き手=本誌・小林和朋> 船木(中略) 俺、昔の社長の試合が大好きなんです。大木戦とか、ロビンソン戦とか…男の意地と意地をぶつけ合って、お互い胸を出してやり合うような試合が…。試合前は“ぶっ殺してやる”という気持ちでリングに上がって、戦い終った後は、勝っても負けても涙を流して抱き合えるような…そんな試合がUのリングで出来れば、と思ってます。 ■巻頭緊急レポート 船木優治が遂にUWF入りを宣言 3月27日…次なる移籍者が動く! (前略) 最大のポイントは、ファイト・スタイルの問題だ。具体的に言うと、UWFスタイルの中に溶け込んでしまったら、船木のレスラーとしての無限の可能性が閉ざされてしまうのではないかという不安の部分だ。 だが、船木はUWFスタイルの問題について、こう語っている。 「いろんな人の話を聞いてると、最近のUWFの試合は旧UWFの試合に比べると、つまらなくなったという声が多いんですよ。日本に帰ったら全部ビデオを見て、自分なりに研究しようと思ってますけど、行く以上は“船木がきてUWFの試合がグッと面白くなった”と言われるような、今までのUWFとは違ったカラーを出していくつもりです。初めのうちは、あまり蹴りも使わず、レスリングで勝負しようと思ってます」 さらに「新日プロで使えなかった骨法の危険な技」や「自分で考えた新型スープレックス」も、どんどん使っていくという。 「週刊ファイト」1989年4月13日号 船木独白「どうしてもUWFで闘いたい」 道場破りや異種格闘技戦だけでなく、いつもの試合でもサブミッション主体の緊張感あふれる闘いがしたい。そう思うとやはりUWFだった。 「週刊プロレス」1989年 緊急増刊 4月29日号 No.311 ヨーロッパでは雑誌のグラビアでしか見たことのなかった新生UWF。いったい、船木の目には、どう映ったのだろうか…。 「ひとこと、疲れましたね。今日は、俺、観客のひとりとして見ましたから、その立場から言わせてもらえれば、疲れました。俺は(観客を)疲れさせないようにしたいですね。もちろん、ただ面白ければいいというんじゃなくて楽しませなければいけないと思うんです。あれでは、女の人とか楽しめないんじゃないかナァ」 「週刊ゴング」1989年5月4日号 No.254 正式にUWF入りした船木優治に巻頭直撃インタビュー <聞き手=本誌・小林和朋> ――日本に帰ってからUWFの今までのビデオも見たと思うけど、印象的だった試合は? 船木 札幌の前田-高田戦、大阪の高田-バックランド戦、徳島の高田-山崎戦…この3試合は面白かったですね。3つとも高田さん絡みの試合ですけど(笑)。ただ、全体的な印象としては、キックボクシングみたいなイメージが強いですね。ババババッと蹴ってボーンと倒れるっていうシーンが多いし…。正直言って俺の理想とするプロレスとは、ちょっと違いますね。でも、俺と鈴木が入ったことで、試合のスタイルは変わっていくだろうし、必ず違ったカラーの試合を見せます。それじゃなきゃ、なんのために俺が入ったかわからないでしょ? それと俺、あの試合中のシーンとした重苦しい雰囲気って好きじゃないんです。お客が真剣に試合を観てるっていうのはわかるけど、グランドの攻防でも常に「頑張れ!」とか声援が飛ぶような試合を俺はやりたいですね。以前、武道館で藤波さんが剛竜馬と戦った時のようなムードが最高です。 「週刊ファイト」1989年5月25日号 船木優治 5・4大阪球場 UWFデビュー戦を振り返る ――ところで、5・4大阪球場の試合で藤原選手と船木選手には厳重注意とのことですが、現行UWFルールについては? 船木 初めて試合を見る人には難しいんじゃないですか。例えば相撲とかボクシングなら、初めて見た人にも分かるでしょ。土俵から出るか、手や足をついたら負け。あるいはノックアウトとか判定とか。 ――ま、プロレスにはグラウンドでの攻撃とかパンチ以外に蹴りや関節技などさまざまなバリエーションがありますからね。 船木 それだけプロレスは格闘技として奥が深いんです。だから、どうしても細かくなるとは思いますが、ファンより先にルールだけがどんどん進んでしまうと、とっつきにくくなるでしょ? 「週刊ゴング」1989年6月1日号 No.258 5・21バックランド戦まで秒読み! 船木優治に直撃インタビュー <聞き手=本誌・小林和朋> ――どんな技が出てくるか…今後の試合が楽しみですね。 船木 あと、ドロップキックをどういう形で復活させるか、今考えてるんです。このままじゃ鈴木に取られちゃうし(笑)。鈴木も工夫してるけど俺は、もっと華麗に見せたいし、たとえば強烈なスープレックスを決めて相手がフラフラとなった時、自分からロープに飛んでドロップキックをやるとか…。 ――ロープに飛んで…。 船木 はい。よほど相手がグロッギーになってないと、よけられちゃうかもしれないけど…。でも、ロープに飛んで勢いをつけた方が威力は倍増しますからね。あと、蹴られてロープ際にきた時、ロープの反動を利用して反撃に出るとか…。UWFといえども、“ロープの反動を使ってはいけない”とルールに書かれてるわけじゃないし、俺は相手を倒すために、ロープの反動を有効に使っていきますよ。あと、従来のプロレス技でも、やられて痛い技はどんどん使っていきます。マック・ローシュの試合でもラリアットやボディスラムが出た時、お客さんが沸いてたし、ルールの面で引っかからない範囲で、いろんな技を出していこうと思ってます。 「週刊ファイト」1990年6月1日号 5・21UWF NKホールの全景 意外!船木バックランドに反則負け! 「何でこうなんですかね。一生懸命やると絶対に反則になる。リングに上がった時にはルールが頭の中にあるんです。でも試合が始まってしまうと、男と男の対決でしょ。ルールは吹っ飛んでしまう。リングでカーッと怒るとダメなんですかね。イヤになってくるな。オープンルールで試合が出来ないですかね。窮屈ですよ。体が大きくなったのに、小さいシャツを着せられているみたい」。 UWF初の反則負けを宣告された船木はガックリ。肩を落としたまま開口一番、こう言った。何をどうすればいいのか、UWFのルールに拒否反応がハッキリ出ている。 本紙の目 ルール把握には時間がかかる 消化しきれていないことは確か (前略) 旧UWF時代、ルールは佐山1人で考案したようなもの。佐山がどんどんルールを進化させ、その分、他の選手はついていけずにギャップが開いた。現在のUWFルールは旗揚げからのメンバーが1年間かかって、試合を行いながら築いた。この4月から参戦した藤原、船木、鈴木らとはギャップがあって当然だ。 試行錯誤を続けながら、ルールを把握した旗揚げメンバーと違い、いきなり現行ルールで闘ったのなら、窮屈に感じるのもムリはない。これは船木だけでなく、NKホールに詰めかけた観客の大半が同じ感覚を持ったに違いない。 (中略) 次に、船木のマッチメークに関して、もう少し配慮がされていたなら、違った結果が出たかも知れない。 UWFマットデビュー戦は藤原。共に新生UWF初登場でルールがきちんと頭に入っていない。バックランドしかりである。船木の相手が旗揚げ以来のメンバーだったなら、こうもルールでもめることはなかっただろう。 (後略) マット界舞台裏 ★編集部談話室★ (前略) C 旧UWF時代からルールによる規制があり過ぎると、面白みを損なうと言われていたけれど、同じ壁にぶち当たったとの印象だな。 D 歴史は繰り返すっていうけれどホント奇妙なものだ。今の船木の主張はかつて前田が佐山に対して行っていたのに似ている。 B しかし、旗揚げメンバー同士による試合はルールが支障をきたすってのがないだろ?十分にファンを魅了してきたし、船木も慣れれば本来の力が発揮出来ると思うのだがね。(後略) 「週刊ファイト」1990年2月22日号 船木 長期欠場はコヤシだ ―― 以前、「理想のプロレスが見えてこない」と言ってましたが、おぼろげながらでも見えてきました? 船木 頭の中でもう一息だ、もうちょっとだと思うんですが、なかなか難しいですね。オレは気が多いから、いろんなスタイルをやりたい。飛んだり跳ねたりってのもやりたいし、サブミッションもやりたい。かといってやりたくてもできないし……プロレスラーを続ける限り、永遠に理想のプロレスが完成することはないんじゃないですか。でないと、オレのプロレスが固まってしまうし……。とにかく、今はありとあらゆるプロレスが見たい。プロレスに限らず、タイソンの試合なども見たい。 「週刊ファイト」1990年4月26日号 船木 鈴木に勝つ 4・15博多追跡 昨年9・6長野以来、7カ月ぶりにリングに上がった船木は一大決意で対鈴木戦に臨んだ。トレードマークのハチマキ、カラーショートタイツ、おまけにシューティングシューズさえつけなかった。「レスリングだけで勝負する」。この思いは鈴木も同じ。2人は試合でスパーリングそのものを行ったのだ。UWFの原点を試合で演じた船木と鈴木。この試合は彼らにとって一つの実験の場だった。 「週刊ファイト」1990年10月11日号 船木 直撃インタビューPART2 ――UWFへ移籍して2年半(注)が経ちましたが、UWFは想像していた通りでしたか? 船木 味をしめるとUWFの方がいい(笑い)。ケガの欠場から復帰してから味をしめ始めました。ヨーロッパで想像していたのとは少し違いますが……。 ――ヨーロッパで思い描いていたのは“夢”だったんでしょうか。 船木 そうですね。オレは写真でしかUWFを知らなかった。あの時、思い描いたUWFは今から思うと子供じみています。 追記2018.6.3 (注)正しくは1年半。 追記2017.6.24 (P339~340) 1989年11月29日、UWFはついに東京ドームに進出した。大会名は「U-COSMOS」である。 旗揚げからわずか1年半での東京ドーム大会は、6万人もの大観衆を集めて大成功に終わった、と一般には報じられている。 ところが実際には、実券が売れたのはせいぜい1万枚から1万5000枚程度。残りは招待券を大量にばらまいて、無理矢理に客席を埋めた。閑散としたスタンドは、UWFの満員伝説に大きなダメージを与えると考えたからだ。 「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017) 第7章 「崩壊」の目撃者たち 証言 川﨑浩市 「最終的な収益まではわかりませんが、ドーム大会が赤字だったという印象はないです。チケットの実売も2万枚強だったと記憶しています。(後略)」 「俺たちのプロレス
VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017) 証言04 川﨑浩市 川﨑 まあ、3万人前後入れば満員に見えますからね。実売で2万~2万5000、それに企業売りとか招待を合わせて、3万5000ぐらい入ればというところだったと思います。(後略) 「週刊ファイト」1989年10月12日号 「U-COSMOS」11・29東京ドーム決戦の発表記者会見が、30日午後1時から東京都千代田区の九段・グランドパレスホテルで行われた。会見には、UWF所属の10選手、神新二社長、冠スポンサーとなるメガネスーパー社、大会応援の集英社(週刊プレイボーイ)が出席。(中略) ――冠スポンサーとして、経費の負担などはどうなっているのでしょうか。 富永氏 今回、このイベントに使います全部の額は2億弱と見ています。その中には、宣伝費も含まれていますし、冠料も含まれています。この冠料の考え方としては、私どもは入場料の一部を私どもが負担させていただく――そういう考え方で提供させていただきます。 ※富永氏は「メガネスーパーの富永巽氏(本部総務部次長)」。 「週刊ファイト」1989年12月14日号 マット界舞台裏 編集部談話室 A ところでUWFの11・29東京ドームだが、満員の盛況だった。前売り初日でガーンと売れた後、途中経過発表がなかったものだから、ちょっと心配していたんだが……。 B いかに東京といえども、お金を払って見に来るファンは5万人もいない。 C 3時過ぎにドームに到着した時はビックリした。チケット売り場から数百㍍もの長蛇の列。ところが、これは「メガネスーパー」と「週刊P誌」のチケット引き換えに並んでいるファンだった(笑い)。当日券売り場には人が並んでいなかったし……。 D しかし、あれだけ観客が入れば興行としては大成功だ。 C それは言える。満足して帰ったファンが多かった。 「週刊プロレス」(1989年11月14日号、No.347)にメガネスーパーの広告が載っており、「今!!メガネスーパーでお買い上げの方にU・W・F U-COSMOS東京ドーム引換券プレゼント」と書いてある。スポンサー料の見返りとして、眼鏡販促用の引換券を渡した(実券も行っているだろうが)のであろう。わたしも引換券で行ったことがあるが、会場で余っている実券(通常は売れにくい遠目の席)と引き換えるので、実券の招待券と違って有料販売の機会を失うことがない。興味のない人は無料でも来ないので、ただ券で客席の空きを埋めるのにも人気と営業力が必要だし、無理矢理動員をかけても客席に熱が生まれないのは、後のSWSで証明済みである。満員と言える大観衆が集まって熱気があったのであるから、人気は否定できまい。 なお、「週刊P誌」とは「プロレス」ではなく「プレイボーイ」ではないかと思うが未確認。 追記2017.7.12 「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017) 第7章 「崩壊」の目撃者たち 証言 川﨑浩市 「(前略) また、このドーム大会のために、『週刊プレイボーイ』が大キャンペーンをやってくれたり、これまで以上に世間にUWFをアピールすることに成功したので、興行収益以上の意味があったと思いますね」 「俺たちのプロレス
VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017) 証言04 川﨑浩市 川﨑 ドームのカード発表ともなると、週プロは一番に出したいじゃないですか。でもそのときは、月曜発売の週刊プレイボーイで毎週1カードずつ発表していくというキャンペーンをやったんですよ。1回ならまだよかったんでしょうけど、毎週ですからね。専門誌としては載せなきゃいけないんだけど、一般誌の数日後になってしまうとので山本さんからしたら歯がゆかったでしょうからね。 ――UWFは一般メディアからの食いつきがよかったですしね。 川﨑 専門誌も当然立てないといけなかったんですけど、あの頃の週刊プレイボーイは発行部数も多かったし、中吊り広告でバーン!と出してもらうとかメリットは大きかったですから。(後略) 「週刊プレイボーイ創刊23周年記念企画」の一環として、「UWF東京ドーム決戦WPB特別席に300名ご招待」の応募券が「Weeklyプレイボーイ」(集英社)24巻44~51号(1989年10/17、24、31、11/7、14、21、28、12/5各号)に掲載。「※今回プレゼントする特別席は一般発売の席とは異なります。」ともあり、招待券は引換券ではなく席番号のある実券のようだが、このキャンペーンをぎりぎりまで引っ張った(最後の12/5号の応募締め切りは大会前日の11/28当日消印有効となっている)ことからしても、なるべく多くの動員をかけるために「WPB特別席」の選に漏れた人に引換券を送ったのかもしれない。 なお、カードの発表順は以下の通り(その試合に出場するUWF選手のインタビューも掲載)。 10/24(45号)安生対チャンピア・デヴィー(チャンプア・ゲッソンリット) 10/31(46号)高田対デュアン・カズラスキー 11/ 7(47号)藤原対クレン・ベルグ(その後、レオン・フライに変更) 11/14(48号)前田対ウィリー・ウィルヘルム 11/21(49号)鈴木対モーリス・スミス 11/28(50号)山崎対クリス・ドールマン 11/14号と11/21号には、週刊プロレスと同じメガネスーパーの広告が載っていた。よく探したわけではなくたまたま目に付いただけなので、他の号にも掲載されたかもしれない。 (追記終わり) (P341~342) UWFはこの時期、不動産物件を購入している。神と鈴木は、引退後の選手にジム経営をしてもらうためだと説明したが、本当にそうなのか? 疑心暗鬼に陥った前田は、知り合いに相談して、UWFの帳簿を見せろと神と鈴木に要求した。理由は「会社の経理に不正がある」というものだった。 神と鈴木が会社のカネを懐に入れ、私腹を肥やしたことは決してなかった。だが、会社が部外者に帳簿を簡単に見せるわけにはいかない。 神や鈴木が断ると、前田は「帳簿を見せられないのは、ヤツらが不正を働いているからだ」とメディアに向けてしゃべった。 プロレス専門誌やスポーツ新聞は、前田の言い分とUWFの内紛を大きく報じた。 「前田の言い分とUWFの内紛を大きく報じた」という書き方は、当時マスコミが一方的に前田に味方していたかのような印象を与える。実際には神社長の話も報じ、大谷顧問弁護士の主張にも紙幅を割いている。双方が弁護士を立てて争ったことについて、柳澤健は一方の弁護士だけに取材して書いているのではないか。 鈴木健「最強のプロレス団体 UWFインターの真実」(エンターブレイン、2002) (前略)UWFインターナショナルが旗揚げして2ヵ月ぐらい経ったある日、私が事務所にかかってきた電話を取った。 「そちらはUWFさんですか?」 「はい、UWFです」 そう答えたら、突然、わけのわからないことを言われた。 「こちらは××マンションの管理組合の者なのですが、管理費がもう何ヵ月ぶんも払われていないんです……」 私は「いったいなんのことを言われているのかわからない」って感じで応対していたら、話が進まないと思ったのか、向こうがこう聞いてきた。 「神さんはいらっしゃいませんか?」 そう言われたので、ちょっとトボケて質問してみた。 「えーっと、そのマンションは何軒ありますか?」 「2つです」 それで私はピーンッときた、 「ああ、それはウチとは関係ないです。UWFはUWFでも、ウチは別の会社なんですよ。神さんはいま、旅行会社をやっているはずですから、そちらを調べてください」 要するに会社の金でそのマンションの費用を払っていたんじゃないだろうか。その電話の件はすぐに高田さんに報告した。高田さんは「やっぱりな……」ってあきれていた。 追記2017.6.24 (P342) 「(前略) 最終的には僕から、前田たちに帳簿を見せようと言った。ただ、勝手に情報を持ち出されても困るので、こちらの目の届くところで見せましょうと。 ところが前田が連れてきた人は、公認会計士でも税理士でもない、資格のない人で、要するに数字のわかる人ではなかった。 (後略)」 UWF顧問弁護士の大谷庸二の言だが、帳簿を調べに来たのは当時(株)マネジメント・リサーチの代表で、後にリングスの経理担当役員になる相羽芳樹(柳澤本でもP346には名前が出ている)。当然、数字に明るい人物であろう。 (追記終わり) |
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前田ら選手が神社長に不信感を抱いた理由は金銭面だけにあったのではない。初めに大きく報じられたのは、SWSへの選手派遣問題であった。 「週刊ゴング」(1990年10月25日号、No.330) 「UWFの話はあります。これは神社長の方から“いろいろ、お世話になったので恩返しがしたい。10月18、19日の旗揚げに藤原選手を貸しましょうか”という話が実際、ありました。(後略)」 SWS田中八郎社長自身の口から、このショッキングなコメントが出たのは、9・29SWS福井大会終了後、午後11時より行なわれたホテル・ロビーでの記者会見の席上のこと。 (中略) 神 前田選手もSWSからウチの選手貸し出しの要請があったことは知っていますし、僕と同じに田中社長の記者会見での食い違った発言が前田選手にも伝わっただけで…それを聞いて誤解したということですので、何の問題もありません。 前田 (この件に関しては)他の選手も寝耳に水だったからね。みんなも「どういうことだ」っていう感じだったよね。(後略) 「週刊ゴング」(1990年11月8日号、No.332) 9・29福井大会の試合後のSWS田中八郎社長の発言に端を発し“UWFが分裂か?”との見方が業界を駆けめぐった。これに対し、本誌では神社長にインタビュー(330号掲載)をしたところ、 「“ウチが選手を貸そう”ではなくてSWSの方から貸し出しの要請があったんです。私が会社を出て”UWF部屋“みたいなものを作ってSWSに参戦するようなことは、100%あり得ないことです」 と田中社長との意見の食い違いを見せ、真っ向からUWF分裂を否定した。 しかし、10月18日、横浜アリーナで行なわれたSWS『闘会始’90』の試合前、午後5時からプレスルームで行なわれた記者会見で、UWF問題を聞かれた田中社長は次のように答えている。 「(前略) ただ、経営者としては失格だね、アレはね。私がウソ言ったみたいな言い方するから…それは困るんだけどね。まあ、まだ若いから」 と痛烈に神社長を批判。 「週刊プロレス」緊急増刊号10・25大阪城ホール決戦(1990年11月10日号、No.405) 案のじょう、5時55分からプレス用控室でおこなわれた記者会見では、分裂問題、そしてSWSとの関係についての質問が集中した。 「SWSの田中社長が『神社長は経営者として失格だ』という、コメントを出しているのですが、それについてのコメントはありますか?」 「(あっさりと)いや、反論はないです。リング上がすべて、という気持ちですから。試合を見て、皆さんが結論を下してくださいというのが率直な気持ちです」 「週刊ゴング」(1990年12月20日号、No.338) 分裂騒動で大揺れのUWF…「最後の興行か?」とも噂された12・1松本大会で急転直下の大逆転劇が起こった。出場停止処分を受けていた前田日明が全試合終了後、リングに登場、全選手と団結をアピールしたのだ。(中略) こうなると窮地に追い込まれるのは、前田らから糾弾されている神社長、鈴木専務の二人だ。「不正は何もない」の一点張りで通しているものの、前田の処分(5ヵ月間出場停止)を決めたという臨時取締役会に関しても、発表の際の説明とは違い、出席者の一人とされていた高橋取締役には“事後承諾”だったことが同氏の証言により明らかになっており、神社長サイドの話の矛盾点が表面化してきている。 そんな中において、結局、松本大会でも神社長は試合後すぐに会場から姿を消してしまい、一切コメントは出さずじまい。(中略) 神社長は試合終了後、その足で帰京してしまったという情報もあり“事の是非”とは違う次元の問題で、フロント・サイドのファン、関係者に対する誠意のなさは非難されるべきものだ。 「週刊プロレス」(1990年12月18日号、No.411) そこで全試合終了後、本部控室の前に改めて報道関係者が押し寄せたのだが、山口広報担当がガッチリ部屋をガードしており、中に入れてもらえない。 「(社長は今)正面で精算をしています」 それなら待とうと、約20人のマスコミは待つことにしたが、10分後には、 「(社長は)帰ったみたいですね」 みたいとはどういう意味かと聞くと、 「知りませんよ!じゃあはっきり言いましょう。帰りました!」 待ちぼうけを食わされたマスコミは、ここで「しょうがない」と解散だ。 追記2017.6.24 「週刊ファイト」1990年12月13日号 マット界舞台裏 編集部談話室 B 神社長サイドの孤立っていうと、12・1松本でもう一つの事件があった。高橋(蔦衛)取締役が神社長に辞職を申し出たんだ。 C 高橋氏って神社長から前田の出場停止処分を決めた役員会に出席したと言われた第三の人物だろ? B そう。実際は事後承諾の形で自分の名前の載った新聞報道を見て本人が一番驚いたらしい。高橋氏は「UWFの一ファンに戻ります」ってことだったけど、イヤ気が差したんだろうな。 (追記終わり) (P344~347) (前略)一方、この日はずっと本部控室に閉じこもっていた神新二社長は、観客とメディアが帰り、すべての片づけが終わったあと、ようやく帰路についた。 「東京へ向かう車中で、神は何時間も泣いていたそうです。散々泣いたあと、こだわるな、という天からの声が聞こえた。その時、UWFを辞めようと決心した。僕は神から直接聞きました」(大谷庸二弁護士) 神と鈴木は業界からきっぱりと身を引き、今後はUWFについて、一切語らないことを決めた。 (中略) レスラーたちは大いに喜んだ。 UWFを私物化し、レスラーに支払われるべき報酬を搾取していた神新二社長と鈴木浩充専務は追放された。新たなるUWFはレスラーの総意に基づいて民主的に運営されていくことになる、と信じたからだ。 (中略) 宮戸は、神社長と鈴木専務が去ったあとのUWFを自分で仕切ろうと考えていた。(後略) 神と鈴木が、株式会社UWFの役員を辞め、株式も手放して去り、会社と選手契約を結んでいる選手達が残った…そう読めるような書き振りではないだろうか。 実際には、神と鈴木が会社に残ったまま、全選手の契約を解除した。選手達は一旦そこでバラバラになったからこそ、再結集(新会社設立)が必要で、その過程において分裂の結果となった。 |
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「週刊ゴング」(1990年12月27日号、No.339) 12月1日の松本大会で選手側が一致団結をアピールしたことに対し、沈黙を続けていたフロント側だったが、12月6日午後、神新二社長から、各マスコミに「12月7日、午後1時よりUWF事務所にて記者会見を行ないます」という旨のファックスが、送られてきた。 (中略) 大谷氏の文書を配布する際「これは事実上のUWF解散会見なのか?」と聞かれた鈴木専務は「(会社としての)UWFはそのまま残ります」と、UWF事務所の存続を強調。一方の神社長も12月9日付の東京スポーツ紙上で「プロレスに対する仕事は一切考えていない。プロレス界に戻ることもありません。これからは海外のタレントを呼ぶ仕事などを考えています」と、今後の業務内容についてコメントしており、UWFという会社自体は神社長、鈴木専務が中心となって今後も運営されていく、と考えていい。 (中略) いずれにせよ、「UWFに所属する選手12名の契約解除」が決まった以上、プロレス団体としてのUWFが、この日をもって、日本マット界から消滅したことは、間違いないのだ。 神社長のその後については若干の報道がある。 「経済界」(経済界、1992年9月1日号、No.494) ヤングパワー 時代の頂点に立った男が会社設立して再出発 スペースプレゼンツ社長 神 新二 だが、そのUWFも東京ドームでの試合を人気のピークにして平成二年十二月解散。神氏は『スペースプレゼンツ』という会社を設立し、新たなスタートを切った。 (中略) 現在同社の業務内容は主に四つ。 旅行企画部門を中心に、ミネラルウォーターの販売、出版部門、イベントプロデュースなどのエンターテイメント部門がそれ。(後略) 毎日新聞 1996年6月1日 地方版/京都 [首都圏情報]有志が心から楽しむ古来の祭りを再現――東京・八王子市 東京都八王子市の有志のグループ「喜びの環境創り」夢基金(神新二主幹)が8、9日に同市の八幡八雲神社境内で「岩戸開き祭り」を開く。(後略) 朝日新聞 1996年6月4日 地方版/東京 仲間と「祭り」企画 プロレス団体率いた神さん 八王子 年商十五億円はあったという人気プロレス団体「UWF」を二十代で旗揚げした神新二さん(三三)が、八王子市の神社で、八、九の両日、地元の人たちと一緒に「祭り」を開く。(中略) 月一回の興行だが、真剣勝負にファンはひかれ、日本武道館、東京ドームとどこも超満員になった。神さんの生活も派手になり、外車を乗り回し、都内の高級マンションに住んだ。 だが、旗揚げして二年ほどたったころから、ほかのプロレス団体との提携や社内の経理内容、経営方針をめぐってレスラーとの意見がすれ違うようになった。社内の人間関係もギスギスし始めた。 「おれは本当に『成功』したのだろうか、と自問しました」。九〇年暮れ、UWFを解散。ファンの前から姿を消した。 (後略) (P352) 「UWFとリングスのスタイルに違いは全くない。試合の結末は決められていた。観客はフィックスト・マッチであることを知らないから、みんながハッピーだった」とクリス・ドールマンは証言している。 「紙のプロレスRADICAL」(No.85) ――そしてリングスがスタートするわけですが、UWFからリングスになり、リング上はどのようなことが変わりましたか? ドールマン リングスのルールはUWFルールよりタフなもので、UWFよりショー的要素が少なかった。出場していた選手もプロレスラーが中心だったUWFと異なり、よりリアルファイトに近い、フリーファイトとして完成度の高いものだったと思う。なにしろ当時はフリーファイトというものが、この世に存在していなかったのだから、すべてが試行錯誤の連続だったが、その分やりがいもあった。 追記2017.7.30 (P359) 1993年9月21日、日本の格闘技界に衝撃的な事件が起こった。 藤原組を辞めた船木誠勝と鈴木みのるが新団体パンクラスを設立。東京ベイNKホールで行われた旗揚げ戦は、すべてリアルファイトだった。全5試合の合計試合時間はわずか13分5秒。“秒殺”はパンクラスの代名詞となった。 夢枕獏が夢見た“リアルファイトによるプロレス”は、ごくあっさりと達成されてしまったのだ。 https://twitter.com/manji_ex001/status/827532234756235264 万次 @manji_ex001 氏の上記Tweetにあるように、パンクラスやUFC(第1回は1993年11月12日)より先に、リングスが「後楽園実験リーグ」を始めている(第1回は同年2月28日)のだが、柳澤は一切触れていない。 前田は当時、左膝の手術をして欠場中で、10月23日福岡大会、ソテル・ゴチェフ戦での復帰を控えていた。 当時、格闘技通信の編集長だった谷川貞治は、次のように述べている。 「格闘技通信」(1993年10月23日号、No.95) ファンは今回のトーナメントで前田日明だけを見に来るはず。その期待に、前田選手がどれだけ応えるかが、テーマとなるだろう。特に最近の格闘技ファンは、異常に目が肥えてきている。そんな状況下でも「やっぱり前田は強い!」という印象を与えなければならない。(後略) 「格闘技通信」(1993年12月8日号、No.98) 復帰戦で前田日明の怒りを見た! バトル・ディメンション・トーナメント一回戦が、スタート。約9ヵ月ぶりにリングに立った前田は、第一関門であるゴチェフを下すと、もの凄い形相でリングサイドを見渡した。それはまさに“どうだ見たか!”と言わんばかりの顔をしていた。 (中略) 前田はリングスの方向性を「UWF時代に作った基礎をもとにした最後の進化形で、プロレスとの境界線になる」と語っている。9ヵ月ぶりにリングに帰ってきた前田は、今後等身大の自分の闘いを通して、それを世間にアピールしていかなければならない。 (中略) この日の前田は、様子を見るとか、技を受ける意志は全く見られず、最初から最後まで攻め続けた。 変な余裕なんか見せず、今、自分が出来る最大限の範囲で、ゴチェフを仕留めようとしたのだ。 最後はゴチェフのミドルキックをボディで受け止め、ハンがよく見せる軸足払いで倒してからの片逆エビ固めだった。 (中略) 「両国大会までには、(体調を)ベストにもっていきたい。とにかく一戦一戦大切に闘い、1割でも内容の良いものを見せたい。だから悪いところがあったらどんどん書いてほしい。ただし中傷は嫌だけど……」 試合後に前田が見せた怒りは、ゴチェフに対してのものではない。前田は試合中ずっとゴチェフを見ながら、ゴチェフを見ていなかった。ほとばしる気合いや怒りは、自分に対する、あるいはリングスに対する評価に対してのものに違いない。 試合が終わったリング上で、ほんの一瞬だけ、その怒りの目をした前田と目が合った――。(谷川) 「ゴング格闘技」(イースト・プレス、2017年6月号、No.300) 「(前略)安西さんは、プロレスファンなのに何から何までガチンコ野郎だった(笑)。で、いつの間にか格通の誌面でリングスに対してもの凄い批判をしてるんですよ。『リングスは真剣勝負じゃない』みたいなことまで書いたのかなあ? 僕、多分、最後の解説だと思うけど、前田さんにリング上から怒鳴られたんですよ。ブルガリアかなんかの選手と試合して、勝って、解説席に座ってる僕を睨みつけて『見たか、この野郎!』って。自分は真剣勝負でやったぞ、ということが言いたかったんだと思うんだけど、『怒ってるのは俺のせいだよなぁ』と思いながら、その日は挨拶もせずに帰ったんだけどね(苦笑)。安西さんは前田さんに詰め寄られて、色々と言われたみたいですね。(後略)」 (追記終わり) メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る |